本話の更新を一区切りとして、『先生はモームリ』はしばらく休載とさせていただきます。
今後の展開や執筆方針を一度整理するため、再開時期は未定です。
なお、休載期間中も同アカウントにて別作品を投稿する場合があります。
本作を楽しみにしてくださっている方には申し訳ありませんが、気長にお待ちいただければ幸いです。
午後の研究室には、機械が動いているのに妙に静かに感じられる時間があった。
解析端末の冷却ファンは低く唸り続け、壁際の試験台では、細い配管を模した治具の中を小型設備検査機がゆっくり進んでいる。先端のセンサーから送られる波形も途切れてはいない。少なくとも、部屋に置かれた機械だけを見れば、研究はいつもどおり続いているように見えた。
修司が気になったのは、その隣に表示された別の記録だった。
新型センサーの改良履歴が、三日前から一度も更新されていない。
「試験結果が悪かったわけではないんですよね」
近くで解析結果を確認していた生徒へ尋ねると、彼女は首を横へ振った。
「そこまでは順調です。次は高温環境用の補正を入れる予定なんですけど……」
言葉の途中で、視線が研究室の奥へ向かう。
そこには、机へ突っ伏すように眠っている一人の生徒がいた。
以前、傷だらけの銀色の検査機を会議室へ運び込み、「個別調整で集めたデータがあったから、この亀裂を見つけられた」と訴えた開発担当の生徒だった。
頬を片腕へ押しつけ、もう片方の手は机から半分落ちている。指先には洗浄剤が乾いた白い跡が残り、白衣の袖口には黒っぽい油汚れが染みついていた。開いたままの工具箱には細いドライバーや端子抜きが乱雑に戻され、隣には蓋も閉められていない栄養飲料が二本転がっている。
授業の合間に少し眠っただけ、という姿には見えなかった。
「昨日もこんな感じでした?」
希美が声を落として尋ねる。
「昨日も午後に寝てました。一昨日は朝からいたんですけど、午前中ほとんど手が動いてなくて……。夜に何かしてるのかなとは思ってたんですけど」
修司は眠っている本人を起こさず、机の上へ目を移した。
新型センサーの設計端末は三日前の状態で止まっている。その一方、隣に置かれた外部調整用端末には、つい最近まで使われていた形跡があった。接続ケーブルは束ねられず、机の端から床へ垂れたままだ。
その時、研究室の共有端末が短い音を鳴らした。
外部からの受信通知だった。
研究班の生徒が何気なく開き、表示された文面を見たところで動きを止める。
「あ……」
「どうしました?」
「検査機を使ってる工場からです」
画面には短い感謝の連絡が表示されていた。
『昨夜はありがとうございました。設定を直してもらえたおかげで、本日の点検を予定どおり実施できました。』
希美が画面へ顔を寄せた。
「昨夜?」
「対応予定、入ってません」
研究班の生徒も戸惑った顔で予定表を開いたが、そこには何もない。
修司はもう一度、机に突っ伏したままの開発担当へ目を向けた。
眠っている手に残る洗浄剤の跡と、片づけられていない外部接続端末。
偶然とは考えにくかった。
しばらくして研究室へ来たユウカとノアが状況を確認し、開発担当が目を覚ましたのはその少し後だった。
彼女は上体を起こし、修司たちがいることに一瞬だけ眉を寄せたが、共有端末に開かれた工場からの連絡を見ると、すぐに事情を察したらしい。
ユウカが正面から尋ねた。
「昨夜、工場の対応をしたの?」
「はい」
返事に迷いはなかった。
「記録は?」
「してません」
「どうして?」
開発担当は椅子へ座り直しながら、ユウカから視線を逸らさず答えた。
「記録したら、追加料金を取るか、作業を止めろと言われるからです」
ユウカの眉がわずかに動いた。
「止められるって分かっててやったのね」
「分かってました」
「契約外だってことも?」
「知ってます」
「新しく決めた支援区分の意味も?」
「分かってます。だから記録しませんでした」
ごまかす気はないらしい。
自分が何を破ったのかを理解した上で、破った。
ノアが端末を開く。
「昨夜、どの範囲まで変更しました?」
「センサー補正と、報告書の出力形式です。昨日は配管径が変わったので、測定条件も少し変えました」
「安全確認は?」
「私がしました」
「他の方の確認は?」
「入れてません」
修司は少し間を置いてから、ミコリへ尋ねた。
「保存されている研究室の入退室記録と、調整端末の接続履歴を確認できますか」
「可能です」
ミコリが抽出したのは、それだけだった。
夜間の研究室への入室が三日連続。調整端末から外部設備へ接続した履歴も三日分残っている。
一晩目は二時間十二分、二晩目は三時間四十分、昨夜は四時間を超えていた。
ユウカは数字を見たまま、しばらく口を開かなかった。
その沈黙をどう受け取ったのか、開発担当の方から言う。
「学校のお金は使ってません」
「……何?」
「部品は交換してませんし、外注も使ってません。私が自分の時間でやっただけです」
ユウカがゆっくり顔を上げた。
「それ、本気で言ってる?」
「少なくとも学校の現金は減ってないですよね」
「現金が出なければ、費用じゃないって?」
声が強くなった。
周囲で作業していた研究班の生徒たちも、手を止めこそしないものの、意識だけはこちらへ向けている。
開発担当も引かなかった。
「学校の資金は減ってません」
「あなたがその対応をしてた時間、新型センサーの改良が三日止まってるでしょう」
「あとで戻せます」
「三日分を?」
「私がやれば」
「いつやるの」
開発担当の口が止まった。
ユウカはそこで畳みかけなかった。
一度目を閉じ、息を整えてから、先ほどより少し低い声で続ける。
「私、数字だけを見てるんじゃない」
開発担当がわずかに顔を上げる。
「あなたが何時間働いたのか、その間に何が止まったのか。もしあなたが倒れたら、誰が続きを引き受けるのか。そこが分からないままになるのが嫌だから、記録してほしいの」
「記録したら止めるでしょう」
「必要なら止めるわよ」
「ほら」
「でも必要なら、続ける判断だってできる!」
研究室に、ユウカの声が響いた。
自分でも少し大きくなったと気づいたらしいが、目は逸らさない。
「書かなかったら、必要かどうか判断することすらできないでしょう!」
開発担当も椅子から立った。
「必要な理由を書いたって、『契約外』の一行で消すじゃないですか」
「今まで全部そうした?」
「これからそうするんでしょう!」
「だから初期対応と継続保守と研究協力を分けたのよ!」
「それは会議室の話でしょう!」
言葉がぶつかる。
修司は止めなかった。
二人とも、相手を責めたいから声を上げているわけではない。
ユウカは、誰にも見えないところで一人の生徒が削れていくことを恐れている。
開発担当は、自分が何度も足を運び、失敗を重ねながら築いた関係を、採算表の線引きだけで断ち切られることを恐れている。
守ろうとしているものが違うから、互いの言葉が届いていない。
開発担当は荒くなった息を整えながら、今度は修司を見た。
「あの工場へ行ったことありますか」
「ありません」
「あそこの責任者と直接話したことは?」
「ありません」
「試験のために、何回工場を止めてもらったか知ってますか」
「いいえ」
一つずつ、修司は否定しなかった。
そのことが、かえって彼女の怒りを強くしたようだった。
「だったら分からないですよ」
握った拳が震える。
「最初の検査機なんて、全然使えなかったんです。配管の汚れを亀裂だって誤検知して、現場を余計に止めたこともあります。熱でセンサーが駄目になって、測定途中で使えなくなったこともあった」
怒りだけだった声に、少しずつ別のものが混じっていく。
「それでも、あの工場は試験をやめなかった」
彼女の視線が壁際へ向く。
そこには、細かな傷が残った銀色の検査機が置かれていた。
何度も狭い配管へ差し込まれ、引き抜かれた痕がある。
「設備の図面も見せてくれた。測定データもくれたし、作業員の人が『この辺から音が変だった』って教えてくれたから、波形の見方も変えられたんです」
以前、会議室へこの検査機を持ち込んだ彼女は、個別調整で集めたデータがあったから亀裂を見つけられたのだと言った。
その言葉の裏側にあった時間が、ようやく修司にも見え始める。
「別の小さい工場も紹介してくれました。未完成だったのに」
彼女は修司を正面から見た。
「完成してない時に助けてもらって、使えるようになったら『ここから先は追加料金です』なんて、私は言えません」
修司は黙って聞く。
「契約に書いてある分を返したから終わりなんて、そんな関係じゃないんです。あの人たちは客だから助けたんじゃない。私たちの研究に付き合ってくれたんです」
最後の方は、声がわずかに震えていた。
「私には、借りがあります」
研究室が静かになった。
収支表にも、契約書にも、作業記録にも出てこない借り。
修司はすぐに「それでも規則です」とは返さなかった。
「分かりました」
開発担当の眉が寄る。
「何がですか」
「私には、その現場が分かっていないということがです」
反論ではなく、事実として認める。
「でしたら、ここで決めるべきではありません」
「……」
「工場へ案内してもらえますか」
開発担当はすぐには返事をしなかった。
それでも、断りもしなかった。
工場へ向かう車内でも、彼女はほとんど口を開かなかった。
同行したのは修司と希美、それに開発担当の三人。ユウカとノアは、必要になれば契約履歴や費用をすぐ確認できるよう遠隔で待機している。
ユウカ自身も同行すると言ったが、開発担当が「会計担当まで来たら、向こうが構えます」と反対した。
その言葉にユウカは明らかに不満そうな顔をしたものの、最終的には「必要な数字はすぐ出すから」とだけ言って引いた。
工場へ着いた時、修司は研究室で聞いていた話の一部を、ようやく身体で理解した。
大規模な最新設備が並ぶ施設ではない。
古い建屋の中に、何度も修繕された配管と加工設備が詰め込まれている。天井は低く、場所によっては人一人が横向きにならなければ通れないほど狭い。機械油と熱を持った金属の匂いが混じり、設備の駆動音が絶えず腹の底へ響いてくる。
奥から出てきたのは、灰色の毛並みと大きな耳を持つ犬系の獣人の男だった。
年季の入った作業着の袖を肘までまくり、太い前腕には細かな油汚れが残っている。首から下げた保護ゴーグルにも無数の小傷があり、長くこの工場で働いてきたことは、その姿だけで分かった。
「お、来たか」
彼は修司たちへ挨拶するより先に、開発担当へ声を掛けた。
「昨日の設定、朝から問題なかったぞ」
「測定値は?」
「安定してる。ほら」
差し出された端末を、彼女は反射的に受け取った。
工場責任者も、彼女がどこを見るのか分かっているのだろう。説明する前から三番配管の記録を開いている。
「ここ、前より少し上がってます」
「やっぱりか?」
「でも前回との差なら誤差範囲かもしれません。次も同じなら見た方がいいです」
「分かった」
二人のやり取りは早かった。
客と販売者というより、長く同じ設備を見てきた者同士の会話に近い。
そこまで話してから、工場責任者はようやく修司と希美へ向き直った。
「すみません。いつもの癖で」
「いえ」
修司は短く頭を下げた。
工場の壁際には、小さな保管棚があった。
そこには焼けた跡のあるセンサーや、表面を深く擦った試作部品、一部が歪んだガイド部品などが残されている。さらに、その上の壁には古い写真が何枚か貼られていた。
今より大きな試作機を抱えた開発担当。
配管の前で作業員としゃがみ込んでいる姿。
誤検知を起こした場所へ赤い印を書き込んだ写真。
説明されなくても、ここで何度も失敗したことが分かる。
工場責任者は修司の視線に気づいたらしい。
「捨てようとは思ったんですけどね。何となく残ってるんですよ」
開発担当が少し不満そうに言う。
「それ、最初のセンサーまで残してるんですか」
「お前が二回壊したやつだろ」
「一回は熱条件を先に言わなかったそっちのせいです」
「だから二回目は教えただろ」
「二回目は別の原因です」
工場責任者が鼻を鳴らす。
そのやり取りだけでも、二人の間に積み重なった時間が見えた。
「で」
彼は修司を見る。
「今日は契約の話ですよね」
声の温度が少し下がる。
「はい」
「通知、来ましたよ」
ミレニアムから送られた契約変更案。
次回更新以降、個別調整は別料金。
継続保守は別契約。
研究協力も別の条件で扱う。
工場責任者は、それ自体を怒鳴りつけるつもりではないらしい。ただ、表情を見れば不満がないわけではないと分かる。
「年間保守は無理です」
「理由を伺っても?」
「この検査機、毎月使うわけじゃないんですよ。大きな点検は半年に一回くらい。そのために一年分の保守費を払えって言われても、うちじゃ予算が通らない」
「なるほど」
「ただね」
工場責任者は開発担当へ一度視線を向けた。
「長く付き合ってきたつもりだったんですけどね」
彼女がわずかに目を伏せる。
「試験の頃は、何回止まっても付き合った。こっちもデータを出したし、使えそうな別の工場も紹介した。それが急に、誰からも説明なしで書面だけ来たでしょう」
「……」
「金を取るなって言いたいわけじゃないんです。何で変わるのかくらい、先に話してほしかった」
希美が静かに尋ねる。
「関係を切られたように感じましたか」
工場責任者は少し考え、短く頷いた。
「まあ……そうですね」
そこで修司は別のことを確かめた。
「昨夜の対応について、費用や作業時間の話はされましたか」
「昨夜?」
工場責任者が首を傾げる。
開発担当の肩がわずかに強張った。
「設定修正の件です」
「ああ。急ぎで困ってるって連絡したら、この子がやってくれた」
「作業時間については?」
「聞いてません」
「三晩対応しています」
工場責任者の表情が止まった。
「……三晩?」
開発担当が口を挟む。
「別に、そんな」
「何時まで?」
声が変わった。
「それは……」
「何時までやった」
大きな工場の騒音の中でも、低い声ははっきり聞こえた。
「昨日は……二時過ぎまで」
「一昨日は?」
彼女は答えない。
工場責任者の顔つきが明らかに変わった。
感謝ではない。
怒っている。
「どうして言わなかった」
「言ったら気にするでしょう」
「当たり前だ!」
近くの作業員が一瞬こちらを見る。
「こっちは無料で働けって言ったのか?」
「でも、保守費払えないって」
「年間保守を断ったんだ! 一円も払わないなんて言ってない!」
開発担当も声を強くした。
「今まで無料だったじゃないですか!」
「試験だったからだろ!」
「その試験に付き合ってくれたから!」
「だからって勝手に徹夜するのか!」
二人の声が、機械音の中でぶつかる。
修司も希美も止めなかった。
「こっちは困ってるって言っただけだ!」
「放っておいたら点検止まってたでしょう!」
「だったら相談しろ!」
「相談したら払えないって!」
「年間では払えないと言ったんだ!」
工場責任者が一歩近づく。
怒鳴ってはいる。
けれど、その表情には威圧よりも、本気で傷ついたような色があった。
「勝手に徹夜して、うちを生徒にただ働きさせる工場にするな」
開発担当の言葉が止まった。
「……そんなつもりじゃ」
「こっちだって、そんなつもりはない」
「でも」
「事情が変わったなら説明してくれ。何なら払えるか、こっちにも考えさせてくれよ」
彼女は反論しようとした。
しかし声が出ず、代わりに脇の工具箱の取っ手を強く握った。
指が白くなる。
義理を守っていたつもりだった。
関係を壊さないためには、自分が負担すればいいと思っていた。
だが、その善意の裏で、工場側がどう負担するかを選ぶ機会まで奪っていた。
「……だって」
開発担当は視線を落とした。
「払えないなら、終わると思ったんです」
工場責任者の声も少しだけ下がる。
「終わらせるかどうかまで、そっちだけで決めるな」
その言葉を聞いて、希美がゆっくり口を開いた。
「私も、似たことをしてました」
開発担当が顔を上げる。
希美は壁際に残された古い試作機を見ながら続けた。
「生徒に研究を諦めてほしくなくて、その子が『延期する』とか『規模を小さくする』って選ぶ前に、私が何とかすると約束してたんです」
「……」
「相手に諦めてほしくないと、その相手が選ぶ前に、自分で背負ってしまうことがあります」
開発担当の指は、まだ工具箱から離れない。
「守りたかったはずなのに、相手が考える余地までなくしてしまうんです」
説教する声ではなかった。
自分自身に向けて話しているようにも聞こえた。
開発担当は反論しなかった。
だからといって、すぐに納得したわけでもない。
ただ。
工具箱を握る力だけが、少し緩んだ。
工場の小さな事務室へ移り、古い契約を改めて確認した。
端末越しに参加したノアが開いた試験運用契約には、期限も更新条件もきちんと残っている。
初期の小型設備検査機は、通常の製品として売れる状態ではなかった。
ミレニアム側は、工場ごとの設備に合わせて個別調整を無償で行う。
その代わり、工場側は実際の設備を試験へ提供し、測定データと現場知識を共有する。
「少なくとも当時の契約は、一方的な無償奉仕ではありません」
ノアが説明する。
工場責任者も頷いた。
「あの頃は、それで納得してました」
「ミレニアム側も、提供いただいたデータから確かな価値を受け取っています。ですから、過去にデータをいただいたことを理由に将来の保守を永久に無償へするのも適切ではありませんし、逆に過去の対応を今から有償だったことにして請求することもできません」
「それは当然です」
工場責任者が答える。
ノアは一度契約履歴を遡り、旧契約の終了条件を確認した。
「問題は、試験協力から通常取引へ移る手順が十分に設計されていなかったことです」
そこはミレニアム側の問題だった。
試験契約が終われば、その瞬間から通常取引。
文面だけなら、それで済む。
けれど、何年も一緒に失敗を重ねてきた相手へ、ある日突然定型文だけを送り、「今日から顧客です」と切り替えれば、関係の側が追いつかない。
修司は開発担当と工場責任者の双方を見た。
「旧試験契約を終えるために、一度だけ移行作業を設けることはできますか」
ノアが考える。
「可能です。ただし、範囲は明確にする必要があります」
過去をやり直すのではない。
未来まで無料にするのでもない。
次回一回分の検査調整だけを移行作業として扱い、誰が何時間対応し、何を変更したかを記録する。
新機能の追加や、工場独自形式の報告書作成は含めない。
その一回で旧試験契約の終了範囲を双方で確認し、それ以降は新しい条件へ切り替える。
「恩返しだから無料」という扱いにはしなかった。
試験から事業へ移る道を用意できなかったミレニアム側の責任を、そこで終わらせるための措置だった。
工場責任者はしばらく考え、大きな耳を少し立てた。
「それなら分かります」
開発担当はまだ納得しきれない顔をしている。
「でも、その後は年間保守ですよね」
工場責任者が彼女を見る。
「だから、それが無理だって言ってる」
「じゃあ結局……」
「だから相談させろって言ってるだろ」
また少し声が強くなる。
修司がそこで尋ねた。
「年間保守でなければ、どの程度なら利用できますか」
工場責任者が修司を見る。
「どの程度?」
「この検査機を、実際にはどれくらいの頻度で使っていますか」
「大きな点検は半年に一度です。異常があれば追加で見ることはありますけど」
「装置そのものを、この工場で所有している必要はありますか」
今度は工場責任者だけでなく、開発担当も修司を見た。
「……どういう意味です?」
「私には分かりません。だから伺っています」
修司は保管棚に置かれた旧型機へ視線を向ける。
半年に一度の検査のために、一台を所有し、年間保守を結び、個別調整を維持する。
それが本当に必要なのか。
工場責任者が腕を組んだ。
「別に、うちに置いておく必要はないですね」
「必要な時に使えれば?」
「それでいい」
開発担当が先に口を開いた。
「……必要な時だけ、持ってくる?」
工場責任者が彼女を見る。
「できるのか?」
彼女はすぐに否定しなかった。
技術条件を頭の中で並べている顔になる。
「実証機はあります。持ち運び前提ですし、標準設定なら保守担当でも……」
そこで、自分の言葉に自分で止まった。
標準設定なら。
自分でなくてもできる。
「でも、現場ごとの差はあります」
「差が大きい時だけ追加で相談するんじゃ駄目なのか?」
工場責任者が尋ねる。
その案は、修司が会議室から持ってきた答えではなかった。
年間保守は払えない。
無料で働かせたいわけでもない。
必要なのは半年に一度。
三つの事実を現場で並べたからこそ、初めて出てきた。
ユウカとノアへ条件を送る。
ミレニアムが所有する実証用検査機を一台使う。
最初は三回分だけ。
月ごとの予約数には上限を設け、輸送費と基本検査費は前払い。
標準設定と基本報告書までは料金へ含めるが、設備固有の追加調整が必要なら、内容を確認して別に見積もる。
原則として開発担当は現場へ同行せず、手順を学んだ保守担当者が標準作業を行う。
技術者への問い合わせ時間にも上限を設け、三回終わった時点で費用、作業時間、利用者にとっての価値を確認し、継続するか再審査する。
ユウカの返答は慎重だった。
『その条件なら、三回分の試験としては見られる。ただし、これだけで黒字事業になるとは扱わないから』
「はい」
修司が答える。
『資金見通しも二十三日のままよ。輸送と人件費に使ったら、全体を動かすほど残らない』
「承知しています」
工場責任者はそこまで聞いてから頷いた。
「一回ごとの検査費なら、うちも予算へ入れられます」
開発担当が思わず聞き返す。
「払えるんですか」
工場責任者が少し呆れたように眉を上げる。
「最初からそれを聞けって言ってるんだ」
彼女は何も返さなかった。
それでも今度は視線を逸らさず、工場責任者の顔を見ていた。
ミレニアムへ戻ったあと、ノアは今回の件を一つの顧客トラブルとして閉じなかった。
契約変更そのものは必要だった。
無期限に続く個別対応を整理したことも間違ってはいない。
ただ、長い試験協力で築かれた関係に対し、定型的な書面だけを送れば、数字の上では正しい変更でも、現場では「切られた」と受け取られることがある。
そこで既存顧客の条件を大きく変える前には、過去にどのような試験協力があったか、誰が直接説明するか、移行期間が必要か、契約終了後にも安全上・保守上の義務が残るかを確認する項目が追加された。
さらに、開発担当が最後まで譲らなかったことが一つあった。
「本部が決めた後に、現場で『これ、おかしい』って分かったらどうするんですか」
修司は逆に尋ねた。
「今までは、どうしていましたか」
彼女は少し気まずそうに視線を逸らす。
「……今回みたいに、自分で何とかしてました」
「ほかに方法は?」
「言っても、『もう決まったから』って」
ユウカが苦い顔をする。
「それは変えた方がいいわね」
現場から本部へ、正式に判断を戻せる経路を作ることになった。
ただし、「気に入らない」という感情だけを投げる仕組みにはしない。
その方針を適用すると何が起きるのか。誰に影響が出るのか。いつまでに判断が必要なのか。現場で既に確認できている事実は何か。
そこまでを書けば、解決案まで現場が持っていなくても、本部側は確認し、回答する。
「答えまで作れって言われないんですか」
開発担当が尋ねる。
修司は首を横へ振った。
「問題を見つけた方が、解決策まで一人で持つ必要はありません」
ユウカが続ける。
「その代わり、異議を出さずに隠れて働くのは禁止」
開発担当が露骨に顔をしかめた。
「そこは絶対なんですね」
「絶対」
返事は即答だった。
「記録があれば、止めることも、続けることも、誰かへ渡すこともできる。でも消されたら何もできない」
開発担当はしばらく黙り、やがて渋々という顔で頷いた。
「……分かりました」
納得した、とは言わなかった。
それでよかった。
共同利用の最初の検査は、それから数日後に決まった。
開発担当は当然のように予定表へ自分の名前を入れようとした。
「何してるの」
ユウカに見つかった。
「最初なので同行します」
「しない」
「何でですか」
「標準手順で保守担当ができるかを見る試験でしょ」
「でも、あの工場の配管は癖があります」
「その癖を手順にしたんじゃないの?」
「全部は無理です」
「じゃあ、何か起きた時だけ問い合わせを受ける」
「最初くらい行った方が」
「行かない」
「ユウカさん」
「あなたが行かないと成立しないなら、この試験の意味がないでしょう」
開発担当は露骨に不満そうな顔をした。
修司は横から口を挟まなかった。
彼女自身が、その意味を一番分かっている。
だからこそ嫌なのだろう。
当日。
開発担当は研究室に残った。
新型センサーの設計端末を開いている。
だが作業開始から十分もしないうちに、横へ置いた連絡端末へ視線が行った。
通知はない。
設計へ戻る。
数分後。
また見る。
やはり何もない。
「気になる?」
研究班の生徒が笑う。
「別に」
「さっきから五回見てる」
「時間確認してるだけ」
「時計こっちにもあるけど」
開発担当は無言で端末を伏せた。
一方、工場では、訓練を受けた保守担当の生徒が実証用検査機を準備していた。
標準設定、センサー表面の状態、配管径、測定位置を点検表に沿って一つずつ確認する。
工場責任者も、以前のように開発担当の名前を呼ばない。
「ここから入れる」
「はい。前回の測定位置は、この三点で合っていますか」
「合ってる」
検査機が古い配管の内部へ入っていく。
狭い管内。
内壁についた汚れ。
継ぎ目。
小さな照明が凹凸へ細い影を落とし、測定値が端末へ送られてくる。
最初の一点は問題なし。
二点目で、数値がわずかに揺れた。
保守担当の生徒の手が止まる。
工場責任者も画面を見る。
「前と違う?」
「少し不安定です」
研究室では、開発担当の端末に通知は来ていない。
彼女は新型センサーの補正値を入力していたが、一度だけ指が止まり、伏せていた連絡端末を見た。
工場では、保守担当が手順書を開いている。
異常値が連続しない場合は、センサー接触面の状態を確認し、汚れを除去して再測定する。
「一度戻します」
「大丈夫か?」
「確認します」
検査機を引き戻す。
センサー表面には薄い油汚れが付着していた。
清掃し、もう一度同じ場所へ入れる。
今度は数値が安定した。
「これなら前回と比較できます」
工場責任者が画面を覗き込む。
「変わってない?」
「今の範囲では、経過観察のままで大丈夫です」
「分かった」
緊急連絡は飛ばなかった。
研究室でも、開発担当の端末は鳴らない。
彼女は何度目かに連絡端末を見たあと、ようやく手を設計画面へ戻した。
今度は、少し長く。
高温環境用の新型センサー。
三日前から止まっていた補正モデルへ、新しい線が一本追加される。
数値。
条件。
試験予定。
設計記録の更新時刻が変わった。
工場では、保守担当が基本報告書を作成していた。
以前なら、工場独自の形式へ合わせるために開発担当が夜中に修正していた報告書。
今回は標準書式だった。
工場責任者は一通り目を通す。
「これで十分だよ」
その一言で終わる。
輸送費。
基本検査費。
保守担当の作業時間。
すべて記録されていた。
料金は、それらに充てられる。
わずかな残額は生じたが、ミレニアム全体の資金見通しを動かすほどの額ではない。
二十三日。
表示はそのままだった。
けれど、記録にない労働は一時間も発生していなかった。
すべての顧客が、新しい形で関係を続けたわけではなかった。
同じ小型設備検査機を使っていた別の一社からは、契約終了の連絡が届いた。
一回ごとの検査費でも予算に合わない。
今後は別の方法を使う。
そういう判断だった。
希美は支援を申し出なかった。
開発担当も、無料で続けるとは言わなかった。
代わりに、これまでの測定データを整理して返却し、安全に使用を終了するための手順を送り、残っている保守義務だけを確認した。
最後の連絡は短かった。
『これまでありがとうございました』
開発担当はしばらくその画面を見ていたが、削除せず、終了記録へ移した。
失う関係はあった。
それでも、その喪失を自分の夜で隠すことはしなかった。
十日間の暫定措置が終わる日。
会議室には、最初の頃より少ない人数しか集まっていなかった。
すべてを中央で確認する必要がなくなったからだ。
技術判断。
会計。
契約。
事業。
利用者価値。
試験運用の間に分けられた判断は、それぞれの担当側へ戻っている。
ノアが運用記録を確認しながら、暫定表示を一つずつ外していく。
希美が尋ねた。
「これで全部、通常運用ですか?」
ユウカは首を横へ振る。
「前の通常には戻さない」
「今回有効だった確認手順は、それぞれの担当部署で引き継ぎます」
ノアが記録を確定する。
修司の名前が、恒久的な承認欄へ追加されることはなかった。
何かあるたび修司が許可しなければ動かない体制にすれば、それは新しい一人へ判断を集めただけになる。
最後に正式運用へ加わったのは、「現場異議」の経路だった。
方針を現場へ適用した時に何が起きるか。
誰に影響が出るか。
いつまでに判断が必要か。
現場で確認した事実は何か。
それを書けば、「すでに決定済みだから」という理由だけでは退けない。
一方で現場側も、異議を出さずに自分の無償労働で穴を埋めることはしない。
開発担当はその項目を見て、少しだけ眉を寄せた。
「これ、毎回書くの面倒ですね」
ユウカが即答する。
「徹夜するよりマシでしょ」
「それは……まあ」
「記録は?」
「します」
「本当に?」
「しますって」
希美が笑いそうになり、口元を押さえた。
壁面の資金見通しは二十三日のまま。
今回の件で、大金が入ったわけではない。
資金危機が消えたわけでもない。
それでも、本部で決まったことが、現場の誰か一人の帳簿外労働へ変換され、そのまま見えなくなる道は一つ塞がれた。
夕方。
研究室の端末に、共同利用サービス第一回目の基本報告書が届いた。
開発担当は設計画面を閉じず、横へ並べて開く。
測定結果。
作業時間。
保守担当者。
輸送費。
基本検査費。
追加作業、なし。
緊急問い合わせ、なし。
一番下に、工場責任者から短い追記があった。
『次も必要になったら、今度は先に相談する。』
その下に、少し間を空けてもう一文。
『そっちも勝手に徹夜するな。』
開発担当はしばらく画面を見ていた。
笑うでもなく、泣くでもない。
ただ、小さく息を吐く。
隣には新型センサーの設計図が開いたままになっている。
工場では今頃、保守担当が持ち帰るために検査機をケースへ収めているはずだ。
古い配管の検査は終わった。
研究室では、次のセンサー設計が進んでいる。
どちらも止まっていない。
開発担当は作業記録を開いた。
以前なら、工場対応へ使った夜の時間を何も書かずに消していた。
今日は違う。
『新型センサー補正設計』
開始時刻。
終了時刻。
自分の名前。
一つずつ入力し、保存する。
記録欄を閉じずに、そのまま次の作業を開いた。
数字になっていなかった借りは、もう彼女一人の夜で返すものではなかった。
ミレニアムが受け取ったものを、今度はミレニアムそのものが返し始めていた。