ストック切れと仕事が忙しいのでしばらく休載になります。
ストック溜まり次第投稿再開します。
翌朝、会議室の壁面モニターは赤い数字で埋め尽くされていた。
十日間の暫定停止によって、新たな支出が即座に消えたわけではない。既存契約の支払いも、利用者への保守対応も残っている。何を止めれば、いつ、いくらの資金を確保できるのか。その確認を待つ事業が、画面の上から下まで並んでいた。
ただし、昨日までの一覧とは形が違う。
赤字額の大きい順。
資金が尽きるまでの日数が短い順。
契約上の回答期限が迫っている順。
停止による削減額が大きい順。
既存利用者への影響が大きい順。
ユウカは同じ事業を五種類の順番で並べ替え、どの基準からでも確認できるようにしていた。
修司は各項目の計算式と参照元を確かめてから、表示を切り替えるユウカへ尋ねる。
「審査は、赤字額の大きいものから始めますか」
「いいえ」
返答に迷いはなかった。
「それでは、利用者への影響や事業そのものの必要性を無視することになります。赤字額だけで決めるなら、計算自体は昨日のうちに終わっています」
最後の一言には、わずかな硬さが残っていた。
数字だけで切れるのなら、ここまで苦労していない。
継続を求める者の声も、技術が持つ価値も、終了した場合に生じる損失も、ユウカは把握している。そのうえで資金が足りないからこそ、複数の案を提出し、決定を待ち続けていた。
修司は小さくうなずいた。
「私も同意見です。今日決めるのは、どの事業を終了させるかではありません」
手元の端末を操作し、一覧表の横に二つの空欄を追加する。
ひとつは、赤字になっている理由。
もうひとつは、それでも継続を求められている理由。
「今はすべてが『赤字事業』として並んでいますが、同じ原因で赤字になっているとは限りません。原因が違えば、必要な対応も変わります。まずは、この二つを分けましょう」
「終了と継続を選ぶ前に、問題の種類を確認するということですか」
ノアが尋ねる。
「はい。赤字額は重要です。ただ、それだけでは何に費用がかかり、何を守ろうとしているのかまでは分かりません」
修司の向かいにはユウカとノア、その隣には希美が座っている。
希美の端末には、昨日までならすぐに返信していたであろう相談が何件も残されていた。十日間の暫定停止によって、新たな資金提供や無償支援を約束することはできない。
それでも、相談そのものを拒絶したわけではなかった。
届いた内容を読み、期限を確認し、判断に必要な情報を記録する。希美は今朝から同じ作業を続けていたが、送信する言葉は昨日までよりもはるかに少なくなっている。
助けると約束する代わりに、まず話を聞く。
希美にとって、それは簡単な切り替えではなかった。
「最初の案件をお願いします」
修司の言葉を受け、ユウカが一覧の先頭を開いた。
「災害通信中継網です。ミレニアム自治区の低地と、地下施設の一部に設置されています」
画面に地図が表示され、複数の地点に青い印が灯る。通常の通信設備が少ない地域か、豪雨の際に通信が不安定になる場所だった。
「過去一年間の収支は、すべての月で赤字です。利用料収入は保守費用の三割にも届いていません。特に負担が大きいのは、予備電源の点検費用と交換費用です」
ユウカが別の資料を並べる。
設備の稼働を止め、保守契約を終了させれば、月々の支出を一定額削減できる。ただし、契約には解約予告期間があり、撤去する場合はその費用も必要になる。停止を決めても、資金繰りへの効果が現れるのはすぐではない。
「通常時の利用者数は?」
「一日平均十九人です。ただし、接続端末から重複を除いた数字で、周辺施設の通信機器が自動接続した場合は含めていません」
「最大利用数はどうでしょう」
「昨年の豪雨時に記録した、二千百四十七件です」
平常時とのあまりの差に、会議室が静かになった。
修司は地図上の青い印を見直す。
「そのときの記録を確認できますか」
「すでに用意しています」
希美が報告書を共有した。
昨年、排水設備の故障によって低地の一部が浸水した際のものだった。通常回線が不安定になり、避難誘導の連絡に災害通信中継網が利用されている。
通信記録は短い。
――低地区第七通路、避難者十一名。西階段は使用不能。
――救護が必要な生徒が一名。地下第二保管庫前。
――東側避難所は満員。次の避難先を求む。
一件ごとの文章は数行にも満たない。それでも、その短い情報が避難先を変え、救護班を向かわせ、通れない道へ人が集まることを防いでいた。
「この中継網がなければ、別の連絡手段はありましたか」
修司が尋ねる。
「ありました。伝令用ドローンと車両による巡回です」
ユウカは代替手段まで含めた当時の記録を表示する。
「ただし、浸水によって道路が使えない場所もありました。同じ情報を届けるまでに、かなりの時間差が出たはずです」
「代替不能ではないが、代替した場合の損失が大きい」
「その認識で合っています」
端末の中で、一日十九人という数字と、二千件を超える通信記録が並んでいる。
どちらも同じ設備の実績であり、片方が間違っているわけではない。
通信研究会から提出された補足資料には、設計目的が一文で記されていた。
――通常回線が使える間は、使用されないことを前提とする。
普段から多く使ってもらうための設備ではない。何も起きていない日には選ばれず、別の通信手段が失われたときに初めて役割を果たす。
利用率の低さそのものが、失敗を意味する設備ではなかった。
修司は希美へ目を向ける。
「この事業を支援した理由を聞かせてください」
「最初に相談を受けたときは、まだ実証実験の段階でした。常設するための費用が足りず、利用料だけで維持するのは難しいという話でした」
希美は画面に残る通信記録を見つめた。
「でも、災害が起きてから設置しても間に合いません。何も起きていない日に維持しておかなければ、必要な日に使えない設備です。利用者が少ないことだけを理由に、止めるべきではないと思いました」
修司はすぐに賛否を返さなかった。
希美の判断には根拠がある。
利用者が少なく、収益性が低いからこそ支援を必要とする設備も存在する。平時に使われないことが、無価値を意味しない事業もある。
一方で、その正しさだけでは資金を生み出せない。
「料金を引き上げる案は検討されましたか」
「検討済みです」
ユウカが収支予測を切り替える。
「維持費を利用料だけで回収する場合、現在の約七倍の料金が必要になります。通常利用者の大半は学生か、小規模な地下施設です。その水準では利用者が大きく減少し、結局は維持費を回収できません」
「災害時の利用料を徴収することも難しそうですね」
ノアが契約書を表示する。
「災害時には、登録の有無にかかわらず周辺端末へ通信を開放することになっています。緊急時の利用者を特定し、あとから請求する仕組みにはなっていません」
「仕組み自体を変えることはできますか」
「技術的には可能です」
机の端に置かれた端末から、ミコリの声が加わる。
『ただし、認証手続きを追加すると接続までの時間が延びます。料金回収を優先した場合、最も支援を必要とする端末が排除される可能性もあります』
料金を上げれば、普段の利用者が減る。
災害時に課金すれば、即時接続という価値を損なう。
費用を削れば、予備電源や保守体制に影響が出る。
この事業の赤字は、単純な販売不振ではなかった。必要になるか分からない日のために、設備を待機させ続ける。その構造自体が費用を生んでいる。
修司は、新しく作った欄へ入力を始めた。
赤字の原因は、待機設備と予備電源の維持費。
継続を求める理由は、災害時の通信確保。
停止した場合、平常時の利用者だけでなく、緊急時の連絡手段にも影響が出る。
「では、継続ですか?」
希美の問いには、期待よりも不安が含まれていた。
必要性が認められたのなら、続けてもよいのではないか。そう考えかけて、昨日までと同じ結論へ急ごうとしていることに気づいたのだろう。
修司は首を横に振った。
「必要性は確認できました。しかし、誰が、どの予算から費用を負担するのかは決まっていません」
「利用料で維持できないからといって、すぐに不要とは言えない。でも、必要だからといって、今の予算から支払い続けられるとも限らない……ということですね」
ユウカが言葉を引き取る。
「はい。少なくとも、販売事業としての収益だけで評価する設備ではない可能性があります。ただし、それを理由に無期限の支出を認めることもできません」
修司は三つ目の欄を追加した。
未決定事項。
そこへ、ひとつの問いを記入する。
――この設備の費用を、利用料金だけで回収するべきなのか。
ユウカは災害通信中継網を赤字一覧から消さなかった。代わりに即時終了の候補から外し、負担方法を再検討する案件へ移動させる。
継続が決まったわけではない。
ただ、ひとつの数字にまとめられていた赤字へ、初めて理由が与えられた。
「次の案件を表示します」
画面に現れたのは、教育用ソフトウェアだった。
災害通信中継網とは正反対に、利用者数は多い。
導入している学校と研究会は百を超え、個人利用を含めれば毎日数千人が接続している。利用者数は今も緩やかに増え続けているが、収支は六か月連続で赤字だった。
「開発費を回収できていないのですか」
「開発費は、すでに別の研究予算で処理されています」
ユウカは用意していた内訳を開く。
「現在の赤字は、サーバー維持費と利用者対応費です。特に、端末ごとの設定補助と教材データの変換作業が増えています」
問い合わせ記録には、古い端末で起動しない、教室の通信環境では教材を読み込めない、独自形式で保存した過去の教材を移行したいといった相談が並んでいる。
そこにあるのは、単なる苦情ではなかった。
授業で使い続けるために必要な相談であり、対応を拒めば利用できなくなる者が出る。
「料金は一律ですか」
「基本料金は一律です。追加機能の一部には別料金が設定されていますが、導入支援と通常の問い合わせ対応は基本料金に含まれます」
「値上げした場合の予測はありますか」
「三段階で作成済みです」
ユウカが即座に資料を切り替えた。
小幅な値上げでは赤字を解消できず、維持費を回収できる水準まで引き上げれば、小規模な学校や個人利用者の離脱が増える。価格を上げた分だけ収入も増えるという単純な予測にはならず、一定額を超えたところで利用者数が急激に減少していた。
「特に影響が大きいのは、予算の少ない学校です」
希美が一件の導入記録を共有する。
市販の教育用ソフトウェアをそろえられず、授業ごとに印刷した資料を配っていた学校だった。このソフトウェアの導入後は、古い端末でも教材を共有できるようになっている。
生徒から寄せられた利用報告には、短い言葉が残されていた。
――欠席した日も、同じ教材を見ることができました。
「現在の価格は、どのように決められたのでしょう」
修司の問いに、ノアが過去の議事録を表示した。
「試験運用を始めた当時、リオ会長が承認しています。教育環境による技術格差を縮小することが優先され、普及に必要な最低価格が設定されました。ただし、本格運用へ移ったあとの料金改定については、明確な基準が残されていません」
「試験運用時の条件を、本格運用でも使い続けているのですか」
「正確には、変更する決定が行われていません」
価格を見直す案は、過去にも提出されている。
対応範囲を限定する案。
学校向けと個人向けで契約を分ける案。
追加作業に個別料金を設定する案。
しかし、値上げすれば利用できなくなる生徒がいる。対応範囲を狭めれば、古い端末を使う学校が困る。契約を分ければ、新たな管理費用も発生する。
どの案にも数字上の根拠があり、同時に、誰かが利用できなくなる理由もあった。
「ユウカさんは、どの案が適切だと考えていますか」
修司が尋ねる。
「収支だけを見るなら、対応範囲を契約ごとに分けるべきです。標準対応を超える作業には追加料金を設定し、学校の予算だけでは負担できない分は、別の支援として扱う必要があります」
ユウカはそこで言葉を切った。
「ただ、それを決めるのは会計の仕事ではありません。どこまでを商品に含め、どこからを教育のための負担として扱うのか。そこを決めずに、料金だけを変更することはできません」
「はい。会計に、事業の目的まで決めさせるべきではありません」
修司はユウカの意見を肯定し、その境界を明確にした。
数字を管理する者が、誰を支援し、誰を対象から外すのかまで決め始めれば、責任は際限なく会計へ集まっていく。
ユウカが答えを出せなかったのではない。
答えるべきではない問いまで、彼女の前に置かれていた。
修司は教育用ソフトウェアにも二つの理由を記入する。
赤字の原因は、低価格の利用料と、基本料金に含まれた個別対応。
継続を求める理由は、予算や設備環境に左右されない教育機会の確保。
未決定事項には、別の問いを残した。
――これは利益を得るための商品なのか。それとも、教育環境を維持するための事業なのか。
「同じ赤字でも、先ほどとは違いますね」
希美が二つの案件を見比べる。
「災害通信中継網は、使われない時間にも費用がかかる。こちらは、使う人が増えたことで対応費用が増えている」
「利用者が多いから成功、少ないから失敗というわけでもありません」
修司は答えた。
「何人が使ったかだけでなく、何を守るために費用が発生したのかを確認する必要があります」
ユウカが二件目を再検討の一覧へ移したところで、会議室の扉が開いた。
開発班の生徒が、両手で銀色のケースを運び込む。机の上に置かれたのは、配管や機械の内部へ差し込んで損傷を検知する小型設備検査機だった。
本体には細かな傷があり、側面には何枚もの識別ラベルを剥がした跡が残っている。
「故障品ですか」
修司が尋ねる。
「いいえ。次の工場に合わせて調整するために戻ってきたものです」
開発班の生徒はケースを開き、細長い検査端末を取り出した。
「前の工場では排水管に使っていました。次は排気設備なので、センサーと測定用ソフトを変更します」
大型設備より精度は劣るものの、持ち運びが容易で導入費用も安い。すでに複数の工場から注文が入り、販売台数は当初の予測を上回っていた。
「これほど注文があるのに、赤字なのですか」
修司の問いに、ユウカが一台あたりの収支を表示する。
販売価格から部品費、組立費、配送費を差し引いた数字は黒字になっている。そこだけを見れば、販売を増やすほど利益が出る製品だった。
しかし、次の資料には、販売後に発生した作業が並んでいた。
設置場所に合わせたセンサーの変更。
測定用ソフトウェアの調整。
現地での再設定。
利用者ごとに異なる形式での報告書出力。
故障原因を確認するための無償点検。
「これらの費用は、販売価格に含まれていないのですか」
「部品を追加した場合のみ、実費を請求しています。技術者の作業時間は請求していません」
ユウカが答える。
「開発した生徒たちが自分で対応しているため、当初の契約では追加費用を設定しませんでした」
「その契約も、試験運用時のものですか」
「はい」
ノアが契約書の履歴を開いた。
「当時は、利用環境ごとの測定データを集めることが目的でした。個別調整を行う代わりに、実際の設備から得たデータを提供してもらう契約です。リオ会長の承認もあります」
試験運用中であれば、合理的な条件だった。
現場ごとに異なる設備を調べ、検査機の精度を上げる。代金だけでなく、改良に必要なデータを受け取っていたのなら、無償の調整作業にも研究上の価値がある。
だが、製品はすでに試験運用の規模を超えていた。
「生徒の作業時間を費用に換算した資料はありますか」
「こちらです」
ユウカは間を置かず、新たな表を開いた。
同等の技術作業を外部へ依頼した場合の標準額を用い、設計変更、現地調整、修理対応に要した時間を換算したものだった。その費用まで含めれば、一台販売するごとに赤字が増えている。
「この計算は、いつ行ったのですか」
「最初の大口注文が入った翌日です。販売条件の変更案も、その時点で提出しています」
気づかなかったのではない。
注文が増えれば資金を確保できるように見える一方で、受注後の作業まで含めれば損失が拡大することを、ユウカは早い段階で把握していた。
それでも条件が変わらなかったのは、試験運用を終えるのか、研究として継続するのか、商品として販売するならどこまでの調整を含めるのか。その判断が行われなかったからだった。
「個別調整を止めれば、黒字にできますか」
「現行価格でも可能です。ただし、検査機をそのまま使用できる設備は限られます。注文数は大きく減少します」
「価格へ調整費用を加えた場合は?」
「小規模な工場では導入が難しくなります。ただし、本体と調整作業を分けて契約すれば、選択肢を残すことはできます」
ユウカはすでに複数の変更案を準備していた。
修司はその資料へ目を通したあと、希美へ尋ねる。
「この事業を継続させたい理由は何でしょう」
「検査設備を導入できなかった小さな工場でも、事故が起きる前に異常を見つけられるからです」
希美が一件の利用報告を開く。
古い配管の内部で発生していた亀裂を検知し、破損する前に交換できた事例だった。大型の検査設備を呼ぶ余裕がなく、それまでは異音と外観だけで判断していたという。
検査機を運んできた生徒が、傷のついた本体へ目を落とす。
「個別調整で集めたデータがあったから、見つけられた亀裂です。調整を全部やめたら、この検査機を作った意味までなくなります」
「やめる必要があるとは言っていません」
修司は、生徒へ向き直って答えた。
「必要な作業であれば、販売価格とは別に費用を確保する方法を考えます。今のまま無償で続け、開発する時間まで失うほうが、技術を残せなくなるのではありませんか」
生徒は何かを言い返しかけたが、机の上の作業記録を見て口を閉じた。
販売後の調整に使った時間は、月を追うごとに増えている。その分だけ、次の改良に使える時間は減っていた。
技術には価値がある。
利用者も存在し、注文も入っている。
それでも、現在の販売方法を続ければ赤字になる。
修司は小型設備検査機の欄にも理由を記入した。
赤字の原因は、販売価格に含まれていない個別調整と保守作業。
継続を求める理由は、安価な検査手段の提供と、実地データによる技術改良。
未決定事項は、研究協力と商品販売の境界。
三つの事業が、同じ一覧に並んだ。
どれにも続けたい理由がある。しかし、赤字になる仕組みも、守ろうとしているものも異なっていた。
修司は一覧を見渡してから、静かに口を開く。
「赤字は、技術を終了する理由ではありません」
希美が顔を上げ、ユウカも入力の手を止めた。
「今の続け方が、継続できないという警告です。技術を残したいのであれば、その警告を無視せず、続けられる形へ変えなければなりません」
必要性を証明するだけでは、事業は残せない。
赤字額を減らすだけでも、守るべき価値を失うことがある。
終了か継続かを選ぶ前に、何に費用がかかり、何を守るために支払っているのかを分ける必要があった。
修司は三件の記録を横に並べ、新しい審査用の表を作成する。
最初に入力したのは、利用者、事業の目的、停止した場合に失われるもの、赤字の原因、既存の契約、必要な資金、その期限だった。
「この項目で、残りの事業も確認します」
表を共有すると、ユウカがすぐに手を挙げる。
「必要な資金は、用途ごとに分けたほうがいいです。固定費と、停止によって削減できる費用。それから、削減効果が現れる時期も必要です」
「理由を聞かせてください」
「赤字額が同じでも、今月止めれば資金を確保できる事業と、止めても数か月は効果が出ない事業があります。資金期限を考えるなら、そこを分けなければ判断を誤ります」
修司は固定費、削減可能額、削減効果が現れる時期を追加した。
「契約も、終了日だけでは不十分ですね」
今度はノアが口を開く。
「販売契約が終了しても、保守義務が残る場合があります。逆に、契約期間中でも違約金を支払えば終了できるものがあります」
「契約終了日と、残存する義務を分けましょう。違約金と通知期限も追加します」
項目は増えていくが、仕事を複雑にしようとしているわけではない。ひとつの数字として扱われていたものを、判断に使える形へ戻しているだけだった。
修司は希美を見る。
「希美先生からも、追加したい項目はありますか」
「お金以外の効果も残したいです」
「具体的には?」
「実際に役立った事例と、利用できるようになった人。それから、事業を止めた場合に代わりの方法があるかどうかです」
希美は災害通信中継網の記録を示す。
「代わりの手段があっても、同じ時間で対応できるとは限りません。教育用ソフトウェアも、別の商品があるだけでは代替できない。買えるかどうかや、今の端末で使えるかどうかもあります」
「必要ですね。ただし、役立った事例だけではなく、対象になった人数と確認できる記録も残しましょう」
「印象だけで決めないためですか」
「印象を排除するためではありません」
修司は穏やかに訂正した。
「事例を判断へ入れるためです。記録されていなければ、どれほど重要な出来事でも、最後には赤字額だけが残りますから」
希美が小さく目を見開く。
数字にならない価値を守りたいと考えること自体が、間違っていたわけではない。
問題は、その価値を説明できる形にしないまま、必要な資金だけを引き受けていたことだった。
希美は新しい欄へ、災害時の利用記録を入力する。感想ではなく、発生した出来事、利用者数、代替手段、対応時間の差を順番に記載した。
ユウカは同じ事業の固定費と削減可能額を入力し、ノアが契約終了後に残る保守義務を確認する。修司は事業目的と未決定事項を整理した。
誰か一人の見方へ、全員を合わせたわけではない。
異なる価値を、同じ判断の場へ持ち込めるようにした。
「審査表としては、かなり項目が多いですね」
ノアが完成した仮の表を眺める。
「正式に運用する前には整理が必要です」
修司も画面を見つめた。
「このままでは、審査より記入に時間がかかります。今は見落としを確認し、不要な項目は実際に使いながら減らしましょう」
完璧な表を作るために、資金期限を迎えては意味がない。
その後も審査は続いた。
販売数は少ないが、聴覚に障害のある利用者へ授業内容を投影している字幕表示端末。
収益は出ているものの、部品交換を無償で引き受けたことで保守費用が膨らんでいる環境測定装置。
完成すれば省電力化が期待できる一方、実用化までの追加資金と期間が定まっていない新型制御基板。
赤字額の大きい順に終了させるだけでは、将来の収入や、代わりのない機能まで失う。
継続理由があるものをすべて残せば、十二日後に資金が尽きる。
どちらも計算としては簡単だったが、ミレニアムを残す答えにはならない。
会議を始めてから数時間が過ぎた頃、希美の端末に新しい相談が届いた。
差出人は、歩行補助装置の開発班だった。
試作機に使用している駆動部品の確保期限が三日後に迫っている。期限までに発注できなければ、次の入荷は二か月後になるという。
希美は内容を読み終えると、反射的に返信欄を開いた。
――不足分はこちらで。
そこまで入力し、指を止める。
三日後という期限を見れば、審査を待たせることにも不安がある。今すぐ引き受けなければ、生徒たちの研究機会を奪うのではないか。その恐れが、言葉を送るよう希美を急かしていた。
送信ボタンへ近づいた指が、わずかに震える。
助けると伝えれば、この不安からは逃れられる。
生徒たちも安心する。
その代わり、必要な資金も、継続した場合の負担も分からないまま、また新しい約束が残る。
希美は入力した文章を一文字ずつ消した。
代わりに、歩行補助装置の資料を開く。
「ユウカさん。この相談を、審査へ追加してもいいですか」
「期限はいつですか」
「三日後です。必要な部品代と、次回入荷まで延期した場合の影響を確認します」
「既存利用者は?」
「試験利用中の生徒が八人います。延期する場合、今使っている試作機の保守が続けられるかも確認します」
ユウカはうなずき、緊急期限のある案件として一覧へ追加した。
希美は開発班への返信を書き直す。
資金提供を約束する言葉は入れなかった。
相談を受け取ったこと。
判断に必要な情報を確認したいこと。
期限に間に合うよう、優先審査へ回すこと。
その三点だけを伝え、送信する。
「これで、いいのでしょうか」
希美は送信済みの画面を見たまま、修司へ尋ねた。
「はい。少なくとも、今できない約束はしていません」
「でも、継続できるとは答えていません」
「答えていないだけです。否定したわけではありません」
修司は、審査一覧へ加わった歩行補助装置を見る。
「可能性を否定しないことと、確認せずに支援を約束することは同じではありません。判断に必要な時間を確保することも、可能性を残すために必要です」
希美はすぐには答えなかった。
助けると言わなければ、生徒を見捨てることになる。
これまでの希美は、その二つを同じものとして考えていた。
しかし、今は資金を約束しなくても、相談を審査へ載せることができている。生徒の話を聞きながら、誰が、どの費用を、いつまで負担できるのかを調べることもできる。
返事を保留することは、無関心とは違う。
その違いを完全に受け入れるには、まだ時間がかかる。それでも、約束を送らずに済んだ指は、次に確認する情報を端末へ入力し始めていた。
やがて、壁面モニターを埋めていた一覧表の形が変わった。
赤い数字が消えたわけではない。
資金が増えたわけでも、期限が延びたわけでもない。
それでも、赤字額だけが並んでいた表には、利用者、目的、失われるもの、赤字の原因、契約上の義務、必要な資金と期限が加わっていた。
赤字の数だけ、続けたい理由がある。
同時に、その理由だけでは続けられない事情もある。
修司は完成した仮の審査表を保存すると、机の端に置かれた端末へ声をかけた。
「ミコリさん。リオ会長が在任していた期間の決裁記録を確認できますか」
『ミレニアム内部で共有権限が設定されている記録であれば可能です。抽出条件を指定してください』
「赤字額と資金条件が近い事業を探してください。その中から、継続、縮小、終了、保留と、異なる判断が行われたものを抽出できますか」
『承知しました。事業分野も統一しますか』
「いいえ。まずは分野を限定せず、決定理由と、その後の結果まで確認したいです」
ミコリが検索を開始すると、ユウカが修司を見る。
「リオ会長の判断基準を再現するつもりですか」
「いいえ」
修司は即答した。
「過去の判断は参考にします。しかし、同じ答えを使うつもりはありません」
「条件が似ているなら、以前と同じ判断をしたほうが早いのでは?」
「利用者も、残っている資金も、現在の契約も違います。それに、過去の答えを再現するだけでは、今ここにいる私たちが決めたことにはなりません」
リオが戻らないから、誰も選べない。
それが、最初に提示された問題だった。
ならば、リオの決裁を探し出し、その形をなぞるだけでは意味がない。それは不在の決裁者へ、再び判断を返すことと変わらなかった。
「確認したいのは、リオ会長が何を選んだかだけではありません」
修司は、検索結果を待つ画面へ目を向ける。
「似た条件の中で、なぜ違う答えを出したのかです」
間もなく、ミコリが抽出した過去の決裁記録が表示され始めた。
同程度の赤字。
近い資金期限。
似通った利用者数。
それにもかかわらず、片方は継続され、もう片方は終了している。
翌日の審査で調べるべきものは、リオの答えではなかった。
同じ数字に、異なる答えを与えた理由だった。