Persona x Classroom of the Elite   作:仔羊肉

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「ふざけんじゃねえッ!」

 

 激しい怒号が、放課後の図書館の本棚へとぶつかり、歪に反響した。机を猛烈な勢いで叩きつけ、椅子を蹴り飛ばすようにして立ち上がったのは須藤健。その獰猛な赤髪を逆立て、血走った眼光で目の前の少女を睨みつけている。

 

「お前、さっきから何様なんだよ! 点数が悪ぃだの、基礎がなってねぇだの、いちいち上から目線でガタガタとよぉ! 俺はお前の説得じゃなく、櫛田に頼まれたから来てやったんだ。なんでこんなクソ面白くもねぇ勉強会で、てめぇに説教されなきゃなんねえんだよ!」

 

 須藤の凄まじい剣幕に対しても、机を挟んで対面に座る堀北鈴音は、眉一つ動かさなかった。それどころか、手元に広げた参考書から視線すら外さず、ページをめくる指先は冷徹なほどに安定している。

 

「感情を言葉の暴力に変換して喚き散らす暇があるなら、その足りない頭の容積を少しでも数式で埋めたらどうかしら。私は事実を指摘しているだけよ。あなたの叩き出した小テストの点数は、お世辞にも高校生のものとは思えない。バスケのプロだのなんだのと幼稚な夢を見る前に現状を理解したらどうなの?」

 

「……んだと、てめぇ……ッ!」

 

「やる気がないのなら、今すぐ出て行って頂戴。義務教育はとっくに終わっているわ。自制心のない人間に付き合うほど、私の時間は安っぽくないのよ」

 

 一切の妥協も、歩み寄りもない、刃物のように鋭利な拒絶。これ以上ないほど傲慢に切り捨てられた須藤は、屈辱に顔を真っ赤に染め上げると、「ああ、そうかい! やってられるかよ、クソアマ!」と吐き捨て、カバンを乱暴に引っ掴んでは荒々しく去っていった。

 

 重苦しい静寂が部屋に満ちる。その険悪な空気に耐えかねたように、隣に座っていた池と山内もまた、そそくさと立ち上がった。

 

「……いや、なんか俺たちも、堀北さんのやり方にはついていけないっていうかさ」

「そうそう、ポイントなくて大変な時に、こんなキツい勉強会とかマジ勘弁だわ」

 

 二人は言い訳を並べながら、須藤の後を追うように部屋を飛び出していく。最初の第一歩で、堀北の開催した勉強会は完全に瓦解したのだ。

 

「……堀北さん、流石に今の言い方は少し酷いと思うな」

 

 残された教室内で、それまで困惑したように推移を見守っていた櫛田桔梗が、そっと堀北へと歩み寄った。その愛らしい顔立ちに痛々しい心配の笑みを浮かべ、宥めるように声をかける。

 

「須藤くんたちだって、ポイントが0になったり、退学がかかったりしててすごく焦ってるんだよ? もう少し優しく、言い方を変えてあげれば、みんなもきっと分かってくれたと思うんだ。ねえ、今からでも私が追いかけて、もう一度──」

 

「必要ない」

 

 堀北は、今度はっきりと顔を上げ、櫛田を冷酷極まりない眼光で射抜いた。その声音には、明確な不快感と嫌悪が乗っている。

 

「必要ないって言ったの。確かに私は間違っていたわ。そもそも、あんな愚かな人達に協力しようだなんて考えが間違いだった。あんな人たち、退学してくれた方がクラスの為だわ」

 

「っ……!」

 

 いつもの完璧な笑顔が、まるでガラスがひび割れるように一瞬で凍りつき、その瞳の奥に、言葉にできないほど暗く歪んだ澱のような感情が一瞬だけ明滅したのを、オレは見逃さなかった。

 

 だが、彼女はすぐに悲しげに目元を潤ませると、俯いて小さく唇を噛んだ。

 

「……ごめんね、今日は……失礼するね」

 

 消え入りそうな声で告げると、走るように教室を去っていった。

 

 誰もいなくなった教室で、オレはようやく口を開いた。

 

「……これでよかったのか?」

 

「何がかしら、綾小路くん」

 

 堀北は不機嫌そうに髪を払い、冷淡に応じる。

 

「足枷が自ら消えてくれただけよ。自分の置かれている危機すら客観視できず、他人の善意を踏みにじるような人間たち。あんな自制心のない不良品、この学校から退学になった方が、今後のDクラスのためだわ。私は間違ったことは言っていない」

 

 強固な自己正当化。他者を切り捨てることに一ミリの躊躇もない、徹底された孤高のロジック。これだけの破綻を目の当たりにしてもなお、彼女のプライドはその非を認めることを拒絶している。

 

「そうか。なら、オレも帰らせてもらう」

 

 オレは溜息を吐きながら立ち上がり、カバンを肩にかけた。その行動に、堀北の切れ長の瞳が鋭く尖る。

 

「待ちなさい。あなた、どこへ行くつもり? あなたも小テストは五十点だったでしょう、お世辞にも優秀とは言えない下位の人間。人一倍勉強しなければならない立場のはずだわ」

 

 オレは足を止め、振り返ることなく、先ほどの彼女の言葉をそのままオウム返しにして投げかけた。

 

「あいにくだが、オレには今、勉強する気がないんだ。どう考えてもオレもまた、足を引っ張る一員だろう。お前のロジックに従うなら、オレがここに残る意味はない」

 

「──っ」

 

 背後で、息を呑むような微かな音が聞こえた。

 

 振り返ると、目を見開いたまま固まっていた。その端正な顔立ちに、何故か、驚きを通り越して酷く傷ついたような、言葉にならない動揺の表情が浮かんでいる。

 

 だが、彼女は瞬時にその動揺を自らのプライドの奥へと押し込めると、キッとオレを睨みつけ、フンと激しく鼻を鳴らした。

 

「勝手にしなさい。あなたのような無気力な人間に割く時間など、最初から私にはない」

 

 彼女はそう言い放つと、取り繕うように手元の参考書へと視線を落とした。オレはそれ以上言葉を割くことなく、静かに図書館の出口へと向かった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 その日の夜。

 

 飲み物を買いに学生寮一階の玄関外にある自動販売機へと向かうことにした。

 

 肩の上には、昼間のパニックからようやく立ち直ったヒュロポスが、夜の散歩がてら暢気にちょこんと居座っている。

 

「う〜ん、夜の静かな学校って、なんだかちょっぴりロマンチックなのよね〜。人間さん、あたし喉が渇いちゃったから、とっても甘くて可愛いイチゴミルクが飲みたいのよ!」

 

 図々しい鳥である。勉強会の時にあんだけぐっすり寝ていて起きたら起きたで口喧しい。果たしてこいつは機械なのか、鳥なのか。判断に困る生態をしているものである。

 

 ささやかな会話を交わしながら、薄暗い寮の敷地内、自販機が並ぶ連絡通路の死角へと差し掛かった──まさに、その時だった。

 

「──お前がDクラスに配属された理由が、この一ヶ月でよく分かっただろう」

 

 夜の静寂を切り裂くようにして響いた、氷のように冷徹な聲音。オレは反射的に足を止め、瓦礫の影ならぬ、中庭の柱の死角へと身を潜めた。

 

 街灯の僅かな光に照らされたその場所に立っていたのは、二人の人物だった。

 

 一人は、眼鏡の奥に底知れない絶対的な威厳の眼光を宿し、非の打ち所のない佇まいで立つ男──高度育成高等学校の生徒会長。入学式の新入生歓迎挨拶で、その圧倒的な存在感を誇示していた男だ。

 

 そして、その男の前に、まるで糾弾される罪人のように立ち尽くしていたのは、他ならぬ堀北鈴音だった。

 

 ……そう言えば、あの生徒会長の名字も「堀北」だったな。

 

 入学式で見た記憶の断片が、目の前の異様な光景と合致する。名字が同じ、そしてこの尋常ではない張り詰めた空気。ただの先輩と後輩の関係ではないことを察する。

 

「私は……私は納得していません、兄さん」

 

 堀北鈴音の声は、昼間に見せていた傲慢なそれとは裏腹で、酷く震えていた。すがるような、しかし拒絶されることを恐れるような、幼い子供のような響き。

 

「私は必ず、実力でAクラスへと這い上がってみせます。そうすれば、兄さんも私のことを──」

 

「実力、だと? 笑わせるな」

 

 生徒会長──堀北学は、妹の必死の弁明を、鼻で笑うことすらなく冷酷に切り捨てた。

 

「開校以来、最初のひと月でポイントをすべて吐き出したDクラス。それがお前の籍を置くクラスの現実だ。鈴音、お前は昔から何も変わっていない。ただの虚栄心と、身の程を知らないプライドだけで自らを飾り立て、他者を見下しているに過ぎない。今のお前がAクラスに上がるなど、到底あり得ない話だ」

 

「そんな……っ! 私は、私は──!」

 

「これ以上、俺に時間を取らせるな」

 

 生徒会長の纏うオーラが、一瞬にして周囲の空気を凍らせるほどの凄まじい威圧感へと膨れ上がった。無駄のない冷徹な挙動で一歩を踏み出し、鈴音の襟元を片手で強引に掴み上げると、そのまま背後の壁へと激しく叩きつける。

 

 ドンッ! と鈍い衝撃音が夜の闇に響く。

 

「兄さ──」

 

「終わりだ、鈴音」

 

 学は冷酷な瞳のまま、鈴音の身体を完全に制圧し、そのまま容赦のない肉弾戦の技術──一本背負いに似た、身体ごと地面へと叩きつける強烈な『投げ』を打とうと、腕を引き絞った。生身の女子生徒がコンクリートの地面に叩きつけられれば、ただ事では済まない。

 

 介入すべきか──まさに、その刹那。

 

「乱暴反対! 女の子に暴力を振るうなんてサイテーサイテーサイテーなのよぉぉぉッッ!!」

 

 オレの肩の上から、ヒュロポスが、怒髪天を突く勢いで弾丸のように飛び出した。

 

 彼女は小さな両羽を限界まで羽ばたかせ、凄まじい勢いで生徒会長の顔面へと真っ直ぐに突撃していった。

 

 バチィィンッ!

 

「……むっ!?」

 

 突如として闇の中から飛来した「奇怪なプラスチック製の玩具」の体当たりを弾き落とす。

 

「ピギャーッ!? とっても酷いのよ! この美少女になんて乱暴するのよ! プンプンプンなのよー!」

 

 地面に転がりながらもなおピーピーと騒ぎ立てるヒュロポス。だが当然、堀北兄妹の耳には、その怒りの言葉は聞こえていない。ただの電子音として処理されるのだろう。

 

 だが、その一瞬の隙は、オレがその場に介入するかの判断を下すには十分すぎるほどの猶予となった。

 

「──そこにいるんだろう。出てこい、いつまで隠れているつもりだ」

 

 学は叩き落とした玩具から視線を外し、オレが潜んでいた壁の死角へと、射抜くような鋭い眼光を向けた。最初から気配を察知されていたわけではない。ヒュロポスが飛び出したベクトルの起点から、逆算してオレの座標を正確に割り出したのだ。流石は生徒会長、並の洞察力ではない。

 

「……喉が渇いたから自販機に用があっただけなんだが。邪魔をして悪かったな」

 

 オレは観念したように両手を軽く挙げ、暗闇からゆっくりと姿を現した。壁に押し付けられたままの堀北が、驚愕に目を見開いてオレを見つめる。

 

「綾小路くん……!?」

 

 学は妹を拘束していた手を静かに離すと、その視線のターゲットを完全にオレへと切り替えた。眼鏡の奥の瞳が、獲物の戦闘力を測る猛獣のように妖しく細められる。

 

「Dクラスの綾小路清隆か。入学試験、そして小テストを全て五十点に揃えているみたいだな……随分と凝った遊びだ」

 

「偶然って怖いっすね」

 

「中学生一年程度の問題を間違え、正答率三パーセント程の問題を解いておきながらそんな言い訳が通用するとでも?」

 

「偶々ですよ」

 

「そうか、あくまでしらを切るつもりか……」

 

 言葉の終わりと同時に、学の身体が爆発的な速度で踏み込んできた。制服のブレザーを翻し、空気を切り裂くような鋭い右ストレートが、オレの顔面へと一直線に突き出される。容赦のない、本気の打撃。

 

 だが──オレの身体は、驚くほど冷静に、そして驚異的な速度でその暴力に反応していた。

 

 ここ数日間、異世界『フォーラム』に何度も潜り、シャドウとの実戦を重ねてきた経験が、今の肉体の限界まで馴染み、完璧に調律されている。

 

 今のオレのコンディションは、文字通り『絶好調』だろう。

 

 オレは重心を僅かに後ろへ滑らせ、放たれた右拳を、紙一重の距離で易々と躱した。頬のすぐ横を、猛烈な風圧が通り過ぎていく。

 

「……ほう」

 

 学の目が、微かに驚きに丸くなる。だが彼は即座に体勢を切り替え、今度は鋭い左のローキックから、流れるような連続の回し蹴りへと繋げてきた。

 

 オレはその全ての軌道を、まるでスローモーションの映像を眺めるかのように冷徹に見切る。

 

 一歩、左へステップ。さらに上体を僅かに沈め、学の蹴りのインサイドへと滑り込む。そして、強烈な右の正拳突きに対し、オレは自らの左手の平を優しく添えるようにして、その破壊力のベクトルを斜め上方へと滑らかに『受け流した』。

 

 ズサァッ、と学の足元が僅かに流れ、完璧だった彼の体軸が、オレの最小限の挙動によって一瞬だけ崩された。

 

「な……っ!? 兄さんの攻撃を、すべて……」

 

 壁に背を預けている堀北が、信じられないものを見るような驚愕の悲鳴を上げた。彼女の目から見れば、敬愛している兄の猛攻を、Dクラスの目立たない凡人であるはずのオレが、すべて躱し、あしらっているように見えたはずだ。

 

 学は崩された体勢を瞬時に立て直すと、それ以上の追撃を止め、オレから大きく数歩距離を取って間合いを離した。

 

 彼は乱れたブレザーの襟元を静かに整えると、眼鏡の位置を直し、深く、重いため息を吐き出した。その瞳からは先ほどまでの獰猛な殺気が消え失せ、代わりに、底知れない何かを覗き込んだかのような、深い驚愕と値踏みするような光が宿っていた。

 

「……見事な体術だ。攻撃の軌道を完全に先読みし、最小限の力で受け流す。お前のような男が、なぜ『最底辺』のDクラスに籍を置いているのか、いささか興味が湧いてきたな」

 

「オレはただの、どこにでもいる普通の高校生ですよ。運が良かっただけだ」

 

「フン、普通の高校生が俺の本気の打撃を無傷で躱すわけがないだろう。……いいだろう、一連の流れでお前の『実力』の一端は理解した。今夜のところは、お前の顔に免じて大人しく去ることにしよう」

 

 学はそう告げると、妹には一瞥もくれることなく、踵を返して連絡通路の奥へと歩き出した。

 

「ま、待って、兄さん! 待ってください!」

 

 堀北は去りゆく兄の背中に向けて、必死に、引き裂かれそうな声を投げかけた。だが、学はその足を一瞬たりとも止めることなく、冷徹な足音だけを響かせながら、夜の闇の中へと完全に消え去っていった。

 

「──あ」

 

 完全に拒絶され、置いていかれた現実。

 

 鈴音はその場に力なくへなへなと崩れ落ち、コンクリートの地面に両手をついた。その切れ長の瞳から涙がボロボロと溢れ落ち、激しい絶望の焦燥が彼女の精神を内側から完全に粉砕していく。

 

 その瞬間だった。

 

 キィィィィィィィィィィィィィン──!

 

 脳髄を極細の氷の針で直接突き刺すような、あの不自然極まりない電子ノイズが、鼓膜の最奥で突如として爆発した。

 

「……っ! この感覚は」

 

「は、はぅあぁぁぁ──っ!? 人間さん、ここはどこ! あたしは誰? あたしはヒュロポス! そうじゃなくて――」

 

 オレの足元へと飛び戻ってきたヒュロポスが、瞳のレンズを真っ赤に明滅させて絶叫した。

 

 堀北が絶望して両手をついている地面。そのコンクリートの表面から、のたうち回るような禍々しい黒紫の霧を伴って、これまでに見たこともないほど巨大な『QRコード』の幾何学模様が、じわじわと、恐るべき速度で染み出し、増殖し始めた。

 

 コードから放たれる圧倒的な負のエネルギーの奔流が、一瞬にしてオレたちの周囲の空間を呑み込んでいく。

 

「な、何よこれ……世界が、歪んで……っ」

 

 驚愕の声すらも、色彩を失っていく世界の境界線の中に掻き消されていく。

 

 パツン──ッ!

 

 五感の全てのルールが弾け飛び、凄まじい白光がオレたちの視界を丸ごと塗り潰した。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 世界が、急速に冷徹なルールへと書き換わる。

 

 こめかみを突き刺すような激痛が引くと同時に、オレは即座に周囲の環境を走査した。

 

 広がっていたのは、荒廃世界──異世界『フォーラム』。天を覆う禍々しい赤暗い空、ひび割れたアスファルト。現実世界の学生寮は、ここでは不気味な廃墟の広場へと変貌を遂げている。

 

 オレはすぐさま身を低くし、いつシャドウの奇襲が来ても対応できるよう、精神の奥底のペルソナへと意識を繋げ、臨戦態勢を取った。

 

 だが──。

 

「……静かだな。シャドウの気配が、まだどこにもない」

 

 周囲を見渡しても、あの煤のような不定形の影の姿は一つも見当たらない。不気味なほどの静寂が、灰色の空間を満たしていた。

 

「ひ、ひえぇぇ……人間さん、なんでコードを読み込んでいないのにフォーラムに来ちゃったのぉ……」

 

 異世界の姿──白い流線型のメカニカル・マスコットへと実体化したヒュロポスが、オレの足元でガタガタと震えながら、青いレンズの瞳で周囲を必死に走査している。

 

 そしてオレは、自らの真後ろに存在する、圧倒的な『違和感』に気づき、ゆっくりと振り返った。

 

「……これは、随分と規格外なものが建っているな」

 

 オレたちの眼前に天を突くようにして聳え立っていたのは、今まで見たこともないほど巨大で、不気味な『黒い塔』だった。

 

 これまでに探索してきたフォーラムの面影など微塵もない。幾重もの巨大な歯車やねじ曲がったコンクリート、そして青白い発光ラインが、まるで生き物のように塔の外壁を這い回り、遥か上空の赤暗い天の最奥へと消えている。圧倒的な質量と威圧感を放つ、巨大な構造物。

 

 そして、その不気味な塔の麓。ひび割れたタイルのすぐ近くに、ぽつんと鎮座しているオブジェクトがあった。

 

 現実世界のそれとは似ても似つかない、無数の不気味な配線が這い出た、お馴染みの自動販売機──エリアの機能を管理する『素材変換器』だ。

 

「人間さん、あそこ、あそこの自販機の足元を見てほしいのよ!」

 

 ヒュロポスが短い羽で指し示した場所。

 

 錆びついた素材変換器の取り出し口のすぐ脇、灰色の瓦礫の隙間に、どこか古びた、しかし文字がびっしりと印字された『一枚の紙片』が、静かに落ちていた。

 

 オレは警戒を怠らないまま、ゆっくりとその自販機の元へと歩み寄り、足元に落ちていたその紙片を拾い上げた。

 

 そこに並んだ、システム的かつ冷徹な文字列に、オレは静かに視線を落とした。

 

 紙片の表面には、インクの滲みすらなく、まるでシステムが直接出力したかのような冷徹なフォントで文字列がびっしりと刻まれていた。

 

 

『【アディトン(Adyton)】について』

 

 その不気味な単語から始まる文章は、フォーラムという世界においての危険性を示していた。

 

『アディトンとは、特定の個人──【造物主】が抱えるストレスが限界点に達した瞬間に生まれる。ストレスや精神の歪みがフォーラムの特定の座標に巨大建造物を産み落とす。アディトンがフォーラム領域内に展開された場合、現実世界への影響は、通常のシャドウ発生の比ではなく、極めて甚大なものとなる』

 

「アディトン……あの巨大な黒い塔の名前、これのことなのかしら……」

 

 異世界の姿となったヒュロポスが、肩口から恐怖を押し殺すようにして紙片を覗き込んできた。オレは構わず読み進める。

 

『幾つかの実験結果によりアディトンの詳細を更新する。アディトンとは、造物主自身が隠蔽している「自己の欠点や歪み」の露出、およびそれらが他者に露見したことによる、致命的なストレス反応への【防衛機制】の具現化である。造物主の精神は自らを守るため、無意識に無数のシャドウを産み出し、アディトンの【コア】へ他者が近づけないよう強固な防衛網を敷く』

 

 実験結果……? オレは湧いた疑問を横においては続きを読み進める。

 

『コアの守護:アディトンの最奥たるコアには、造物主の精神の歪みを最も色濃く反映した【強力なシャドウ】が鎮座している。このシャドウは、一時的に討伐・撃破したとしても、一定時間が経過すれば何度でも復活し、現実世界へ強い影響を与え続ける』

 

 何度も復活する、か。実に厄介極まりない性質だ。だが、オレの目を引いたのは、その後に続く『現実への干渉』の具体的な記述だった。

 

『現実への影響:アディトンの展開中、その造物主となった人間は、欠点となる負の側面が異常なまでに増幅される。それだけに留まらず、剥き出しになった自己の欠点を、守ろうとする防衛本能の暴走により、現実世界において常に「問題」や「トラブル」を引き起こし続ける結果が確認された』

 

 ……なるほど。点と点が、綺麗に繋がり始めた。

 

 兄である堀北学から決定的な拒絶と「実力不足」という現実を突きつけられ、ストレスが最大限に高まった時に実の兄から欠点を指摘されたのだ。それを他人であるオレが耳にすることで自らの欠点が完全に露出する。彼女の精神が自己防衛のためにアディトンを生み出したのだろう。

 

 このアディトンは文字通り、立入禁止の聖域、精神の防衛機制。

 

 そして、紙片の最後に記された一文が、オレの思考を完全に凍りつかせる。

 

『現時点において、アディトンの完全な抑制を行う術は発見されていない。コアの破壊、及びアディトンの破壊は造物主の精神を植物状態と化す。幾つかの実験を経て、アディトンを安全に消滅させるには、現実世界において対象者への【退学処理】を執行することで、造物主をフォーラムの座標から永久に排除し、領域の秩序と維持を確保している──』

 

「は、はぅあぁぁぁ──ッ!? た、退学って……アディトンを作っちゃった人間さんは、お外に追い出されちゃうってことじゃないのー!」

 

 ヒュロポスが青いレンズの瞳を激しく明滅させ、短い羽をバタつかせて耳元で大きな声を飛ばしてくる。

 

 その驚愕も無理はない。

 

 学校側が敷く『赤点を取れば退学』というあまりにも理不尽で厳格なルール。あれは単なる優秀なエリートを選別するためのルールだ。

 

 けれどもこのフォーラムという裏側の影響により、退学になった人間もいるのだろう。この紙片が何よりの証拠である。

 

 そして、問題はこの唯一の手がかりとなりそうな実験者の名前が存在しないことだ。

 

 精神の歪みが暴走して「アディトン」を形成してしまった不良品を、現実世界ごと物理的に『剪定』するための排除システム。その裏を操ってる人間は存在している。

 

 それは個人なのか、組織なのか、それとももっと大きな存在なのか。紙片をポケットへと収め、ゆっくりと振り返った。

 

 灰色のタイルの上。

 

 先ほど現実世界からこの領域へと強制転移させられた衝撃、そして何より兄から受けた精神的折檻のショックに耐えかねたように、堀北鈴音は未だ意識を失ったまま、壁際に力なく横たわっていた。

 

 背後に聳え立つ、天を突くような不気味な黒い塔。

 

 あの建造物の【造物主】が誰であるかなど、もはや疑う余地もない。

 

 このまま中間テストで彼女が須藤たちを切り捨て、あるいは彼女自身すらも問題を起こして、待っているのは「退学」という名の強制終了だ。

 

 恐らくそうなればアディトンという存在はこのフォーラムから消え去り、仮初の風景が戻るのだろう。

 

「ねえ、人間さん……ツンツンさん、このままじゃ本当に大変なのよ……あんなに突っ張ってたけど、本当はいっぱいいっぱいなのよ……」

 

 ヒュロポスが本能的な哀れみを抱いた目で、気絶している堀北を見つめていた。

 

 ――だが、今のオレたちにはあの塔をどうにかする術がない。

 

 再来週の中間テスト。Dクラスの崩壊を食い止めるための最初の試練である中間試験、この異世界に鎮座した『堀北アディトン』の対処。

 

 オレは意識を失っている少女を一瞥し、それから天高くそびえる黒い塔を静かに見上げる。

 

 目立たず、誰の注目も浴びずに平均値の人間として過ごす──という、オレの完璧なはずだった高校生活の予定は、この先に待つ非日常の深淵によって、いよいよ修復不可能なほどに瓦解していた。

 

 それが、ほんの少しだけ──本当に、ほんの少しだけ、面倒でもあり。そして、オレの好奇心を奇妙に刺激しているのを、オレは自覚せざるを得ない。

 

「……っ……、ぅ……」

 

 堀北は小さくうめき声を上げ、ゆっくりと意識を取り戻す。

 

 彼女は自分の額を片手で押さえながら、重い身体を引きずるようにして灰色のタイルの上へと上半身を起こす。だが、その切れ長の瞳が周囲の様子を走査した瞬間──彼女の身体は、目に見えて凍りついた。

 

「な……に、よ……これ……。何なの、一体……!」

 

 冷静さが、一瞬にして瓦解していく。

 

 視界を埋め尽くしているのは、現実の学生寮の中庭などでは到底あり得ない、色彩を完全に失った灰色の荒廃世界。ひび割れた不気味なコンクリートの地面、そして何より、天を覆う禍々しい赤暗い空。

 

 堀北は荒い呼吸を繰り返しながら、震える自身の両腕で細い身体を抱きしめるようにして、その場にへたり込んでいた。その瞳には、未知の異空間に対する本能的な『恐怖』が、隠しようもなく浮かんでいる。

 

「目が覚めたか、堀北」

 

 すぐ脇から声をかける。振り返った彼女の瞳に映ったのは、いつもと変わらない無感情な目で佇むオレの姿だった。

 

 そして、オレの足元には、現実世界のプラスチック製の玩具とは明らかに異なる、白い流線型の金属装甲を纏った奇妙な生物──異世界の姿となったヒュロポスが、青いレンズの瞳をパチパチと明滅させて佇んでいる。

 

「綾小路……くん……?」

 

 堀北はまるで、底なしの暗闇の中で唯一見つけた細い蜘蛛の糸にでも縋るかのように、オレの名前を呼んだ。だが、すぐさま視線を巡らせ、己のすぐ真後ろに聳え立つ、天を突くほどに巨大で禍々しい『黒い塔』を見上げ、息を呑む。

 

「ここは一体どこなの……!? あの不気味な建造物はなんなのよ! 私、さっきまで兄さんと寮にいたはずでしょう!? 説明しなさい、綾小路くん!」

 

 パニックを覆い隠すように、鋭い声音でオレを問い詰めてくる。

 

 オレはポケットから、先ほど素材変換器の足元で拾い上げた消えかけの紙片を意識の外へと追いやりながら、どこまでも淡々と、端的な事実だけを口にした。

 

「ここは『フォーラム』。人間の日常的なストレスや焦燥、負の感情が現実世界の座標とリンクしてシャドウと呼ばれる化け物を産み出す異世界だ。そして──お前の後ろにあるあの黒い塔は、アディトンと呼ばれている」

 

「フォーラム……異世界……アディトン?」

 

 堀北は一瞬だけ呆然としたが、すぐにその優れた頭脳で、オレの言葉の非現実性を拒絶しようと躍起になった。

 

「馬鹿馬鹿しい……! そんな冗談みたいなオカルトなんてあるわけないじゃない。科学的にそんな空間が存在するなんて──」

 

「幻覚だと思うなら勝手にすればいい。だが、今、お前自身の目で見ているはずだ」

 

 オレは彼女の狼狽を冷たく遮り、視線だけを彼女の足元へと落とした。

 

「科学的にどうこう言う前に、お前はすでにこの世界の歪みに巻き込まれている」

 

「──っ」

 

 堀北は言葉を失い、喉を詰まらせて黙り込んだ。

 

 兄から置いていかれ、そして、自分の影から染み出していった、巨大なQRコードの光景。自らの網膜に焼き付いたその決定的な異常を、彼女の知性は否定することができなかった。

 

 堀北は寝癖のついた黒髪を乱暴にかきむしり、冷や汗を流しながら、どうにか声を絞り出す。

 

「……いいわ。百歩譲って、ここがその異常な空間だということを認めるわ。だったら、どうすればここから出られるの。脱出する方法はあるんでしょうね」

 

「ある。通常なら、このエリアのどこかにある『帰還用のモニュメント』と呼ばれる特殊なオブジェクトを探し出し、そこに触れれば、現実世界へと帰還することが可能だ」

 

 オレの回答を聞くや否や、堀北はひび割れたタイルの上に立ち上がろうとし、強い口調で提案してきた。

 

「だったら話は早いわ。一刻も早くそのモニュメントとやらを探し出して、ここから出るべきよ。こんな狂った空間に、一秒だって長居するつもりは毛頭ないわ」

 

「いや、オレはここから出るよりも先に、目の前にあるあの『塔』を調べることを優先するつもりだ」

 

 オレは踵を返し、天高くそびえる黒い塔を見上げた。その冷淡な意思表示に、堀北の切れ長の瞳が驚愕と怒りで鋭く尖る。

 

「あんな不気味な建物に、自ら近づく必要がどこにあるというのよ! 知的好奇心を満たしたいなら一人でやりなさい!」

 

 感情的に言い放った堀北だったが、オレの足元で佇むヒュロポスと、眼前に聳え立つ黒い塔を交互に見つめ、必死に理性を繋ぎ止めるように声を落とした。

 

「そのモニュメントとやらは、どんな形をしていて、どこにあるの? それくらいは教えていっても罰は当たらないでしょう」

 

「青白い光を微かに放つ、歪な石碑のようなオブジェクトだ。現実世界における寮の敷地外──このエリアの境界線にあたる死角のどこかに設置されているはずだ。あと黒いモヤ、シャドウと呼ばれる存在が徘徊している。それは近づいたり刺激しなければ襲ってくることは基本的にない」

 

 オレが端的にそう答えると、堀北は「……そう」とだけ呟き、唇を強く噛み締めた。

 

 これ以上の会話は不要と判断し、オレは踵を返し、アディトンの不気味な入り口へと向かって静かに歩き出した。背後から、衣擦れの音と、ひび割れたタイルを小さく踏みしめる足音が聞こえる。

 

「──本当に、私をここに置いていくの?」

 

 投げかけられたのは、いつもの刺々しさを完全に喪失した、酷く頼りない問いかけだった。

 

 オレは足を止めることなく、そのまま前進を続ける。他人の精神の拠点を調べることに、わざわざ足手まといを同行させるメリットは何一つない。自分で帰れる手段を提示した以上、あとは彼女が自力で選択すべき問題だ。

 

「待って……」

 

 背後から、蚊の鳴くような、縋るような小さな声が響いた。あの傲慢なまでにプライドの高かった堀北鈴音が、生まれて初めて他人に向けたであろう、明確な制止の懇願。

 

 だが、オレがそのままもう一歩を踏み出そうとした──まさにその瞬間。

 

 ドゴォッ!

 

「……む」

 

 オレの右足のふくらはぎに、白い弾丸のような質量が凄まじい勢いで衝突した。

 

「この大バカ人間さん! なんでそんなに冷たい態度をとるのよー!」

 

 怒髪天を突いたヒュロポスが、瞳の青いレンズを真っ赤に明滅させながらオレの足元へと回り込み、小さな羽をせわしなく羽ばたかせて進路を塞いできた。

 

 現実世界とは異なり、それなりの質量をもった存在が体当たりしてきたのだ、それなりに痛い。

 

「ヒュロポス。わざわざ一度モニュメントへ送るような、無駄な手間をかける必要はない」

 

「なあわけないでしょうがー! 人間さん、もしツンツンさんが一人で行って、途中でシャドウに襲われたらどうするのよ!」

 

「不必要に接近しなければ襲ってこない。気配を避けていけば、彼女単独でもモニュメントに辿り着くことは十分に可能だ。その辺りの説明はした筈だが」

 

 オレがこれまでに蓄積したフォーラムのデータに事実を述べると、ヒュロポスは両羽を腰に当て、信じられないと言わんばかりに首を横に振った。

 

「事実とか確率とか、そういう無機質な話をしてるんじゃないのよ! ここでは『女子』が適用されるのよ! 女の子はね、こんな暗くて不気味なところに一人で残されたら、それだけで不安で悲しくなっちゃう生き物なの! そこは殿方として、黙って優しく手を引いてエスコートするのが当然の対応なのよ!」

 

 全く以て論理的ではない独自の主張を展開し、ピーピーと騒ぎ立てる鳥を見下ろし、オレは小さく溜息を吐き出した。これ以上この鳥と押し問答を続けても、時間を浪費するだけで議論にすらならない。

 

 オレは歩みを止め、再びゆっくりと堀北の方へと向き直った。

 

 彼女は地面にへたり込んだまま、オレと、オレの足元で奇怪なやり取りを、ただ呆然と見つめていた。その瞳には、未だ深い混乱と恐怖が色濃く張り付いている。

 

「オレがあの建物に向かうのは、決してお前の脱出を邪魔したいわけじゃない」

 

 オレは視線で、彼女の背後にそびえ立つ天を突くような黒い塔を示した。

 

「あのアディトンは、お前の精神の危機──兄に完全に拒絶され、自らの欠点を剥き出しにされたことに対する、強力な防衛機制の具現化だ。あれを放置しておくことは、お前自身にとって致命的な悪影響を及ぼす」

 

「私自身に……良くない影響?」

 

 堀北は震える声で、オレの言葉をなぞるように聞き返してきた。

 

「そうだ。この紙片に記されていた仕様が正しければ、お前の負の側面──他者への攻撃性が異常なまでに増幅され、現実世界でも常に問題を起こし続けることになる。そんな状態が続けば、中間テストを乗り切れても、お前は本当に『退学処理』の対象として学校から排除される」

 

「──っ」

 

 退学、という決定的な拒絶の言葉に、堀北の身体が目に見えて大きく強張った。兄と同じ舞台に立ち、認められるという彼女の唯一の絶対目標が、その瞬間に永遠に断たれることを意味するからだ。

 

 堀北は冷や汗の流れる顔を上げ、じっとオレの無感情な瞳を見つめてきた。その切れ長の瞳に、微かな、しかし奇妙な色を帯びた猜疑が浮かぶ。

 

「……一つ、聞かせて頂戴、綾小路くん。あなた、なぜそこまでして私の退学を気にするの?」

 

「さぁな。そこはオレ自身もまだよくわかっていない」

 

 ちらりと足元を見ればヒュロポスが『そんなありきたりな言葉じゃなくて優しくするのよ!』と訴えてきている。小さくため息を吐きながら、オレはそれとない理由を考えてみて。

 

「隣の席のお前がいなくなったら寂しいだろう。だから、お前を退学にさせたくない。その為だったら危険でもやるしかない」

 

 心にもないことを口にする。ヒュロポスの方を見れば羽でサムズアップしていた。どうやらご満足頂けたようだ。

 

「そ、そう……あなた、やっぱり、私のこと好きなの?」

 

「それはちょっと調子に乗りすぎなのよ! プンプンプン!」 

 

 足元に居たはずのヒュロポスがオレと堀北の直線上に割入る。驚きに目をパチクリと見開いて

 

「……なに、この……なに、これ? 変なマスコット、でも見覚えが」

 

「はぅあー!? へ、へへへへへへ、変なマスコット!? こ、この超絶プリティーな女の子に向かって変なマスコットとはなんたる言い草なのかしら! とっても失礼なのよ! 失礼、人間さんなのよ!」

 

「……綾小路くん」

 

 困ったような視線を向けられながら名前を呼ばれる。現実世界ではヒュロポスの声など聞こえていなかった堀北はどうやらこの世界では、その騒がしい声を完全に聞き取ることができているらしい。

 

 オレは軽く首を振ると、足元で不満げに羽をバタつかせている白い金属生命体を指差した。

 

「こいつはヒュロポス。一応、この異世界『フォーラム』で出会った、自称・美少女監督だ。オレの勝手な協力者と思えばいい」

 

「ヒュロポス……? 自称美少女監督……?」

 

 堀北は眉をひそめ、オレの突飛な説明を咀嚼しようとする。しかし、あまりにも現実離れしたその容姿とこれまでのやり取りを思い返し、深く追求することを諦めたようにため息を吐いた。

 

「……とりあえず、飲み込んでおくわ」

 

 そう呟きつつも、堀北の切れ長の瞳は完全に警戒を解いておらず、ヒュロポスのことをじっと胡乱げな目で見つめている。まるで「本当に役立つのかしら」とでも言いたげな、冷ややかな視線だ。

 

「ぐ、ぐぬぬぬぬ……っ!」

 

 その視線の意味を敏感に察知したヒュロポスは、瞳の青いレンズを細め、短い両羽を震わせながら悔しそうに唸り声を上げた。

 

「なによその目は! あたしのことを完全に『怪しいブリキのヒヨコ』みたいに思ってるでしょう! あたしはこれでも、人間さんの戦いをサポートする世界一プリティーで有能な美人女上司なのよ!」

 

 ヒュロポスの抗議を完全に聞き流しながら、堀北はふと何かに気づいたように、その鋭い視線をオレへと戻した。

 

「……綾小路くん、あなたが普段、学校で肩やカバンに乗せているあの『高精度AIを搭載した電子玩具』……目の前にいるこれと、デザインが酷く酷似しているわね。いえ、サイズこそ違えど、パーツの形状は完全に一致しているわ」

 

「目ざといな」

 

 オレはポケットに手を突っ込んだまま、肯定の意を込めて小さく頷いた。

 

「お前の指摘通りだ。現実世界でオレが連れ歩いているあの鳥の玩具は、こいつの『現実世界での身体』──つまり、仮の姿だ。フォーラムから現実に出る際、あちらのルールに適合するためにあのプラスチックの容姿に縮小されているとオレは解釈している。正直、オレも殆ど理解できちゃいない」

 

 堀北は驚愕に目を見開いた。彼女の優れた頭脳が、即座にこれまでの違和感を線で繋いでいく。

 

「あなたは単に思いつきで奇妙なAIペットを趣味で可愛がっていたわけではなく……最初から、この意思を持った異世界の生物を現実世界へ連れ歩いていたということなのね?」

 

「そーなのよ、ツンツンさん!」

 

 待ってましたと言わんばかりに、ヒュロポスが胸の装甲を大きく張ってオレの言葉に同調した。堀北は「つ、ツンツン……?」と困惑している。

 

「あたしは休み時間は出てもいいけど授業中はカバンの中で大人しくしてろって言われて四六時中、退屈な授業を一緒に受けてあげてるのよね! 扱いが雑で本当に困っちゃうのよね!」

 

「ヒュロポス、余計なことは言わなくていい。あと、プールの授業は連れ出してやっただろ」

 

「当たり前なのよ! こんな美少女を教室へ置き去りにするなんて許されないわ! ……それよりツンツンさん、あなたに言いたいことがあるのよ!」

 

 ビシッ、と短い羽を堀北に向けて突き出し、ヒュロポスは再び声を張り上げた。不快感よりも困惑が勝ったようで、眉を寄せてヒュロポスの次の言葉を待つ。

 

「そうよ、ツンツンさん! あたしはカバンの中から、あなたの普段の態度をずーっと見てたのよ。朝のホームルームでも、さっきの勉強会でも、なんでそんなにトゲトゲして上から目線で他人のことをお説教しちゃうわけ! 男の子っていうのはね、もっと優しく手のひらで転がして、甘えさせてあげるくらいの包容力を見せないと、みんな逃げていっちゃうのよ! そんなツンツンした態度ばかりじゃ、いつまで経っても彼氏はできないのよ! 喪女一直線なの!」

 

 小さな身体をいっぱいに使って、熱弁を振るうヒュロポス。

 

 しかし──先ほどまでの恐怖のパニックから完全に脱し、いつもの理性を完全に取り戻した堀北には、そのお説教は全く通用しなかった。堀北は冷ややかな目で足元のマスコットを見下ろすと、フン、と鼻を鳴らして一蹴する。

 

「……そんな根拠のない、低俗な恋愛コラムのような精神論、聞くに値しないわね」

 

 完全に冷たくあしらわれ、堀北のペースに巻き込まれる。比喩表現にあがるくらいだから堀北も恋愛コラムとか読むのかって感心した。

 

「んまーーーーーーッッッ! なんて可愛くないのよ、この女はーーー! あたしがせっかく、女子モテアドバイスをあげたのに、秒速でシャットアウトされたのよ! もう知らないのよ、プンプンプン!」

 

 激しく足元でのたうち回りながら怒り狂うヒュロポスを、オレは軽くつま先で横へと退けた。これ以上、この二人の不毛なキャットファイトに付き合っている時間はない。

 

「そろそろアディトンの攻略を始めるぞ」

 

 オレは視線を、眼前に聳え立つ禍々しい黒い塔へと向けた。

 

 歪んだ幾何学模様が脈動し、侵入者を拒絶するように重苦しいプレッシャーを放ち続けている。ここから先は、これまでのフォーラムの階層とは比較にならない危険が待ち受けているはずだ。

 

「一つ、忠告しておく」

 

 オレはアディトンの入り口へと歩みを進めながら、振り返らずに背後の堀北へと声を投げかけた。

 

「あのアディトンの中には、お前の負の感情から生まれた『シャドウ』と呼ばれる化け物が無数に徘徊している。お前にはまだ、それに対抗する力が無い。……だから、中に入ったら絶対にオレの側から離れるなよ」

 

「──っ!?」

 

 背後で息を呑む音が聞こえ、オレが怪訝に思って僅かに振り返ると、堀北は耳たぶまで真っ赤に染め上げた顔を両手で覆うようにして、大慌てで視線を斜め下へと逸らしていた。

 

「……え、えぇ、わかったわ」

 

 その声はいつもの冷徹さを失い、激しく動揺して上ずっている。

 

「……? 安全上の客観的な事実を言っただけなんだが。それとも、一人で化け物の群れに突っ込む自信があるのか?」

 

「こ、これがクソボケ、初めてみたのよ……」

 

 足元でヒュロポスが呆れたようにため息を吐いていた。なんだか今、酷い罵倒をされた気がする。堀北はキッとオレを睨みつけると、顔の赤さを必死に隠すようにして、ブレザーの裾を強く引っ張った。

 

「この狂った空間で命を落とす趣味は私にないもの。不本意だけれど、あなたの後ろをついていってあげるわ。……ほら、早く行きなさい、綾小路くん」

 

 いつもの傲慢な態度で無理やり上書きしようとしているが、その歩幅は明らかにオレとの距離を縮め、文字通り「離れないよう」に、すぐ斜め後ろのポジションをキープしている。

 

 オレと、顔を赤くしたまま頑なに前を見据える堀北、そしてその足元を跳ね回るヒュロポス。

 

 彼女の隠された精神の最奥──『堀北アディトン』の重厚な鉄門の前に立つ。門の前に立つと軋むような音を立てて開く。

 

 その薄暗い深淵の内部へと、オレたちは一歩を踏み出した。

 

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