先生が休暇に入って、二日目の朝。
連邦生徒会の臨時対策室には、昨日とは違う種類の静けさがあった。
昨日は混乱だった。
今日は警戒だった。
各学園からの申請は、すでに新しい窓口へ振り分けられている。
先生への直接送信は止まっている。
未処理案件も、危険度ごとに分類された。
表面上は、順調に見えた。
だが、白石修司はそう見ていなかった。
「今日、崩れます。」
朝一番。
ノートパソコンを開いた修司は、そう言った。
リンは手元の端末から顔を上げる。
「崩れる、ですか。」
「はい。」
「昨日、仕組みを変えました。」
「今日は、その仕組みが現場に触れる日です。」
モモカが椅子に沈み込む。
「つまり、苦情の日ですね。」
「正確です。」
「嫌な正確さですねー。」
モモカは机に頬を乗せた。
「昨日だけでも結構頑張ったんですけど。」
「改革初日の頑張りは、だいたい自己満足です。」
修司は淡々と返す。
モモカがむっとする。
「言い方ぁ。」
「事実です。」
「初日はルールを作っただけです。」
「二日目に、そのルールを使う人間が出てきます。」
リンは静かに頷いた。
昨日、先生への直通ルートを閉じた。
申請を五分類に分けた。
先生が見なくてもいい案件は、各学園や連邦生徒会へ戻した。
だが、それで終わるわけがない。
今まで先生へ直接送れていた者たちは、今日から別の手順を踏まなければならない。
それは不便に感じるだろう。
不満も出る。
混乱もする。
「白石さん。」
リンは尋ねる。
「それでも、この方針は変えないんですね。」
「変えません。」
修司は即答した。
「先生を休ませるための改革です。」
「不満が出たから戻すなら、最初からやらない方がいい。」
「それは改革ではなく、気分転換です。」
モモカが小さく笑う。
「言い方はキツいのに、やることは真面目なんですよね。」
「仕事ですので。」
「そこはつまらない返事なんですね。」
その時、ミコリが顔を上げた。
表情は変わらない。
淡い桃色の瞳が、空中に表示された画面を見ている。
「問い合わせ件数、増加。」
リンの端末にも通知が入る。
各学園からの質問。
新ルールへの確認。
先生へ直接送れない理由。
緊急度判定への異議。
申請差し戻しへの不満。
モモカが端末を見て、露骨に顔をしかめた。
「来ましたね。」
「はい。」
修司は画面を見たまま言う。
「予定通りです。」
「予定通りでも嫌なものは嫌ですー。」
モモカは一つ目の問い合わせを開いた。
『緊急度Bと判定されましたが、こちらでは緊急案件と認識しています。先生へ取り次ぎ願います』
差出人はミレニアムの研究系部署。
内容は、研究機材の使用許可だった。
リンは内容を確認する。
「機材使用の承認ですね。」
「安全上の問題はありますか。」
修司が尋ねる。
「ありません。」
「期限は。」
「明後日です。」
「先生案件ではありません。」
「はい。」
リンは昨日より早く判断できた。
モモカが返信文を作る。
『本案件は緊急度Bのため、ミレニアム側管理責任者および連邦生徒会担当窓口で処理してください。先生への直接確認対象外です』
送信。
数十秒後、返信が来た。
『承知しました。ただし、今後の基準を共有願います』
モモカは目を丸くする。
「お、意外とまとも。」
「基準が分からないから混乱しているだけです。」
修司は言った。
「不満の一部は、情報不足です。」
「全部が悪意ではありません。」
リンはその言葉に少しだけ安心した。
昨日から、各学園が先生へ頼っていたことばかり見えていた。
けれど、皆が先生を壊そうとしていたわけではない。
ただ、正しい手順を知らなかった。
先生に頼ることが、当たり前になっていただけだった。
「基準表を作成します。」
修司は新しいファイルを開く。
『先生休暇中の緊急度判定基準』
モモカが覗き込む。
「また資料ですか。」
「はい。」
「資料って増やすと読まれないですよ。」
「だから短くします。」
修司は三つだけ書いた。
生命・安全に関わるもの。
先生本人の判断がなければ被害が拡大するもの。
世界線またはキヴォトス全体へ影響するもの。
「先生案件は、この三つに絞ります。」
リンが確認する。
「それ以外は、先生へ送らない。」
「はい。」
「例外は。」
「ミコリが判定します。」
ミコリが小さく頷く。
「判定可能。」
モモカは頬杖をつく。
「ミコリちゃん、便利ですねー。」
「便利ではありません。」
ミコリは無表情で答えた。
「判定を代行するだけです。」
「責任は人間側に残ります。」
モモカが一瞬固まる。
「急に重いこと言いますね。」
「事実です。」
修司はミコリを見た。
ほんの短い沈黙。
ミコリは表情を変えない。
だが、修司はわずかに目を細めた。
「良い補足です。」
「補足として最適と判断しました。」
ミコリは淡々と答える。
リンは二人のやり取りを見て、少し不思議な感覚を覚えた。
ミコリはAIだ。
感情は薄い。
会話も平坦。
それでも、白石修司の仕事を理解し、必要な言葉を差し込んでいる。
まるで、長く一緒に働いてきた相棒のように。
「どうしました。」
修司がリンを見る。
「いえ。」
リンは首を横に振る。
「少し、息が合っているなと。」
「業務上必要です。」
ミコリが答えた。
修司も同じように頷く。
「業務上必要です。」
モモカが小さく呟いた。
「似た者同士じゃないですか。」
「違います。」
二人の返事が重なった。
リンは、今度は少しだけ笑った。
その時、対策室の空気を裂くように警告音が鳴った。
ミコリの瞳が画面へ向く。
「緊急度A候補。」
リンの表情が引き締まる。
「内容は。」
「アビドス高等学校より支援要請。」
空中に表示された文章を見て、リンの表情が固まった。
『対策委員会より連絡。校外周辺に武装集団の動きあり。先生への指示確認を求む』
モモカが身を起こす。
「これは……。」
「戦闘絡みですね。」
リンも頷く。
「先生へ連絡しますか。」
その問いに、修司はすぐには答えなかった。
画面を見つめる。
数秒。
「情報が足りません。」
リンが振り向く。
「でも、緊急では。」
「緊急候補です。」
修司は言う。
「先生へ通す前に確認します。」
「武装集団の規模。」
「現在位置。」
「生徒への即時危険。」
「既存の対応手段。」
「現地指揮権限。」
「これを確認してください。」
モモカが端末を操作する。
「アビドスへ確認投げます。」
リンも別端末を開く。
「連邦生徒会側の記録を確認します。」
ミコリが生命の書に手をかざす。
「関連情報検索。」
対策室に、一気に緊張が走った。
昨日までなら、即座に先生へ回していた案件だった。
けれど今は違う。
まず情報を集める。
先生に渡すべきか判断する。
それが、新しい仕組みだった。
数分後、モモカが顔を上げる。
「返信来ました。」
「武装集団は小規模。」
「現在は校外の廃道付近で停滞。」
「対策委員会が監視中。」
「即時交戦の可能性は低い。」
リンが続ける。
「連邦生徒会記録では、周辺地域の治安悪化は継続中。ただし、本件単独では広域危機には該当しません。」
ミコリが最後に告げる。
「判定。」
「緊急度Bプラス。」
「先生直接判断、不要。」
リンは息を吐く。
「先生へは送らない。」
修司が頷く。
「ただし、支援は必要です。」
「アビドスへ確認してください。」
「必要なのは先生の判断ではなく、資材か、情報か、人員か。」
モモカがすぐ通信を打つ。
しばらくして返答が来る。
『補給物資と周辺警戒情報の共有を希望』
修司は頷いた。
「連邦生徒会の備蓄から最低限の物資を手配。」
「警戒情報は共有。」
「指揮は現地へ任せる。」
リンは端末を操作しながら尋ねる。
「先生には。」
「報告のみ。」
修司は言った。
「返信不要で。」
リンは短く文章を作成した。
『アビドスより支援要請あり。緊急度Bプラスと判定。補給物資および警戒情報を連邦生徒会経由で対応中。先生の対応不要。返信不要』
送信。
数秒後、既読が付いた。
返信は来ない。
リンは肩の力を抜いた。
モモカも椅子にもたれる。
「……回りましたね。」
「はい。」
リンは画面を見つめたまま呟く。
「先生なしで、回りました。」
修司は静かに答える。
「先生がいないから回したんです。」
その言葉に、対策室は少しだけ静かになった。
先生がいないことは、不安だった。
だが、先生がいないからこそ、組織は初めて動いた。
誰かに頼るのではなく。
自分たちで判断し、自分たちで支える。
それは、小さな成功だった。
ミコリが淡々と告げる。
「先生直接対応、回避。」
「先生休暇継続率、維持。」
修司はノートパソコンを閉じない。
「一件成功しただけです。」
「次が来ます。」
その言葉通り、通知音が鳴る。
今度はゲヘナだった。
モモカが天井を見上げる。
「人類、もう少し空気読んでくれません?」
修司は画面を見る。
「読めたら組織改革は不要です。」
「最悪の返しですね。」
「現実です。」
リンは小さく笑い、端末へ向き直った。
ゲヘナからの通知は、予想通り騒がしかった。
件名には『至急』が三つ並んでいる。
本文にも『先生へ確認』『緊急』『今すぐ』という言葉が何度も使われていた。
モモカは画面を見て、露骨に嫌そうな顔をした。
「圧が強い。」
リンは内容を読む。
「風紀委員会からです。」
「校内で複数の小規模騒動が同時発生。」
「対応優先度について先生の判断を仰ぎたい、と。」
修司は短く尋ねる。
「現地責任者は。」
「空崎ヒナさんです。」
「なら、先生案件ではありません。」
リンは少し目を開く。
「即答ですか。」
「はい。」
修司は画面を見る。
「現地に判断能力を持つ責任者がいる。」
「先生が上書きする必要はありません。」
モモカが頷く。
「あー、分かります。」
「ゲヘナって何か起きるたびに先生呼びがちですけど、風紀委員会だけで処理できることも多いんですよね。」
リンは少し不安そうに言う。
「ですが、ヒナさんへの負担が増えませんか。」
修司の手が止まった。
「重要です。」
リンが顔を上げる。
「そこです。」
修司はゲヘナの案件を開き、別画面に移す。
「先生への依存を減らして、現地責任者へ丸投げする。」
「これは改善ではありません。」
「負担の移動です。」
モモカの表情が固まる。
「つまり、先生の代わりにヒナさんが倒れるやつですか。」
「はい。」
「最低ですね。」
「よくある最低です。」
修司は淡々と言った。
「組織改革の失敗例です。」
リンは深く頷いた。
先生への負担を減らす。
そのために各学園へ戻す。
だが、戻された先で誰か一人が全て抱えれば、同じことが起きる。
先生がヒナに変わるだけだ。
それは、モームリの理念とは違う。
「では、どう対応しますか。」
リンが尋ねる。
修司は少し考える。
「ゲヘナには、優先度判定表を送ります。」
「先生ではなく、ヒナさん一人でもなく、風紀委員会内で分担できる形にする。」
「具体的には。」
「騒動を三段階に分けます。」
「生命・校舎被害・広域拡大の恐れがあるものはヒナさん。」
「通常の校内騒動は各班長。」
「軽微なものは記録のみ。」
モモカが端末を打つ。
「なるほど。」
「全部トップに上げるなってことですね。」
「はい。」
「トップは最後です。」
リンはその言葉を聞いて、昨日の説明会を思い出す。
先生は最後。
その考え方は、各学園にも必要なのだ。
誰か一人を最初にしてはいけない。
修司は返信文を作成する。
『先生は休暇中のため、本件はゲヘナ風紀委員会内で一次対応してください。ただし、空崎ヒナ個人への集中を避けるため、添付の優先度判定表に基づき各班へ分担してください。広域被害に発展する場合のみ、連邦生徒会経由で再申請してください』
モモカが文章を見て呟く。
「先生だけじゃなくヒナさんも守るんですね。」
「当然です。」
修司は言った。
「優秀な人間を使い潰す組織は、いずれ崩れます。」
「先生でも、風紀委員長でも同じです。」
リンはその言葉に、少しだけ胸が詰まった。
キヴォトスには優秀な生徒が多い。
責任感の強い生徒も多い。
皆、自分の役割を果たそうとしている。
だが、優秀だからといって、何でも背負わせていいわけではない。
それは、先生と同じだ。
送信。
しばらくして、返答が来た。
『承知。優先度判定表を風紀委員会内で共有します』
モモカが目を丸くする。
「通りました。」
「相手が優秀なら、基準を渡せば動けます。」
修司は答える。
「問題は、基準なしに責任だけ渡すことです。」
その時、ミコリが画面を切り替えた。
「新規案件。」
「トリニティ総合学園より問い合わせ。」
リンは少し身構える。
「内容は。」
「複数派閥間で、合同行事の代表者選定に関する意見対立。」
モモカが小さく呻く。
「うわ、面倒そう。」
修司は資料を見た。
「先生案件ではありません。」
「これもですか。」
「はい。」
「意見対立は、まず組織内で処理すべきです。」
リンは慎重に尋ねる。
「ですが、トリニティの派閥問題は複雑です。」
「承知しています。」
修司は答える。
「だからこそ、先生が安易に入るべきではありません。」
「なぜですか。」
「先生が裁定すると、次も先生裁定になります。」
リンは言葉を失う。
確かにそうだ。
先生が一度判断すれば、その結果が前例になる。
次の対立でも、また先生を呼ぶ。
その繰り返しが、先生の仕事を増やす。
「では、調停役は。」
「トリニティ内で立てる。」
「必要なら、連邦生徒会は手順だけ支援します。」
「結論は出しません。」
モモカが端末を打ちながら言う。
「手順だけ支援って、結構大事ですね。」
「はい。」
修司は頷く。
「外部が結論を出すと、当事者が育ちません。」
「組織は、自分たちで揉めて、自分たちで合意する経験が必要です。」
リンは画面を見つめる。
この男は、どの案件でも同じことをしている。
先生を引き離しているのではない。
組織に本来の役割を返している。
それが結果的に、先生を守ることになる。
「白石さん。」
リンは静かに言った。
「これは、かなり時間がかかりますね。」
「はい。」
「先生の十四日間で終わりますか。」
「終わりません。」
即答だった。
モモカがずっこけそうになる。
「そこは少し希望持たせましょうよ!」
「嘘は不要です。」
修司は淡々としている。
「十四日間で終わるのは、初期構築です。」
「定着にはもっと時間がかかります。」
リンは頷いた。
「なら、先生が戻った後も続ける必要がありますね。」
「はい。」
「先生が戻っても、先生へ戻さない。」
その言葉は、矛盾しているようで、核心だった。
先生が復帰する。
だからといって、以前のように先生へ全てを戻してはいけない。
戻すべきは、先生の役割。
戻してはいけないのは、過剰な責任。
その線引きが必要だった。
その時、リンの端末に通知が届いた。
差出人は、先生。
件名はない。
本文も短かった。
『ありがとうございます。返信不要とありましたが、これだけ。ちゃんと寝ました』
リンは画面を見つめたまま動かなくなった。
モモカが覗き込む。
「先生からですか?」
リンは小さく頷く。
「はい。」
修司も画面を見る。
数秒。
「返信しないでください。」
リンは少しだけ笑った。
「分かっています。」
「ただ。」
「はい。」
「少し安心しました。」
修司は何も言わなかった。
それを否定する必要はなかった。
ミコリが静かに告げる。
「先生休息状況、改善傾向。」
「睡眠取得を確認。」
モモカが椅子にもたれる。
「よかったぁ……。」
リンもようやく息を吐いた。
たった一文。
それだけで、対策室の空気が変わった。
先生は休んでいる。
本当に。
今この瞬間、仕事ではなく休息を取っている。
それだけで、ここまで救われるとは思わなかった。
修司はノートパソコンへ視線を戻す。
「安心するのは構いません。」
「ですが、ここで気を緩めると戻ります。」
リンは背筋を伸ばす。
「はい。」
「次の案件を処理しましょう。」
その言葉に、モモカが苦笑する。
「鬼ですねー。」
「違います。」
修司は淡々と返した。
「コンサルです。」
「似たようなものでは?」
「違います。」
ミコリが小さく口を開く。
「職種分類上、別項目です。」
モモカはミコリを見る。
「そこ補足するんだ。」
リンは小さく笑い、次の案件を開いた。
先生がいない二日目。
不安はまだ消えない。
だが、対策室には昨日より少しだけ余裕が生まれていた。
先生が眠った。
組織が動いた。
それは、たった一歩。
けれど、確かな一歩だった。
昼過ぎ。
臨時対策室の机には、新しい一覧表が並んでいた。
先生判断案件。
連邦生徒会処理案件。
各学園返送案件。
経過観察案件。
昨日まで混沌としていた申請は、少しずつ形を持ち始めている。
ただし、形を持ったからこそ、新しい問題も見えてきた。
リンは画面を見ながら眉を寄せる。
「各学園へ返送した案件のうち、一部が再申請されています。」
「件数は。」
修司が尋ねる。
「七十四件です。」
モモカが顔をしかめる。
「多くないですか?」
「多いです。」
修司は即答した。
「ただし、想定内です。」
「何でも想定内って言えばいいと思ってません?」
「思っていません。」
「では本当に想定してたんですか。」
「はい。」
モモカは悔しそうに黙った。
リンは再申請の内容を確認する。
同じ案件が戻ってきているもの。
担当部署が分からず差し戻されたもの。
各学園内で責任者が決まらず、再びシャーレへ送られたもの。
中には、文面だけ変えて先生宛てに近い形で送られているものもあった。
「これは……。」
「迂回です。」
修司が言った。
「直接ルートを閉じると、別ルートから入ろうとします。」
「悪意ではなく、習慣です。」
モモカがため息をつく。
「習慣って厄介ですね。」
「はい。」
「法律よりしぶとい場合があります。」
リンは再申請一覧を見つめる。
昨日作った仕組みは、機能し始めた。
だが、まだ脆い。
人は慣れた道へ戻ろうとする。
先生へ頼る道へ。
「どうしますか。」
リンが尋ねる。
修司はすぐに答えなかった。
再申請の一覧を眺め、いくつかを開き、閉じる。
「二種類あります。」
「二種類?」
「本当に担当が分からないもの。」
「そして、担当したくないものです。」
モモカが苦い顔になる。
「後者、嫌ですね。」
「組織では珍しくありません。」
修司は言った。
「仕事は宙に浮くと、最終的に一番優しい人へ落ちます。」
「今回の場合、それが先生でした。」
リンは静かに息を呑む。
優しい人へ落ちる。
その言葉は、あまりにも正確だった。
先生は拾ってしまう。
誰も持たない仕事を。
誰も責任を取りたがらない案件を。
困っている誰かの声を。
だから、先生の手はいつも塞がっていた。
「宙に浮いた仕事を、先生へ落とさない仕組みが必要です。」
修司は言った。
「担当不明案件の受け皿を作ります。」
「受け皿?」
リンが聞き返す。
「一時預かり窓口です。」
「ただし、処理する場所ではありません。」
「担当者を決める場所です。」
モモカが頷く。
「あー、ありますね。」
「どこの部署も持ちたがらないやつを、一旦集める場所。」
「はい。」
「そこを作らないと、全部先生へ行きます。」
リンはすぐに端末を開く。
「名称はどうしますか。」
修司は少し考える。
「案件振分室。」
モモカが首を傾げる。
「地味ですね。」
「地味でいいです。」
「派手な名前にすると、余計な期待が集まります。」
「組織名で遊ぶと、だいたい本来業務がぼやけます。」
モモカはじっと修司を見た。
「モームリって名前の人が言います?」
修司は一瞬だけ黙る。
「例外です。」
「絶対そういうと思いました。」
リンは小さく笑いながら、案件振分室の仮設フォームを作成した。
目的。
担当部署不明案件の整理。
役割。
担当部署の決定。
処理そのものは行わない。
先生への直接移管は禁止。
モモカが入力しながら言う。
「これ、誰が見るんですか?」
リンは手を止めた。
「……私ですか?」
修司は首を横へ振った。
「リンさん一人では駄目です。」
リンは驚く。
「ですが、連邦生徒会側の統括は私が。」
「だから駄目です。」
修司は言った。
「先生の代わりに、リンさんが全部抱える形になります。」
リンは言葉を失った。
その通りだった。
今、自分は自然に引き受けようとしていた。
先生と同じように。
「では、どうすれば。」
「複数人で持ちます。」
修司は言った。
「リンさん、モモカさん、各担当局から一名ずつ。」
「決定は多数決ではなく、基準に基づいて行う。」
「個人判断ではなく、仕組みで判断します。」
モモカが顔をしかめる。
「私もですかー。」
「はい。」
「面倒です。」
「必要です。」
「面倒なのに必要な仕事って最悪ですね。」
「行政の多くがそれです。」
リンは否定できず、少しだけ苦笑した。
モモカは渋々ながら端末を操作する。
「じゃあ、仮で私も入れます。」
「ただし、お菓子休憩は必要です。」
修司は短く頷く。
「休憩は必要です。」
モモカが意外そうな顔をする。
「そこは通るんですか。」
「はい。」
「休憩なしの運用は続きません。」
「いいですね、コンサルさん。」
「仕事の話です。」
ミコリが静かに告げる。
「案件振分室、仮設完了。」
「再申請七十四件を転送します。」
画面上で、再申請案件が新しい窓口へ移動していく。
先生へ向かっていた仕事が、別の場所へ着地する。
それだけのことなのに、リンには大きな変化に見えた。
その時、ミコリが別の画面を表示した。
「先生端末、活動検知。」
リンの表情が変わる。
「先生が?」
「はい。」
「休暇中にも関わらず、申請システムへのアクセスを試行。」
モモカが慌てる。
「見に来ちゃったんですか!?」
リンも端末を確認する。
先生のアカウントが、申請一覧へアクセスしようとしている。
修司は表情を変えずに言った。
「想定内です。」
「また想定内。」
モモカが呻く。
「対応は。」
リンが尋ねる。
「遮断します。」
修司は即答した。
「先生用画面を休暇モードへ切り替えてください。」
ミコリが頷く。
「実行。」
数秒後。
先生の端末へ表示される画面が切り替わった。
『現在、特別休暇中です』
『業務画面は利用できません』
『返信不要』
『睡眠・食事・休息を優先してください』
モモカが画面を見て笑いそうになる。
「圧がすごい。」
リンも少し困ったように微笑む。
「先生、驚いているでしょうね。」
数秒後、先生から短いメッセージが届いた。
『少し確認しようとしただけです』
修司はリンを見る。
「返信してください。」
「何と?」
「駄目です、と。」
リンは少し迷ってから、そのまま打った。
『駄目です。休んでください。返信不要です』
送信。
既読。
今度も返信は来なかった。
リンは胸に手を当てる。
「……少し、怖かったです。」
「何がですか。」
「先生に、駄目ですと言うことが。」
修司は静かに頷いた。
「必要なことです。」
「優しい相手に線を引くのは難しい。」
「ですが、線がなければ人は戻ります。」
リンは目を伏せる。
「先生も。」
「はい。」
「そして、私たちも。」
対策室は静かになった。
変わらなければならないのは、先生だけではない。
むしろ先生を変えようとしてはいけない。
変わるべきは、周囲だった。
先生へ頼り続けた組織。
先生が戻ろうとするたびに、ちゃんと止める組織。
それを作るために、今ここにいる。
ミコリが淡々と報告する。
「先生業務アクセス、遮断成功。」
「休暇継続。」
「申請システム再設計、稼働中。」
「案件振分室、仮運用開始。」
修司は時計を確認した。
「本日の目標を更新します。」
リンとモモカが画面を見る。
「再申請七十四件の担当先決定。」
「先生端末の休暇モード維持。」
「緊急度A候補の監視。」
「各学園への基準表共有。」
モモカがぼそっと呟く。
「結構ありますね。」
「はい。」
修司は頷く。
「ですが、全部今日中に終わらせる必要はありません。」
リンは少し驚く。
「そうなんですか。」
「はい。」
「今日中に決めるのは、危険なものだけです。」
「残りは明日でもいい。」
モモカが感動したように両手を合わせる。
「明日でいい仕事、最高ですね。」
「本来、仕事には期限があります。」
修司は淡々と言う。
「全部今すぐ、という運用が異常です。」
リンは先生のことを思い出す。
先生の元には、全てが今すぐ届いていた。
その全てに、先生は今すぐ応えようとしていた。
だから壊れた。
「白石さん。」
「はい。」
「今日、先生が休めているのは。」
リンは画面を見る。
再設計された申請システム。
案件振分室。
休暇モード。
緊急度判定。
「この仕組みがあるからなんですね。」
「はい。」
修司は短く答える。
「優しさだけでは、休ませられません。」
「仕組みが必要です。」
その言葉は、静かにリンの胸へ残った。
優しさだけでは届かない場所がある。
感情だけでは守れない人がいる。
ならば、仕組みを作る。
冷たく見えても。
遠回りに見えても。
その仕組みが、誰かを壊れる前に止められるなら。
リンは端末を握り直した。
「続けます。」
修司は頷く。
「はい。」
モモカも渋々手を上げる。
「はいはい、やりますよー。」
「先生に仕事が戻るよりはマシですし。」
ミコリが淡々と告げる。
「案件振分室、処理開始。」
窓の外では、二日目の夕方が近付いていた。
先生がいないシャーレ。
その不在は、まだ痛い。
けれど、その痛みから目を逸らさずに、組織は少しずつ形を変えていく。
先生を休ませるため。
先生が戻った後も、壊れないため。
そしていつか。
誰かが胸を張って、もう無理ですと言える場所にするため。
白石修司は画面を見つめ、静かに次の案件を開いた。
「次です。」
その声に、リンとモモカは同時に頷いた。
その夜。
先生の端末には、もう一件だけ通知が届いた。
『本日の先生直接対応件数:0件』
その下に、短い一文。
『返信不要。今日も休んでください』
先生は画面を見つめ、少しだけ笑った。
そして初めて、端末を机の上へ伏せた。
シャーレが、先生なしで動き始めた。
それは小さな一歩だった。
けれど、先生を救うには十分すぎる一歩だった。