翌朝。
セミナーの会議室には、昨日までとは違う資料が並んでいた。
資金繰り表でも、事業別の赤字一覧でもない。
修司の前に置かれているのは、過去の決裁記録だった。
向かいでは希美が一件ずつ資料をめくり、その隣でユウカとノアが端末を確認している。
ミコリの前には、昨夜依頼した抽出結果が表示されていた。
「条件の近い案件を二件抽出しました」
ミコリが画面を切り替える。
「比較条件は、決裁時点における年間赤字額、追加資金の必要時期、利用者数、既存設備の有無です。完全に一致する案件は存在しないため、近似するものを選定しています」
「それで構いません」
修司は頷いた。
「同じ案件を探しているわけではありませんから」
一件目の資料が中央へ表示される。
『長期観測用環境制御設備』
特定の環境条件を長期間維持し、その変化を観測するための設備だった。
当時の収支は赤字。
利用者も多くはない。
追加資金が必要になる時期も、現在セミナーで抱えている案件と大きく離れてはいなかった。
「これは継続になっています」
希美が決裁欄を見る。
「ただし、三か月?」
「はい」
ミコリが答える。
「無期限の継続ではありません。三か月後の再審査を条件として承認されています」
その下には、その後の経過も残されていた。
三か月後に再審査。
一部条件を変更して継続。
さらにその後、終了。
大きな収益事業へ発展した記録はない。
希美は少し眉を寄せた。
「結果だけを見るなら……成功したとは言いづらいですね」
「そうね」
ユウカも画面を追う。
「少なくとも、継続したことで資金面の問題が解決したわけではない」
二件目が表示された。
『高性能演算設備』
以前にも確認した案件だった。
既存設備より高い処理性能を目指して開発されたものの、完成後の運用費は大きく、既存の共同演算設備と用途の一部が重複していた。
決裁結果は終了。
設備そのものの維持は打ち切られている。
だが、その後の記録へ視線を移した希美の指が止まった。
「この設計……後で使われているんですか?」
「はい」
ミコリが関連記録を開く。
「演算制御技術の一部、冷却構造、処理分散に関する研究成果が、後年の別研究へ転用されています」
ノアが日付を追った。
「こちらでは成果も出ていますね。設備は終了していますが、研究成果そのものが失われたわけではありません」
希美は二件の資料を見比べた。
片方は継続されたが、最終的には終了した。
もう片方は終了されたが、そこで生まれた技術は別の研究へ受け継がれている。
「これだけ見ると……少し変ですね」
修司が顔を向ける。
「何がでしょう」
「リオ会長は、後から成果が出なかった方を残して、後から役に立った方を終わらせています」
希美はすぐに言葉を継いだ。
「もちろん、それだけで判断を間違えたと言いたいわけじゃないです。ただ……結果と決裁が逆に見えるというか」
修司は二件の記録を数秒眺めたあと、ミコリへ顔を向けた。
「決裁後の記録を比較画面から外してください」
「承知しました」
三か月後の再審査結果が消える。
後年の技術転用も消える。
画面に残ったのは、決裁が行われた日までに存在していた情報だけだった。
希美が目を瞬く。
「消すんですか?」
「今は必要ありません」
修司は高性能演算設備の資料を開いた。
「その結果は、決裁した時点では存在していませんから」
一件目へ視線を戻す。
「こちらが後に大きな成果を出せなかったことも」
二件目。
「こちらの技術が別の研究で使われることも」
指先で二つの資料を切り替える。
「この時点では、誰にも分かりません」
希美が画面を見つめる。
「結果を知ってからなら、どちらを残した方がよかったか言える。でも……」
「それでは判断ではなく、答え合わせになります」
修司が言った。
「私たちが知りたいのは、どちらが最終的に成功したかではありません。その時点で、なぜ一方を残し、一方を止めたのかです」
「未来を当てたかどうかじゃなく?」
「はい」
修司は頷いた。
「未来が分かるなら、経営判断もずいぶん楽になります」
ユウカが小さく息を吐いた。
「そんな便利なものがあるなら、今ごろ資金繰り表を三回も作り直してないわね」
「四回です」
ノアが訂正する。
「……数えなくていいのよ」
ユウカが眼鏡の位置を直した。
希美の口元もわずかに緩む。
修司はその間に、二件の決裁書を並べ直した。
結果を取り除けば、残る条件はよく似ている。
赤字。
少人数利用。
追加資金が必要。
それでも、一方は三か月の継続。
もう一方は終了。
「ここまでは昨日と同じです」
修司が言った。
「赤字額だけでは、判断が分かれた理由を説明できません」
「じゃあ、昨日の審査表を見る?」
希美が尋ねる。
修司はすぐには答えず、決裁書の末尾を見た。
そこにあるのは、最終的な結果だけだった。
「その前に一つ確認したいことがあります」
「何を?」
「この二件が、最初に提出された内容のまま決裁されたのかどうかです」
ノアが顔を上げた。
「差し戻し履歴ですね」
検索条件を変更する。
数秒後、過去の文書履歴が表示された。
「あります」
ノアが一件目を開いた。
「長期観測用環境制御設備。最終決裁までに二度、追加資料の提出を求められています」
修司が椅子を少し寄せる。
「内容は?」
「一度目が、停止した場合の影響。二度目が……三か月後に、何をもって継続の必要性を判断するのか」
「質問した人物は?」
「決裁経路上ではリオ会長です。ただし、質問の意図までは残っていません」
「それで十分です」
修司は即答した。
「考えていたことを推測するより、実際に確認したことを見ましょう」
ノアが添付資料を開いた。
設備の運用記録。
観測工程。
環境維持に必要な期間。
途中停止時の影響。
希美が途中で身を乗り出した。
「これ……止めると、今までの観測が使えなくなるんですか?」
ノアが該当箇所を拡大する。
「一部の記録自体は残ります。ただ、この研究は連続した環境変化を前提にしています。途中で条件が崩れると、それ以降の比較には使えなくなるようですね」
ユウカも資料を確認する。
「再開も、電源を入れれば終わりじゃないわ」
画面の下部へ指を置く。
「環境を整え直して、安定するまで待つ必要がある。その間にも費用がかかる」
「止めれば支出が全部なくなるわけでもない……」
希美が呟く。
「はい」
修司が頷いた。
ノアが次の資料を開く。
「三か月という期間にも根拠があります。この時点で、現在の観測工程が一区切りになる予定だったようです」
そこに、リオ本人の長い説明は残されていない。
あるのは、決裁前に投げられた質問と、それに対して提出された資料だけだった。
修司はそれらを一枚ずつ並べていく。
「では、高性能演算設備も見ましょう」
こちらにも差し戻しがあった。
ノアが読み上げる。
「停止時に保存できる成果物。既存設備による代替可能範囲。再開する場合の必要条件」
希美が顔を上げる。
「似てる」
「質問の形は違いますが、確認しているものは近いですね」
資料を開く。
高性能演算設備は、運用を停止しても設計図面を保存できた。
開発したソフトウェアも残る。
研究データも失われない。
すべてではないものの、処理の一部は既存の共同設備で代替できる。
必要になった時には、資金を確保してから再構築する余地もあった。
ユウカが二件を並べる。
「赤字額は近い。でも、止めた時に起こることは全然違う」
「そうですね」
修司が頷く。
希美はしばらく画面を見つめていた。
終了。
以前なら、その文字だけで可能性を切り捨てるように感じていた。
だが高性能演算設備の欄には、保存された設計も、残されたデータもある。
止まったものと、残ったものが同じではない。
「じゃあリオ会長は、どっちが成功するかを比べてたわけじゃない……?」
「まだ、そこまで断定はしません」
修司は三か月後の再審査条件を示した。
「ただ、少なくとも決裁前に確認していたのは、将来の成功率ではありません」
希美が一件目を見る。
「止めたら何がなくなるのか」
ユウカが二件目を見る。
「それを後から取り戻せるか」
ノアが資料を送る。
「代替手段があるか。そして、次に判断できる時期」
修司は二つの決裁書を中央へ寄せた。
「継続は、成功するという予言ではありません。終了も、価値がないという判定ではない」
希美が修司を見る。
「では、何を決めていたんですか?」
「その時の条件で、今の続け方を選べるかどうかです」
それだけ答え、修司は昨日作った審査表を手元へ引き寄せた。
利用者。
事業の目的。
停止した場合に失われるもの。
赤字の原因。
既存の契約。
必要資金。
期限。
固定費。
削減可能額。
代替手段。
実際に役立った事例。
必要な情報はかなり揃っている。
「昨日の表、まだ足りませんか?」
希美が尋ねる。
「いいえ」
修司は首を横へ振った。
「むしろ、これ以上増やさない方がいいでしょう」
「昨日あれだけ増やしたのに?」
ユウカが眉を上げる。
「必要な情報ではあります。ただ、これを全部同じ重さで毎回見ていたら、今度は表を埋めること自体が仕事になります」
「それは困るわね」
ユウカは即答した。
「全案件で毎回これを一から作ったら、運用する側が先に潰れる」
「ですから、詳細資料は残します」
修司は新しい欄を開いた。
「その上で、決める時に見るものを絞りましょう」
最初に一文を書く。
『今、何を守る必要があるか』
希美が文字を読む。
「守るもの……」
「研究名ではなく、です」
修司は続ける。
『止めた場合、取り戻せないものは何か』
長期観測用環境制御設備の記録が、その横に残っている。
次に。
『後回しにできるものは何か』
高性能演算設備。
設計も、データも、再開の余地も残せた。
修司の指が止まった。
三つの問いを見つめる。
ユウカが先に口を開いた。
「でも、後回しにしたら終わりじゃないわよね」
「はい?」
「いつまで後回しにするの?」
修司が画面を見る。
ユウカは続けた。
「三か月後みたいに期限を決める場合もあるし、何かのデータが揃ったら見直す場合もある。その条件がないと、保留した案件がそのまま放置されるわ」
修司は数秒考えたあと、四つ目を書き加えた。
『いつ、何を確認して再審査するか』
「これなら?」
ユウカは一度読み直した。
「少なくとも、先送りしたまま忘れることは減ると思う」
希美も昨日の表と見比べる。
「かなり少なくなりましたね」
「決める時に見る問いは、です」
修司は詳細資料を消さずに横へ残した。
「こちらは、この四つに答えるための根拠として使います」
ユウカの視線が一つ目で止まる。
「ただ、『何を守るか』だけじゃ必要金額が抜ける」
「それは必要ですね」
「案件単体で払えるかだけじゃなくて、その支出をしたあと、ミレニアム全体の資金期限がどう変わるかも出したい」
「お願いします」
ノアも三つ目を見る。
「後回しにできるように見えても、既に契約が成立している場合があります。保守契約や通知義務は残るかもしれません」
「では、残存義務と通知期限を確認する」
修司が言う。
ノアが頷き、詳細資料との参照を設定する。
希美は一つ目の問いを見つめていた。
「利用者も、ここに入れていいですか?」
修司が顔を向ける。
「理由を聞いても?」
「同じ装置でも、まだ研究室にあるだけのものと、もう誰かが使っているものでは違うと思うんです」
希美は昨日の案件一覧を開く。
「止めた時に困る人がいるなら、それを知らずに『後から再開できます』とは言えないですし。代わりの方法があるなら、それも知りたいです」
「入れましょう」
四つの問いの下に、それぞれの根拠資料が紐付いていく。
ユウカは資金を見る。
ノアは契約と記録を見る。
希美は利用者を見る。
開発側には、技術的に何が残り、何が失われるかを説明してもらう。
ミコリが情報を整理する。
一つの視点に統一するのではない。
違うものを見ている者同士が、同じ判断の場へ材料を持ち寄る。
「各項目から関連資料を参照できるようにしました」
ミコリが報告する。
「必要資金、期限、利用者数等の数値は最新値を反映します」
ユウカが尋ねた。
「結論の自動判定は?」
「設定されていません」
「そのままでお願いします」
修司が答える。
希美が少し意外そうな顔をした。
「点数にはしないんですか?」
「点数にすれば決めやすくはなります」
修司は三つの資料を指した。
「ですが、失われる観測データと、利用者への影響と、資金期限が何日縮むかを、同じ物差しで採点する根拠を私は持っていません」
誰かが決めた配点を入れれば、表は答えを出してくれる。
それでも、判断した人間が消えるわけではない。
修司は時計を確認した。
「実際の案件で使ってみましょう」
「もう?」
希美が目を瞬く。
「使えない表なら、完成させても意味がありません」
修司は昨日の優先審査一覧を開いた。
一件だけ、期限の迫る案件がある。
歩行補助装置。
部品発注期限まで、あと三日。
昨日、希美が不足分を自分で補うと書きかけ、その文章を消した案件だった。
希美の表情がわずかに硬くなる。
「開発班の方を呼べますか?」
「はい」
希美は端末を手に取った。
会議室へ入ってきた生徒は、端末を両手で抱えていた。
机に並ぶ資料を見た瞬間、その足が少しだけ鈍る。
「お待たせしました」
「急に呼んですみません」
希美が席を勧めた。
「昨日相談してもらった部品発注について、確認したいことがあります」
生徒は席に着きながら、希美の隣にいる修司へ視線を向けた。
「発注……できるんですよね?」
希美の口が開く。
大丈夫です。
そう言えば、目の前の生徒が安心することを知っている。
何度もそうしてきた。
けれど、今日はその言葉の先にある金額まで見えていた。
希美の視線が発注額の欄へ落ちる。
「そのために、まず必要なものを一緒に確認させてください」
生徒の表情に不安が浮かんだ。
修司は申請書を開く。
『研究継続に必要な部品一式』
「この数量は、すべて同じ目的で使いますか?」
「え?」
「交換用なのか、新しい装置を作るためなのか。それとも別の用途なのかを知りたいんです」
生徒が端末を見直す。
部品一覧を開き、いくつかの項目を選択していく。
「全部、歩行補助装置には使います。でも……確かに同じ目的じゃないです」
ユウカが発注表を自分の端末へ送る。
「分けられる?」
「はい」
最初のまとまりが選択された。
「今、試験で使ってもらっている八台があります。これは、その交換部品です」
「利用者は八人?」
修司が確認する。
「はい」
生徒は少しだけ声を弾ませた。
「一人は最初の頃よりかなり長く使えるようになってます。次はもっと軽い機体も試したくて」
言いながら、次の項目を選ぶ。
「これは故障した時の予備です。壊れやすいところは、すぐ交換できるようにしておきたくて」
「残りは?」
生徒の指が止まる。
「次の試験用です」
希美が尋ねる。
「新しい利用者向け?」
「はい。待ってくれてる人もいます。今の八台で分かったことを反映して、次の試作機を作る予定でした」
画面上で、一つだった発注希望が三つに分かれた。
既存八台の交換部品。
故障時に備える予備部品。
新規試作機の製造部品。
修司が最初の欄を見る。
「新しい試作機を今回作らなくても、今ある八台は維持できますか?」
「交換部品があれば大丈夫です」
「予備部品はすべて必要でしょうか」
「全部と言われると……」
生徒は少し考えた。
「壊れやすいところは必要です。でも、今まで一度も故障してない部品まで同じ数を持つ必要はないと思います」
ユウカが発注表の数量を修正し始める。
「故障記録はある?」
「あります」
「あとで送って。最低限必要な数を出したいから」
「分かりました」
修司は最後の欄を見る。
「新規試作機を延期した場合、何が失われますか?」
生徒の表情が曇った。
「試験の拡大が遅れます」
「どの程度でしょう」
「次の入荷まで待つなら、予定よりかなり遅れます。待ってくれてる人に使ってもらうのも先になります」
「現在までの研究データは?」
「残ります」
「設計は?」
「もちろん」
「今回発注しなければ、開発できなくなる技術はありますか?」
生徒は少し考えてから首を横へ振った。
「そこまではないです」
「発注期限は三日後ですね。数量変更は?」
「期限まではできます」
「一部だけの発注も?」
「できます」
ユウカが計算画面を開いた。
全数発注。
既存八台の交換部品と予備。
さらに、予備を故障実績に合わせて絞った場合。
数字が変わるたび、全体の資金繰りにも影響が反映される。
希美は新規試作機の欄から目を離せなかった。
開発班の生徒も同じだった。
「先生」
生徒が先に口を開く。
「新しい試験は、やっぱり無理なんですか?」
希美の肩がわずかに揺れた。
「無理とは――」
続きが喉まで出る。
何とかします。
その言葉は出なかった。
修司も代わりには答えない。
机の中央に、先ほど作った問いを表示した。
『今、何を守る必要があるか』
修司は希美を見る。
「朝倉先生」
「はい」
「今、この三日間で守らなければ失われるものは何でしょう」
希美は八台の稼働状況を開いた。
試験利用者、八人。
そのうち二台は、すでに交換部品を使用している。
保守できなければ、故障した時点で試験は止まる。
一方、新しい試作機はまだ組み上がっていない。
設計は残る。
データも残る。
発注機会を逃せば遅れる。
けれど、失われるわけではない。
希美は唇を結んだ。
「今使っている八人です」
開発班の生徒が顔を上げる。
「今、この装置を使って試験に協力してくれている八人が、安全に使い続けられること」
一度言葉を区切る。
「それと、故障した時に交換する手段がなくて、今進んでいる試験を途中で放棄しなくて済むことです」
修司が頷く。
「新しい試作機は?」
希美の視線が下段へ落ちた。
答えるまでに少し時間がかかる。
「作りたいです」
生徒が希美を見る。
「もっと使ってほしいし、今よりいいものにできるかもしれない。待ってくれてる人にも、早く渡したいです」
希美は端末の縁を指で押さえた。
「でも、今回の発注でなければ全部なくなるわけじゃない」
設計。
データ。
次の発注機会。
一つずつ確認する。
「だから……」
希美は発注表を自分の方へ引き寄せた。
「全部を守ると約束するのではなく、今使っている八人を途中で置き去りにしないための部品を優先します」
会議室が静かになった。
開発班の生徒はすぐには頷かなかった。
「でも、それだと次の試験が遅れます」
「うん」
「せっかく次に使いたいって言ってくれてる人もいるんです」
「うん」
希美は否定しない。
「今回の発注を逃したら、予定してた日には間に合いません」
「そうですね」
「だったら、やっぱり全部必要じゃないですか」
希美の口が止まる。
修司が生徒へ向き直った。
「一つ確認させてください」
「……はい」
「今回、新しい試作機の分まで発注した場合、どの程度の期間、安定して研究を続けられますか」
生徒は答えられなかった。
ユウカが計算結果を開く。
「全数発注すれば、その分だけ全体の支出は増える」
画面へ資金期限を表示する。
「この案件だけでミレニアムが止まるわけじゃない。でも、今残ってる案件も全部同じように通したら、十二日という数字はもっと短くなる」
生徒の表情が固くなる。
ユウカはそれを見て、少しだけ声を落とした。
「だから切るって話じゃないわ」
「でも、お金がないから減らすんですよね」
「そうよ」
ユウカは誤魔化さなかった。
「それは条件に入る」
生徒が視線を落とす。
「ただ、赤字だから全部止めるとも言ってない。今使ってる八台を維持する分まで削るつもりはないわ」
修司が三つに分かれた発注内容を示した。
「今まで、この三つを全部『研究継続に必要な部品』として一つにしていました」
既存八台。
予備。
新規試作機。
「でも、目的が違えば、同じ結論にする必要はありません」
生徒が新規試作機の欄を見る。
「じゃあ……これだけ止めるんですか」
「今の案では保留です」
「終了じゃなく?」
「はい」
生徒が少し身を乗り出す。
「いつまでですか」
修司は希美を見る。
机の中央には、四つ目の問いが残っていた。
『いつ、何を確認して再審査するか』
希美はそれを見つめる。
「次の部品が入るまで……じゃなくて」
一度考え直す。
「今使っている八台のデータを整理したいです」
「データ?」
「耐久性とか、どこが壊れやすいかとか、実際にどれくらい使われているかとか」
生徒の目が少し細くなる。
「それは取ってます」
「うん。だから、それを見てもう一度決めたい」
希美は続けた。
「次を作るなら、今の八台で分かったことも反映した方がいいと思うから」
修司が尋ねる。
「故障記録は、いつまでにまとめられますか?」
「今ある分なら今日中に」
「使用状況は?」
「研究用に取得している範囲なら出せます」
ノアが記録欄を開いた。
「再審査条件として残します」
ユウカも発注数量を整理する。
「既存八台の交換分。予備は故障実績を見て最低限。新規試作機分は保留」
「はい」
生徒はまだ少し不満そうだった。
「新しい試作機、作れなくなったわけじゃないんですよね」
希美が頷く。
「作る可能性は残します」
一瞬置いて、言い直した。
「残したい、です」
生徒が希美を見る。
「だから、次に判断するための材料を一緒に揃えてほしいです」
しばらく沈黙したあと、生徒は端末を抱え直した。
「分かりました」
それでもすぐに付け足す。
「次はちゃんと、試験拡大も見てください」
「はい」
希美は迷わず答えた。
「そのために見直します」
歩行補助装置の扱いが整理されていく。
利益を得ることを前提とした事業ではなく、『試作・実証』へ再分類。
既存八台の保守と交換に必要な部品は発注。
故障実績に基づき、最低限の予備部品を確保。
新規試作機用の部品は保留。
耐久性、故障率、使用状況を集め、必要な情報が揃った時点で再審査。
次回は開発班自身も技術状況を説明する。
希美だけに支援の説明を任せない。
最後にユウカが口を挟んだ。
「支出後の資金期限も記録して」
ノアが入力を止める。
「案件ごとの決定記録に?」
「そう」
ユウカは全体の資金繰り表を開いた。
「何を残したかだけじゃなく、そのために全体の余裕がどれだけ減ったのかも分からないと困る」
修司が頷く。
「入れましょう」
今回の支出が反映される。
資金は増えていない。
不足が解消したわけでもない。
ただ、全額発注より支出は抑えられた。
その結果も記録に残る。
希美は決定欄を見つめた。
『縮小して継続』
その下には、保留となった新規試作機が明記されている。
「終了じゃないんですね」
希美が小さく呟いた。
「何がですか?」
修司が尋ねる。
「何かを減らすと、それだけで全部止めたみたいに感じてたので」
修司は決定書を見る。
「全部を同じ形で続けることだけが、継続ではありません」
それ以上は言わなかった。
希美は決裁欄へ承認を入れる。
指が一度止まる。
それから確定した。
昨日まで保留されていた一件が、決定済みへ移る。
開発班の生徒は画面を見ても笑わなかった。
「やっぱり、悔しいです」
希美が顔を向ける。
「次の人にも早く使ってほしかったので」
「うん」
「人数を増やした方がデータも集めやすかったし」
「そうですね」
生徒は自分の端末を開いた。
「でも、今の八台でちゃんと次に必要なデータ取ります」
ユウカが横から言う。
「故障記録も忘れないで」
「分かってます」
少しだけ不満そうに返して、生徒は立ち上がった。
ドアの前で振り返る。
「先生」
「はい?」
「次、資料持ってきますから」
「待ってます」
生徒が出ていく。
ドアが閉まったあと、希美はしばらくその場に立っていた。
「……怒られませんでした」
誰にともなく呟く。
ユウカが眉を寄せる。
「不満は言われてたでしょう」
「そうなんですけど」
希美は椅子へ戻った。
「不満を言われるのと、約束できないことで嫌われるのって……同じじゃないんですね」
ユウカが一瞬だけ目を丸くした。
それから、少し呆れたように息を吐く。
「最初からそうよ」
「ですよね……」
希美は決定書を見る。
「昨日までだったら、たぶん全部必要だと思ってました」
ユウカが画面を閉じる手を止める。
「必要ではあるでしょう」
「はい」
希美は頷いた。
「必要です」
そこに迷いはなかった。
「でも、今すぐ必要なものと、今じゃなくても残せるものは違いました」
修司は何も言わなかった。
希美自身がそこまで言葉にできたなら、今はそれでよかった。
机の中央には、四つの問いが残っている。
一件目は決まった。
だが、それは全員が同じ方向を見られた案件だった。
ユウカが時計を確認する。
「……そろそろ、大口注文の方も見ないと」
修司が顔を向ける。
「今日、回答が来る予定でしたね」
「ええ」
保留中の多目的自律支援ドローン。
取引先から正式な回答期限と最終条件が届く予定になっていた。
ユウカが受信欄を更新する。
数秒後、新着が一件表示された。
「来たわ」
画面を開く。
受注予定数。
納期。
初期製造費。
個別調整費。
支払条件。
そして、回答期限。
「明日まで」
ユウカが言った。
売上額だけを見れば大きい。
受注できれば、新たな収益につながる可能性もある。
だが製造費は先払い。
部品。
外注。
追加人員。
個別仕様への調整。
現在十二日後と見積もられている資金不足は、受注した場合、九日後まで縮まる。
希美の表情が固くなる。
同時に、技術部門からも資料が届いた。
『受注推奨』
技術的には対応可能。
大口案件として実績にもなる。
今後の取引拡大も期待できる。
ユウカは資料を最後まで確認した。
「私は現条件での受注に反対」
修司が尋ねる。
「理由は?」
「入金より支出が先。個別調整の追加費用も読み切れない。九日まで縮めて、その間に別の資金が入らなかったら、他の案件まで巻き込む」
希美も技術部門の資料を見る。
「でも、断ったら大きな売上機会を失う」
「そう」
ユウカは否定しない。
「だから簡単じゃないのよ」
ノアが契約条件を確認する。
「条件交渉の余地はあります。ただ、回答期限までに受注可否の意思表示は必要です」
ミコリが審査表へ情報を反映していく。
利用者。
目的。
受注しなかった場合に失うもの。
必要資金。
期限。
契約条件。
代替手段。
数値も埋まる。
資料も揃う。
技術部門が受注を望む理由も分かる。
ユウカが反対する理由も分かる。
それでも、一つだけ埋まらない欄があった。
『決裁』
希美がそれを見る。
「表を作っても……決まらないんですね」
「はい」
修司が答える。
「判断材料をそろえることと、決定することは別の仕事です」
ユウカが歩行補助装置の決定記録を開いた。
「今回は、たまたま最後に意見が揃った」
「そうですね」
「でも、今度は違う」
ユウカが技術部門の受注推奨と、自分の資金計画を並べる。
「技術側は受けたい。私は今の条件なら受けたくない」
希美が空白の欄を見る。
「……誰が決めるんでしょう」
ノアの画面には、過去の決裁履歴が残っていた。
継続。
縮小。
終了。
保留。
その最後には、いつも同じ名前があった。
調月リオ。
希美が小さく呟く。
「リオ会長がいないから……」
修司は過去の記録を閉じた。
「リオ会長の代わりになる人を一人決めれば、以前と同じ形には戻せます」
ユウカが顔を上げる。
「それじゃ駄目なの?」
修司は答えなかった。
過去なら、最後の欄にはリオの名前が入っていた。
今は誰も入力しない。
多目的自律支援ドローン。
受注可否。
『決裁』
空白。