Persona x Classroom of the Elite   作:仔羊肉

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004

 

 五月一日、朝のホームルームを告げるチャイムが響き渡ると同時に、教室の引き戸がガラリと音を立てて開いた。

 

 入ってきたのは、オレたちのクラスの担任である茶柱佐枝だ。いつも通りの冷ややかな表情。だが、手にした出席簿を教壇に置くその動作には、どこか普段とは違う、張り詰めたような重苦しさが微かに混じっているように見えた。

 

「席につけ。ホームルームを始める」

 

 彼女の通る声に、生徒たちがそれぞれの席へと腰を下ろしていく。

 

 しかし、教室を包む空気は、昨日までのそれとは明らかに異なっている。楽しげな雑談の余韻などはどこにもない。そこにあるのは、殆どの人間がスマートフォンを握りしめ、態度は異なれど負の感情を表出している。

 

「……おい、なぁ。お前んとこ、どうだ?」

「いや、マジで入ってねぇって……」

 

 あちこちから、抑えきれない不安の囁き声が漏れ聞こえる。

 

 その理由を、オレは既に知っていた。そしてオレの隣に座る堀北もまた、手元の端末を見つめたまま、その切れ長の瞳を険しく細めている。

 

 沈黙を破ったのは、教室内でもとりわけ落ち着きのない男、山内春樹だった。山内は引きつった笑みを浮かべながら、勢いよく手を挙げた。

 

「あのー、茶柱先生! ちょっと聞きたいことがあるんですけど!」

 

 茶柱は表情一つ変えず、ただ視線だけを山内へと向ける。

 

「なんだ、山内」

 

「いや、その、なんかバグっぽいっていうか……。毎月一日に振り込まれるはずのプライベートポイントが、何回確認しても『0』のままなんですよ。オレ、今日のために買いたいゲーム予約してたのになぁ。早く直して貰わないと困るっていうかさ!」

 

 山内のその言葉は、教室内で誰もが口にしたくて堪らなかった疑問の引き金となった。

 

「そうだそうだ! 俺のところも入ってないぞ!」

「学校のシステムエラーじゃないの!?」

「今月も十万ポイント貰えるんじゃなかったのかよ!」

 

 池や他の男子生徒たちが次々と声を荒らげ、教室内は一気に喧騒へと包まれていく。

 

 だが、そんな生徒たちの動揺を前にしても、茶柱の顔には動揺のひとかけらすら浮かばない。それどころか、彼女の瞳には、哀れな見世物でも眺めるかのような、深い冷徹さと嘲りが宿っていた。

 

 茶柱はゆっくりと腕を組み、騒ぎ立てるクラスを見下ろした。

 

「騒ぐな。ポイントなら、今月分は既に振り込まれている」

 

 短く、淡々と放たれたその回答に、教室が一瞬だけ静まり返る。しかし、すぐにそれを上回る猛烈な反発の嵐が巻き起こった。

 

「はあ!? 振り込まれてないじゃん!」

「嘘言うなよ! 現に俺たちの画面は0になってんだよ!」

「ふざけんな! 学校側の振り込み忘れだろ、これ!」

 

 不満と怒りが、言葉の圧力となって茶柱へと浴びせられる。

 

 その瞬間、オレの左肩のあたりで、微かな、しかし激しい金属の軋み音が聞こえた。

 

「……ひ……っ、人間さん、これ、なぁに……?」

 

 小さな声が耳に届く。いつもなら図々しく溌剌とした声で騒ぐ謎のロボット鳥――ヒュロポス。

 

 短い羽を限界まで縮こまらせている。ひよこ型の小さな身体はガタガタと震えるせいでまるで心臓が早鐘を打っているかのよう。

 

 当然、周囲の生徒たちにはその姿も見えなければ、声も聞こえていない。

 

 異世界『フォーラム』で様々な負の感情と戦ってきたオレたちだ。本能的に察知してしまっているのだろう。クラスという一つの共同体が、逃げ場のない絶望と怒りに直面したことで、この狭い教室の座標に莫大な「負のエネルギーの奔流」が発生しつつあることを。

 

 オレはヒュロポスを無視し、ただ静かに教壇の茶柱を見つめ続けた。

 

 茶柱は、教壇に両手をゆっくりと突き、身を乗り出すようにして生徒たちを睨みつけた。その鋭い眼光に、気圧された生徒たちの声が次第に萎んでいく。

 

「学校側が振り込みを忘れた、だと? そんな事実は存在しない。今月分のポイントは、本日午前零時を回った瞬間に、一学年すべてのクラスに例外なく振り込まれている。それは紛れもない事実だ」

 

「じゃ、じゃあなんで……なんで俺たちのところには入ってないんだよ……っ!」

 

 山内がなおも食い下がろうと、声を震わせながら叫ぶ。他の生徒たちも、納得がいかないと言わんばかりに、口々に文句や罵声を吐き散らし続けた。学校のミスだ、と。

 

 底の浅い、身勝手な言葉の羅列。与えられた餌をただ貪り、その条件すら疑おうとしなかった家畜たちの、見苦しい悲鳴。

 

 その醜態を見届けるようにしばらく沈黙を保っていた茶柱だったが、やがて、その張り付いたような無表情のまま、ふっと声音のトーンを落とした。

 

 低く、地を這うような、しかし鼓膜の奥へと冷酷に突き刺さるような声。

 

「――本当に愚かだな、お前たちは」

 

 その一言が放たれた瞬間、教室の空気が、完全に凍りついた。気炎を完全に消して、勢い強く口を開いていた面々を黙らせるには十分な一言だった。

 

 静寂に包まれた教室の中で、茶柱は教壇に置いた出席簿――いや、そこに挟まれた一枚の書類へと視線を落とした。

 

「遅刻および欠席、合計九十一回。授業中の私語、ならびに携帯端末の操作、計四百二十一回」

 

 淡々と、容赦なく読み上げられた具体的な数値に、クラスの誰もが怪訝な表情を浮かべた。自分たちが何を突きつけられているのか、その時点ではまだ理解できていないのだ。

 

「……な、なんだよそれ」

 

 池が戸惑ったように呟く。だが、茶柱はその声を冷たく切り捨てると、低く鼻で笑った。その声音には、深い呆れと、明確な嘲笑が混ざり合っている。

 

「この一ヶ月間でお前たちが教室内で積み上げてきた、輝かしい『記録』だ。一月で随分とやらかしたものだな。義務教育を終えたばかりとはいえ、ここまで徹底して自制心のない人間の集まりだとは思わなかったぞ」

 

 茶柱の言葉が、冷徹なトゲとなって生徒たちの脳を突き刺していく。

 

「あのな、先生……! それがオレたちのポイントと何の関係があるんだよ!?」

 

 山内がなおも声を荒らげるが、茶柱はそれを完全に無視し、冷ややかに言葉を続けた。

 

「この学校は、希望する進学・就職先にほぼ百パーセント応える全国屈指の名門校だ。それが事実である以上、お前たちが相応の『価値』を持っているかどうかを篩に掛ける評価システムが存在するのは当然の理屈だろう。この学校では、クラス単位での成績評価が毎月のプライベートポイントへと反映される仕組みになっている」

 

「成績評価が……反映……?」

 

 誰かが絶望的な予感に震える声を漏らす。

 

 その瞬間、ヒュロポスが短い羽をバタつかせ、悲鳴のような思念を送ってきた。

 

「に、人間さん、こ、怖いのね……ブルブルブルブル」

 

 胸ポケットへ潜り込み、怯える鳥を、オレは完全に意識の底へ追いやる。

 

 やはり、予測は正しかったわけだ。

 

 この高度育成高等学校の敷く『Sシステム』の裏の顔。

 

 与えられた十万という大金に目を眩まされ、その不自然なルールを疑おうともしなかった時点で、このクラスの敗北は決定づけられた。

 

 茶柱は教壇から一歩離れ、絶望に染まりゆく生徒たちを、哀れな家畜でも見るかのような目で平然と見据えた。

 

「一月分の授業態度、生活態度、遅刻、欠席、そのすべてが減点対象だ。本来ならばお前たち全員に十万ポイントずつ、クラス合計で四百万ポイントが支給されるはずだった。だが――お前たちはこの一月で、そのすべてのポイントを吐き出したというわけだ」

 

 茶柱の冷酷な宣告が、完全に凍りついた教室へと突き刺さる。

 

「結果が『0』なのは、学校の怠慢でもなんでもない。お前たち自身の『実力』が招いた、当然の報いだ。お前たちは査定された結果――評価『0』の屑、それが学校側が降した判断だ」

 

 茶柱は教壇の脇へ歩み寄ると、ホワイトボード用のマーカーを手に取った。そして、張り詰めた静寂が支配する教室内で、キュッキュと乾いた音を響かせながら、いくつかの文字と数値を滑らせていく。

 

 Aクラス:970ポイント

 Bクラス:900ポイント

 Cクラス:670ポイント

 Dクラス:0ポイント

 

「ちなみにこれが一学年の現時点における『クラスポイント』の残高だ」

 

 ホワイトボードに並んだ無慈悲な数字の羅列を、生徒たちはただ呆然と見つめることしかできない。他クラスが相応のポイントを維持している中で、自分たちのクラスだけが、不気味なほど綺麗な円を描く『0』という奈落に叩き落とされている。

 

 茶柱はマーカーを置くと、ふっと口元に冷酷な弧を刻んだ。

 

「開校以来、最初のひと月で支給されたポイントをすべて吐き出したのはお前たちが初めてだ。ここまできれいさっぱりとドブに捨ててみせるとは、本当に大したものだな。逆に感心する」

 

 その言葉は、凍りついた生徒たちのプライドを無残に切り裂いた。誰もが言葉を失い、怒りと屈辱に顔を歪める中、クラスの前列側の男子生徒が立ち上がった。

 

「先生、納得がいきません」

 

 声をあげたのは、平田洋介。クラスの誰もが頼りにする優等生。その端正な顔立ちは、今までに見たことがないほど険しく曇っている。

 

「僕たちが悪かったところは真摯に受け止めます。でも、何がどれだけの減点になったのか、その内訳だけでも教えてはもらえないでしょうか」

 

 だが、茶柱は平田を一瞥しただけで、鼻を鳴らした。

 

「学校側がお前たちの非行を一つ一つ丁寧に介護してやる義理はない。お前たちは義務教育の間に何がルール違反であり、何が評価を損ねるのか習ってきたのだろう? それを自ら考え、探ることもまた、お前たちに課せられた『実力』の定義に含まれている」

 

 取り付く島もない拒絶に、平田は悔しげに唇を噛んで席に戻るしかなかった。

 

「お前たちがプライベートポイントと呼んでいるものは、正確にはこの『クラスポイント』を基準にして算出されている。クラスポイント1ポイントにつき、所属する生徒全員に、毎月百プライベートポイントが支給される仕組みだ」

 

 茶柱はホワイトボードの数値を指先で叩く。

 

「入学当初、お前たちも含めたすべてのクラスには一律で千クラスポイントが与えられていた。だからこそ、先月はお前たちの手元に十万ポイントという大金が振り込まれたのだ。だが、今のDクラスのクラスポイントはゼロ。ゼロに何を掛けたところで、結果がゼロになることくらいは、流石のお前たちでも理解できるだろう?」

 

 説明が進むにつれ、教室のあちこちから、また違った種類の困惑が漏れ始め、奇妙なざわめきへと変わっていった。

 

 生徒たちの数人が、ホワイトボードに書かれたアルファベットの「並び」に宿る、決定的な違和感に気づき始めていた。

 

「察しの通りだ」

 

 茶柱の目が、獲物を追い詰めた肉食獣のように妖しく光る。ここからが、この学校が隠し持っていた本命のルールなのだと言わんばかりに。

 

「この学校におけるクラス分けは、単なる記号ではない。保有しているクラスポイントの多い順から、上から『A、B、C、D』と割り振られている。そしてそれは価値が高いクラスが上から順に並んでいるということだ」

 

 この一ヶ月の間に僅か30という減点に留めたAクラス。それに追随するBクラス。そして少し離れながらも半数以上のポイントを維持しているCクラス。

 

「当然、価値は常に変動する。このクラスポイントの増減によって順位の逆転はありうる。もしも下位のクラスが上位のクラスのポイントを上回れば、クラスのアルファベットは自動的に昇格する。仮に今のお前たちが六八〇ポイントを残せていればCクラスだったというわけだ。そして、お前たちが今『Dクラス』に籍を置いているということは、この学年において最も下に位置する、文字通りの『最底辺の不良品』であるということを胸に刻め」

 

 最底辺。その容赦のない烙印に、クラスの空気は絶望の重圧で完全に圧殺された。

 

「と、ととととっても空気が重いのよ」

 

 ピーピーピーピーピーピーと騒ぐヒュロポス。胸ポケットから取り出して、オレは鞄を開き、その中に放り込んでは口を占める。

 

「ぎゃぴーっ! はぅぁ! はぅあ! 暗いのよー! 怖いのよー!」

 

 これで静かになったと一仕事を終えて教壇を見ると担任である茶柱先生だけではなく、半数以上の生徒がオレの行動を見つめていた。

 

「……最後に、最も重要な事実を教えておこう。この学校が『希望する進学・就職先に応える』と言ったな。あれは嘘ではない。国家の威信を懸けた絶対の約束だ」

 

 茶柱はそこで一度言葉を区切り、残酷な笑みを深めた。

 

「ただし――その破格の恩恵を受けられるのは、卒業するその瞬間に『Aクラス』に在籍していた者たちだけだ。それ以外のクラスの者に与えられるのは、何の価値もない、ただの普通の高校の卒業証書だけだ。当然、現在のポイントがゼロであるお前たちには、その恩恵を受けられるわけかない」

 

 一瞬の、静寂。茶柱が告げた言葉の本当の意味を、脳が理解した瞬間――。

 

「う、嘘だろ……っ!? じゃあ、俺の将来は……!?」

「冗談じゃねえよ! こんなの詐欺じゃんか!」

「ふざけるな! 十万ポイントも、進路の保証も、全部嘘だったのかよぉッ!!」

「ぎゃー! なんかまた騒ぎが大きくなったのよー! 怖いのよー! 怖いのよー!」

 

 教室内は、一瞬にして爆発的なパニックへと叩き落とされた。

 

 ある者は頭を抱えて机に突っ伏し、ある者は椅子をガタガタと鳴らして立ち上がり、ある者はヒステリックに叫び声をあげる。

 

 まさに、阿鼻叫喚の地獄絵図。

 

 剥ぎ取られた楽園の仮面。その下に隠されていた『実力至上主義』の顔が今、姿を表した。

 

 そんな彼らの悲鳴を、まるで心地よい子守唄でも聴くかのように平然と受け流しながら、茶柱は出席簿の中からもう何枚かの大きな用紙を取り出した。パニックに陥り、怒号と涙で満たされる教室の空気など、彼女にとっては予定調和のノイズに過ぎないのだろう。

 

 茶柱は手際よくその用紙をマグネットでホワイトボードへと貼り付けた。

 

「進路やポイントの心配をするのも結構だが、お前たちにはもっと手前に、今すぐ直面しなければならない差し迫った問題がある。――これが、先日行った小テストの結果だ」

 

 貼り出された用紙には、Dクラス全員の名前と、それぞれの叩き出した点数が一切の容赦なく赤裸々に並んでいた。

 

 最上位には堀北、幸村、高円寺と並んでいる。そしてオレの点数は五十点ジャスト。

 

 その点数はDクラス内部においても真ん中より少し下に位置している。けれども五十を軸に団子状態であるために目立つような成績ではないだろう。

 

 数秒前までポイントの消滅に怒り狂っていた男子たちの顔から、今度は急速に血の気が引いていく。

 

 ホワイトボードの底に沈んでいるのは、目を疑うような低得点の羅列だった。池、山内、そして最底辺に位置する須藤健の点数は、一桁や十数点といった、およそ高校生のものとは思えない惨状を晒している。

 

 茶柱は深く息を吐き、ホワイトボードの用紙を冷たい指先でトントンと叩いた。その横顔に刻まれているのは、隠しようもない深い呆れと、突き放すような叱責の響きだ。

 

「一体、中学時代に何を学んでここへ来たんだ。あまりの惨状に呆れて物も言えんぞ」

 

「だ、だって先生! あんなの小テストじゃんか! 成績には関係ないって――」

 

 山内が必死に言い訳を紡ごうとするが、茶柱はその言葉を鋭い眼光で即座に叩き潰した。

 

「関係ないだと? その甘えがこの『評価0』という結果を招いたのだと、まだ理解できないのか。いいか、今回はあくまで現状を把握するための小テストだ。だが、再来週に控えている『中間テスト』からはそうはいかない」

 

 茶柱は教壇の真ん中へと戻り、クラス全体をまるごと見下ろすようにして、最後の、そして最も重い一撃を宣告した。

 

「我が校の絶対的な規律として、『赤点』を記録した者がいれば――その者は『退学』処分となる。そして赤点のラインはここだ」

 

 退学。

 

 その、あまりにも短く、あまりにも致命的な二文字が放たれた瞬間、恐怖によって完全に凍りついた。誰もが呼吸を忘れ、目を見開いたまま教壇の死神を凝視している。

 

 七人の名前の上に引かれた絶望の境界線。

 

 赤点ラインは、クラスの平均点の半分。つまり、このまま底辺の連中が足を引っ張り合えば、複数の人間が同時にこの学校から『剪定』されることになる。

 

 オレは鞄の隙間から微かに漏れ聞こえるヒュロポスの「はぅあ、はぅあ」という怯えた吐息を感じながら、この学校が仕掛けた網の目を静かに脳内で再構成していく。

 

 ポイントの増減、クラス間闘争の開示、そして退学という名の足切り。すべては、望まれるエリートの「規格」へと強制的に調教するための舞台装置。

 

 驚愕と絶望に叩きのめされ、指一本動かせなくなったDクラスの面々を見届け、茶柱は手にした出席簿をパチンと叩いた。用はすべて済んだと、これ以上この不良品たちに割く時間はないと言わんばかりの、冷淡な動作。

 

「だが、今回の試験では全員が無事にきり抜けられると私は確信している。私の伝えるべきことは以上だ。今日から始まる本当の学校生活を満喫してくれたまえ」

 

 それだけを言い残すと、茶柱佐枝は振り返ることもなく、引き戸をガラリと開けて教室を去っていった。

 

 残されたのは、偽りの楽園から叩き落とされ、ただ静まり返るだけの、灰色の教室だった。

 

 そして、最後に告げられたあの言葉。少なくとも優しい教師が生徒を励ますかのような言葉は呆れと嘲笑を交えていた人間にはあまりにも不釣り合いだ。

 

 だが、それに気づけるほどの余裕は今のDクラスの生徒には存在しなかった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 あの重苦しいホームルームが終わり、張り詰めた空気のまま迎えたいくつかの授業を経て、オレたちは第一体育館のプールへと移動していた。

 

 五月上旬、春先のプールは、温水仕様とはいえ肌に触れる空気がまだ少しばかり冷たい。授業のメニューは早々に消化され、大半の時間は生徒たちに委ねられた『自由時間』となっていた。

 

 普段であれば歓声が響くはずのプールサイドだが、今日に限ってはどこか奇妙に浮ついた、歪な喧騒が空間を満たしている。

 

 生徒たちは自然とグループに分かれ、それぞれが固まって言葉を交わしていた。

 

 朝方に突きつけられた『クラスポイント0』と『退学』という過酷な現実から目を背け、気を紛らわせるための防衛機制に過ぎない。この長い自由時間は、彼らにとって現実逃避を貪るには十分すぎるほどのモラトリアムだった。

 

 そんな中、オレは一人、プールサイドの壁に背を預けてその光景を眺めていた。

 

 オレの頭の上には、当然のように鞄から這い出してきて勝手についてきたヒュロポスが、ちょこんと居座っている。

 

「うーん、みんな可愛くない水着なのよ。あたしならもっとピンクのフリフリした水着を着たいわ。人間さんもそんなプリティーなあたしを見てしまったらイチコロなのよ」

 

 相変わらずやかましいが、周囲の生徒たちにはその声は聞こえない。ただ、水着姿の男子生徒が、頭の上に奇妙なひよこ型のロボット玩具を乗せてじっと座っているという絵面は、客観的に見て不気味以外の何物でもないだろう。

 

 楽しげな輪を作るクラスメイトたちの間から、オレを「変な奴」として遠巻きに眺める冷ややかな視線がいくつか突き刺さってくるのが分かった。

 

「相変わらず、奇妙な趣味を持っているのね」

 

 不意に、横から涼やかな声が掛けられた。

 

 堀北鈴音が、オレの隣へと歩み寄ってきた。学校指定の競泳水着に身を包んだ彼女の立ち姿は、無駄のない洗練された美しさを感じさせる。

 

 だが、その切れ長の瞳が向いているのはオレの頭の上の玩具ではなく、プールの中で騒ぎ立てている池たちの姿だった。

 

「……気が遠くなるほどの愚かしさね」

 

 堀北はそのまま、隣に座り、冷徹極まりない蔑みの目をクラスメイトたちへと向けた。その言葉の温度は、春先のプールサイドの空気よりも遥かに冷たい。

 

「よくもまあ、あんな風に呑気にじゃれ合っていられるものだわ。危機感という概念が、彼らの脳には最初から備わっていないのかしら」

 

「相変わらずツンツンしてるのね。人間さん、女の子はツンツンするよりも可愛い方がいいって教えてあげるのよ!」

 

 頭の上で羽をバタつかせるヒュロポスを意識の外へ追いやりながら、オレは堀北の横顔を見つめる。

 

 彼女の言うことは一見、正論だ。だが、人間という生き物はそこまで強固にできてはいない。受け入れがたい現実の痛みを和らげるために、まずは他愛のない雑談や騒ぎで精神のバランスを取ろうとするのは、ある種の生存本能でもある。

 

 堀北とそんな会話を交わしている最中――オレは、プールサイドを流れる空気の中に、先ほどまでの「奇妙な人間を見る目」とは明らかに異なる性質の『視線』が交じっていることに気がついた。

 

 それは、パニックから気を紛らわせようとしている周囲の面々とは違う。鋭い疑念、あるいは底知れない何かを探るような、いくつかの強い猜疑を孕んだ眼差し。

 

 視線の発信源へと意識を割かなくても、それが誰の、どういった感情から来るものかは容易に推測できた。

 

 ケヤキモールのカフェでオレが口にした言葉――『来月も同じように十万ポイントが貰えるかどうかを、酷く怪しんでいる』『監視カメラは、授業風景、私語、遅刻、態度のすべてを評価に直結させている』。

 

 あの場に居合わせ、オレの言葉を聞いていた者たちにしてみれば、今の状況は偶然の合致にしては整合性が高すぎる。知っていたのではないか、という疑念が、彼らの精神の奥底で不気味な澱みとなって膨れ上がっているのだろう。

 

 だが、オレは周囲から向けられるその視線に気づいても態度にはおくびにも出さなかった。

 

 オレは頭の上のヒュロポスをそっと手で押さえ、堀北の蔑みに対して、どこまでも平凡で、ありきたりな解答を口にした。

 

「……まあ、人間、現実逃避も時には必要なんだろ。それに、急に勉強しろと言われても、何から手を付ければいいか分からないのが普通じゃないか?」

 

「それ、すっごくよく分かるかも!」

 

 オレのありきたりな解答に被せるようにして、プールサイドに弾んだ声が響いた。

 

 振り返ると、そこには櫛田桔梗が、人当たりの良い笑みを浮かべて立っていた。その後ろには、松下と王の姿もある。

 

「あ、ごめんね? 二人の深刻そうなお話、邪魔しちゃったかな。でも、みんな次のテストのことですごく不安そうにしてるから、堀北さんや綾小路くんはどう考えてるのかなって、ちょっと気になっちゃって……。ね、あたしたちも混ぜてもらってもいい?」

 

 櫛田は小首を傾げ、いかにもクラスの心配をしているといった風に堀北へ視線を送る。

 

 堀北はわずかに眉をひそめ、少し考えるような素振りを見せた。一匹狼を気取る彼女の性格なら切り捨てる可能性もあったが、何故かオレを見つめたあとに。

 

「……いいわ。邪魔だなんて思わないから、好きに話してなさい」

 

 冷淡ながらも了承を口にした。櫛田は「そっか……ありがとう!」と嬉しそうに顔を輝かせ、その場に屈み込んだ。

 

「それでね、堀北さん。やっぱり気になるのは、これからの『クラスポイント』のことなの。どうすればポイントを戻せるのかなって。何か気づいたこととか、対策とかあったりする?」

 

 直球の質問だった。堀北は一度オレを鋭く一瞥してから、ホワイトボードに書かれていた数値を思い描くように腕を組んだ。

 

「私としては、綾小路くん、あなたがどう考えているのか聞きたいわね」

 

 堀北の言葉で堀北と櫛田。連れられてきた松下や王の目が、じっとオレの顔を観察するように見つめてきている。やはり、数日前のカフェでのオレの警告が、彼女の中で強烈なリアリティを持って蘇っているらしい。

 

 そして櫛田が松下や王といった生徒を連れてきたのにも理由があるのだろう。

 

 松下千秋はDクラスの中でも高い知性を持っている。特にあのバレットの翌日から実力をある程度公開してきた彼女は交友関係に変化があったようだ。

 

 初めこそ、佐藤や軽井沢といった面々と交流していたがパレットの出来事以降は比較的、成績の良い生徒たちと交流を重ねていた。そして王美雨はDクラスの中でも上位に位置する成績を誇っている。

 

 不良品と呼ばれているが全員が成績が悪いわけではない。全体的には悪い生徒が多いが上位の成績を持つ生徒達は高校一年生という括りの中でもトップクラスであろう学力を誇っている。

 

 特に幸村、堀北、高円寺といった面々は高校一年生という枠を超えている。そして追随する王美雨という生徒もまた非常に学力に優れていた。

 

 勿論、学力という単体で物事を判断するのならここに揃う女子生徒達はDクラスではなかったのだろうが。

 

「綾小路くんはどう思う? 今回のこと、何か思うところがあるんじゃない?」

 

 松下が探るような声音で、さりげなくオレに話を振ってきた。

 

 オレはのらりくらりと視線を外しながら、あらかじめ用意しておいた他愛もない答えを口にした。

 

「……いや、オレにそんな大層な考えなんてない。これからは遅刻をしないように気をつけるとか、授業中に端末を触らないで真面目に受けるとか……。まあ、そうやって地道に生活態度を改めていくしかないんじゃないか?」

 

 どこまでも無難で、教科書通りのつまらない解答。

 

 松下は少しだけ不満そうに目を細めたが、オレの表情からそれ以上の情報を読み取ることはできなかったようで、小さく息を吐いた。

 

 すると、それまで櫛田の後ろで大人しく会話を聞いていた王美雨が、不意にオレの頭の上を指差した。その大きな瞳が、驚きと興味に丸くなっている。

 

「あの……綾小路くん。前からずっと気になっていたのですが、その、あなたの頭の上にのっている鳥のようなものは……一体何ですか?」

 

 王が、ついにヒュロポスの存在に真正面から言及した。

 

 周囲の生徒からも遠巻きに見られていた玩具だ。朝のパニックを経験し、少しでも日常の謎に気をそらしたくなった彼女が、このタイミングで質問してきたのは自然な流れと言える。

 

 オレは頭の上のヒュロポスをそっと手で掴み、目の前に下ろしながら、少し考えるフリをしてから呟いた。

 

「ああ、これか。……最新のAIを搭載した、ペット型のロボットだ」

 

「はあああッ!? ちょっと人間さん、何を勝手にロボット扱してくれるのよ!? あたしは世界一神聖でプリティーな女の子でしょ!」

 

 ヒュロポスが猛烈に憤慨し、発狂せんばかり騒ぐが、オレは完全にそれを無視して淡々と言葉を続ける。

 

「常にこうして一緒に持ち歩くことで、周囲の環境や人間の行動パターン、言語なんかをリアルタイムで学習させている最中なんだ。だから、ちょっと変わった動きをすることがある」

 

「最新のAIロボット……! そうなんですか!」

 

 オレの即興のデタラメに、王は疑うどころか、純粋に感動したように両手を頬に当てた。

 

「すごいです! 日本のテクノロジーは、高校生がそんな素晴らしいロボットを連れ歩けるほど進化しているのですね。あの、少しだけ、お話ししかけてみても良いでしょうか……?」

 

 王は無邪気な笑みを浮かべ、しゃがみ込んでヒュロポスの顔を覗き込んできた。

 

「ふえ……っ? むむむむむっ、しょうがないから付き合ってあげるのよ……このちっちゃな人間さんはツンツンさんと違って良い子そうだし」

 

 どうやら純粋無垢な王の態度はヒュロポスの琴線に触れたらしい。頭の上から器用に肩の上に降りて王の前に降り立つ。そして王はかがみ込んで視線を合わせる。

 

「ロボットさん、こんにちは。私の言葉が分かりますか?」

 

 優しく話しかけると、ヒュロポスは『ロボットのフリ』を開始した。

 

 チピッ、ピピッ、と、いかにも機械らしい電子音を自ら再現するように鳴らすと、短い右羽をキュッ、キュッとぎこちない動作で上へと掲げてみせる。

 

「わあ! 手を挙げてくれました!」

 

「……本当に、よくできているのね」

 

 隣でその様子を見ていた堀北が、冷ややかな、しかしどこか観察するような視線をヒュロポスへと注ぐ。

 

 そんな堀北の鋭い視線に冷や汗をかいたのか、ヒュロポスはさらに機械的な動きをエスカレートさせ、プールサイドの滑りやすい床の上で、ピピッ、ピピッと音を鳴らしながら、その場でくるりと綺麗なターンを決めてみせた。

 

「すごい! 回りました! とっても可愛いです!」

 

 王はパチパチと嬉しそうに拍手を送り、櫛田も「本当だ、可愛いねー」と笑顔でそれに合わせる。

 

 頭を抱えたくなるような茶番だったが、結果として、クラスの重苦しい空気や、松下たちから向けられていたオレへの猜疑心は、このひよこ型ロボットのコミカルな動きによって、一時的に綺麗に霧散していった。

 

 オレは、ターンを終えてドヤ顔で佇むヒュロポスを再び拾い上げ、肩の上へと戻した。

 

「……まあ、まだ学習中だから、できるのはこれくらいだけどな」

 

 オレはそう言って、再びプールの中で騒ぎ続ける池たちの不毛な喧騒へと視線を戻した。

 

 そんなオレたちのささやかな茶番を遮るように、プールサイドの喧騒の中心から、ひときわよく通る真摯な声が響き渡った。

 

「みんな、ちょっといいかな。――少し、真面目な話をさせてほしい」

 

 声をあげたのは平田洋介だった。彼はプールサイドの中央へと歩み出ると、水の中にいる池たちや、散らばって座っていた生徒たちを真剣な眼差しで見つめ、呼び集めるように両手を広げた。

 

 クラスの誰もが信頼を寄せる平田の言葉だ。浮ついた現実逃避に興じていた生徒たちも、その引き締まった声音に促されるように、次第に平田の周囲へと集まり始める。

 

「朝、茶柱先生から言われたことは、みんなにとってもすごくショックだったと思う。僕だってまだ混乱している。でも、事実を受け止めなきゃいけないんだ。……当たり前だけど、僕たちは今後もずっと、0ポイントのままで過ごすわけにはいかない」

 

 平田の言葉に、集まった生徒たちの間に肯定の波が広がっていく。

 

「……そうだよね。今月だけならまだしも、ずっと0とかマジで死んじゃうよ」

「服も買えないし、学食のまともなご飯も食べられないなんて絶対嫌!」

 

 あちこちから漏れる悲痛な賛同の声を受け、平田は深く頷き、さらに言葉を重ねた。

 

「うん。だからこそ、来月からはポイントを必ず獲得しなきゃならない。生活態度を改めるのはもちろんだけど、まずは再来週の中間テスト。あれをクラス全員で、誰一人欠けることなく乗り切るための方法を、みんなで協力して考えよう」

 

 クラスを一つにまとめ、崩壊を防ごうとする平田の必死の提案。それはクラスのリーダーとして、これ以上ないほどに正しく、そして真っ当な救いの手だった。

 

 だが――誰もがその言葉に縋ろうとした瞬間、水を激しく跳ね上げる音がその意思を拒絶した。

 

「ケッ、協力だぁ? ふざけんじゃねえよ」

 

 プールから這い上がってきたのは、須藤健だった。

 濡れた赤髪を乱暴にかきむしりながら、彼は平田を遮るようにして、その巨躯から威圧的なオーラを放ちながら歩み寄ってくる。

 

「お前らが裏で何をするのも勝手だがよ、俺を巻き込むんじゃねえ。点数だのポイントだの、そんなくだらねえことでガタガタ騒ぐ暇はねえんだよ」

 

「待ってよ須藤くん! これは君だけの問題じゃないんだ。もし誰か一人でも赤点を取ったら、その時点で――」

 

「あぁ? 俺が赤点を取るって言いたいのかよ平田。うっとうしいんだよ、お前」

 

 平田の必死の説得を、須藤は獰猛な一瞥だけで叩き潰した。そしてプールサイドに置かれていた備え付けのタオルを乱暴に引っ掴むと、授業中であるにもかかわらず、そのまま大きな足音を響かせて更衣室の方へと去っていった。

 

 残されたプールサイドには、最悪な形で水を差された不快感と、須藤に対する強烈な『反感』が急速に募り、淀みとなって広がっていく。

 

「な、なんだよあいつ……。一番危ないの自分だって分かってんのかよ」

「感じ悪……。みんなで頑張ろうって言ってるのにさ」

 

 口々に吐き捨てられる陰口。クラスという共同体の足並みが、最初の第一歩で完全に瓦解した瞬間だった。

 

 オレはその一部始終を静かに眺めていた。

 

 肩の上にいたヒュロポスがオレの首の後ろの髪の隙間へと滑り込むようにして姿を隠した。

 

「ひ、ひえぇぇ……! あのおっきい人間さん、本当に怖いのよー、乱暴者よ、乱暴者……」

 

 脳内で騒ぐ相棒の情けない声に呆れてしまう。須藤よりも遥かに恐ろしい化け物を対峙した者の発言ではない。不意に、オレの水着の裾がキュッと控えめに引っ張られる感覚があった。

 

 見ると、なぜか王が、ヒュロポスと全く同じようにオレの背後へと回り込み、小刻みに身を震わせながらオレの背中に隠れるようにして身を寄せていた。須藤の怒声と、クラスに満ちた険悪な空気に本能的な恐怖を覚えたのだろう。

 

 オレは背中に触れる女子の微かな体温と柔らかい感触に一瞬だけ意識を向けたが、何故よりにもよって何の関係もないオレの後ろに隠れたのかという疑問は、内心の底へ放り込んでおくことにする。

 

 そんなオレたちの様子を気にする余裕もなく、隣に座る堀北は、去っていく須藤の背中をその切れ長の瞳で射抜いていた。その瞳の奥にあるのは、心底からの蔑みだ。

 

「……自分の置かれている状況すら客観視できないなんて、本当に救いようのない不良品ね。関わるだけ時間の無駄という言葉がこれほど似合う人間も珍しいわ」

 

 その容赦のない言葉に合わせるように、少し離れた場所にいた松下もまた、冷ややかな視線を更衣室の扉へと送っている。彼女の端正な顔立ちにも、須藤のあまりにも幼稚で利己的な態度に対する、深い呆れが隠しようもなく浮かんでいる。

 

 誰もが言葉を失い、平田が困り果てたように立ち尽くす中。

 

 櫛田桔梗だけは、どうにかこの最悪なクラスの空気を修復したいのか、あるいは別の意図があるのか、困ったような、痛々しい笑顔を浮かべながらオレの方へと向き直った。

 

「ねえ、綾小路くん……須藤くん、行っちゃったね……。このままだと、本当にクラスがバラバラになっちゃう気がするの。……ねえ、これ、なんとかならないかな?」

 

 潤んだ瞳で、縋るようにオレを見つめてくる櫛田。

 

 クラスのアイドルからのそんな無茶な懇願を受け、オレはほんの少しだけ視線を泳がせた後――躊躇もなく、あっさりと首を横に振った。

 

「……いや、オレには無理だ。あんな怖そうな奴を説得できる度胸なんて、最初から持ち合わせてないよ」

 

 オレのどこまでも平坦で無責任な解答に、櫛田はそれ以上言葉を重ねることもできず、「そっか、そうだよね……」と力なく微笑む。

 

 その微笑みは果たして本当にDクラスの行方を案じたものなのか、オレにはまだ判断がつかなかった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 水泳の授業が終わり、制服に着替えて迎えた昼休み。

 

 いつもなら弁当を広げる声や学食へ向かう足音で活気づくはずの教室は、どん底のような暗い焦燥感に包まれていた。

 

「なぁ、これマジで買ってくれって! 二万ポイントでいいからさ!」

「ねぇ、あたし今月厳しくってさ……少しでいいからポイント貸してくんない?」

 

 プライベートポイントが一夜にして消滅し、今月の生活費が完全に文字通りの『0』となった生徒たちは、手持ちのゲーム機を売りつけようとしたり、少しでも余裕のある者から借りようと躍起になっていた。与えられた楽園を失った家畜たちが、狭い檻の中で互いの肉を貪り合おうとしているかのような、醜く哀れな光景。

 

 オレは自分の席に座ったまま、救いようのない狂騒から視線を外し、窓の外の景色へと意識を逃がしていた。そんなオレの机の前に、不意に一つの影が落ちた。

 

「綾小路くん。少し付き合いなさい」

 

 見上げると、そこには制服を完璧に着こなした堀北鈴音が立っていた。その切れ長の瞳は、いつも通りの冷徹さを保っているが、どこか明確な意思を孕んでオレを見下ろしている。

 

「付き合うって……どこにだよ」

 

「決まっているでしょう、昼食よ。食堂へ行くわ」

 

 唐突すぎる誘いだった。普段の彼女なら、オレのような人間に自ら声をかけるなど天地がひっくり返ってもあり得ない。オレは即座に面倒な予感を察知し、のらりくらりと視線を泳がせた。

 

「いや、オレはここで適当に済ませるから結構だ。一人で優雅に食べた方が、お互いの性分にも合っているだろ」

 

「断る権利があなたにあると思っているのかしら?」

 

 堀北はわずかに声を潜めると、一歩、オレの机へと身を乗り出してきた。その瞳の奥に、鋭い光が宿る。

 

「忘れたとは言わせないわよ。数日前、ケヤキモールのカフェで櫛田さんと一緒に鉢合わせるよう仕組んだことを」

 

 オレの首の後ろから、ヒュロポスがピピッ、と小さな、怯えたような思念を送ってくる。

 

「に、人間さん、ツンツンさんが完全に獲物を狙う蛇の目になってるのね……!」

 

「私をはめたのは事実なのだから、今度はあなたが私の話に付き合うべきよ」

 

 理不尽な強弁であるが、今後もこれをネタに絡まれるのもめんどうだ。ここは一回付き合うことで水に流してもらうとしよう。

 

「……分かったよ。行けばいいんだろ」

 

 オレが小さくため息をついて立ち上がると、堀北は満足したように小さく鼻を鳴らし、踵を返して歩き出した。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 一階の学生食堂は、朝の騒動の影響もあってか、どこかどんよりとした空気が漂っていた。ポイントを失った多くの生徒たちが、無料の『山菜定食』の窓口に並び、お通夜のような顔で箸を動かしている。

 

「私が奢るわ。好きなものを頼みなさい」

 

 券売機の前で、堀北は当然のように手元の端末を構え、頑なにオレの分の支払いを引き受けようとしてきた。先月分を無駄遣いしていなかった彼女のポイントには、まだ十分な余裕があるのだろう。

 

 だが、ここで彼女に借りのようなものを作るのは、後々の面倒の種にしかならない。

 

「いや、結構だ。オレも今日はその無料の山菜定食ってやつを試してみたかったんだ。それに、女子に奢らせる趣味はない」

 

 堀北の鋭い視線をさらりとかわし、オレは無料の定食を受け取って、食堂の隅にある比較的静かな卓へと移動した。堀北もまた、自身の分を手にオレの対面に腰を下ろす。

 

 周囲の喧騒から少し離れた席で、互いに黙々と箸を進める。

 

 しばらくの沈黙の後、堀北は湯呑みを静かに置くと、本題を切り出してきた。

 

「単刀直入に言うわ。再来週の中間テストのことよ。さっき、平田くんが勉強会を開催すると提案したけれど、あの成績下位の三人――須藤くん、池くん、山内くんは、それを拒絶して去って行ったわ」

 

「ああ、見ていたよ。須藤は特に荒れていたな」

 

「あのままでは、彼らが赤点を取って退学になるのは確実よ。それは私の目的――Aクラスへの昇格において、致命的な足枷になる。平田くんの生ぬるいやり方では、あのプライドばかり高い不良品たちをコントロールすることはできないわ」

 

 堀北はまっすぐにオレを見つめ、冷徹なトーンのまま言葉を続けた。オレは聞き間違えかと思い「Aクラス? Cクラスじゃなくてか?」と問う。

 

 その言葉に堀北は頷く。

 

「私は自分がDクラスということに納得していない。けれどそう判断されたというのならそれを覆さなければならない。私は必ずAクラスまで昇りつめてみせるわ」

 

 その強い決心にオレは山菜を口へ運びながら他人事のように聞き流した。

 

「だから、私が彼らのための特別な勉強会を開くわ。……あなたには、その勉強会に、あの三人を受けさせるために連れてきてもらいたいの」

 

「……おいおい、ちょっと待て」

 

 オレは山菜を口に運ぶ手を止め、眉をひそめた。

 

「なぜオレがそんな役目をしなきゃいけないんだ。オレは須藤たちとそれほど親しいわけじゃないし、第一、奴らを説得するなんてめんどくさすぎる。断る」

 

「あら、綾小路くん、そんなに冷たいこと言わなくてもいいじゃない」

 

 不意に、オレのすぐ背後から軽やかな声が掛けられた。

 

 視線を向けると、背後には、松下と王がちょこんとトレイを持って立っていた。

 

「松下……それに王まで」

 

「さっき、二人が深刻そうな顔して食堂に入っていくのが見えたから、気になってついてきちゃった」

 

 松下はいたずらっぽく微笑みながら、オレと堀北の顔を交互に眺める。

 

「綾小路くん。クラスのピンチだから、みんなで協力しませんか? みんなで説得すれば、須藤くんたちも少しは聞く耳を持つかもしれないよ」

 

 王が大きな瞳を純粋に輝かせながら、一生懸命にオレを説得しようとしてくる。

 

 その瞬間、オレの肩の上で、それまで息を潜めていたヒュロポスが、猛烈な勢いで羽を羽ばたかせ始めた。当然、その声はオレの脳内にしか届かない。

 

「ちょっと人間さん!  何を渋っているのよ!  みんなで協力!

とっても素敵なの! こんなに一生懸命お願いしてくれているの!  みんなで頑張るのよ、人間さん! ファイトオーなの!」

 

 王の純粋無垢な態度が、どうやらこのロボット鳥の琴線に完全に触れてしまったらしい。騒ぎ立てる鳥と、女子二人の無言の圧力、そして一人の懇願に挟まれ、オレはこれ以上抵抗する気力を失った。

 

「……はぁ。分かったよ、声をかけるだけならやってみる。ただ、あいつらが本当に来るかどうかは保証できないからな」

 

「それで十分よ。感謝するわ、綾小路くん」

 

 堀北は小さく頷いたが、その直後、彼女の視線はオレの隣に座る松下と王へと向けられた。その瞳には、隠しきれない深い不審が宿っている。

 

「……ところで、あなたたち。なぜそこまでするの?  私はあなたたちに協力を仰いだ覚えはないわ」

 

 一匹狼である堀北にしてみれば、自分に自発的に協力しようとする他者の存在など、不気味でしかないのだろう。

 

 その直球の問いに対し、松下はふっと、それまでの仮面を剥ぎ取るように、冷徹で理知的な笑みを唇の端に刻んだ。

 

「今のDクラスの空気、客観的に見ても最悪でしょ?  このまま足を引っ張り合って退学にでもなったら、クラスポイントを戻すことすらできなくなる。……それにね、打算を隠さずに言うなら、堀北さんや綾小路くんが本気を出して協力してくれれば、少しはポイントが戻ってくる可能性を感じたから」

 

「わ、私は綾小路くんなら何とか出来るんじゃないかなって思って」

 

 王もまた、いつもの内気な様子とは裏腹に、強い光を宿した目で堀北を見つめ返した。

 

「あの日、カフェで堀北さん達が話しているのを聞いていたんです。私たちは他のクラスの人たちにも伝えるべきでした……でも、何人かにはそれとなく伝えたけど、聞く耳持ってもらえなくて。人間関係を壊したくなくて強く注意することをしませんでした。もっと平田くんや軽井沢さんに相談してみたら変わってたかもしれないのに……」

 

「あー、それ言っちゃうんだ……。まぁ、あたしなんかはあからさまに態度変えたからさ。波風立てたくなくて、それとなく距離取ったから軽井沢さんたちには伝えなかったけど、やっぱ少しは罪悪感あるよ」

 

 後悔するかのように呟く王。

 

 彼女たちの言葉を、オレは深い観察の目で捉えていた。

 

 ……変わったな、二人とも。

 

 松下千秋と王美雨。入学当初の彼女たちは、クラスのその他大勢に埋もれる、目立たない存在に過ぎなかった。特に松下は、自分の高い知性や能力を周囲に合わせて隠し、ただの凡庸なモブとして振る舞っていたはずだ。王もまた、これほど明確に自分の意思を他者に突きつけるような性格ではなかった。

 

 けれども自分に出来る範囲のことを行おうとしている。

 

 なぜ、彼女たちはこれほど急速に『変化』したのか。

 

 オレの思考は、自然と学校の地下に広がる異世界――『フォーラム』での出来事へと行き着いた。

 

 彼女たちの脳内から恐怖や焦燥のノイズが消え去り、自らの弱さや防衛機制を乗り越えて、人間的に成長しているのではないだろうか。

 

 シャドウの討伐によるストレスの解放は、単なるストレスの消失、行動の変化、楽観視だけではなく――人間が抑圧していた本来の能力、その『ポテンシャル』を良い方向へ覚醒・解放する側面を持ち合わせているのではないか。

 

 もしその推測が正しいとするならば。

 

 この学校の敷く冷徹なルールに抗うための力、その本当の『実力』の芽が、オレの預かり知らぬところで、クラスの土壌へと蒔かれ始めているということだ。 

 

 その眩しいとも言える変化に――堀北は目をそらす。

 

 二人の明確な協力関係の提示に、しばらく沈黙していた堀北だったが、やがてその切れ長の瞳をさらに険しく細め、冷淡な声音で言い放った。

 

「気持ちは受け取っておくわ。でも、結構よ。これは私の問題であり、あの三人を説得する役目は、そこの綾小路くんに任せることになっているから。部外者のあなたたちを巻き込む必要性を感じないわ」

 

 明確な拒絶。一匹狼としてのプライド、そして何より他者を簡単には信用しない彼女の猜疑心が、松下たちの申し出を弾き出した。

 

 しかし、松下は気分を害した様子もなく、ただ肩をすくめてクスリと笑った。

 

「そう。無理強いするつもりはないから。でも、手伝えることがあれば何でも言って。私たちは、私たちの利益のためにいつでも動く準備があるから」

 

「いつでも声をかけてください」

 

 王もまた、大人びた笑みを浮かべて頷く。二人はそれぞれのトレイを持つと、それ以上は引き下がることもなく、静かに別の席へと移動していった。

 

 遠ざかる二人の背中を見送りながら、オレは無料の山菜を口に運び、対面の少女へ視線を向けた。

 

「……よかったのか? せっかくの協力者だったのかもしれないぞ」

 

「問題ないわ。元より、他人の善意や力をあてにするつもりはないもの。それに――」

 

 堀北はそこで言葉を区切り、湯呑みを見つめた。その表情は、先ほどまでの毅然とした態度とは裏腹に、どこか暗く、言い知れぬ焦燥の影が張り付いているように見えた。

 

「あなたがちゃんと仕事をすれば、それで済む話でしょう? あの三人を勉強会へ連れてくるという仕事をね」

 

「言うのは簡単だがな……」

 

 オレは小さくため息を吐き、残りの汁物を飲み干す。

 

「やるだけはやってみるが、期待はしないでくれ」

 

 オレのどこまでも無責任な呟きを最後に、重苦しいお昼の時間は終わりを迎えた。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 放課後、すべての授業が終わり、説得を試みて――寮の自室へと帰ってきたオレは、ベッドの上に大の字になって天井を見上げていた。

 

「うーん! やっぱり人間さんの部屋のベッドは落ち着くのよねー!」

 

 鞄から這い出してきたヒュロポスが、オレの腹の上で短い羽をパタパタと動かしながら我が物顔でくつろいでいる。

 

「落ち着くのは勝手だが、少し静かにしてくれ。これからのことを考えると、頭が痛いんだ」

 

「あー、あのわからず屋三銃士のことね? まぁ、確かにあれはぜんぜんだめだったわねー。あたしの美少女っぷりをもってしても、あの男たちの分からず屋っぷりにはお手上げだったのよ! なーにがブサイク鳥よ! まったく見る目が無いのよね! プンプンプン!」

 

 ヒュロポスの言う通り、結果は芳しくない。

 

 放課後、オレは堀北との約束通り、まずは池と山内の二人に声をかけた。だが、二人はポイントが0になったショックからの金策をするのに忙しく、「勉強? そんなのやってる暇ねぇって!」「それよりどうやってゲーム買うかの方が大事だし!」と、聞く耳を持たずにあしらわれた。

 

 さらに最悪だったのは須藤だ。体育館の裏で一人、バスケットボールを乱暴に壁にぶつけていた彼に声をかけた瞬間、獣のような鋭い眼光で睨みつけられた。

 

『あぁ!? うっとうしいんだよ! ぶっさいくな鳥を連れた変人がよぉ!』

 

 キレ散らかしながら激しく怒号を浴びせられ、説得の余地すら与えられずに断られた。

 

「……さて、どうしたものか」

 

 オレは腹の上のヒュロポスを脇へどかし、上体を起こしてスマートフォンを取り出す。

 

 この無様な結果をそのまま堀北に伝えれば、またあの女の冷徹な毒舌が始まるのは目に見えている。それは非常にめんどくさい。

 

 何か別のルートを探るべきか。オレは連絡先の画面を開いた。

 

 画面に表示されているのは『四つの連絡先』だけ。

 

 今日だけで倍に増えたと思えば喜ばしいことである。一つは堀北鈴音。もう一つは櫛田桔梗。そして新たに増えた松下千秋の文字と王美雨の文字。

 

 オレは五十音順で一番上にあるその名前に視線を止め、少しだけ指を動かした。

 

 クラスの誰もから好かれ、あの狂暴な須藤や、池、山内とも良好な関係を築いているクラスのアイドル。彼女の持つ強大な影響力なら、頑なな三人の心を動かせるかもしれない。

 

 オレは躊躇することなく、櫛田のメッセージへと文字を打ち込んだ。

 

『綾小路だ。急にすまない。実は、堀北が中間テストに向けて勉強会を開こうとしているんだが、須藤、池、山内の三人が拒絶していて困っている。もしよければ、櫛田から三人を勉強会に誘ってみてはもらえないだろうか』

 

 送信ボタンを押してから、わずか数十秒。

 

 驚くほどの速度で、画面に『既読』の文字がつき、すぐに返信が返ってきた。

 

『綾小路くん、連絡ありがとう! ううん、全然大丈夫だよ! 私も、須藤くんたちのことはすごく心配だったんだ。みんなで一緒に頑張りたいもんね。私から三人に上手く話してみるね!』

 

 こちらの意図を瞬時に汲み取り、快く了承する完璧な優等生の対応。だが、メッセージはそれで終わりではなかった。すぐに次の吹き出しがポップアップする。

 

『それでね、ちょっと相談なんだけど……代わりに、私もその勉強会に参加させてもらってもいいかな? 私もみんなと一緒に勉強したいし、もし須藤くんたちが不安そうにしてたら、私が間に入った方がスムーズにいくと思うんだ! 堀北さんには、綾小路くんから伝えておいてくれると嬉しいな』

 

 なるほど。単なる親切心ではなく、未だ諦めていない目標に渡りに船だったわけか。だが、その条件はオレにとっても都合が良い。

 

『分かった。堀北にはオレから伝えておく。よろしく頼む』

 

 櫛田とのやり取りを終え、オレはすぐに次の連絡先――堀北鈴音へと通話を繋げた。

 

 数回のコールの後、端末の向こうから、不機嫌さを隠そうともしない冷たい声が響く。

 

『何かしら、綾小路くん。まさか、もう泣き言を言いにきたわけではないでしょうね』

 

「いや、三人の件だ。オレ単独での説得は失敗した。あいつら、聞く耳を持たなかったよ」

 

『……私が聞きたいのは成功したという結果だけよ、成功してから連絡を――』

 

「待て、話はまだ終わってない。オレの代わりに、櫛田が間に入って三人を受け入れさせるよう動いてくれることになった」

 

 その言葉に、電話の向こうの堀北が一瞬だけ息を呑む気配がした。

 

『櫛田さんが……? なぜ彼女がそんなことを』

 

「クラスの仲間を放っておけないんだろ。ただ、条件がある。三人を連れてくる代わりに、櫛田本人もその勉強会に参加したいと言っている」

 

『嫌よ』

 

 堀北は即座に、冷酷な拒絶を突きつけてきた。

 

『私はあの三人の退学を防ぐために勉強会を開くのよ。すでに成績がまともな櫛田さんを同席させる意味がないわ。それに、彼女のあの誰にでも良い顔をする態度が、勉強の場に馴れ合いを持ち込むのは目に見えている』

 

「そう言うな。櫛田が来なければ、そもそも須藤たちは一歩も動かないぞ。退学者を出したくないなら、ここは妥協するべきだ」

 

『……っ』

 

 正論による逃げ道の遮断。堀北は悔しげに沈黙し、しばらくの間、受話器の向こうから微かな衣擦れの音だけが聞こえていた。

 

 やがて、心底不本意そうに、ギリ、と歯を噛み締めるような音が響く。

 

『……分かったわ。渋々だけれど、一回だけは認める。ただし、少しでも勉強の邪魔になるようなら、その時は即座に追い出させてもらうから』

 

「ああ、それでいい。ありがとうな」

 

 冷たく切られた通話画面を見つめながら、オレはふっと息を吐き出した。

 

「これで勉強会を始めることが出来るわね、人間さん。そういえば人間さんが勉強してるとこ見たことないけれど勉強しなくて大丈夫なの?」

 

「今日はパレットの内装を目指してシャドウを狩るか」

 

「はぅあ! 人間さん、誤魔化したの! まずは勉強! 勉強なのよ! 確かに復興部は大事だけれど人間さんが居なくなったら元も子もないのね!」

 

 オレはその言葉を無視して出かける準備を始める。櫛田桔梗という強力な潤滑油、そして堀北の妥協。

 

 Dクラスの崩壊を食い止めるための、最初の特別試験の準備が整いはじめた。

 

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