Persona x Classroom of the Elite   作:仔羊肉

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 現実の夜風とは異なる、ひんやりとした静寂が漂う異世界。

 

 その歪んだ空間の片隅で、クラスのアイドルであるはずの櫛田は、完全に意識を失って地面に倒れ伏していた。

 

「ここは……っう」

 

 堀北は頭を押さえて痛みに呻く。二次元バーコードを読みこんだ時とは異なる異世界への侵入方法。どうやらアディトンが出現した際、近くに居た人間は強制的に巻き込まれるようだ。

 

 堀北が放った「あなたの中学時代の噂って、一体何のことなの?」という純粋な疑問──彼女にとってはただの確認に過ぎなかった言葉が、櫛田のプライドを粉々に打ち砕いてしまったのだろう。

 

 あれだけのストレス、二次元コードを影に宿していた少女がアディトンを産み出した。

 

 櫛田桔梗に抱いていた二つの印象を振り返る。

 

 過敏なまでのストレッサー。クラスの人間を見回した時に最も多くの二次元コードを生み出していた少女である。恐らく、一人になれる場所にあった二次元コードの幾つかは櫛田桔梗から物体へ投射された代物だろう。

 

 二つ目はその許容量の多さである。影に映る程の雑多な二次元コードを抱きながら人の目につく所で一度足りとも暴発していないことは櫛田桔梗の精神の強さが伺いしれる。クラスメートの殆どがストレスを感じ。その場に投射することを考えれば、抱え込むという、持ち帰ることができるという性質を持つ櫛田は稀有な存在と言えるだろう。

 

 そんな強靭な精神を持つ女子生徒に防衛機制を働かせる程の精神的衝撃を与えた。どうやら堀北は櫛田にとって重要なキーパーソンであるらしい。

 

「堀北。このままここに居続けるわけにもいかないぞ」

 

「……ええ。とにかく彼女を安全な場所へ運ばないと。でも、この異世界でどう扱うべきかしら」

 

 意識のない人間を異世界に留めておく危険性は計り知れない。オレは周囲の地形に視線を走らせた。

 

「幸いなことに、モニュメントに近い。櫛田を背負って一度現実へ戻ろう」

 

「そうね……分かったわ」

 

 オレは屈み込むと、倒れていた櫛田の細い身体を持ち上げ、自分の背中に背負い直した。どうやら深く意識を落としているみたいだ。

 

 そのまままっすぐにモニュメントへ目指し、現実へと帰還。

 

 視界が激しく明滅し、カビ臭い空気から人工的なコンクリートと夜風の匂いへと切り替わる。

 

 景色が代わりに映し出したのは、高度育成高等学校の屋上だった。

 

 世界が切り替わった瞬間、オレの背中に感じていた重みがすっと消え去った。

 

 いつの間にか足をつけて立っていた櫛田と、オレたちは再び向かい合っていた形を取っている。

 

 しかし、月光に照らされた櫛田の顔には、昼間に見せるような天使のような微笑みは一ミリたりとも存在していなかった。

 

 前髪の隙間から覗く瞳は光を失っており、まるで魂を抜かれた幽鬼のように力なく佇んでいる。彼女はオレたちと目を合わせようともせず、ただ足元を見つめたまま、低く掠れた声で呟いた。

 

「……もう、いい」

 

 それだけを吐き捨てると、櫛田はふらふらとした足取りで屋上の出口へと歩き出してしまう。

 

「……端末」

 

 堀北がその背中に声をかけ、彼女のスマートフォンを差し出した。

 

 櫛田は足を止め、振り返ると同時に乱雑な動作でそれをひったくるように受け取った。一言の感謝も拒絶の言葉もなく、ただ憎悪の籠もった視線を一瞬だけ堀北に向け、そのまま屋上の扉を開けて去っていった。

 

 重い鉄の扉が閉まる音が、夜の静寂に虚しく響き渡る。

 

「……やっぱり、ついていったほうがいいんじゃないかしら」

 

 去っていく後ろ姿を最後まで見送っていた堀北が、不安を押し殺すような声で漏らした。

 

 だが、オレは即座に首を振る。

 

「やめておけ」

 

「なぜよ? あの状態の彼女を一人にしておくなんて──」

 

「櫛田にとって、今の姿をお前に見られること自体が、精神的負荷となる」

 

 オレの言葉に、堀北は言い返す術を失ったように口をつぐんだ。

 

 彼女は悔しそうにギュッと唇を噛み締め、やり場のない感情を殺すように拳を握りしめる。

 

「あのアディトンをどうにかすれば心を開いてくれるかも。ツンツンさんもそうだったし」

 

 不意に、横からヒュロポスが短い翼をパタパタと動かしながら口を出した。

 

 かつて自身もアディトンで自身の歪みと向き合い、ペルソナを覚醒させた堀北の過去を指摘した言葉だ。

 

 堀北はその言葉を噛み締めるように、深く一度頷いた。

 

「……そうね。もしかしたら、彼女に本当の意味で向き合うことができるかもしれない。行くわよ、綾小路くん」

 

「ああ」

 

 オレたちは再び意識を集中させ、端末から二次元コードのログを漁る。一番新しい文字列を押せば――現実のビルの屋上からあの歪んだ異世界、フォーラムへとその身を投じた。

 

 再び踏み込んだフォーラムの景色は、映画館前。恐らくは櫛田桔梗の防衛機制の檻、アディトン。その玄関口に入り存在していたのは──不気味なネオンと過剰な装飾で彩られた、奇妙な『チケット売り場』だった。

 

 入り口の壁には笑みを浮かべた無数の仮面がびっしりと貼り付けられており、オレたちを監視するように見下ろしている。

 

「これが櫛田さんの心の中……」

 

 堀北が警戒露わに周囲を警戒する。

 

 どうやら堀北の時とは違い、門という門は存在しないらしい。オレたちはここが普通の映画館ならシアターが続くであろう道へ向かう。チケットのモギリ台を一瞥して足を進めた──その瞬間。

 

 ズズズ……と不快な重低音が響き渡り、オレたちの目の前の空間が歪み始める。

 

 無数の仮面が溶け合うように降り注ぎ、形を変え、巨大で強固な壁となって突如としてせり上がり、オレたち三人を通せないように立ちはだかった。

 

「これは──」

 

 堀北が息を呑み、つぶやいた時に仮面が割れて、黒い霧が現れ――輪郭を変える。

 

 霧が散り、オレたちの目の前に姿を現したのは四体の異形。

 

 二体の不気味な白い翼を広げた背徳的な天使の異形。そしてもう一体は、妖しい艶めかしさを纏った女悪魔。どこかオレが持つ現ペルソナのリリムに似ている気がする。

 

「戦闘準備」

 

「ええ……ッ!」

 

 オレの合図に、堀北が即座にペルソナを構えて臨戦態勢を取る。

 

 まずは相手の耐性と弱点を探ろう。オレは脳内に眠るペルソナの一体を呼び出す。

 

「来い、ネコショウグン」

 

 青い炎とともに現れた凛々しい猫身の武将が、剣を掲げる。

 

「──『マハジオ』!」

 

 放たれた電撃の閃光が、敵全体へと炸裂した。

 

 ビリビリとした放電音が響き渡り、白い翼の天使型に直撃する。激しい感電とともに姿勢を崩し、力なく膝をついて地面に倒れ込んだ。どうやらあの天使たちにとって電撃は明確な弱点だったらしい。

 

 一方で、妖艶な悪魔型のシャドウにも電撃は通ったものの、ダウンするほどのダメージには至らなかった。そこそこの効き目といったところか。

 

「援護するわ!」

 

 オレの攻撃による隙を見逃さず、堀北がドンピシャなタイミングで声を張り上げる。彼女のペルソナが槍を振り下ろすと同時に、極冷の冷気が悪魔型のシャドウを包み込んだ。

 

「──『ブフ』!」

 

 バリバリと音を立てて氷の暴風が敵の一体を包む。悪魔型のシャドウは甲高い悲鳴を上げ、そのまま氷漬けになって地面へ突っ伏した。

 

 ……なるほど。あの悪魔型には氷結属性がよく通るらしい。

 

「堀北、もう一体だ。追撃しろ」

 

「ええ、任せて!」

 

 属性の優位性を確信した堀北が、間髪入れずに再度『ブフ』を叩き込む。

 

 これで敵の四体全てが体勢を完全に崩し、その場に倒れ伏す──絶好の機会が完成した。

 

「決めるわよ……総員、攻撃!」

 

 堀北の鋭い合図とともに、オレたちは一斉に敵の渦中へと踏み込んだ。

 

 交差する斬撃と冷気と暴風の連撃。全員による怒涛の集中攻撃が四体のシャドウを同時に撃ち抜き、爆散する黒い霧となって消滅させた。

 

 ──これで一旦、戦闘は終了したかに思われた。

 

 しかし、オレたちが息をつく間もなく、上空からコロコロと不気味な音を立てて新たな仮面が幾つも落ちてくる。

 

 ゆらり、と床から濃密な黒い霧が再び湧き出し、新たなシャドウの輪郭を形作ろうと蠢き始めた。防衛機制による無制限の拒絶反応。この場所にとどまって倒し続けるのは効率が悪すぎる。

 

「……キリがないな。撤退するぞ!」

 

「っ!? 了解っ」

 

 オレの指示に、堀北も瞬時に状況を理解して頷いた。オレたちは背を向け、映画館の出口を目指して全力で駆け出す。

 

 追いかけてくる黒い霧が完全に形を作る前に振り払い、間一髪で映画館の出口をくぐり抜けた。

 

「はっ……はっ……くっ……!」

 

 アディトンの入口前まで逃げ延びたところで、背後を確認する。出口から出てきた所で一度叩こうと構えてみるが、やはりシャドウは映画館から出てこないらしい。あれは櫛田桔梗の防衛機制が生み出したシャドウ。アディトンの内部を守る警備員のようなものなのだろう。

 

 オレの思考を他所に堀北は肩を激しく上下させながら荒い息を吐き出している。

 

 周囲の安全を確認してから、静かに言葉をかけた。

 

「今日は一旦、引き上げるぞ」

 

「待ちなさい……っ。まだ、動けるわ。あんなところで立ち止まっている余裕はないはずよ。櫛田さんのことを考えたら、一刻も早く奥へ──」

 

 堀北は眉をひそめ、不満を露わにして渋った。だが、その顔色には隠しきれない疲労が滲み出ている。

 

「お前が自覚している以上に、精神的な疲労は募っている。この状態で焦って深入りすれば、足元を掬われて全滅しかねない」

 

「それは……」

 

「そもそも今日はお休みの予定なのよー! 美少女は定期的に休みを取らなければお肌に悪いの!」

 

 横からヒュロポスが短い翼をパタパタと力なく羽ばたかせながら、大袈裟に口を挟んだ。

 

「ツンツンさんもさっきから息が上がりっぱなしじゃない! 無理して倒れたら元も子もないのよ!」

 

「……っ」

 

 自分自身の体力の限界と、客観的な意見を突きつけられ、堀北は悔しそうに目を伏せた。恐らく、堀北のペルソナと櫛田のアディトンのシャドウ。厳しい戦闘になるだろう。

 

 シャドウには強さ、段階というものが存在しうる。ヒュロポスはレベルと呼んでいた。またオレたちにもその概念は適用されるらしく、戦闘の経験を積めば積むほどにペルソナは強くなるらしい。

 

 そういった観点から焦点を当てれば先ほどの戦闘は奇跡的に上手くいったものだった。先手からの一方的な制圧だったが一歩、間違えれば相当な被害があったかもしれない。

 

 堀北は胸元にそっと手を当て、乱れた呼吸を整えるように深く息を吐き出す。

 

「……分かったわ。あなたの言う通りね。今は一旦引き返して、万全の状態でやり直しましょう」

 

 堀北は渋々ながらも引き下がることを承諾した。

 

 オレたちは再度としてモニュメントへと引き返し、現実へと帰還した。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 翌朝、教室の扉を開けた瞬間、肌を刺したのは異質なまでの緊張感と、一斉に集まる鋭い視線だった。

 

 席につく間すら与えられない。教壇の脇を抜けようとしたオレの前に、待ち構えていたかのように池が立ちふさがった。その顔には明らかな不信感が漲っている。

 

「……綾小路。お前に聞きたいことがある」

 

 開口一番、低い声で池が問い詰めてきた。

 

「お前……四月の時点で、俺たちの授業態度や遅刻がポイントの評価に直結してるって知ってたんだろ? なんで黙ってたんだよ!」

 

 その声は静まり返った教室内に大きく響き渡った。

 

 すぐさま、教室の後方にいた堀北が眉をひそめ、近づいてきて、冷然とした声で間に割り込もうとする。

 

「落ち着きなさい、池くん。朝から何の大騒ぎなの――」

 

「堀北には聞いてねぇんだよ!」

 

 池は激昂し、堀北の言葉を強引に遮った。そこに、隣の席から山内も威圧するように身を乗り出してきた。

 

「そうだぞ! 知ってたんならなんで教えてくれなかったんだよ! お前が最初から一言言っといてくれりゃ、俺たちのポイントがゼロになることなんてなかったんじゃねーか!」

 

 山内の叫びに呼応するように、クラスの複数人から不満げな視線がオレへと向けられる。彼らの怒りの火種がどこから撒かれたものか、考えるまでもなく理解できた。

 

 さらにそこへ、席に座っていた女子生徒の一人――東咲菜が、周囲に伺いを立てるような微妙な声で呟いた。

 

「……でも、堀北さんも綾小路くんからその話、聞いてたって聞いたんだけど」

 

 その言葉が落ちた瞬間、事情を知らなかった池たちの表情が一変した。

 

「……は? どういうことだよ、堀北! お前も知ってたのか!?」

 

 教室のボヤが、一気に大きな炎へと変わる。

 

 情報源は間違いなく櫛田桔梗だろう。

 

 自らの裏の顔が暴かれた焦燥とストレス。彼女は自分の立場を守るため、堀北やオレへクラスの敵意を向けさせる。自身の求心力を維持し、新たなリーダーを排斥するために裏で糸を引いている。

 

「みんな、一回落ち着こう! まだ始業前だし、話し合いなら――」

 

 平和主義者である平田が慌てて間に入り、事態を収めようと声を張る。しかし、一度「自分たちの損失を他人の責任に転嫁したい」という欲求に囚われた人間を止めるには、善意だけではあまりにも無力だった。

 

 騒然とする教室の中、堀北はゆっくりと言葉を続ける。

 

 その表情に狼狽や怯みは一切ない。自らの未熟さを認めた少女の瞳は、どこまでも冷ややかで澄んでいた。

 

「……そうよ。私は確かに、四月の段階で彼からその可能性を示唆されていたわ」

 

 堂々と認めた堀北の言葉に、池たちが息を呑む。堀北は言葉を止めることなく続けた。

 

「そして、当時の私の認識が甘かったことにも後から気づいた。ポイントの減点対象は個人的な評価ではなく、クラス全体の連帯責任だったのだとね」

 

「じゃ、じゃあなんで教えねぇんだよ! 知ってたんだろ? クラスメートなら教えるのが普通だろ!」

 

 山内が一歩近づいて怒鳴り散らす。

 

 それに対し、堀北は一切の情け容赦もなく、自らの当時の冷淡な本心を言葉にして突きつける。

 

「当時の私にとって、あなたたちはただの『授業を妨害する不真面目な生徒』でしかなかったからよ。正直に言って、何の感情も……いえ、良い印象なんて微塵も抱いていなかった。むしろ嫌悪感の方が先だっていた。だから、あえて手を差し伸べるつもりもなかったわ」

 

 一切の虚飾を排した直球の言葉。

 

 あまりにも率直すぎる拒絶に、山内は顔を真っ赤にして叫んだ。

 

「なんだよそれ! なんて冷たい女だ! ありえねぇだろ! クラスメートを見捨てるなんてよぉ!」

 

「――それって、何かおかしくない?」

 

 山内の怒号を切り裂くように、冷めた声が響いた。

 

 声を上げたのは、松下千秋だった。彼女は心底呆れたといった様子で山内を見つめている。

 

「なんで授業態度が真面目だった堀北さんが責められてて、授業中に騒いでいた山内くん達が偉そうに責めてるの? 普通、逆でしょ」

 

「うっせーな! そもそもそんな重要な話があったなら、俺だって最初から真面目に授業受けてたっつの!」

 

 山内がなりふり構わず逆上するが、松下は溜息をつきながら淡々と正論を叩きつけた。

 

「……はぁ、本当に話が通じな。頭悪すぎ。むしろ堀北さんはそれだけ迷惑をかけられたのに、過去問まで用意して手を差し伸べてくれたんでしょ。 感謝こそすれ、責められる謂れなんてどこにもないじゃん」

 

 幾人かの女子や真面目な層の生徒たちが、松下の言葉に同意の声を出す。

 

 その集団からの意見に対して言葉に詰まった山内は、顔を歪ませながら矛先を強引にオレへと向け直した。

 

「じゃ、じゃあ綾小路はどうなんだよ! こいつは堀北と違ってオレたちを助けてもくれねぇし、最初から知ってたくせに黙ってたんだから、こいつが一番悪いだろ!」

 

 自分たちの非を認められない山内の見苦しい責任転嫁。

 

 そこに、眉間に深いシワを寄せた幸村が勢いよく立ち上がった。

 

「一番悪いのはどう考えても不真面目だったお前たちだろ! なんでお前らはそんなに被害者面できるんだ!」

 

「そうかもしれないけどさ!」

 

 池が苦し紛れに食い下がる。

 

「でも一言くらいチャンスくれても良かったじゃねーか! ちゃんと説明されてたら、俺たちだって真面目に授業受けてたかもしんねーじゃん……なぁ、健!」

 

 池が助けを求めるように同意を求めた相手――須藤健は、腕を組みながら難しい顔をして黙り込んでいた。須藤からしてみれば友人と恩人の激突。その苦悩が表情に浮かんでいる。

 

「……いや、それはわかんねーだろ。少なくとも俺は……あの時点じゃ、言われても授業中に寝てたかもしんねぇ」

 

「友達なんだから、俺たちの味方しろよ! 使えねぇな!」

 

 山内が吐き捨てるように叫んだ瞬間、須藤の顔つきが変わった。

 

「あぁっ!?  んだと春樹、もう一片言ってみろ!」

 

 須藤が凄むと、室内の緊張感が跳ね上がる。

 

 険悪な空気が教室全体を覆う中、オレはただ淡々と、その崩壊の構図を観察していた。

 

 その時、不満のやり場を失った山内が、苛立ちを剥き出しにしてオレへと歩み寄ってきた。

 

「そもそも、全部お前のせいなんだよ!」

 

 目の前に突きつけられる山内の指。

 

 その時、オレの肩の上でピンクの影――ヒュロポスが機動音を明滅させた。

 

「んまー! なんて言い草なの! どう考えても人間さんは悪くないのね! あんまり人間さんを悪くいうとあたしがシャドウみたいに退治しちゃうのよ! ボコボコのボコなのよ! ボコボコ大作戦なのよー!」

 

 甲高い抗議の声。しかし、周囲の人間にはただの「ピピピ」という音にしか聞こえないのだろう、羨ましい。

 

「うるせぇんだよ、このオモチャ! ふざけてんのかっ!」

 

 山内は苛立ちまかせに、オレの肩の上にいる、容赦なく裏拳ではたこうとした。

 

 ――瞬間。

 

 山内の手首は、ヒュロポスに触れる直前でピタリと止まる。

 

 オレが振りあげた山内の腕を掴んでいたからだ。

 

「ふぁ……ふぁぁぁぁぁ! 人間さんがあたしを守ってくれたのねー! やっぱり人間さんってばあたしのこと好きすぎなのよー! んもーっ! 本当に可愛いんだからー! んちゅー! んちゅー!」

 

 耳にじゃれてくるヒュロポス。チクチクとした羽根の感触が地味に痛い。

 

 そんなヒュロポスを狙った裏拳。堀北学とは比べるのも烏滸がましいほどの無力な暴力。止めることも、避けることも、弾き返すことも。あまりにも取れる選択肢が多すぎて反応が遅れても尚、対処することは安易だった。

 

 軽く握っていれば、山内の顔が歪み、そのまま膝から崩れ落ちる。

 

「が、あっ……! 痛ぇ! 離せ、離せよ!」

 

 悲鳴を上げる山内を無感情に見下ろしながら、オレは緩やかに手を離した。

 

 山内は腕を抱えるようにして地面に倒れ込み、痛みに耐えながら周囲の生徒へとしがみつくような視線を送る。

 

「い、今! 俺、暴力振るわれたよな!? みんな見ただろ!」

 

 しかし、教室内を支配したのは冷ややかな沈黙だった。

 

 どう見ても山内が先に手を上げ、それを防がれただけなのは明白だったからだ。だが、冷静さを欠いた池は山内を庇うように立ち上がり、オレに向かって怒りを露わにする。

 

「綾小路……! いくらなんでも、こういうのは良くないだろ!」

 

「待ってくれ、池くん!」

 

 平田が必死に間に割り込み、声を張り上げる。

 

「今のはどう見ても山内くんが――」

 

 平田が事態を収拾しようと、必死に言葉を紡ぎかけたその時だった。

 

「――じゃあ、平田くんはどう思うわけ?」

 

 教室前方の席、だるそうでありながらも、刺すような鋭さを含んだ声が上がった。

 

 軽井沢恵だった。彼女は自分の席で腕を組み、脚を組んだまま、冷ややかな視線を彼氏である平田へと向けている。

 

「平田くんはさ、優しいからみんなのせいにはしないけど……実際どう思ってるの? あたしは正直な話、池くんたちの言い分も少し理解できる」

 

「……え?」

 

 思いもよらない角度からの追及に、平田が「それは……」と言葉を詰まらせた。クラスのまとめ役として、誰か一方を非難することを極力避けてきた平田にとって、軽井沢のストレートな問いかけは最も答えにくい毒だった。

 

 軽井沢は平田の動揺に構うことなく、周囲の女子グループの視線を集めながら言葉を重ねる。

 

「確かに、授業中に騒いでたり携帯弄ってたりしたあたし達が悪かったのは認めるよ。でもさ、それを見捨てる前提で黙ってたってのは、やっぱり腹立つじゃん。それってつまり、後で痛い目を見ればいいって思われてたってことでしょ?」

 

「そうだ! そういうことだろ!」

 

「そうだそうだ! 俺たちがゼロになって困るのを陰で嘲笑ってたんだろ!」

 

 軽井沢の放った『見捨てられた』という言条を得て、池と山内が鬼の首を取ったかのように激しく賛同の声を上げた。不真面目だった自分たちの罪悪感を、「最初から見捨てるつもりだった他人の冷酷さ」へとすり替える論理。一度火がついた被害者意識は暴走を始める。

 

 その居直りに、我慢ならなくなった様子で松下が再び口を開いた。

 

「……それを、軽井沢さんたちが言うの? 平田くんや櫛田さん達が何回も注意して止めようとしたのに、それを無視して携帯弄ったり喋ったりしてたのは自分たちでしょ?」

 

 松下の正論。だが、軽井沢は眉ひとつ動かさず、薄く嘲笑うような笑みを浮かべて松下を射抜いた。

 

「だからそれは悪かったって認めてるじゃん。そういえば……松下さんも、気づいたんでしょ? だから途中で急に態度変えて、うちらと付き合い悪くなって、みーちゃんを引き連れて堀北さんたちにすり寄り始めたわけじゃん」

 

「っ……!」

 

 松下の身体が、ピタリと動きを止めた。

 

「……だったら、何?」

 

 松下の声から温度が消え、低い威圧感が滲み出る。自身もまた隠していた観察眼や立ち回りの不自然さを突きつけられた動揺。しかし軽井沢は、肩をすくめて軽薄な態度を崩さない。

 

「別にー? ただ、松下さんってそういう人なんだって話。自分の利益のためなら、今まで仲良かった子を平気で捨てられるんだねって思ってさ」

 

「っ――――」

 

 松下は真っ赤になったり蒼白になったりを繰り返し、悔しそうに唇を強く噛み締めて黙り込むしかなかった。

 

 軽井沢の言葉は正論でも何でもないただの情に訴える言葉に過ぎない。しかし、「クラスの空気に流されず、早々に鞍替えした」という事実があるだけに、松下としてもそれ以上反論すれば余計に自分の立場を悪くすると瞬時に計算したのだろう。

 

 ギスギスとした空気が女子グループの間にも広がっていく。平田は顔を青くし、二人を宥めようと「二人とも、落ち着いて――」と手を差し伸べかけた。

 

 だが、その善意の制止すらも、山内の叫びによって掻き消された。

 

「信じられねぇ! なんでどいつもこいつも自分のことしか考えられねぇんだよ!」

 

 山内は頭を抱えながら、周囲のクラスメートを心底蔑むような顔で批判する。池もその興奮を引き継ぐように、平田に向かって罵声を浴びせた。

 

「平田はいいよな! まだポイントが残ってるからそんな悠長なこと言えるんだろ! どうせ、四月の時点で気づいてた奴らはポイント残してんだろ! だからそんなに余裕ぶってられるんだ!」

 

「池くん、僕はそんなつもりじゃ――」

 

「オレたちを本当に助ける気があるなら、その残ってるポイントを分けてくれよ! じゃなきゃ不平等だろ、こんなの! そしたら許してやるよ!」

 

 山内が本性を剥き出しにして叫んだ。

 

 開いた口が塞がらないほどの理不尽な要求に、教室内には呆れ果てた空気が漂う。幸村や須藤、その他の真面目な生徒たちも、もはや言葉を失って彼らを見つめるしかなかった。

 

 ――その、誰もが沈黙し、クラスが醜く瓦解しかけた絶望的なタイミングで。

 

「――私なら、いいよ」

 

 鈴を転がすような、清涼で心優しい声が教室に響いた。

 

 すっと立ち上がったのは、櫛田桔梗だった。

 

 彼女は心を痛めたような、どこか申し訳なさそうな儚い笑みを浮かべながら、ゆっくりと教室の中央へと歩み出る。

 

「私の注意じゃ、四月のみんなを止められなかったし……それに、みんなが今、ポイントに困って辛い思いをしてるのも知ってるから。私の余ってるポイントでよかったら、みんなで分け合うよ」

 

「っ! 櫛田ちゃん……!」

 

 天使の救済。池と山内の目が歓喜に輝く。

 

 だが、その言葉に真っ先に鋭い反論を叩きつけたのは堀北だった。

 

「待ちなさい、櫛田さん。冗談じゃないわ、なぜあなたがそんなことをする必要があるの? 彼らにポイントがないのは、ただ単に彼らが自分の欲望に任せて散財した結果でしょう!」

 

 正論だ。そして堀北は現在着いてくる人間を守るためにその言を絶対に退けない。

 

 櫛田は傷ついたように眉をひそめ、堀北を責めるでもなく、ただ哀しそうに言葉を返した。

 

「でも、堀北さん……ポイントが減るってわかっていながら、みんなに教えなかったのも酷いと思うの。知っていたなら、もっと強く注意することだって出来たはずだよね……?」

 

「それは……っ」

 

 堀北が息を呑む。

 

 櫛田の追撃は、止まらない。彼女は教室全体を見渡すように、慈愛に満ちた声で「毒」を撒き散らしていく。

 

「だから、池くんや山内くんが怒っているのは……ポイントがないことそのものじゃなくて、『仲間だと思ってたのに見捨てられた』ことなんじゃないかな……。誰だって嫌だよ、そんなの……悲しいよ」

 

 ――完璧な一撃だった。

 

 理論ではなく、人間を理解している故の統制。後ろめたさや罪悪感、倫理観があればその言を否定することなどできやしない。ましてやDクラスという劣等生、もしくは過去に何かしらの傷を持つ人間にとってその毒は致命的であった。

 

 櫛田のその言葉は、優しさと理解の仮面を被りながら、クラスの深層に刺さる致命的な「毒」は波紋を広げた。

 

 四月の途中で違和感に気づき、堀北の勉強会に参加して交友関係を変えた生徒たち――松下千秋や王美雨といった面々の顔が、目に見えてに強張る。

 

 櫛田は一見すると無私無欲な聖女の行動に見える。だがその実、堀北とオレを「クラスメートを見捨てた冷血漢」として完全に孤立させると同時に、危機を察知して抜け駆けした松下たちにも「仲間を見捨てた罪悪感」を植え付けて縛り上げる、計算し尽くされた心理操作だ。

 

 自分を脅かす存在の求心力を根底から粉砕し、クラスの主導権を再び自分の「優しさ」のもとに引き戻す。

 

 そのポテンシャルの高さに舌を巻き、堀北にはない方向性での強みが遺憾無く発揮されていることに感心してしまう。

 

 クラスの分断は、今や修復不可能なレベルへと足を踏み入れつつあった。そして正道や正論を用いる堀北のスタンスではうまくいった所で派閥を二分することでしか場を収めることしかできないだろう。

 

 そして、クラスの中で対抗できそうな平田はこの状況下において櫛田の意見に寄るかもしれない。櫛田の提案を元に仮初の平和を作ることでしか彼の平和主義は成り立たない。優秀な人間の意見を封殺し、不満を見過ごして。

 

「に、人間さん、ど、どうするのよー! あのおバカさん二人は間違ってるのにどうしてみんな言わないのよー!」

 

 ヒュロポスの発言に小さく溜息を吐きながら、オレは表舞台に立つかどうか頭を悩ませる。けれども、これまでの行動の結果から考えれば幸いなことに違和感はないのだろう。

 

 フォーラムを優先するあまり、手札をある程度公開していたことが功を奏す。

 

「山内、池」

 

 オレは二人の名前を呼び、静かにその問いを投げかけた。

 

「──お前たちは、櫛田に『そう言えばポイントが手に入る』と唆されたのか?」

 

 その瞬間、二人はあからさまにうろたえた。

 

「は、はあ!? な、何言ってんだよ綾小路! 唆されたとか、そんなんじゃねぇし!」

 

「そ、そうだぞ! 俺たちはただ、お前たちの不誠実さに腹が立って……!」

 

 視線を泳がせ、どもりながら必死に否定の言葉を並べ立てる池と山内。その狼狽ぶりは、第三者から見ても彼らの言動が自発的なものではないことを暗に物語っていた。

 

 櫛田桔梗の戦略は、何一つ間違ってはいない。

 

 堀北の台頭を許さないのであれば、彼女がクラス内で信頼を得始め、影響力を持ちつつある『今』この瞬間に叩くことは正解だ。

 

 もしもこれから先、堀北がさらなる実績や信頼を重ねてしまえば、敵対者よりも味方のほうが確実に増えていく。

 

 一度そうなってしまえば、大勢の支持と正論を味方につけた堀北を簡単に陥れることなどできなくなる。だからこそ、彼女にとって仕掛けるタイミングは『今』しかなかったのだ。

 

 櫛田桔梗の戦略は正しい。けれども、彼女の唯一の失敗は──。

 

「今回の件における協力者は……東、池、軽井沢、山内、他にも居るかもしれないが最低でも四人」

 

 オレが淡々と名前を挙げると、槍玉に挙げられた軽井沢恵が、一瞬だけ眉を跳ね上げた。

 

「っ……ちょっと何言ってんのさー、綾小路くん? 変な言いがかりつけないでよ」

 

 いつもの軽い態度で笑い飛ばし、否定しようとする軽井沢。しかし、オレと視線が真っ向から交わった瞬間、彼女の言葉は喉の奥でピタリと途切れた。

 

 唯一の失敗は――時間をかけなかったこと。タイミングが今しかなかったとしても外堀を埋めるべきだった。

 

 今回、彼女の協力者がこれほどまでに少なかったのは、この工作が『昨日の今日』で急遽実行されたものだったからだ。

 

「な、なんのことだよ……?」

 

「協力者って……急にどういうことだ?」

 

 意味を測りかねたクラスメートたちが困惑の声を漏らし、ざわつきが広がりかける。 

 

 ──その波紋を打ち消すように。

 

「――やめて!」

 

 悲鳴にも似た、櫛田桔梗の大声が教室内にはじけ飛んだ。

 

 彼女の表情から、先ほどまでの悲劇のヒロインめいた儚さは綺麗に消え失せていた。

 

 櫛田桔梗は、自ら好んで先手を打ったわけではない。打たざるを得なかっただけなのだ。

 

 昨夜、屋上で自身の「裏の顔」をオレたちに見られたが故に、先んじてオレと堀北の信憑性をクラス内で下げるしかなかった。いつオレたちに裏の顔をバラされるかわからないという恐怖と焦燥の下で、大人しく時間をかけて周囲を味方で固め、外堀を埋めることなどできなかった。

 

 だからこそ──池と山内、そしてポイントに困っている軽井沢、さらには軽井沢にポイントを貸してしまったことによって困窮していた東を基軸に使わなければならなかった。

 

 その中でも、軽井沢恵は良い駒であったと言えよう。

 

 女子グループの中で強い発言権を持ち、持ち前の攻撃的な言葉で、松下千秋を真正面から黙らせた手腕は評価に値する。

 

 けれども──それだけだ。

 

 仕掛けられた構造の全てが露呈しているのだとすれば、その戦略には一切の価値がない。

 

「──池、山内、軽井沢、そして東」

 

 オレは教室内を包む重苦しい沈黙を切り裂き、淡々と言葉を繋いだ。

 

「お前たちは昨日から今朝にかけて、櫛田から連絡をもらっていたはずだ。ポイントが尽きて困窮している現状を見透かされ、その上で解決策を提示されたんじゃないのか? ──『クラスのポイントが余っている人間から徴収して、再分配すればいい』とな」

 

 その言葉が落ちた瞬間、教室内が一気にざわめいた。

 

「なっ……!?」

 

 勢いよく机を叩き席を立ち上がったのは、幸村だった。彼は信じられないといった様子で目を見開き、池や山内たちを怒気に満ちた眼光で激しく睨みつける。

 

「まさかお前たち……そんな荒唐無稽な話を本気で信じたのか!? クラスの金を巻き上げて配り直すなんて、通用するわけがないだろうが!」

 

「や、いや……ち、違う! 俺たちはただ──」

 

 幸村の怒号に気圧され、池は「違う」と言い張ろうとするものの、焦りから視線をあちこちに彷徨わせた。その分かりやすすぎる挙動こそが、オレの言葉の正しさを証明していた。

 

「恐らくその際、お前たちは櫛田から吹き込まれたはずだ。オレが四月の半ばから学校のシステムを見抜いていたこと。そして、お前たちを見捨てるつもりで黙っていた、とな」

 

 オレは一歩、教壇の脇から踏み出し、言葉を重ねる。

 

「そして軽井沢には──最近になって松下の態度が冷たくなった理由を教え込んだはずだ。『松下たちは裏で堀北にすり寄り、自分たちだけ助かろうと仲間を捨てたんだ』とな。東には堀北のことも追加して話していた筈だ」

 

 オレの言葉に、軽井沢恵の体がビクッと跳ねた。

 

 普段の強気で攻撃的な姿勢は完全に影を潜め、彼女は居心地悪そうに視線を泳がせる。

 

「……軽井沢さん」

 

 平田が、痛々しそうな表情で軽井沢を見つめ、静かに尋ねた。

 

「……本当に、櫛田さんからそんな話を聞いたの?」

 

 周囲からの冷ややかな視線と平田の問いかけに耐えかねたように、軽井沢はぎゅっと唇を噛み締め、気まずそうに顔を背けながら小さな声で頷いた。

 

「……っ、ごめん」

 

 軽井沢が認めた瞬間、教室内はいよいよ逃げ場のない真実へと塗りつぶされていく。完全に向かい風となった形勢不利を察し、真っ先に保身へと走ったのは山内だった。

 

「そ、そうなんだよ! 櫛田ちゃんがお前らが知ってたから見捨てたやつらも悪いっていうんだよ! だからポイントわけてもらえるはずって!」

 

 山内は自分たちの非を隠すように、なりふり構わず大声で叫んだ。

 

「おい、春樹……!」

 

 池が慌てて山内の袖を引っ張るが、一度崩れ落ちたタガはもう止まらない。池もまた、山内と櫛田の顔を交互に見比べながら、しどろもどろに白状した。

 

「れ、連絡もらってオレも『そう言えばポイントもらえるかも』って……話を聞いてる内に本当にそんな気がしてきて……っ」

 

 二人の醜い暴露と責任転嫁。その隣で、軽井沢にポイントを貸してしまったことによって困窮していた東咲菜は、クラス全体からの蔑むような視線と事態の異常さに耐え切れず、俯いて泣き始める。

 

 自らの企みが完璧に暴かれ、利用したはずの駒たちから次々と裏切られていく状況。

 

 絶体絶命の窮地に立たされた櫛田桔梗は、大粒の涙を瞳に浮かべ、傷ついた少女そのものの痛々しい声で言葉を絞り出した。

 

 その態度からまだ櫛田桔梗は詰みではないことを察する。恐らく、決定的に本性がバレる可能性はまだ無いのだろう。

 

「みんな……っ、酷いよ……!」

 

 櫛田は胸元に両手を当て、悲痛な面持ちで叫ぶ。

 

「みんながポイント困ってるから明日、私がみんなの前で私のポイントを分け合うように提案してみるねって……! 他に賛同してくれる人がいるかもって言っただけなのに……っ!」

 

 あくまで『困っているクラスメートを助けようとした善意』であったとすり替え、哀れみを誘おうとする完璧な演技。

 

 ──だが、そのすり替えすらも、パニックに陥った山内には届かなかった。むしろ、その山内の醜悪さが櫛田を被害者の一人として演出する。

 

「も、貰えなかったじゃん!」

 

 山内は顔を歪ませ、容赦なく怒声を浴びせる。

 

「櫛田ちゃんがそんなこと言わなければ良かっただけだろ!」

 

 自分が甘言に乗せられた被害者であると言わんばかりの、あまりにも見苦しい責任転嫁。

 

「っ…………!」

 

 言葉を失い、絶句する櫛田。

 

 蒼白な顔で震える櫛田桔梗の唇から漏れたのは

 

「酷いよ……山内くん………」 

 

 ここに至って、櫛田が全ての元凶とする雰囲気は霧散している。山内の行動が櫛田を守る一手となっている。無論、ここで昨日のことや更なる問いで追い詰めることも可能であるが――。

 

「どんな理由であれ、私たちはポイントを割譲する気はないわ。今回の騒動の原因……それを追求する気もない」

 

 堀北の毅然とした態度に全員が注視する。池は恐縮し、山内はラッキーと小さく口にしていた。櫛田は俯いたまま肩を震わせている。

 

「今回、画策したことはクラスに百害あって一利ないことを自覚して頂戴。こんなことでクラスが揉めればまたクラスポイントがゼロに戻るかもしれない」

 

「おいおい堀北、何言ってんだよ。今はどうせポイントゼロだぞ!」

 

 山内か誰かが、吐き捨てるように嘲笑を交えてツッコんだ。

 

「そうよ、今はゼロ──けれど今回の中間試験で退学者を出さず、全員で乗り越えた。クラスポイントが付与されると確認を取っているわ」

 

 堀北の迷いのない声が、教室内を凛と通った。

 

「つまり、今週を乗り越えて来月を迎えれば、僅かながらも全員にプライベートポイントが手に入ることになっているの。あなたたちが投げ出さず、中間試験を頑張った結果として……あと一週間もすれば、ポイントが入ってくるのよ」

 

「っ……そ、それ……本当なのか!?」

 

 池が目を見開き、縋るような視線を堀北に向けた。堀北は一切の揺らぎもなく、自信を持って静かに頷く。

 

 その確かな返答に、池の顔から一気に血の気が引き、次いで強い羞恥と反省の色が浮かんだ。

 

「……ごめん。オレ、まじで馬鹿だったわ……。ずっとプライベートポイントなんて二度と貰えないんじゃないかって不安でさ……焦ってこんな馬鹿なことしちまった!」

 

 池は深く頭を下げた。自分の愚かしさと、見通しの甘さを素直に認めた謝罪。堀北はその謝罪を穏やかに受け止め、クラス全体へと視線を巡らせる。

 

「ポイントがないという現状が、どれほど強い不安を与えるかは理解している。だからこそ、今回のような騒動が起きてしまった。けれど、その問題は、私たち自身の手で解決する能力があるはずよ」

 

 堀北は一度言葉を切り、言葉に強い意思を込めた。

 

「今後、何か不安や悩みがあったら、軽率な行動を起こす前に、遠慮なく私に相談してちょうだい。……私は、あなたたちの力になりたいと思っているから」

 

 その力強い宣言に、教室内を包む雰囲気が明確に変わった。

 

 正義を振りかざすだけだった孤高の少女が、クラスの苦痛を受け止め、救いを与える存在へと変化した瞬間。堀北鈴音という存在の求心力は、今朝の騒動を経てさらなる高みへと昇華していた。

 

「……そうだね。僕も堀北さんに賛成だよ。何か困ったことがあれば、一人で抱え込まずにみんなで話し合おう」

 

 平田が即座に堀北の言葉に賛同し、穏やかな笑みでクラスを包み込む。松下や軽井沢たちも、気まずさを残しつつも互いに視線を逸らし、これ以上の追及を行わないことで一応の和解──クラスの鎮火を受け入れた。

 

 そして、本来ならば誰よりも早く可憐な笑みを浮かべ、平田や堀北の言葉に追及の和を広げるはずの櫛田桔梗だけは──。

 

 自身の描いた筋書きを完璧に砕かれ、俯き、ただ肩を小さく震わせていることしかできなかった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 放課後。オレたちは早々に寮へ戻り、異世界『フォーラム』へと足を踏み入れ、アディトン攻略を再開する。

 

 映画館へと向かうまでの道すがら、前を歩いていた堀北がふと足を止め、振り返ることなくオレに問いかけてきた。

 

「……ねえ、綾小路くん。今朝の出来事──あれは、やっぱり櫛田さんの仕業だったのかしら」

 

「ああ」

 

 オレが短く肯定すると、堀北は小さく息を吐き出した。

 

「やっぱりそうなのね……。だからあなたは今朝、登校してすぐの私に『今回の中間試験を乗り越えたことによる報酬が存在しないか確認しろ』と促したのね」

 

 堀北の頭脳であれば、オレの意図を察するのは容易だったはずだ。

 

「今回の中間試験は、ただの定期テストとするには仕掛けがあまりにも多すぎた。過去問の存在、平均点の半分という赤点基準……そして、プライベートポイントによる点数のかさ増し」

 

 オレの言葉に堀北は当時の驚きを思い返すように、声音を揺らす。

 

「茶柱先生から買い取りのルールを聞いたときは、心底驚いたわ……。まさか本当に、プライベートポイントでテストの点数が買えてしまうなんて。それも、一点につき十万ポイントという金額でね」

 

「そうだな。万が一、平均点に届かなくても救済する方法が存在した」

 

「ええ。……でも、疑問が残るわ。もしかして学校側は、あらかじめ点数の売買まで想定してシステムを組んでいたのかしら?」

 

「そう考えておいた方が妥当だろうな」

 

「……だからこそ、あなたはこの中間試験がただのテストではなくクラスポイントの変動──つまり、クラスポイントの支給に関わる可能性が高いと判断したのね」

 

「そうだ。ポイント困窮によるクラスの不満や分断を根底から無効化できる。櫛田の煽った貧困を利用する心理工作は、その前提ごと崩れ去るからな。最も、昨日今日で仕掛けてくる可能性は低いと思っていたが」

 

 オレの言葉に、堀北は深く一つ頷いた。

 

 彼女の瞳には、クラスの危機を乗り越えた自信と、その裏で糸を引いていた櫛田桔梗という歪んだ存在に対する、新たな決意が宿っていた。

 

「……どうして、気づいたの?」

 

 堀北は振り返って真剣な瞳を向けてくる。

 

「簡単な話だ、櫛田にとって堀北の求心力を下げるのは今しか存在しなかった。そして今、お前を貶めようとする方法は四月の頃の態度を槍玉に挙げるしかない。そこまで思考を凝らせば、選べる手札は自ずと限られてくる」

 

 前を歩くヒュロポスがオレを見上げて小首を傾げる。

 

「でーも、不思議なのよー!」

 

「不思議?」

 

 ヒュロポスの疑問に堀北がオウム返しのように呟く。

 

「だってなんでツンツンさんを狙うのー?」

 

「それは昨日、櫛田さんの裏の顔を見たから――」

 

「それは違うのよー? だってツンツンさん、いっつもいっつもあのマックロクロスケさんに邪魔されてたじゃない!」

 

「……意識しないようにしてたけれど、やっぱり最初から嫌われていたのかしら」

 

「まー、ツンツンさんもあたしほどじゃないけれどまぁまぁ可愛いんだし、仕方ないのよねー! 女の嫉妬って怖いのよ」

 

 オレはそういうことではなさそうだがという疑問を口に出すか迷っていれば堀北が呆れたようにヒュロポスを見ている。

 

「なんなのよー?」

 

 同じく堀北も思うところがあったのか口を一回開いては閉じて、言葉を飲み込む。

 

「いえ、なんでもないわ。あとヒュロポス、私の方が美人よ」

 

 目の前でオモチャのぬいぐるみと張り合い始める堀北を見て小さく溜息を吐く。なんで張り合ってるんだ、と呆れていると――。

 

「んまー! なんて小生意気なの! 人間さん! 人間さん! ツンツンさんとあたしどっちが美人なのよ! 勿論、あたしよね! ね! ね!」

 

「あら、面白い質問ね。綾小路くん」

 

 堀北はからかうような笑みを浮かべている。

 

「……ヒュロポスは鳥型のマスコットで、堀北は人間だ。比較対象として成立していない」

 

 オレが至極真っ当な回答を返すと、ヒュロポスはパタパタと翼を荒々しく羽ばたかせて抗議の音声を撒き散らした。

 

「んまーっ! なんて可愛げのない解答なのー! そこは『勿論オレのヒュロポスちゃんの方が愛らしくて美人さんだよ』って言うのが紳士の嗜みなのよー! ちゃんと見て! 心の目でちゃんとあたしの美少女っぷりを見て! 人間さんってば相変わらずウルトラ不器用なんだからー!」

 

「……不器用というよりは、単に呆れているだけだと思うけれど」

 

 堀北はふっと口元を和らげ、どこか可笑しそうに小さく鼻を鳴らした。張り詰めた緊張感から解き放たれ、異世界という極限状態の中だからこそ生じる、ほんの少しの緩衝材のようなやり取り。

 

 だが、そんな軽口もそこまでだった。

 

 前方の空間が歪み、不気味な赤と緑のネオンサインが明滅し始める。カビ臭い古い映画館の匂いと、人間の負の感情が腐敗したような特有の重苦しい圧迫感。オレたちは迷いなく再び踏み込む。

 

 櫛田桔梗の防衛機制が作り出したアディトンの玄関口──チケット売り場。

 

「……冗談はここまでみたいね」

 

 堀北の表情から一瞬で甘さが消え去り、凛とした冷徹な勝負師の顔つきへと戻る。彼女は右手を胸元にかざし、既に精神を戦場へと切り替えていた。

 

「昨日は劇場へ入ろうとした時にシャドウに押されて撤退を余儀なくされたけれど……対策はあるのかしら、綾小路くん」

 

「戦闘に関しては警戒しながら進むべきだろう。判明している属性耐性を利用する。天使型は電撃が弱点、悪魔型は氷結が弱点だ。先制攻撃で弱点を突いて、一気に総攻撃を叩き込む。ここまでは昨日と同じだ。だが戦う前に試したいことがある」

 

 オレは壁一面の仮面を指さす。

 

「問題は、あの仮面の壁がシャドウを無限に生み出す『発生源』になっていることだ。それをいくら倒しても、奥へ進むことはできない。仮に運よく奥に進んだとしてもシャドウの群れに道を塞がれれば安全に撤退することができない」

 

「……そうなるとどうにかしてあの場所を通れるようにする必要なあるわけね」

 

「そういうことだ、堀北。その為にオレたちはこの映画館の入場客にならなければいけない」

 

 オレは劇場へ繋がる道とは別にあるチケット売り場を視線で示す。

 

「……チケットを買えってことね。果たしてまともな売買が行えるのかしら。プライベートポイント、いえこの世界の場合はデベロップメントポイントの方かしら」

 

「実際に行ってみた方が早いだろう」

 

 オレたち三人はチケット売り場の窓口に近づく。すると窓口に張り付いた液晶に文字列が並ぶ。

 

『イらっシゃイまセ。ナんメいさマデしょうヵ』

 

 歪な音声ガイドが流れる。

 

「三名なのよー!」

 

『カシこマリましタ。それではヒミツをおシハラいクダさい』

 

 その言葉を受けて考える。秘密……つまり、チケットの料金はオレたちの秘密ということだろうか。同じ考えに至ったのか堀北が小さく息を吸って。

 

「私は兄に追いつきたくて、この学園に来た」

 

 堀北の言葉に窓口に付属された計測機器のメーターが伸びはじめるも、途中で勢いを失い止まる。続けて堀北は口にする。

 

「長い髪をしていたのは、兄が好きだと言ってたから伸ばしていた」

 

 その言葉に頬を染めて吐き出していた。不機嫌そうに「なに?」と見てくる。そっと目をそらす。

 

 どうやら堀北の分は十分らしくメーターは溜まりきり、一枚のチケットが排出された。

 

「なるほどなのねー! 次はあたしの番なのよ! あたしの名前はヒュロポス! とっても可愛い女の子なのよ! あたしの目標はこのフォーラムを復興させること! そんなあたしの前にある日突然、 人間さんが! こんな可愛いあたしに惚れただなんて言って、もー大変! あたしの復興計画ってばこれからどうなっちゃうのー!? 次回! 人間さんってばあたしのこと好きすぎて困っちゃう! 困った人間さんにお仕置きの巻! お楽しみに! なの!」

 

 堀北が呆れ果てた目をチケット売り場のでっぱりに登って高らかに呪文を唱えているヒュロポスへ向けていた。だがメーターは最大値まで溜まりきり、一枚のチケットが再び排出。

 

「な、納得いかないわ……」

 

 ヒュロポスの戯言を料金として成り立つのなら、オレはチケット売り場に向かって虚言を口にする。

 

「綾小路二十七歳。現在彼女が四人いて、四股かけている。年収は二千万だ」

 

 オレのあからさまな嘘の発言にメーターは溜まりきり、三度、チケットが吐き出された。

 

 堀北は信じられないといった体でチケット売り場とオレを交互に見ていた。

 

「あ、あんなあからさまな嘘で……」

 

「……システムが『秘密』そのものの真偽ではなく、それを口にする心理的抵抗感や『他人に知られたくない情報』の出力値を判定しているだけかもしれない。あるいは単に、何でもいいのかもしれない。少なくともヒュロポスの戯言でチケットが貰えるんだ、真面目に口にしたところでメリットは少ないと判断した」

 

「真面目に答えた私の立場はどこへ行くのかしら……」

 

 自分の純粋な、そして微妙に恥ずかしい過去の秘密を告白してしまった堀北は、ガックリと肩を落とし、疲れたように溜息を吐いた。

 

「とにかく、無事にチケットは三人分入手できた。だが、何が起こるかわからない。一応、警戒は怠るなよ」

 

「……言われなくてもわかっているわよ」

 

 堀北は少し不機嫌そうに唇を尖らせながら返事をし、気を取り直すように小さく息を吸い込んだ。

 

 オレたちはシアターホールの入口へと向かう。

 

 前回の強行時とは異なり、上空から不気味な仮面が落ちてくる気配も、黒い霧が現れて形を変える兆候もない。入口のゲートにチケットをかざすと、カチリと静かな機械音が響き、黒いカーテンがゆっくりと左右へ押し開かれた。

 

 すんなりと通り抜けることができたオレたちだったが──その直後、目の前に広がった光景に息を呑み、足止めを食らうことになる。

 

「これは……一体どういう構造になっているの……?」

 

 堀北が驚愕を隠せない声で呟く。

 

 そこに広がっていたのは、一般的な映画館の概念を遥かに凌駕する広大さだった。視界の奥、闇の彼方まで真っ直ぐに伸びる果てしない廊下。その左右の壁には、規則正しく無数の『シアター』の扉がずらりと並んでいる。

 

 まるで、巨大な記憶のアーカイブか、莫大な情報を保管するための膨大な保管庫のようだ。

 

 入口から最も近い一番手前のシアター前。その壁には、映画の公開予告ポスターのような額縁が飾られている。

 

 そこに映し出されているのは一人の少女の姿。

 

 だが、首から上の顔の部分だけが真っ黒な影で塗りつぶされていて、素顔を伺い知ることはできない。しかし、独特なお団子頭のシルエットや着こなしには見覚えがあった。間違いなくクラスメートの王美雨──みーちゃんだ。

 

「綾小路くん、どうするの? このまま奥を目指すのかしら」

 

「とりあえず、一番手前のシアターに入ってみよう。中がどういう空間になっているか確かめる必要がある」

 

「……ええ、分かったわ」

 

 堀北が重い防音扉の取っ手を引き、オレたちはシアターの中へと足を踏み入れた。場内は薄暗く、観客席には誰もいない。正面の巨大なスクリーンには映像が映り込んではいるが、肝心の中身は文字列のみ。そこには『王美雨の秘密』というタイトルだけが浮かんでいた。

 

 スピーカーからノイズ交じりの音声が立体的に響き渡る。

 

『──ううっ……ひっく……どうして、どうして』

 

 流れてきたのは、泣きじゃくる女子生徒の声。間違いなく王美雨のものだ。

 

『落ち着いて、みーちゃん。ゆっくりでいいよ、ちゃんと聞くから』

 

 それを優しく宥める声。クラスのアイドル、櫛田桔梗の声だった。どうやら、二人が電話で会話している音声の録音がここで再生されているらしい。

 

『平田くんと……軽井沢さんが、付き合い始めたって……』

 

『……うん。昨日の放課後、平田くんから聞いたよ。ショックだよね……』

 

『私……平田くんのこと、好きで……でも、こんなのもう、告白なんて絶対にできない……! うあぁぁん……っ!』

 

『辛かったね、みーちゃん。大丈夫、私はずっと味方だからね。誰にも言わないから、私に全部吐き出して』

 

 真摯に、そしてどこまでも親身になって友人の失恋の痛みを受け止める、聖女のような櫛田の声。王はそれに救われるように、秘密の恋心と失意をボロボロとこぼし続けていた。

 

「……出ましょう」

 

 堀北が不快感を隠そうともせず、硬い声で言い放った。

 

 オレたちはそれ以上聞くことなく、引き返すようにシアターの扉を開けて静かな廊下へと戻った。

 

「人の秘密を盗み見るような真似、お世辞にも気分のいいものではないわね……」

 

 堀北は胸元に手を当て、不快そうに眉をひそめる。

 

「恐らくここにあるシアターはすべて、櫛田がこれまでに集めてきた『他人の秘密』が上映されている場所なんだろう」

 

 オレは廊下の両脇に延々と続く各シアターの入口を見渡す。

 

「その証拠に、どのシアターの入口にも顔だけが隠されたポスターが貼り付けられている。あれは上映されている秘密の持ち主のポスターだ」

 

「クラスメートを親身に手助けする振りをして、その秘密を蓄積し、自分の優位性を保つためのコレクションにしていた……ということかしら」

 

 堀北は溜息をつき、長い廊下の奥へと視線を向けた。

 

 堀北はそう結論づけるが、オレの意見は異なる。ここは櫛田の領域、櫛田のストレスに対する防衛機制なのだ。つまるところ、櫛田桔梗は他人に対して、秘密を握っていなければ対面できないという防御的な象徴。そして、それは身を守るために公開するという行動予定。

 

 ただ、単純にコレクションして、悦に浸るだけならば映画館のように公開する必要などない。

 

 つまるところ――これはこれから起こり得る櫛田桔梗の崩壊への暗示なのかもしれない。

 

「全部のシアターを確認して回るわけにはいかないわね。どうしても攻略に行き詰まったら調べるとして……まずはこのアディトンの全容を把握するために、奥へ進みましょう」

 

「賛成だ。すべてのシアターを回るには多すぎる」

 

 オレたちが廊下の奥を目指して歩き始めると、前方から歪んだ黒い足音が聞こえてきた。

 

 ゆらゆらと蠢く黒いモヤ──シャドウが数体、廊下を徘徊している。

 

 堀北が瞬時にペルソナ召喚の身構えを取ろうとしたが、オレは手でそれを制した。

 

 黒いモヤたちはオレたちの存在に気付いているはずだが、襲いかかってくる気配を見せず、ただ決まったルートを淡々と巡回するように通り過ぎていく。

 

「……攻撃してこないのね?」

 

「オレたちが正規のルートで『チケット』を購入して入場したからだろうな。映画館のスタッフや警備員のような役割に過ぎないのかもしれない。こちらから手を出さなければ、無用な戦闘は避けられそうだ」

 

「なら都合がいいわ。無駄な体力を使わずに済むもの」

 

 堀北は少しだけ安堵の息を漏らすと、慎重な足取りで徘徊するシャドウの横を抜け、薄暗い廊下の更なる奥へと進んでいった。

 

 オレたちはさらに館内の探索を進め、中央付近に差し掛かると、上階へと続く途切れたエスカレーターを発見し、そこを経由して上層階の構造も確認して回る。

 

 ──だが、結果から言えば、この日の探索でこれ以上の大きな進展を見つけ出すことはできなかった。

 

 オレたちはこの映画館の全体像こそ掴んだものの、どこに櫛田の精神の核──『コア』が存在するのかまでは発見できなかったのだ。

 

 一階層につき、およそ五十ほどのシアターが立ち並んでいる。それがエスカレーターで上まで繋がり、館内は全部で三階建て。つまり、この異様な映画館には全部で百を超えるのシアターが存在していた。

 

 現実では存在しえない銀幕の数。その巨大な映画館の中央ホールは相応の大きさがある。

 

「これだけの数の秘密を、彼女はたった一人で知っているというの?」

 

 三階の廊下に佇み、無限のように続く扉の列を見下ろしながら、堀北が戦慄を隠せない様子で息を呑む。

 

「……あながち全員が本校の生徒とは限らないだろうがな。中学時代の人間関係や、これまでに関わってきた人間の数と考えれば不自然ではないのかもしれない。それでも多いとは思うがな」

 

 だが、だからこそ問題でもあった。百を超えるシアターの中から、闇雲に扉を開けてコアに繋がる手掛かりを探すのは、あまりに効率が悪い。

 

 幾ら、現実での時間は消費しない異世界での行動とはいえ、精神的疲労、ストレスは確実に蓄積する。そして、その状態での戦闘を行うのは危険である。

 

「……今日はここまでにしておこう」

 

「ええ……そうね。今日は全体構造を把握できただけでも、収穫としては十分だわ。現実へ戻りましょう」

 

「もう、あたしなんてクタクタなのよー! 早くふかふかのベッドでお昼寝したいのよー!」

 

 ヒュロポスがパタパタと翼を羽ばたかせながら、大袈裟に疲れをアピールする。

 

 オレたちは映画館を出て、モニュメントへと引き返し、現実世界へと帰還した。

 

 荒廃した世界から、静寂が満ちる現実の寮へ。そのまま、オレたちは解散した。部屋に戻ったオレはベッドに寝転がり、振り返る。

 

 映画館。百を超えるシアター。他人の秘密が流れるスクリーン。

 

 防衛機制によって固く閉ざされた、櫛田桔梗の心象風景。

 

 ──何か明確な『鍵』が必要になるはずだ。そして、オレたちはまだそれを手にしていない。

 

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