先生はモームリ   作:風神ぷー

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第四十九話 空白の決裁欄

 

 

『決裁』

 

空白。

 

その二文字の下だけが、画面の中で不自然なほど白く残っていた。

 

多目的自律支援ドローン。

 

回答期限は明日。

 

技術部門は受注推奨。

 

ユウカは現条件での受注に反対。

 

注文台数も、製造費も、支払条件も揃っている。受注した場合、現在十二日後と見積もられている資金不足が九日後まで縮まることも計算済みだった。

 

判断材料が足りないわけではない。

 

それでも、最後の欄へ入れる名前がない。

 

希美はしばらく画面を見つめていた。

 

膝の上で組んだ指が、ゆっくりと絡み直される。

 

「……私が決めるべきなんでしょうか」

 

ユウカが顔を上げた。

 

「先生が?」

 

「はい」

 

希美は空白の決裁欄から目を離さない。

 

「リオ会長がいないなら、誰かが最後に決めないといけないですよね」

 

その声音に自信はなかった。

 

けれど、逃げようとしているわけでもない。

 

技術部門から届いた『受注推奨』の文字へ視線が動く。

 

大口導入。

 

ミレニアムの技術が、研究室の外で大規模に使われる機会。

 

開発班にとっては、売上以上の意味がある。

 

一方で、受ければ資金不足は三日早まる。

 

その三日が、今のミレニアムには軽くないことも希美は知っていた。

 

ユウカは端末を引き寄せた。

 

「期限だけ考えるなら、今回だけでも最終決定者を置く必要はあると思う」

 

画面をスクロールする。

 

「正式な権限設計を一からやってる時間はないし、明日までに回答しないといけない。誰も決めないまま時間切れになるのが一番まずいわ」

 

希美が小さく頷く。

 

「だったら――」

 

「その前に、一ついいでしょうか」

 

修司の声で、希美の指が止まった。

 

修司は空白の欄ではなく、その上に並ぶ受注条件を指した。

 

「誰の名前を入れるかを決める前に確認したいことがあります」

 

ユウカが視線を向ける。

 

「何?」

 

「その人物は、何について決めるのでしょう」

 

希美が瞬きをした。

 

「何について?」

 

修司は受注仕様書を開いた。

 

「まず、このドローンを指定された台数だけ製造できるか」

 

次に、ユウカの資金繰り表。

 

「製造費を今支払えるか」

 

契約書。

 

「納期や個別仕様を引き受けられるか」

 

さらに、既存の運用記録へ移る。

 

「納品したあと、保守を続けられるか」

 

そこで手を止めた。

 

「これらは、全部同じ判断でしょうか」

 

ユウカが腕を組む。

 

すぐには答えなかった。

 

何度か資料を見比べたあと、眉を寄せる。

 

「……違うわね」

 

希美が横を見る。

 

ユウカは自分の資金繰り表を指した。

 

「私はお金なら見られる。今この支出をしたら、何日持つかも出せる。でも、この台数を安全に作れるかなんて保証できない」

 

ノアも契約書から顔を上げた。

 

「私は契約の成立条件なら確認できます。ただ、契約として成立することと、その条件で事業を続けるべきかは別です」

 

希美は二人を見た。

 

「でも、リオ会長は……そこを最後にまとめて決めていたんですよね」

 

「少なくとも、最後の決裁は一人へ集まっていました」

 

修司は過去の決裁履歴を開いた。

 

何度も現れる名前。

 

調月リオ。

 

継続。

 

縮小。

 

終了。

 

保留。

 

性質の違う案件であっても、最後の欄には同じ名前が残っている。

 

「ここへ次の一人を座らせれば、今は動きます」

 

希美が修司を見る。

 

「でも?」

 

「その人がいなくなれば、また同じ場所で止まります」

 

会議室が静かになった。

 

ユウカの視線が空欄と過去の記録を往復する。

 

やがて、ゆっくり口を開く。

 

「……リオ会長がいなくなったから止まった、というより」

 

言葉を探す。

 

「止まる仕事を全部、リオ会長のところに集めてた?」

 

「その可能性を確認したいです」

 

修司は断定しなかった。

 

まだ見えていない。

 

リオが担っていた仕事の全体像も。

 

今、この注文の中にどれだけ異なる責任が混ざっているのかも。

 

修司はドローンの受注資料へ戻る。

 

「資料だけでは分からない部分があります」

 

ユウカが眉を上げた。

 

「一通り揃ってると思うけど」

 

「製造するところまでは」

 

「その言い方、嫌な予感がするわね」

 

「販売後も含めて揃っているか確認したいです」

 

ノアが契約書へ視線を落とした。

 

希美も一度画面を見てから端末を手に取る。

 

「開発班を呼びます」

 

開発班の代表生徒は、会議室へ入るなり受注仕様書を開いた。

 

「先に言っておくと、作れます」

 

席に着くより早かった。

 

ユウカが少し眉を上げる。

 

「指定台数全部?」

 

「全部です」

 

迷いはない。

 

「追加された仕様も確認しました。部品も手配可能です。今の設備なら製造できます」

 

工程表が共有される。

 

部品調達。

 

組み立て。

 

制御系の書き込み。

 

動作試験。

 

利用環境別の調整。

 

各工程には担当予定まで割り振られている。

 

「納期は?」

 

修司が尋ねた。

 

「余裕があるとは言いません。でも間に合わせられます」

 

代表生徒は工程表の一部を拡大する。

 

「試験設備を少し長く押さえる必要はありますけど、他の班と調整できます。追加仕様も完全な新規開発じゃありません。既存機能の組み合わせで対応できます」

 

口調には、技術者としての自信があった。

 

楽観ではない。

 

計算した上で、できると言っている。

 

修司は工程を追う。

 

「今回の注文を断った場合は?」

 

代表生徒の表情が少し固くなった。

 

「同じ規模の注文がまた来る保証はありません」

 

希美が尋ねる。

 

「この実績が、次の注文につながる?」

 

「はい」

 

代表生徒の声がわずかに明るくなる。

 

「今まで外部導入は小規模なものばかりでした。でも、この台数をまとめて運用できたら、実績として出せます」

 

導入予定資料が開かれる。

 

搬送。

 

巡回。

 

簡易作業。

 

複数の場所で同時に使われる想定になっている。

 

「実際の環境でこれだけ動かせれば、次の改良に必要なデータも一気に取れます」

 

希美の表情が和らいだ。

 

「かなり大きな機会なんですね」

 

「かなりです」

 

代表生徒は強く頷く。

 

「研究室の中だけじゃ分からないことがありますから」

 

その言葉に、希美が少し嬉しそうに頷いた。

 

修司はしばらく資料を見たあと、工程表の最後を指した。

 

「ここまで終わったら、開発班の作業も終わりですか?」

 

「え?」

 

代表生徒が顔を上げる。

 

「納品後です」

 

「ああ」

 

少し考えたあと、首を振った。

 

「そこから設定があります」

 

「設定?」

 

「実際に見てもらった方が早いかもしれません」

 

開発区画へ向かう廊下へ出ると、会議室にはなかった音が少しずつ増えていった。

 

工具の触れ合う乾いた音。

 

試験用モーターの回転。

 

短い警告音。

 

生徒同士が飛ばす指示。

 

作業区画の中央では、一機のドローンが床に引かれたラインを追っていた。

 

一定の速度で進み、障害物の手前で停止する。

 

一拍置いて方向転換。

 

別の目標へ向かう。

 

「これが標準仕様に近い機体です」

 

代表生徒が横の端末を操作した。

 

建物の簡易地図。

 

複数の移動経路。

 

進入禁止区域。

 

作業対象。

 

画面には細かな設定が並んでいる。

 

修司が端末を覗く。

 

「この経路は利用者が設定するんですか?」

 

「最初は私たちです」

 

「毎回?」

 

「利用場所ごとです。同じ施設なら流用できますけど、危険区域も通れる場所も違いますから」

 

代表生徒は別の画面を開いた。

 

「作業対象も登録します。既存設備とつなぐなら接続設定も必要です」

 

希美が眉を上げる。

 

「導入したら、そのまま使えるわけじゃないんですね」

 

「完全に同じ環境なんてないですから」

 

代表生徒は当然のように答えた。

 

その時、少し離れた共有端末から電子音が鳴った。

 

作業台にいた生徒が顔を上げる。

 

「また来た」

 

画面を確認した途端、椅子を引く。

 

「昨日アップデートした機体、搬送区画の途中で止まったって」

 

代表生徒が振り返る。

 

「ログは?」

 

「来てる。経路設定か、障害物判定かも」

 

「私見る」

 

代表生徒がそのまま端末へ向かおうとした。

 

修司が声を掛ける。

 

「今から対応に?」

 

「はい」

 

振り返る。

 

「向こうで止まってるなら早い方がいいので」

 

「今日は何をする予定だったんですか?」

 

その質問に、足が止まった。

 

「……次の制御試験です」

 

「それは?」

 

「あとでやります」

 

即答だった。

 

その横で、別の生徒が試験中だった機体へ手を伸ばした。

 

「そっち見るなら、この試験止めるよ。次のログ取り、代表いないと分かんないし」

 

「お願い」

 

ドローンのモーター音が止まった。

 

ついさっきまで正確に走っていた機体が、その場で沈黙する。

 

希美がそちらを見る。

 

代表生徒はすでに問い合わせのログを開いていた。

 

ユウカも何も言わず、その止まった試験機を見る。

 

修司は共有端末へ近づいた。

 

「問い合わせ一覧を見ても?」

 

「どうぞ」

 

一画面では収まらなかった。

 

経路を変更したい。

 

作業対象を追加したい。

 

新しい設備へ接続したい。

 

動作が遅い。

 

ソフトウェア更新後の設定を見てほしい。

 

不具合の原因を調べてほしい。

 

利用が続くほど、相談も増える。

 

希美も横から一覧を見る。

 

「こんなに……」

 

「全部が大変なものじゃないですよ」

 

代表生徒はログを確認しながら答えた。

 

「ちょっと説明すれば終わるのもありますし」

 

「誰が説明しているんですか?」

 

修司が尋ねる。

 

「気付いた人が」

 

返事は自然だった。

 

修司は少し間を置く。

 

「担当者は?」

 

代表生徒が顔を上げる。

 

「担当?」

 

「問い合わせ対応の担当です」

 

「特には」

 

視線を端末へ戻す。

 

「その機能を作った人が一番分かるので、その人が答えることが多いです」

 

ユウカが問い合わせ一覧を下へ送る。

 

「回答期限は?」

 

「急ぎならすぐ」

 

「契約では?」

 

代表生徒が少し考えた。

 

「そこまでは決めてないです」

 

ノアが契約書を開いた。

 

「確かに具体的な期限はありません」

 

少し先では別の生徒がドローンを分解していた。

 

外装が外され、内部の配線と基板が露出している。

 

横には『確認待ち』の札。

 

壁際にも二機。

 

修司がそちらへ歩いた。

 

「これは?」

 

「修理です」

 

作業していた生徒が答える。

 

「センサーだと思ったんですけど、通信ログも怪しくて」

 

「今日はどれくらい作業していますか?」

 

「今のところ二時間くらいです」

 

「原因が分からなければ?」

 

生徒は当然のように答えた。

 

「分かるまで調べます」

 

修司は頷く。

 

「その二時間は、どこに請求されていますか?」

 

工具を持っていた手が止まった。

 

「……請求?」

 

ユウカが見積書を開いた。

 

部品。

 

外注。

 

組み立て。

 

初期試験。

 

導入時設定。

 

指が止まる。

 

「ないわね」

 

代表生徒が少し眉を寄せた。

 

「でも、外で使ってもらうなら必要な作業ですよね」

 

「必要だと思います」

 

修司はすぐに答えた。

 

予想と違ったのか、代表生徒が一瞬黙る。

 

「なくす話ではありません」

 

修司は修理中の機体を見る。

 

「必要な仕事なら、その仕事を誰が、どこまで、何時間するのか。そこまで含めて売れているのかを知りたいんです」

 

代表生徒は納得しきれない表情のまま、腕を組んだ。

 

「技術的にはできます」

 

「今回の大口注文が来ても?」

 

「できます」

 

「今より問い合わせが増えても?」

 

「……対応します」

 

「研究時間を使ってでも?」

 

そこで初めて返事が遅れた。

 

「必要なら」

 

修司は止まった試験機へ視線を向けた。

 

さきほどまで動いていた。

 

今は、外部から来た一本の問い合わせによって止まっている。

 

「製造できることと、販売したあとも事業として続けられることを、同じ『できる』として扱っていませんか」

 

代表生徒の表情が固くなる。

 

「じゃあ、売るなってことですか」

 

「まだ何も決めていません」

 

修司は答えた。

 

「誰がそこまで判断する仕事を持っていたのか確認しています」

 

ノアが既存の担当記録を開く。

 

「技術責任者はいます」

 

ユウカが横から言う。

 

「会計確認は私」

 

「外部窓口は朝倉先生」

 

希美が小さく頷く。

 

ノアが一覧を下へ送る。

 

販売価格。

 

個別仕様。

 

保守範囲。

 

問い合わせ。

 

採算。

 

撤退条件。

 

その全体を管理する項目を探す。

 

指が止まった。

 

「……ありませんね」

 

希美が画面を覗く。

 

「事業化担当の部署は?」

 

「部署自体はあります。ただ、このドローン事業の正式な責任者にはなっていません」

 

「販売する時に相談は?」

 

開発班代表が答える。

 

「最初の申請ではしました。値段とか、外部提供の手続きとか」

 

「その後、利用者が増えた時は?」

 

「……特には」

 

「設定変更が増えた時は?」

 

返事はなかった。

 

修司は周囲を見る。

 

開発班は作る。

 

ユウカは払えるかを見る。

 

希美は外との関係を引き受ける。

 

契約はノアが確認する。

 

その間にある。

 

どう売るのか。

 

どこまで売るのか。

 

売った後を誰が支えるのか。

 

その仕事だけが、正式な誰かのものになっていない。

 

「事業化担当部署の方を呼びましょう」

 

呼ばれた代表生徒は、作業区画へ入るなり少し驚いた顔をした。

 

会議室へ呼ばれると思っていたのだろう。

 

修司は説明を長くしなかった。

 

注文書。

 

見積書。

 

問い合わせ一覧。

 

修理待ちの機体。

 

「この案件を、今の条件で事業として引き受けられるか見ていただけますか」

 

「分かりました」

 

代表生徒は端末を受け取る。

 

最初は速かった指の動きが、ページを進めるほど遅くなる。

 

販売価格。

 

標準仕様。

 

導入時設定。

 

問い合わせ。

 

修理。

 

保守。

 

最後に壁際の機体を見る。

 

「……私、この条件なら責任者欄に名前を書けません」

 

開発班代表がすぐに反応した。

 

「どうしてですか」

 

「売った後の仕事に、値段が付いていないからです」

 

「でも作れます」

 

「それは見ました」

 

「納期にも間に合います」

 

「それも」

 

「じゃあ何が駄目なんですか」

 

事業化担当の生徒は、問い合わせ一覧を開いた。

 

「これです」

 

「問い合わせ?」

 

「設定変更。不具合調査。接続先の追加。操作説明」

 

画面を下へ送る。

 

「これを何回まで、何時間まで、誰が、いくらで引き受けるんですか」

 

開発班代表の声が少し強くなる。

 

「そんなの、最初から全部予想できません」

 

「できないと思います」

 

事業化担当はあっさり認めた。

 

「だから範囲を決めます」

 

「範囲って」

 

「標準対応はここまで。追加作業は別。緊急対応が必要なら、その条件も決める」

 

開発班代表が腕を組んだ。

 

「それで利用者に『契約外だから知りません』って言うんですか」

 

希美の視線が動く。

 

事業化担当の生徒は、修理中の機体を見た。

 

「逆です」

 

「何が?」

 

「何でもやりますと約束して、あとでできなくなる方が困らせます」

 

開発班代表の顔が険しくなる。

 

「別に、できないとは言ってません」

 

「技術的には、ですよね」

 

「技術的にできるなら、やればいいじゃないですか」

 

「その時間はどこから出すんですか」

 

「研究の合間で」

 

「さっき、その研究が一本止まりましたよね」

 

空気が変わった。

 

開発班代表が黙る。

 

すぐに言い返した。

 

「でも、外で使われない研究に何の意味があるんですか」

 

ユウカが顔を上げる。

 

代表生徒は続けた。

 

「研究室の中で完成度を上げ続けても、実際に使ってもらわなきゃ分からないことがあります」

 

止まった試験機を指す。

 

「こういう不具合だって、外で使ってもらったから分かったんです」

 

事業化担当は否定しない。

 

「それはそうです」

 

「なら売るべきです」

 

「売ることには反対していません」

 

「でも条件を増やしたら向こうが別の製品を選ぶかもしれない」

 

「その可能性はあります」

 

「じゃあ同じじゃないですか」

 

代表生徒の声が大きくなる。

 

「やっと大口が来たんですよ。今まで小さい試験ばかりで、やっとこの技術が認められたのに」

 

希美が苦しそうに目を伏せる。

 

開発班代表は気付かず続けた。

 

「問い合わせが増えるかもしれないからって断ってたら、いつまで経っても商品になりません」

 

ユウカが腕を組んだまま返す。

 

「売れば売るほど赤字と作業負担が増えるなら、それも商品とは言いづらいわ」

 

「受けなかったら売上はゼロです」

 

「受けて資金が尽きたら?」

 

「だからその間に次の注文を――」

 

「次が来る保証はないでしょう」

 

「今回だって、来る保証なかったのに来たじゃないですか」

 

「だから今あるお金を全部先に使う?」

 

「全部とは言ってません!」

 

声がぶつかる。

 

どちらも間違っていない。

 

外に出さなければ技術は育たない。

 

しかし、外へ出すほど損失が増えるなら続かない。

 

希美は二人を見比べる。

 

止めたいわけではない。

 

ユウカも。

 

事業化担当も。

 

それでも、それぞれが守るものが違う。

 

「先生は」

 

突然、開発班代表が希美を見た。

 

希美の肩が揺れる。

 

「先生は受けたいですよね?」

 

「え」

 

「こういうの、ずっと応援してくれてたじゃないですか」

 

期待する目だった。

 

責める言葉ではない。

 

むしろ信じている。

 

だからこそ、その問いは希美に深く刺さった。

 

「外で使ってもらえるんですよ」

 

代表生徒が続ける。

 

「先生だって嬉しいですよね?」

 

「もちろん――」

 

希美の口から言葉が出た。

 

開発班代表の表情が一瞬明るくなる。

 

その顔を見て。

 

希美は続きが言えなくなった。

 

いつもなら。

 

もちろんです。

 

大丈夫です。

 

何とかします。

 

足りなければ、私が探します。

 

そこまでが一つの言葉だった。

 

けれど今は、止まった試験機が見えている。

 

壁際の修理待ち。

 

数えられていない作業時間。

 

九日後へ縮む資金期限。

 

希美は一度目を伏せた。

 

「……受けたいです」

 

開発班代表の肩から、少し力が抜ける。

 

「じゃあ」

 

「でも」

 

希美は顔を上げた。

 

「この条件のままでは受けられません」

 

表情が止まる。

 

「先生まで……そう言うんですか」

 

小さな声だった。

 

希美の指が強く握られる。

 

それでも視線は逸らさなかった。

 

「はい」

 

短く答える。

 

「受けたいんです。本当に」

 

「だったら」

 

「受けたあとに支えられなくなったら、もっと嫌です」

 

開発班代表が黙る。

 

希美は言葉を探しながら続けた。

 

「たくさん使ってもらって、途中から『もう直せません』『設定もできません』って言うことになったら……それは、この技術を大事にしたことにならないと思います」

 

修司は口を挟まなかった。

 

希美自身の言葉だった。

 

「だから、受けたいです」

 

もう一度言う。

 

「でも、今の条件では受けられません」

 

開発班代表は俯いた。

 

納得した顔ではない。

 

それでいい。

 

修司は事業化担当へ視線を向けた。

 

「条件を変えれば?」

 

代表生徒が顔を上げる。

 

「内容次第です」

 

「会議室へ戻りましょう」

 

会議室へ戻っても、画面にはまだ『決裁』の二文字が残っていた。

 

その下は空白。

 

修司は席へ着くと、迷わずその欄を削除した。

 

ユウカが眉を上げる。

 

「消すの?」

 

「一人の名前を入れる場所なら」

 

修司は新しい欄を作る。

 

『技術条件確認』

 

『資金条件確認』

 

『契約条件確認』

 

『事業判断』

 

『利用価値・対外関係』

 

開発班代表が画面を見る。

 

「私のところ、受注可否じゃないんですね」

 

「はい」

 

修司は答えた。

 

「技術として何を保証できるかです」

 

「作れるかどうか?」

 

「品質と安全を含めて」

 

代表生徒は少し考えた。

 

「それなら判断できます」

 

ユウカが自分の欄を見る。

 

「私は資金条件」

 

「技術の価値まで、ユウカさん一人に決めていただく必要はありません」

 

「それは助かるわ」

 

即答だった。

 

「価値がある研究でも、今払えないものはあるもの」

 

ノアも画面を見る。

 

「私は契約条件までですね」

 

「はい」

 

「その条件で事業を続ける価値があるかまでは、私の仕事ではない」

 

「では、そこは分けます」

 

事業化担当の代表生徒が『事業判断』を見る。

 

「技術、資金、契約の条件内で、売るかを決める」

 

「引き受けられますか?」

 

代表生徒は少し考えた。

 

「条件が分かれているなら」

 

頷く。

 

「はい」

 

最後に、希美。

 

『利用価値・対外関係』

 

「私は……ここですね」

 

「はい」

 

「この技術を外で使う意味とか、断った時に失う関係とか」

 

「それを判断材料として示してください」

 

希美は一度画面を見た。

 

「でも、その価値を理由に足りないお金まで保証しない」

 

「はい」

 

「無償対応も?」

 

「約束する必要はありません」

 

希美はゆっくり息を吐いた。

 

修司は五つの欄の上へ一言追加した。

 

『暫定運用』

 

ユウカが気付く。

 

「恒久制度じゃない?」

 

「十日間だけ使います」

 

「ずいぶん短いわね」

 

「資金期限の範囲です」

 

修司は答える。

 

「実際に使って、止まりすぎるなら直す。抜ける責任があるなら足す」

 

「完成してないのね」

 

「完成を待っている時間がありません」

 

ユウカが少しだけ笑った。

 

「それは確かに」

 

修司はドローンの注文書を中央へ出した。

 

「では、この案件で使いましょう」

 

開発班代表が『技術条件確認』へ入力する。

 

製造可能。

 

品質確認可能。

 

安全試験可能。

 

現仕様なら納期対応可能。

 

そこで指が止まった。

 

販売後の対応。

 

数秒迷い。

 

『個別調整・保守作業時間は現見積もりに未反映』

 

と加えた。

 

確定。

 

ユウカは資金条件を見る。

 

「現条件では承認できない」

 

迷いなく入力する。

 

「製造費が先に出る。入金まで持たない可能性が高い」

 

ノアも契約書を見る。

 

「販売後の対応範囲が曖昧です。このままでは追加作業の責任が際限なく広がります」

 

事業化担当が三つの欄を見る。

 

「なら、今の条件では受けられません」

 

開発班代表がすぐ反応する。

 

「やっぱり断るんですか」

 

修司は注文書を見た。

 

「注文全体を、一つの条件で受ける必要はないでしょう」

 

希美が顔を上げる。

 

一瞬。

 

昨日の歩行補助装置が浮かんだ。

 

一括されていた発注。

 

交換部品。

 

予備。

 

新規試作機。

 

全部同じ必要ではなかった。

 

「……これも分ける?」

 

修司が頷く。

 

事業化担当の代表生徒が注文台数を見直す。

 

「最初から全数を作らない」

 

ユウカがすぐ反応する。

 

「初回導入分と追加分に分ける?」

 

「はい」

 

「初回分だけなら、最初に出ていく金額を抑えられる」

 

「製造費は前払いを求めたいです」

 

ユウカが計算画面を開く。

 

数字を入れ直す。

 

「前払いが通れば、受注直後に九日まで縮む危険はかなり抑えられる」

 

開発班代表が腕を組む。

 

「でも、相手が分割を嫌がるかもしれません」

 

「あります」

 

事業化担当は否定しない。

 

「個別調整も分けたいです」

 

「それ、このドローンの強みなんですけど」

 

「なくしません」

 

代表生徒は言う。

 

「値段を付けます」

 

開発班代表が少し黙る。

 

「標準設定までは本体価格。特殊な接続や追加機能は別料金」

 

ノアが契約書へ書き込む。

 

「保守期間と無償対応の範囲も決めましょう」

 

話が進む。

 

すべてを同じ条件で抱えない。

 

初回導入。

 

前払い。

 

標準仕様。

 

個別調整。

 

保守。

 

一つずつ切り分けていく。

 

希美は取引先の名前を見つめていた。

 

条件が増えるほど、胸の奥が重くなる。

 

「……断られるかもしれませんよね」

 

誰も否定しなかった。

 

開発班代表が小さく言う。

 

「他を選ばれるかも」

 

「はい」

 

事業化担当が答える。

 

「それはあります」

 

「やっと来た大口なのに」

 

代表生徒の視線が落ちる。

 

「この条件のままなら、今すぐ受けられるのに」

 

希美はその言葉を聞いて、指を握った。

 

受けたい。

 

その気持ちは変わらない。

 

だからこそ、今の条件を断ることが怖い。

 

修司が希美を見る。

 

「朝倉先生」

 

「はい」

 

「今の条件で受けたあと、資金が尽きたらどうなりますか」

 

希美は答えない。

 

「問い合わせが増えて、保守へ使える時間がなくなったら?」

 

止まった試験機。

 

修理待ちの機体。

 

「その注文は、成功したと言えるでしょうか」

 

希美はしばらく黙っていた。

 

開発班代表も視線を上げない。

 

やがて希美が息を吐く。

 

「……注文を断りたいわけじゃありません」

 

顔を上げる。

 

「使ってほしいです。実績にもなってほしい。次につながってほしい」

 

声は少し震えていた。

 

「条件を変えて、相手が離れるのも怖いです」

 

正直な言葉だった。

 

「でも」

 

希美は続ける。

 

「続けられない条件まで受け入れることを、可能性を守るとは言えません」

 

開発班代表が希美を見る。

 

「だから」

 

希美はゆっくりと言った。

 

「今の条件では受けません」

 

一瞬、室内が静まる。

 

「その代わり、受けられる条件をこちらから出したいです」

 

事業化担当の代表生徒が事業判断欄を開いた。

 

『現条件では不受注』

 

入力する。

 

さらに続ける。

 

『提示条件を満たした場合、事業責任者が受注可否を判断』

 

開発班代表がその文字を見つめる。

 

「向こうが断ったら?」

 

事業化担当が答える。

 

「今回の注文は失います」

 

「それでも?」

 

「今のまま受けて途中で支えられなくなるよりは」

 

開発班代表はしばらく黙った。

 

やがて、椅子の背へ体を預ける。

 

「……悔しいです」

 

希美が頷く。

 

「私もです」

 

「もし条件を飲んでくれたら」

 

「はい」

 

「今度こそ、ちゃんと外で使えるところまでやりたいです」

 

希美は少しだけ笑った。

 

「そのための条件です」

 

決裁記録が更新されていく。

 

技術条件確認。

 

開発班の技術責任者。

 

資金条件確認。

 

早瀬ユウカ。

 

契約条件確認。

 

生塩ノア。

 

事業判断。

 

事業化担当部署の責任者。

 

利用価値・対外関係。

 

朝倉希美。

 

希美が画面を見つめる。

 

以前なら、一番下に一人の名前があった。

 

今は違う。

 

「これって……全員で決めた、ということですか?」

 

修司は首を横へ振った。

 

「『全員で』だけではありません」

 

希美が眉を寄せる。

 

「違うんですか」

 

「それだけだと、何かあった時に誰が何を決めたのか分からなくなります」

 

修司は最初の欄を指した。

 

「技術的に引き受けられると決めたのは開発班です」

 

次。

 

「資金面の限界を決めたのはユウカさん」

 

次。

 

「契約条件を確認したのはノアさん」

 

さらに。

 

「その条件の中で事業として受けるかを決めるのは、事業責任者」

 

最後。

 

「朝倉先生は、利用者側の価値と外部との関係を示した」

 

希美は五つの欄を順番に見た。

 

「一緒に決めた。でも、同じことを決めたわけじゃない」

 

「はい」

 

ユウカが腕を組む。

 

「多数決でもない」

 

「はい」

 

「全員一致が必要なわけでもない」

 

「そうです」

 

「でも、自分の担当範囲で無理なら止められる」

 

「暫定運用では、その形で試します」

 

ユウカはしばらく画面を見た。

 

「……前よりは分かりやすい」

 

「前より、です」

 

修司が言う。

 

「完成ではありません」

 

「分かってるわよ」

 

ユウカが小さく笑う。

 

事業化担当の代表生徒が、条件変更案を送信画面へ移す。

 

初回導入分。

 

前払い条件。

 

標準仕様。

 

個別調整。

 

保守範囲。

 

必要な内容が添付される。

 

開発班代表が送信ボタンを見る。

 

希美も同じだった。

 

押せば、相手が離れるかもしれない。

 

それでも。

 

誰も追加資金を約束しなかった。

 

無償対応も足さなかった。

 

「送ります」

 

事業化担当の生徒がボタンを押した。

 

送信完了。

 

返答はない。

 

画面に表示された時刻を、ノアが記録へ追加する。

 

ユウカが資金繰り表を更新した。

 

十二日。

 

数字は変わらない。

 

資金が増えたわけではない。

 

安全になったわけでもない。

 

大口注文が成立したわけでもない。

 

ただ。

 

九日後へ縮む契約を、誰も事業責任を持たないまま受けることはしなかった。

 

ミコリが新しい決裁記録を保存する。

 

修司は上から順に確認した。

 

技術条件確認。

 

資金条件確認。

 

契約条件確認。

 

事業判断。

 

利用価値・対外関係。

 

一番下まで目を通す。

 

自分の名前は、どこにもなかった。

 

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