Persona x Classroom of the Elite   作:仔羊肉

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※拡大解釈が大きい回になります。解釈が異なる場合がございますのでご容赦頂けると幸いです。


013

 

 大劇場の中央部に広がっていたのは、これまでとは一線を画す巨大なステージだった。

 

 天井から照射されるスポットライトが降り注ぐその中心──ステージの真っ只中に、ふたつの『影』が並んで立っていた。

 

「……っ!?」

 

 堀北が息を呑み、手にした杖を強く握り締める。

 

 そこにいたのは、全く同じ顔をした二人の少女。

 

 どちらも櫛田桔梗、その人の姿だった。

 

「な、なにこれーっ!? ハラグロさんがふたりいるのよー! どっちが本物なのよー!?」

 

 ヒュロポスが短い羽を狂ったようにバタつかせながら叫び声を上げる。

 

 右側に立つ櫛田は、いつものように柔らかく温かな笑みを浮かべ、胸の前で両手をギュッと握りしめていた。クラスの誰もが魅了され、信頼を寄せるアイドルとしての完璧な姿だ。

 

「ふふっ、迷うことなんてないよ。こっちが本物だよ? 綾小路くんや堀北さんならわかってくれるよね?」

 

 鈴が鳴るような可憐な声で、甘く優しく語りかけてくる。

 

 だが、その隣に立つもう一人の櫛田は、凶悪な嘲笑をその唇に刻んでいた。冷酷で、蔑みに満ちた瞳が、オレたちを刺すように射抜く。

 

「はぁ? バカじゃないの。あたしの過去を見たんなら分かるでしょ、こっちが本物に決まってんじゃん」

 

 低く濁った声。それはいままで彼女が隠し通してきた、ドロドロとした本音そのものだった。

 

「ひぇぇ……ハラグロさんがふたり……! ツンツンさん、どっち!? どっちをボコボコにすればいいのー!?」

 

「くっ……」

 

 ヒュロポスの狼狽に、堀北は答えを出せずに唇を噛み締めた。

 

 これまでスクリーンで見てきた過去の記憶──他者への強烈な嫌悪と、認められたいという絶望的な渇望。過剰な善意の仮面と、その裏に潜む悪意。そのどちらが彼女の『真実』なのか、堀北の頭の中で思考が激しく交錯しているのが伝わってきた。

 

 相反するふたつの主張。

 

 だが、オレは動じることなく、静かに一歩前へと踏み出した。

 

「──どっちも偽物だろう」

 

 静寂を突くオレの声に、二人の櫛田の視線が一斉にこちらへと注がれる。

 

「あるいは──どっちも本物といえる」

 

「……どういう意味よ、綾小路くん」

 

 背後で堀北が掠れた声を漏らす。オレは二人の櫛田を見据えたまま、淡々と言葉を紡いだ。

 

「他人に認められるために必死で作り上げた『完璧な側面』の仮面。それもまた、彼女がこの学校で生き残るために必要とした本物の努力だ。そして、そのストレスに耐えかねて内に溜め込んだ『不満と悪意』。それもまた、間違いなく櫛田の内面から湧き出た真実……片方だけを本物だと決めつけること自体が間違いだ。どちらか一方だけでは、櫛田桔梗という人間は成立しない」

 

 表の仮面も、裏の素顔も。

 

 その両方が彼女の防衛機制であり、櫛田桔梗を作り上げる真実。オレの言葉を聞いた瞬間──二人の櫛田はピタリと動きを止めた。

次の瞬間。

 

『──アハハハハハハハハハハハハハハハッ!!』

 

 ふたつの口から、空間を揺るがすほどの狂気じみた高笑いが弾けた。二人の声が二重に重なり合い、不快な金属音のようなノイズとなって大劇場内に響き渡る。

 

『あははっ! さすが綾小路くん!』

『そうよ! どっちもあたしで、どっちもあたしじゃない! あたしの過去を見た程度で理解した気にならないでよ……っ!!』

 

 笑い声と共に、二人の身体から溢れ出したのは、純白の光と黒濁した闇の二色のモヤだった。

 

 モヤは凄まじい勢いで旋風となり、二人を包み込んでいく。

 

「……来るわよ、綾小路くん!」

 

 堀北が棒を前に構え、警戒を露わにする。

 

 弾け飛んだ光と闇の中から姿を現したのは──もはや人間の形すら留めていない異形の影だった。

 

 右側の『聖女』は、巨大な純白の翼を広げ、顔面に歪んだ笑顔の仮面を貼り付けた光輝く【女天使】の姿へ。

 

 左側の『悪鬼』は、漆黒の角を生やし、ドロドロとした憎悪の泥を全身から撒き散らす禍々しい【女悪魔】の姿へ。

 

「あ〜も〜! 天使と悪魔の二重奏なのよー! めちゃくちゃ強そうなの上に二体もいるのよー!」

 

 足元でヒュロポスが金切り声を上げる。

 

「気を引き締めなさい、いくわよ……!」

 

 堀北が覚悟を決め、ペルソナ召喚の姿勢をとる。

 

 大劇場のステージ上。光と闇を纏った二体のシャドウが、オレたちを殺気で威嚇するように、甲高い咆哮を上げた──。

 

「──来い、ネコショウグン!」

 

 オレの呼びかけに応じ、頭上に青い光の渦が巻き起こる。双剣を携えた猫身の武将ペルソナ『ネコショウグン』が実体化し、空中で鋭く刃を閃かせた。

 

「マハジオ!」

 

 ネコショウグンの掲げた刀から、紫電の激雷が一線となって放たれる。ターゲットは右側に鎮座する女天使だ。

 

 雷撃が空間を切り裂き、直撃する──そう思われた瞬間。

 

 女天使の前に、空間の歪みから突如として無数の影が浮かび上がった。シアタールームの探索中に幾度となく出遭った、あの『天使型シャドウ』の群れだ。それらがまるで肉の壁のように女天使の盾となり、前面に立ち塞がる。

 

 轟音、破砕音。

 

 音と共に、青白い電撃の網が天使型シャドウたちを包み込んだ。弱点属性を完璧に突かれたシャドウたちは、悲鳴を上げる間もなく一斉に姿勢を崩し、その場に崩れ落ちる──。

 

「よしっ!  総攻撃のチャンスなの──」

 

 ヒュロポスが歓喜の声を上げた、まさにその瞬間だった。

 

『──秘密をバラされたくなかったら働いてっ!』

 

 鎮座する女悪魔の主が、怒号を撒き散らした。

 

 ダウンした天使たちを介抱することすらなく、空間が歪み悪魔型のシャドウが現れて、矢継ぎ早に『黒色の閃光』が放たれる。

 

 轟音。

 

 点ではなく、空間全体を薙ぎ払う凶悪な「面」の攻撃だった。刃のような闇の閃光が幾重にも交錯し、空間全体を容赦なく切り刻んでいく。

 

「くっ……っ! 散開しなさい!」

 

「うわああぁぁっ!?  殺されちゃうのーっ!」

 

 追撃の余裕などどこにもない。

 

 オレたちは咄嗟に身を翻し、左右前後へと大きく跳躍して激しい攻撃の交差領域から退避した。間一髪で閃光を回避したものの、広大なステージの上でオレたちの陣形は完全に散り散りに引き裂かれてしまう。

 

 着地し、低く構え直して敵陣を観察する。

 

 悪魔の主を見れば──そちらにも天使側と同様、『悪魔型シャドウ』の群れが壁となってズラリと立ち並んでいた。

 

 さらに、嫌な予感はそれだけに留まらなかった。

 

『……可哀想に。痛かったよね? でも大丈夫……私は貴方の味方だから』

 

 女天使の主が、どこまでも優しく、どこまでも狂気的な声を響かせる。彼女がそっと胸元で手を組むと、温かな光がステージ上に降り注いだ。

 

 次の瞬間──先ほどオレのマハジオを受け、息絶え絶えにダウンしていた天使型シャドウたちの身体から、一斉に光の粒子が溢れ出す。

 

 傷が瞬時に塞がり、衰弱していた全身にドクドクと活力が漲っていくのが目に見えて分かった。

 

「ギョエヒュロピーっ!? ヤバいのよーっ! 倒しても倒してもキリがないのよー!」

 

 ヒュロポスの悲鳴が響く。

 

 向こう側では、堀北とヒュロポスが迫り来る悪魔型シャドウの群れに果敢に攻撃を叩き込み、何体かを撃破していた。だが、悪魔の主の足元から無限に湧き出す黒い泥によって、倒されたシャドウは瞬時に次々と補充されていく。

 

『完璧な善意で味方を何度でも再生する女天使』

 

『圧倒的な悪意で無尽蔵に兵力を生み出し、攻撃を撒き散らす女悪魔』

 

 前衛の壁を崩さなければ本尊に攻撃が届かず、その壁は無尽蔵に湧いている。本命の二体を同時に相手取ることすら出来ていない。

 

 単純なゴリ押しではいけそうにないな。

 

 オレはすぐさま、ペルソナを切り替える。その際に堀北に指示を飛ばす。

 

「堀北! そっちはヒュロポスを援護しながら戦え! こっちを片付けたらそっちへ向かう」

 

 オレの声に天使型の主が笑みを零す。

 

『凄いね、綾小路くん。なんか策があるんだ、でも手加減してあげないよ?』

 

 櫛田桔梗の甘ったるい声色をした異形の化け物。オレはその肉壁に向かって放つ――。

 

「──チェンジ」

 

 胸の奥でペルソナの核を切り替える。

 

 頭の前に立ち昇る青い炎の中から現れたのは、砂袋を携え、不気味な笑みを浮かべた三日月顔で泥色の妖精──『ザントマン』だ。

 

「テンタラフー!」

 

 ザントマンが手に握った妖しい砂を撒き散らすと同時に、天使たちを粘着質な紫色の光波が埋め尽くした。

 

 光を浴びた天使型シャドウたちの瞳から光が消え、不気味なノイズと共に不規則な狂動を始める。──状態異常『混乱』だ。

 

『ギ……ギギっ……!?』

『許サナイ……ウソツキ……破滅シロ……ッ!』

 

 正気を失った天使たちは、それまでの恭しい態度を前言撤回するように反転させ、手に持った聖なる刃を隣の味方へ──そして、自らの絶対的な主である【女天使】の背中へと容赦なく突き立て始めた。

 

『なっ……何をやっているのあんたら!?  私はみんなの味方で──あがぁっ!?』

 

 味方の突如たる裏切り。

 

 それは、他人に認められることでしか自己を保てず、最後はクラスメイトたちの暴露と裏切りによって居場所を失った櫛田桔梗にとって、何よりも耐えがたい『劇薬』そのものだった。

 

 本来のスキル効果による同士討ちを遥かに超え、自身の心象風景すらも激しく軋みを上げる。味方からのフレンドリーファイアを受けるたび、女天使の体躯から血のような光の粒子がボロボロと溢れ出していく。

 

 相手を疑心暗鬼と混乱の渦に叩き落とすテンタラフー。彼女の過去と精神的急所を考慮し、効き目があると踏んで選択したが──予想を遥かに上回る特効だ。過去のシャドウ戦に比べても異常なほど拘束力が強く、味方同士の相討ちによるダメージ倍率が跳ね上がっているように思える。

 

「畳みかけるぞ──チェンジ、ネコショウグン!」

 

 間髪入れずにペルソナを再充填。実体化したネコショウグンが即座に双剣を交差させる。

 

「マハジオ!」

 

 紫電の激雷が、混乱し逃げ場を失った天使たちの頭上から容赦なく降り注ぐ。

 

 裏切りによるトラウマと、弱点属性の雷撃。二重の致命傷を叩き込まれた天使型の主は、断末魔の悲鳴を上げる暇すらなく、取り巻きのシャドウ共々、一瞬にして純白の塵となって空中に爆散した。

 

「消えた……!?  嘘でしょ!?」

 

 相棒である女天使を一瞬で喪失したことで、女悪魔の顔に明確な焦りと動揺が走る。それは悪魔型のシャドウにも伝わり、連携に陰りが出る。

 

 陣形は完全に崩壊した。

 

「隙ができたわ! プロウニコス!」

 

 ステージの反対側で、堀北が鋭く叫ぶ。

 

 彼女の背後に光り輝く女教皇ペルソナ『プロウニコス』が現れ、天空へ向けて聖なる祈りを捧げた。

 

「ヒートライザ!」

 

 眩い黄金のオーラが、遠く離れたヒュロポスの全身を包み込み、その全能力を爆発的に底上げする。

 

「ツンツンさんのドーピング、キタキタキターなのよーっ! いけぇぇぇぇっ、イカロス! ヒートウェイブなのよーっ!!」

 

 能力を限界まで極限強化されたイカロスが、激しい灼熱の熱波を纏って低空を超高速で滑空した。

 

 重厚な熱風の衝撃波が、悪魔型シャドウの壁を文字通り「粉砕」しながら突き抜け、奥に潜む女悪魔の本体へとストレートに刺さる。

 

「ぐあぁっ……!? クソが、クソどもが! 打ち首にしてやる……っ! 出てこい、あたしの下僕ども──」

 

 吹き飛ばされた女悪魔が、吐き捨てるように叫び、足元の黒い泥から再びシャドウを無尽蔵に召喚しようと手に力を込めている。

 

 だが──その隙をオレが見逃すはずもない。

 

「──遅い」

 

 無音のまま影を滑らせ、オレは既に女悪魔の死角──背後へと肉薄していた。

 

「チェンジ、リリム」

 

 目の前に浮かんだ青白い炎の中から妖艶な悪魔の少女が舞い降りる。

 

「ブフーラ!」

 

 至近距離から解き放たれた極大の氷結塊が、詠唱中だった女悪魔の無防備な背中を打ち破る。

 

「きゃあぁぁぁっ!?」

 

 背後からのバックアタック。衝撃で女悪魔の巨躯が前のめりに激しく崩れ落ち、完全な無防備状態へと陥った。

 

「ツンツンさん、人間さん! 今度こそ総攻撃なのよーっ!!」

 

 ヒュロポスが宙で軍配を旋回させ、開戦の合図を鳴らす。

 

「ええっ!」

「あぁ」

 

 オレと堀北、そしてヒュロポスが一斉に跳躍し、倒れ伏した女悪魔へと雪崩れ込んだ。

 

 物理打撃、ペルソナの連撃が交叉し、一点へと集約される。

 

 爆発的な衝撃波と共に、女悪魔の異形もまたドロドロとした黒い泥と化し、空中に消え去っていった。

 

「ふぅー……勝ったのよー! 終わったのよー!」

 

 ヒュロポスがパタパタと羽を撫でおろし、安堵の溜息を漏らす。堀北もまた、杖を少し下ろして息を整え始めた。

 

 だが──オレの皮膚は、依然として空気が引きつるような異様な悪寒を感じ取っていた。

 

「……待て」

 

「え……?」

 

 オレの制止の声と同時に、異変が起きる。

 

 空中に散っていた「白い光の塵」と「黒い霧の泥」。

 

 消滅したはずの二つのエネルギーが消えることなく、磁石のように強く引き寄せ合い、ステージ中央の天井近くで激しい渦を巻き始めたのだ。

 

「混ざり合っていく……」

 

 堀北の呆然とした呟き。白と黒、相反するふたつの存在が歪に融合し、膨れ上がっていく。

 

 やがて旋風が弾け飛んだ中心に現れたのは──これまでの倍以上の巨躯、まるで絵画のように精巧な裸体を持つ女悪魔、そして、白い蛇。

 

 相反する二つの感情が逃げ場を失い、ドロドロに溶け合って完成した、櫛田桔梗の精神の果て。

 

 そして――巨躯を誇る女悪魔の胸部の中央。

 

 堀北のアディトンで戦った時と同様、透明なガラス状の領域が存在し、その内側に、まるで深い眠りにつくように囚われている櫛田桔梗の姿が視認できた。

 

「ひゅ、ひゅぽぉーっ!? なんか合体して、おっきくなっちゃったのよー!? そ、そ、それにとってもエッチなのよ!」

 

 ヒュロポスが金切り声を上げて目を丸くする。

 

「……あれが本体というわけね」

 

 堀北が再び木の棒を強く握り直し、鋭い眼差しで巨躯を見上げる。二つの仮面を脱ぎ捨て、むき出しになった歪んだ欲望の塊。

 

 オレは静かにペルソナの力を練りあげる。

 

「恐らく、これが最後だ──行くぞ、力を振り絞れ」

 

「了解なのっ!」

「ええっ!」

 

 オレたちの合図と共に、半天半魔の巨大な主が咆哮をあげる。

 

「いきなさい! 『プロウニコス』! ブフーラっ!」

 

 堀北が現状で使える最大火力。巨大な氷柱と吹雪がアディトンの主めがけて飛んでいく。

 

 だが、その氷は直撃する前に粒子となって消えていく。それどころか――。

 

「吸収された!?」

 

 堀北の言の通りに緑色の粒子となって巨躯を優しく包み込む。巨大な裸体に力が漲っている様相すら見て取れた。氷雪はまったく効き目がないどころか、エネルギーとして吸収されている。

 

「ジオ!」

 

 ネコショウグンのジオが女悪魔に襲いかかる。そして――再度として吸収。電撃も無理か。

 

「うぇぇぇっ!? な、なら――ガルなのよー!」

 

 そしてヒュロポスが放った暴風も――吸収される。

 

「ヒュポーっ!? ズルズルズルズルーっ! 反則反則反則なのよっー!」

 

 ヒュロポスの悲鳴に近い絶叫。だがそう叫びたくなる気持ちもわかる。そんなオレたちの様子を女悪魔は観察しながら薄い笑みを浮かべて見つめてくる。

 

『MarhnK@rhn』

 

 ノイズ混じりの声が響き、桃色の閃光が拡散される。波状の光をすべて避けきり、ペルソナを変える。

 

「『ジャックランタン』! アギラオ!」

 

 オレの眼前で青い炎の中からカボチャの頭部を持つ化物が現れる。ヒーホーと勢いよく叫べば、手に持ったランタンが割れて巨大な火球が女悪魔へ、放たれた。

 

 だが、頼みの炎は、その勢い虚しく吸収されていく。

 

「っ! 綾小路くん、指示を!」

 

 数メートル離れた先にいる堀北。少なくとも堀北の魔法攻撃は効果がないことを確認している。そんな堀北へ向けて指示を飛ばそうとした瞬間。

 

「んもーっ! あんな綺麗な人をいじめちゃ駄目なのー! そんなのあたしが許さないんだからっー! ヒュポーっ!」

 

 堀北へ向けて軍配団扇で殴りかかるヒュロポス。何をやっているんだ、あの鳥は,

 

 だが困惑よりも違和感が先立つ。少なくとも今までの戦闘において味方を攻撃する間抜けを晒したことなど一度もないヒュロポスが堀北へ向けて攻撃をしている。

 

「あの攻撃か……」

 

 先ほどの桃色の閃光。オレは直撃こそしなかったが、どうやらヒュロポスはまともに食らったようだ。オレの持つザントマンのテンタラフー、混乱と同じような効果を持つのかもしれない。

 

 状態異常の搦手。

 

「堀北! ヒュロポスは状態異常にかかっている! このままじゃ、永久に邪魔される! 一度、気絶でも何でもさせろ!」

 

「了解っ! ごめんなさい、ヒュロポス!」

 

 そう呟くと手に持った杖でヒュロポスの頭を思いっきり殴った。すると――。

 

「ヒュポーっ! あたしは誰!? あたしは美少女! 美少女監督なのよーっ! ツンツンさん! もっと手加減して殴ってよね! 美少女の頭にたんこぶできる所だったの!」

 

「なんて、石頭っ……とりあえず、正気に戻ってくれて安心したわ……」

 

「あたしとしたことが不覚を取ったのよ、よくもあたしを、あたしをむちゅーってしてくれたのね! やられたらやり返す! 百万倍返しなのよ!」

 

 ヒュロポスは手に持った軍配団扇で女悪魔を物理的に殴りに行く。すると――。

 

「ぎゃぴーっ! ぎえぴっ」

 

 半透明の盾が浮かび上がり、その壁に胴体がぶつかっては綺麗に弾き返される。

 

「もしかして、物理的な攻撃も駄目なの?」

 

 物理も魔法も効果が見えない。不味いな、打つ手が――。

 

『MarhnK@rhn』

 

 再び、桃色の光波が放たれる。再度としてすべてを避け切るが――堀北とヒュロポスがまともに喰らって瞬間が目に見えた。

 

「くっ、あぁぁっ!」

 

 堀北が頭を抱え、苦悶の声を漏らしながらその場に膝をつく。

 

「あの人は敵……いえ、敵じゃない……! 助けなきゃ……でも、敵、あぁぁっ!」

 

 完全に思考がショートし、光に呑まれた彼女は、頭の中で相反する衝動の板挟みとなり、激しい葛藤状態のまま行動不能に陥っていた。

 

 混乱とは異なる状態異常。様子から仮称するなら魅了といったところか。

 

 二人が同時に精神異常に侵されたのは非常に不味い展開だ。片方だけだったのならば正気に戻させるように指示を出せたかもしれないが二人共々となるとそうはいかない。

 

 堀北と同じく桃色の光波をまともに食らったヒュロポスは、トランス状態のトボトボとした足取りで、怪しい笑みを浮かべながら女悪魔へと近づいていく。そして、その小さな両手で何かを取り出した。

 

「はい、これあげるのね! とっても元気が出る魔石なの! てぇーい」

 

 間抜けな掛け声と共に投げつけられたのは――あろうことか、体力を回復させるアイテム『魔石』。

 

 攻撃するどころか敵を支援・回復しているというのだから厄介極まりない。だが、オレの目に飛び込んで来たのは予想外の光景であった。

 

『Ga!? Alllllalala……!?』

 

 投げつけられた魔石が粒子となり、それを浴びた女悪魔が、唐突に狂ったような悲鳴を上げてその場でのたうち回り始めたのだ。緑色の癒しの光が、まるで強力な酸でも浴びせられたかのように女悪魔の肌を焼き、激しい拒絶反応を引き起こしている。

 

 何故だ――?

 

 属性の攻撃魔法や物理攻撃は全て吸収・無効化された。それにもかかわらず、なぜ「回復アイテム」の投与がこれほど致命的なダメージとして機能した?

 

 その瞬間、一つの仮説が浮かび上がる。

 

 脳裏をよぎったのは、シアターのスクリーンで目撃した櫛田桔梗の過去の記憶。

 

 小中高を通じて、彼女を崩壊させ、その内面を腐らせていったのはいつだって他者からの「好意の言葉」だった。

 

 他人からの無邪気な賞賛、感謝、そして「いい人」としての期待や好意の押し付け。男子からの欲の混じった好意。承認欲求を満たされたこそ、更なる欲求が芽生え、際限なく求めてしまう。

 

 他者からの回復や支援、感謝といった「正のエネルギー」こそが、耐え難き劇薬・毒そのものなのだろう。

 

 そこまで思い至って、オレは即座に堀北とヒュロポスに指示を飛ばす。

 

 状態異常にある二人であっても、「相手を助ける」という方向性の指示であれば、今の精神状態のまま抵抗なく行動に移せるかもしれない。

 

「堀北! ヒュロポス!」

 

「え……? 綾小路くん……?」

 

「堀北は支援を、ヒュロポスは回復をあの女悪魔にかけろ!」

 

「助ける……そうね、助けてあげなきゃ……! 『ヒートライザ』!」

 

「ヒュポ……! 元気にしてあげるのねー! これはとっておきのチャクラドロップなのよー!」

 

 堀北の放った攻撃力強化の光と、ヒュロポスの投げた謎の物体が、同時に女悪魔の巨躯に降り注ぐ。

 

『Ga-aaalalalala!?』

 

 女悪魔は歓喜するどころか痛切な悲鳴を上げてのたうち回る。

 

 それらの連撃に合わせ、オレも自分の中にある一体のペルソナを呼び起こす。

 

 胸の奥から引き出したのは、額に鋭い一本角を戴く純白馬の聖獣――『ユニコーン』。

 

「――ディアラマ!」

 

 ユニコーンの角から放たれた強力な光線が、女悪魔の胸元をストレートに貫いた。

 

 本来ならば傷ついた味方を癒し生還させるはずの聖なる術。しかし今、目の前の女悪魔を過剰に、そして歪に肥え太らせていく。

 

『――――――――――――――』

 

 回復と支援の連打――注ぎ込まれ続ける過剰な「好意」と「承認」の波を受け続けた女悪魔は、もはやその巨大なエネルギーを体に保持しきれなくなっていた。

 

 美しかった体躯は醜悪な巨躯となり膨れ上がる。限界まで空気を注ぎ込まれた風船のように、膨張していき、そして――。

 

 ――パンッ!!

 

 大劇場内に鼓膜を振るわせる爆音と衝撃波が吹き荒れ、女悪魔の異形は一瞬にして爆発・四散した。

 

 光の粒子と霧が周囲の闇へと消えていく。

 

 やがて爆風が収まり、元の静寂を取り戻したステージの中央部。

 

 そこには、異形の皮も、巨大な蛇もすべて剥がれ落ち、元の高度育成高等学校の制服姿に戻った櫛田桔梗が、力を使い果たしたように静かに横たわっていた。

 

 堀北とヒュロポスは、焦点の定まらない胡乱な目で虚空を見つめたまま固まっていた。

 

 先ほど喰らった桃色の波による精神異常――魅了。

 

 経験上、ザントマンの『テンタラフー』などで引き起こされる混乱と同系統の術式ならば、時間の経過とともにやがて正気に戻るはずだ。下手に刺激して予期せぬ暴走を引き起こされるよりは、回復するまで放置して待つのが上策だろう。

 

 そう判断し、二人から少し距離を置いて警戒を維持していた、その時だった。

 

「……う、ん……」

 

 二人が正気に戻るよりも先に、ステージ中央で倒れていた櫛田桔梗が身動ぎを見せた。

 

 ゆっくりと上体を起こした彼女の背後には、未だに不気味な黒いモヤ――先ほどまで戦っていたシャドウの残滓とも言える、弱々しく明滅するコアの姿が浮遊していた。完全に消滅しきってはいないものの、もはや戦闘能力は残っていない。

 

 櫛田は薄っすらと目を開け、視線を巡らせた後、オレの顔を正面から捉えた。

 

「……あは……負けちゃった……」

 

 自嘲気味な笑みを浮かべ、力なく呟く。

 

 そのまま彼女は両膝を抱え込むように体を小さく丸め、膝の間に顔を深く埋めてしまった。絶望なのか、拒絶なのか、あるいは無力感なのか。背中を細かく震わせるその姿には、普段の「クラスのアイドル」としての面影も、先ほどの「凶悪な悪魔」としての威圧感も残っていない。

 

 オレは崩れ落ちた彼女を見下ろし、シアターを通じて彼女の過去を見せられた時から胸の奥にくすぶっていた最後の疑問を口にする。

 

「――お前は、愛されたかったのか?」

 

 静寂を裂いたオレの問い。

 

 その瞬間――ピタリと、櫛田の震えが止まった。

 

「…………え?」

 

 膝の間から顔を上げた櫛田の瞳に宿っていたのは、哀愁でも自棄でもなかった。ドロドロとした血の味がしそうなほどの、剥き出しの『怒り』だった。

 

「な……にを……」

 

 勢いよく立ち上がった彼女は、なりふり構わずオレとの距離を詰めると、その細い腕で思い切りオレの制服の胸倉を掴み上げてきた。布地が激しく軋み、彼女の指先が白く強張る。

 

「あんたに……あんたに何がわかるっていうのよっ……!?」

 

 至近距離から突き刺さる殺意。叫ぶ彼女の息が激しく乱れ、瞳からはボロボロと大粒の涙が溢れ落ちていた。怒りと屈辱に歪んだその顔は、これまでのどんな演技よりも人間臭く、そして悲痛だった。

 

「わかったような顔して……あたしの過去を見たからって、全部知った気にならないでよ! 愛されたかった? ハッ、ウケる! そんなことっ……そんなものっ!」

 

 胸倉を強く揺さぶられながらも、オレは彼女の表情と内面を観察する。

 

 櫛田桔梗という人間の歪んだ承認欲求。

 

 他人より優れていたい、褒められたい、他人の秘密を握って優越感に浸りたい――。

 

 小・中・高と彼女を追い詰め、自爆へと向かわせた暴走する欲求の原動力。だが、彼女の過去の記憶を遡る上で、致命的に『欠落』していた存在があった。

 

 ――両親だ。

 

 幼少期において、人間が最初に「承認」と「無条件の愛」を求めるべき対象であるはずの親の存在が、彼女の記憶の中には驚くほど存在していなかった。

 

 他者からの評価に依存し、異常なまでに外界へ存在証明を求め続けた根底にあるもの。

 

 素の顔ではなく、天使の側面という反動形成を作り上げて。万能的制御という名前の安全装置の使い方を学び。承認に対する飢えを与えた元凶が居たのではないか。満たされることのなかった原初の欲求が、歪み、腐敗し、今を作り上げた――。

 

「わ、私は! わたしはぁっ!」

 

「お前の歪みの一番の原因は何だかわかるか」

 

「そ、そんなのっ! 私のっ! 私の性格が悪いからって言いたいんでしょ! そんなのあんたなんかな言われなくたって私が一番わかってる! 私だってがんばった! 一番になろうとした! でもなれないんだからしょうがないじゃん! だから良い子であろうとしたっ! でもっ、でもっ! 我慢できなくてっ! どうすればよかったのよ!」

 

 胸倉を掴む彼女の腕の震えを感じながら、静かに思考を深めていき、続きを口にする。

 

「お前の一番の歪みの原因は――お前自身が自分は価値がないと思い込んでいることだ――自己価値の不在、強すぎる自己否定。それがお前の承認欲求の正体だ」

 

 胸倉を掴む櫛田の手に、さらに強い力が込められる。爪がオレの制服の生地を突き破らんばかりに食い込み、彼女の細い指先が白く強張っていた。

 

「黙って……黙りなさいよッ……! 何が自己価値の不在よ! 知ったような口を利かないで! あんたにあたしの何がわかるの!? あんたみたいに無表情で、何考えてるのか分からなくて、底が知れない気味の悪い奴に……ッ!」

 

「オレはお前の全てを知っているわけじゃない。だが、このシアターで見せられた過去の断片と、先ほどまで戦っていたお前のシャドウ――それらを繋ぎ合わせれば、自ずと答えは出る」

 

 オレは感情を排した声で、淡々と事実を積み重ねていく。

 

「お前は他者からの『称賛』と『感謝』を貪り続けた。誰よりも愛される『いい子』で居続けるために、血の滲むような努力を重ねてきた。だが、いくら他人に褒められようと、感謝されようと、お前の内側にある飢えが完全に満たされることは一度としてなかった。そうだろ?」

 

「……っ!」

 

「なぜなら、お前自身が『ありのままの自分』に何一つ価値を感じていないからだ。他者からの評価という外部からの補給が途絶えた瞬間、お前という存在は空虚そのものになる。だから絶えず評価を求め、自分より下の存在を確認し、他人の致命的な『秘密』を握ることでしか、自分の優位性と存在理由を担保できなかった。その圧倒的な優位性の中でしか他人への安全性を確かめられなかった」

 

「違う……違うッ! あたしは……あたしはただッ……!」

 

「そして、その底なしの承認欲求の原点――幼少期の記憶において、お前の周囲には本来あるべきはずの絶対的な承認者が存在しなかった」

 

 オレの言葉に、櫛田の呼吸がぴたりと止まった。胸倉を掴んでいた手の力が、ほんのわずかに緩む。

 

「……親だ」

 

 静寂が舞い戻った大劇場に、その二文字が重く響く。

 

「お前の記憶の映像には、クラスメイトや教師、噂話をする見知らぬ他人は腐るほど映っていた。だが、お前を育んだはずの両親の姿だけが、徹底的に欠落していた。影すらも無かったと言っていい」

 

 幼少期における親の存在。それは人間が生まれて初めて「無条件の受容」と「愛」を経験するための最初の境界だ。そこが透明な無関心で満たされていたのか、あるいは過剰な条件付きの期待で塗り潰されていたのか――それは判然としない。

 

 だが、結果として櫛田桔梗という少女は、「そのままの自分では愛されない」「他人の期待に応え、成果を出し続けなければ捨てられる」という苛烈な強迫観念、見捨てられるという不安を骨の髄にまで叩き込まれた。

 

「無条件で自分を認めてくれる存在を知らないお前は、条件付きの承認を外部に求め続けるしかなかった。だが、仮面を被って得た称賛は、『偽りの自分』に向けられたものだ。褒められれば褒められるほど、『本当の自分はこんな奴じゃない』という剥離感と自己嫌悪が肥大化する――作った自分が愛されれば愛されるほどに偽りの自分が受け入れられないと思い込む。だからこそ、内心のお前は他者に対してあそこまで攻撃的になった。他者からの賞賛や他者からの好意はお前にとっては文字通りの毒でありながら、薬だった」

 

「あ……あ……っ」

 

 櫛田の唇から、情けない掠れ声が漏れ出た。

 

 彼女の目から溢れる大粒の涙が、オレの胸元に落ちて小さなシミを作る。

 

 彼女は掴んでいた胸倉から手を離し、力なくその場に崩れ落ちた。冷たいステージの床に両手を突き、ボロボロと涙を流しながら、自らの内面を吐き出していく。その姿は、かつてクラスのアイドルとして咲き誇っていた可憐な少女の面影もなく、ただ自らの呪いに押し潰された一人の傷ついた子供だった。

 

 第一階層の万能的制御という名の防衛機制。

 

 櫛田桔梗にとって承認の果てにある秘密を打ち明けられることは安全性の確保と同義だった。他者を根本的に敵だと認識している上で、他人と密接な関係を表面上で保つには相手からの秘密を得ることこそがストレッサーに対する問題解決方法であった。秘密を得て、精神的に優位を保ち、敵に回った時の保険があることで問題を過小化した。

 

 第二階層の反動形成という名の防衛機制。

 

 内心と正反対の対応を取ることで他者という敵から身を守る術。表面上の階層から奥底に存在した反動形成は万能的制御という強力な手法により、隠されて見えづらくなる。反動形成の根本、見捨てられ不安とも呼べる代物は承認欲求という大抵の人間に備わっている代物に隠された。

 

 反動形成は相手からの承認、秘密を得続けることでその防衛機制を奥深くに隠したのだろう。だからこそ、探索において万能的制御の防衛機制が崩壊した後に新しいフロア――反動形成の式会場と呼べるフロアが現れた。

 

 そしてコア。櫛田桔梗を守る上で最たる元凶の防衛機制――分裂。

 

 黒か白、一か百、善か悪、物事を二極化で捉える極めて『未熟』とも言える防衛機制。

 

 櫛田桔梗にとって自分以外は敵であった。賞賛も、承認も、秘密の暴露も、好意すらも。だからこそ、麻薬なのだ。自らを滅ぼすとわかっていながらも止められない承認こそが櫛田桔梗にとっての毒。

 

 誰もが好きになる正しい仮面を肯定されればされるほど、本心が述べること、感じることが否定される。

 

 櫛田桔梗への有り余る賞賛は、多数からの幾多の承認は――唯の一回も櫛田桔梗にとっての肯定ではなかったのだ。

 

「一番になりたかった……。誰よりも特別になりたかった……ッ! でも、あたしには何もなかった! 勉強だって、運動だって、上には上がいる! 特別な才能なんて何一つない! だから……だから『いい子』になるしかなかったのよ! みんなの相談に乗って、みんなに優しくして、頼られて……そうしなきゃ、一番になんてなれなかった! 誰にも見てもらえないなら! あたしがここにいる理由なんて無いじゃないッ……!」

 

 悲痛な叫びが大劇場の天井へ吸い込まれていく。

 

 背後に漂う黒いモヤ――シャドウの残滓が、彼女の感情の昂ぶりに呼応するように微かに明滅した。

 

「でもッ……辛かった……ッ! みんなの愚痴を聞いて、くだらない悩みにつきあって、笑顔で『大丈夫だよ』って言い続けるのが……吐き気がするほど嫌だった! あたしを都合よく使う奴らを、全員見下して、踏みつけて、壊してやりたかった……ッ! みんながあたしを褒めるほど、全部壊したくなった! なのに、やめられなくて……! もう、後戻りなんて……できるわけないじゃない……! そんな本当の私なんて誰も好きになんてなってくれない!」

 

 絶望に打ちひしがれる櫛田。

 

 自分を証明するために築き上げた仮面が、自分自身を殺す刃となっていた。その歪んだ構図を、オレは冷静に受け止める。

 

 これが、櫛田桔梗という人間の本質。

 

 櫛田の本質は承認だけではない、他人からの見捨てられにこそ過敏だったのだ。だからこそ、彼女は中学時代の自分のクラスを徹底的に壊した。

 

「……後戻りなんて、最初からする必要はないんじゃないかしら」

 

 静かだが、凛とした固い声が背後から響いた。

 

 振り返ると、そこにはいつの間にか正気を取り戻した堀北鈴音が立っていた。

 

 まだ少し足元が覚束ない様子ではあったが、手にした杖をしっかりと握り締め、真っ直ぐな眼差しで崩れ落ちる櫛田を見つめている。

 

「ツンツンさん……よーやっと、正気に戻ったのね! 頭のたんこぶはもう痛くないのよー」

 

 堀北の隣では、ヒュロポスも魅了の状態異常から脱したようで、短いまばたきを繰り返しながらパタパタと翼を羽ばたかせていた。

 

「ええ、ヒュロポス。おかげさまで頭はすっきりしているわ。次からはもう少し優しく叩いて頂戴」

 

 堀北はヒュロポスに短く答えると、迷いのない足取りでオレの横を通り過ぎ、櫛田の前へと歩み出た。

 

「堀……北……さん……」

 

 涙で濡れた顔を上げた櫛田が、警戒と自虐の混ざった視線を堀北に向ける。

 

「……笑いに来たの? あたしの惨めな姿を見て、勝ち誇りに来たの……? 『可哀想な櫛田さん』って、上から目線で慰めてくれるわけ……?」

 

「そんな暇はないわ」

 

 堀北は容赦なく切り捨てた。その冷淡とも取れる態度に、櫛田が息を詰まらせる。だが、堀北の瞳に宿っていたのは蔑みでも同情でもなかった。

 

「私はあなたを可哀想だなんて思わない。ましてや、あなたの犯してきたことや、クラスを引き裂こうとした悪意を許すつもりも、清算されたと思うつもりもないわ。あなたは最低で、身勝手で、厄介極まりないクラスメイトよ」

 

「……だったらッ!」

 

「けれど――!」

 

 堀北は一歩、踏み込んだ。

 

「あなたが積み重ねてきた努力そのものは決して無価値なんかじゃない。あなたが頑張ってきたことを無価値だなんて思わない。あなたの素の側面が無価値だなんて言わせない」

 

「……え……?」

 

 予想外の言葉に、櫛田の顔が固まる。

 

「他人に認められるために必死で努力した。クラスの誰もがあなたを頼り、あなたを好きになった。それは他人の評価に依存していたとしても、あなたが実際に汗を流し、時間を費やして手に入れた、紛れもない『あなた自身の成果』よ。特別な才能がなかったから? それがどうしたというの。才能がないからこそ必死に足掻いたその過程すら否定したら、あなたには本当に何も残らなくなるわ」

 

 堀北の言葉は、厳しく、しかしどこまでも真摯だった。

 

 かつて兄である堀北学の背中だけを追いかけ、兄からの承認だけを己の存在価値としていた堀北鈴音。彼女もまた、このアディトンにおいて自らの「承認への執着」と向き合い、それを乗り越えてきた。

 

 だからこそ、目の前で悶々ともがく櫛田の歪みが、人ごとに思えなかったのだろう。

 

「私はずっと、あなたの裏の顔を知った後も、あなたと分かり合いたいと思っていた」

 

 堀北は腰の杖をそっと下ろし、膝を折って櫛田と視線の高さを合わせた。

 

「その薄汚い本音も、私への憎悪も、ドロドロした悪意も……全部、私にぶつければいい。その上で、私はあなたと理解しあいたい」

 

「な……何を言ってるのよ……正気……!?」

 

「正気よ。あなたが私を嫌い、私を追い落とそうとするなら、私は全力でそれを返り討ちにする。あなたがどれだけ卑劣な手を使おうと、私は正面からあなたをねじ伏せてみせるわ……私の前でくらい、最低な人間の顔をしてなさい」

 

「な……なんで……っ! なんでそんなこと言うのよッ! あたしはあんたの邪魔をしようとしたのよ!? あんたの存在が邪魔で邪魔で溜まらないのよ! ずっと、ずっとずっとずっと一番だったあんたを私が許せるわけないじゃないッ!」

 

 あぁ、なるほど。どうして、櫛田の過去の回想で堀北の顔が塗り潰されていなかったのか腑に落ちる。

 

 櫛田桔梗にとって――堀北鈴音は特別だったのだろう。

 

「許してなんて言っていないわ」

 

 堀北はかすかに唇の端を上げた。それはどこか不敵で、力強い笑みだった。

 

「互いに嫌い合い、互いに警戒し合いながらでも、同じクラスで背中を預け合うことはできるはずよ。あなたが本当の自分を『価値のない空っぽな存在』だと言うなら、私が証明してあげる。あなたという存在が、このDクラスにとってどれほど厄介で、そしてどれほど必要なピースであるかをね」

 

「なに……それ……」

 

「だから――もう二度と、自分を無価値なんて言葉で逃がさないで」

 

 裏の顔を知られれば無価値になるという認知を堀北は否定する。それは櫛田桔梗にとって望んでいた筈の――そして最も望んで、最も望まない相手からの――初めての肯定。

 

 それは他者からの「無責任な好意」や「期待の押し付け」ではなく、一人の対等な人間として突きつけられた『受容』だった。

 

 甘やかされることもなく、哀れまれることもなく、ただ一つの「障害」として、そして「仲間」として肯定された瞬間。

 

「あ……あぁぁぁぁぁっ……ッ!」

 

 櫛田桔梗の口から、今度こそ偽りのない、魂の底からの慟哭が溢れ出る。彼女は顔を覆い、子供のように声を上げて泣きじゃくった。ヒュロポスはそんな櫛田に抱きつく。何度も払われ、邪魔だと意思表示されても抱きしめる。

 

 やがて払う手は動かなくなり、なすがままに。

 

 承認に飢え続けた彼女が、初めて「ありのままの醜い自分」を他者の前に晒し、生きることを許された瞬間でもあった。

 

 コアが揺らめくのが見える。慟哭に応えるように、彼女の背後に漂っていた黒いモヤが、ゆっくりと形を変えていく。

 

 櫛田の背後に現れた、その鏡は割れて、破片が櫛田桔梗に振り注いでは溶けていく――。

 

 今ここに、三『人』目のペルソナ使いが新たに生まれた。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

「……お待たせ」

 

 櫛田が唇を尖らせている。オレは先ほど、伝え忘れていた言葉を言う事にした。

 

「あぁ、櫛田。言い忘れていた」

 

「なに?」

 

「お前は素の顔を好かれるわけないと思い込んでいるが、オレは猫かぶっているよりも、素のお前の方が人間らしくて好感が持てるぞ」

 

 その言葉に動きを止める。

 

「は? はぁ!? はぁぁぁぁ!? ば、ばっかじゃないの!」

 

「ヒュポー! 人間さん! なに急に口説いてるの! メッメッメッメッ! 人間さんは悪い子! 人間さんは悪い子!」

 

 足元で急に羽根を叩きつけてくるヒュロポス。

 

 オレはあくまでクラスのアイドルとしての側面はどこか人間味が薄く、観察対象として不適切であるが、こちらの素の櫛田は人間味があって興味深いと思ったのを口に出しただけなのだが。

 

 それに堀北のように特別な相手ではないオレが言った所でなんの慰めにもならないだろう。

 

「ヒュロポス、続けなさい」

 

 何故か堀北もヒュロポスが羽根でじゃれついてくるのを止めない。すると足元がグラグラと揺れ始める。

 

 猛烈に嫌な予感がする。

 

「ねぇ、綾小路くん……」

 

 震える堀北の声。投げかけられた疑問に答えずに周りを見渡して――階段を見つける。

 

「階段まで走れッ!」

 

 らしからぬであろう怒声。けれども全員の判断は早い。堀北、櫛田と続き、最後尾にヒュロポス。

 

「ちょっと、説明して! つーか、しろ!」

 

「ここは櫛田の防衛機制、多大なストレスが原因で作り上がった空間だ。その櫛田の精神、ストレスに対する認知が代わり、精神が安定したらどうなると思う」

 

「もう、答え聞きたくないんだけど……」

 

 階段まで辿り着くも、完全に崩れ落ちていて。左右を見れば堀北も櫛田も顔を青に染めている。

 

「ヒュポっ! あっ! 上よ! 人間さん、上!」

 

 ヒュロポスが指差したのは天窓。確かにあそこからなら――。

 

「このブサカワ、無茶言わないで! あんなの登れるわけないでしょ」

 

 櫛田の焦り声にヒュロポスは衝撃を受けている。

 

「えっ! えーっ! 今、あたし、滅茶苦茶悪口言われた!? ムキー! なによ、ブサカワって! カワカワなのよ! こちとら美少女を売りにしてるの! フォーラム一の可愛すぎで有名なヒュロポスちゃんで売ってるの!」

 

「ヒュロポス! さっさと変形してくれ……」

 

 地団駄を踏むヒュロポスに声をかけるとぶつくさ言いながらもポーズを取っている。果たしてそれは必要なんだろうか。

 

 最後に空中でクルリと一回転すると、何故か誇らしげに胸を張り、眩い光を纏いながら叫んだ。

 

「美少女監督メーイクアップ! これぞ美少女による超絶スタイリッシュ移動形態なのねーっ!」

 

 光が収まった時には、白とピンクの流線型フォルムをした小型ヘリコプターへと変貌を遂げていた。

 

 パタパタとローターが回転を始め、側面のドアがスライドして開く。

 

「……乗るわよ」

 

 慣れた様子で堀北が真っ先に機内へ乗り込む。

 

 一方で、目の前で起きた「鳥がヘリコプターに変身する」という常識を置き去りにした光景に対し、完全に思考がフリーズしていたのは櫛田だ。目を白黒させ、口を半開きのまま呆然と立ち尽くしている。

 

「乗るぞ、櫛田」

 

「え? あ、いや、ちょっと待っ――きゃあっ!?」

 

 オレは一切の躊躇なく手を伸ばすと、固まっている櫛田の腰を力任せに掴み、そのまま強引に機内へと引きずり込んだ。ドサリと床に転がされる櫛田。

 

「な、何すんのよ! もっと女の子に対する扱いってものがあるでしょ!?」

 

「綾小路くん、緊急事態だから見逃すけれどあんまり褒められたものじゃないわ」

 

 矢継ぎ早の声を無視して機内に乗り込み、ドアを閉めると操縦席に向かって短く告げた。

 

「ヒュロポス、出せ」

 

「あーいあいさーなの! 全速力で脱出するのねーっ!」

 

 直後、強烈なGが全身を襲う。

 

 ヒュロポスは猛烈な勢いで垂直上昇すると、アディトンの強固な構造物である天窓を目掛けて一直線に突き進んだ。

 

 バリァァァンッ!

 

 爆音とともに窓を粉砕し、そのまま重力と空間の歪みを強行突破して外の世界――『フォーラム』へと飛び出す。華美な内装をしたアディトンのフロアから、荒廃都市の空へと一気に抜け出た。

 

 風を切る音とローターの回転音が響く中、機体は高度を下げ、フォーラム内のパレットへと向かっていく。

 

 背後を見れば映画館が消えている。巨大な大劇場の建造物が、潮が引くように崩壊し、青と黒の光の粒子となってフォーラムの空へと溶けていくのが見えた。

 

 二つ目のアディトン。櫛田桔梗の防衛機制の攻略はこうして、幕を閉じた――。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 ――五感が激しく切り替わる。

 

 視覚、聴覚、肌を撫でる空気の質感、そして重力の感覚。それら全てが急激に反転し、歪んだ異世界の気配が霧散していく。

 

 目を開けると、そこは聞き慣れた静寂が満ちるオレの自室。真昼時の穏やかな陽光が窓から差し込み、室内を静かに照らしている。

 

 現実世界への帰還。

 

 だが、全員の疲労感はすでにピークに達している。

 

 今回の探索は、これまでに比べても群を抜いてハードなものだった。

 

 二体に分裂したシャドウ、それらが融合した巨大なコアの主。さらに、あらゆる攻撃魔法や物理攻撃を吸収し、好意や回復そのものが毒となるという歪んだ精神構造――一歩間違えれば全滅していてもおかしくない死闘だったのだから、精神的疲労は当然のものであった。

 

「もーぅ! 限界なのよーっ! 美少女は今日、もう一歩も動かないのよー! もてなしてっ! 誠心誠意もてなしてっ! 甘やかしてほしいの!」

 

 ヒュロポスが部屋のローテーブルの上に力なく飛び乗ると、だらしなく翼と脚を投げ出してベタリと寝転がった。

 

「……同感ね。一歩どころか、指一本動かすのも億劫だわ」

 

 すると、いつもなら「だらしないわね」とヒュロポスを嗜めるはずの堀北までもが、ローテーブルの空いたスペースに脱力したように突っ伏した。整った黒髪がテーブルの上にサラリと広がり、完全に疲労困憊といった様子で顔を埋めている。

 

 学校では常に背筋を伸ばし、クラスメイトの前では決して弱みを見せない堀北鈴音。そんな彼女が、男子の部屋でこれほど無防備に脱力している姿など、普段はまずお目にかかれない光景だった。

 

「ふーん……」

 

 そんな二人、もしくは一人と一羽の様子を、オレのベッドの上で横たわっていた櫛田が、どこか呆れたような視線で見つめていた。

 

「あんたもコイツの前じゃ、そんな風に気を抜くんだ」

 

 櫛田の刺すような声に、堀北は突っ伏した姿勢を崩さないまま、横顔だけをゆっくりと声の主へと向けた。

 

「……あなたのその態度に比べればマシよ。そんな状態を見られれば明日からDクラスでの席すらなくなるわね――綾小路くんの」

 

 わざわざ溜めを作り、倒置法を使ってオレを標的に指名してくる辺り、性格が悪い。

 

 クラスのアイドルである櫛田桔梗が男子の部屋のベッドで寝転がっている姿は確かに男子の嫉妬を一身に引き受けることになるだろう。しかし、櫛田だけではなく堀北がローテーブルに突っ伏して姿も同様だ。

 

 確かなのはどちらも外野に見られればクラス中の噂になり、オレの平穏な学校生活は明日で終わりを迎えるだろう。

 

 最も、今のオレが平穏で普通の学生生活を送れているかどうかは微妙な話ではあるが。

 

「……勘弁してくれ」

 

 これ以上この場に留まって、二人の矛先がこちらに向くのは御免だ。

 

 オレは静かに立ち上がると、疲労困憊の全員分のお茶でも淹れようと、そそくさとキッチンへ逃げることにした。冷蔵庫から麦茶の入ったピッチャーを取り出し、手早くグラスに注いでいく。

 

 ヒュロポス用のオモチャのコップ。二人分のマグカップ。そして、来客用のプラスチックのカップ。

 

 合計四つをお盆に載せ、静かに自室へと戻った。

 

 部屋に戻るやいなや、マグカップを見た櫛田は「あんたら、本当に付き合ってないわけ?」と、じっとりとした視線を投げてくる。

 

「邪推はやめてなさい、これは別に……」

 

 珍しく慌てる堀北。

 

「いや、お揃いのマグカップとかカップルじゃん」

 

「こ、これは私たち、あのフォーラムを復興するチームだから、その、別に、特別な意味なんてないわ」

 

 普段の理路整然とした姿からは想像もつかない珍しい光景。

 

 そんな堀北の様子を面白そうに眺めていた櫛田は、やがてふっと力の抜けた笑みを浮かべ、カップを見つめながら言った。

 

「へー、じゃあ私のも追加してくれる?」

 

 その発言に、堀北はピタリと動きを止め、目を見開いた。

 

「……何? 駄目なの?」

 

 堀北は心配そうな、しかしどこか確認するような声音で尋ねる。

 

「いいえ、でも……危険よ?」

 

「そんなの知ってる」

 

 櫛田はベッドから起き上がり、透明のコップを受け取って視線を落とす。

 

「でも、そんな危険な場所であんたらは復興ってのをしてんだよね? みーちゃん……王さんや、松下さんがいい方向に変わったのも、そこらへんが理由なんでしょ? なら、それって回り回ってDクラスの為ってことでもあるじゃん。なら私も……」

 

 そこまで言って、櫛田は一度口を噤み、気まずそうに視線を逸らした。だが、すぐに、再度として口を開く。

 

「……プライベートポイント欲しいし、クラスポイントにいい影響があるのなら手伝うってだけだから」

 

 恐らく照れ隠しも含んでいるのだろう言葉。オレが言葉の裏を推測する前にすかさずヒュロポスが反応した。

 

「ヒュポー! 部員が増えて戦力アップなのねー! よろしくなのよー、ハラグロさん!」

 

「誰がハラグロよ、このブサ鳥」

 

「ぶ、ぶぶぶぶ、ブサ鳥!? こ、こんなに可愛いヒュロポスちゃんをあろうことかブサ鳥ーっ! な、なんて生意気な新入部員なのかしら!」

 

 一触即発の勢いでヒュロポスが羽をバタつかせ、櫛田が冷ややかな視線を返す。騒がしいそのやり取りを眺めながら、オレはマグカップに注いだ麦茶で喉を潤す。

 

 緊張の解けた部屋に、氷のぶつかる涼やかな音が小さく響く。窓の外を見た櫛田が口を開く。

 

「……堀北、まだ学校終わってないよね」

 

 長い一日は時間だけ見ればまだ午後二時を回った所。アディトンの攻略に時間をかけたせいで時間の感覚がおかしくなりそうではあるが、他の生徒たちはまだ授業中である。

 

「えぇ、フォーラムでの探索は時間が経たないから」

 

「学校、戻る」

 

「……今戻ったら責められるかもしれないわよ。ほとぼりなんて冷めてないでしょうし」

 

「それでも戻る」

 

 櫛田の言は頑なだった。櫛田桔梗に取って、今のDクラスの現状は最も見たくない状態の一つだろう。

 

「ついていくわ、貴方もよ」

 

 マグカップを口にしていたオレに向かって堀北が言い放つ。動くのすら億劫であろう。大した精神力だ。

 

「別についてきて、なんて言ってないんだけど」

 

「緩衝材はあったほうがいいでしょう? それに、な、仲間なんだから見届けたっていいじゃない」

 

 堀北が顔を赤くしてそっぽを向いている。

 

「なんで、あんたが顔を赤くしてるわけ……?」

 

「しょ、しょうがないでしょう、慣れてないんだから……」

 

 堀北の顔の赤さは櫛田にも少し移っている。それを隠すためか櫛田はそそくさと立ち上がって玄関へ向かった。

 

「なぁ、提案があるんだが――」

 

 オレは現在のDクラス教室ではなく、最近お馴染みのカフェに集まることを提案してみた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 櫛田の謝罪の為に集まった面々。主にあの場で騒いでいた面子と平田と軽井沢。

 

 幸いなことに池や平田はあっさりと許したが、女子の方は不信感は根深く謝罪だけ受け取る形となった。けれども山内の無神経な発言が飛び出したことによって庇ったみーちゃんをみていると決して脈がないわけでもなさそうだ。

 

 新たなペルソナ使いが産まれたことによって探索と復興は大きく進むだろう。そして、オレはそれ以上に櫛田桔梗に興味が湧いている。

 

 親から受け取れなかった代物を他者から形を変えて集めようとしたその欲求は非常に興味深い。

 

 愛情。

 

 多種多様の形が存在するその脳内システムは科学的に三つのホルモンが重要視されている。そのうちの一つがオキシトシン。

 

 これは親子の愛情において最も関係があるとされるホルモンである。不足すれば不安や恐怖心が強くなり、他者との繋がりや不信感が強くなる。人間関係に億劫さを感じやすく、他者に囲まれていても、孤独感が強まる。

 

 幼少期に親子間のスキンシップが重要視されるのはこのオキシトシンが生成され愛着の形勢を育むからだと言われている。

 

 そしてオキシトシンが少ない幼少期を送った子供はどうなるのだろうか。

 

 愛着形勢が乱れ易く、不安や強いストレスを感じやすい傾向が現れる。愛着形成の乱れは親子や他者との信頼関係を上手に結びづらくなる傾向と関係が大きい。

 

 そして櫛田桔梗の防衛機制を振り返ればその傾向が伺い知れる。一方向による信頼関係ならば櫛田桔梗は満点に近かった。ただし、それが両方向であればの話は別だ。

 

 櫛田が抱く他者という存在への不信のせいで彼女は信頼関係を正しく築きあげれなかった。

 

 背景から本来ならば意識的には苦手、不得手とする分野において類稀なる才覚を発揮しているのだから皮肉なものだ。なまじ、容姿が良かったが故にその不器用な生き方は避けられなかったのだろう。

 

 櫛田桔梗はオレにとって重要なサンプルになる。

 

 櫛田は親子愛は皆無だったわけではない。ただ、中途半端に与えられ、足りなかったのだろう。だからこそ、飢えて、求めた。

 

 それは――持っていない人間にとっては人間として良質なサンプルともいえる。

 

 異世界のフォーラムと防衛機制の檻であるアディトン。それを乗り越えた堀北と櫛田の成長は人間的な成長といっても過言ではない。本来ならば緩やかでいつ起こったのかわからない成長を強制的に且つ急速に行わせる。

 

 他人を学習する上でこれほど良質で分かりやすく、話が早いサンプルは少ないだろう。

 

 あの無機質で白い部屋では到底知り得なかった。

 

 やはり、オレはあの場所を出て良かった、と心の底からそう思った。

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