Persona x Classroom of the Elite 作:仔羊肉
中間試験を翌日に控えた高度育成高等学校の空気は、まさに嵐の前の静けさと呼ぶにふさわしいものだった。
すべての科目の赤点ラインをクラス平均点の半分に引き下げ、なおかつ過去問の丸暗記によって最下位層を救済する。堀北鈴音が教壇で高らかに宣言した作戦は、平田洋介の持つクラス内の網の目のようなネットワークや、幸村啓生らの成績優秀者による徹底した効率重視の学習指導とも綺麗に噛み合い、Dクラスの内部へと急速に、そして確実に浸透していた。
退学という、この学校が突きつけてくる絶対的な絶望の崖っぷちから、一転して全員生存への道筋がはっきりと見えた。その事実だけで、教室を重苦しく満たしていた澱んだ空気は一時的に緩和されている。生徒たちの顔には、ここ数週間見られなかった微かな安堵の色さえ浮かんでいた。
だが、その一過性の安穏の裏で、オレはある特定の歪みから目を離せずにいた。
放課後。
本日もクラスメートたちの多くが最終調整のための勉強会が開かれる場所――今やDクラス生徒の溜まり場となりつつあるケヤキモールのカフェ『パレット』へと移動し始める中、オレはスマートフォンの画面に届いた一件のメッセージに従い、あえて人波とは逆の方向へと足を運んでいた。
送信者は、櫛田桔梗。
指定された場所は、校舎の裏手にある連絡通路だった。
人通りの完全に途絶えた、コンクリートの壁に囲まれた静まり返る空間。夕暮れの斜光が窓から差し込み、長い影を床に落としている。
そこで待っていたのは、いつものように誰にでも愛される柔和な笑みを浮かべた少女。彼女はブレザーの裾をほんの少し揺らしながら、オレが歩み寄ってくるのをじっと待っていた。
オレの肩の上では、現実世界においてはただの奇妙なぬいぐるみ、あるいは精巧なファンシー玩具として周囲の認識を欺いているはずのヒュロポスが、彼女の姿を視界に捉えた瞬間に微かにその丸っこい身体を強張らせる。小さな桃色の羽をパタパタと小刻みに震わせ、何かを警戒するようにオレの耳元に身を寄せてくる。
「わざわざ呼び出してごめんね、綾小路くん。みんながパレットに集まる前に、少しだけ二人でお話ししたくて」
櫛田は胸の前で小さく両手を合わせ、申し訳なさそうに小首を傾げた。その仕草、声のトーン、表情の作り方に至るまで、完璧なまでに構築された『クラスの人気者』としての微笑み。それを真っ正面から受け止めながら、応じる。
「いや、構わない。それで、話って何だ?」
「うん。まずはね、今回の件、本当にありがとうって言いたくて」
上目遣いでオレの顔をじっと覗き込んできた櫛田の言葉。
今回の件。その抽象的な響きが指し示しているのは、言うまでもなくあの二年前の過去問のことだろう。
誰かが裏で手を回した。その事実を、彼女は正確に嗅ぎ取っている。そして、わざわざこのような人気のない場所にオレを呼び出したのだ。
だが、オレの取るべきスタンスというものは最初から決まっている。ここで下手に自らの関与を認めるメリットは何一つない。
「お礼を言われてもさっぱりだ」
「ふふ、やっぱりそうやって惚けちゃうんだ。でもね、私は分かってるよ? ――綾小路くんだよね、あの二年前の過去問をどこからか持ってきて、堀北さんに渡したの」
櫛田の瞳に、確信めいた強い光が宿る。
彼女の視線は、オレが惚けていることを最初から大前提として、その防壁を力ずくで無視して内側へと踏み込んでくる。そして同時に、彼女の表情の奥には、ある種の絶対的な認知が存在している。
あの過去問を調達するという芸当は、堀北鈴音では絶対に思いつけないし、実行できるはずもない、という確信だ。
「……何のことかわからないな」
「ううん、何のことか分からなくても、それでいいの。綾小路くんがそう言いたいなら、私はそう受け止めておくね」
櫛田はそれ以上尋ねずにただ優しく微笑んだ。その大人のような、あるいはすべてを包み込むような包容力を見せる態度。
だが、この現実世界において、彼女の足元に伸びる影の輪郭が、ほんの一瞬だけノイズのように不自然にブレたのをオレの目は見逃さなかった。
彼女の影の底に産み落とされた、巨大で不気味な二次元コードの残滓。それは――決して一つではなかった。
笑顔を貼り付け、声を弾ませながら楽しそうにクラスメートと話している最中にも、彼女の精神の深層からは夥しい量の負のエネルギーが絶え間なく生み出されている。
そして、あえてこちらからその本質に触れるような疑問を投げかけることにした。
「一つ聞いてもいいか。昨日、ホームルームの前……どうして最初に、お前が過去問と試験範囲の変更についての疑問を口に出したんだ?」
「あ……やっぱり気になっちゃったよね」
櫛田は悲しげに眉を下げ、自らの両手をぎゅっと胸の前で握りしめた。その表情は、自身の善意が他者に誤解されてしまったことを悲しむ純粋な少女そのものだった。
櫛田は知っていた。試験範囲が変更されていることを。何故なら他でもないオレが櫛田に確認を取ってもらうように連絡をしていたから。
「他の子が気づいて大騒ぎになっちゃう前に、私が先に言ってアシストしたほうがいいかなって思って。でも、あんな形でみんなが堀北さんを疑うなんて、私、本当に思ってもみなくて……。結果的に堀北さんを追い詰める形になっちゃった」
潤んだ瞳で、自らの行動を悔いるように語る姿。
「そうか」
オレが短くそれだけを返した瞬間だった。
「う、嘘なのよ! そんだけムカムカとかイライラしてて笑ってるって変なのよー! 人間さん、騙されちゃ駄目なのよー!」
オレの肩の上で、ヒュロポスが我慢の限界を迎えたように短い羽を激しくバタつかせて暴れ始めた。当然、櫛田にはその声は聞こえるわけもない。
「ふふ、AIちゃん、凄く騒いでる」
櫛田はヒュロポスの方へと視線を向け、困ったような苦笑を漏らした。ただのマスコット玩具の不規則なセンサー駆動、あるいは不具合によるおかしな挙動として処理しているのだろう。暴れるヒュロポスを指先で軽く押さえつけ、その動きを大人しくさせながら、オレは櫛田の次の言葉を待った。
「それでね、綾小路くん。もう一つだけ、私に教えてほしいな」
櫛田はさらに一歩、オレとの距離を縮めてくる。彼女の制服から、微かに甘い香水の匂いが漂ってくるほどの近距離。
「どうして、堀北さんにあの過去問を配らせるようなことをしたのかな? ――平田くんじゃ駄目だったのかな?」
「平田でも良かった」
オレは感情を交えずに、ただ事実だけを淡々と口にする。
「平田でも良かったし、さらに言えば、今回の危機でクラスの中心人物になれる人間ならば、誰でも良かったんだ。櫛田や、軽井沢でもな」
そう告げるオレの意図を測るように、櫛田はおずおずと、しかしどこか確認を迫るように唇を開いた。
「そうなんだ……それでも……今回、綾小路くんが頼ったのは、堀北さん……なんだよね?」
「あぁ。結果としてはそうなったな」
短く返答した、その刹那だった。
オレの右手に温かい感触が触れた。
見ると、櫛田が自らの柔らかな両手で、オレの手を包み込むようにぎゅっと握りしめていた。上気したような、それでいてどこか逃がさないと言わんばかりの切実さを孕んだ瞳が、まっすぐにオレを捉える。
「綾小路くん。私も、何かできることがあったら力になるから。だから……これからは私のこと、ちゃんと頼ってね?」
「……わかった。ありがとう」
手を握られたまま、特に拒絶することもなく応じると、櫛田はさらに顔を近づけてきた。耳元で彼女の吐息すら直接かかるほどの距離。そこで、囁くように言葉を付け加えた。
「私、綾小路くんのことが……凄く気になってるから。だから、力になりたいの……」
「恋愛禁止! 恋愛禁止なのよー! この超絶美少女マスコットのヒュロポスちゃんがいる前で不純異性交遊は断固として認められないのよーっ!」
肩の上で、もはや狂ったように羽をパタパタと動かして暴れる桃色の影。オレはその奇妙な駆動音を完全に意識の底へと無視しつつ、正面の少女の瞳の奥を見つめる。
「ありがとう。そう言ってもらえると助かる」
オレがいつも通りの態度で呟くと、櫛田は少しだけ満足そうに目を細め、それから何かを思い出したようにおずおずと尋ねてきた。
「あ、あのね……綾小路くん。堀北さんって、私のこと、何か言ってたかな?」
「何かとは?」
「うんとね、私、堀北さんと本当にお友達になりたいから……少しでも、私の話題が彼女の中から出てくれていたら、嬉しいなぁって思って」
友達になりたい、という彼女の言葉。だがその言葉を口にした時に迸り増えた二次元コードがその言葉の信憑性を失わせる。
だが、彼女がなぜここまで頑なに、クラスで孤立している堀北鈴音という少女に執着するのか。その明確な動機や、彼女が内面に秘めているであろう感情の全貌までは、まだ見えてこない。ただ一つ確かなのは、櫛田桔梗という人間において、堀北鈴音という存在が最大級の『ストレッサー』として機能しているという事実だけだ。
仲良くなる、という言葉の裏に隠された彼女の本心がどこにあるのか。単なる個人的な嫌悪なのか、それともオレの知らない別の因縁によるものなのか、現時点のオレには判断するだけの手札が足りなかった。
オレはあえて数秒間、記憶を呼び起こすように考えるフリをしてから、静かに首を振った。
「すまない。堀北からお前の名前が出たことは、特に記憶にないな……気になるなら、今度オレからそれとなく聞いておこうか?」
「ううん! 大丈夫、ありがとう!」
櫛田は慌てたように両手を振り、握っていたオレの手を離した。その表情には、一瞬だけ明確な感情のブレが走り、すぐにいつもの快活な笑顔へと上書きされる。今のほんの短いやり取りの間だけでも、彼女の足元ではまた新しく不気味な二次元コードが生まれたのを見て、オレは彼女への警戒を崩さなかった。
「前は綾小路くんに頼りっぱなしになっちゃったし、今度は自分で頑張ってみる! 堀北さんとも、少しずつ仲良くなれたらいいな」
そう告げて、櫛田は手首の時計で時間を確認する。
「あっ、もうこんな時間! いこっか、綾小路くん!」
弾んだ声を出してオレの制服の袖口をきゅっと引っ張った。
「みんな待ってるよね。遅れちゃうと皆に心配かけちゃうし。いっしょにいこ?」
「あぁ、そうだな」
オレは引っ張る彼女の背中を見つめながら、ゆっくりと歩み始める。オレと櫛田は、クラスメートたちが待つ勉強会の目的地、ケヤキモールの『パレット』を目指して、夕闇の迫る道を二人並んで歩み進めていった。
◇ ◇ ◇
ケヤキモールの一角にあるカフェ『パレット』の自動扉をくぐると、放課後の賑やかな喧騒とともに、奥の一画にいるDクラスの面々の姿が視界に飛び込んできた。
試験前日ということもあり、店内の端を陣取った彼らのテーブルには、参考書やノート、そして堀北が用意した過去問のコピーが積まれている。テスト前の独特な緊張感と、過去問を手に入れたことによる奇妙な高揚感が、店内の空気を満たしていた。
オレと櫛田が並んで彼らのテーブルへと歩み寄るや否や、真っ先に反応したのは。
「おい、綾小路ッ! お前、なんで櫛田ちゃんと二人っきりの良い雰囲気で入ってきてんだよ! 近いぞ、離れろ!」
ガタッと激しく椅子を鳴らし、池が露骨に嫉妬を剥き出しにした声を張り上げる。その隣では山内も面白くなさそうに目を細め、オレを親の仇のように睨みつけていた。
「もう、池くん。連絡通路で偶然会ったから、一緒にいこって私から誘っただけだよ? そんなことないよね、綾小路くん」
「櫛田ちゃんにそんな風に言わせるとか、マジで許せねえ……! 綾小路、てめぇ裏でどんな汚い手を使ったんだ!」
「そうだぞ! 櫛田ちゃんの優しさに付け込みやがって! 離れろ離れろ!」
池と山内の二人にじりじりと詰め寄られ、オレは内心で小さなため息を吐く。
「まあまあ、二人とも落ち着いて。明日は大事な試験なんだから、揉め事はやめようよ。ね?」
見かねた平田が爽やかな苦笑を浮かべながら間に入り、二人を宥めてくれる。その隙に、オレは言葉通りそそくさと櫛田から距離を置き、通路側の空いている席へと避難することにした。
──が、移動した先で待ち受けていた視線は、池たちのそれよりも数倍、冷ややかに張り詰めたものだった。
「……遅れてやってきた割には、随分と楽しそうね。綾小路くん」
ジトリとした、刺すような眼差し。
そこには、プリントの束を整理していた堀北鈴音が、能面を張り付けたまま座っていた。その切れ味の鋭い瞳が、オレの全身を値探るように捉える。オレはその隣の空席へと滑り込みながら、いつも通りの平坦なトーンで返した。
「楽しそうには歩いてない。オレの顔の筋肉がいつ緩んでいたか、具体的に証明してほしいくらいだ」
「口だけは達者なのね。あんな風に親しげに袖口を引かれて、鼻の下を伸ばしていたようにしか見えなかったけれど?」
「それはお前の主観による歪んだ認知だ」
淡々と答えるオレの言葉が終わるか終わらないかの瞬間。
不意に、オレの右の横腹に、小さくも鋭い痛みが走った。
「……ふんっ」
堀北が、手元のノートに目を落としたまま、机の下で視線すら合わせずにオレの制服越しに横腹を容赦なくつねっていた。しかも、ただ皮膚を摘まむだけでなく、指先を器用にねじるという無駄に洗練された技が繰り出されている。
「おい、痛いぞ、堀北。何の真似だ」
「あら、痛覚があったのね。顔色一つ変えずにそんな寝言を言われても、全く説得力がないわ。あなたの皮膚は鋼鉄ででもできているのかしら?」
「いや、普通に生身の人間だ。できれば今すぐその拘束具のような指を離してほしいんだが」
「あなたが真面目に勉強会に参加しなかったことへの、オブザーバーとしての正当なペナルティよ。いいから大人しくその口を閉じなさい」
堀北はツンとすました顔のまま、指先の力を緩めようとしない。実力を隠すための隠れ蓑にされていることへの、彼女なりの不器用な抗議が含まれているようだった。異世界で泥を啜る経験を経て、多少は丸くなったかと思ったが、こういう時の容赦のなさやツンツンした態度は健在らしい。
「いいのよ! ツンツンさん! ちょっと恋愛脳になってる人間さんには良い薬なのよ! ヒューポポポポ!」
肩に乗るヒュロポスが最近よくする謎の笑い方をしている。
オレがその堀北の理不尽な攻撃に内心で閉口していると、その様子を近くの席からじっと観察していた女子がいた。松下だ。彼女は、幸村たちとノートを突き合わせていた手を止めると、何故か楽しげな、まるで面白い玩具を見つけた肉食獣のような笑みを浮かべてこちらへ歩み寄ってきた。
「へえ、二人のそれ、なんかいい感じじゃん。まるで付き合いたてのカップルの痴話喧嘩みたい」
「なっ……! 見当違いなことを言わないで頂戴、松下さん! 私はただ、この不真面目な男に制裁を加えているだけよ!」
堀北が驚いたように頬を微かに染め、慌てて手を離す。だが、松下は悪戯っぽく微笑むと、今度は堀北がつねっていたのとは反対側、オレの左の横腹へと流れるような動作で手を伸ばしてきた。
「じゃあ、不真面目な子への制裁なら、私も混ぜてもらおっかなー」
「は?」
オレの疑問の声など完全に無視して、松下は躊躇なくオレの左の横腹をぎゅっとつねってきた。しかも、彼女の指先はオレの脇腹を捉えている。
「ちょっと、松下さん、何をしているのよ?」
堀北が眉をひそめて咎めるが、松下は悪びれもせずに指先をオレの横腹にめり込ませたまま、クスクスと楽しそうに笑う。
「いやー、なんか羨ましかったからさ。おー、でも綾小路くん、筋肉凄いね……」
松下の言葉のトーンは軽かったが、その至近距離で見つめてくる瞳の奥にある観察眼は極めて冷静だった。彼女はオレの正体についてある種の深読みと強い好奇心を抱いている。つねった瞬間のオレの肉体の反応――筋肉の緊張度合いや、動緯の有無を直接肌で確かめようとする、彼女特有の計算高い探り。それがこの突発的な行動の裏にあるのかもしれない。
「普通に痛い。松下、お前も手を離してくれ」
「えー、まだ全然動揺してないじゃん。やっぱり綾小路くんって、なんか面白いね?」
松下はさらに顔を近づけ、オレの反応を値踏みするように覗き込んでくる。二人の女子に左右から挟まれ、物理的にも精神的にも逃げ場を失いつつあるオレの状況。
さらに、その様子を離れた席から、両手で顔を半分隠しながら真っ赤になって見つめていた女子がいた。佐倉愛里だ。彼女は自分の席でオドオドと指先を弄び、視線を激しく泳がせていたが、背後からニヤニヤと楽しそうな笑みを浮かべた長谷部波瑠加にポン、と背中を強く押される形で、一歩前に踏み出してきた。
「ほら、佐倉さんも行っておいでよ。二人に先を越されて置いてかれちゃうよ?」
「わ、あ、あの、長谷部さん……そんなの無理だよぅ……っ!」
「大丈夫、大丈夫。ほら、男の子はちょっと意地悪されるくらいが嬉しいんだから」
人見知りの彼女が、もはや心臓が破裂しそうなほどの猛烈なパニックと、内に秘めた熱い感情を抱えながら、必死の勇気を振り絞ってオレの正面へと近づいてくる。その顔は夕焼けよりも赤く紅潮し、完全にパニック状態だった。
「わ、わ、私も……っ! 私だって、その……!」
佐倉は涙目になりながら、震える指先をオレの右の二の腕へと伸ばした。そして、小さく、本当におずおずとつねってきた。いや、つねるというよりは、服の生地ごと小さく摘まんで、必死にオレの存在を確かめるように掴んでいるといった表現の方が正しいかもしれない。
彼女の指先からは、伝染しそうなほどの純粋な緊張がダイレクトに伝わってくるようだった。
「む! ハレンチなのよー! なんなのよこの人間さんは! 女難の相が出まくってるのよ! このピンクの超絶美少女ヒュロポスちゃんがいる前でハーレム形成するなんて言語道断なのよーっっ!」
オレの肩の上で、もはや狂ったように羽をパタパタと動かして、現実には誰にも聞こえない大音量で抗議するマスコット。左右の横腹と二の腕をそれぞれ別の女子生徒に占拠され、さらに耳元ではひよこ型ロボットが絶叫している。
「あれー? 綾小路くんってば、意外と女子にモテモテ? 一体どんな特異体質かなんかなの?」
長谷部が顎に手を当て、ニヤニヤしながら安全な傍観者の位置からオレたちをからかってくる。
「あ、あなたたち、ペナルティは私が与えておくからその手を離しなさいっ!」
堀北が再び参戦しようと手を伸ばした瞬間、佐倉が「ひゃ、ひゃいっ!」と奇声を上げて自らの席へと脱兎のごとく逃げ帰り、松下も「ふーん、なるほどね。今回はこれくらいにしといてあげる」と何かを納得したように笑いながら手を離して席に戻っていった。
「おや、綾小路くん。随分と仲が良いんだね、みんなと」
トレイに載せた新しいドリンクをテーブルに置きながら、平田が心底感心したように、そして少しだけ羨ましそうな爽やかな笑顔で声をかけてきた。
その背後には、先ほどまでオレを睨みつけている池と山内、そして彼らを先導してきた櫛田が静かに佇んでいる。
女子たちが蜘蛛の子を散らすようにそれぞれの席へ戻り、ようやくパレット内の一角が落ち着きを取り戻したのを見届けた後、櫛田がクラスの代表として、いつもの澄んだ声を店内に響かせた。
「あのね、堀北さん。池くんと山内くんが、堀北さんに話があるんだって……少しだけ、聞いてくれる?」
櫛田の言葉に、堀北は小さく息を吸い込み、先ほどまでの僅かな動揺を消し去って、リーダーとしての冷徹で凛とした表情へと引き締め直した。
「ええ、構わないわ。何かしら」
手元の過去問の束をトントンと机に叩いて整えながら、堀北は快諾して二人の言葉を待つ。
促された池は、非常に気まずそうに視線を泳がせ、何度も頭の後ろを掻いていたが、やがて意を決したように深々と頭を下げた。その背中は微かに震えている。
「その……昨日は、大声で怒鳴ったりして、疑って悪かった! 俺たちを本気で助けようとしてくれてたのに、偽物だなんて言って……ほんと、ごめん!」
教壇での弾劾と反発から一転、全力で自らの非を認めた池の謝罪。
以前の独りよがりでプライドが高かった頃の堀北鈴音であれば、その謝罪を相手にせず、冷酷に切り捨て、言葉で詰っていたかもしれない。しかし、これまでの異世界での経験、自らの未熟さを直視し、泥を啜ってでもクラスを機能させるという覚悟を決めた今の彼女は違った。
「……顔を上げて、池くん。こちらこそ、以前の図書室での勉強会では、あなたたちの気持ちを全く無視した酷い態度を取ってしまったわ。そのことは私からも謝らせて」
堀北は静かに、しかし確かな重みを持った口調で言葉を返した。
「明日からの中間試験、あなたたちが一人も退学にならないよう、私も全力で協力させて頂戴。だから、最後まで諦めずに付いてきて」
「あ、あぁ……! よろしく頼む、堀北!」
堀北の大人びた、端麗な対応に、池は顔を赤くしながらも力強く頷いた。それに続くように、山内もまた、ニヤニヤとしたどこか調子の良い笑みを浮かべながら口を開く。
「あー、俺もマジで反省したわ! だからさ、俺のことも絶対助けてくれよな、堀北!」
「……ええ、勿論よ。過去問の中身を確実に暗記すれば、赤点は確実に回避できるわ。油断だけはしないで頂戴ね」
「やりぃ! さすが堀北、頼りになるぜ!」
万歳三唱でもしそうな軽い調子で拳を突き上げる山内の姿に、周囲にいた幸村や一部の生徒たちが、あからさまに呆れたような冷ややかな視線を向ける。堀北自身も微かに眉をひそめただけでそれ以上の追及はしなかった。
今の彼女にとっての最優先事項は、この場で山内の態度を正すことではなく、このDクラスを一つの組織として生存させること。そのために必要な泥を、彼女は今、確実に自分の意志で飲み干している。
「よかったね、池くん、山内くん。これで明日のテスト、みんなで笑って迎えられるよ」
櫛田が二人の肩を優しく叩き、まるで自分のことのように嬉しそうに聖母の笑顔を咲かせる。その光景を、平田は全員が救われる理想の調和が実現しつつあることに、心からの満足感を覚えて目を細めていた。
クラスの結束。危機を乗り越えるための凡人たちの調和。
一見すれば、美しく、完璧な青春の1ページがそこに完成しているように見えた。
だが、オレは席に戻っていく山内の、あの薄っぺらい背中を見つめていた。
──山内の、あの反省の浅い、その場限りの態度。
危機が去ったと認識した瞬間に他者への敬意を失い、自らの欲望と怠惰に流されていく精神構造。それは、この実力至上主義の学校において、極めて脆弱な『歪み』そのものだ。今回は堀北の手札によって救われるだろうが、あの本質が変わらない限り、遠くない未来、クラス全体を巻き込む致命的な問題を引き起こすかもしれないな。
オレはその思考を一度奥底へと温存する。
「それじゃあ、過去問から作り出したテスト形式のプリントを一度回すわ。全員、席について頂戴」
堀北の透き通った声が、パレットの席に響き渡る。
女子たちの残した奇妙な余韻と、それぞれが抱える内面の歪みを内包したまま、Dクラスの未来を決める最後にして最大の勉強会が、本格的に始まった。
◇ ◇ ◇
そして、運命の月曜日が訪れた。
校内掲示板の前に張り出された中間試験の結果。そこには、先週まで誰もが予想し得なかった光景が刻まれている。
Dクラスの生徒たちの名前の横に並ぶ数字は、どれも学校が設定した『平均点の半分』という赤点ラインを明確に上回っていた。須藤、池、山内といった最下位層の面々に至っては、過去問の丸暗記が見事に功を奏し、いくつかの科目では中位層を脅かすほどの点数を叩き出している。
結果として、オレたちは無事、誰一人として退学者を出すことなく、この高度育成高等学校が仕掛けてきた最初の生存競争を乗り越えたのだった。
退学という絶対的な絶望の崖っぷち。そこから全員が生還したという事実は、クラスのなかに言葉にできないほどの巨大な解放感をもたらしていた。
◇ ◇ ◇
「かんぱーいっっ!」
池の威勢の良い咆哮とともに、無数のプラスチックコップが空気中で小気味よくぶつかり合った。
試験終了の日の夕方。Dクラスの面々が集まっていたのは、ケヤキモールの一角に位置する、事前予約していた貸会議室だった。
高度育成高等学校は学園都市であり、学生たちの街とも呼べる広大な敷地を誇っている。そのため、生徒たちが主催する打ち上げやプライベートなイベントへの配慮からか、こうした多目的利用ができる貸し施設が複数存在していた。ポイントさえ支払えば、防音設備の整った空間を自由に利用できるシステム。
事前にポイントの余裕がある人間によるカンパにより手配された大量のスナック菓子や炭酸飲料、ジュースがテーブルいっぱいに広がり、室内はすでに熱気に包まれている。
須藤はコーラを喉に流し込みながら池とハイタッチを交わし、女子たちはソファの周りでスウィーツを囲みながらお互いの健闘を称え合っていた。
誰もが安堵の笑顔を浮かべ、好きなように話し、笑っている。
オレはその喧騒から少し離れた部屋の隅、壁に背を預けるような位置から、その様子を静かに眺めていた。こうした集団のなかに自ら飛び込んでいく術を、オレはまだ持ち合わせていない。ただ、グラスの底に残るオレンジジュースを微かに揺らして飲むだけの置物と化す。
そこへ、一人の女子生徒が迷いのない足取りで近づいてくるのが見えた。
「お疲れ様。綾小路くん」
手にした紙コップを軽くこちらに掲げながら、声をかけてきたのは堀北鈴音だった。
いつもより、どこか柔らかく弛緩した空気。ブレザーのボタンを一つ外し、心なしか足取りも軽い。オレはコップを小さく掲げ返しながら、いつもの抑揚のない声で応じた。
「いいのか? クラスを救った最大の立役者が、こんな部屋の隅っこに引っ込んでいて」
「立役者だなんて、妙な揶揄はやめて頂戴。私はただ、教壇に立ってあなたが用意した手札を配っただけよ。本当の称賛を受けるべき人間が誰なのか、ここにいる全員が知れば、あなたのその涼しい顔も少しは歪むのかしら?」
堀北は悪戯っぽく美しい眉をはね上げると、いたずらが成功した子供のような笑みを唇の端に浮かべた。
「……勘弁してくれ」
オレは小さくため息を吐きながら、両手を軽く挙げて見せた。これ以上目立つのは避けたい、騒がしい同居人だけでも変な注目を浴びている現状だ。
その防衛本能的な態度がツボに入ったのか、堀北はさらに小さく喉を鳴らして笑った。
その時、オレの左肩の上に、現実世界ではただのファンシー玩具にしか見えないヒュロポスが声をあげる。中間試験の最中、ずっと待機させられていたストレスを発散するかのように、短い羽を激しくバタつかせ始めている。
「人間さんは照れ屋すぎるのよ! 本当ならもっとみんなに崇め奉られて、美味しいお肉とかでいっぱーい褒められるべきなのよ! でもでも、人間さんが目立ちすぎて、他の女の子たちと恋愛にうつつ抜かしたりしたらあたしが困るから、代わりにあたしがこれでもかってくらい褒めてあげるのよ! よしよしなのよー!」
ギュッとオレの耳元に短い両翼で抱きついてくると、桃色の毛並みをもしゃもしゃとオレの頬や首筋に擦り付けてきた。
現実に生きる人間には、ただの不規則な電子駆動、あるいは玩具のぬいぐるみ特有のユーモラスな挙動にしか見えないだろうが、オレの三半規管にはダイレクトに彼女のキーキーという甲高い声が響いている。硬質ロボットとしての冷たさと、ぬいぐるみとしての妙な柔らかさが混じり合う感触が、地味にうっとうしい。
「おい、ヒュロポス、離れろ。邪魔だ」
「むー! 照れ隠しはよくないのよ! あたしの極上のよしよしを拒絶するなんて、バチが当たるのよ! よしよしよしー!」
肩の上でじたばたと暴れるマスコットの姿を、堀北は紙コップを口元に当てながら、じっと観察していた。
「……私も、代わりにあなたをよしよしと褒めてあげたほうがいいのかしら?」
堀北はからかうような視線をオレに向け、さらに一歩、距離を縮めてきた。彼女の長い黒髪から、シャンプーの清涼な香りと女性特有の甘い香りが混ざり合って漂ってくる。そんな至近距離で、普段の彼女からは想像もつかないような甘やかな軽口を叩かれ、オレはわずかに視線をずらす。
「……必要ない」
「そう。それは残念だわ。せっかく今回の報酬として、私の特別な称賛を与えてあげようと思ったのだけれど」
堀北はフッと息を漏らすように笑うと、手にしたジュースを上品に口に含んだ。
やはり、今回の全員生存という結果は、彼女の頑なだった心を大きく解きほぐしたのだろう。初めてクラスの頭脳として機能し、他人を導き切ったという圧倒的な解放感と達成感。
それが、彼女の精神状態を通常よりも少し高揚させ、このような珍しい冗談を引き出しているのだと、オレは分析しつつも、どこか悪い気はしていなかった。
その時、二つの足音がこちらへ近づいてきた。
「やっほー、きよぽん。こんなところで二人きりで油売っちゃって、何をお話ししてたのかなー?」
独特の気だるげで、しかし親しみやすいトーンの声。振り返ると、そこにはスナック菓子の袋を持った長谷部波瑠加が立っていた。そしてその斜め後ろには、顔を真っ赤にして、自分の衣服の裾をぎゅっと握りしめた佐倉愛里が、おずおずと付いてきている。
オレは長谷部が口にした奇妙な単語に、思わず眉をひそめた。
「……きよぽん?」
「そそそ。綾小路清隆だから、『きよぽん』。悪くないでしょ? なんか呼びやすいし、これからこれでいこうと思ってさ」
長谷部はニヤニヤと楽しそうな笑みを浮かべ、オレの顔を覗き込んでくる。そのあまりにも緊張感のないニックネームの響きに、オレが何とも言えない表情を浮かべていると──。
「――っ、ふふ……きよぽん……ふふっ」
突如、オレの隣で、堀北が小さく肩を震わせ始めた。
見ると、彼女は口元を両手で必死に押さえ、洗練された容姿を台無しにするかのように、必死で笑いを堪えていた。その切れ味の鋭かったはずの瞳が、今は涙目でオレを見つめている。
「……笑いすぎだろ」
「ご、ごめんなさい……でも、あなたにそんな……きよぽん、だなんて……ふふ、意外と似合っているかもしれないわね」
完全にツボに入ってしまったらしい堀北を余所に、肩の上のヒュロポスは未だに「よしよしよしよし、あたしの人間さんはきよぽんじゃなくて人間さんなのよー!」とうるさく囀っている。
長谷部はそんなオレたちの様子を面白そうに眺めていたが、ふと後ろに控えていた佐倉の背中を、ポンと優しく前に押し出した。
「ほらほら、愛里。用事があるのはそっちでしょ? ちゃんと自分の口で言わなきゃ伝わらないよ?」
いつの間にか、長谷部と佐倉の間で『名前呼び』への移行が完了していることにオレは気づいた。もしかすればパレットで連日過ごした結果、安全な傍観者だった長谷部と、極度の人見知りだった佐倉の間に、繋がりが芽生えたのかもしれない。
「わ、わっ……波瑠加ちゃん、ちょっと、心の準備が……っ!」
前に押し出された佐倉は、もはや湯気が立ちそうなほどに顔を紅潮させ、両手を胸の前で激しく弄んでいた。彼女の視線は完全に泳いでおり、オレの胸元あたりを見つめたまま、今にも破裂しそうなほどに緊張している。
「あ、あの……あ、綾小路くん……っ」
「あぁ、どうした、佐倉」
オレがなるべく刺激しないよう、静かに声をかけると、佐倉は一度ぎゅっと目を瞑り、それから消え入りそうな、しかし確かな熱を持った声を絞り出した。
「……試験も終わったから……また、一緒に、写真撮りに……散歩、しようね……?」
モジモジと身体を揺らしながら、上目遣いでオレを見つめてくる佐倉。その瞳の奥には、以前の彼女にはなかった、他者と繋がりたいという必死の勇気があるようにみえた。
その言葉を聞いた瞬間、オレの隣でようやく笑いを収めていた堀北の空気が、ピキリと凍りついた。
「……写真?」
堀北の低い、どこか探るような声がオレの鼓膜を叩く。能面のような無表情に戻った彼女の視線が、オレと佐倉の間を何度も往復していた。
オレはそんな堀北の視線を意識の外へと追いやりながら、正面の少女の勇気に応じるように頷いた。
「あぁ。オレで良ければ、またいつでも頼む」
「っ……! う、うん……! じゃ、じゃっ、ま、また連絡するねっ!」
オレの快諾を得た瞬間、佐倉の顔はこれ以上ないほどにパッと輝く。胸の前で小さな拳を握りしめると、他の二人の探る視線に耐えかねたのか、そのまま足早にクラスメートたちの輪の方へと脱兎のごとく去っていった。
残された長谷部が、オレに向かって意地の悪い、しかし深い好奇心を孕んだ視線を投げかけてくる。
「ほーう。きよぽんは、あんな可愛い女の子と二人きりで写真を撮りに行くのが『趣味』なんだ。意外と隅に置けないっていうか、手慣れてるよねー」
「別にそういうわけじゃない。ただの散歩の付き合いだ」
オレは感情を交えずに答えたが、長谷部は「はいはい、そういうことにしておきまーす」と肩をすくめた。
「んじゃ、愛理がどっかに衝突する前に追いかけるから、まったねー。きよぽん、堀北さん」
長谷部はひらひらと手を振りながら、佐倉の後を追って人混みのなかへと消えていった。
二人の女子生徒が去っていった方向を、堀北はしばらくの間、ジト目で見つめていたが、やがてゆっくりとオレの方へと向き直った。
「あなた……写真なんて撮るの?」
「勘違いするな。以前、校内の壁や物にある『二次元コード』をス端末のカメラで読み取っていただけだ。あの行動を佐倉に見られたとき、カメラを不自然に向けている言い訳として、写真を撮るのが趣味だとカモフラージュしただけだ」
オレの言葉を聞いた瞬間、堀北は「あぁ……」と小さく声を漏らし、得心がいったようにその片手をポンと額に当てた。
「なるほどね……確かに、何もない空間や、壁に向かって端末のレンズを向けていれば、普通の人間からは奇妙な風景写真を撮っているようにしか見えないわね。そういう勘違いが起きるのも納得だわ」
堀北は完全に合点がいったようで、先ほどまでの張り詰めた空気を綺麗に霧散させ、ふっと安堵のため息を吐いた。
オレにとって佐倉との関係は非常に役立つものであった。
佐倉は人見知りゆえに、校内のなかでも普段は誰も立ち入らないような静かな場所や、中々人が寄り付かない隠れたスポットをいくつも発見している。彼女に連れられて歩いた散歩コースのなかで、オレは現実世界の死角に隠されていた、中々、見つからないような二次元コードをいくつも発見し、読み込み、シャドウを倒し、ポイントを回収することに成功している。
彼女の特異な行動範囲と、オレの目的。それらが奇妙な形で噛み合ったからこそ、フォーラムの復興は大きく進んでいる。そういった意味では、佐倉愛里という少女との出会いは、オレにとって極めて『良い縁』だったといえる。
「それにしても、あなたのそのカモフラージュのおかげで、人見知りだった彼女のなかに新しい変化が生まれたのだから、結果的に良かったのかもしれないわね」
堀北は、遠くの席で長谷部と楽しそうにジュースを飲んでいる佐倉の姿を見つめながら、どこか穏やかな笑みを浮かべた。
「あぁ、そうだな」
オレは短く同意し、貸会議室を満たす賑やかな笑い声のなかに、自らの意識をそっと溶け込ませていった。中間試験という最初の壁を乗り越え、Dクラスは一時の平穏を手に入れた。
◇ ◇ ◇
時計の針が午後十八時を回る頃、貸会議室を包んでいたお祭り騒ぎのような熱気も、ようやく落ち着きを見せ始めていた。
「この部屋は十九時までだからそれまでには退室して頂戴」
ゴミ袋を片手に、堀北がテーブルの周りに集まっていた一同にそう告げると、生徒たちの間には自然とお流れのムードが漂い始めた。
明日からは日常の授業に戻る。テスト勉強の疲れも癒えた面々は各々は自分の手荷物をまとめている。
「じゃあ、俺たちは寮のロビーで須藤待ちながらゲームの続きやるわ!」
「堀北さん、桔梗ちゃん、今日は本当にありがとね!」
そんな声を残しながら、生徒たちは一人、また一人と荷物をまとめて退室していった。最後の一団に残っていた櫛田が手伝いを申し出てきたが「これは綾小路くんへの罰だから気にしないで」と堀北は断っていた。一体、何の罰なのだろうか。
退室期限の数分前。室内の机を拭き終わり、備え付けの掃除機で一通り床を回り終えれば、貸会議室には完全な静寂が戻ってくる。
残されたのは、利用手続きの代表者である堀北鈴音と、部屋の片付け係として居残らされたオレの二人だけ。オレたちは仕分けしたゴミ袋を部屋を出て廊下の奥にある施設備え付けのゴミ箱へと放り込み、施錠するために部屋に戻った時だった。
「人間さん! 大変なのよ! 忘れ物なのよー!」
オレの肩の上で、ヒュロポスが短い羽を忙しなく動かしながら、部屋の隅にある長椅子の隙間を小さなクチバシでビシビシと指差した。
見ると、そこには一台の学生証端末が、ぽつんと置き去りにされている。
「あら、誰の端末かしら?」
堀北が手を止め、眉をひそめて頭を捻る。この学校において、端末の紛失はあらゆるインフラの遮断を意味する致命的なミスだ。
「さあな。これだけ人数がいれば、一人くらいはうっかり置いていく奴もいるだろう。……櫛田に連絡を入れてみる」
オレは自らの端末を取り出すと、クラス内のほぼ全員の連絡先を把握しているであろう櫛田桔梗に向けて、『誰かが会議室に端末を忘れていった。心当たりはないか』という旨の短いメッセージを送信した。人脈の広い彼女のネットワークを頼れば、持ち主など一瞬で見つかるだろう。
そう思ったのだが――その必要は、全くなかった。
ピッ、とオレが送信ボタンを押した、まさにその刹那。
──ピロリロン。
オレたちの目の前、長椅子の隙間に残されていたそのスマートフォンが、小気味よい受信音を響かせて画面を青白く発光させたのだ。
「……櫛田さんの、ね」
堀北が少しだけ呆れたような、しかしどこか親しみを持った調子で小さく呟いた。クラスの誰よりも完璧に立ち回るあの少女が、自分の端末を忘れていくという珍しいポカ。
「まだそれほど時間は経っていないわ。ケヤキモールを出る前なら、今すぐ追いければ追いつくはずよ。届けに行きましょう」
堀北の提案に、オレは「あぁ」と短く応じた。
「うーんうーん……なんだか、嫌な予感がするのよー……。あたしの超絶メカニカル第六感が、あの女の子から不穏な雰囲気を感じ取ってるのよー……」
肩の上のヒュロポスが、小さな頭を抱えるようにして、オレの耳元でぶつぶつと不吉な言葉を囁いている。オレはその声を意識の隅へと追いやりながら、櫛田の端末をポケットへと収めた。
◇ ◇ ◇
だが、事態はそう簡単には進まなかった。
ケヤキモールへ出たオレたちは、櫛田の居場所を掴むために、何人かのクラスメートへと連絡を試みていた。オレは松下や平田に。堀北も、この一週間で連絡先を交換した生徒へとメッセージを送った。
「駄目ね。誰も彼女の行方を知らないわ……。先に寮に帰ったんじゃないかっていう意見が殆どだけれど、ロビーの自動ドアの通過記録にはまだ彼女の名前がないそうなの」
端末の画面を睨みつけながら、堀北が困ったように息を吐く。
「どうする、堀北。このまま寮の部屋に持ち帰って明日の朝に渡すか、それとも、もう少しだけ探してみるか。選択はお前に委ねる」
オレがそう尋ねると、堀北は迷うことなく、強い光を宿した瞳をオレへと向けた。
「探しましょう。端末がないのは、この学園においては財布を丸ごと失くしたのと同じことだわ。今頃彼女、きっと必死に探しているか、途方に暮れているはずよ。なるべくなら、早く届けてあげたいわ」
「……そうだな」
オレは小さく呟き、夜の帳が下りつつあるケヤキモールの天井を見上げた。
善意のクラスメートとして、困っている友人を一刻も早く救いたいという、堀北の純粋な行動原理。しかし、オレの脳裏には、先ほど連絡通路で櫛田と対峙した際に、彼女の足元に蠢いていたあの夥しい量の負のエネルギーを見ていた。堀北も覚醒し、見えていることから何かしらの悩みがあると考えているのだろう。
彼女が内面にどれほどの泥を溜め込んでいるか。そして、そんな彼女が端末を忘れるほどの余裕がないときに、一体どこへ向かうか。
「人目が少なく、この時間帯なら人が殆ど立ち入らないような場所を当たってみよう」
「……不思議な提案ね。どうして彼女がそんな場所にいると思うの?」
堀北が怪訝そうな表情を浮かべる。当然の疑問だ。普段の目に見えている櫛田桔梗なら、真っ先に平田たちに相談するか、人伝に寮や学校に連絡を取るはずなのだから。
けれども今回は徹底して目撃証言が存在しない。それは逆に人の目がないところに姿がある可能性を示している。
「他に手がかりがないだろ」
「……わかったわ。でも人気のないところってどこ?」
堀北は尋ねながら、オレの斜め後ろへと付いてくる。
オレたちが向かったのは、先ほどの打ち上げ会場の近く。ケヤキモールの中心街から個人向けの貸しテナントや小規模なオフィスが多数詰まったとあるビルの屋上だった。この時間帯、営業を終えたテナントばかりの建物には、人っ子一人近づく気配すらない。
その上、何故かこの建物の屋上は誰でも入れるようにどの時間帯でも解放されている。
薄暗い非常階段を上り、錆びついた屋上への鉄扉を、オレは音を立てないように静かに押し開けた。
夕闇の紫色の光が、コンクリートの床を寒々と照らしている。
その空間の、フェンスに囲まれた最果てに──彼女は居た。
背中を激しく上下させ、狂ったようにフェンスを蹴りつけている人影。
「ッふざけんなよ……! 何が私と堀北じゃ選べないって! なんで池なんかにそんなこと言われなきゃいけないのよ! あーっ、気持ち悪いっ! ほんっと、キモい! あの底辺のゴミ屑どもが調子に乗りやがって! 反吐が出る! どいつもこいつも私の前でヘラヘラ笑って、気持ち悪いんだよ死ねよ!」
夜の静寂を切り裂くような、凄まじい絶叫。
それは、日中見せていた人気者で人当たりの良い面影など一欠片も存在しない、どす黒く悪意に満ちた生々しい毒の放射。
「堀北……! 何が『協力させて』よ! 偉そうに上から目線で私に指図して、あいつ本当に何様なの! 昔のことも何もかも忘れたような顔しやがって、目障りなんだよ! 消えろよ! 私の世界からっ! それに綾小路のやつ! なんで堀北なんかに過去問渡してんのよっ! どう考えても私でしょっ! クソっクソっクソっ!」
ガツンッ! と、彼女の華奢な蹴りが鉄製のフェンスを激しく打ち鳴らす。
その凄まじい豹変振りを、オレの隣に立つ堀北鈴音は、文字通り息を止めて見つめていた。彼女の脳裏に、これまで構築されてきた『櫛田桔梗』という少女の虚像が、音を立てて粉々に砕け散っていく。
ヒュロポスなんか「ヒイィィィ、なんまんだぶなんまんだぶ」と羽根をこすり合わせている。
そして、オレのポケットの中で、再びメッセージの受信音が小さく鳴った。
その僅かな電子音を、屋上に佇む少女の耳は聞き逃さなかった。
「――誰ッ!?」
弾かれたように振り返った櫛田の顔。
そこにあったのは、自らの最も致命的な『裏の顔』を完全に晒してしまった人間の、剥き出しの絶望だった。
青白い月光に照らされた彼女の瞳が、暗がりに立つオレたちを、そして──他でもない堀北鈴音の姿を正確に捉えた瞬間、その絶望は、ドロドロとした怨嗟の表情へと歪んでいった。
「……堀北……さん……? それに、綾小路くん……?」
櫛田の声から、いつもの鈴を転がすような透明感が消え失せ、掠れた低いトーンへと変貌する。
「どこから……どこから、聞いてたの……?」
フェンスに背を預けたまま、櫛田は自らの爪が肉に食い込むほどに拳を強く握りしめた。その問いに対し、堀北は未だに現実を受け止めきれないように身体を微かに狼狽えさせながらも、震える声を必死に絞り出した。
「……あなたが……。あなたが、池くんのことを、罵倒しているところからよ……」
その回答を聞いた瞬間、櫛田の唇の端が、不自然なほど歪に吊り上がった。
「ハハ……。なんだ、そこからなんだ……」
櫛田は自らの前髪をがさつにかき上げると、力なく笑った。その笑顔には、もはや仮面を取り繕う気すら感じられない。
「じゃあ、何分くらいここに居たんだろうね? 堀北さんがここに来る前にはさ……もっとたくさんの、クラスの全員に対する本音を吐き出していたんだよ? それを聞かれなかっただけ、まだマシなのかな……」
「櫛田さん……あなた、そんな風にクラスのみんなのことを……」
堀北の言葉に、櫛田は冷酷な、刺すような視線を返す。
「そうだよ。みんな大嫌い。虫唾が走るほど気持ち悪い。それが本当の私。だってそうじゃん? なんなの、あの気持ち悪いクラス? 少し前までいがみ合ってたくせに今じゃみんな仲良く打ち上げ? 気味が悪い。ほんとっ、理解できない……それで、どうするの? これをみんなに言い触らす? 『櫛田桔梗の正体は腹黒』って、教壇の上から高らかに弾劾でもしてみる? ま、あんたはそんなことしないか……」
自暴自棄のような、それでいて相手を試すような挑発。
しかし、異世界での泥臭い闘争を経て、精神的に一歩前に踏み出していた堀北鈴音は、ここで彼女を拒絶する道を選ばなかった。堀北は一歩、自らの足で櫛田の方へと歩み寄る。
「言い触らすつもりなんてないわ……ただ、もしあなたに、それほどのものを抱え込まなければならない『悩み』があるのなら――私で良ければ、話を聞くわ」
かつての孤高のプライドを捨て、他者に寄り添おうとした堀北の、最大級の歩み寄り。
──だが、その言葉こそが、櫛田桔梗という爆弾の、決定的な点火スイッチだった。
「は……?」
櫛田の顔から、完全に表情が消失する。
「悩み……? 話を聞く……? あんたが? は? あはっ、アハハハっ!」
次の瞬間、彼女の喉の奥から、地鳴りのような絶叫が押し出された。
「うざいうざいうざいうざい!! 何様なのよあんた!」
櫛田は激昂し、顔を真っ赤に染めて堀北を指差した。
「何が『話を聞くわ』よ! そんな薄汚い偽善の言葉で! 他人を見下していたあんたが、あんたなんかが! 私の領域に土足で踏み込んでこないで! あんたに私の何が分かるっていうの!? その同情に満ちた哀れむような目が、最高にムカつくんだよ!!」
「私は……そんなつもりは……!」
激しい剣幕に、堀北が気圧されたように一歩後退する。
櫛田はその堀北から視線を外し、今度はあえて背景のように佇んでいたオレの方へと、憎悪の矛先を向けてきた。
「どうせもう知ってるんでしょ、綾小路くん」
「……なんのことだ?」
オレが感情を交えずに問い返すと、櫛田は吐き捨てるようにその単語を口に出した。
「あんたが私じゃなくて堀北を頼った理由なんてそれでしょ! どうせ中学時代のこと聞いたんでしょ!」
中学時代。
櫛田桔梗という存在を決定的に定義づける、過去の因縁。オレがその全貌を掴みかねていると、櫛田はオレの完全な無反応と、それを見て本気で困惑している堀北の表情を交互に視界に収めた。
「……え?」
櫛田の動きが、ピタリと止まる。
「嘘……。話して、ないんだ……? じゃあ、なんで? なんであんたは私じゃなくて堀北を選んだの?」
「なんのこと……? あなたの中学時代の噂って、一体何のことなの?」
堀北のその困惑に満ちた問いかけ。それは、一分の嘘偽りもない、純粋な疑問。
だが、その無知こそが、櫛田桔梗にとっての、決定的なトドメとなった。
彼女は、堀北が自分の過去を知った上で自分を嘲笑している、あるいは、オレが堀北へ過去問を渡した理由がそこにあると思っていたのだ。
堀北鈴音という少女のなかに、櫛田桔梗の過去など、最初から一文字たりとも存在していなかった。
「……そっか」
櫛田の瞳から、完全に光が消え失せる。
「本当に……本当の本当の本当の本当に、堀北さんって、私のこと眼中になかったんだ……。あはは、笑える……。ほんっと、ムカつく……!」
彼女の精神の底流に潜んでいた『歪み』が、限界値を突破し、現実世界の認知と激しく衝突した。
ズズズズズズズッ……!
突如、足元から、腹に響くような不気味な地響きが鳴り響いた。
「な、何よこれ! もしかしてっ――」
堀北が驚愕の声を上げ、コンクリートの床に手をつく。
しかし、これは現実の天災などではない。オレの視界のなかで、屋上の景色が、デジタルのノイズのように激しくブレ始め、周囲の空間が切り替わっていく。
瞬きをした刹那、オレたちの五感は、完全に現実世界のルールから切り離されていた。
ひんやりとした静寂。荒廃したこの場所にしかない独特の空気。
気がつくと、オレたちは現実のケヤキモールではなく、異世界『フォーラム』の一画へと引きずり込まれていた。
「人間さん! 大変なのよ! あれ! あれっ!」
肩の上にのるには少し重いヒュロポスが、恐怖に満ちた声を張り上げる。
彼女の示す視線の先。
いつもなら灰色に崩壊しているはずのフォーラムのケヤキモールの一画に、突如として、現実世界の構造を無視した『異物』が、地面を割って急速に形作られていった。
それは──巨大な、禍々しい装飾に彩られた『映画館』だった。
ネオンサインは不気味な血のような赤色に明滅し、劇場の入り口には、クラスメートたちの顔写真が無数に、そしてその全てが歪に切り刻まれた状態で、ポスターとして貼り出されている。
櫛田桔梗のストレスが限界まで達し、産み落とした、世界を呪うための巨大な舞台。
オレはその建物の威容を見つめながら、自らの内なる力――静かにその肉体へと呼び起こす準備を始めるのだった。