Persona x Classroom of the Elite 作:仔羊肉
「──ハァッ、ハァ……っ! 『マハンマ』ァッ!」
荒い息遣いと共に、櫛田の鋭い叫び声が空間に響き渡った。
彼女の背後にそびえ立つ純白と裸身のペルソナ『アカモート』が指先を掲げると、頭上に展開された聖なる陣から眩い光の束が降り注ぐ。光に穿たれたシャドウたちは絶叫を上げ、次々と黒い靄となって崩れ去っていった。
敵を打ち倒したのを確認すると、櫛田は肩を激しく上下させ、額に滲む汗を乱雑に拭った。
「ねぇ、綾小路くん、ほんっと、きついんだけど……」
膝に手をつき、青白い顔で言ってくる櫛田。
オレたちの少し後方には、気絶している堀北とヒュロポスを、まとめて寝かせてある。
「さぁな……無限ではないだろう」
「……っく、ふふ。相変わらず慰め方下手くそすぎない……?」
オレの無機質な返答に、櫛田は力なく苦笑した。そしてポケットから小さなカプセルを取り出すと、迷いなく口の中に放り込んで飲み込んだ。
「寄生虫いなきゃいいんだけど」
疲労困憊の表情のまま、ぽつりと吐き捨てるような独り言。
「安心しろ、一応毛づくろいや風呂には入れている」
「ぷっ、その光景、ウケるんだけど……」
想像がついたのか、櫛田は吹き出すように漏らした。だが、冗談を言い合える余裕もそこまでだ。奥の暗がりから、再び地鳴りのような足音が近づいてくる。
そして戦闘の開始を告げるブザーが鳴り響く。
「そろそろ、来るぞ」
「……オッケー、前、よろしく」
「了解だ」
オレは櫛田の方を振り返ることなく、再び現れたシャドウの群れ──角を生やした「オニ」と呼ぶべき巨躯の三体に向かって、迷いなく地を蹴り前進した。
オレたちの窮地とも呼べる現状、それは遡ること十数分前の出来事から始まった──。
◇ ◇ ◇
須藤のアディトンへと足を踏み入れ、薄暗く不気味な通路をひたすら奥へと進んでいったオレたちが辿り着いたのは、一面に砂が広がる広大なスペースだった。
見上げれば周囲をぐるりと囲む巨大な観客席。奥には重厚な鉄格子で閉ざされた柵付きの扉。古代ローマの『コロッセオ』──歴史の教科書に載っている円形闘技場が、最も近いイメージだろう。
だが、そんな古風な闘技場において、唯一決定的に異質な世界観を放っていたのが、頭上に燦然と輝く巨大な『電光掲示板』だった。そこには、赤々としたデジタル文字で【第一回戦】というテキストが流れている。
ドズン、と激しい地響きと共に奥の鉄格子が跳ね上がった。
闇の奥から這い出てきたのは、巨大な黒いモヤ。そのモヤは瞬く間に密度を増して形を成し、巨大な人型へと変化していく。頭部に禍々しい角を蓄えたその姿は、名称をつけるならば「オニ」と呼ぶのがふさわしい。
五体のオニが現れ、それぞれが構えを取る。
その光景を目にした瞬間、全員がここでのルール──闘技場方式の戦闘であることを理解した。
堀北はヒュロポスから以前貰った棒ではなく、またもやヒュロポスがどこからか拾ってきた木刀を構える。オレは両手首に巻いたバンテージの具合を叩いて確認し、いつでも踏み込める体制を整える。
後衛適性の高い櫛田は静かに目を閉じ、集中力を高めながら『マハンマ』や『マハムド』といった全体スキルの即時詠唱準備に入る。
だが──静寂を破ったのは、オレたちの前でフンスフンスと鼻息荒いヒュロポスだった。
「先手必勝なのよー!」
「ま、待ちなさいっ!」
堀北の制止の声も虚しく、ヒュロポスは小さな翼をパタパタと羽ばたかせ、オニに向かって全力疾走で突撃した。
──ひゅぺっ!
まるで目に見えない透明な壁に激突したかのように、ヒュロポスは間抜けな声を上げてその場に弾き返され、空中で停止した。
その瞬間、コロシアム全体に甲高いブザー音が鳴り響く。
目を回してふらふらとしているヒュロポス目掛け、五体のオニが一斉に殺到した。
「綾小路くん!」
「あぁ……!」
オレは短い返答と共に即座に駆け出した。背後から櫛田の『マハンマ』が降り注ぎ、眩い光がオニたちを包み込む。しかし、この階層のオニは極めてタフだった。光の波動を耐え抜き、全員が健在のままヒュロポスに群がり、容赦なく殴り、蹴りつける。
「ヒュポーっ!?」
乱打されるヒュロポスの隙間に滑り込み、強引にその体を引っ張り出す。オニの振るった拳のかすり傷や衝撃が腕を襲い、鈍い痛みが走るが、戦闘続行には何の支障もない。
しかし、問題はもう一方だった。
堀北は一人で二体のオニを引き受け、木刀で猛烈な金棒の打撃を受け流しながら果敢に反撃を試みていた。だが──。
ガァンッ! と、鼓膜を破らんばかりの衝撃音が轟く。
横から打ち込まれたオニの全力の一撃が、召喚していたペルソナ『プロウニコス』の盾ごとごと、堀北の身体を力任せに振り抜いたのだ。
「あぐっ……!?」
堀北の身体は吹き飛び、地面を二度、三度とボールのようにはねて、コロシアムの強固な外壁に激突した。
「堀北!?」
後方から櫛田の焦燥に満ちた叫びが響く。
まずいな。前衛の一角が崩れたことで、こちらの連携が完全に瓦解した。
オレは召喚器の思考を瞬時に切り替える。最初に準備していたリリムから、ザントマンを呼び起こす。
「──『テンタラフー』」
オレの合図と共に、混乱を誘発する怪しい波動がオニたちの頭上を覆う。
直後、オニたちの瞳から正気が消え、咆哮を上げながらお互いに金棒を振り下ろし、同士討ちを始めた。
敵の足止めに成功したわずかな隙に、オレは片手にヒュロポスを抱えたまま堀北のもとへ疾走する。
壁の麓で倒れ込んでいる堀北の様子を伺う。呼吸はあるが、完全に意識を失っている。
堀北を背中に背負い直し、後衛で待機していた櫛田の背後へと移動すると、二人の身体を静かに並べて横たえた。
オレは、先ほど堀北が食らった一撃の光景を反芻する。
もしこれが現実世界での物理的な殴打であれば、内臓破裂か頚椎損傷で確実に即死レベルの衝撃だ。にもかかわらず、このアディトン内において堀北は「気絶」という程度のダメージで済んでいる。
これまでのシャドウ戦を通してもそうだったが、異世界における攻撃やダメージは、肉体そのものを破壊する力というよりは、別の概念的な数値として処理されているフシがある。額面通りの物理法則が適用されているわけではない……最もペルソナなんてわけのわからないものを扱っているから今更ではあるが。
思考を切り替え、オレは再び前方に視線を向けた。
『テンタラフー』の混乱効果を受け、未だに不格好な同士討ちを続けているオニたちを見据え、オレは静かに拳を握り直した──。
「オレは前衛に戻る、後ろには一匹も通さないから櫛田は攻撃を頼む。一度倒さなければ、堀北たちの安全圏すら確保できない」
気絶した堀北とヒュロポスを前にして、狼狽を隠せずにいた櫛田に対し、オレは淡々と事実だけを告げた。
「……っ、わかった。もう一度大技、いくから!」
櫛田は自身の頬を両手で叩き、強引に意識を戦闘モードへと切り替えた。
オレはすぐさま翻身し、『テンタラフー』による混乱が解けかかり、再びこちらへと殺意の視線を向け始めたオニの群れ目掛けて突撃した。
「五体か、流石に多いな……」
口の中で短く呟きながら、ペルソナ【ザントマン】の気配を背後に爆発させる。睡眠や幻惑の波動で敵の立ち位置を強引に牽制し、間合いを狂わせながら、五体のオニが容赦なく振り下ろしてくる激しい棍棒の連撃を間一髪でかわし続ける。
抜け出して櫛田の方向に向かいそうな相手には背後から強烈な一撃を入れてやれば再び、意識をこちらに向けさせる。
頭上を風切り音がかすめ、足元の砂が爆発するように舞い散る。紙一重の回避を繰り返しながら敵を引きつける。
その時──後方から鋭い叫びが届いた。
「離れてっ………………『マハムド』ぉっ!」
その声と同時に、オレは一拍置いた絶妙な隙を見逃さず、地を蹴って後方へと大きく躍り出た。
オレの急激な退く動作と緩急に、殺気立っていたオニたちは一瞬だけ困惑し、その動きをぴたりと止める。
そのわずかな硬直の隙を、死の波動が見逃すはずもなかった。
「──ッ!?」
オニたちの足元から巻き上がったのは、黒と紫がドロドロに混ざり合った、明確な『死』を連想させる禍々しい煙だった。煙は瞬く間に三体の巨躯を完全に覆い尽くし、内側からその存在そのものを侵食していく。
悲鳴をあげる暇すら与えられず、三体のオニは真っ黒な煙の中でそのまま崩れ去り、黒い塵となって空気中に霧散していった。
静寂が戻った途端──闘技場全体にブザー音が鳴り響く。
その瞬間に残りのオニたちが塵となって消え去ると、櫛田はすぐさま堀北のもとへと駆け寄り、その身体を抱き起こすようにして焦った様子で状態を確認した。
堀北は苦しげな呻き声をあげており、意識は完全に戻っていない。
「綾小路くん、回復して!」
櫛田の切迫した声に応じ、オレは意識を集中させてユニコーンを呼び出した。背後に顕現した純白の一角獣と共に、温かな治癒の波動を周囲に解き放つ。
「──『メディア』」
唱えた緑色の光が、横たわる堀北とヒュロポスの身体を優しく包み込んでいく。光が収まると、堀北の苦しげだった表情は次第に和らぎ、乱れていた胸の上下動も穏やかなものへと変わっていった。
息が安定した一人と一匹の様子を見て、櫛田は胸を撫でおろし、安堵の息を吐き出した。
「よかった……これで……」
だが、安らぎの時間は一瞬すら持たなかった。
闘技場全体を揺さぶるような、甲高いブザー音が容赦なく再び鳴り響く。
振り返れば、奥の鉄格子が重々しい音を立てて上がり、先ほどと変わらぬ殺意を剥き出しにしたオニの群れが姿を現していた。
櫛田は顔を著しく歪ませ、苛立ちと焦りを隠さずに呟いた。
「またっ……!?」
「どうやら続く仕様らしいな」
「……綾小路くんは前衛お願い!」
「任された」
オレは短く答え、即座に身を翻すと、再び押し寄せてくるオニたちへ向けて走り出した。
◇ ◇ ◇
それから、都度襲い来るシャドウを撃退し続け、連戦が三回を終えたあたりのことだ。
幾ら呼んでも一向に起き上がらない堀北とヒュロポスの姿に、櫛田の表情には隠しきれない焦りが生じ始めていた。
「ねぇ、なんで……? 傷は治ってるはずなのに、なんで起きないの……っ!?」
堀北の肩を揺すりながら声を張る櫛田。
息をしていることも確認済みで、頬には健康的な血色が戻っているにも関わらず、一向に目を覚ます気配がない。
ましてや、片方の鳥頭に至っては──
「ヒュポー……グゴゴゴゴ……グゴゴゴゴ……」
自称美少女アイドルとは思えないイビキを大音量でかいている。これによって確実に生きていることだけは確認できるのだが、それが余計な脱力感を誘っている。
櫛田は切羽詰まりつつも狂乱していないのはヒュロポスのイビキで生きていることの確信があるからだろう。
「ダメージは回復している筈だ」
「それはわかるけど……なんで目を覚まさないの……」
櫛田に対し、オレは戦闘と戦闘の間であるインターバル。短いこの時間を使って問いを投げかける。
「須藤のアディトン……何か心当たりはあるか?」
「心当たり……? 須藤くんの……」
櫛田は眉をひそめ、何かを手繰り寄せるように思考を巡らせる。
「……バスケ、かも」
「バスケットボールか」
「うん。須藤くんって、いっつもバスケのことばっかり言ってるし……それに体育館に行った時にアディトンが出たから巻き込まれたんだよね……だから、その時に絶望したなにかがあったなら、うん、やっぱバスケなんじゃないかな」
「櫛田、すまないがオレはバスケについて殆ど知らない。お前だけが頼りだ」
そう言った瞬間に櫛田の顔が真っ赤に染まる。
「そ、そういうのやめてよ! マジでほんと、ほんとにさぁ! 綾小路くん、わざと!? わざとなの!?」
何故かぷりぷりと怒り始めた。そして目を閉じて深呼吸をして。
「退場……うん、退場扱いなのかも」
ぽつりと櫛田が呟く。
「スポーツの退場って試合に戻れないじゃない? だから堀北達も戦闘に参加できないんじゃないかって……あ、でもそれだと戦闘終わった時に戻れない理由が……ご、ごめん、忘れて」
恥ずかしそうに手を振りながら、自分で言った説を撤回しようとする櫛田。だが、その発想は非常に鋭かった。
「いや、あながち間違いとは言えないかもしれないな。ここは須藤の心の中だ、一試合が一回の戦闘とは限らない。ところでバスケは一試合、どれくらいあるものなんだ?」
オレの問いかけに、櫛田は一瞬固まり、目線を泳がせた。
「もしかしたらあと一回かも……ブザー音が鳴ってたってことは一クォーター、一試合が四クォーターだからあと一回で試合終了だよ……多分」
あと一回の戦闘で試合終了、ただし、一回戦は。電光掲示板に映るその文字がこれから先も続く可能性を示唆している。ならば──。
「櫛田、今から試したいことがある」
「わかった。私は何をすればいい?」
「万が一、失敗した時のために大技を頼む」
櫛田の強い頷きと共に幾度目かわからないホイッスル音がコロシアム内に鳴り響いた。奥の鉄格子が跳ね上がり、五体のオニが勢いよく飛び出してくる。
オレはすかさずオニたちに向けて距離を詰めた。
でペルソナの仮面を素早く切り替える。ザントマンから、独特な怪異の姿をしたモコイへ。
オレはその五体の中央、全員と一定の距離を保ちながらタイミングを推し量る。そして、ほぼほぼ均一になったタイミングでその技を放つ。
「──『デビルスマイル』」
顕現したモコイが放つ、不気味で凶々しい波長が、迫り来るオニたちに広がった。
精神に直接届く恐怖の波動を食らったオニたちは、突如として目を見開き、金棒を放り投げると、まるで己の死を突きつけられたかのように悲鳴を上げて逃げ出し始めた。オニたちは互いを踏みつけ合いながら、逃げ惑うように奥の鉄格子の中へと戻っていく。
その瞬間──と激しいブザー音が鳴った。
頭上の電光掲示板を見上げれば、そこには鮮やかな赤文字で【不戦勝】の三文字が浮かび上がっていた。
「えっ……ウソ、終わり……!?」
櫛田が驚愕の声を上げたその直後、背後で微かな身じろぎの音が聞こえた。
「……っ、ふ……っ! 敵は!?」
堀北が目を開け、弾かれたように跳び起きると、即座に木刀を構えて周囲を警戒する臨戦態勢を取り直した。
そしてその隣では──。
「ひゅぽぽぽぽ、人間さん、私は逃げないのねー、ひゅぽぽぽぽほーら、追いかけてごらんなさい、ひゅぽぽぽぽー! ……むにゃむにゃ」
まだ半覚醒の状態なのか、うわ言のような戯言を呟きながら、羽をピクピクと動かしている珍獣が一匹。
何はともあれ、無事に意識を取り戻したようだ。
「堀北……っ!」
その姿を目にした瞬間、緊張の糸が切れたのか、櫛田はガバッと堀北の身体に抱きついた。
「く、櫛田さん……!?」
予期せぬ強い抱擁に、堀北は木刀を構えた姿勢のまま身体を強張らせ、困惑の声を漏らす。
櫛田は数秒ほどぎゅっと抱きしめた後、すっと何事もなかったかのように体を離した。
「あの、ねぇ……んんっ、綾小路くん?」
一体何が起きたのか状況が掴めず、助けを求めるようにオレの方へ視線を向けて尋ねてくる堀北。
だが、その背後で櫛田が「余計なことを言ったら承知しない」とばかりの鋭い眼光でオレを猛烈に睨みつけている。
オレはそっと首を横に振った。何も聞くな、という無言の合図だ。
「んんぅ……?」
頭の上にいくつもの疑問符を浮かべ、いよいよ困惑を深める堀北。そんな彼女の横を素通りし、櫛田は地面に転がっているアホ鳥の前で屈み込むと、その丸っこい頭をペシペシと容赦なく叩き始めた。
「おきろ、アホ鳥!」
「ひゅぽぁっ!? あ、あたしは美少女島のプリンセスっ!?」
「そんな島はないっつーの……」
起き抜けて開口一番、気の抜ける言葉を放った。
ヒュロポスと櫛田がじゃれ合い始めている横で、オレは堀北へこれまでに判明した状況の報告を行った。
オニとの連戦の仕組み、バスケットボールのルールに見立てた「退場」の仮説、そして恐怖付与に敵前逃亡による不戦勝で強制的に試合を終了させて二人を復帰させた一連の流れ。
聞き終えた堀北は、納得と反省の混ざった複雑な表情を浮かべた。
「なるほど、戦闘での失神、気絶も退場扱いというわけね。……その、大丈夫だったの?」
自分の不覚を恥じるような面持ちを見せつつも、どこか心底心配そうにこちらを覗き込んでくる。
「問題ない。想定の範囲内だ」
オレが淡々と答えると、横からぬいぐるみのようにヒュロポスを両手で抱え上げた櫛田が、心底不思議そうに呟いた。
「ねぇ、ていうかこの鳥、ちょっと重くない? 米袋くらいはありそうなんだけど」
「し、失礼なのよー! あたしはとっても軽いわよ! 失礼しちゃうわ、ぷんすかぷん!」
「うわ、自分でぷんすかとか言ってる……今どきぶりっ子ですらやらないでしょ、それ」
眉をひそめてドン引きする櫛田に対し、ヒュロポスは小さな翼を胸の前で合わせて自慢げに胸を張った。
「あたし、可愛いから自然と出ちゃうのよねー! 照れるのねー!」
「は? 今一ミリも褒めてないんだけど……なんで照れてるわけ?」
「ほ、褒めてたじゃないのよ! ぶりっ子って! ぶりっ子ってかわいぶりっ子って意味なのよー? つまりかわいいのよねー?」
「……はい! 綾小路くん、返すね!」
これ以上付き合いきれないと言わんばかりに、完璧な「櫛田スマイル」を浮かべた彼女から投げ出すように渡され、オレは両手でヒュロポスを受け取らざるを得なかった。
ずっしりとした重みを腕に感じながら抱え上げると、ヒュロポスとバチッと目が合った。
先ほど先走って真っ先に突撃し、ダウンしたことを気にしているのか、その青いレンズの瞳がどこかしょぼーんとした色を帯びているようにも見えなくもない。
「ご、ごめんなさいなのよ、人間さん……あたしったら慌てちゃって……」
「問題ない。無事ならなによりだ」
そう声をかけた瞬間だった。
ヒュロポスの瞳がパッと輝きを取り戻し、爛々と目をキラキラさせながら、鋭い嘴をこちらへ向けて一直線に伸ばしてきた。
「もー! 人間さんってば! この! むちゅー! この! ちゅぅぅぅー!」
「おい、やめろ」
顔面に突き刺さらん勢いで抱きつこうとしてくる金属質の嘴を、オレはとっさに片手でがっちりと押さえつけ、距離を保った。あの研ぎ澄まされた嘴の切っ先が顔面に近づいてくるのは、生物としての本能的な危機感を覚えてしまう。
オレの塩対応をどう捉えたのかは知らないが、ヒュロポスは満足したようにオレの手から脱出すると、地面に降り立ち、翼をふりふりと振った。
「もう、照れ屋な人間さんなんだからー」
照れてない。断じて、照れてなどいない。
とりあえず、このコロシアムの仕組みと攻略法の一端は見えた。
正攻法で削られる必要はなく、敵を退散させるかルール上の「勝ち」を拾っていけばいい。
オレたちはコロシアムの奥に位置する、重々しい柵の扉に向かって足を進めた。
ギギギ……と不気味な金属音を立てて扉が開く。その暗い通路を抜けると──目の前に広がったのは、先ほどと全く同じ構造をした円形闘技場だった。
オレたちが足を踏み入れた途端、再びコロシアム全体に鳴り響く不快なブザー音。
見上げれば、頭上の巨大な電光掲示板の文字が鮮やかに書き換わっていた。
二回戦。
赤々と明滅するそのテキストを見据えながら、オレたちは再びそれぞれの武器と仮面を構える。もしも、これが普通に戦闘をこなした上で見た光景なら絶望的な文字だったのだろう。
しかし、不戦勝。しかも、デビルスマイルで相手を逃亡させれば本来ならば四クォーターあった戦闘も一回で済むというオマケ付き。
本来ならば心理的ダメージを与えるその文字を邪道の攻略法で終わらせる。文字盤は準々決勝、準決勝、決勝と続き、オレたちはそのすべてを敵前逃亡による不戦勝で突き進んだ。
◇ ◇ ◇
決勝戦というデジタル文字が電光掲示板に表示されたコロシアムすらも、オレたちは『デビルスマイル』による恐怖付与からの敵の逃亡──敵前逃亡による不戦勝という邪道の極みで速やかに突破した。
勝ち鬨のブザーが響き渡ると同時に、闘技場の奥に位置する巨大な鉄扉が重々しく開き、その先へと続く薄暗い通路が姿を現す。
オレたちは、警戒を怠ることなくその暗い通路を奥へ奥へと進んでいった。
やがて、通路の先の世界が開ける。
オレたちの視界に飛び込んできたのは、これまでの殺風景な砂地や無機質な鉄格子とは一線を画す、壮麗かつ重厚な細工が施された豪奢な扉だった。
見上げれば、その重々しい観音開きの扉の上部には、まるで美術館やダンジョンのフロア案内のように、金の装飾文字でハッキリと宝物庫と記されたプレートが掲げられている。
次のフロア、つまりこのアディトンの第二階層を示す目印であることは疑いようもなかった。
「……ここが、次のフロアの入口ね」
堀北が木刀を握り直しながら、見上げるように呟く。
恐怖による不戦勝で突破してきたとはいえ、精神的な緊張感と疲労は確実に蓄積していた。オレたちは扉の前で足を止め、ひとまず呼吸を整えるための小休止を取ることにした。
静寂が通路を包み込む中、壁に背をもたせかけていた櫛田が口を開いた。
「ねぇ……一旦、戻らない?」
その言葉は、唐突なものではなかった。
むしろ、これまで前衛で戦い続けてきたオレや、先ほどまで気絶していた堀北たちの状態を間近で観察してきた彼女なりの、適切な判断と言える。
堀北は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに顎に手を当てて少しだけ考え込んだ。
「確かに……貴方達二人の疲労や消費を考えれば、一度現実世界かフォーラムの安全圏まで撤退するのも、選択肢の一つとしては正論ね……」
堀北もまた、先ほどの戦闘で自らが不覚を取って気絶した事実を重く受け止めていたのだろう。万全ではない状態のまま見知らぬ階層へ突入することのリスクを、冷静に天秤にかけていた。
そんな二人の重苦しい空気の隙間に、沈んだ声が飛び込んできた。
「ひゅぽー……でもでも、マッカッカさんは中に居るのよー?」
ヒュロポスが短い翼をパタパタさせながら、扉の先──つまり須藤が囚われているであろう奥の空間を指さす。
その一言で、堀北と櫛田の顔が同時に陰る。
現状のリスクと、須藤を救出するという目的。二人はそれぞれの立場と感情から、自らの考えを言葉にし始めた。
「そう、ね……ごめんなさい。さっきの発言は撤回させて」
堀北が凛とした表情を取り戻し、強い意志を込めた瞳で櫛田を見つめた。
「須藤くんの救出を第一優先に考えましょう。私が不覚を取ったせいで時間をロスしたわ。これ以上の停滞は、彼の身を危険に晒すことになる」
「……あたしは反対」
しかし、櫛田は即座にそれを突っぱねる。その声には剥き出しの強い感情と本音が混ざり合っていた。
「あんたとヒュロはさっき気絶してたんだよ? 綾小路くんだってずっと前衛で攻撃を受け止めてた……三人と一人なら、私は三人の安全を優先する。そうじゃなくても、一人と一人で天秤にかけたら、私は須藤くんよりあんたらを優先する」
クラスメイトである須藤の命や精神よりも、今目の前で疲弊しているオレたちの無事を優先する。それは彼女が抱く「自分に関わる人間関係」に対する優先順位のあらわれでもあった。
「櫛田さん、でも彼を放置すれば──」
「放置したくて言ってるんじゃない、でも、あんたらが倒れたら誰がどうすんの! 共倒れになったら元も子もないでしょ!?」
真っ向から対立する二人の意見。
その板挟みになったヒュロポスは、小さな頭を両羽でギュッと押さえた後、羽をバタバタと激しく振った。
「ひゅ、ひゅぽー……っ! どうすればいいのぉー! あ、あたしだってマッカッカさん助けたいけど、みんなが疲れてるのに無理はさせたくないのよぉ……! 頭がうにゃうにゃになっちゃうのよー!」
必死に脳みそを回転させようと右往左往するヒュロポス。
オレは二人の主張と、ヒュロポスの混乱を一通り観察した上で、静かに口を開いた。
「……オレは、堀北の意見を強く推す」
オレの言葉に、櫛田が「なんで?」と言いたげな鋭い視線を向けてくる。説明を求める彼女の瞳に対し、オレは自分の見解を提示した。
「ここは、無理のしどころだろう」
「……理由を聞かせて、綾小路くん。私を納得させられるだけの理由があるの?」
納得がいかないとばかりの櫛田。生半可な説得では簡単に応じなさそうだ。
「須藤をこの世界に放置したままだとどうなるかわからない。次に須藤がアディトンに侵食されれば取り返しがつかない。これは堀北や櫛田の時とは異なり、須藤の場合のみ極めて早急に攻略をしなければならない」
「……それって、須藤くんの防衛機制って奴が、暴力的だから?」
櫛田の問いに、オレは深く頷いた。
「その通りだ。須藤の場合、他者への直接的な暴力行動そのものが、自己を守るための防衛機制──『行動化』が暴走すれば大きな問題を引き起こす」
櫛田は自嘲気味な笑みを溢す。
「あたしの場合なら、せいぜい隠してた本性をぶちまけて、周りの人間関係をグチャグチャにするくらい……。他人を傷つけて、自分は平気。せいぜい、そんくらいで済む、須藤くんの場合はそれだけじゃ済まないってわけか」
自分の醜い過去や内面を自虐するように吐き捨てる櫛田。
「誰かを殴り倒して、取り返しのつかない大ケガをさせて……そのまま警察沙汰になって退学……そういうことでしょ?」
「あぁ、そうなるとAクラスを目指すどころの話じゃなくなるな」
堀北との契約を鑑みれば、ここで須藤を退学させることは致命的な足踏みとなる。
そして復興部としての側面を考えれば手駒となる得る可能性が存在する以上、須藤の救出は優先しておきたい。
オレが短く肯定すると、それまで黙って話を聞いていたヒュロポスが、突如としてバサバサと激しく羽ばたき、櫛田の胴体にダイブするように勢いよく抱きついた。
「そんくらいじゃないのよー! それはとっても悲しいことなのよー!」
「うわっ……! ちょっと重いって、 離れて……!」
顔をしかめて嫌がる櫛田だったが、ヒュロポスは短足をがっしりと彼女の制服に絡めつけ、へばりついたまま離れようとしない。
「他の人を傷つけたら、それはとっても痛いのよ! 平気なわけないのよー! 自分だって痛いのよー! ハラグロさんだって、本当はとっても痛かった筈なのよー!」
「っ……!」
ヒュロポスの必死な叫びが、薄暗い通路に甲高く響き渡る。
自分の過去の歪みや傷を「平気だった」と言い張る櫛田の嘘を、この鳥はあまりにも無邪気に、そして残酷なまでに正確に暴いて見せた。
櫛田は一瞬だけ息を呑み、呆然とヒュロポスを見つめた。
だがすぐに、彼女は小さく自虐的な笑みを漏らすと、いつもの露悪的な、自分を偽るための笑みを浮かべて見せた。
「ハッ……別に、全然平気だったし。むしろ清々してたっての……清々、してたっての……」
強がりを重ねるごとに、その声はどんどん小さくなり、最後は尻すぼみになって消えていった。ヒュロポスの温もりと痛烈な正論が、彼女をわずかに揺らしていたのは明白だった。
櫛田は大きく一つため息をつくと、ヒュロポスを頭からひっぺがすようにして地面に降ろした。
「……まぁ、綾小路くんの言いたいことはわかったよ。多数決でも負けてるし、納得する」
彼女は髪をサッと手ぐしで整えると、オレと堀北を順番に見据えた。
「それでも、本当に危なくなったら私は即座に撤退を提案するからね。須藤くんが退学になるリスクと、あんたらが壊れるリスクを天秤にかけたら、私はあんたらを優先する……須藤くんより、あんたらの方がまだマシだから」
その歪んだ、けれど彼女なりの精いっぱいの妥協と情の示し方に対して、ヒュロポスがニヤニヤとした顔で翼を突っついた。
「んもうー! ハラグロさんったら、素直じゃないのねー! ほんとはみんなのことが大好きなのねー!」
「はぁ!!? なんなの、この鳥! 綾小路くん、さっさとこの引き取ってよ! 飼い主でしょ!?」
激昂した櫛田がヒュロポスをオレの方へ押しやってくる。
ヒュロポスはオレの足元で羽をバタつかせ、キーキーと抗議の声をあげた。
「んまー! 違うのよー! あたしが『監督』で、人間さんが『部長』なの! ペットじゃないのよー! 失礼しちゃうのよー!」
ギャーギャーと騒ぎ立てるヒュロポスと、本気で不機嫌そうな顔をする櫛田。その二人の毛色の違うやり取りを見て、それまで緊張した面持ちだった堀北の唇から、ふっと小さな苦笑が漏れた。
「……フフッ。相変わらず、賑やかなことね」
「ツンツンさん、笑い事じゃないのよー! あたしの尊厳に関わる問題なのよー!」
「はいはい、わかったわよ。……さあ、いきましょう。須藤くんを助けなきゃね」
堀北が表情を引き締め、覚悟を決めた足取りで豪奢な扉の前へと立った。オレと櫛田も彼女の隣へと並ぶ。
重厚な真鍮の取っ手に手がかけられ、ギギギ……と不気味な重音を立てて、第二階層【宝物庫】の扉がゆっくりと開放されていった。
◇ ◇ ◇
扉の奥から溢れ出てきたのは、まばゆい金銀財宝の輝き──などでは断じてなかった。
漂ってきたのは、埃と鉄の錆びた匂い。そして、強烈な「暴力」の気配。
扉が完全に開ききった時、オレたちの眼前に広がっていたのは、無数の棚や展示台が乱立する、巨大な物置のような暗い空間だった。
だが、そこに飾られている「展示物」の異様さに、堀北と櫛田は息を呑んだ。
「これ……は……?」
堀北の声が震える。
ガラスケースや棚の上に無造作に積み上げられていたのは、価値ある宝物などではない。
脚がくの字に曲がり、ズタズタに破壊されたパイプ椅子。ビリビリに引き裂かれ、黒いインクで汚された教科書やノート。そして、壁一面に刺さっている、何枚もの写真の破片や、歪んだ鉄パイプの山。
「これが、宝物庫……?」
櫛田が戦慄を交えた声で呟く。
そこに転がっていたのは、輝かしいお宝などでは断じてなかった。
脚がへし折れたパイプ椅子、ページが破かれ黒いインクで汚された教科書、壁に突き刺さった錆びた鉄パイプの山──無残なゴミの山ばかり。
「ひゅぽー……全然お宝なんてないのよ……」
期待を裏切られたヒュロポスが、短い翼をだらりと垂らし、しょんぼりとした声を漏らす。
そのヒュロポスのかたわら、堀北が近くにあった脚の折れた壊れた机に、そっと手を触れた──その瞬間だった。
周囲の空気が急激に歪み、オレたちの目の前の空間に、半透明の光の映像が唐突に浮かび上がった。アディトンにおいて、空間の主の記憶や感情の残片を追体験する際に発生する現象。
ポイント・オブ・ビューで映し出されたのは、薄暗く荒れ果てた一間の部屋だった。万年床の布団、散乱する缶ビール、カーテンの隙間から差し込む薄汚れた光。
そして、映像と共に須藤自身の低く尖った声──心の独白が直接に流れ込んでくる。
『オレの両親はクズだった。ちいせぇ頃に母親は外に出来た男と消えた。オヤジはそれを文句の一つも言わねぇ情けない男だった。寡黙なオヤジとの二人きりの生活は酷く息が詰まる、家の外の方が遥かにマシだった──』
ブツリ、と映像が途絶え、元の暗い物置のような宝物庫へ視界が引き戻された。重苦しい静寂が空間を包み込む。誰もが軽々しく口を開けない中、胸の前で腕を組んでいた櫛田が、どこか諦めたような溜息と共に呟いた。
「今の……須藤くんのやつだよね。私のときみたいな……」
その言葉に、堀北がハッと表情を硬くし、不思議そうに櫛田へ視線を向けた。
「そういえば……どうして櫛田さんは、私たちが貴方の過去を見たことを知っているの?」
「……あんたらが、私のアディトン攻略してる時、なんか上から観てたっていうか……紙集めてるのも、なんとなく覚えてるんだよね」
櫛田は気まずそうに答える。
「……なるほど。もしかすれば……須藤くんも、今の私たちと同じようにどこかで見ているのかしら」
「かもね」
堀北の推測に、櫛田は短く頷いた。
堀北は少し思い悩むように眉根を寄せると、毅然とした態度で口を開いた。
「なら、余計に寄り道をせずに先を急ぎましょう。誰だって、見られたくない過去を見られるのは嫌なはずよ。他人のプライバシーを勝手に覗き見るのは良くないわ」
堀北のその言葉は、優しさ故の配慮であり、至極全うな道徳的判断だった。
だが──それを制したのは、意外にも足元にいたヒュロポスだった。
「それじゃ、駄目なのよー!」
ヒュロポスが短い翼を大きく広げ、堀北の前に立ちはだかる。
「見られたくないものを見るのは良くないと言っているのよ」
「でもマッカッカさんのことをきちんと知らないと向き合えないのよー! ツンツンさんもハラグロさんも、ちゃんと振り返ったから……ちゃんと見つめ直したから! きっとマッカッカさんの所に今行ったところで、何も知らないあたしたちが何か言っても届かないのよ!」
「っ……!」
甲高い、けれど確信に満ちたヒュロポスの叫び。
自分自身のドロドロとした過去や弱さと向き合い、それを乗り越えてペルソナ『プロウニコス』や『アカモート』を覚醒させた堀北と櫛田。その二人だからこそ、ヒュロポスの言葉の重みが誰よりも心に刺さったのだろう。二人は思う所があるのか黙り込む。
オレは二人の反応を見届けた後、ヒュロポスの意見に賛同して口を開いた。
「悪いが、この映像がオレたちの命運を分ける可能性がある以上、スルーはできない。櫛田のアディトンの時に、櫛田の過去を知っていたからこそ、オレたちはコアシャドウを倒せた」
攻略上の戦術的なメリットとして理由を述べたのだが──直後、足元から「むー!」という不満気な声が上がった。
「むー! 人間さん、そういうことじゃなくて! ここはもっと、むー!」
ヒュロポスが頬を限界まで膨らませ、ペチペチと短い羽でオレの脚を叩いてくる。どうやら「効率」や「攻略」という理屈で片付けられたのがお気に召さなかったらしい。
とりあえず、過去の映像を見る方針には決定した。
オレは試しに、近くに転がっていた折れた鉄パイプや破れた教科書に手当たり次第触れてみたが……先ほどのような映像は一切浮かび上がらなかった。
「……反応がないな」
「ただ適当に触ればいいってわけじゃないみたいね。須藤くんにとって、より縁の深い……強い感情が残っている物でなければダメなのかもしれないわ」
堀北はヒュロポスの説得とオレたちの行動を受け入れ、真剣な表情で頷いた。
そして宝物庫の中を流れる。中は散乱した物体ばかり、この中から須藤の過去に関するものを探し出す宝探し。酷く骨が折れそうだ。
「ヒュロポスの言う通りね、探しましょう。幸い、この部屋にはシャドウはいないみたいだし、二つに分かれましょうか」
オレたちは広い宝物庫の中へと散らばり、乱雑に積み上げられたガラクタの山を捜索し始めた。
そして数分後──ガラクタの棚の奥を調べていた櫛田が、一枚の破れた紙切れを手に取った。
「……当たりっぽい」
櫛田の指先がその紙に触れた瞬間、空間が再び歪んだ。
先ほどと同じ半透明の光が空中に広がり、に須藤の思考と映像が流れ込んでくる。
『オレにとってバスケは性に合った。殆どのチームスポーツ、野球やサッカーとは違ってバスケだけは妙にハマった。クズの俺が唯一、生きていていい場所、それがコートの上だけだった、ここでならオレは息をしていい、そんな気がしたんだ』
そこで映像は途切れる。櫛田は手に持った紙を眺めながら「……あいつって口だけじゃなかったんだ」と口にした。
「どういうこと?」
近づいた堀北が、不審そうに首を傾げて尋ねる。
櫛田は無言のまま、手にしていた紙を堀北とオレに見えるように差し出した。一度くしゃくしゃに丸められた不格好なシワが残る用紙──そこに印字されていたのは、『推薦取消状』という不穏な文字だった。
用紙の文面を拾い上げると、それは須藤健の高校受験にまつわる公的な書類であることが窺える。
中身は推薦の辞退。だが、須藤の学力を鑑みれば自ら辞退したとは考えにくい。何らかの問題を起こしたことによる学校側、あるいは進学先の高校側から、事実上の推薦取り消しが行われたということだろう。
堀北は用紙の隅に記された校名に目敏く気づいたのか、眉をひそめて櫛田に尋ねた。
「この高校、あなたは知ってるの?」
「テレビタレントの出身校とかで結構見かける。スポーツ強豪校だと思うけど……まぁ、そんなかでバスケが強いのかまではわかんないけど」
櫛田は少し肩をすくめながら答えた。
テレビで名前が出るほどのスポーツ強豪校から声がかかる──それが中学時代の須藤の実力だったということだ。単なる威勢だけの不良でも、口先だけの自称アスリートでもなかったことが、この一枚の紙によって証明される。
その話を聞き、オレの肩の上に載っていたアホ鳥が羽をバサバサと振る。
「ヒュポー、あのマッカッカさん、ただの乱暴者じゃないのよー!」
感心したように声を張り上げるヒュロポス。
その言葉を聞いた櫛田は、ふっと自嘲気味な息を吐き出すと、ぽつりと漏らした。
「私も少しだけ反省しなきゃ、かな……正直、バスケにマジになってるのを見てて別に全国とか目指してるわけじゃないって勝手に決めつけてた」
「そうなのか?」
オレが短く尋ねると、櫛田は気まずそうに視線を泳がせ、唇を尖らせながら呟いた。
「高育って進学や就職率を謳った名門校みたいな学風を売りにしてるけど、別にスポーツは滅茶苦茶強いってわけじゃないから。だから、部活にマジになってる人間を下に見てたってか、見てるっていうか……その、本当に凄い選手なら別の高校行ってるって思い込みは正直、あった」
高度育成高等学校は政府主導の特殊な名門校だが、特定の部活動が全国規模の強豪というわけではない。本当に才能のある選手なら最初からスポーツ強豪校に行くはずだ、という櫛田の思考は、一般的な感覚としては決して的外れではないだろう。それだけに、須藤がここへ来ざるを得なかった「推薦取り消し」の重みが際立つ。
どこか自虐混じりに本音を吐露した櫛田に対し、ヒュロポスは首を傾げてあっけらかんと言い放った。
「でも、もう思ってないんでしょー? それならそれでいいじゃない!」
裏も深読みもない、あまりに単純明快な肯定。
その真っ直ぐな言葉を受け、櫛田は一瞬だけ呆気にとられたように目を丸くした。そして、肩の力を抜いてくすりと苦笑する。
「単純……あんたが少し羨ましいや」
「ひゅぽー、褒められたのねー! ハラグロさんもようやくあたしの偉大さがわかってきたようなのねー!」
自分の単純さを「偉大」と変換したヒュロポスは、翼を誇らしげに広げて胸を張ると、大喜びでその場をピョンピョンと跳ね回った。
◇ ◇ ◇
再び散乱したガラクタの山へと視線を戻し、探索を再開する。壊れた備品や引き裂かれた書類が散らばる中、オレの視線はある一つの物体で止まった。
山積みになったパイプ椅子の隙間に引っかかるようにして落ちていたのは、汗と煤で少し黒ずんだ『赤色のリストバンド』だった。
それを拾い上げ、指先で触れた瞬間──空間が激しく歪み、三度目の映像が空中に浮かび上がった。
映し出されたのは、狭い部屋。
画面の中央には、机を挟んで怒声を上げる須藤と、重苦しい表情で椅子に腰掛ける男の姿があった。ジャージ姿のその男の年齢は四十を超えているだろう。
『──正当防衛だ! 向こうから手を出してきたんだ! なんでそれで推薦取り消しなんだよ!』
須藤の怒号が部屋中に刺さるように響き渡る。
だが、目の前に座る男は逃げ出すことなく、真っ直ぐに須藤を見つめ返した。
『だからといってやり過ぎだ……どんな理由があれ、お前は暴力を振るって相手が怪我をした。それが事実だ』
『だったら、そのまま殴られてろって言うのかよ!』
『……そういう理不尽に耐えなければならん時もあるだろう』
『ざけんな……ざっけんな! 俺はそんな情けねぇ奴なんてなりたくねぇ! やられて、ただ黙ってろなんてダセェ真似できっかよ!』
『我慢がダサいだなんてお前は……! とにかく、推薦は取り消す。先方にも伝えた』
『裏切るのかよ……あんたは裏切るのかよ! 俺からバスケ取ったら──』
『だったら! なんでやり返した! なんで逃げなかった! この時期が一番大切だって言ったよな!?』
それまでは言い聞かせるような男の声が激しく張り上げられる。
一番大切な時期に、自らの暴力で未来を棒に振ってしまった須藤への、悲痛な叫びだった。
『だ、だから、向こうから手を出してきたんだ! 俺は悪くねぇ、俺は悪くねえ!』
苦し紛れの弁明と共に、視線が急速に暗転していく。そして最後に、須藤の絞り出すような胸の内の独白が流れた。
『──俺はいつだって自分で壊しちまう。本当はわかっていた、手を出せばどうなるかなんて』
ブツリ、と映像が途切れ、静寂が宝物庫を支配した。
ヒュロポスが小さな翼を落とし、ぽつりと呟いた。
「ヒュポー、なんだか可哀想なのよ……」
「……彼の言っていることが仮に事実だとしても、あの暴力性は社会的に認められないわ」
堀北が抱えた木刀を強く握り直しながら、客観的な事実を口にする。だが、その声には先ほどまでの厳しさだけでなく、どこか複雑な不器用さが混ざっていた。
「……あいつは親みたいになりたくないって意地になってんのかもね」
腕を組んだ櫛田が、諦めたような、どこか冷めた眼差しで壁の破片を見つめる。
「男と逃げ出した母親と、それから目をそらしてる父親。だから我慢も逃げもしたくないのかも。やられっぱなしの情けない大人と同類になりたくなくて、必死に噛みついてただけ」
櫛田の言葉に、ヒュロポスがオレに向けて──。
「……ねぇ、人間さん、どうすれば良かったの?」
そう尋ねてきた。答えよりもまず、オレは、
「須藤は嵌められたのかもな」
推測と口にする。堀北が鋭く眉を寄せ、オレを見つめてきた。
「どういうこと?」
「推薦を受ける前も同じように頻繁に問題を起こしていたのなら、推薦はおろか部活動の公式試合にすら出させてもらえなかったはずだ。にも関わらず、この最も重要なタイミングで推薦を取り消す事件が起きている」
「……」
「勿論、これは須藤の過去の話だ。今更確かめる術はないが、誰かが意図的に須藤を挑発し、手を出させようとした可能性は捨てきれない」
オレの考察を聞いて、櫛田がふっと自嘲気味な笑みを漏らした。
「……納得かも。四月のあいつの態度を振り返ってみればハメられてもおかしくないよね。真面目に勉強や受験をしてる身からすれば、調子に乗ってる不良がスポーツ推薦で美味しい思いをするのなんて、反吐が出るほど鼻につくし」
櫛田の本音混じりの指摘。
中学時代、須藤が周囲に振りまいていたであろう不遜な態度が、誰かの憎悪や嫉妬を買っていたとしても不思議ではない。
「……それが万が一にも事実なら、須藤くんの普段の態度が潜在的な敵を作り続けて、最終的に自分で自分の首を絞めたということね」
堀北は一度瞳を閉じ、深く息を吐き出すと、毅然とした強い眼差しを取り戻した。
「それでも──そんなの間違っているわ。他人の嫉妬や悪意が、誰かの未来や道を邪魔していい理由にはならない」
「なら、やっぱりマッカッカさんを助けてあげるのよ! そして今度から悪いことをしたら、ちゃんとメッってあたしが叱ってあげるんだから!」
ヒュロポスがバサバサと羽ばたきながら自信満々に胸を張る。その無邪気な一言に、殺伐としていた場の雰囲気が少しだけ和らいだ。
「そうね。……まずは、彼のもとへ辿り着かなければ始まらないわ」
堀北の言葉を合図に、オレたちは再び最深部へとつながる手がかりを求め、広い宝物庫の捜索へと没頭していった。
探索を再開し、物置のようにガラクタが乱立する棚の隙間を覗き込む。
倒れたラックの陰、散乱する破片に埋もれるようにして転がっていたのは、一冊の『中途半端に千切られたノート』だった。表紙はズタズタに引き裂かれ、中のページも大部分が破り取られている。
オレが手を伸ばし、その千切れた紙面に触れた瞬間──四度目の映像が空間へと浮かび上がった。
ポイント・オブ・ビューの視線が捉えたのは、桜舞い散る高度育成高等学校の校門、そして整然と並ぶ桜色の制服を着た新入生たちの姿だった。
映像と共に須藤の荒々しく尖った独白が、重く響き渡る。
『高度育成高等学校の入学式。オレは荒れていた。本来だったら夢へ最も近い場所から、よく知らねぇ学校に来たんだからな──』
視界の中の新入生たちを、須藤は苦々しげに、そして強い拒絶を込めて睨みつけていた。
『希望する進学・就職率共に百パーセントだなんて嘘くせぇ。じゃあ、俺がNBAのチームに入りたいって言ったら入れるのかよ、んなわけねぇだろ。結局、自分の夢を叶えるのは自分の力しかねぇんだ。もう、俺は失敗できねぇ。俺には、ここしか行き場がなかった。だから……、自己紹介だの仲良くしようなんて温い空気、いちいちイライラした──』
映像は転換し、放課後の広い体育館へと切り替わる。コート上で激しくボールをバウンドさせ、ゴールへ向かって力強く躍動する須藤の視界。
『……バスケ部に入部して、俺はこの学校を少しだけ見直した。悪くねぇ。全国に行けるかどうかまでは怪しいが、まったく目指せないわけじゃなさそうだ。同じ学年の奴らはまだ温いが、上級生はなんつーか、気迫が違う。ここなら、まだ俺は上を目指せる……そう思った』
だが、その僅かな希望の光も、次の瞬間には黒い絶望によって塗り潰された。
画面は赤黒く掠れ、五月一日の教室──Sシステムの真相が明かされ、支給ポイント『ゼロ』を突きつけられたあの日の光景へと切り替わる。
『──五月一日、俺は諦めた。今更勉強なんてやって間に合うわけがねぇ。俺はもうすぐテストで赤点を取って退学になる──そう、思っていた』
自身の才能も、未来も、すべてを投げ出そうとしていた須藤の荒んだ思考。だが、独白の最後に、小さな……けれど明確な歪みと変化が混ざり込んだ。
『──あのおせっかいな女が現れるまでは』
ブツリ、とそこで映像が途絶えた。光が収まり、暗い宝物庫の中に静寂が戻ってくる。
「……もしかして私のことかしら」
木刀を抱えた堀北が、考え込んでいた。ヒュロポスと櫛田とそしてオレは堀北を見る。本人だけが気づいていない。
「いや、あんたでしょ。テスト直前に無理やり勉強会開いて、須藤の首根っこ引っ掴んで赤点回避させたんだから」
櫛田が胸の前で腕を組み、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて堀北を見る。
「掴んでない」
足元では、ヒュロポスが羽をパタパタと羽ばたかせながら、嬉しそうに声を張り上げていた。
「ヒュポー! マッカッカさん、最初はすねてたけど、ツンツンさんのおかげで諦めないで済んだのねー!」
「……私だけではないわ」
ヒュロポスと俺を軽く一瞥すると、すぐに次の手掛かりを求めて周囲に視線を走らせる。
ガラクタの山をさらに奥へと掘り進めていた時、棚の最上部から崩れ落ちるようにして落ちてきた物体があった。
それは、高度育成高等学校の校章が刺繍された、鮮やかな赤と濃紺のラインが映えるユニフォーム。中央には力強い字体でプリントされた『9』の背番号。
そのユニフォームがまるで要らないゴミであるかのように、くしゃくしゃに丸められて転がっていた。
オレがそれを拾い上げ、手にとった瞬間──今までよりもはるかに強く、色濃い波動と共に映像が空間に広がった。
映像の視界が捉えたのは、入学当初の光景だった。オレたちは須藤の視点でそれを振り返る。
自分に上から目線で高圧的に接してくる堀北に対して猛反発し、激しく衝突した記憶。
そして人が変わったように接してくる堀北。高慢な態度は鳴りを潜め、いくら突っぱねて無視しても、堀北は諦めることなく何度も何度も須藤のもとへ足を運び、声をかけてきた。
そして根折れして、謝罪され、勉強会に連れていかれた記憶。そこにはDクラスの生徒たちが集まっていた。
『絶対に受け入れられるわけねぇと思ってた……だけど──』
映像は勉強会、そして中間テスト本番へと進む。
崖っぷちを全員で乗り越え、貸し会議室で開かれた祝勝会。仲間たちとジュースのグラスを掲げ、笑い合った時間。
その後も、須藤は真面目に学校生活と向き合おうとしていた。
クラスの秀才である幸村が個人的に開いていた勉強会へとちょくちょく顔を出し、同じ部活動組である三宅や小野寺、篠原や井の頭といった面々と共に、根気強く面倒を見てもらっていた。
ある日の放課後、部活動の帰り道。たまたまコンビニの前にいた幸村と出くわし、並んで肉まんを買い食いするシーンが映し出される。
『こういうのは、したことがないな……オレの家は、少々複雑な家庭だったから』
どこかぎこちなく肉まんを口にし、ポツリと漏らした幸村の言葉。それに対して、須藤は口の端を少しだけ和らげて答えていた。
『俺んちも似たようなもんだ』
『……そうか』
互いに深くは踏み込まない。だが、不器用で孤立しがちだった二人の間に、目に見えない確かな共感が芽生えたかのように見える。
そして映像は、HRでのクラス会議へと切り替わる。
教壇の前に立った堀北が、まっすぐな瞳で視点の主を見つめて言った。
『クラスの交渉や勉強のことは私たちに任せて、貴方達は部活動に集中して頂戴。貴方達の頑張りが、巡り巡ってDクラスの評価にも繋がるのだから』
『へっ……任せとけって!』
そして訪れた部活動の夏の大会直前、レギュラー発表の瞬間。コート中央で顧問が次々に名前を呼び上げる。そして──。
『──背番号9、須藤!』
──しかし、次の瞬間。
映像の雰囲気が赤黒く掠れ、一気に禍々しく重苦しいものへと一変した。
放課後、見知らぬCクラスの生徒二人から「特別棟へ来い」と呼び出された場面。
恐らく脳裏に過ったのだろう、堀北がクラス全体へ向けて放った警告が蘇る。
――特別棟は防犯カメラの設置率が低く、生徒間のトラブルが発生しやすい場所よ。むやみに近づかないこと。
忌々しそうに舌打ちを鳴らす。
『はっ、誰がいくかよ』
『あん? ビビってんのか?』
『うっせぇな、見逃してやってんだよ、勘違いすんな』
『不良品のくせに調子のんなよ?』
『あぁっ? ったく、何度言われても行かねぇってんだろ!』
須藤が背を向けようとしたその時、奥からもう一人の男子生徒がニヤニヤと笑いながら歩み出てきた。
『逃げんのかよ、須藤。情けねぇなぁ』
『あ? 誰が逃げるって? いいから行かねーって言ってんだろ!』
怒号を浴びせる須藤に対し、Cクラスの男は低く嫌味な声を放った。
『来ねーなら……お前のクラスの他のやつらにちょっかいかけるぜ? お前の友達とかな』
『ジョートーだよ、てめぇら……』
友人を引き合いに出され、男たちの後を追って特別棟へと向かう。薄暗い特別棟の階段を上がった先には、もう一人、大柄な男が待ち構えていた。
『三人で何の用だ? あぁん』
『須藤、お前バスケやめろよ。不良品がレギュラーなんてありえねーだろ』
あまりにもくだらない要求に、須藤は一気に毒気を抜かれたように呆れ果てた。
『は? あほくさ……そんだけかよ……来て損したわ。そんなに嫌ならテメェがキャプテンに言えばいいだ』」
『不良品の分際で生意気なんだよ! いいからやめるって誓えよ!』
『やめねぇよ。そんだけなら俺は行くぜ、ほんっと、くだらねぇことで呼び出しやがってよ、見つかったら、どーすんだ』
背を向けて立ち去ろうとした須藤の腕を、Cクラスの男が強引に掴む。
『離せや! んなこと、してる暇あんなら練習してろ!』
須藤が腕を振り払って怒鳴りつけた瞬間、大柄な男が「やったな、テメェ!」と叫んで前に踏み込んできた。
『テメェらが、掴んできたんだろうが!』
力任せに振るってきた拳を、須藤は交差させた両腕で間一髪ガードする。そして、反射的に叫んだ。
『ざけんなよ、テメェら!』
ガードした姿勢から男を強く突き飛ばす。
倒れ込んだ男は、そのまま逃げ出し、残りの二人もそれを追って逃走していった。
『……一体、何なんだ? 見かけ倒しかよ』
残された須藤は、自分の掌を見つめながら困惑していた。そして映像は高速で過ぎ去る。
その後、特別棟出口で堀北達と遭遇した場面。後ろめたさと苛立ちから長谷部に対して強く怒鳴りつけてしまい、去り際に一人で後悔する須藤の姿。
『……やべぇ、怒鳴っちまった』
そして──運命の七月一日。
月始めだというのにプライベートポイントが振り込まれず、朝からクラス全体が殺気立つ中、茶柱によって呼び出された指導室。
『特別棟でお前が暴力を振るったと聞いている』
『あん? 何のことだ?』
『石崎、小宮、近藤から訴えがあった。特別棟でお前が一方的に暴力を振るったとな』
『振るってねぇ! 殴られたから突き飛ばしただけだっての! 正当防衛だろ!』
必死の弁明も虚しく、茶柱は冷淡な態度のまま聞き入れず、審議中であることだけを告げて教室へと向かった。
須藤は苛立ちと焦燥に支配されながら教室の前に辿り着く。
扉を開けようとした、その手前──扉の向こうから、クラスメイトである山内の声が廊下まで響き渡ってきた。
──俺はやってねぇ!
放課後、平田に引き留められた瞬間。
──俺はやってねぇ!!
幸村に糾弾された瞬間。
──俺はやってねぇ!!
そして──部活動のキャプテンにこのままではレギュラー剥奪すると告げられた瞬間。
──俺はやってねぇ! 俺は悪くねぇ! 俺は! 俺は! 俺は! 俺は!
その瞬間、宝物庫の宝が一斉に塵となり、まるで蟻地獄のように吸い込まれていく。
「ヒュポー! 吸い込まれちゃうのよ!」
「綾小路くんっ! 櫛田さん!」
堀北も焦りか、周囲を見回して叫ぶ。櫛田も顔を真っ青にしてもがいている。そんな中、オレは沈みゆく砂に身を任せた。
物語の終焉。二つのアディトンにおいて、その先はコアシャドウとの対面だった。つまる所──。
────GAaaaaaa!
ここが終着点。闘技場の地下、宝物庫の先、宝物の残骸、そのゴミ山こそが須藤健の防衛機制の最奥であった。