通知音が鳴った。
希美が真っ先に顔を上げる。
別案件の資料を確認していたユウカの指も止まり、ノアは開いていた契約書を閉じた。
ミコリが共有画面へ新着文書を表示する。
「多目的自律支援ドローンの取引先より回答です」
「もう?」
希美が時計を見る。
条件変更案を送ってから、それほど時間は経っていない。
「回答期限が明日なんだから、向こうだって急いでるでしょ」
ユウカはそう言いながら、自分の端末にも同じ文書を開いた。
修司も共有画面へ視線を向ける。
件名は簡潔だった。
『条件変更案について』
本文の前半には、受け入れ可能な条件が並んでいる。
全数一括ではなく、複数回へ分けて導入すること。
標準仕様と個別調整を分けること。
追加機能を別料金とすること。
保守範囲を契約書へ明記すること。
希美の肩から、わずかに力が抜けた。
「かなり受け入れてくれてますね」
開発班の代表生徒も身を乗り出す。
「じゃあ、ほとんど――」
「最後まで」
ユウカが画面を下へ送った。
次の一文で、空気が変わる。
『初回製造費の全額前払いについては受諾できません』
開発班代表の口が閉じた。
続く説明には、取引先側の事情が記されていた。
支出には内部承認が必要であり、実機の稼働を確認する前に初回製造費の全額を支払うことは難しい。
代わりに提示されたのは、一部前払いと、初回導入後の動作確認時に残額を支払う案。
ただし、初回導入台数はミレニアム側が提示した数より増やしたい。
導入時の基本設定は本体価格へ含めてほしい。
初期運用中の不具合についても、一定期間は無償対応の範囲に入れたい。
最後に、回答期限までに遠隔協議を行いたいという要望が添えられていた。
誰もすぐには口を開かなかった。
全面拒否ではない。
むしろ向こうも相当に譲っている。
だからこそ、簡単に断ることも、受けることもできなかった。
「相手からしたら当然ね」
ユウカが資金繰り表を開く。
開発班代表が顔を向けた。
「当然?」
「動くか分からないものに、最初から全部払えって言われたら困るでしょ」
「でも、こっちが全部立て替えたら困ります」
「そう」
ユウカは即答した。
「だから、どっちかが悪い話じゃないのよ」
希美はもう一度文書を読む。
「向こうにも向こうの事情があるんですね」
「取引ですから」
修司が答えた。
「こちらの資金事情だけで条件は決まりません」
希美は小さく頷く。
ミコリが暫定運用の画面を開いた。
技術条件確認。
資金条件確認。
契約条件確認。
事業判断。
利用価値・対外関係。
五つの欄が並ぶ。
空欄はない。
判断する人間も決まっている。
まず開発班代表が技術条件を開いた。
「製造自体はできます」
取引先が再提示した初回台数を確認する。
「前にこっちが出した数より増えてるけど?」
ユウカが尋ねた。
「全数一括よりは少ないです。工程も崩れません」
「安全試験は?」
「そこも問題ありません」
そこまでは迷いがなかった。
代表生徒の指が、次の条件で止まる。
『初期運用中の不具合対応を一定期間含む』
「……これ、どこまでですか」
ノアが顔を上げる。
「不具合対応ですか?」
「機体側のバグなら直せます。でも、利用場所の設定変更まで不具合扱いされたら前と同じになります」
ノアが文面を確認する。
「現時点では、そこまで定義されていませんね」
代表生徒は少し考えたあと、技術条件欄へ入力した。
『条件付きで可能』
その横でユウカが数字を入れ直している。
一部前払い。
増えた初回台数。
残額は導入後。
資金推移が更新される。
開発班代表が横目で見る。
「前よりはいいですよね?」
「いいわよ」
「なら――」
「でも、この台数なら無理」
代表生徒の表情が止まる。
「え?」
「一部前払いだけじゃ、初回の部品と外注費を賄えない」
「でも製造できます」
「作れるかの話はしてない」
ユウカが画面を示した。
「この条件で受けたら、こっちが先に抱える金額が大きすぎる」
「じゃあ、前払いを増やしてもらえば」
「それを向こうは嫌がってる」
「だったら台数を――」
代表生徒自身が言葉を切った。
事業責任者がその続きを拾う。
「減らしたら、資金条件は変わりますか?」
ユウカがすぐに計算し直した。
一段減らす。
さらに減らす。
資金推移が動く。
「変わる」
「どこまで?」
「待って」
数値を何度か往復させたあと、ユウカが一つの線を示した。
「この範囲なら、今の計画を大きく崩さない」
開発班代表がすぐに眉を寄せる。
「そこまで減らしたら、導入の意味が薄くなります」
「技術的に作れない?」
「作れます。そうじゃなくて、外で取れるデータの話です」
「じゃあ、最低何台必要?」
事業責任者が聞いた。
代表生徒は答えかけ、止まった。
しばらく取引先の導入目的を見ている。
搬送。
巡回。
複数拠点での同時運用。
既存設備との接続。
希美が画面を覗き込んだ。
「最初から全部確認しないと駄目なんですか?」
代表生徒が顔を上げる。
「え?」
「初回で絶対に見たいものって、どれですか?」
「それは……」
代表生徒は資料を上から確認する。
「基本搬送と巡回なら、少ない台数でも見られます」
別の項目へ指を動かす。
「複数拠点での同時運用は、追加分が必要です」
「それは後でも確認できる?」
「できます」
「じゃあ、最初の台数って、製造数じゃなくて何を試すかで変わるんですね」
代表生徒は少し黙ったあと、頷いた。
「そうですね」
事業責任者がメモを取り始める。
ユウカは資金欄を開いた。
『現条件では不可』
その一文を見て、眉を寄せる。
「……これも足りないわね」
事業責任者が見る。
「何がですか?」
「不可って書いてあるだけ」
ユウカは画面を指した。
「あなた、これを見て何を変せば通るか分かった?」
一瞬、返事が止まる。
「正直、分かりませんでした」
「だったら言いなさいよ」
「資金条件に口を出すのも違うと思って」
「全部待ってたら進まないでしょ」
言ってから。
ユウカ自身が止まった。
まさに今、その状態になっている。
少し息を吐く。
「……私も書き方を間違えたわね」
ユウカは『現条件では不可』を消さなかった。
その下へ、別の数字を追加する。
「初回でこっちが持ち出せるのはここまで」
さらに。
「前払いは最低でもこの金額」
事業責任者が端末を寄せる。
「この線を越えなければ?」
「私は止めない」
ユウカが答える。
「何台売るかまでは決めない。そこは事業側で作って」
「分かりました」
ノアも自分の欄を見た。
『範囲の再確認が必要』
「こちらも同じですね」
開発班代表が苦笑する。
「僕らの『条件付き』も」
「曖昧だという記録だけでは、次の案に使えません」
ノアは契約書の『初期不具合』を拡大した。
「まず、これを分けましょう」
「ここで全部決めるんですか?」
開発班代表が尋ねる。
ノアは首を横に振る。
「いいえ。何を決める必要があるかだけです」
本体側の不具合。
導入時の設定ミス。
利用環境変更。
追加設備との接続。
操作説明。
画面へ項目が増えていく。
「無償対応期間は?」
「……それは作業量を見ないと答えられません」
代表生徒が返す。
修司がそこで口を開いた。
「では、ここで想像するより実際に確認しましょう」
全員の視線が集まる。
修司は開発班代表を見る。
「研究を止めずに初期支援へ回せる人員と時間を、現場で見せていただけますか」
「今ですか?」
「今の方がいいでしょう」
回答期限は明日。
机の上で数字を往復させているだけでは、作業量は見えない。
代表生徒は一度時計を見たあと、立ち上がった。
「分かりました。来てください」
開発区画では、会議室とは違う時間が流れていた。
低いモーター音。
工具が作業台へ置かれる音。
短い警告音。
壁面の大型表示には、その日の試験予定が時間単位で並んでいる。
代表生徒はそこへ真っ直ぐ向かった。
「今日の分です」
次世代制御試験。
障害物認識。
長時間稼働試験。
外部導入機の修理。
問い合わせ対応。
ユウカが壁面表示を見上げる。
「結構詰まってるわね」
「普段からこんな感じです」
開発班代表は予定表を操作した。
「初回導入をするなら、この二人を設定担当に回します」
二つの名前が別枠へ移る。
その瞬間。
別の試験予定が黄色へ変わった。
『担当不足』
代表生徒の指が止まる。
希美も気付いた。
「何か消えました?」
「消えてはいません」
代表生徒が少し気まずそうに答える。
「制御試験が二日ずれます」
「二日」
「担当を一人抜くので」
「じゃあ、もう一人別の人を――」
希美が言いかける。
すぐに口を閉じた。
周囲を見回す。
別の生徒は修理中。
さらに奥では試験機のログを取っている。
空いている人間などいない。
代表生徒は別の組み方を試す。
一人を問い合わせ担当へ。
一人を導入設定へ。
今度は長時間稼働試験が延期になる。
「……こうなるんだ」
希美が呟いた。
会議室で『初期対応可能』と書くだけなら、一行だった。
ここでは、その一行を作るたびに何か別の予定が動く。
ユウカが取引先希望の台数を入力した。
「この台数なら?」
代表生徒が人員を割り振る。
黄色が三つ。
「無理です」
即答だった。
ユウカが数字を一段下げる。
黄色が二つ。
もう一段。
一つ。
代表生徒はそこで考える。
「ここなら」
「研究は止まらない?」
「完全には」
予定表を指す。
「二つの試験は時間をずらします。でも延期まではしない」
事業責任者が聞く。
「初期設定と操作説明まで含めて?」
「はい」
「問い合わせ対応も?」
代表生徒は少し迷った。
その時。
共有端末から通知音が鳴った。
近くの生徒が顔を上げる。
「稼働中の機体から問い合わせです」
代表生徒が反射的に動きかける。
途中で止まる。
自分の代わりに別の生徒が端末へ向かった。
「こっち見ます」
「お願い」
代表生徒は壁面予定へ視線を戻す。
そして、小さく息を吐いた。
「……こういうのも入ります」
ユウカは何も言わず、黄色くなった予定を見ていた。
代表生徒が続ける。
「だから、初回導入で支援までやるなら、この台数です」
取引先の希望より少ない。
ミレニアムが最初に提示した数よりは多い。
「技術的に意味はある?」
希美が聞く。
「あります」
「何が確認できます?」
「搬送。巡回。標準設定での運用」
「複数拠点は?」
「追加導入後」
「特殊設備との接続は?」
「初回ではやらない方がいいです」
事業責任者が端末へ書き込む。
「これなら案になります」
ノアも横から画面を見る。
「初期不具合の対応量は?」
代表生徒は先ほどの問い合わせ記録を開いた。
機体側の問題だけを抽出する。
件数が大きく減る。
「これなら一定期間は無償でいけます」
「利用先で設備配置を変えた場合は?」
「それは別です」
「標準経路の微調整は?」
「導入直後なら入れてもいいです」
「特殊な接続?」
「別料金」
ノアがその場で境界を書き換えていく。
会議室で順番に欄を埋めていた時とは違う。
人員を動かせば研究予定が変わる。
台数を変えれば資金が動く。
支援範囲を広げれば人が足りなくなる。
一つの条件が別の条件へすぐ跳ね返ってくる。
ユウカが新しい台数で資金推移を出した。
「前払いがこの金額まであれば、私は止めない」
事業責任者が確認する。
「全額じゃなくて?」
「全額はいらない。部品と外注分まで」
「残りは?」
「全部を導入後まで待つのは厳しい」
「中間支払い?」
「必要」
代表生徒が振り返る。
「組み立て完了時に、向こうに動作確認してもらうのは?」
ノアが顔を上げる。
「遠隔確認ですか?」
「できます」
事業責任者の指が止まらなくなる。
初回台数。
前払い最低額。
中間確認。
標準設定。
初期不具合。
追加調整。
バラバラだった条件が、一つの案へ寄っていく。
希美は自分の端末へ視線を落とした。
『継続を希望』
それだけ。
少し眉を寄せる。
「私のこれも、使えないですね」
修司が見る。
「なぜですか?」
「希望してることしか書いてないです」
希美は開発区画を見回した。
目の前では、生徒が修理中の機体へ工具を入れている。
少し離れたところでは、試験機が規則正しく経路を走っている。
どちらも大事だった。
「初回台数を減らしても、外で使ってもらう意味は残る」
「はい」
開発班代表が答える。
「取引先との関係は?」
事業責任者が少し考える。
「条件を何度も変えれば、不安には思われるかもしれません」
希美の表情が曇る。
「やっぱり」
「でも、契約した後に『やっぱりできません』と言うよりはいいです」
「……そうですね」
希美は追記する。
初回台数の縮小でも利用価値は維持。
取引継続を希望。
変更理由を事前に説明。
追加導入の可能性は残す。
最後に指が止まる。
「『必要なら私が対応する』は……書かない」
ユウカが横を見る。
「書こうとした?」
「一瞬」
「やめなさい」
「はい」
希美が小さく笑う。
その声を聞きながら、事業責任者は四つの条件を一つの画面へ集めた。
修司が言う。
「欄を埋めるために考えないでください」
事業責任者が振り返る。
「取引先へ返せる案を作るために使いましょう」
修司は壁面予定を見る。
「この表が綺麗に完成することが目的ではありません」
事業責任者は一度頷いた。
そして『保留』を消した。
「……では」
取引先の再提案を複製する。
初回台数を変更。
ユウカが示した前払い最低額を入れる。
残額は分割。
標準設定を本体価格へ。
特殊接続は別契約。
無償対応は初期不具合のみ。
追加台数は初回運用後に再判断。
開発班代表が横から見る。
「そこ、もう一台増やせません?」
「増やせる?」
代表生徒が壁面予定を見る。
黄色い表示。
少し悔しそうに首を振る。
「今は無理です」
「なら、ここから交渉します」
事業責任者は完成した案を保存した。
「遠隔協議、私が進めます」
会議室へ戻った時には、窓の外の明るさが少し変わっていた。
壁面モニターの前へ席を並べ直す。
開発区画から戻った代表生徒は、さっきまで作業着の袖をまくっていた腕を直し、少し落ち着かない様子で座った。
ユウカは資金表。
ノアは契約案。
事業責任者は再提案。
希美は取引先とのこれまでのやり取りを開く。
修司は一番端の席へ座った。
協議開始時刻。
画面が切り替わる。
取引先側にも三人がいた。
調達担当。
導入担当。
運用担当。
「お時間をいただきありがとうございます」
事業責任者が頭を下げる。
「こちらこそ。回答期限が迫っている中、再調整いただきありがとうございます」
最初に表示されたのは、初回導入台数だった。
相手側の導入担当がすぐに眉を寄せる。
「……減るんですね」
「はい」
「その数だと、二拠点同時で比較できません」
事業責任者が開発班代表を見る。
代表生徒が資料を共有した。
「初回で一番確認したい機能は何でしょうか」
「何、というと?」
「搬送性能なのか、巡回なのか、複数拠点での同時管理なのか」
導入担当が少し考える。
「現場で安定して搬送できるか。それが最優先です」
「それなら、この台数で確認できます」
「複数拠点比較は?」
「追加導入後です」
「全体評価が遅れます」
「はい」
代表生徒は否定しなかった。
「でも最初から全部入れて、初期設定と支援が追いつかなくなったら、正しい評価ができません」
画面の向こうで、運用担当が資料を見る。
「一拠点だけなら、こちらの計画を組み直す必要があります」
「分かります」
「追加導入の時期は確約できますか」
代表生徒が答えようとする。
「できます――」
「待って」
ユウカが口を挟んだ。
代表生徒が振り返る。
「再審査の時期は決められる。でも、追加台数そのものは確約できない」
取引先の調達担当が眉を上げる。
「初回が成功しても?」
「成功してもです」
「では、こちらとしては追加分の予算を確保しづらい」
「それは分かります」
ユウカは視線を逸らさない。
「でも、追加製造時点の資金状況を見ずに、今ここで将来分まで約束することはできません」
開発班代表が少し唇を噛んだ。
技術が成功しても、増産されない可能性がある。
気持ちのいい条件ではない。
それでも、口を挟んだ。
「技術的に成功したかどうかと、追加製造できるかは分けてください」
取引先側が見る。
「初回で技術評価はできます。追加台数は、その結果と資金条件を見てもう一度決めます」
事業責任者が続ける。
「再審査の時期は契約書へ明記します」
運用担当が調達担当を見る。
小さく相談。
「……それなら、社内でも説明はできます」
最初の条件が少し動いた。
次は支払い。
調達担当がこちらの提示額を見る。
「前払い額は、こちらの再提案より高いですね」
事業責任者が頷く。
「初回分の部品費と外注費に相当します」
「実物を見る前の支払いとしては大きい」
向こうから別の数字が出る。
ユウカが即座に首を横へ振った。
「それでは足りません」
「どこまで必要ですか」
ユウカが返す。
調達担当の表情が硬くなる。
「こちらにも支出手続きがあります」
「承知しています」
ユウカの声は落ち着いていた。
「だから全額前払いは求めません。ただ、ここを下回るとこちらが製造費を立て替える形になります」
「初回台数を減らすことは?」
取引先側から提案される。
開発班代表が反射的に口を開く。
「これ以上減らすと――」
事業責任者が手で制することはしなかった。
代表生徒自身が言い直す。
「搬送試験はできます。でも巡回まで同時に見るのが難しくなります」
運用担当が首を振る。
「そこは両方見たいです」
三者の条件がぶつかる。
前払いを抑えたい取引先。
初回の技術価値を落としたくない開発班。
持ち出し上限を越えられないユウカ。
事業責任者が一瞬だけ修司を見る。
視線が合う。
修司は何も言わなかった。
数秒。
事業責任者は資料へ戻る。
「台数は維持します」
開発班代表が顔を上げる。
「その代わり、支払いを三段階に分けたいです」
調達担当が聞く。
「三段階?」
「前払い。出荷前確認後。初回運用確認後」
「出荷前確認?」
開発班代表が説明する。
「こちらで動作試験を実施します。遠隔で確認していただけます」
ノアがすぐに補足する。
「確認項目を契約書へ明記します」
調達担当はすぐには答えない。
運用担当と小声で話す。
「それなら中間支払いは通せる可能性があります」
ユウカが尋ねる。
「確認から入金まで何日ですか?」
日数が提示される。
ユウカが首を横へ振った。
「遅い」
向こうの担当者がわずかに眉を寄せる。
「こちらも処理があります」
「分かっています」
ユウカは別の数字を出す。
「この日数までなら受けられます」
再び相談。
「……そこなら調整します」
次に保守。
ノアが契約案を共有する。
標準設定。
操作説明。
機体側の初期不具合。
個別調整。
利用環境変更。
特殊設備との接続。
運用担当が尋ねた。
「利用中に経路変更が必要になった場合は?」
「原因によります」
ノアが答える。
「初期設定に問題があれば無償対応です」
開発班代表が続ける。
「施設側の設備配置が変わった場合は、追加調整です」
「軽微な変更でも?」
「一定範囲なら標準対応に含めます」
事業責任者が答える。
「大きな再設定や特殊設備との接続は別契約です」
運用担当が少し難しい顔をした。
「以前は、かなり柔軟に対応いただけた印象があります」
希美の指が止まる。
画面越しの視線が彼女へ向いた。
「朝倉先生にも、何度か相談に乗っていただきました」
「はい」
反射的に頷く。
「今回も、何かあれば先生へ相談してよろしいでしょうか」
「もちろん――」
言葉が出た。
そこで止まる。
壁際に置かれていた修理待ちの機体。
問い合わせ一つで止まった試験。
黄色へ変わった研究予定。
一言の「大丈夫です」の先で、誰かの時間が動く。
希美は一度口を閉じた。
「……そうですね」
ゆっくり言い直す。
「私が、今までそう受け取れる返し方をしていたと思います」
取引先側の担当者が少し表情を変えた。
希美は続ける。
「相談は、これからも受けます」
一拍置く。
「でも、必要な作業や費用まで、私一人では約束できません」
会議室が静かになる。
希美は膝の上で指を握った。
それでも視線は逸らさない。
「相談内容を確認して、契約の範囲なのか、追加作業になるのかを担当者と確認します」
少し息を吸う。
「だから、必要になる可能性が高い対応は、最初から契約の中で決めさせてください」
取引先側の担当者が尋ねる。
「窓口は、先生のままですか?」
希美は口を開きかけた。
そこで事業責任者を見る。
言葉を返す。
事業責任者が引き取った。
「対外関係については朝倉先生にも支援いただきます。ただし、作業範囲と費用の正式回答は事業窓口から行います」
取引先の担当者は少し考えたあと、頷いた。
「その方が助かるかもしれません」
希美が瞬きをする。
「え?」
「これまでは、先生に相談したあと、それが正式な対応なのか、個別相談なのか分からないことがありました」
責める声ではない。
「正式回答の窓口が明確なら、こちらも内部で説明しやすいです」
希美はしばらく黙った。
約束を減らした。
それでも関係は切れなかった。
「……分かりました」
その後も協議は続いた。
初回台数。
支払日。
無償対応期間。
追加導入の再審査時期。
一度決まった話が、別の条件によって戻ることもあった。
取引先側でも意見は割れた。
調達担当は支出時期を気にする。
運用担当は初回台数を減らしたくない。
導入担当は評価時期を遅らせたくない。
こちらも同じだった。
一枚の条件表を挟んで、全員の都合がぶつかる。
そのたびに事業責任者が整理する。
だが、答えを一人で作ることはしなかった。
「その台数なら技術側は?」
「可能です」
「資金は?」
「この前払い額なら」
「契約上は?」
「再審査日を入れるなら問題ありません」
必要な人間へ返し、また一つの案へまとめる。
途中。
取引先から、追加導入の再審査をもっと早められないかと求められた。
事業責任者が一瞬だけ黙る。
修司へ視線が向く。
修司は動かない。
事業責任者は自分で画面を開いた。
開発班の支援上限。
ユウカの資金条件。
希美が示した利用価値。
ノアの契約条件。
数秒後。
「再審査日は早められます」
自分で答える。
「ただし、追加導入そのものは確約できません」
取引先側が眉を寄せる。
「こちらとしては追加分の予算を確保しづらい」
「承知しています」
事業責任者は続けた。
「代わりに、再審査日を契約書へ明記します。こちらの事情だけで無期限に先送りはしません」
画面の向こうで相談。
しばらくして調達担当が頷いた。
「その条件なら進められます」
最後に、双方の合意点が表示された。
初回導入台数は縮小。
導入場所を限定。
初回部品費と外注費を前払い。
出荷前確認後に中間支払い。
初回運用確認後に残額。
標準設定は本体価格へ含む。
特殊な接続と追加機能は別契約。
初期不具合の無償対応範囲を限定。
追加台数は初回運用後に再審査。
再審査時期を事前に明記。
調達担当が最終案を確認する。
「正式契約前に内部確認は必要ですが」
一度言葉を切る。
「この条件なら、進められると思います」
希美の肩がわずかに動いた。
開発班代表も息を吐く。
事業責任者は確認した。
「基本合意という理解でよろしいでしょうか」
「はい。契約書を双方で確認した後に正式決定とします」
ノアが頷く。
「こちらで修正版を作成します」
通信が終了した。
しばらくして。
会議室には、先ほどまでの人数はいなかった。
開発班代表は初回導入計画の修正へ戻った。
ノアも契約書を仕上げるため席を外している。
事業責任者は取引先への確認事項をまとめに戻った。
ユウカも一度、会計作業へ戻っていた。
壁面モニターは消えている。
遠隔協議の熱だけが、少し残っていた。
希美は自分の端末を閉じる。
「……切れませんでしたね」
修司が顔を上げる。
「何がですか?」
「関係です」
希美は少し笑った。
「『全部やります』って言わなかったのに」
修司は答えなかった。
希美自身が、少し考える。
「むしろ、分かりやすいって言われました」
「そうですね」
「私、勝手に怖がってたのかもしれません」
そこまで言って、首を振る。
「いや。今でも怖いです」
「それでいいと思います」
修司は短く答えた。
希美は少しだけ笑う。
「白石さん、今回ほとんど条件を言いませんでしたね」
「はい」
「前なら、もう少し出してませんでした?」
「必要なら出したと思います」
「今回は必要なかった?」
修司は少し考えた。
「私が決める必要はありませんでした」
机の上には、更新された暫定記録が残っている。
事業判断。
『基本合意。正式契約文確認後に再判断』
「止まった理由を見つけるところまでは、私の仕事でした」
それだけ言って、修司は画面を閉じた。
資金危機は残っている。
正式契約もまだ。
入金もない。
それでも、大口注文を受けた瞬間に資金不足が九日後へ縮む条件は避けた。
希美が退出したあと。
会議室には修司とミコリだけが残った。
しばらく別の資料を確認したところで、扉が開く。
忘れ物を取りに来たユウカだった。
「まだいたの?」
「少し確認を」
「何を?」
修司は端末から目を上げずに言った。
「ミコリ。暫定運用へ追加された案件を一覧にできますか」
「表示します」
壁面へ新しい一覧が出る。
ドローンだけではない。
設備更新。
小規模事業。
研究継続。
保留中だった案件にも、五つの責任欄が使われ始めている。
修司は上から確認した。
一件。
二件。
三件。
そこで指が止まる。
資金条件確認――早瀬ユウカ。
次。
早瀬ユウカ。
その次も。
早瀬ユウカ。
後ろから画面を見ていたユウカが眉を寄せた。
「……何、それ」
修司は横へ送る。
契約条件確認――生塩ノア。
次も。
生塩ノア。
さらに次。
生塩ノア。
利用価値・対外関係。
朝倉希美。
朝倉希美。
朝倉希美。
ユウカの表情が消える。
さらに横。
事業判断。
同じ事業化担当部署の責任者。
一件。
二件。
三件。
四件。
「……これ」
ユウカが小さく呟いた。
その先は続かなかった。
修司も説明しない。
ミコリが一覧を表示し続ける。
五つに分かれた責任欄。
その下に並ぶ名前。
一人の空席は、埋めなかった。
その代わり。
同じ数人の名前が、すべての案件へ並び始めていた。