Persona x Classroom of the Elite 作:仔羊肉
「人間は平等であるか否か」
そんな、およそ実用性のない使い古された命題が、突如として脳裏に浮かんだ。
もし仮に、世の教育者や政治家たちが口を揃えて叫ぶ「人間はすべて平等である」という言葉が真実なのだとすれば、それはさぞ素晴らしいことなのだろう。どんなに劣悪な環境に生まれようと、どんなに能力が欠落していようと、すべての人間が同じ権利と幸福を享受できるのだとしたら、これほど完成されたユートピアはない。学校の道徳の教科書には、決まってそうした美しい理想論が綺麗に並べられている。
だが、そんなものはただの欺瞞であり、現実から目を背けるための甘美な麻薬に過ぎない。
生まれた瞬間から、人間には明確な落差が存在している。知性、肉体、容姿、そして環境。それらの初期値が不平等に割り振られているからこそ、世界は競争という歯車によって駆動しているのだ。不平等を認め、その上でどう立ち回るか。それこそが、この過酷な物質界における唯一の生存戦略のはずだった。
オレ――綾小路清隆は、揺れる路線バスの最後列、その窓際の席に深く腰掛けながら、ガラス窓に映る自分の顔を無感情に見つめていた。
四月。新しい季節の始まりを告げるように、窓の外では桜のピンク色が過剰なほどに舞い散っている。近代的な高層ビルが立ち並ぶ都市の幹線道路を走行する大型バスの車内は、独特の、少し息苦しい空気に満ちていた。
国が総力を挙げて設立したという、進学率・就職率100%を誇る全寮制の名門校、高度育成高等学校。そこへ向かうこのバスの車内には、当然ながらオレと同じ新品の制服に身を包んだ新入生たちの姿が多く見られた。彼らは皆、これから始まる未知の学園生活、あるいは国が保証してくれるという輝かしい未来への期待からか、心なしか頬を紅潮させ、硬い生地の襟元を気にするように落ち着きなく身悶えしているかのように見える。
勿論、この車内にいるのは学生たちだけではない。朝の通勤ラッシュのピークを少し過ぎた時間帯とはいえ、日常の営みを続ける一般の乗客たちもそこには混在していた。昨晩の残業の疲れを隠そうともせず、吊り革に掴まったまま眠そうに目を瞑っている中年サラリーマン。買い物袋を下げ、所在なさげに外を眺めている主婦。そうした日常の泥臭さを纏った一般客たちと、謳い文句の通りならば未来の特権階級を約束された新入生たちが、狭い車内で不自然にひしめき合っている。
オレは、その様子をただの「背景」として眺めていた。最後列付近の窓際という座席は、車内全体をパノラマのように見渡すにはこれ以上ない特等席だ。誰の視線も浴びることなく、ただ一方的に他者を観測できる。
あの息の詰まるような、すべてが白で統一された規格化された部屋からようやく這い出したオレにとって、この退屈で、無個性な群衆に埋没することこそが、絶対の至上命題だった。
誰にも干渉されず、誰の注目も浴びず、ただ平均値の人間として3年間を消化する。そのための「普通の高校生」という仮面を、オレは完璧に被り続けなければならない。
そのためには、普通の高校生というものを学習しなければならない。 落ち着きなくそわそわしている姿やしきりに前髪を気にする姿というのも非常に有意義なサンプルのひとつなのだ。
――だが、そんな平凡とは異なる摩擦が車内前方で発生した。
バスが停留所に止まり、数人の乗客が乗り込んでくる。その最後に、一人の老婆が、おぼつかない足取りでステップを上がってきたのだ。背中を丸め、細い手で必死につり革を掴もうとするが、バスが再び発車した際の微かな衝撃に、その身体が小さくよろめく。
周囲の乗客たちは一瞬、その老婆に視線を向けたものの、すぐに何事もなかったかのように自分のスマートフォンの画面へと意識を戻した。誰もが「自分の義務ではない」と考え、あるいは「誰か他の人間が席を譲るだろう」と責任を分散させている。典型的な集団心理の防壁。
だが、その不可視の防壁を、強い正義感の刃で切り裂く者がいた。車内中央付近に立っていた、一人のOL風の女性。彼女は周囲の冷淡な空気に耐えかねたように眉をひそめると、優先席へと真っ直ぐに視線を向け、毅然とした声を張り上げた。
「ちょっと、あなた。その席、そこのお婆さんに譲りなさいよ」
その鋭い声音に、車内の空気がピきりと張り詰める。何人かの学生がびくりと肩を揺らし、眠っていたサラリーマンが薄らと目を開けた。
OLの声先が向けられていたのは、優先席にこれ以上ないほど傲慢な態度でふんぞり返っている一人の男だった。男は、オレと同じ学校の制服を着ている。しかし、その着こなしも佇まいも、他の新入生とは一線を画していた。
鍛え上げられた大腿四頭筋を誇示するように大きく足を組み、手にした小さな手鏡で、自身の美しい金髪をうっとりと弄んでいる。その唯我独尊を絵に描いたような男は、OLからの非難の言葉を浴びてもなお、鏡から視線を外すことなく、くくくと喉の奥で不敵な笑声を漏らした。
「フッ……実につまらない、そして退屈な提案だね」
その金髪の男は、ようやく手鏡をブレザーのポケットへと滑り込ませると、つやつやとした金髪を一本の指で軽く跳ね上げた。その顔には、罪悪感や動揺など微塵も存在しない。むしろ、自分に話しかけてきたOLの愚かしさを心底楽しんでいるかのような、圧倒的な余裕が張り付いていた。
「席を譲る? なぜこの私が、そんな生産性のない行為に身をやつさなければならないのかね? 理由を説明してほしいものだ」
「理由って……そこにお婆さんが立っているでしょう!? あなたみたいな若くて元気な学生が、優先席に座って知らんぷりするなんて、人としてどうなのって言ってるのよ!」
OLの言葉には、世間一般における「正義」と「道徳」の重みが乗っていた。周囲の乗客たちからもその金髪の男を責め立てるような微かな囁き声が漏れ始める。
だが、その男の精神構造には、そうした社会通念の包囲網など最初から一切通用しなかった。
「ノン、ノン。論理的ではないね。お嬢さん、優先席とはあくまで『優先されるべき席』であって、譲ることを法的に強制された席ではない。つまり、この私がここに座り続けるか、あるいはそこの老人に席を明け渡すかは、私自身の自由意思に完全に委ねられているわけだ」
男は自身の逞しい胸板を手の平で叩き、朗々と弁論を続ける。
「それに私はね、これから始まる輝かしい新生活に向けて、自らのコンディションを常に完璧なパーフェクトッに整えておく必要がある。若くて元気? 確かにその通り、私は誰よりも健康的で美しい! だが、だからこそ、私の肉体と時間をそんな無益な施しのために消費する利点が、私の人生のどこに存在するのかね? 私が座っているのは私の権利。そこに善悪の天秤を持ち込むこと自体が、ナンセンスの極みさ。フハハハハ!」
あまりにも強固で、一切のブレがない利己主義の吐露。その傲慢な正論(あるいは極論)の暴力を前にして、声を上げたOLは顔を真っ赤に染めあげる。正義の味方を気取ったつもりが、完膚なきまでに論理の面で叩き潰されたのだ。車内には、先ほどよりもさらに重苦しく、気まずい沈黙が充満していく。
オレは、その様子を最後列から、ただの冷めた劇の一部として眺めていた。
男の言っていることは、社会的には最悪の部類に入るが、純粋な論理としては間違っていない。人間は損得で動く生き物だ。自分が席を立つという労働に見合うだけの対価を必要としない人種にとって、席を譲る行為はただの損失でしかない。
ふと、オレの隣に座る一人の少女に目が留まった。
黒髪を美しくなびかせ、背筋をピンと伸ばした、どこか人を寄せ付けない冷徹なオーラを纏った少女だった。彼女は、車内前方で起きている押し問答に対して、最初から一瞥をくれただけだった。その瞳には、金髪の男への嫌悪も、老婆への同情も、OLへの共感もない。
ただ「自分の領域に、これ以上不快なノイズを入れないでほしい」という、徹底された冷淡な拒絶の壁だけが存在した。彼女が何者なのか、どんな名前なのかすらも知らない。ただ、その徹底的な孤高の姿勢だけが印象に残った。
だが、物語はまだ終わらない。OLが引き下がったその盤面に、新たなプレイヤーが参戦した。
「あの、すみません……! そこの彼が言うことも一理あるかもしれません」
今度は、同じ学校の制服を着た別の女子生徒だった。短めの髪を揺らし、愛らしい顔立ちに必死の善意を浮かべた、ショートカットの少女。彼女は金髪の男に直接ぶつかるのではなく、一歩引いて、車内全体を見渡しながら可憐な声を響かせた。オレはこの少女の名前も知らない。
「でも、誰か他に、このお婆さんに席を譲ってあげられる優しい方はいませんか? 優先席じゃなくても構いません。もしよかったら、お願いします……!」
彼女のアプローチは、極めて巧妙だった。金髪の男という「絶対に折れない個」をターゲットから外し、車内全体という「同調圧力の群衆」へと正義の矛先を向け直したのだ。
これによって、車内の「譲らない人間=優しくない人間」という無言のレッテル貼りが強化される。周囲の乗客たちが、気まずそうに目を逸らす速度が一段と早くなった。
正義の押し付け合いと、そこから逃れようとする欺瞞の防壁。
オレはそれらの有象無象の心理戦から、最も遠い場所で静観を決め込んでいた。そもそもオレが譲ろうにも窓際で隣は既に埋まっている――その物語が結末を迎える前に。
キィィィィィィィィィィィィィィィィン、と。
脳髄を、極細の氷の針で直接突き刺されたかのような、不自然極まりない高周波の電子ノイズが、鼓膜の最奥で突如として爆発した。
「……っ!?」
あまりの激痛と不快感に、オレの手が自然と右のこめかみを押さえる。だが、それは物理的な空気の振動ではないことに気づいた。
心臓が、まるでオレの統制を離れた別の恐るべき生き物になったかのように、ドクン、ドクンと、不気味な重低音のテンポで狂ったように拍動を刻み始める。冷や汗が、一瞬にして背中を伝って流れ落ちる。
次の瞬間――バスのすべての駆動音が、世界から完全に消失した。
「……これは」
こめかみの激痛が引くと同時に、オレの視界は、すでにオレの知る「現実のルール」が一切通用しない異常な空間へと変貌を遂げていた。
異変は、一目で分かる。
バスの窓の外を、滑らかに後方へと流れていたはずの並木道や、ガラス張りの高層ビル群の景色が、まるで映像を一時停止したかのようにぴたりと停止している。風に舞っていたはずの桜の花びらまでもが、空中でその奇跡的な軌道のまま、不自然に静止していた。
それだけではない。
車内前方で老婆のために頭を下げ、今まさに次の善意の言葉を紡ごうとしていたショートボブの少女の口の形も、手鏡をポケットに仕舞い終えた金髪の男の指先の角度も、押し潰されそうな沈黙を守っていたサラリーマンや主婦たちの瞬きすらもが、セピア色の静止画のように完全に凍りついている。
世界から、時間の概念そのものが切り離されていた。
いや、切り離されていないものが、この密室の中に確実に存在していた。どこからともなく湧き出し、床を、壁を、天井を浸食していく、深く、深く吸い込まれるような青色の光。
バスのチープな無機質のプラスチックシートや、手垢に汚れた吊り革、灰色の床が、まるで最初からそうであったかのように青い壁へと変貌していく。その物理的な構造を急速に書き換えていく光は俺が瞬きをした瞬間に完全に変貌していた。
気づけば、オレが座っていた最後列の座席の前には、現実には存在するはずのない、重厚なマホガニーの一枚板で造られた長机が設置されていた。
そして、その長机の向こう側。本来ならバスを超えて道路にまで出てそうな位置の空間に、二人の人物が居た。まるで最初からそこにいたかのように。
「ようこそ。我がベルベットルームへ……」
声をかけてきたのは、その長机の向こう正面に座る、異様に長い鼻とギョロリとした眼光が特徴的な老翁だった。
その風貌はどこか浮世離れしている。
「私はこの領域の主、イゴールと申します。おや……今回はまた、なんとも不思議な鍵を心に秘めたお客様がお見えになったようですな」
そして、そのイゴールのすぐ傍ら。
ネイビーのドクターコートにピンクのスクラブを完璧に着こなし、一本の乱れもなく髪を後ろでまとめ上げた、知的な雰囲気を纏う人物が静かに佇んでいた。その手に握られているのは、バインダーのようなもの。その姿はまさに医者、もしくは研究者といった風体。
「当施設において『研究主任』を務めてる、ヴィクトリア。よろしく」
ヴィクトリアと名乗ったその人物は、オレをじっと検分するように見つめた。その眼差しは冷酷な実験者のソレだった。オレは努めて冷静に、感情の起伏を排除した聲音で問いかける。
「……綾小路清隆。ここは一体」
「ここは夢と現実、精神と物質の狭間にある調停の領域。ですが、それがどういった場所か、ここで私共が何を目指しているか、それを今この場で事細かに明かす必要はないでしょう」
イゴールは穏やか声で、細く長い指を机の上で組んだ。
「現在の貴方は、未だ自らの大いなる力を必要としていない様子……故に契約を交わすには至っておらず、本格的な資格を得る前の段階にあります」
「なら、なぜオレはここに……」
「ええ。貴方が何者であるか、現段階では私共にもまだその全容は分かり得ません。しかし、貴方の魂の器には、万物の群像をその身に内包し、多くの絆を紡ぎ得る特別な素養――『ワイルド』の素質が確かに見受けられる。だからこそ、この部屋は貴方をこうして招き入れたのですよ」
今回はあくまで、ただの顔合わせに過ぎない――そう告げるように、研究主任のヴィクトリアがバインダーの上に置いていた一枚のオブジェクトを、長机の上へと滑らせてきた。
それは、鈍い銀色の輝きを放つ、ポリカーボネートとチタンの合金で造られたかのようなカードキーだった。表面には、何も描かれていない空白のグリッド模様が静かに刻まれている。
「これは差し詰め、貴方が将来的に自らの『所有物(パーツ)』を管理するための鍵」
イゴールが穏やかな眼光のまま、ゆっくりと首を縦に振った。
「間もなく、物質界のゲートが開きます。新たな生活の始まりですな。ですが、私共は人間の精神の可能性を、何よりも愛し、祝福する調停者。貴方がその特別な素質をもって、世界とどう向き合い、どのような魂の輝きを見せてくれるのか……私は特等席で見守らせていただくことにしましょう。……さあ、時間が来たようです」
ヴィクトリアが小さく指を鳴らす。
次の瞬間、天井から滝のように降り注いだ圧倒的な白光が、オレの視界を文字通り真っ白に塗り潰した。
「あ、あの、どうぞ……」
弾かれたように目を開けると、鼓膜に飛び込んできたのは、先ほどのバス内部で起こっていた出来事の『続き』だ。
窓の外の景色は、何事もなかったかのように滑らかに後方へと流れており、車内の問題はすぐさま解決に至ったようだ
オレは即座に自分の記憶と照らし合わせてバス外部の風景を見る。流れて消えたパン屋はベルベットルームと呼ばれた場所へ入る直前に見かけたものと同一であった。
あのベルベットルームと名乗る奇妙な空間で、オレは確かに数分間の会話を交わしたはずだった。だが、現実の時間は進んでいない。オレの意識だけが時間の概念が異なる空間に引きずり込まれていたのだ。
(ただの奇妙な脳内の錯覚……とするにはあまりにも現実感が強い。だが、何が起きたのか判断するには余りにも得体が知れ無さすぎる)
胸の奥底で静かに燻る熱のような違和感を、思考の棚へ置き、一時的に保留することにした。ポケットの中に手を伸ばしたが、あの鈍く銀色に光るカードキーの感触はどこにもない。
やがてバスはアナウンスと共に、高度育成高等学校の敷地前へと滑り込んだ。
排気音と共に扉が開き、生徒たちが雪崩のように吐き出されていく。オレは最後列から、彼らの波に巻き込まれないよう一歩遅れてステップを降りた。
校門の前には、洗練された近代的な校舎がそびえ立っている。オレは先ほどの光景に現実的な納得を覚えてないまま、校舎へ向かって足を進めた。
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東京都高度育成学校。日本政府が作り上げた、未来を支えていく若者を育成することを目的とした学校だ。進学率就職率は共に一〇〇パーセントを謳っている。国の威信をかけて作られた学校はその徹底した教育をもとに希望した未来に全力で応えるといわれていた。
その学校で執り行われた新入生入学式は恙なく終わり、オレは配属された一年Dクラスへと足を踏み入れた。さっさと自分の席を見つけては腰をかけると同時に先に座っていた隣の女子生徒のことに気づく。長い黒髪に美人と称してもおかしくない容姿はまっすぐに手元の本に向かっている。
「……何」
不機嫌そうな声で視線を咎める詰問を投げかけられた。一ミクロンほどの愛想も無い様子に気軽に自己紹介をする気勢を削がれる。
「いや、さっきバスで隣の席だったな、と思って」
オレは他のクラスメート同様に群れを作る準備を始める。あちこちと既に塊ができており、この入学直後というビックウェーブに乗らなければ最初の人間関係もままならない可能性がある。
もしもコミュニケーションという試験やテストがあったのならば今のオレでは赤点まっしぐら。その回避を紡ぐべく早めに友達は作っておきたい。
その手始めに近くの席の人間を、と考えいたオレは如何に甘い考えだったのか思い知らされた。それでも、と一縷の望みを賭けて声をかけてみたが。
「嫌な偶然ね。あなたストーカー?」
失敗だったかもしれない。不快とばかりの表情を浮かべては「もう話しかけないでちょうだい」と本の続きに戻ってしまう。
困ってしまった。今のオレにとっては隣くらいしか会話の糸口が存在しない。前の席はなぜか空いていて、立って誰かを探すほどの勇気も持ち合わせていない。
そして俺は諦めるか、とシンプルに考えることにした。朝の出来事も相まって今は解決できない問題は無理に行動しないことにする方針に固めた。本来ならば無理矢理にでも模倣した高校生像を使って挑戦していたかもしれない
バスに乗る前のオレならばもう少し試行錯誤しただろうが、むしろ朝の出来事は俺の今後の学生生活を送るうえでのスタンスを決める一因になった。
どうにもヴィクトリアというあの研究主任を名乗る女を見てから気勢を削がれている。
事なかれ主義。
無理をすれば淀みが起き、出来ないことをしようとすれば無理が生じる。無理にでも友達を作ろうと逸っていた心は完全に干からびていた。
「みんな、ちょっといいかな?」
その時、前方の席で声が挙がる。そこには如何にも好青年といった風貌の男子生徒が立っていた。
「先生もまだ来ないみたいだし、今からみんなで自己紹介をやって一日でも早く友達になれたらって思うんだ。みんな、どうかな?」
その爽やかな提案に「さんせーい」「お互いの名前もまだ知らないしいいんじゃない?」と声が挙がる。
オレはその光景を眺めながら提案した男子生徒を崇める。完全にしなびていたなけなしの勇気がムクムクと起き上がってくる。
ありがとう。まだ名前も知らない人よ、本当にありがとう。爽やかな男子生徒を拝みつつ、オレは友人作りのために万全を期す。
このビッグウェーブに乗るしかない。その為には他の人間の自己紹介を学習しなければ。
「ありがとう。ぼくの名前は平田洋介。趣味はスポーツ全般。この学校ではサッカー部に入る予定だよ。みんな、よろしく」
爽やかさしかない挨拶に彼の近くにいた女子生徒がうっとりしている。気持ちはわかる。そうか、平田というのか……とりあえず、今回の出来事が上手く行き、友達ができたなら平田を崇めよう。
「じゃあ、次はわたしっ!」
溌剌とした声が教室内で響く。今度はうってかわって男子生徒がうっとりと声の主に見惚れている。
「櫛田桔梗です! この学校でもみんなと友達になりたいなって思ってます。たくさん思い出を作りたいのでどんどん遊びに誘ってもらえると嬉しいです、みなさん、よろしくお願いします!」
彼女がそう締めくくると、教室内には「よろしくー!」と快活な返事が飛び交った。完璧だ。完璧な自己紹介だった。嫌味のない明るさと、誰にでも受け入れられる親しみやすさ。オレは心の中でスタンディングオベーションを送る。これが、この学校で生き抜くための正解の一つだろう。男子からの人気も凄そうだ。
「ありがとう。次はどうかな?」
平田が柔らかな笑みを浮かべて視線を巡らせる。彼の視線の先にいたのは、少しおどおどとした様子で、自分の席から動けずにいた女子生徒だった。彼女は急に振られたことに戸惑い、肩をびくりと震わせる。
「あ、えと……わたし……?」
周囲の視線が一気に集まり、彼女の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。緊張のあまり言葉が詰まり、沈黙が教室を支配し始める。早くも失敗か、という空気が漂いかけたその時、平田がすかさずフォローを入れた。
「大丈夫だよ。ゆっくりでいいから」
平田の落ち着いた声色が、彼女の緊張を少しだけ和らげたように見えた。彼はただ促すだけではなく、さりげなく彼女の隣の席の生徒たちに視線を向け、穏やかな空気を醸成する。その場にいた誰もが彼女の言葉を待つという、優しい空気の誘導だった。
「あ、……井ノ頭こころ、です。趣味は、その……裁縫で。あの、あまり慣れてないから……迷惑かけちゃうかもしれないけど、仲良くしてくれたら嬉しいです……っ」
最後にはなんとか言い切った彼女に、クラスの面々からは温かい拍手が送られた。櫛田も隣で「こころちゃんって言うんだ! よろしくね」と笑顔を向けている。成功だ。平田のサポート、そしてそれを受け入れたクラスの連帯。
なるほど、そうか……乗るしかないな、この流れに。
その後、池寛治や山内春樹といったタイプのお調子者たちが、自ら「彼女募集中」と宣言したり、ウケ狙いなのかそれとも見栄かわからない自己紹介を披露したりして、教室は和気藹々とした空気に包まれていく。ビッグウェーブは最高潮に達していた。
そして――。ついに、オレの番が回ってきた。
「次は……そこの席の君、お願いしてもいいかな?」
平田の視線が、真っ直ぐにオレを射抜く。
――来た。ここだ。今までの成功例を脳内で反芻し、模倣する。今後の学校生活を考えればここで気張るのも悪くない。少し、本気というものを見せてやるか。
「あ、えーと……綾小路、清隆です。得意なことは……えー、特に、ありませんが。えーっと、あー、仲良くなれるよう頑張ります……」
言葉は喉に引っかかり、滑らかさは皆無。挙動不審に視線が泳ぎ、最後には語尾が霧散する。
教室が一瞬だけ、静まり返った。終わったあとに一拍の間を置いてまばらな拍手がパラパラと遅れてやってくる。
……やってしまった。完全に失敗。冷ややかな空気が背筋を撫でる。隣の席のやつなんて声を出さずに口元だけ嗤っている。
「うん、よろしく! 綾小路くん! それじゃあ――」
井ノ頭の時と同じように平田がきっちりとフォローしてくれた。だが、おかしい。彼女の時とは違い、ちっとも温かな雰囲気は流れていない。
その冷えた空気を打ち破ったのは、教室内で一際異彩を放っていた一人の男子生徒だった。
「なにが自己紹介だ」
ガタッ、と机が激しく鳴る。教室の後方で机を蹴って否を唱えたのは大柄で目つきの鋭い男子生徒だった。
「ガキじゃねんだから、お前らだけでやってろ。いちいち名前だの趣味だの、馴れ合って何が楽しいんだよ」
場が一気に凍りつく。浮かれていたクラスの空気が、彼の一言で一瞬にして冷水に浸されたような不穏なものへと変わった。
……むしろあいつのおかげでオレの自己紹介が無かったようなものに。冷え冷えとした空気に緊張感がさらに増して痛々しい空気が生み出される。
その時だった。
廊下から、規律正しいヒールの音が響いてくる。教室内がピリリと引き締まったその瞬間、教室の扉が勢いよく開け放たれた。そこに立っていたのは、長く艶やかな黒髪をなびかせた女性。彼女は教卓の前に立つと、真っ直ぐに教室内を見渡し、短く告げた。
「全員、席に就け」
その声には、有無を言わせぬ重みがあった。生徒たちが慌てて自分の席に戻る。彼女は教壇に書類を置くと、無造作に生徒たちへ視線を向けた。
「担任の茶柱佐枝だ。今から学校の資料を回す、後ろへ回せ」
指示通りにプリントが配られていく。手元に回ってきたその資料はそれなりの量がある。
「この学校の校則について説明する。まず、卒業までの三年間、生徒が外部と連絡を取ることや、接触することは制限されている。この高度育成高等学校は全寮制だ。例外なく、すべての生徒は敷地内での生活となる」
教室がどよめく。しかし先生は構わず続けた。
「この敷地内にはあらゆる施設が整っている。生活に必要なものは、すべてこの学校内で賄えるということだ。勿論、娯楽もな」
「どうやって買い物をすればいいんですか?」
誰かが発した素朴な疑問。
「全員、入学と同時に支給された学生証端末があるだろう。この学校では、あらゆるものをポイントで売買する。一ポイント一円の価値だ。ポイントは毎月一日に配布される。入学したお前たちには、既に十万ポイントが支給されている」
十万ポイント。十万円。
その瞬間、教室内はまるで爆発したかのように湧き立った。
「十万……? マジかよ!」
「最高じゃん! これなら何でも買えるよ!」
歓声が上がり、生徒たちの顔から先ほどの不穏な空気が消し飛ぶ。だが、オレは静かにその熱狂を眺めていた。その喜びようから考えれば一般的な高校生にとっては大金なのかもしれないと判断しておく。
「支給額に驚いたか? この学校は実力で価値が決まる。入学した今のお前たちには、それだけの価値があるということだ」
先生の言葉は、ただの事実の羅列のように響いた。しかし、その瞳の奥には、何かを品定めするような冷たい光が宿っている。
オレはただ、その光景を背景の一部として観測する。まだわからないことだらけで判断を下せない。
未知に惹かれるこの感情に鎖で縛り付けるよう息をする。オレが目指すのは普通の高校生。で、あるならばあの品定めの視線から逃れるために他の奴ら同様、十万円に浮かれておくとしよう。
「……わーい、十万だー」
「あなた、隣の席で感情の籠もってない不気味な芝居やめてくれない? さっきの自己紹介も含めて言わせて貰えなら、今後なるべく喋らないで貰えると助かるのだけれど」
冷ややかな声が、耳元で響いた。心底不快だったらしく眉根を潜めている。オレは平静を装いながら、小さく肩をすくめる。
「ああ、悪かった。これからは静かにしている」
「ならいいわ」
彼女はそう言い放つと、再び手元の資料へと視線を落とした。本当にこれ以上の会話を拒絶するような、徹底した冷淡さだった。
先生が教室を去った途端、教室内はせきを切ったように「十万ポイント」の熱狂に包まれた。男子も女子も早速その大金をどう使うかで声を弾ませ、クラスのあちこちで遊びの計画が乱立し始めている。
そんな騒がしいクラスの連中を完全に無視して、隣の黒髪の少女は、手際よく鞄をまとめると、誰とも目を合わせずに一人で教室を出ていった。
オレもまた、楽しげな群れに加わる度胸も起きず、一歩遅れて席を立つ。
朝、あの『ベルベットルーム』という奇妙な精神世界で、ヴィクトリアという冷酷な研究主任の顔を見てから、オレの心はどうにも冷え切っていた。
あの現実離れした出来事は何だったのか。この学校と何か関係あるのか。それすらも未だわからない。
ただ、あの冷徹な空間の記憶が、この一見すれば天国のような風景に対して、どこか割り切れない不気味さを投げかけている。
しかしながら、新生活である。相応の準備も必要だろう。買い物というものやってみるとしよう。
そう考えたオレは、色々と見て回り、最後はコンビニへと一人で足を向けた。
「マジで何でも買えるじゃん!」「ゲームもポイントでいけるの最高だな!」
コンビニの前を通り過ぎた生徒たちは支給された学生証端末を嬉しそうに掲げながら、高額なお菓子や雑誌類の入った袋を片手に寮の方へ歩いていく。毎月十万円もの大金が手に入るという事実に、誰もがすっかり理性を失って浮かれているようだった。
オレはプラスチックのカゴを一つ手に取り、棚の商品価格を眺めて歩く。コカ・コーラが百二十ポイント、カップ麺が百五十ポイント。表示こそポイントだが、物価そのものは現実の「円」と全く変わらない。色々と見て回った結論としては高校生が自由に使える金額としては、あまりにも過剰な気がしてならない。
いや、オレが知らないだけでこれが普通なのか? と疑問が湧いたがそれを即座に否定する。教室の浮かれ具合や先ほどすれ違った生徒たちの様子を鑑みればやはり多い、といった所だろう。
ただし、それがどれほど過剰なのかまでは判断がつかない。
店内へと入り、キョロキョロと見回してはレジ付近から離れ、照明の光がわずかに届きにくい、店内の最も奥まった棚の死角へと入り込んだ時だった。
そこに、先ほど一人で教室を出ていったはずの人物が、ぽつんと佇んでいた。
「……あら」
オレの足音に気づき、振り返ったのは堀北だった。彼女はオレの顔を見るなり、目に見えて嫌そうな不機嫌さを眉の間に刻み込んだ。
「あなた、本当にストーカーだったのね。わざわざ私の後を追ってきたのかしら」
「違う。ただの偶然だ。オレだって買い物くらいしにくる」
「……? 何を当たり前のこと言っているわけ。まるで買い物したことないみたいに」
オレがカゴを少し持ち上げて見せると、堀北はフンと鼻を鳴らし、すぐに興味を失ったように視線を元の場所へと戻した。
彼女がじっと見つめていたのは、きらびやかなパッケージの商品群から完全に孤立した、一際地味で、見窄らしい棚の最下段だった。そこには、手書きの小さなポップが貼られている。
『――0ポイント』
「0ポイント……無料、ってことか? なぁ、あんた、どこのコンビニにもこういうの置いてあるのか?」
オレの呟きに、彼女は腕を組んだまま、不機嫌そうに応じた。
「そんなわけないでしょう。あなた本当に自分で買い物の一つもしたことないわけ? それにあんたなんて気安く呼ばないで頂戴」
「じゃあ、なんて呼べばいいんだよ」
「呼ばなければいいだけでしょ、そもそも私は関わり合いになるつとりはないわ」
手厳しい。けれども今のオレに彼女の名前を知る術も欲もない。小さな声で「邪魔して悪かったな」と呟いては店内の散策に戻る。
去り際に聞こえた『十万ポイントのことといい、この救済措置が最初から用意されてるなんて。なんて甘い……こんな温い環境で大丈夫なのかしら』という呟き。
正直な話、なんで0ポイントの商品があるのか気になることは気になるが、先ほどの呟きの点を繋げれば幾つかの仮説が立つ。
新入生たちは、十万ポイントという大金に目を眩ませて高い買い物を謳歌している。当然、こんなタダの安物に視線を向ける新入生は誰一人としていない。
けれども用意されている。数も減っているというのならばそれなりの生徒が利用しているのだろう。
けれど、この学校が提示している「輝かしい未来」のすぐ足元に、何か得体の知れない歪みが隠されているような、そんな割り切れない違和感が、オレの胸の奥に小さな澱のように居座り続けている。
そう言えば、さっきのQRコード……。
無料の商品棚の壁側に小さく刻まれた二次元コードがあった。あまりにも不自然な位置に刻まれていたので目についたのだ。
今度、読み込んでみるか。
今はまだ無料商品棚の近く、生活用品付近は黒髪の少女がいるだろう。今日の交流を鑑みるにあまりいい関係を築けるとは思えない。またストーカーだのなんだの騒がれる前にさっさと買い物をして出てしまおう。
そう、決めたは俺は豚骨醤油味のカップラーメンを手に取ってレジで決済をしている時に――それは起こった。店内にまで届く荒々しい声。
「あぁん! 舐めてんのか! てめぇらッ!」
扉から見えるのは自己紹介を拒否した大柄な体格を持つ男子生徒だった。決済を終えた俺はレシートを貰い店の外へと出る。
揉め事は既に終わったのか言い争いをしている姿はなく、唯一、目に入ったのは男がゴミ箱を蹴り倒した瞬間だった。
「何見てんだ、てめぇらっ! けっ」
同じようにコンビニを出た少女が「あんなのと一緒の学校だなんて信じられないわ」と頭を抑えていた。
俺はゴミ箱と――監視カメラを見比べて小さくため息。そして倒れたゴミ箱を起こせば、何故か不機嫌少女がオレを見ていた。
「なんであなたがそんなことをしているわけ?」
その言葉を聞いて単刀直入に思った疑問を口にする。
「オレに興味を持ったのか?」
「っ……勘違いしないで。単純に疑問を持ったから聞いただけよ。あなた自身に興味なんて一ミリたりともないわ。邪魔したわね」
そう言って去っていく隣の席の少女。残されたオレは店員さんから箒とちりとりを借りてははわく。最後にゴミ箱へは集めたゴミをひとつにまとめれば終了。
「これ、なんだろうな……」
ゴミ箱を立てている時に気づいたがゴミ箱の上。それも右端に小さなQRコードがあった。
オレはそのコードを学生証端末で読み込む。その瞬間、オレの日常は終わりを告げた。