Persona x Classroom of the Elite 作:仔羊肉
QRコードとは。
情報を封じ込めるための二次元バーコードの一種である。
無数の黒と白の升目によって構成され、その内部には文字列、画像への導線、連絡先、認証情報、決済情報など、多種多様な情報が格納されている。見た目は単なる幾何学模様に過ぎないが、その実態は情報社会における入口であり、扉であり、鍵でもある。
その起源は工業分野にある。大量の部品を正確かつ迅速に管理するために開発された技術であり、本来は一般消費者の目に触れることを前提としたものではなかった。しかし技術というものは往々にして開発者の想定を超えて拡散する。利便性という名の追い風を受けたQRコードは物流の現場を飛び出し、やがて店舗へ、企業へ、公共機関へ、そして個人の生活へと浸透していった。
飲食店のメニュー。駅の案内。商品の包装。電子決済。イベントの入場券。SNSの友達登録。
それらは気づかぬうちに、同じ記号へと収束している。
興味深いのは、その利用者の大半が内部に何が記録されているのか確認しないまま読み取りを行う点である。概要は知っていたとしても本当に安全なのか確認をすることなど殆どない。
黒白の模様を見せられれば読み取る。読み取れば誘導される。誘導されれば従う。
そこに疑問を挟む者は少ない。
もちろん、その行動自体は合理的である。QRコードの目的は利用者から判断や記憶の負担を取り除くことにある。長いURLを入力する必要はない。複雑な設定を覚える必要もない。ただ端末を向けるだけでよい。
しかし、その簡便さは同時に一種の委任でもある。
利用者は自ら情報へ向かうのではなく、情報の側が用意した経路を辿る。
どこへ繋がるのか。何が待っているのか。
その確認を省略したまま。
人類は長い歴史の中で様々な記号を生み出してきた。文字、数字、地図、標識。それらは情報を伝達するための道具であった。だがQRコードは少しだけ性質が異なる。これは情報そのものを伝える記号ではない。情報へ至るための入口を示す記号である。
言い換えれば、中身を読ませるための記号ではなく、中身を読ませないための記号だ。
利用者が目にしているのは内容ではなく封印であり、理解ではなく接続である。
だからこそ、人はそれを信頼する。意味が分からないからこそ疑わない。理解が及ばないからこそ委ねる。読めないからこそ読み取る。
奇妙な話ではあるが、現代社会はそうした無数の黒白模様への信頼によって成立している。その意味では、QRコードとは単なる情報技術ではない。
情報社会において人間がどれほど「理解」よりも「接続」を重視するようになったかを示す象徴である。あるいは――現代人が最も頻繁に目にするにもかかわらず、その正体をほとんど意識しない記号の一つ、と言うべきかもしれない。
◇ ◇ ◇
パツン、パツンと細い音が鼓膜の奥で弾けた。
購買のコンビニのゴミ箱の上、こうして手に取らなければ見落としてもおかしく無い場所にそのコードは存在していた。手元の生徒手帳端末を何気なく、しかし明確な意思を持ってかざし、それを読み込んだ――まさにその刹那だった。
一瞬にして、景色が変わった。
五感に走る強烈な違和感。気がつけば、先ほどまでオレの視界を満たしていたゴミ箱は消え失せ、店内から溢れる白色の蛍光灯の明かりも、周囲にいた生徒たちの気配も、すべてが煙のように消失していた。
広がっていたのは、荒廃とした風景。
天は不自然に赤暗く、夕焼けと呼ぶにはどこか禍々しさがある。ひび割れたコンクリートの壁面からは鉄筋が剥き出しになり、足元には出所不明の瓦礫が散乱している。一切の生気が剥ぎ取られた、墓標のような灰色の一帯だった。
「……これは随分と非現実な」
しかし、観察の時間を遮るように、それは唐突に現れた。オレの目の前、およそ三メートルの空間。
ゆらゆらと、空気の熱を奪うようにして空中に浮かぶ、不気味な黒い影。煤を固めて作ったかのような、あるいはタールを凝縮したかのような、輪郭も酷く不明瞭なそれは、意思の有無すらわからない。
その宙に浮かぶ――影のようなものは二つ半月色の赤光が浮かび上がる。まるで生物だと主張するような瞳である。
直後、黒い影の内部から、人間のものとは到底思えない歪な「腕」が唐突に生えた。
鋭利な爪のような先端を備えたその腕は、凄まじい速度で伸縮し、オレに向かって一直線に襲いかかってきた。
純粋な物理的危険を察知したオレの身体は、思考が結論を出すよりも早く足を動かす。重心を極限まで低くし、地を転がるようにしてその直線上から自らの座標をずらす。
破裂音。爆砕音。
オレがほんの一瞬前まで立っていた背後――そこにあった巨大なコンクリートの瓦礫が、まるで鈍器で殴られたかのように凹んでいる。細かな石礫が頬をかすめ、不快な風がオレの制服を乱す。
並の破壊力ではない。
生身の人間が直撃を受ければ骨折で済めば御の字、下手をすれば引き千切れかねない威力。
「――引くべきだな」
オレは即座に状況を分析し、判断を下した。相手の攻撃手段、そのリーチ、威力の概算は出た。しかし、こちらには武器もなければ、この世界の物理法則の完全な把握もできていない。そもそもの話、その物理法則すら怪しいものがある。
ここで正面から交戦を試みるのは、蛮勇、無謀に等しい。
オレは一瞬の躊躇もなく踵を返し、入り組んだ瓦礫の死角へと滑り込むようにして、その場からの撤退を試みた。
それからしばらくの間、オレは身を隠しながら、その荒廃した世界を静かに、足音を殺して歩き続けた。
周囲の様子を観察しながら移動していると、先ほどオレを襲ってきたものと同質の「黒い影」――化け物が、通路の端や崩落した部屋の中に、ちらほらと見受けられる。
彼らは一様に、視界の狭い徘徊を繰り返している。瓦礫の影に息を潜め、追跡の気配がないことを確認しながらゆっくりとあてもなく彷徨い続ける。
あの最初の遭遇から、オレは一度も奴らに見つかることなく、引き離すことに成功していた。
「……行動範囲は広くない。縄張りのようなものがあり、そこから離れず破壊活動をする。威力は個体によって異なるが少なくとも人間一人を壊せる程度の力はある」
オレは乱れたネクタイを静かに外しながら、口元で小さく、誰にも気づかれないレベルの確信を呟いた。
最初の奇襲こそ、その異形さゆえに脅威たり得たが、一度その直線的な軌道を見切ってしまえば、大した脅威には見えない。そして行動パターンを鑑みれば知性ある生物のような動きというよりも機械的である。
「さて……」
オレは学生証端末の画面を見つめる。原因であることは直前の行動を振り返れば分かりやすい。QRコードを読み取った瞬間にこの変異は起こった。
もちろんタイミングは偶然で別の要因が原因ならば今の状況で打つ手は助けを待つ以外に存在しないのだが。
端末を調べてみても変化はない。
周囲の警戒を進めながら自分のプロフィール画面を開けば――ゼロポイントという文字が目に入る。そこには先ほどまで存在したプライベートポイントが底をついているという表記。
「んー、しょ、んーしょ! んーしょ、んーしょ!」
その時、耳に入ってきたのは破砕音と不気味な風とは異なる代物。女性というには若く、幼子に近いその声はこの荒廃した風景の中で歪に響いている
「お、おんもぉぉぉい……」
顔だけ出して声の主を探してみれば、そこには謎の生物らしきものが壊れた自動販売機を必死に押していた。
全体的にピンク色である謎の生物。ピンク色のパーカーにスカート。茶色のブーツを履いているが人間の見た目ではない。
三頭身の鳥らしき存在が両羽で必死に自動販売機を押しているその光景はシリアスな雰囲気を壊してコミカルさすら漂っている。
周囲に謎の影が無いことを確認したオレはその謎生物に声をかけることにした。
「なぁ……」
「はぅあ!? ピヨピヨ! ついに淋しくなりすぎたあたしは幻覚まで聞こえるようになりましたか!」
大きく一度跳ねてはそんな事を呟いていた。こちらを振り向かずに再び「んーしょ、んーしょ」と自販機を押している。
「……ちょっといいか」
「はぅあはぅあ! なんかちょっぴり気怠い感じのASMRが聞こえる! ちょっと好み!」
もう一度、大きくびくんと跳ねてはそんなことを呟いている。そして振り向いた時に――目が合った。
近くで見ればその鳥が機械のような部品が見えている。羽根も一種類ではなく、複数の種類が交じり合い作られていた。そしてそのメカニカルな存在は嘴を何回か動かした後に――。
「ぴよーっ! 人間さん! 私、以外の人間さん! 始めて観た! ようこそ、人間さん! さささっ、何もないところですがゆっくりしてってね!」
目の前の床を羽でこすり、さぁ、どうぞ、座って座ってと促してくる。
「あ、あぁ……」
とりあえず問答無用で襲ってくるあの影とは違い、意思疎通が出来ることに安堵すると同時に自称人間の変な生き物に困惑を覚えてしまう。
「はじめまして、人間さん! あたしは、あたしは……なんだっけ?」
こてんと首を傾げる鳥。自分の名前すら覚束ない鳥頭、オレはこの先の会話がろくなものにならない可能性がむくむくと胸中に湧き上がってくる。
「ふーむ、人間さん。はじめましてなの! 名前とか多分、まだ無いあたしに素敵なお名前くれると嬉しいな!」
初対面での要求難易度が高すぎる。高校生になって自己紹介すら失敗したオレに名付けろなんてムチャブリってやつだろう、これは。
「あー、えっと、あー」
「わくわく! わくわく! わくわく! わくわく!」
口で期待を表す謎生物に向かってポツリと思いついた言葉を口にする。
「謎の……鳥太郎……」
「ピヨーっ! なんなの、そのお名前! 駄目! やだっ! センスゼロ!」
苦手分野である自ら創るという行為をやってみたがどうやらセンスが無いらしい。
「そもそもあたし女の子っ! こんなプリティーな女の子に太郎だなんて酷いっ!」
「じゃあ……謎の鶏」
「じゃあ、じゃないのよ! 何一つ素敵なお名前じゃないの! もっと真面目に考えて!」
両羽を腰らしき部分に当てて、ぷんぷんと怒る謎の生物。その様子を、オレは見つめ直した。ふざけていたわけではないが、彼女の反応を見ることで、その知性の水準や感情の起伏、そしてこちらに対する敵意の有無を測ることはできた。
少なくとも、先ほど問答無用で物理的な破壊の腕を振るってきた「黒い影」とは、明確に一線を画する存在だ。
オレは改めて、彼女の姿を精査する。
全体的にはピンク色の愛らしい鳥の形をしているが、その羽の隙間や関節部分には、精巧な歯車や配線といったメカニカルなパーツが覗いている。そして、彼女が先ほどまで必死になって押していた、錆びついた自動販売機。
この生気が剥ぎ取られた灰色の世界において、彼女の存在はあまりにも不自然な「構成物」だった。
脳内にある、ホワイトルームで叩き込まれた膨大なデータベースのページをめくる。言語、哲学、神学、あらゆる学問の記憶から、この状況と彼女の特異性に合致する言葉を抽出する。
「……ギリシャ語の哲学用語に、世界を構成する原始の『物質』や『素材』、あるいは『木材』を指す言葉がある」
「ふぇ? ぎりしゃご?」
「『ヒュレー(Hulē)』だ。お前のその、精密機械のパーツが混ざり合ったマテリアルな身体。あるいは、その自動販売機という『物』に必死に執着している姿。そこから派生させて――『ヒュロポス』というのはどうだ」
オレが淡々と告げると、鳥は丸い目をパチパチと瞬かせた。
「ヒュロ、ポス……。ひゅろぽす……」
その言葉の響きを口の中で転がすように何度か呟いた後、彼女の顔が一変した。
「わぁぁぁ! なんだかちょっとインテリっぽくて、すっごくカッコいいの! うん、あたし、今日からヒュロポス! ヒュロちゃんって呼んでね、人間さん!」
先ほどまでの不機嫌さが嘘のように、ヒュロポスは嬉しそうにその場でパタパタと羽を羽ばたかせ、ステップを踏むように踊り始めた。どうやら気に入ってくれたらしい。名付けのセンスがないと断じられた直後だっただけに、一発で合格点が出たことには内心で少しだけ安堵した。
「それで、ヒュロポス。一つ訊きたいんだが」
「なになに? 名付け親の人間さんの質問なら、あたし何でも答えちゃうぞ!」
「お前はさっき、その壊れた自動販売機を熱心に押していたな。こんな荒廃した世界で、それには一体どんな意味があるんだ?」
オレの問いに、ヒュロポスは急に真面目な顔になり、自販機を振り返った。
「これ? これはね、この世界――『フォーラム』を元通りにするために、すっごく、すっごく大事なものなの!」
「フォーラム……。それが、この世界の名前か」
「そう! フォーラムにはたっくさん悪いやつがいて、そいつがいると人間さんはイライラしたり、不安になったりするの! だからちゃんと綺麗に直して人間さんがイライラしたり、悲しくなったりしないようにするわけ!」
ヒュロポスは短い羽で、周囲のひび割れたコンクリートや散乱する瓦礫を指し示した。
「だから、この自販機を使って『復元』しなきゃいけないんだよ!」
「復元、だと?」
「うん! この自販機に、悪いやつを倒して手に入るデベなんたらポイントっていうのを投入すると、復元素材が買えるのらしいの。ついでに人間さんのイライラも収まったり、優しい気持ちになるらしいから一石二鳥なの! だからこれを運んでるの!」
ヒュロポスの口から語られたそのシステムは、あまりにも奇妙だった。人間の精神が安定する? 化け物を倒したら? まったく関係性がなさそうな二つの事象に因果があると述べている。
さらに、気になるのはその情報源は何なのかという所だろう。まるで人間のように振る舞い、人間のような善性から行動しているヒュロポスはどこで知識を得たのだろうか。
最も不可思議なのはこの誰もいない世界で何故、人間のことを気にするのかという部分。
「……なぁ、ヒュロポス。一つ訊きたいんだが」
「なになに?」
「お前はさっきから、この世界の仕組みや自販機の使い方について妙に詳しいな。自分の名前すら忘れていたお前が、なぜそんなことを知っているんだ?」
オレの静かな問いかけに、ヒュロポスは待ってましたとばかりに胸を張り、短い羽をパタパタと動かして見せた。
「ふふーん! よくぞ聞いてくれました、人間さん! あたしをそんじょそこらのただの可愛い女の子だと思ったら大間違いなの! 実はね、さっきこの自販機の裏に、すっごく役に立ちそうな紙が落ちてたんだよ!」
そう言って、ヒュロポスは自慢げな顔をしながら、器用に羽の隙間から一枚の紙片を引っ張り出し、オレの目の前に突き出してきた。
それはどこか古びた、しかし文字がびっしりと印字された報告書の切れ端のようなものだった。オレはその紙片を受け取り、そこに並んだ文字列に視線を落とした。
『共通階層「フォーラム(FORUM)」について』
そこには、この奇妙な空間の概要が、極めてシステム的かつ論理的な文章で書き連ねられていた。まず目を引いたのは、この世界の定義についての記述だ。
――全校生徒の日常的なストレス、焦燥、不満といった「精神の気」が流れる異世界。現実世界に置ける強いストレスの発生地点にシャドウは産まれる。シャドウは周囲を破壊し続けることにより現実世界への強い影響与える。
「……生徒たちの負の感情が、あの化け物を形作っているということか。それにここは異世界、ときたか」
オレの呟きに、ヒュロポスは「そうなの、そうなの!」と深く何度も頷いている。さらに紙片の続きに目を向けると、先ほど彼女が口にしていた『復元』に関する具体的なギミックについて解説されていた。
――素材による復興。
シャドウを倒したときに変換されるエネルギーは様々なものに再利用可能。またこの世界を復興させる素材変換装置により、素材の素を獲得することが可能。素材の素は復興場所によって異なり、大規模な復興ほど必要な素材とエネルギー量は増加する。暫定的にこのエネルギーの通称を『DP――Development Point』とする。
オレを先ほど襲ってきたあの黒い影は、ここに書かれている『シャドウ』というものなのだろう。そして、ヒュロポスがこの壊れた自動販売機を押していたのは、DPを使って復元素材を投入し、空間を修復するためなのだろう。
そうなると疑問が幾つか湧く。何故、この鳥は使い方が書いてある説明書を片手に変換装置を押していたのか、とあうことだ。
しかし、その次に記されていた一文こそが、オレにとって最も看過できない重要な情報だった為に疑問を棚上げする。
――現実世界への帰還方法。
復興都市には幾つかの帰還ポイントが存在する。ただし、帰還できるのは侵入したポイントから最も近いポイントからのみである。帰還ポイントにはモニュメントが存在し、安全が確認されたタイミングでモニュメントに触れることにより現実へと帰還することが可能である。
――フォーラムへの接続方法。
フォーラムは『高度育成高等学校』の敷地内にあるQRコードを読み取ることによって侵入することが可能となる。またQRコードからだけではなく一度、フォーラムにはいることによって学生証端末に記載された帰還ポイント履歴からもアクセス可能となる。ただしその場合、現実地点とモニュメントが重なるエリアからのみの侵入となる。
「……なるほどな」
オレは小さく息を漏らし、思考を巡らせる。
もしこの記述が本物であるならば、この異世界の荒廃を放置することは、現実への何らかの影響を与えることになる。
逆に言えば、このフォーラムの復元を完了させれば、現実への影響を減らすことができる、と。
「どう? どう? 人間さん! あたし、すっごくお利口さんでしょ!」
ヒュロポスがオレの顔を覗き込みながら、再び嬉しそうにパタパタとステップを踏み始めた。
「あぁ、助かった。お前のおかげで、この世界のルールが少し見えてきたよ。なぁ、ヒュロポス、これ貰っていいか?」
「いいのよ、人間さん!」
オレは紙片を静かに折り畳み、制服のポケットへと仕舞い込んだ。
この広大な未完成の迷宮。
まだ点と点は完全には繋がらないが、現実への帰還方法は理解した。ならばこそ、まずはモニュメントとやらを目指さなければならない。
「さて、ヒュロポス。情報が揃ったところで、次の行動方針を決めたい」
オレはポケットに手を戻し、未だに自販機にしがみついているピンク色の鳥を見つめた。
「なになに? 名付け親の人間さん、何かいい作戦でもあるの?」
「お前はこの世界を『復元』したい。そのためにはシャドウを倒して手に入る『DP』が必要だ。そしてオレは、まず現実世界へ一度帰還したい。この二つの目的を最短で両立させる方法がある」
オレは自販機の横を指差し、淡々と言葉を紡ぐ。
「ここに佇んで壊れた自販機を押し続けても、DPは一向に貯まらない。紙片の記述通りなら、シャドウは現実世界で強いストレスが発生している地点に産まれる。ならば、オレがこの世界に迷い込む原因となった『侵入地点』――つまり、あの購買のコンビニ周辺こそ、今最もシャドウと遭遇しやすいホットスポットである可能性が高い」
「はぅあ! 言われてみれば確かなの! まずはDP手に入れなきゃなの! これを直そうにもDPないと直せないの!」
「オレはモニュメントを探しにいくが一緒に来ないか? 道中で出会ったシャドウを二人で倒せばいい」
「ええぇっ! それは無理なの! 人間さんにシャドウはとてもじゃないけど倒せないよ! あたしだって一匹くらい!」
その言葉に驚く。この見た目が謎の鳥はあの化け物を一匹なら倒す術を持っているということに。
「それなら二人で孤立しているシャドウを探せばいい。二人で探すほうが効率的だと思わないか? お前がオレに同行するメリットは十分にあると思うが、どうだ?」
感情を交えず、純粋な利害の一致を提示する。人間関係において、最も強固な絆とは感情の共有ではなく、目的の合致だ。
ヒュロポスは短い羽をあごに当てて「むむむ」と唸っていたが、すぐに丸い目を輝かせて飛び跳ねた。
「納得なの! さすがインテリな名前をくれた人間さん、言うことが一味違うの! よし、あたしも一緒に行くの!」
「決まりだな。じゃあ移動する。奴らに見つからないよう、オレの後を隠れてついてきてくれ」
「アイアイサーなの!」
こうして、オレと謎のロボット鳥による奇妙な行軍が始まった。
◇ ◇ ◇
来た道を慎重に逆行する。
ひび割れたアスファルト、崩落した天井からぶら下がる配線、そして時折、遠くの路地を徘徊する黒い影。オレはそれらの位置を正確に把握し、ヒュロポスの短い足が立てる微かな音を計算に入れながら、死角から死角へと移動を繰り返した。
ほどなくして、見覚えのある座標へと辿り着く。オレがここに来た時の風景と酷似している。
現実世界であれば、多くの生徒が行き交うコンビニがある場所だ。しかしこの世界では、店舗の壁面はガラスもろとも木っ端微塵に砕け散り、不気味な灰色の瓦礫の山と化していた。
だが、その瓦礫の近くに、不自然に白く輝く柱のようなものが立っていた。周囲の禍々しい赤暗い光を拒絶するように佇む、ガラスの彫刻に似た結晶体。
「あれが……モニュメントかもしれないな」
「そうなの? あそこに触れば、人間さんはおうちに帰れるはずなのね!」
ヒュロポスが声を弾ませる。しかし、オレは彼女の言葉にすぐには乗らなかった。周囲の観察を怠るほど、オレの警戒心は鈍くない。
――ガチ、ガチ、ガチ。
不快な金属音が、崩れたコンビニのカウンターの奥から響いてきた
瓦礫の影からゆっくりと這い出てきたのは、先ほどオレを奇襲した黒い影だった。その煤のような身体からは、何本もの鋭利な棘が不規則に突き出しており、中央には二つの血のような赤光がランダムに明滅している。
奴はモニュメントのすぐ目の前に陣取り、こちらを威嚇するように、低く歪な咆哮を上げた。
「帰還ポイントの邪魔者というわけか」
生身のオレには武器がない。先ほどの攻撃威力を鑑みれば、素手で肉薄するのは合理的ではない。どうやってあのシャドウの注意をモニュメントから逸らすべきか――。
オレがいくつかの脳内シミュレーションを開始した、その瞬間だった。
「一匹ならあたしにお任せなの、人間さん! ここはあたしの見せ場!」
ヒュロポスが小さな身体で、オレの前にトコトコと躍り出た。
「おい、ヒュロポス。下がれ。生身で突っ込むのは――」
「生身じゃないのよ! あたしだって、ただのプリティーで可愛い女の子じゃないんだから! 喰らうがいいの、あたしの秘めたる心――!」
ヒュロポスが両羽を大きく広げ、天を仰ぐ。
その刹那、彼女のピンク色のパーカーの隙間から、目も眩むような鮮烈な黄金の光が溢れ出した。その光の奔流は彼女の背後に収束し、この荒廃した灰色の世界を圧倒的な熱量で照らし出していく。
「おいでませ! あたしのもう一つの翼――『イカロス』!」
光の粒子が弾け、彼女の背後に巨大な人型の幻影が顕現した。
それは、太陽を模したような輝くエンブレムを胸に掲げ、背中には幾層もの精密な機械仕掛けの羽を宿した、美しくも無機質な飛行兵器のような姿だった。蝋の翼を広げ、大空へと挑んだ神話の象徴。その姿は、目の前のシャドウが放つドロドロとした闇を文字通り払うかのような神聖さを放っている。
「……あれが、こいつの言ってた秘密兵器」
オレは静かにその光景を見つめ、驚きを微かな眼光の収縮だけに留めた。
グオォォォォン!
イカロスの放つ威圧感に危機感を覚えたのか、シャドウの全身の棘が逆立ち、凄まじい速度でその黒い腕を伸ばしてきた。狙いはヒュロポスの小さな身体だ。
「イカロス、やっちゃえなの! 突撃!」
ヒュロポスの叫びと同時に、背後のイカロスが駆動音を響かせて加速した。
シャドウの放った伸縮する腕を、イカロスは空中で鋭角に旋回しながら最小限の挙動で回避する。その飛行速度は肉眼で追うのがやっとのレベルだ。
かわされたシャドウはすぐさま逆の腕を振り回し、広範囲への薙ぎ払いを試みる。コンクリートの破片が四散し、猛烈な風圧がオレの髪を揺らした。
「右だ、ヒュロポス。死角から来ている」
「ひゃう!? イカロス、右なの!」
オレの声に反応したヒュロポスが指示を修正する。イカロスは間一髪で右からの追撃を翼の盾で受け流したが、その衝撃で激しく火花が散り、数メートル後方へと弾き飛ばされた。
凄まじい激戦だ。シャドウの放つ物理的な暴力に対し、イカロスは機動力で応戦している。一進一退。だが、生気のないシャドウの猛攻は徐々にイカロスの防御を削りつつあった。
「あぅあぅ、あの化け物、見た目よりずっと強いの!」
ヒュロポスが羽をバタつかせながら焦りの色を見せる。
オレは冷静に盤面を分析していた。シャドウの動きは直線的で、機械的だ。薙ぎはらいに叩きつけ。その二種類の上下運動を二本の腕でイカロスに対し後出しすることによって対応している。
そのすべてを受け止めているのだから非効率極まりない。どうやらヒュロポスの性格や知性のとおりに戦いという環境に慣れていないのだろう。
フェイントも何もあったもんじゃない。このままではジリ貧で削られていくだけ。
「ヒュロポス、あれは突撃しかないのか?」
「ふぇ? あ、あと、ガルっての使えるよ! 風をぶつけるの!」
シャドウが再び、咆哮と共に最大威力の突きを放ってくる。
「とりあえず、避けた後にそのガルってのを使ってみてくれ」
「わ、わかったのー! 避けて、イカロスっ!」
イカロスが垂直に急上昇し、シャドウの腕は完全に空を切って地面の瓦礫へと深く突き刺さった。過剰な破壊力が仇となり、シャドウの身体が引き絞られたゴムのようにその場に完全に硬直する。隙だらけの獲物。
けれども再度として突撃したのならばあの長い腕を再び受け止めなければならないだろう。全部を交わして近づけるほどのイカロスと呼ばれた存在は小器用ではなかった。
「上空から、あの化け物の根元に向けて、ガルってのを放て!」
「名付け親の人間さんの言う通りにするの! イカロス、全力全開の……ガルッ!」
ヒュロポスの掲げた羽に応じるように、イカロスがその機械の翼を限界まで広げる。そして羽ばたきと同時に暴力的な風がシャドウをきり刻む。
激しい爆鳴響がフォーラムの空間を震わせた。
イカロスの放った必殺の一撃は、硬直していたシャドウへと正確に突き刺さり、その禍々しい巨体を切り裂いていった。
シャドウは断末魔の悲鳴を上げる暇さえなく、黒い煤の霧へと霧散し、そのまま完全に消滅した。
後に残されたのは、静寂と、宙にふわりと浮かぶいくつかの光の粒子――そして、オレの端末から小さな通知音が響く。
「は、はふぅ……やった、やったの! あたし達の完全勝利なの!」
イカロスを消滅させたヒュロポスが、その場にへなへなと座り込みながらも、誇らしげに胸を張った。
「見事な戦闘だった、ヒュロポス。お前の力、確かに見せてもらったよ」
オレは座り込む彼女の元へと歩み寄り、その労いに嘘偽りがないことを示すように視線を和らげた。これでこの世界の戦闘における明確なサンプルは手に入った。ヒュロポスの『イカロス』の能力。そして、適切な指示を与えれば十分に戦力として機能するという確信した。
「ふふーん、もっと褒めてもいいのよ?」
「あぁ、いつか美味いものでも奢ってやる。……さて」
オレはヒュロポスを促し、ついに遮るもののなくなった、白く輝くモニュメントの前へと立った。ガラスの柱は、静かにオレの接触を待っている。
「ここでお別れだな、ヒュロポス。お前はここに残るのか?」
「あたしも今日は疲れたから帰る。人間さんも、またね、なの。見かけたらいつでも声をかけてほしいの!」
「あぁ、今日はありがとな」
オレは短く答え、右手を伸ばしてモニュメントの冷徹な表面へと触れた。
刹那、視界が真っ白な光で塗りつぶされる。あの購買のコンビニの喧騒、蛍光灯の明かり、そして生徒たちの気配が、一気にオレの五感へと引き戻されていくのを感じながら、オレは意識を現実世界へと滑り込ませた。
手元の端末を見ればアレだけの冒険があったにも関わらず、時間は経っていない。きっとレシートの時間も確認してみればより確証のある情報となるだろう。
オレはカップラーメンの入ったコンビニ袋を片手に寮へと向かう。肉体の疲労は無いにも関わらず、とても心は強い疲労感を訴えていた。
◇ ◇ ◇
学生寮の自室へ入り、無機質なドアを閉める。鍵が噛み合うカチリという音が、静まり返った室内に小さく響いた。
異世界『フォーラム』での出来事は、現実の時間にして一瞬の錯覚のようでもあったが、脳に刻まれた記憶と、ネクタイを外した首元の解放感だけが、長い時間を厳然たる事実であったと物語っている。
オレは深く溜息を吐き出すと、手に持っていたコンビニの袋を、部屋の中央にあるローテーブルの上へと無造作に置いた。
その瞬間。
――カチャリ。
ビニールが擦れるカサカサという音や、発泡スチロールのカップが触れ合う軽い音とは、明らかに質の異なる物質音が置いた場所から響く。
それは金属の歯車が噛み合うような、あるいは硬質な精密機械のパーツが互いに衝突したかのような、硬く重い響き。少なくとも、オレが購買で買った安価なカップラーメンから鳴っていい音ではない。
オレは微かに眉をひそめ、テーブルの上の袋に視線を落とした。そして、聞こえてきたのは。
「――ひゃ、ひゃうああああああああーーっ!?」
袋の内部から鼓膜を突き刺すような大音量の絶叫が鳴り響いた。フォーラムの荒廃した戦場で聞いた、あの聞き覚えのある甲高い声だ。
ビニール袋が生き物のように激しくのたうち回り、やがてゴロゴロと転がりながら、中から一匹の小さな生物が這い出てきた。
全体的に鮮やかなピンク色。パーカーのフードのようなものを器用に被り、足元には小さな茶色のブーツ。羽の隙間からは精巧な歯車や配線が覗いている――大きさにして、せいぜいひよこ程度の、小さな機械の鳥だった。
「も、もう! なんなのよあの狭くて暗い空間は! しかもなんか、すっごく油っぽい匂いが充満してたし! あたしのデリケートなお肌が台無しになるところだったじゃないの!」
機械の鳥は両羽を腰のあたりに当て、ぷんぷんと怒りながらテーブルの上で足を踏み鳴らした。
「……ヒュロポス、か?」
「そう! あたしは世界一プリティーで可憐な女の子、ヒュロポスちゃんなの! って、あれ、ここ、どこ……?」
首を傾げたヒュロポスが、ようやく周囲を見回した。白を基調とした、飾り気のない高度育成高等学校の学生寮の自室。フォーラムの赤暗い空も、崩壊した瓦礫も、ここには一切存在しない。
なぜ彼女がここにいるのか。オレは即座に思考を巡らせる。
「わ、わわわ……! ここ、全然暗くないの! フォーラムじゃないみたいなの!」
ヒュロポスは短い両羽をパタパタと羽ばたかせ、テーブルの上を嬉しそうに飛び跳ねた。
「ふふーん、あっ、でもここは壊れてないってことは街でお買い物したり、美味しいスイーツを食べ歩きしたり、可愛いお洋服をたくさん着たり……ああっ、夢が広がりまくりなの!」
どうやらこのロボット鳥は、自分の外見について重大な勘違いをしているらしい。
フォーラムでは自販機を押すことに必死で、自分の姿を客観的に見る機会がなかったのだろう。彼女の主観において、自分はどこまでも「可愛い女の子」のようだった。
「おい、ヒュロポス」
「なになに、名付け親の人間さん? あたしのあまりの美少女っぷりに、言葉を失っちゃった?」
「いや、美少女っぷりというか……。一度、あそこにある鏡を見てみたらどうだ」
オレは部屋の隅にある姿見を指差した。
「鏡? あ、そっか! 自分の可愛いお顔をチェックするのって、女の子の嗜みだもんね! どれどれー?」
ヒュロポスは疑うこともなく、テーブルから床へとトトトッと飛び降りると、短い足で姿見の前へと歩み寄った。
臨戦態勢のように背筋を伸ばし、鏡の表面を覗き込んだ――まさに、その刹那だった。
ピキィィィン、と彼女の身体が完全に硬直した。まるで時計のゼンマイが完全に切れたかのように、一ミリの微動だにしない。
鏡の向こうには、大きな丸い目をパチクリとさせ、ピンク色の外殻に機械の歯車を覗かせた、どう見ても『ひよこサイズのロボット鳥』が映し出されている。人間の要素など、微塵も存在しない。
「…………え?」
ヒュロポスは恐る恐る右の羽を上げた。鏡の中のピンクの鳥も、同じように右の羽を上げる。左の足を持ち上げた。鏡の中の鳥も、同じように茶色のブーツを持ち上げる。
「う、うそ……これ、あたし……? え? なんで? あたしのサラサラのロングヘアは? モデルみたいなスラッとした美脚は? っていうか、これじゃ人間とは似ても似つかない!」
次の瞬間、自室の壁を突き破らんばかりの絶叫が響き渡った。
ヒュロポスは頭を抱えるように両羽で顔を覆うと、そのまま床の上にゴロゴロと転がり、激しくのたうち回り始めた。
「やだやだやだーーーっ! あたしは可愛い女の子のはずなの! こんなの絶対におかしいの! 現実世界のバグなの! 神様のいじわるーーっっっ!!」
床に突っ伏して、短い足をバタつかせながら本気で絶望している彼女の姿は、悲惨というよりもどこかコミカルで、オレはただそれを見下ろすことしかできなかった。
今まで一度たりとも「異世界から付いてきた自称・美少女の機械鳥が、己の容姿に絶望して床で大泣きしている時の対処法」など習わなかった。
とはいえ、このまま放置して隣の部屋に鳴き声が響くのも都合が悪い。この学校において、このような未知の非科学的構造物を他人に知られることは、極めて高いリスクを伴う。
「……静かにしてくれ、ヒュロポス 。騒ぐなら、お前をその袋に戻して外のゴミ箱に捨ててくるしかなくなる」
「ひゃうっ!? そ、それは横暴なの、名付け親の人間さ ん……! ぐすっ、うぅ……あたしの美少女ライフが、始まる前に終わっちゃったの……」
ヒュロポスは涙目でオレを見上げ、ようやく静かになった。
溜息を一つ。オレは床に座り込み、小さな機械の鳥と目線を合わせる。
フォーラムという異世界の存在。生徒たちの精神の澱みが生み出すシャドウ。そして、目の前にいる自分を美少女だと思い込んでいた謎の鳥。
前途多難、という言葉すら生温い。この奇妙な学校での生活は、オレの想定を遥かに超えた方向へと加速し始めている。
「とりあえず、お前をこの部屋に置いておくしかないだろう。騒ぐのだけは勘弁してくれ」
「う、うん……わかったの。よろしくね、人間さん……」
こうして、オレとヒュロポスによる、奇妙で不思議な共同生活の幕が切って落とされた。