Persona x Classroom of the Elite 作:仔羊肉
櫛田のアディトンが顕現して三日が経過した。異世界『フォーラム』におけるアディトン──櫛田桔梗の防衛機制たる映画館の攻略は進んでいない。
膨大な銀幕が立ち並ぶ広大な構造、秘密を代金とするチケット売り場。そしてシアター内部は大まかに二種類、他人の秘密が流れるスクリーンに、公開停止となった空きスクリーン。
チケットを入手したことでシャドウからの直接的な攻撃こそ回避できているものの、警戒心を完全に捨てることなどできやしない。感覚だけとはいえ人間の活動時間を超えて大幅に探索をすると現実への不調にも繋がった。
事実、一昨日に四半日ほどの時間をかけて探索した結果、堀北とヒュロポスは体調を崩していた。この事から長時間の探索はそれなりにリスクを抱えるということがわかったのは巧妙とも言える。
アディトン攻略は進まない一方で──現実世界のDクラスは、落ち着きを取り戻しつつあった。
先日の朝に起きた、あのクラス内での揉め事。
池や山内をはじめとしたポイント困窮組による暴走。そして、それを陰で糸引き、クラスを分断させようとした櫛田桔梗の策略。
一触即発の対立は、堀北の毅然とした対応と、「今回の中間試験を乗り越えたことで、六月頭には獲得したクラスポイントに応じたプライベートポイントが全員に付与される」という明確な事実の提示によって収束を見ていた。
幸いにもその騒動は後を引くことなく、明日に迫った六月の頭。
五月一日にゼロポイントを突きつけられて以来、初めて手に入ることになるプライベートポイントの存在に、教室内にはどこか浮かれ気味な空気が漂いはじめている。
「なあ健! 明日にはマジでポイント入ってくるんだよな!?」
「ああ、堀北がそう言ってたんだから間違いないだろ。俺もこれでやっとまともな飯が食える」
「よっしゃー! ポイント入ったら真っ先に購買の弁当食ってやる!」
昼休み、池や山内といったポイントを使い果たしていた連中も、先日の問題など綺麗に忘れ去ったかのように、支給日に向けて希望に胸を膨らませていた。
過去の不始末や先日の騒動を蒸し返す者もおらず、クラスの表面的な平和は保たれている。勿論、それは表面的なもので燻る火種は今もなお点在している。
表面的には明るい狂騒の渦中で、明確に『異物』として浮き上がっている存在があった。
教室中央の自席で、ぽつんと一人、俯いてスマートフォンを静かに眺めている少女。
櫛田桔梗だ。
本来ならば、彼女の周囲には常に男女問わず人が群がり、絶え間ない声と笑顔があふれているはずだった。このDクラスにおける中心点であり、求心力の象徴であった少女。
だが今、彼女の周囲には、誰も人が居なかった。
クラスの中で常に中心にいたはずの彼女が孤立し、周囲から浮いているという光景は、誰の目から見ても物珍しく、異質なものとして映っていた。
勿論、最初から放置されていたわけではない。何人かのクラスメート──特に仲の良かった女子生徒たちが心配して声をかけに行ったようだが、彼女は「少し体調が優れないから」という理由で敬遠し、笑顔を見せることもなく周囲を遠ざけてしまった。
一日だけだったら、「そういう日もある」「体調不良なのだろう」で済まされたのかもしれない。
だが──それが連日続いたとなれば流石に話は別だった。
みーちゃんや佐藤たち、普段仲の良かったクラスメートたちは、踏み込みきれない距離感を保ちながら、心配そうに彼女の様子を見つめている。
──そして、その孤立する櫛田の姿を、誰よりも真剣な眼差しで遠巻きに観察している人物が隣に座っていた。
彼女は終わった授業のノートを開いたまま、じっと櫛田の背中に向けている。その横顔には、強い焦燥と深い心配の色が滲み出ていた。
堀北には、理解できるのだろう。
過去に自らもアディトンを現出させ、心の歪みに呑まれかけたことのある堀北だからこそ、あの異空間が持つ脅威と危険性を、肌身に染みて理解しているのだ。
現在進行形で精神の均衡が苛まれ、現実世界で仮面を維持することすら困難になっている櫛田桔梗。
放っておけば、彼女の精神がいつ崩壊してもおかしくはない、と。
堀北は消しゴムを握りしめる手にぎゅっと力を込め、痛々しそうに、けれど真剣に彼女を見つめ続けていた。
その静寂を切り裂くように、無神経な足音が櫛田の席へと近づいていく。
歩み寄ったのは、池と山内、そして本堂の三人だった。どこかソワソワとした様子で、池が率先して声をかける。
「な、なあ櫛田ちゃん! 本当にポイント入ってきたら、みんなで遊びに行かね?」
「そうだぞ櫛田ちゃん! パーッとお祝いしようぜ!」
山内も調子よく身を乗り出したが、櫛田はスマートフォンから視線を切ることすらなく、低く冷めた声で短く応じた。
「……ごめん。私、今体調良くないから……放っておいてほしいな」
一目瞭然の拒絶。しかし、鈍感な山内はその空気感を全く読み取ろうとしなかった。
「なーに言ってんだよ! 櫛田ちゃん、この前のことでちょっとナーバスになってるだけだって! オレたちと遊べば一発で気が晴れるって! ぜってー楽しませるからさ!」
「……楽しませる?」
不意に、櫛田が小さく鼻で笑った。前髪の影から覗く瞳には、一切の光が宿っていない。
「笑わせないでよ。……私、今『具合が悪い』って言ったよね? そうやって自分の都合だけ押し付けるのに、楽しませるなんて無理に決まってるでしょ」
あまりに淡々と、そして刺すような辛辣さを含んだ言葉。
普段の彼女からは想像もつかない冷酷なトーンに、池と本堂がギョッとして顔を見合わせる。
「く、櫛田ちゃん……?」
二人の困惑した表情に気づいた瞬間、櫛田の身体が微かに揺れた。ハッとしたように目を見開き、瞬時にいつもの儚げな表情へと取り繕ってみせる。
「あ……ご、ごめんね。体調が悪くて、つい……」
「なんだよー、驚かせるなよ!」
謝罪の言葉を聞いた山内は、ニヤけた笑みを浮かべて話を続けた。
「まあ、悪いと思ってるなら付き合ってよー。ほら、オレたちが、ポイント出してあげるって言ってんだからさ──」
「おい、春樹。やめとこうぜ……」
さすがに不穏な空気を感じ取った池が袖を引っ張って止めようとするが、山内は止まらない。
そこへ、おどおどとした様子で間に割り込んできたのは、みーちゃんだった。
「き、桔梗ちゃん……困ってるから、やめた方がいいんじゃないかなぁ……」
「あぁ? なんだお前、関係ねぇだろ!」
山内が鬱陶しそうに顔を歪めて威圧すると、大人しい王は「ひっ……」と身をすくめて怯えてしまう。
その光景を見過ごせなかった女子たちが、即座に助け船を出した。松下千秋と篠原さつきだ。
「ちょっと、山内くん。デリカシーなさすぎじゃない?」
「そうよ! 女の子が体調悪いって言ってんだから、大人しく放っておいてくんない? だからアンタたちモテないのよ!」
篠原が吐き捨てるように言い放つと、山内、池、本堂の三人が一気にヒートアップした。
「お前らには関係ねーだろ! 横から口出すな!」
「女ってばすぐ群れたがるよなー! 俺たちは櫛田ちゃんのこと心配してんだよ!」
「その本人が『放っておいて』って言ってるの!」
「はー! わかってねーなー! 女の『放っておいて』は『構ってくれ』って意味なんだよ! 俺、本で読んだことあるぜ!?」
堂々と胸を張る山内に、松下が心底呆れたような視線を向ける。
「は? 女だからって全員がそうだって決めつけないでくれる? それに、仮にそういう心理だとしてもイケメン相手限定の話でしょ。鏡見たことある?」
「なんだと!? ブスっ!」
「あんたねぇっ!」
怒号と罵声が飛び交い、教室内はあっという間に荒れ模様となった。その喧騒の中心点に存在するのは、ただ静かに俯き続ける櫛田桔梗。
あまりに見苦しい争いに、堀北が我慢ならなくなった様子で勢いよく立ち上がろうとした。
「いい加減にしなさい、あなたたち──」
──瞬間。
オレは隣から手を伸ばし、堀北の細い手首をキュッと掴んで制止した。
「……なにするのよ、綾小路くん。止めさせないと」
「なんでー? 人間さん、ツンツンさんを止めるのー?」
オレの肩の上で、ヒュロポスが短い首を傾げた、まさにその時だった。
「────うるっさいのよっっ!!!!」
甲高い、けれど地鳴りのような怨嗟を孕んだ叫びが、教室の喧騒を一瞬で霧散させた。
爆発。
限界を迎えた櫛田桔梗の仮面が、完全に崩壊した瞬間だった。
静まり返った室内で、櫛田はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、ヘドロのようにどろりとした、暗くドロドロとした憎悪の視線が宿っていた。
まずその矛先が向けられたのは、目の前に立ち尽くす池だった。
「池くんさぁ……コミュニケーション能力が唯一の取り柄なのに、どうしてそれを活かせないわけ?」
「え……っ、く、櫛田ちゃん……?」
「そうやってお調子者でいれば、いつかは彼女ができるって本当に思ってるの? そんな甘い考えだから、いつまでも女の子に嫌われてるんじゃない? 私に言った小学生の頃真面目だった反動で、中学はやんちゃしてたみたいなアピールを、本気でカッコいいと思って言ったの? 本当にモテたいなら、平田くんとか見習ったら?」
容赦のない暴露と精神攻撃。池の顔面は一瞬で蒼白となり、何かを言い返そうとしても言葉にならず、金魚のように口をパクパクと開閉させることしかできない。
間髪入れず、櫛田のどろりとした視線が隣の山内へとスライドする。
「あと山内くんさぁ……本当、あり得ないんだけど。空気も読めないなら、もう人間として終わってるでしょ。見栄っ張りな上に嘘しかつかない、勉強もスポーツもできない、真面目さも優しさもない。その上、都合が悪くなれば全部人のせい。人間的な魅力、何一つ持っていないなんて凄いよね。弱ってるところにつけ込もうっていう下心が丸見えで気持ち悪いんだけど。でも、良いところ一つあるね。そうやってでしか女の子捕まえれないって自覚あるところだけは気づけてるんだ。凄いね」
「なっ……な、なんだよそれ……っ!」
完璧な人格否定。山内は血の気が引き、突きつけられた悪意の重圧に絶句した。
あまりの変貌ぶりに、横から王美雨が震える手で救いを求めるように手を伸ばす。
「き、桔梗ちゃん……っ」
「触らないでっ!」
叩きつけるように、櫛田はその手を容赦なく払い飛ばした。パシッと乾いた音が響く。
「みーちゃんさ、苦手なこと頑張ってて偉いね? 人と人の仲裁なんて出来るようになったんだ。それって、もしかして好きな男の子へのアピール? へぇ、すごいね! 平田くんにはもう彼女がいるのに、そうやって『私頑張ってます!』って見せて、点数でも稼ごうとしてるわけ?」
「っ……!?」
王の顔から一気に血の気が引いた。乙女心を踏みにじられたショックに、ボロボロと大きな涙が溢れ出す。
教室内を包むのは、息を吸うことすら憚られるような凍りついた空気。
止まらない。もう止められない。誰にも。
仲間を傷つけられ、松下が憤りに満ちた表情で口を開こうとした──その瞬間を、櫛田は見逃さなかった。
「大事なお友達が傷つけられて怒ったの? ……Dクラスを誰よりも下に見てる貴方が?」
「っ……なに、それ……」
「自分は元々受かる気なくて受験したから、正当に評価されなくて当然って思ってるところ、すごいよね。本気を出せばもっと出来てたとか、本気で言ってたの? 今庇ったみーちゃんも、役に立たなくなったら軽井沢さんたちみたいに捨てるんでしょ? 自分には相応しくないって。男の趣味が高スペックだもんね、友達も高スペックが欲しいよね。男や友達はアクセサリー、使わなくなったらちゃんと捨てるなんて凄いよね。私が成績いい方だから内緒話を打ち明けてくれて、とっても嬉しかったよ? 捨てられないように頑張るね」
薄笑いを浮かべながら暴露される、隠していたはずの本音と過去の秘密。松下の身体が凍りつき、反論の言葉すら失って青に顔色を変えた。
教室内を支配したのは、あまりにも一方的な、完璧すぎる破壊だった。
凍りついた空気を切り裂くように、平田洋介が悲痛な面持ちで割って入った。
「櫛田さん……やめてくれ」
すがるような懇願。だが、そんな平田の制止に対しても、櫛田はクスリと可憐な口元を歪め、嘲笑を浮かべてみせた。
「平田くんってば、誰の味方なの? 一ヶ月間クラスで過ごしてきたけど、そこはあんまり分からなかったな。平和主義でみんなの味方、薄気味悪い」
「僕は……薄気味悪くてもクラスみんなの味方だよ」
揺らぐことのない平田の返答。しかし、櫛田はその答えを待ち構えていたかのように、悪辣な牙を剥く。
「そうなんだ。……じゃあ、軽井沢さんとみーちゃんが困っていくすり平田くんはどっちを助けるの?」
クラスの平和主義者に対する、残酷な二択。彼女である軽井沢と答えれば恋心を持つみーちゃんを痛めつけ、平和主義の仮面に罅をいれることが出来る。
だか平田は試すような視線に晒されながらも、迷うことなく言い切った。
「どっちも助けるよ」
予想の範疇だったのか、それとも瞬時に状況を判断したのか。櫛田の口角が吊り上がり新たな獲物へと視線が向く。
「ふうん……。彼女を差し置いて他の女も平等に扱うなんて、大した彼氏さんだよね? ──ねえ、軽井沢さん?」
「えっ……?」
不意に振られた軽井沢恵は、咄嗟に言葉が出ず、ただ困惑の表情を浮かべてその場に立ち尽くしていた。
──そのやり取りを目にした瞬間、オレの胸中に強い違和感が芽生えた。
平田と軽井沢。クラスで初のカップルとして、周知の事実となっていた二人だ。だが、自分の彼氏が他の女子生徒を「平等に助ける」と公言したというのに、軽井沢の顔には彼女としての悲しみや怒りといった感情が一切見られない。それどころか自分と無関係の話とばかりに困惑を見せているのだ。
そして平田の方も、恋人である軽井沢への配慮よりも、徹底して「クラスの平等」を重んじた。
目の前で起こっているこの不自然な構図は、一体──。
オレが思考を巡らせたその矢先、櫛田が冷めた声で決定打を放った。
「……もしかして、あんたら別に『好きだから付き合ってる』ってわけじゃないの?」
その一言で、違和感の正体に完全な答えがついた。
なるほど。それならば二人のおかしな距離感にも納得がいく。だが、ここで真に注目すべきは彼らの事情よりも、対人関係における櫛田桔梗の観察眼の鋭さだった。
彼女の秘密への嗅覚は、現在のストレスフルな極限状態下で、限界以上に研ぎ澄まされている。
過剰なストレスから解放されることでポテンシャルを発揮する人間もいれば、極限状態に追い込まれることで異常な冴えを見せる人間もいる。
そして櫛田は、あのアディトンにおいて他人の秘密を管轄し、誰よりも「秘密」という存在に密接に関わってきた。
その証拠に今、Dクラス内部に隠されていた大きな秘密の一つが、新たに露見させられた。
「……これ以上は、見過ごせないわ」
オレの制止を振りのけ、袖を握っていた堀北が静かに立ち上がり、騒ぎの中心へと歩み寄る。オレもまた、彼女の後に続いて歩み出でた。
「櫛田さん、やめなさい」
堀北の制止に、櫛田は「うるっさい」と低く吐き捨てる。
「あら、私には随分と優しいのね」
堀北が少しだけ挑発的に返すと、櫛田の瞳に狂気じみた憎悪が燃え盛った。
「うるっさいっ! このブラコン女! お兄ちゃんが大好きだから髪伸ばしてたストーカー女の癖にクラスのリーダー面? お兄さんを学校まで追いかけて、髪の毛もお兄さんの好みに合わせて。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いっ!」
容赦なく突きつけられた恥部。堀北は驚愕に一瞬表情を歪めたが、オレはそっと彼女の横に並び立った。すると、櫛田の鋭い牙はすぐさまオレへと向けられる。
「今度はお兄さんの追っかけをやめて、新しい男と仲良くやってんの? はっ……いいこと教えてあげる! そこのオモチャに喋らせ初めた変態はねぇ──四股かけてんのよ!」
『はぁぁぁっ!? 四股ぁ!?』
櫛田の大声の告発に、教室内が一瞬で凍りついた。女子生徒たちからは引きつったような冷ややかな視線が刺さり、男子生徒たちからは嫉妬と怒りを孕んだ視線がオレへと突き刺さる。
チケット売り場で支払ったオレの秘密。櫛田の防衛機制にインプットされた「代金」を、彼女は現実の「他人の秘密」として錯覚し、暴露に使ってしまったのだろう。
そしてそれは本来、正統な手続きを踏んで他人の口から手に入れた価値ある宝物ではなく──無価値な贋作。
耳元では、肩に乗ったヒュロポスがバタバタと短い羽根を羽ばたかせて抗議してくる。
「はぁ!? いつの間に女の子をとっかえひっかえしてるの!? この悪い人間さん! めっ! めっ!」
羽でペチペチと頬を叩いてくるマスコットを無視し、オレは「ざまあみろ」と言わんばかりに歪んだ笑みを浮かべる櫛田に向かって、淡々と口を開いた。
「櫛田、その話をどこで聞いたのかわからないが。わるいが、それは──嘘だ」
「え……?」
呆けた櫛田の声。防衛機制における絶対の防御網、自らの価値観において相手を打ち負かす絶対の武器が砕け散る。
オレの一言に、堀北が即座に意図を察して小さく頷いた。彼女は冷ややかな仕草で腕を組み、教室全体に聞こえるように声を張り上げる。
「そうよ。櫛田さん、考えてもみなさい。こんな変な玩具を連れている男が、四股もかけられるほどモテるわけがないでしょう?」
「むー! あたしは変な玩具じゃないのよー! 美少女の玩具よー! 仮に美少女じゃなかったとしても超絶プリティー玩具よ! 愛玩具なのよー!」
ヒュロポスの戯言は堀北の耳にも届いている筈なのだが
「みんな──彼女は今、完全に錯乱しているわ。体調が悪く、過剰な疲れが溜まっているの。だから、彼女が言った支離滅裂な嘘は許してあげてちょうだい」
堀北の見事な庇い立て。それにより、クラスの意識は「綾小路の四股」から「錯乱した櫛田のでまかせ」へと完全に上書きされた。
「嘘じゃない……っ! 嘘なんかじゃ──! なんなのよ、あんたたち! あんたも! あんたも! うるさいうるさいうるさいうるさいっ! あんたは四股してる! あたしは知ってるんだ! そのオモチャも黙らせてっ! あんたは四股してるのっ!」
必死に叫ぶ、オレは喧騒の合間を縫って、静かに問いを重ねる。
「じゃあ、お前はどこでオレが四股なんてかけている与太話を聞いたんだ?」
「どこでって……それは……っ」
答えられるはずがなかった。それは現実で囁かれた噂でもオレの口から漏れ出た秘密でもなく、異世界のアディトンでシステムに提示されただけの『戯言』なのだから。現実のどこを探しても情報源など存在しない。
「うっ……っ、ああぁっ!」
論理の破綻と精神の限界が同時に押し寄せ、櫛田は頭を押さえてその場に膝をついた。堀北はすぐさまその傍らに歩み寄ると、静かにクラスへ向かって告げた。
「……彼女は今日は早退させるわ。クラスポイントが減らないように努めてはみるけれど、もし減ってしまったらごめんなさい」
未だに顔色の悪い平田が「僕も手伝うよ」と申し出たが、堀北は首を振ってそれを拒んだ。
「いいえ。平田くんはクラスの方をお願い。櫛田さんの言った嘘に惑わされないようにクラスのみんなを落ち着かせて。貴方にしかできないわ……手伝いは綾小路くん、来なさい」
「……あぁ」
オレは堀北の指示のもと、櫛田をおぶる。男子数人は騒いだが堀北の一瞥で黙り込んだ。三人分の鞄を持った堀北が先導して教室後方の扉を開く。
異様な静寂と困惑が支配する教室を後に、オレたちはゆっくりと足を踏み出した。
◇ ◇ ◇
クラスの動揺を後に教室を出たものの、学校側への手続きは簡単には済まなかった。
体調不良による三人生徒の突発的な早退。実力が問われるこの学校では相応のペナルティや手続きが必要とされるところだったが、オレと堀北が手持ちのプライベートポイントを吐き出すことで、なんとかクラスポイントに影響が及ばないよう、整えることができた。
明日のポイント支給まで、オレたちの懐はかなり寒いことになってしまった。
諸々の手続を終え、ぐったりと意識を混濁させている櫛田を連れて寮へ戻ったオレたちは、さてどこで彼女を下ろすべきかという問題に直面した。
紆余曲折の末、オレの部屋へと運び込むこととなる。
カチリと鍵を開け、部屋のベッドの上に櫛田の細い身体をそっと横たえた。
「……」
未だにパニックの余波から抜け出せていないのか、櫛田はうわ言のようにブツブツと呪詛の言葉を呟きながら、こちらに完全に背を向け、身を縮こませた。
これ以上の対話や話し合いに応じる気は一切ない、という明確な拒絶の意思表示だった。
壁際に寄り添い、オレと堀北は静かに視線を交わす。
「……今の彼女に何を言っても無駄そうね」
「ああ。これ以上刺激するのは逆効果だ」
「一度、フォーラムに行きましょう。あちらの様子を確認しておきたいわ」
「そうするか」
オレは深く頷くと、櫛田を部屋に残したまま、堀北と共に寮の廊下へと出た。
堀北が自らの端末を取り出し、二次元コードのログを操作する。画面が青い光を放ち、周囲の空間が不気味に歪み始めた。
視界が激しく明滅し、五感が現実から異世界へと瞬時に切り替わる。立ち現れたのは、人工的な匂いの消えた、荒廃した静寂が支配するフォーラムの景色だった。転送された地点は学生寮の真前。目指すべき櫛田のアディトンである映画館までは少し距離があるが、歩いていけないほどではない。
──だが、足元に視線を落とした瞬間。
「……ッ!? 櫛田さん!?」
堀北が息を呑み、驚愕の声を張り上げた。
そこに広がっていたのは、異世界の荒廃したアスファルトだった。そしてその冷たい地面の上に、部屋に置いてきたはずの櫛田桔梗が、そのまま倒れ伏していたのだ。
堀北がそうだったように、防衛機制を爆発させた櫛田もまた、フォーラムの異空間に干渉され、この異世界へ適応した体質へと変化しているらしい。オレたちの侵入方法がどれほどの範囲の人間を巻き込むのかは正確に把握できていなかったが、どうやら扉一枚、部屋一つ分の距離感では容易に巻き込まれてしまうようだ。
「一度、現実へ戻りましょう。彼女をこの場所に放置しておくわけにはいかないわ!」
焦りを露わにして端末を構え直そうとする堀北に対し、オレは静かに制止の声をかけた。
「このまま櫛田をあのアディトンへ連れて行く」
「なっ……! 正気なの!? ここがどれだけ危険な場所か、あなただって十分に理解しているでしょう!? あの状態の彼女を連れて行くなんて自殺行為よ!」
堀北の声音に、明らかな怒りと困惑が混じる。だが、オレは現状における事実を突きつける。
「あのアディトンで闇雲に探索を続けても手がかりはない。だが、心象風景の主である櫛田本人がいれば、何らかの反応や核心への道が開ける可能性がある。現状、打つ手がない以上、彼女がここに居ることは好都合だ」
その瞬間──。
「──ッ!」
ドゴッと、みぞおちに激しい衝撃が走った。
見下ろせば、ヒュロポスが、短い頭をオレのお腹に全力で頭突きしていた。この世界ではそれなりの大きさがあるのだから気軽に頭突きするのはやめてほしいのだが。
「人間さんの冷たい人間さんモードがまた始まったのねー! あたし、そういうの好きじゃないのよー! もっと女の子には優しく包み込むように接するべきなのよ! 人間さんはッ! いっつもいっつも言葉が足りなさすぎるのよー!」
ポカポカと小さな生き物とメタリックが混じり合った羽でオレの足を叩きながら、ヒュロポスは憤慨したように嘴を鳴らす。そしてそのまま、大袈裟な身振り手振りを交えて堀北の方へと向き直った。
「ツンツンさんも、冷たい人間さんの冷たい言葉をそのまま真に受けちゃダメなのよー! こう考えるのよ、ツンツンさん! 『オレはお前らがこれ以上危険に巻き込まれるのが心配だから、ハラグロさんを連れてでも一刻も早くアディトンを攻略したいんだ……理解してくれ、マイハニー! キラン☆』って意味なのよー!」
「……全然違う」
勝手な捏造と謎のキャラ付けに対し、オレが間髪入れずに冷淡なツッコミを入れると、堀北は呆れたように小さく溜息を吐き出した。
「あのねぇ……はぁ、まぁ、綾小路くんの言い分は理解したけど。けれど──」
今のヒュロポスの言動で理解されてもオレが困るのだが。そんな合ってるかどうか分からない理解を示した堀北は一度言葉を切り、地面に横たわる櫛田へと視線を落とした。その瞳には、厳しさと共に、強い意志の光が宿っている。
「確かに、彼女のアディトンの攻略が進んでいない以上、カンフル剤として彼女を伴って攻略に向かうのは、効率面だけで言えば有効的かもしれないわ……けれども、それは彼女自身の意思によって行われるべきよ。意識のない人間を道具のように引きずり回して解決したところで、何の意味もないわ」
「ヒュポ……せ、正論なのね! 確かにハラグロさんは腹黒いけど女の子だもの! 優しく扱わなきゃなのよ! ツンツンさんごめんなさいなのよー!」
そう言って堀北へ頭突きをかまして抱きつこうとするヒュロポス。堀北がスッと避けては、地面にずざざざと転がる。
「よ、避けたのね!? 酷いのね!」
「……あんたら。ほんと、うっさい。なんで落ち込みさせてもくれないのよ」
気がつけば櫛田がこちらの様子をドロリとした視点で見つめてくる。意識や会話が出来るようだ、少なくともオレの部屋に戻った頃よりかは状態はいいのだろう。
そんな櫛田に堀北は一歩、近づく。
「櫛田さん、現状の説明を始めていいかしら」
「……好きにしたら」
その投げやりな言葉に堀北は説明を始める。この異世界、フォーラムのこと。 そしてシャドウとペルソナのこと。そして櫛田のアディトンのことを。
荒唐無稽で、オカルト話を聞き終えた櫛田は呟いた。
「……だから、あんたの秘密とか綾小路が実は二十七歳の年収二千万で四股野郎だなんてありえない話が」
淡々とまとめた事実を聞き終えた櫛田は、冷えた地面に座り込んだまま、自らの両手を見つめた。
先ほどまでの自暴自棄な錯乱、あるいは教室で吐き散らした醜悪な憎悪。それらが嘘であったかのように、彼女の周囲から尖った殺気がすっと引いていく。
そして──次の瞬間だった。
「ふうん……なるほどね。よく分かったよ」
パチン、と糸が切り替わるような音が聞こえた気さえした。
顔を上げた櫛田の顔には、つい数分前まで浮かべていたドロドロとした暗い瞳は影を潜め、そこには完璧で、可憐で、どこまでも親しみやすい──「クラスのアイドル」としての笑顔が貼り付けられていた。
「それじゃあ、協力するよ。 私のせいで二人に迷惑をかけちゃってるみたいだし、早くその映画館って場所をどうにかしないとね!」
可憐に微笑んでみせる櫛田桔梗。
あまりにも鮮やかすぎる感情の不自然な切り替え。その変貌とすら呼べる光景に、真っ先に反応したのはヒュロポスだった。
「ヒュポ!? 本当なの!? やったーなのー! あのアディトンもなんとかできるかもしれないのよー!」
ヒュロポスは無邪気に羽をパタパタと羽ばたかせ、素直に彼女の言葉を楽観的に受け止めて大喜びしている。
だが──オレと堀北が、その言葉を額面通りに鵜呑みにするはずもなかった。
裏の顔を完全に暴かれ、自暴自棄になって自爆した直後の人間が、爽やかに「みんなのために協力する」などと言い出すはずがないのだ。
この「協力」の裏には、さらなる仕掛けか、あるいは己の秘密を守るための隠蔽工作、最悪の場合はオレたちを危険に陥れようという計算が働いていると見るのが妥当な所だろう。
堀北もまた、引きつったように眉をひそめ、言葉を詰まらせている。だが──堀北は反論できなかった。
先ほど「連れて行くなら彼女自身の意思で決めるべき」とオレに強く言い放った手前、櫛田本人が笑顔で「協力する」と言い出した以上、それを突っぱねる口実がないのだ。
現状で櫛田のアディトンをどうにかする術はない以上、リスクをとって櫛田を連れて行くことの有用性を理解している反面、この危険な世界で背後も気にしなければならないという状況。
「……本気で言っているの? あそこがどういう場所か、今説明したはずだけれど」
「うん、本気だよ! 堀北さんたちが私のために頑張ってくれてるんでしょう? なら、私も頑張らなくっちゃ!」
一点の曇りもない笑顔で言い切る櫛田。堀北は悔しそうに唇を噛み締めながらも、深く溜息を吐いて頷いた。
「……分かったわ。なら、一緒に行きましょう。ただし、戦闘の際には絶対に前に出ないで」
堀北の妥協を聞き届け、オレたちは学生寮の前から、映画館が存在するエリアへと足を進め始めた。
オレとしては、これ以上ない好都合な展開だった。
本心がどこにあろうと、心象風景の主である櫛田桔梗が同行する事実には変わりない。あのアディトン攻略の不毛な手詰まり感を打開するために、これ以上の存在はないからだ。
荒廃したフォーラムの街並みを歩く中、オレは前を行く櫛田の様子を観察していた。
櫛田は「かわいい」などと言いながら、ヒュロポスをまるで精巧なぬいぐるみか抱き枕のようにぎゅっと胸元に抱きかかえ、前を歩く堀北に気さくに話しかけている。
……不思議な光景だな。
すでに裏の顔を知られ、教室で決定的な醜態を晒した相手に対して、わざわざ「表の顔」を取り繕う意味など、客観的に見れば存在しない。もはや仮面を被り直したところで、オレたちが騙されるはずもないのだから。
だが、それでも彼女はそうせずにはいられない。これは……心理学で言う『反動形成』の発露か。
反動形成──防衛機制の一種であり、自分にとって耐えがたい感情や欲求、あるいは強いストレスや恐怖に直面した際、抑圧された本心とは真逆の極端な態度や行動をとることで、精神の均衡を保とうとする無意識の心理プロセスだ。
内面に渦巻く敵意や嫉妬、崩壊への恐怖があまりにも強大すぎるがゆえに、それを隠蔽・打ち消そうとして過剰な善意や天使のような笑顔を装ってしまう。
つまり──現在の櫛田桔梗にとって、この「天使の仮面」は単なる打算や計算による芝居ではない。
理性を超えた領域で、壊れかけた自らの精神を守るために作動している、本能的な『生存戦略』そのものなのだ。
自分を嫌悪する本心を必死に抑圧し、崩壊を食い止めるために、彼女は「天使」を演じ続けなければ生きていけない状態に陥っている。
そうなると──。
前を歩く堀北と、その隣で可憐な笑顔を振り撒きながら、ヒュロポスをぬいぐるみのように抱きかかえる櫛田の背中を見つめる。
本能レベルで「秘密」を守り、「仮面」を死守しようとする少女を、彼女自身の認知が歪んだ領域へと連れて行くのだ。
自らの防衛機制の象徴たるアディトンの中で、この「反動形成」の仮面が再び破綻した時、一体何が起こるのか。
オレは静かに思考を巡らせながら、今回のコア攻略が一筋縄ではいかないだろうという強い予感を抱いていた。
◇ ◇ ◇
足を踏み入れた瞬間、肌を刺した空気は以前のそれとは全く異なっていた。
かつて豪華絢爛な内装と整然とした銀幕が立ち並んでいた映画館は、見る影もなく変貌を遂げていた。
天井からは塗料が剥げ落ち、華美だった壁面は赤錆と不気味な罅割れに覆われている。足元を見下ろせば、かつて壁にあった無数の仮面が、粉々に砕け散って床一面に散乱していた。
「これが本当に私の心の中なの……」
櫛田の独り言のような呟きに堀北が答える。
「様相がかなり変わっているわ……でも、なんで……本当に彼女を連れてきたから……?」
薄暗い静寂の中を漂うのは、以前のような機械的な巡回気配ではない。空間全体を重く湿らせる、ねっとりとした明確な敵意だ。
堀北が警戒を露わに周囲を見回す。
立ち並ぶシアターへと続く唯一の入場口。その中央に陣取る影は、明らかにオレたちを通さぬよう、道を塞いでいた。避けて進むルートは存在しない。
オレたちが一歩間合いを詰めると、その影からどろりとした黒いモヤが猛然と立ち昇りはじめた。
「気を引き締めなさい、来るわ……!」
堀北がペルソナ召喚の姿勢を取り、全員が臨戦態勢を整えた──次の瞬間だった。
「──ッ!」
オレたちの横を、脱兎のごとくすり抜けて走る影があった。
「ちょっと、櫛田さん!? 待ちなさい!」
堀北の制止の声が空間に虚しく響き渡る。
だが、櫛田は後ろを振り返ることすらなく、狂ったように腕を振り乱しながら、シアターが並ぶ奥へと脇目も振らずに走り去っていってしまった。
入場口を塞ぐ黒いモヤは、自らの『主』である櫛田の通過には一切反応を示さなかった。まるで空間そのものが彼女を害することを拒絶しているかのように、彼女をそのまま奥へと素通りさせる。
──そして、残された『侵入者』たるオレたちへ、全ての害意が集中した。
モヤが弾け飛び、姿を現したのは──異形の翼を広げた三体の天使。態勢を整える猶予すらない。先手を取られた。
『Laaaaa━━━━ッッ!!』
耳を劈く高音の咆哮と共に、三体の天使が一斉に頭上で光の紋様を描き出す。次の瞬間、至近距離から解き放たれたのは、空間を白く染め上げる苛烈な光の奔流だった。
逃げ場のない狭隘な廊下。直撃を回避する術はない。
「がっ……くっ」
「あぁぁぁぁっ、くぅぅぅぅっ!」
光の熱量と衝撃波が容赦なくオレたちを呑み込む。
堀北とヒュロポスが悲鳴を上げ、オレもまた全身を焼くような重圧に膝を折り、くぐもった呻き声を漏らした。
白光が収まり、黒煙が上がる室内。
痛みに耐えながら自らの身体を起こし、即座に現状を把握する。体力の削られ方は小さくないが、全滅には至っていない。
「……全員、まだいけるな?」
低く投げかけた確認の言葉に、堀北は肩で息を吐きながらも、強い瞳でオレを見つめ返して力強く頷いた。
「ええ……なんとかね。不覚を取ったわ。今まで何度か敵の攻撃を受けたことはあるけれど、先手を取られただけでここまで不味いのね。早めに終わらせましょう」
「あ、あたしも……あたしも平気なのよー! ちょっと羽がピリピリするだけなのよー!」
ヒュロポスも涙目になりながら羽をバタつかせ、戦意を失っていないことを示す。
敵は技の予後か、動き出しが遅い。ならば、次はオレたちの番だ。
眼前の見覚えのある天使型シャドウ──確か、電撃がよく通った筈だ。
オレは胸の奥底から込み上げる力を引き出し、自らの仮面を掲げた。
「来い──『ネコショウグン』!」
青い燐光と共に、二振りの双剣を携えた霊獣が頭上に顕現する。オレの意思に呼応し、ネコショウグンが空中で閃光を描いて双剣を振り下ろした。
「『マハジオ』!」
轟音と共に放たれた複数の雷光が、室内を乱反射しながら三体の天使型シャドウを正確に撃ち抜いた。
『Ga!?』
バチバチと激しい火花を散らし、弱点を突かれたシャドウたちは悲鳴を上げて体勢を激しく崩す。そのまま三体同時に地面へと叩きつけられ、無防備な姿を晒して転がった。
完全に敵の動きが止まり、絶好の機先が訪れる。
「よーしっ、今なのよー!」
ヒュロポスの合図に堀北が即座に踏み込み、オレたちとラインを合わせて包囲網を完成させる。
その中心で、ヒュロポスが短い腕を振り上げて甲高い叫び声を響かせた。
「あたしたちを痛い目に遭わせようだなんて、一万年早いのよーっ! お返しなのよー!!」
合図と共に、オレたちは一斉にダウンしたシャドウたちへ魔法を撃ち込む。
崩れ落ちた三体の天使型シャドウが黒い粒子となって雲散霧消していくのを見届け、オレは短く息を吐いた。
「状況終了」
「……なんとか、倒せたわね」
堀北がペルソナを収め、肩の力を抜く。だが、戦闘継続こそ可能なものの、互いのダメージは決して小さくはない。先手を取られた初撃の重圧は未だに身体の端々に痺れとなって残っていた。
「先ほどのように先手を何度も取られれば、そのうち全滅する」
「ヒュポ……ヒュポポポ! ヒューポッポッポッポ!」
足元で、ヒュロポスが変な笑い声を挙げた。
そしてパカッと音を立ててお腹の引き出しが自動で開き──中からゴロゴロと、小指ほどの「石ころ」を三つ取り出した。
「たららたったたー! ませきー! なの! はいっ! はいっ、なの!」
唐突にオレと堀北に手渡された小石。
「なんだ、これは……?」
思わず尋ねると、ヒュロポスは胸を張って高らかに叫んだ。
「これは元気の出る石ころなのよー! こうやって使うのよ!」
言うや否や、ヒュロポスはそのうち一つを片手の羽根に乗せ、もう片方の羽根で勢いよく叩き潰した。パキッと簡単に砕け散り、粒状になったソレを、ヒュロポスは迷いなく口へ放り込んで飲み込んでしまう。
「な、なにやってるの! ペッしなさい! ペッ!」
ヒュロポスの奇行に対し、堀北は本気で焦ったのか、普段の彼女なら絶対に口にしないような言葉で吐き出すよう強く促した。
「ち、違うのよー! これは痛い痛いの時とかに飲むととっても元気になれる不思議な石のお薬なのよ! ちゃんと買ったものだから安心なのよー!」
とても安心できそうには見えない。というか、どこで買ったんだ、これは。一体、誰の金で、何を相手に売買取引を行ったんだ、と次々に疑問が湧き出てしまう。
しかし、その直後、緑色の淡い発光がヒュロポスの身体を包み込み、金属装甲についていた小さな火傷跡や切り傷が、目に見える速度で消え去っていった。
「……本当に効果があるようだな」
オレは諸々の疑問を一旦飲み込み、手渡された石ころを、本当に大丈夫なのだろうかと繁々と見つめた後、ヒュロポスを真似て手のひらで粉砕し、口へと含んだ。
無味の物質が舌に乗った瞬間、シュワシュワと溶けて消えていく。すると、全身を苛んでいた鈍痛と痺れが完全に吹き飛んだ。
「っ……嘘でしょう? ほんとに? 本当にこれを口にするの?」
半信半疑の堀北は未だに信じられないと手渡された魔石を見つめている。数巡の躊躇いの後に、意を決して、砕き、飲み込む。強く閉じた彼女の目は、今にも涙さえ浮かびそうだったが、痛みが消え去る感覚を肌で味わうと、驚愕に目を見開いた。
「……櫛田さんを追いましょう」
これ以上、今の件を考えたくないのか廊下の奥へと目を向ける。
シャドウが櫛田を攻撃しなかったことからアディトンの主とも呼べる彼女は攻撃対象ではない可能性が高い。だからといって楽観視できるほどの確証があるわけでもない。
幸いなことに痛みが消えたことで足取りは軽い。オレたちは櫛田に追いつくために彼女が走り去ったシアタールームの廊下奥へと向けてゆっくりと一歩、進みだした。
◇ ◇ ◇
昨日までは三階までしか無かったエスカレーターの先。レッドカーペットが敷かれた階段が新たに現出していた。そのカーペットの先にはステージがあり、中央に置かれた台座の上には金の天使像。
「ここは……授賞式の会場、かしら?」
堀北が怪訝そうに呟き、周囲へ視線を走らせる。
昨日までは三階までしか存在しなかったエスカレーターの先。そこに新たに現出したのは、息を呑むほど豪華で、同時に不気味な異空間だった。
足元から奥のステージへと一直線に伸びるのは、深く鮮やかな赤色のレッドカーペット。その左右には、まるで映画館のシアター席のように整然と並べられた大量のパイプ椅子と、立食パーティを思わせる丸テーブルが立ち並んでいる。
空間の最奥、スポットライトを浴びるかのように一段高く作られたステージ。その中央に鎮座しているのは、眩い光沢を放つ金の天使像と、その脇に置かれた重厚な箱だった。
「……シャドウの姿が幾つか見えるな」
オレが低く指摘すると、堀北も小さく頷いた。
広大なフロアの端々や丸テーブルの陰には、黒いモヤがちらほらと影を揺らめかせている。先ほどの先制攻撃による不覚を鑑みれば、無駄な戦闘で消耗するのは避けたいところだ。
オレたちは気配を殺しながら、整列された座席列や、丸テーブルの間を縫うようにして慎重に足を進めた。シャドウの索敵範囲を極力避けつつ迂回を重ね、無事にステージの下まで辿り着く。
階段を登り、ステージの上に並び立った、その時。
「わぁーっ! とってもきれいなトロフィーなのね!」
ヒュロポスが、短い脚をトテトテと動かして一直線に金の天使像へと走り寄った。瞳のレンズをキラキラと輝かせながら、大袈裟なジェスチャーで高らかに声を上げる。
「あたしみたいな超絶可愛い女の子にはぴったりなのね!」
そう叫ぶやいなや、ヒュロポスは小さな金属の羽を伸ばし、天使像の台座をガシッと掴んだ。そのまま力任せに持ち上げようと全身を突き出す。
だが──天使像は微動だにしない。台座そのものと強固に溶接されているかのように、一切動く気配を見せなかった。
「ふぬぬぬぬ……っ、ふぬぬぬぬぬっ……!」
ヒュロポスは全身がピンク色の顔を真っ赤に染め、「ぷしゅー」と蒸気を吹き出しそうな勢いで引っ張り続けるが、結果は変わらない。完全に徒労に終わっていた。
そんなマスコットの奇行には目もくれず、堀北は天使像の隣に置かれた箱──重厚な『投票箱』へと歩み寄っていた。
「これは……投票箱ね」
堀北は細い投票口に顔を近づけ、じっと内部を覗き込む。
「……空。中に何も入っていないわ」
そう呟いた堀北は、意を決したように手を伸ばし、投票箱の表面へとそっと触れた。
──瞬間。
カチリ、と内部で精巧なギミックが噛み合うような冷たい金属音が響き渡った。
次の瞬間、細い投票口から眩い光の束が弾けるように飛び出した。
「ッ……!?」
堀北が反射的に腕で顔を覆う。飛び出した光は空間の天井付近でいくつもの光弾へと分解され、まるで流星群のように四方八方へと勢いよく飛び散っていった。
その光の大部分は、壁や扉を透過してフロアの外──おそらく別の階層へと姿を消していった。
だが、幾つかの光粒は、この広大なで徘徊していたシャドウたちの体内へと、吸い込まれるようにして消えて行ったのだ。
「光が……シャドウの中に?」
呆然と呟く堀北の横で、オレは静かに思考を巡らせる。
以前、堀北のアディトンを攻略した際にも、これと同じような光景を目にした。あの時は、光源のシャドウを全部撃破することで先へ進む扉が開いた。
つまり、今回のギミックも似たようなものなのだろう。
あの光粒を受けたシャドウを倒すことが、階層を突破する鍵なになるのかもしれない。
オレが分析を終えたその時、一向に抜けないトロフィーを前にして、ヒュロポスが痺れを切らしたように振り返った。
「むー! 全然抜けないのよー! むきー!」
「ヒュロポス、それを手に入れてどうするつもりだ」
「もっちろん、お部屋に飾るのよ! 知らないのー? 人間さん、トロフィーは飾るものなのよー? ぷーくすくす」
堂々とオレの部屋に置くという宣言をしている。取れない以上、杞憂なのだが。
「取れないなら諦めろ、というか諦めてくれ」
オレはヒュロポスに声をかけながらステージを降りる。ぶつくさと文句を言いながら続くヒュロポスと呆れた視線を送ってくる堀北を引き連れて、フロアを徘徊する一体のシャドウに向けて足音を消しながら近づく。
一定のルートを淡々と往復する影の姿。先ほど遭遇した敵と異なっているのは、影の内部から時折、あの投票箱から飛び散ったものと同じ青白い光粒が明滅している点だ。
「準備はいいか?」
低く尋ねると、ヒュロポスも堀北も表情を引き締める。
「えぇ、いつでもいけるわ」
シャドウがこちらの気配に気づき、黒い輪郭を歪めて姿を変化させようとした──その一瞬の隙を逃さず、オレたちは間合いを詰めた。
「来い──『ネコショウグン』」
「おいでませ! 『イカロス』」
オレとヒュロポス二体のペルソナが召喚される。頭上に現れたネコショウグンが二振りの双剣から雷撃を打ち放ち、間髪入れずに飛翔したイカロスが鋭い疾風を巻き起こす。
「『ジオ』!」
「『ガル』!」
雷光と疾風の二重奏が敵を穿つと同時に、堀北の手元から青い燐光が爆ぜた。
「討ち倒しなさい──『プロウニコス』! 『ブフ』!」
凍てつく氷塊の奔流が追撃として叩き込まれる。
雷撃、疾風、そして氷結。一切の反撃を許さぬ完璧な三連撃が直撃し、シャドウは自らの正確な輪郭を完成させることすらできないまま、断末魔の悲鳴すら残さず塵となって虚空へと消え去った。
黒い粒子が霧散したそのあとに、コトンと重厚な音を立てて残されたのは──一箱の宝箱だった。
「わぁぁぁっ! 宝箱なのよー! お宝なのよー!」
戦闘終了の余韻に浸る間もなく、躍り出たヒュロポスが真っ先に宝箱へと飛びついた。なんらかの罠が仕掛けられている可能性など微塵も考慮することなく、小さな金属の羽で豪快にフタを引っ張り開けてしまう。
「ちょっと、迂闊すぎるでしょう……!」
堀北が追いかけるように一歩踏み出したが、もう遅い。
幸いなことに罠の類は見受けられず、ヒュロポスは宝箱の中に身を乗り出すようにして中身を検分していた。やがて、その小さな羽根で高々と掲げてみせたのは──木製の重厚な『軍配団扇』と、小さく折りたたまれた『一枚の紙』だった。
「じゃじゃーん! これでお宝ゲットなのよー!」
ヒュロポスは紙の存在などまるで興味がないとばかりにポイと床へほっぽり投げ、軍配団扇を両羽でしっかりと握りしめると、フンフンと意気揚々に振り回し始めた。
「これでシャドウを一網打尽にして倒しちゃうのよー! えいっ! やーっ!」
「……はぁ。本当に、もしかして全国の母親ってこんな気持ちなのかしら」
相変わらず賑やかなマスコットに対し、堀北はこめかみをグリグリと揉みほぐしながら、深いため息を漏らしている。完全に扱いが子供である。
オレは二人のやり取りを余所に、床に落ちた一枚の紙を拾い上げ、折り目を優しく開いた。
そこに書かれていたのは、綺麗な文字列。
『ありがとう、櫛田さん』
「何が書いてあったの?」
堀北が隣から覗き込んでくる。紙に記された短すぎる一文を目にすると、彼女は怪訝そうに眉をひそめた。
「これだけ……? これだけじゃ、何を意味しているのかさっぱりわからないわね」
「あぁ。だが、投票箱とこれがセットになっている以上、単なる落書きというわけでもなさそうだ」
オレはチラリと、ステージ中央に静かに鎮座する投票箱へと視線を向けた。
「一度、入れてみるか?」
「……そうね」
堀北が頷いたのを確認し、オレは軍配を振り回して一人で盛り上がっているヒュロポスへと声をかけた。
「遊んでないで、戻るぞ」
「むー! 遊んでなんてないのよー! あたしは指揮官としてイメージトレーニングをしてただけなのよー!」
ぶつぶつと抗議の声を上げながら軍配団扇を胸の引き出しに直しながらついてくるヒュロポスと、紙を大事に手に持った堀北を引き連れ、オレたちは再びステージの上へと足を進めた。
ステージ中央、重厚な投票箱の前に立った堀北は、躊躇うことなく細い投函口へとその紙を滑り込ませた。
──ストン。
紙が箱の底へと落ちた瞬間、カチリと冷たい機械音が響き渡る。
次の瞬間、ステージ奥の壁──これまでただの暗闇に覆われていた巨大なスクリーンのような壁面が急激に発光し、不気味なノイズと共に映像が流れ始めた。
『幼い頃の私は、勉強も運動も、何をやらせても一番だった』
ノスタルジックでどこか薄暗い映像の中、無邪気な声とモノクロの光景が静かに流れていく。堀北のアディトンと同様の一人称による視点映像。
『テストで満点を取るたびに、周囲からは「桔梗ちゃんは凄いね」と称賛の言葉が贈られた。かけっこで一番になれば、「やっぱり桔梗ちゃんは凄いな!」と、誰もが私をチヤホヤしてくれた』
映像の中で、大勢の人々が幼い少女を取り囲み、拍手を送っている。だがそれが誰かの記憶とするならば強烈な違和感が一つだけ存在する。
『他人からの称賛。他人からの羨望。他人からの尊敬』
声のトーンが、わずかに低く重くなっていく。
『それこそが、私が生きていく上で必要不可欠な栄養素だった。それさえあれば、私はどこまでも満たされていた。……けれども』
一瞬の静寂。
『成長するにつれて、世界は広がっていった。そして気づいてしまった。──私は優秀であっても、一番ではないんだって』
ブツリ、とそこで唐突に映像は途切れ、スクリーンは元の壁へと戻っていった。
「……今のは、櫛田さんの過去よね」
堀北がどこか確証を持ちきれない様子で、ぽつりと呟いた。
確信を抱けない理由は明白だった。スクリーンに映し出されていた周囲の人間──クラスメイトや大人たちの顔が、すべて黒く描き潰され、表情すら覗うことができなかったからだ。
「ねぇねぇツンツンさん、なんでみんなの顔がマックロクロスケさんなの?」
ヒュロポスが短い首を傾げ、素朴な疑問を投げかける。
堀北は顎に細い指先を当て、しばらく思案するように視線を落としていたが、やがて推測を口にした。
「……あれだけ人間関係が得意に見えても、櫛田さんは内面で他者への関心が薄く、相手の表情を見るのが苦手という暗喩とかかしら」
「いや」
オレは即座にその説を否定した。
「櫛田のあの観察眼とコミュニケーション能力の高さは、他人の表情や感情が読めない者のそれじゃない。相手の表情や機微を誰よりも正確に読み取っているからこそ、完璧な立ち回りができていた」
「むー! じゃあじゃあ、ハラグロさんはマックロクロスケを嫌いだとかー!?」
ヒュロポスの大雑把な解釈に、オレは短く頷いた。
「それも候補の一つなのかもしれないな」
「……なんにせよ、これだけじゃあわからないわね」
堀北は納得したように小さく息を吐き出した。
「真相はなんにせよ、これだけで終わりということはなさそうね。もう少し館内を回りましょう」
「あぁ」
それからオレたちは、広大な映画館内部の探索を再開した。
先ほどの要領で、内部から青白い光粒を覗かせているシャドウを探し出し、遭遇しては倒し、遭遇しては倒すという工程を淡々と繰り返していった。
オレたち三人の連携、戦闘自体は順調そのものだった。幾度かの戦闘を経て、宝箱から次々と手に入った紙片──手元には、いつしか三十枚もの紙が集まっていた。
広げた紙の数々を見下ろす。
そこに書かれていたのは、一連の共通した内容だった。
『桔梗ちゃん、いつもありがとう!』
『本当に助かったよ、すごいね!』
『やっぱり桔梗ちゃんが一番だよ!』
『優しいね、尊敬しちゃうな』
端的に記された、ありとあらゆる「称賛」「羨望」「褒め言葉」の羅列。他者から向けられた過剰なまでの肯定の言葉が、その三十枚の紙を隙間なく埋め尽くしていた。
オレたちは再度として投票箱へと戻り、その紙を投入していく。
歪んだノイズの混じる音声と共に、スクリーンには幼い少女の──まだあどけなさの残る櫛田桔梗の姿が映し出されていた。
『運動も、勉強も、頑張った。友達は私を羨ましがり、みんなが私を中心に回っていた。私は自分が特別な存在なんだと信じて疑わなかった──幼い頃は』
映像の中で、表彰状を手渡される。周囲からの賞賛の拍手が、空間に不気味な反響音となって響く。
『だけど……成長するにつれて、世界は広くなっていった。私より足の速い子、私より勉強ができる子。上には上がいくらでもいると思い知らされた。特別な存在だったはずの私は、あっという間にどこにでもいる普通の子の中に埋もれていった』
スクリーンの中の色彩が、急速に灰色へと沈んでいく。
彼女視点の先、称賛を投げていた人間はこちらを向いていない。スクリーンの視界が滲んでいる。
『それが、耐えられなかった。一番じゃない私は、生きている意味がないとすら思えた。絶望して、怖くて、夜も眠れなかった……。そんなある日、私は気づいたの』
ノイズが走り、映像が切り替わる。
落ち込んでいるクラスメートに寄り添い、優しく声をかける。雑用を引き受け、困っている人間に声をかける。
『誰もやりたがらない雑用を引き受けた時、悩みを聞いてあげた時。みんなが私に言ったの。──ありがとう、桔梗ちゃん、って。その瞬間、全身に電撃が走った。これだ、と思った』
画面上の人々から、光り輝く『ありがとう』という文字の紙片が次々と飛び出し、少女の身体へと吸い込まれていく。
『勉強や運動で一番になれなくても、誰からも愛される良い子として一番になればいい。みんなの秘密を聞いて寄り添い、悩みを解決してあげる。そうすれば、みんな私を頼り、私を好きになり、私に感謝してくれる。絶大な承認──私を心の底から満たしてくれる、最高の快感……!』
──だが。
『だけど……だけどね。全員に優しくするなんて、どれだけ大変か分かる? バカな奴らのつまらない愚痴を聞き続け、嫌いな奴にも笑いかけ、やりたくもない雑用を笑顔で引き受ける……! ストレスで頭が頭がおかしくなりそうだった! 反吐が出るほど気持ち悪かった! だけど、失うくらいなら、偽りの自分を演じ続ける方がマシだったのよ……!』
ヒビの入った鏡のように映像が強く揺れ、やがてぷつりと途切れた。静寂が、フロアを包み込む。
「……っ」
堀北はスクリーンを見上げたまま、息を呑んで立ち尽くしていた。その表情には、激しい困惑と、他者の歪んだ内面を突きつけられたことによる強いショックが色濃く滲み出ている。
「これは……櫛田さんの、過去の記憶……内面そのものだというの……?」
「ああ。おそらくはな」
オレは腕を組み、スクリーンが消えた壁を見つめた。
「彼女にとって、他者からの『承認』や『感謝』は、自らの価値を証明するための絶対的な麻薬だったわけだ。過剰な善意で他者を囲い込み、感謝を集める。だが、その裏で膨れ上がる殺意やストレスを隠し通すために、彼女は他人の秘密や弱みを集め、精神的な優位性を保つことで多少の緩和はされていた」
「感謝されたくて優しくしているのに、そのせいで他人が大嫌いになっていくなんて……そんなの、本末転倒じゃないのよー」
ヒュロポスが肩の上で短い羽を萎ませ、悲しげに呟く。
「本末転倒だが、それが櫛田の心の守り方なんだろう。本音の悪意や見下しが大きくなればなるほど、建前の善意を過剰に飾り立てなければ、彼女自身の精神が崩壊する」
「……上辺だけの善意。他者からの評価に依存しなければ自分を保てないなんて、なんて……哀しい生き方かしら」
堀北の口から漏れたのは、冷ややかな拒絶ではなく、どこか痛ましさを孕んだ言葉だった。自分自身もまた「兄からの評価」に囚われ、孤独という歪んだ仮面を被っていた過去があるからこそ、その歪みの過酷さが理解できるのだろう。
「人間さん! ハラグロさんのことが少しはわかったけど、でもこれから先どうするの? わかるだけでハラグロさんがどこにいったか全然わかんないのよー!」
「もう一度、紙……賞賛票と仮称するが賞賛票をまだまだ集める必要があるな」
「ヒュポー……連戦連戦でとっても疲れてるのよ……」
「ここは踏ん張りどころよ、ヒュロポス。それとも美少女監督ってのは口だけなのかしら?」
堀北の安い挑発にヒュロポスはムキーと顔を真っ赤にする。
「こ、こんくらいお茶の子さいさいさいなのよー!」
ヒュロポスの強がりにクスりと笑みを零して、再び館内のシャドウと戦うことに。だが、その横顔に浮かぶ疲労は完全に隠せていなかった。
◇ ◇ ◇
シアターホール二階の68シアターの内部。オレたちは観客席の合間を縫うシャドウに先制するべくペルソナの準備を始める。敵方はオレたちに即座に気づき、天使の姿を象る。
「一体か、いくぞ」
声をかけた瞬間──。
「ガル!」
ヒュロポスが声を出すも不発。
「ピヨッ?」
その隙が決定的だったのか天使はヒュロポスに向けて光の槍を投げはなった。羽根に刺さり──。
「ヒュポーっ! 痛いのねー! こ、ここここ、この美少女監督に傷を! も、もう許さないのねっ!」
ネコショウグンのジオを準備していたオレの目に飛び込んで来たのは、ヒュロポスが引き出しから軍配団扇を取り出して天使を叩いている姿だった。
「こんにゃろ! こんにゃろなのよー!」
「なにやってるの、ヒュロポス! 離れなさい、ブフ!」
堀北のブフに続いて、オレのジオが刺さり、天使は消えていった。
「ふぅ、このへんにしといてあげるのよー!」
満足気に呟いて戻ってきたヒュロポスは、小さな口を動かしてパリポリと何かを噛み砕いていた。
「ふぅ、これでまたガルを使えるのねー!」
どこかすっきりとした様子でそう呟くマスコットに対し、堀北は額に青筋を浮かべ、コメカミを指先でグリグリと押し付けながら低く尋ねた。
「……どういう意味かしら」
「ツンツンさん、知らないのー? ペルソナの魔法って、心の中のエネルギーを使うのよー? エネルギーは無限じゃないのよー! そんなのも知らないんだー、ヒュポポポ!」
勝ち誇ったように胸を張り、大袈裟なジェスチャーで煽ってくるヒュロポス。すると、堀北はジトリとした冷ややかな視線を、隣に立つオレの方へと向けてきた。
「……オレも初耳だ」
オレが短く答えると、堀北は盛大な溜息を一つ吐き出し、諦めたように肩の力を抜いた。
「はぁ……。それで、いま貴方が口にしているそれは、その心のエネルギーとやらを回復させる手段というわけ?」
「そーなのよ! これチャクラドロップっていうのね! たまにシャドウを倒した時にお腹の中に入ってるのよー!」
パカッとお腹の引き出しを開けてみせるヒュロポス。堀北は一瞬だけ、その非論理的な構造や原理について深考しようと眉をひそめたが──瞬時に「考えるだけ無駄」と悟ったらしい。
「……そう」
どんよりとした眼差しでヒュロポスを見つめた後、彼女は思考を放棄するように完全に諦めていた。
そんなやり取りの最中、消滅した天使型シャドウの残骸の前に、一箱の宝箱が静かに現出した。これまでに発見したものよりも一回り大きく、全体に不気味な彫刻が施されている。
ヒュロポスが早速近寄り、フタを引っ張り開けた。
「じゃじゃーん! またまたお宝ゲットなのよー!」
中から出てきたのは、これまでの賞賛票とは雰囲気が一変した、不吉な気配を纏う一枚の黒い紙片だった。
「……これは」
堀北が宝箱の底に沈んでいた不吉な黒い紙片を摘み上げ、眉をひそめた。これまでの賞賛票とは異なり、紙自体がどす黒く変色しており、手にするだけでうっすらと肌を刺すような冷気が伝わってくる。
「これまでの賞賛票とは、あきらかに毛色が違うな」
「これもまた、彼女の映画館を構成する重要な断片であることに変わりはないはずよ。次のシャドウを探しましょう」
オレたちは黒い紙片を懐に収めると、隣の70シアターへと足を運んだ。
傾斜のついた観客席の通路を静かに下っていく。すると、スクリーンの直下、薄暗がりの中で青白い光粒を漏らしながら蠢く人影が見えた。蝙蝠のような薄い皮膜の翼を生やした、女悪魔の形をしたシャドウだ。どうやら既に形作っているらしい。
堀北が即座に踏み出し、胸元に手を当ててペルソナを呼び出そうとする。
「行くわよ──」
「待て、堀北」
オレは片手で彼女の肩を制した。
「……何かしら? 不意打ちを狙うなら、今が絶好の機会のはずだけれど」
堀北が訝しげに眉をひそめる。オレはそれに答えず、呼吸を殺して単身、滑るような足取りでシャドウの死角へと忍び寄った。
音もなく間合いを詰め、女悪魔が振り返ろうとしたその瞬間──踏み込みの力を腰から背筋、そして肘へと集約させ、鋭い一撃を叩き込んだ。
異世界に似つかわしくない、生々しい肉体同士の打撃音が激しく響き渡る。
『ギ……ァ……ッ!?』
強烈な肘打ちを背面に叩き込まれたシャドウは、まるで叩きつけられたボールのように勢いよく跳ね飛び、転がった。全身を激しく痙攣させ、息も絶え絶えの状態で打ち棄てられている。
「ヒュロポス、ガルだ」
「ひゅ、ヒュポーっ!? 『ガル』なのねーっ!」
一瞬固まっていたヒュロポスが慌てて翼を羽ばたかせ、風の魔法を打ち込む。ダメージを負って息も絶え絶えだった女悪魔は、その一撃で耐えきれずに黒いモヤとなって霧散していった。
戻ってきたオレに対し、堀北は開口一番──底冷えするようなジト目を向けて言い放った。
「……とうとう人間をやめ始めたわね、貴方」
「失礼な言い方をするな。至って正常な検証だ」
「どこが正常なのよ。ペルソナも使わずにシャドウを生身で殴り飛ばす人間がどこにいるのよ……」
頭を押さえて盛大な溜息を吐く堀北の横で、ヒュロポスだけがテンションを高くしてオレの周りをパタパタと飛び回っていた。
「んまーっ! カンフー映画みたいでとってもかっこよかったのよー! アチョー! アチョーっ!」
短い羽をシュッ、シュッと突き出し、ご満悦で演武の真似事をするマスコット。
「で、その『検証』とやらの意図を聞かせてもらえるかしら? 説明に納得がいかなければ、私は貴方を怪異の一種として警戒することになるのだけれど」
「単純な話だ。ペルソナの力を使わなくても、こちらの肉体的な攻撃がシャドウに対して一定の打撃として成立するかどうかを確認したかった」
「打撃……? でも、シャドウは負の精神の具現体でしょう? 通常の物理攻撃が通用するなんて思えないけれど」
「ああ、本質的にはそうだ。だが、先ほどの戦闘を思い出してみろ」
オレは68シアターでの一幕を引き合いに出した。
「ヒュロポスがガルを不発させ、天使型のシャドウに近接して団扇で叩きにいっただろう。あの時、天使型のシャドウは確かにのけぞり、露骨に嫌がる仕草を見せた」
「……あ」
堀北がハッとしたように目を見開く。
「ペルソナを召喚する覚醒者──あるいはこの異世界に適合した存在の『意図を持った攻撃動作』であれば、武器や肉体を通じた打撃であっても、この世界における『物理的な干渉』として認識・変換される可能性がある。先ほどの肘打ちで、その仮説は確信に変わった」
肉弾戦は十分に有効な選択肢となり得る。それだけで取れる選択肢は大幅に増える。
「なるほどね……それを実行に移してシャドウを吹き飛ばすあたり、大した度胸だわ……」
呆れ混じりに感心する堀北に対し、ヒュロポスがパカッとお腹の引き出しを開けた。
「人間さん人間さん! そのままだと手がケガしちゃうから、これをつけるといいのよー!」
小さな羽で取り出されたのは、白いバンテージのロールだった。それを受け取り手に巻く。心なし打撃の威力が上がった気がする。
「これは……?」
「お腹のポッケにあった奴なのよー! 手に巻き巻きすれば、お手々守れるのよー!」
そういうことが聞きたかったわけではない。出処不明の謎の品を手に巻きつつオレたちは次のシアターを目指した。
「……わたしも物理的な攻撃した方がいいかしら。一応、武道なら心得あるのだけれど」
「今回のように人型なら試しやすいかもしれないが、異形相手に女子の打撃だと軽いかもしれない。現にオレの全力ですら倒すに至らなかったことを考えれば何かしらの武具をオススメする。そっちは使えるのか?」
「剣、杖なら合気で触ったことがあるわ」
「へー! ツンツンさん! 武器使えるのね! それならそうと早く言ってよー! もぅ!」
ヒュロポスがごそごそとお腹の中から一メートルはあろう木の棒を取り出した。物理法則に関しては今さらなので考えないようにしている。どうやら堀北も同様のようだ。
「はい、これ! フォーラムに落ちてた長い棒なの! あげるの! 袋も落ちてたからあげるの! はい!」
「あ、ありがとう……」
「どういたしてましてなの! 部員の面倒を見るのも美少女監督の役目なの!」
堀北は棒を袋で竹刀のように包み担ぐ。だが、その顔には困惑しか映っていない。相変わらずの謎の鳥である。
堀北は一歩近づいて小声で尋ねてくる。
「ねぇ、綾小路くん……ヒュロポスって何なの?」
「自称美少女監督で自分を人間体の美少女だと思っている変な鳥ということくらいしか知らない。あと初対面で自販機を押してたことくらいか」
「聞いておいてなんだけど、心の底から聞かなければ良かったと思うわ」
そんな堀北の気持ちなど露とも知らずに前を歩くマスコットは鼻歌を口ずさんでいた。
◇ ◇ ◇
その後もいくつかのシアターを巡り、遭遇したシャドウを片端から倒していった。
木切れの棒を手にした堀北の攻撃は、彼女の合気道の素養もあってかシャドウに有効だった。手首にバンテージを巻いたオレの打撃と合わせ、ペルソナを極力温存したまま戦闘をこなす体制が整っていく。
そして宝箱から手に入ったのは、先ほどと同じく不吉な雰囲気を纏う黒い紙片だった。その枚数が十分に集まったところで、オレたちは再び最初の授賞式フロアへと戻ってきた。
「これが……集まった黒い紙片ね」
堀北が手元に広げた数枚の紙を見つめながら、眉根を寄せる。
そこに書かれていた言葉の数々を目で追う。
『櫛田ちゃんって可愛いよな』
『あー櫛田ちゃんと付き合いてー』
『桔梗ちゃんって何でも手伝ってくれるから便利だよねー』
『櫛田はいい生徒だな、助かるよ。またよろしく頼むな』
白い賞賛票に書かれていた「感謝」や「尊敬」とは異なり、そこに並んでいたのは他者からの欲望、下心、あるいは親切さを利用しようとする利便性の追求だった。
一見すれば好意的な言葉にも見える。だが、その根底にあるのは櫛田桔梗という存在を消費しようとする他者の欲望そのものが見て取れる。
「……表面上の『賞賛』と違って、こちらは彼女が向けられてきた不躾な好意や、押し付けられた期待の本音というわけね」
「櫛田がどんな『言葉』に晒されてきたかが窺えるな」
オレたちはそれらの黒い紙片を、中央に鎮座する黒い投票箱へと静かに投下した。
刹那──。
ガガガッ、と館内全体を激しい重低音のノイズが押し包んだ。正面の巨大なスクリーンが青白く発光し、歪んだ走査線と共に、これまで以上に禍々しく鮮明な映像を映し出し始める。
『──もう、無理だった』
ノイズ混じりの低く掠れた声が、映画館内に響き渡る。
『バカな奴らのつまらない愚痴を聞いて、欲求不満な男子のキモい視線に耐えて、先生たちの都合のいい雑用を笑顔で引き受ける。毎日、毎日、毎日……! いい子でいるのは辛い、辛くてもやめられない。ストレスで頭がおかしくなりそうだった……!』
薄暗い部屋の中で一人、パソコンの画面だけが映り込む。凄まじい速度でタイピングされる文字が映し出されていた。
『だから、吐き出す場所が必要だったの。ネットのブログ──誰も私だと知らない場所で、アイツらの名前を伏せて、愚痴や他人の秘密を書き殴り、吐き出すことだけが、私の唯一の救いだった……』
スクリーンの光芒が赤く揺らめく。
『だけど……ある日、バレちゃった』
場面が一転する。歪んだ放課後の教室。
取り囲むのは、顔を真っ黒に塗りつぶされた大勢のクラスメイトたちだ。責め立てるような指差し、口々に投げつけられる怒声の字幕。
『これ、桔梗ちゃんだよね?』
『なんでこんなこと書くの?』
『裏切り者! 秘密だって言ったのに!』
『……バカみたい。私をここまで追い詰めたのはアンタたちでしょ!? 私の優しさを貪り食っておいて、被害者ぶらないで……』
視点の主が、狂ったように叫び声を上げる。ポイントオブビューの映像から流れる音声がレッドカーペットのフロアに響き渡る。
『だから──全部バラしてやったの! アイツらが隠していた醜い秘密を! 担任の浮気も、恋人の悪口も、悪びたアピールでのカンニングも、女同士の嫉妬も! 全員の秘密を教室中で暴露してやったのよ! あははははっ! 誰も私を責められないように! 全員を道連れにして、クラスごとブチ壊してやったのよ──ッ!!』
凄惨な学級崩壊の光景。黒く潰されたクラスメイトたちが互いを叫びながら殴り合い、取っ組み合い、崩壊していく映像。
そして──画面の中央で、仮面が粉々に砕け散った少女が、膝をついてポロポロと涙を流していた。
『……でもね。全部を破壊した後に残ったのは、圧倒的な孤独だけだった。……誰からも愛されない、誰からも感謝されない、ただの私だけが残ったの……』
「……っ」
堀北が息を呑み、胸元を強く握りしめる。
だが、映像はそこで終わらなかった。ノイズを挟み、画面は新しい景色へと切り替わる。
『だから、誓った。二度と失敗しないって。誰も私を知らない場所で、もう一度“完璧な私”をやり直すんだって──』
映し出されたのは、高度育成高等学校へと向かうバスの車内だった。
乗客たちの顔は、これまでと同様に全員が黒く塗りつぶされている。しかし──その中でたった一人だけ、強烈な異彩を放つ存在があった。
バスの後方の席に座り、手元の本を静かに眺めている少女。
その顔には、黒塗りは一切存在しなかった。くっきりと映し出されたのは──。
「……え?」
堀北が困惑の声を漏らす。
スクリーンの中に映っていたのは、紛れもなく堀北鈴音その人だったからだ。
「な、なぜ……私だけ、顔が塗りつぶされていないの……?」
堀北が狼狽気味に呟く。
周囲の人間関係を遮断し、櫛田の内面において、他人はすべて「顔のない人間」として捉えられている。それゆえに黒く塗りつぶされていたはずだ。
にもかかわらず、なぜ入学初日のバスの段階で、堀北鈴音だけが明確な「人間」として彼女の記憶に刻みつけられているのか。
……同じ中学の出身だからだろうか。
今回のアディトンが現出した日の屋上での言葉。櫛田の過去に登場する既視感のある学校の廊下。そして入学してからの櫛田桔梗の態度。それらの事から櫛田桔梗と堀北鈴音は同じ中学校出身であることが伺い知れる。
そして、何故、執拗に堀北と友達になりたがっていたのかを理解する。やり直したい櫛田は堀北が中学時代のことを知っていると思って近づこうとしていたのだ。そして場合によっては居場所を奪い、排除することも視野に入れていたのかもしれない。
そして──もう一つ。
堀北の顔がある理由。これについては一つの推論がある。たが裏付ける情報はまだ手に入れていない。
そんなオレの分析とは別に映像はさらにスピードを増して流れていく。
入学後のDクラスの様子、他クラスの生徒たちと笑顔で交流を深めるシーン、上級生と親しげに会話する光景。
そのすべての場面において、周囲の人間の顔は黒く塗りつぶされたままだ。誰もが彼女の「承認欲求を満たすための道具」であり、内面まで踏み込ませない壁の向こう側の存在。
──そして。
映し出されたのは、ケヤキモールのカフェの風景だった。
テーブルを挟んで座っているのは、黒塗りの顔をしたオレと堀北。
堀北と櫛田の相席を仕組んだあの日。画面の中のオレの顔は、相変わらず黒い塗料で潰されたままだ。
やがて会話が終わり、オレが席を立とうと立ち上がった──その瞬間。
バリッ、と画面に鋭いスパークが走った。
立ち去ろうとするオレの顔から、まるで薄皮が剥がれ落ちるかのように、黒い塗りがスッと消え去っていく。
そこに現れたのは──無表情で冷ややかな、オレの顔だった。
『あぁ、そっか……多分、こいつ、わたしに興味ないんだ』
ブツリ。
映像が唐突に途絶え、映画館内に静寂が戻ってきた。
「…………」
堀北はスクリーンを見上げたまま、完全に言葉を失っていた。
「人間さん……ツンツンさんと、人間さんの顔だけ……マックロクロスケが消えちゃったのよ……」
ヒュロポスが肩の上で、不安そうに耳を萎ませながら呟く。
「どういうこと、綾小路くん……」
堀北がかすれた声でオレを振り返る。その瞳には、隠しきれない動揺と、真実に揺れていた。
「櫛田にとって、裏の顔は忌むべき存在なんだろう。それこそ好かれることなどない醜い自分だと。だから過去の中学時代や現実での今日の出来事でバレた以上、他人の表情を想像なんてしたくないんだろう。幼少期も同じかもしれない、中学時代の噂が知られている可能性から幼い相手でも適用されたんだろう」
「それがなんで貴方と私だけ例外になったの?」
「櫛田の中でオレとお前だけはある意味信頼されていたのかもな。もしくは櫛田をここまで運んだことが理由なのか。何が切欠なのかまではわからないが、オレとお前だけは裏の顔を知っても変わらないと判断されたんだろう。良い意味でも、悪い意味でもな」
カフェの最後、立ち去ろうとした瞬間に黒塗りが剥がれた理由。最後の独白からオレは推測を述べる。
スクリーンの消えた暗闇を見つめる堀北の瞳に、芽生えていたのは拒絶ではなかった。
「上辺だけの善意。他人の評価への依存。……哀れで、醜くて、救いようのない生き方だわ。けれど……」
堀北は手に握りしめた木の棒を、力強く握り直した。
「仮面の下で怯えているだけの少女なら──私と同じじゃない」
かつて兄の背中だけを追いかけ、「孤高」という都合のいい仮面を被って周囲を拒絶していた堀北鈴音。
形こそ違えど、自らの弱さと向き合えず、歪んだ側面に依存していたという意味で、二人は鏡の裏表のような存在だったのかもしれない。
「行きましょう、綾小路くん。これ以上、彼女の自傷行為につき合ってあげる気はないわ。映画の幕を引くわよ」
「……あぁ」
堀北の言葉に応じるように、フロアの奥に現れた最上階へと続く巨大な階段。
他人の秘密を得る事で他者からのストレスを緩和させる『補償』のシアターホール。偽りの自分じゃなければ受け入れられないトラウマが作り出した『反動形成』の授賞式フロア。
そして階段を登った先にあったのは大劇場。その中心に立つのは──二人の櫛田桔梗であった。