Persona x Classroom of the Elite   作:仔羊肉

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 重厚な鉄門をくぐり抜けた瞬間、肌を刺したのは現実の夜風とは明らかに異なる、ひんやりとした静寂と、カビ臭い古い紙の匂いだった。

 

 オレたちの視界に飛び込んできたのは、外観から予想などつくわけもない、見渡す限り本で埋め尽くされた巨大な図書館。

 

「何よ、ここ……」

 

 斜め後ろを歩く堀北が、圧倒されたかのように小さく息を呑む。

 

 その驚愕も無理はない。高度育成高等学校の図書館も、国がバックについているだけあって一般の高校とは比較にならない蔵書数と大きさを誇っている。だが、目の前の空間は、それすらも単なるささやかな書斎に思わせるほどの規格外なスケールだった。

 

 足元から遥か上空──見上げるのも億劫になるほどの高さまで伸びた一面の壁が、びっしりと書架で覆われ、二階、三階と続く先にも無数の書籍が整然と並べられている。まるで世界中のすべての本で作られた巨大な迷宮のようでもあった。

 

 もしもこれが、堀北鈴音の精神の防衛機制が産み出した心象風景だというのなら、これは一体何を表しているのだろうか。

 

 知識への執着か。それとも、本棚という名の分厚い防壁を何層にも築くことで、他者が内側に踏み込んでくるのを拒絶しているのだろうか。

 

 オレがそんな思考を巡らせていると、足元でレンズを明滅させていたヒュロポスも、オレと全く同じ疑問を抱いたようだった。

 

「ねえねえ、人間さん。ツンツンさんって、そんなに本が好きなの? これじゃあ読書家っていうレベルを通り越して、ただの本のオタクなのよ!」

 

 ヒュロポスのぶしつけな質問は、当然この世界のルールに従って堀北の耳にも届いている。堀北は不快そうに眉間を寄せ、天高くそびえる書架を見上げながら、どこか腑に落ちないといった様子で首を傾げた。

 

「……読書は好きよ。一人で静かに過ごすための手段としては最適だもの。けれど、ここまで偏執的かと聞かれれば……流石に首を傾げざるを得ないわね」

 

 その答えを聞いて納得をする。入口であることを考えればこれは堀北の内面における表層的な部分。孤独、一人といった部分で目に見える形の空間なのだ。

 

 堀北の思考が一人で過ごすのに最適なものが読書や勉学というのなら入口が図書館というのは不可思議ではない。

 

「でもでも! ここはツンツンさんの心なんだからやっぱり本オタクってことなんじゃない?」

 

「失礼なブリキね。二度と喋れないようにしてあげましょうか」

 

 調子を取り戻しつつある堀北の毒舌を無視し、オレは目の前の書架から、テキトウな黒い装丁の本を一つ、手に取ってみた。

 

 パラパラとページをめくってみる。だが、そこに印字されていたのは、意味のある言語ではない。

 

 堀北も横から覗き込んでくる。

 

 紙面を埋め尽くしていたのは、文字化けしたような記号や、ランダムなアルファベットの羅列。ノイズの塊のような文字列であり、どれほど優れた知性を持っていようと、これを読み取ることは不可能だろう。

 

 次の瞬間、黒いモヤが本から浮かび上がり、オレは即時投げ捨てる。そして輪郭を得て――美しい女。赤い服に緑の肌を持ち、明確な敵意を持った存在が現れる。

 

 ――Lahaaaaaa!

 

 甲高い声を挙げて、こちらを威嚇。同時にオレとヒュロポスは叫ぶ。

 

「来い、ジャックフロスト」

「おいでませ! イカロス!」

 

 オレの呼び声に応じて、空間から湧き出した青い光が形を成す。現れたのは、尖った帽子を被った雪だるまのようなペルソナ──『ジャックフロスト』

 

 同時に、ヒュロポスの宣言とともに白い金属の翼を持つ『イカロス』がその頭上に飛翔した。

 

 背後では、堀北が突如として現れた異形の存在と、現実のルールを無視した光景を前に、息を呑んだまま完全に硬直しているのが横目で伺い知れた。

 

 だが、オレたちに彼女の動揺に付き合っている余裕はない。本から飛び出た赤い服に緑の肌を持つシャドウは、まだ完全にこちらの存在を捉えきれていない。

 

 敵が態勢を整える前に、一気に畳みかけよう。

 

 実戦において先制を取ることは、勝利への最短ルートだ。オレは即座にジャックフロストへと意識を同調させ、最初のコマンドを下した。 

 

「ブフ」

 

 ジャックフロストが短い手を掲げると、極低温の氷結の塊が鋭い楔となって放たれ、シャドウの胸元へと炸裂する。

 

 パキィン、と硬質な音が響く。しかし、シャドウの肉体は微かに凍りついただけで、致命的なダメージを与えたようには見えない。むしろ、冷気を浴びたことでその動きは滑らかさを増した様子すらある。

 

 ――氷結は耐性があるのか……効きが悪いな。

 

 瞬時にその性質を見抜いたのと同時に、ヒュロポスが横から追撃の指示を飛ばした。

 

「いっけぇー! ガルなのよ!」

 

 イカロスの機械的な翼が激しく羽ばたき、真空の刃──疾風魔法がシャドウの緑の肌を切り裂く。

 

 ――Lahaaaッ!?

 

 シャドウは不快そうに身をのけぞらせる。だが、その傷口は浅い。ブフほどではないが、疾風属性も効きが悪いように見受けられた。

 

 そして次の瞬間、シャドウの瞳の赤光が怪しく増幅する。

 

 目の前の存在が、憐れむような仕草で胸元に手を当て、何らかのスペルを口にした。

 

 ───Di-a

 

 不気味なほどに澄んだ声音が響くと同時に、緑色の淡い光が彼女の身体を優しく包み込む。すると、先ほどヒュロポスのガルによって刻まれたはずの傷口が、みるみるうちに癒えていくのに気がついた。

 

「はぅあぁぁぁ──っ!? に、人間さん、あいつ自分で自分を治しちゃったのよ! ブフもガルも効かない上にヒーラーだなんて、どうするのよー!」

 

 敵の回復能力を目の当たりにし、ヒュロポスが青いレンズを激しく明滅させて焦りの声を挙げる。このままブフとガルで戦ったとしても千日手。そんな時間だけが過ぎる戦闘であれば他のシャドウを呼び寄せた挙句、乱入される可能性が存在する。

 

 けれどもそれは手札が少なければの話。ヒュロポスには物理攻撃である『突撃』が存在する。

 

 それだけではない。氷結がダメなら――。

 

 オレは精神の海へと深く手を伸ばす。ジャックフロストの身体がぶれて、霧のように霧散したかと思うと、オレの意思に従って新たなペルソナが顕現する。

 

「ペルソナチェンジ」

 

 漆黒を背景に浮かび上がったのは、不気味に目を光らせるカボチャの頭部を持ったペルソナ──『ジャックランタン』。

 

「焼き尽くせ。アギラオ」

 

 アギよりも高密度であり、威力が高い炎。ジャックランタンのランタンが弾けるように割れて、浮かび上がる炎球。

 

 フォーラムを探索しているうちに、いつの間にか覚えていた一撃は緑の肌を持つシャドウへ襲いかかる。

 

 一瞬にして図書館の一角が赤色に染まる。

 

 直撃。

 

 火炎のルールをその身に浴びたシャドウは、自慢の回復魔法を唱える隙すら与えられないまま、炎に焼かれる。

 

 ――Gyaaaaaaaaahhhhhhhh──ッッ!?

 

 空間を震わせるほどの凄まじい絶叫を挙げ、灰すら残さず、光の粒子となって完全に消滅した。

 

 周囲に、爆炎の名残である熱気が残り、熱が消えれば再び静寂が戻ってくる。

 

「今の、何なの……?」

 

 背後から聞こえてきたのは、完全に理性をキャパシティオーバーさせた、堀北鈴音の震える声だった。

 

 ジャックランタンへと意識の同調を解き、精神の海へとペルソナを帰還させる。

 

「今のが『シャドウ』。そして、オレたちが呼び出した異形の力が『ペルソナ』だ。現実離れしているのは百も承知だが、オレたちはあいつらに対抗するための能力を有している」

 

 できるだけ淡々と事実だけを説明する。堀北はまだ信じられないといった風に目を見開いていたが、持ち前の高い合理性ゆえか、目の前で起きた決定的な光景を拒絶することはしなかった。

 

「……シャドウ、に、ペルソナ。それがあなたの使った不思議な力の名前なのね」

 

 少しずつ冷静さを取り戻しながら、彼女は値踏みするような鋭い視線をオレに向けてくる。

 

「どうやれば、その能力を得られるのかしら。私にも使えるようになるの?」

 

「さあな。オレ自身もなぜこの力に目覚めたのかはよく分かっていない……おい、ヒュロポス。お前は何か知っているか?」

 

 戦闘を終えてピョコピョコと足元に歩いてきたのメカニカル・マスコットに水を向けると、ヒュロポスはクリアな青いレンズをクリクリと動かしながら、お手上げといった様子で短い羽をすぼめた。

 

「うーん、あたしも全然知らないのよ! あたしは美少女だから使えるってわかってたけど、逆になんで普通の人間さんがペルソナを使えるようになるかなんて、わからないのよ。普通は使えないのよー?」

 

「……そう」

 

 堀北は小さく呟くと、何かを深く思考するように視線を落とした。そして──無意識の防衛本能か、あるいはオレという唯一の『対抗手段』に頼ろうとしたのか、先ほどよりも少しオレの方へと身体を寄せてきた。

 

 その距離は、現実の学校生活における彼女のパーソナルスペースを考えれば、あり得ないほどの至近距離。

 

 それを誰よりも敏感に察知したのは、足元で「うーんうーん」と考え込んでいたマスコットだった。

 

「ちょっとちょっとツンツンさん! 近すぎるのよ! 何ちゃっかり人間さんに寄り添って……むー! 女の顔してるのよ!」

 

「ッ……!? し、してないわよ!」

 

 堀北は弾かれたように跳び退き、顔を真っ赤に染めて全力で否定した。そして、少し近づいて制服の袖口を握る。

 

「勘違いしないでちょうだい。ここはいつどこからあのおぞましい化け物が襲ってくるか分からない危険な場所よ? これくらいの距離感で動かないと、いざという時に身を守れないでしょう? それにあなたの迂闊な行動がさっきの化け物を呼んだのだから……危険から私を守る責任はある筈よ」

 

 一瞬にして平時のようなトーンを取り戻し、尤もらしい理屈で理論武装してみせる。だが、ヒュロポスは納得するどころか、さらに羽をバタつかせて猛抗議を始めた。

 

「ただの言い訳なのよ! むしろそんなに密着されたら人間さんが戦うときに邪魔なのよ! 離れて離れて、ソーシャルディスタンスなのよ!」

 

「なっ、私はただ合理的な空間効率を──」

 

「だーめーなーのーよー! 我が『復興部』は恋愛禁止! 恋愛禁止なのよー!」

 

「れ、恋愛!? あなた、さっきから不敬がすぎるわね! そのポンコツな回路を今すぐバラバラに分解してあげましょうか!」

 

 ギャーギャーと騒ぎ立てるヒュロポスと、必死に顔の赤さを誤魔化しながら大人げなく言い合う堀北。

 

 さっきまで命がけの戦闘が行われていた空間とは思えないほど、あっさりと緊張感が霧散していく。オレは二人の不毛な争いを見つめながら、小さく溜息を吐いた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 それからオレたちは、迷宮と化した巨大な図書館の探索をしばらく続けた。

 

 幾何学的に入り組んだ書架の通路を奥へと進んでいくと、やがて異様な存在感を放つ一角に辿り着く。本棚の壁面に、重厚な「扉」がいくつか埋め込まれているのが見える。

 

「扉……? 行き止まりかしら」

 

 オレがその一つに近づき、扉の表面に触れた瞬間──カチリ、と硬質な電子音が響き、扉から一筋の鮮烈な光が飛び出していった。

 

「何!?」

 

 堀北が警戒して身構えるも何も起きない。それから、新たに見つけた他の扉にも次々と触れていくと、同様の現象が起き、全部で五色の光が書庫の中に飛んでいく。

 

 オレたちは扉がこれ以上無いことを確認して光の先へ向かうと。

 

「あ、人間さん! 光の先! シャドウがいるのよ。きっと倒せってことなのね!」

 

 ヒュロポスは人差し指に相当するパーツをシャドウに向けて、生まれたての知識を総動員するように考えを口に出した。

 

 何も情報がない現状、その仮説に乗ってシャドウを各個撃破していくのがセオリーだろう。オレも何も分からない現状、それでもいいかと次の行動を定めようとした。

 

 ──だが。オレは、背後に立つ堀北の様子に目を留めた。

 

「……」

 

 彼女は気丈に前を見据え、「私はまだやれる」と言いたげな表情を取り繕ってはいる。

 

 だが、この異世界の独特な圧力と、初めて遭遇した非現実的な戦闘による精神的負荷は、彼女のキャパシティを確実に削っていた。微かに震える指先、そして顔に浮かぶ隠しきれない疲労感は誤魔化せない。

 

「今日の探索はここまでだ。一度撤退する」

 

 オレがそう告げると、堀北はすぐに眉をひそめて反論してきた。

 

「待ちなさい、綾小路くん。私は大丈夫よ。これくらいのことで足手まといになるつもりはないわ」

 

「お前の意志を聞いているんじゃない。オレの判断だ。これ以上進んでも効率が悪い」

 

 有無を言わせぬトーンで撤退を押し切り、オレたちは来た道を戻り始めた。堀北は不満そうに口を噤んでいたが、オレの決定に従って大人しく後ろを歩いている。

 

 フォーラムの重厚な鉄門をくぐり、色彩の失われた灰色の世界から、寮近くにあるモニュメントへと帰還する道中。

 

 オレの一歩後ろを歩いていた堀北が、俯き加減のまま、蚊の鳴くような小さな声で呟いた。

 

「……ありがとう」

 

 それは、普段の彼女からは想像もつかないほど、掠れていて、しかし確かな響きを持った感謝の言葉だった。

 

 オレはそれを聞こえないフリをして、何事もなかったかのように前を歩き続ける。

 

 こうして、『アディトン』における、堀北鈴音を伴った第一回目の探索は終了した。アディトンからフォーラムへ。そしてモニュメントへ。

 

 触れれば五感が現実へと戻っていく。オレたちは寮の裏へと戻ってきていた。

 

「あ、あの、綾小路くん……」

 

「今日はもう帰って寝たほうがいい。精神的な疲労は相当な筈だ」

 

「え、えぇ……」

 

 そういってよろよろと立ち上がって去っていく堀北。その背中を見届けてオレたちは再度として学生証端末を開き、先ほどのアドレスを辿る。

 

 五感が急速に失われ、荒廃した世界へ。

 

「人間さん、まだ探索するの? いくら美少女とはいえもう疲れちゃったのよ」

 

「……確認したいことがあるだけだ」

 

 それだけを告げて、オレは再び荒廃した世界の寮の残骸。その裏手に出来た巨大建造物の入口に立つ。

 

「……入れないのか?」

 

「そう、みたいなの。一日一回とか?」

 

 いいや、違うだろう。先ほどと大きく違うのは堀北が居るか、居ないか。ここは堀北の防衛機制――心の中なのだ。表口から簡単に入るのは許されていないのだろう。

 

 けれども本人は別。自分の心に入るのに許可などいるわけがない。オレはアディトンの周辺を周り、別の侵入口を探してみるが見つからなかった。

 

 ここは一旦、諦めて大人しく帰るとしよう。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 ──翌朝。

 

 教室の扉を開けた瞬間、鼓膜を震わせたのはいつも通りの活気ではなく、焦燥による言い合いと喧嘩腰な揉め事であった。

 

 五月一日に突きつけられた「クラスポイント0」という決定的な絶望。そのパニックはいまだ収まる気配を見せず、クラスメイトたちは一様に周囲へ当たり散らかしたり、不満を口にしている。

 

 それでも始業の鐘が鳴れば一旦は矛を収めて、各々の席に戻るのだが休み時間になればまたちょっとしたことで揉め事が起きる。その起点は須藤や池、山内の成績が良くない組に対して、西村や幸村といった学力が優秀な人間がぶつかることが多い。

 

 それだけではなく佐藤や軽井沢が松下に対して思うところがあるのか陰口みたいなものを叩けば、最近、行動を共にするようになった王が庇い、そこからまた揉め事に発展することもある。

 

 櫛田や平田は仲裁に奔走していて、その疲労感は顔に出ている。

 

 オレはそんな喧騒をすり抜け、自分の席へと向かった。カバンを机のフックに掛け、椅子に腰を下ろそうとした、その時だ。

 

「……おはよう、綾小路くん」

 

 不意に、すぐ隣から声が掛けられた。

 

 オレは微かに眉を動かす。声の主は、すでに席についていた堀北鈴音だった。普段の彼女であれば、こちらから声を掛けたとしても冷淡な無視を決め込むか、あるいは剃刀のような毒舌を返してくるのが常だ。その彼女が、自発的に朝の挨拶を口にするなど、入学以来初めてのことだった。

 

 その異変に、誰よりも早く、反応したのは、オレの肩の上で身を乗り出した手のひらサイズの相棒だった。

 

「はぅあ──っ!?  お天道様が西から昇ったの! あのツンツンさんが自分から挨拶するなんて、明日は槍でも降るに違いないのよ!」

 

 クリアな青いレンズを激しく明滅させながら、ヒュロポスが驚愕の声を挙げる。そして、そのぶしつけな叫びは、隣の少女の鼓膜へと届いていた。

 

 当然、オレは機械音で処理されているのだろうと思っていたが――鋭利な刃物のような視線をオレの肩へと向けたことでその考えが間違っているということに気がつく。

 

「……修復不可能なポンコツね。誰がツンツンさんよ。それに、まともな人間なら朝の挨拶くらい自発的にするものよ」

 

 一切の躊躇のない、流れるようなツッコミ。おかしいな、少なくともオレは毎朝、声をかけていたんだが。

 

 けれどもそんな些細な疑問点よりも大きな問題が鎮座している。昨夜の異世界でヒュロポスの声が堀北にも聞こえるようになった。けれども、現実世界においてまで、こうもはっきりと会話が成立するようになっているとは。

 

 オレは咄嗟に周囲へと視線を巡らせた。平時であれば、精巧な鳥型のおもちゃに向かって本気で文句を言っている堀北の姿は、確実に奇異の目で見られるはずだった。

 

 だが、今の教室はそれどころではなかった。黒板の前では池や山内が幸村と言い合いを繰り返し、他のグループも深刻な顔でヒソヒソと話し込んでいる。

 

 誰もが自分たちの生活の危機で手一杯であり、教室の隅の風変わりなやり取りにまで気を回す余裕など、今の彼らには残されていない。

 

 オレは声を極限まで潜め、二人に釘を刺す。

 

「ヒュロポス、あまり喋るな。オレだけならまだしも、堀北までお前と会話できてるとなると、いよいよも校内に連れてこれなくなるぞ」

 

「はーいなの……」

 

 ヒュロポスは短い羽を縮めてオレの服の合わせ目に潜り込み、堀北もフンと不快そうに鼻を鳴らして教科書を開いた。オレの忠告が効いたのか、二人は言われた通りにそれ以上言葉を交わさず、静かに次の行動へと備えるように沈黙を保った。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 そして訪れた、昼休み。

 

 相変わらずどんよりとした停滞感が漂う教室で、オレがパンでも買いに行こうかと考え始めた時、一人の男子生徒がこちらへと歩み寄ってきた。

 

「綾小路くん、ちょっといいかな」

 

 声をかけてきたのは平田洋介。クラスの平和を第一に考える彼は、この崩壊寸前の状況をどうにか繋ぎ止めようと、朝から必死に動き回っていたはずだ。

 

「実は、須藤くんたちのことで、少しクラスのことで相談があって……僕も何か協力できないかなって……」

 

 平田の口から出た名前に、オレは納得する。先日行われた小テストの結果、須藤、池、山内の三人は赤点危機の渦中にあり、平田の勉強会をも拒絶しているという噂は、すでにオレたちの耳にも届いている。だからこそ、堀北も彼らの為に勉強会を開いたのだが、その結果は見るも無惨なものに。

 

 そして、平田の耳にも入ったのであろう、昨日の勉強会の末路が。このままでは次の中間テストで退学者が出る。それを防ぐため、オレたちにも協力を呼びかけようとしたのだ。

 

 ──だが、彼が最後まで言葉を紡ぐ前に、隣から氷点下まで凍りついた声が割り込む。

 

「平田くん。そんな価値のない人間たちのために、どうして私たちが貴重な時間を割かなければならないの?」

 

 席を立ち上がった堀北が、平田の言葉を容赦なく遮った。その瞳には、いつもの理知的な冷徹さではなく、刺々しいまでの拒絶の色彩が満ちている。

 

「自業自得の落ちこぼれを救う義理なんて、私や綾小路くんにはないのよ。そんな暇があるなら、自分の心配でもしていればいい。むしろ、あなたのその行動で落ちこぼれを救ったとして、今後もDクラスにダメージを与える足手まといが居続けると思えば辟易するわ──行きましょう、綾小路くん」

 

 平田の提案を冷たく足蹴にすると、堀北はオレの制服の袖を強い力で掴み、無理矢理に教室の外へと連れて行こうとした。目の前で突如として剥き出しにされた不必要な攻撃性に、平田はショックと困惑を隠せない表情のまま、立ち尽くすことしかできない。

 

 オレは彼女に引っ張られながら、その横顔を冷ややかに観察した。

 

 ……なるほど。これがアディトンの影響か。

 

 オレは内心で、その変化の理由を理解し、納得していた。

 

 勿論、今までの堀北鈴音も他者に対して排斥的であり、協調性に欠ける人間だった。しかし、それらの行動には、常に彼女なりの「一部の理」が存在していたはずだ。自身の能力に対する絶対的な自信や、無駄な馴れ合いを排するという合理的なスタンスが、彼女の防壁を形作っていた。

 

 けれども、今の彼女が口にしているのは唯の合理的な理由だけではない。感情に引きずられた嫌悪が先導した幼稚な我儘と、歪んだ自己正当化による強弁だけで成り立っている。ましてや他人の行動にまで口を出し始めていた。

 

 己の焦燥やストレスを他者への攻撃に変えてぶちまけている──それはまさに、アディトンという精神の檻が汚れ、彼女の内面を蝕み、歪みを加速させている。

 

 廊下に出たところで、オレのポケットから這い出てきたヒュロポスが、オレの肩の上へと移動し、耐えかねたように小さな声で注意を促した。

 

「ちょっと、ツンツンさん……今の言い方は流石に意地悪すぎるのよ。人間さんの友達を傷つけるのはダメなのよ……!」

 

 その言葉が、堀北の内で張り詰めていた何かの糸を、決定的に断ち切った。

 

「うるさいわね……っ!  部外者は口を挟まないでちょうだい、このポンコツ!」

 

 イライラが頂点に達したのか、激昂した堀北は反射的に右手を振り上げ──オレの肩の上で羽を縮めていたヒュロポスに向けて、思い切りその手の平を振り下ろした。

 

 パチン、と現実の廊下に、乾いた肉声の音が響く。

 

 はたかれたヒュロポスの小さな身体は、放物線を描いて冷たいコンクリートの床へと転がっていった。

 

「あ……」

 

 一連の行動を終えた瞬間、堀北の動きがピタリと止まった。

 

 彼女は自分の右手の平を見つめ、それから床に転がったヒュロポスと、オレの無感情な視線に気づいた瞬間、その顔から急速に血の気が引いていった。顔を真っ青にして、自分の指先をガタガタと震わせ始める。

 

「ち、違う……私は、こんな……これは、違うわ……」

 

 無抵抗な存在に対して、感情のままに暴力を振るってしまった。その事実が、彼女自身の合理性とプライドを内側から崩壊させていく。

 

 勉強会で須藤に怒声を挙げられようと、不真面目な態度に辟易していようと、『自分のことを嫌いな女子が自ら近づいてきて友達になろうと画策』していても尚、一切の暴力的行為は行わなかった彼女が、だ。

 

 己の異常な変貌ぶりを振り返り、堀北は呼吸を荒くして、壊れた人形のように首を横に振った。

 

 精神の歪みが、現実世界を侵食し始めている。あまりにも速すぎる悪化。

 

「今日は早退するぞ、堀北」

 

 オレは彼女の瞳を真っ直ぐに見据え、有無を言わせぬ強い決定を告げた。

 

「今からアディトンに潜る。これ以上、現実世界にいるのは危険だ。お前のその歪み、今のうちに少しでも対処しておかなければマズイ」

 

 普段の彼女であれば、「なぜあなたの指示に従わなければならないの」と猛反発していただろう。だが、今の堀北には、自らを正当化するための防壁すら残されていなかった。

 

「……ええ。分かった」

 

 恐怖と混乱に身を震わせながら、堀北はオレの強い言葉に、ただ唯々諾々と従う。

 

 オレは床からヒュロポスを拾い上げる。堀北の様子を見たヒュロポスは「むぅ……」と小さく押し黙るだけでそれ以上は口にしない。

 

 それからオレたちは教室へと引き返し、茶柱に体調不良を理由にした早退届を提出した。目ざとく心配そうに声をかけてくる櫛田。その時、堀北の手がオレの手を握りつぶさんという勢いで握ってくる。オレは二、三言で短く切り上げて寮への道を辿る。

 

 昼休みで良かったのか悪かったのか。多数の生徒に目撃されながら学校を出ていく姿は注目をあまり集めたくないオレにとってはマイナスであろう。

 

 もっとも今更すぎる願いなのかもしれないが。

 

 学園の喧騒を背に受けながら、オレたちは足早に校門をくぐり抜ける。

 

 寮へと戻り、一度解散をして、待ち合わせは十分後の自動販売機の前。やってきた堀北は完全に意気消沈と化している。端末を開き、フォーラムの『寮の前のアドレス』を選択する。

 

 世界の色彩が急速に失われ、灰色の荒廃世界。昨日の突入時よりかは幾分か遠目に見える巨大な建造物は今もなお、その存在感をこの世界に放っている。

 

 オレたちは、彼女を蝕む歪みの根源へと迫るため──二回目のアディトン攻略へと向かうのだった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 現実世界での自販機前の風景は、ここでは赤暗い空の下、ひび割れたコンクリートと鉄屑が散乱する廃墟の路地裏へと様変わりしている。

 

 オレの隣に立つ堀北は、自分の右手のひらをじっと見つめたまま、まだ小さく身体を震わせていた。

 

 先ほど現実世界で感情を爆発させ、ヒュロポスを叩いてしまったという事実が、彼女の「優秀な自分」というプライドを内側から激しく蝕んでいるのだろう。

 

「……ツンツンさん、あたしは怒ってないのよ。だからそんなに落ち込まないでほしいのよ」

 

 オレの肩の上で、ヒュロポスが気遣うように青いレンズを明滅させた。だが、その心配の言葉すら、今の堀北にとっては己の醜態を突きつけられる刃でしかないようだった。彼女は痛々しく唇を噛み締め、何も言わずにただオレの後ろを付いてくる。

 

 フォーラムの奥にそびえ立つ、巨大な建造物──堀北の精神の歪みが産み出したアディトン。

 

 その重厚な鉄門の前に辿り着いた時、オレは微かに目を見開いた。昨夜、一人で訪れた際には完全に閉ざされ、一切の侵入を拒んでいたアディトンの門が、まるでオレたちの接近を歓迎するかのように、音もなく滑らかに開いていったのだ。

 

「……フリーパス、か」

 

「……そう」

 

 堀北は力なく呟き、開かれた門の奥を見つめた。彼女がこの空間に存在しているだけで、アディトンのシステム的な防衛機構はオレたちを「正当な所有者」として認識し、無条件で引き入れている。皮肉な話だが、彼女の精神の悪化が、この迷宮の攻略を容易にさせている。

 

 一歩足を踏み入れば、そこは昨日と同じ、天井すら見えないほどに本で埋め尽くされた巨大な図書館の迷宮。

 

 だが、昨夜と違うのは、幾つかのシャドウたちに一筋の光が指していることだ。

 

 ──Lahaaaaaa!

 ──Gyaaaaaah!

 

 オレたちは緑色の肌を持つシャドウや、宝石から飛び出た霊体を持つ異形を次々に倒す。

 

「ペルソナ──ジャックランタン、焼き尽くせ」

「次はあっちなのよ! イカロス、ガル!」

 

 二回、三回、四回、五回。

 

 都度、五回のシャドウの群れを、オレとヒュロポスは一切の無駄を排した連携で片付けていく。弱点を見抜き、ペルソナの相性を瞬時に切り替えるオレの戦い方に、後ろの堀北は声を出すことすらできず、ただ圧倒されたように見つめることしかできない。

 

 五回目の戦闘が終了し、最後のシャドウが消滅した瞬間──カチリ、と硬質な電子音が迷宮全体に響き渡った。

 

 昨夜、五色の光が飛び去った後に固く閉ざされていた、通路の最奥にある巨大な扉。その表面に走る幾何学的な回路が青く発光し、重々しい駆動音と共に、ゆっくりと内側へ向かって開いていくのが遠目でも見えた。

 

「人間さん、ツンツンさん、行くのよ!」

 

 ヒュロポスが翼をパタつかせて先を促す。オレは静かに頷き、警戒を怠らないまま扉へ近づき、その向こうへと足を踏み入れた。

 

 ──そこは、これまでのアディトンの風景とは、完全に切り離された空間だった。

 

 天高くそびえ立つ書架も、文字化けしたノイズの本も、ここには一切存在しない。

 

 壁も床も、チリ一つ落ちていないほどに白く、清潔感のある静謐な部屋。机の上には幾つかの参考書が綺麗に並べられて、本棚には幾つもの有名文学作品が並んでいる。

 

「……何で、ここが……」

 

 部屋に入った瞬間、堀北が目を見開き、愕然とした声を漏らした。その表情には、これまでの戦闘時以上の動揺と、隠しきれない困惑が浮かんでいる。

 

 オレは部屋の様子を冷徹に観察しながら、隣の少女へと視線を向けた。

 

「この部屋の内装に、何か心当たりがあるのか?」

 

「……っ、いいえ、何もないわ。ただ……あまりにもこれまでの場所と雰囲気が違うから、少し驚いただけよ。それ以上の意味なんてないわ」

 

 堀北は瞬時にいつもの冷淡な表情を取り繕い、視線を逸らすようにして言葉を濁した。だが、ここが堀北のアディトンである以上、その誤魔化しは作用しない。この部屋は彼女に縁深い場所だということは想像に容易い。

 

 そして、その白い部屋の中央に、ポツンと一台の家具が置かれていた。それは、現代の現実世界ではまず見かけることのない、旧時代の遺物──分厚いブラウン管のテレビだった。

 

 電源コードすらどこにも繋がっていないはずのそのテレビは、オレたちが部屋に足を踏み入れた瞬間から、画面にシャー、という不快な音と共に、白黒の砂嵐を激しく走らせていた。

 

「テレビ……? どうして、こんなものが……」

 

 堀北が眉をひそめ、不気味なノイズを放つテレビを睨みつける。

 

 オレはそのテレビの正面へと歩みを進め、その前に静かに立った。ヒュロポスもオレの足元で、青いレンズの焦点をテレビの画面へと合わせる。堀北も吸い寄せられるように、オレのすぐ隣へと並んだ。

 

 オレたちがテレビの前に完全に立ち、その画面を調べようとした──その瞬間。

 

 ジジ、ジジジッ──!

 

 鼓膜を刺すような激しいノイズと共に画面の砂嵐が大きくブレ、今までただの雑音を流していたテレビに、ザザッと掠れた色彩を伴った「映像」が流れ始めた。

 

「な、何なの……? 急に映像が……」

 

 堀北が息を呑む。

 

 画面に映し出されたのは、ひどく手ブレの激しい、誰かの「視点」の映像だった。カメラ越しというよりは、人間の記憶そのものを直接投影しているかのような、生々しい質感。

 

 その視線の先──日本家屋のリビングらしき場所の、勉強机に向かって座っている一人の人物の背中があった。

 

 それは、小学生くらいの、短い黒髪にメガネをかけた男の子だった。

 

 まだ幼いながらも、その背筋は定規で測ったかのように美しく伸びており、一切の無駄のない動作で淡々とノートに鉛筆を走らせている。その姿は、子供らしい隙や甘えが完全に排除された、完璧なまでの完成度を誇っていた。

 

 オレがその少年の正体に気づくとほぼ同時に、画面の奥から、くぐもった「声」が響いてきた。

 

 それは映像内の誰かが喋っているのではなく、この視点の主──幼い頃の、堀北鈴音自身の内面から溢れ出る独白。

 

『──兄さんは、いつでも完璧だった』

 

 テレビのスピーカーから流れる、幼く、しかし切実な少女の声。

 

『テストはいつも満点。スポーツも何をやらせても一番。大人の人たちはみんな、兄さんのことを褒める。兄さんは、私の、我が家の……いいえ、この世界の「正しさ」そのものだった』

 

 視点は、じっとメガネの少年の背中を見つめ続けている。そこにあるのは、純粋な、あまりにも巨大すぎる憧れの感情。

 

『兄さんの後ろ姿は、いつだって遠くて、高くて、眩しい。私は、あの兄さんと同じ景色が見たい。兄さんに、私のことを見てほしい』

 

 小さな手が、ぎゅっと自分の衣服の裾を握りしめるような、微かな衣擦れの音が映像に混じる。

 

『だから、私は決めた。兄さんが右へ行くなら私も右へ行く。兄さんが本を詠むなら、私も同じ本を全部覚える。私は、兄さんのようになる。兄さんの完璧な追従者になるの。それだけが、私が私でいるための──』

 

 ──ザザッ、ジジジッ……。

 

 そこで、突如として激しいノイズが再び画面を覆い尽くし、色彩のある映像は、元の白黒の砂嵐へと引き戻された。シャーという不快な雑音だけが、清潔な白い部屋の中に虚しく響き渡る。

 

「……あ……」

 

 隣に立つ堀北の口から、小さな、壊れたような声が漏れた。

 

 幽霊でも見たかのように顔を真っ白に染め、激しく拡張した瞳で、砂嵐の走るテレビ画面を凝視したまま、完全に凍りついていた。

 

 

「……先へ進むぞ」

 

 画面の砂嵐を見つめたまま硬直している彼女に、オレは極めて平坦な声を掛けた。彼女の内に秘められた「兄への盲信」とも言える歪みの一端。

 

「……分かっているわ」

 

 堀北はハッと我に返ったように小さく首を振ると、消え入りそうな声で応じた。

 

 白い清潔な部屋を出て、巨大な書架へ。マッピングしていた地図に従い、最短距離で次の扉へ。

 

 やはり、こちらも鍵は解除されている。

 

 扉を開き、現れたのは、板張りの床が厳かに広がる「武道場」のような部屋。

 

 先ほどの部屋と違い堀北に驚きは少なかった。となればやはりここは堀北鈴音に縁深い場所なのだろう。

 

 しかし、その厳格な空間の中央には、先ほどと同じブラウン管のテレビが、不釣り合いにポツンと鎮座していた。

 

 オレたちがその正面へと近づき、テレビの前に立つ。

 

 すると、まるでそれがトリガーであるかのように、激しいノイズを伴って画面に再び色彩が蘇った。映し出されたのは、少し成長した少女の視点。その目の前には、相変わらず非の打ち所のない佇まいで空手の型を取る、彼女の兄──堀北学の姿があった。

 

『兄さんは──どんな女性が好みなの?』

 

 映像の中の堀北が、背伸びをするように、どこか緊張した面持ちで尋ねる。完璧な兄の「基準」を知りたいという、純粋な問いかけ。

 

 対する兄は、妹の方を振り返ることもなく、ただ真剣に型を続けたまま端的に答えた。

 

『……髪の長い女性だ』

 

 ただそれだけの一言。だが、幼き彼女にとっては、それが世界の絶対的なルールとして刻まれた瞬間。

 

 映像の中の彼女の手が、まだ短い自分の髪に触れる。兄の好みに合わせるため、兄の視界に入るために「髪を伸ばそう」と、固く決意する瞬間が克明に描かれ──そして、映像は再び激しい砂嵐へと戻った。

 

「……っ」

 

 堀北は自身の長い黒髪を無意識に強く握り締め、屈辱に震えるように歯を食いしばった。己のアイデンティティの根幹にあるものすべてが、兄への妄執で塗り固められている事実を、他人に見られているのだ。その事実に耐えかねているのだろう。

 

 けれども避けることは出来ない。この部屋たちを調べていくこと以外にオレたちは手がかりを見つけられていない。

 

 三番目の部屋は、高度育成高等学校とは明らかに異なる、どこにでもある一般的な「中学校の廊下」だった。

 

 寂しげな夕暮れの光が差し込む廊下。その冷たい床の上に置かれたテレビの正面に立つと、三度、映像が流れ始める。

 

 だが、今回の映像は今までのように誰かの姿を捉えてはいなかった。 

 

 視点にあるのは、机の上に広げられた分厚い参考書と、数式がびっしりと書き込まれたノート。それらを解いては次のページへ。交互に、ただ機械的に激しく動かす視界だけが延々と続いている。

 

 他者との関わりを一切断絶し、孤独の中で机に向かい続ける少女の記憶。そこに、ひどく暗く、湿った独白が重なる。

 

『どうして……どうして兄さんは私を避けるの?』 

『これだけ勉強しても、これだけ努力しても、私は兄さんのようになれない……。悔しい、悔しい、悔しい──』

『私は……兄さんに呆れられているのかしら。見捨てられて、もう二度と、私を見てはくれないんじゃないかって……怖い。私は、どうすれば──』

 

 張り詰めた悲鳴のような独白を残し、画面はザザッとノイズを走らせてブラックアウトした。

 

「ツンツンさん……」

 

 オレの肩の上で、ヒュロポスが痛ましそうに小さな声を漏らす。

 

 堀北はもう、弁解する言葉すら持ち合わせていなかった。ただ呼吸を荒くし、己の脆弱な内面が暴かれていく恐怖に身を竦ませている。

 

 そして、書架の廊下の突き当たりにある重い扉を開けた瞬間──オレの目に飛び込んできたのは、見たことのある光景。

 

 高度育成高等学校、その門の前にオレたちは立っていた。そして門の中央に置かれたテレビ。

 

 オレの背後をついてくる堀北はただ自身の指先をガタガタと震わせていた。暴かれていくのは、彼女が誰にも見せたくなかった、そして自分自身でも直視を拒んでいた脆弱な心の裏側。

 

「……行くぞ」

 

 テレビの前に立ち塞がる。ジジジ、と激しい電子ノイズを上げて、画面が発光した。

 

 映し出されたのは、色鮮やかながらも、どこか歪んだ色彩の入学式の風景。

 

 視点は、新入生席の最前列付近から、壇上をじっと見あげている。そこには──在校生代表、そして生徒会長として、マイクの前に立ち、厳格な面持ちで歓迎の言葉を述べる彼女の兄、堀北学の姿があった。

 

『──兄と同じ、この高度育成高等学校に入ることができた』

 

 スピーカーから響いてきたのは、張り裂けんばかりの「喜び」に満ちた、彼女自身の独白だった。

 

『ついに同じ場所に立てた。誰もが羨むこの名門校の門をくぐり、私は兄さんと同じ世界に、同じ空気に触れている。努力は報われた。これでようやく、あの遠い背中に追いつくためのスタートラインに立てた──』

 

 兄の姿を見つめる視線には、狂気的なまでの歓喜と安堵が混ざり合っていた。しかし、その歪んだ喜びの映像は、一瞬のノイズと共に、険悪な空気の漂う「Dクラスの教室」へと切り替わった。

 

 画面に映るのは、授業中にもかかわらず私語を慎まない池や山内、退屈そうに窓外を眺める須藤たちの姿。

 

『……だけど、何、このクラスは』

 

 独白の声が一変し、激しい「落胆」と「嫌悪」が帯びる。

 

『揃いも揃って、緊張感のない、授業すらまともに受けれない人たちばかり。この学校のクラスメイトたちは、一体どうなっているの? なぜ、完璧な兄さんを追う私が、こんな人間たちと同じ底辺の檻に放り込まれなければならないの? 何かの間違いよ。私は彼らとは違う。私は優秀で、正しくなければならないのに──』

 

 激しい拒絶の思考と共に、画面の色彩が急速にセピア色へと褪せていく。そして訪れたのは、あの運命の「五月一日」の朝だった。

 

 教壇に立つ茶柱佐枝の、冷徹な横顔。

 

『今月のプライベートポイントは0だ』

 

 茶柱の声がスピーカーから響いた瞬間、画面全体が真っ赤なノイズに染まった。信じられないものに直面したかのように激しく震える。

 

『そんなわけがない。私は授業を完璧に受け、規律を守り、誰よりも正しく過ごしてきた。それなのに、周囲の落ちこぼれたちの連帯責任で、私の努力まで全て否定されるなんて……そんなの認めない。認められるはずがないわ……っ!』

 

 画面のノイズは収まらず、映像は激しく明滅しながら、図書室の片隅で行われた「勉強会」のシーンへと飛ぶ。

 

 差し伸べた手を須藤たちに手酷く拒絶され、決裂したあの放課後。 

 

『私が、彼らを救い上げてあげようとしたのに。Dクラスという泥沼から引き上げてあげるために、わざわざ時間を割いて手を差し伸べてあげたのに……! なぜ私の正しさが、彼らには理解できないの──!』

 

 思い通りにいかない現実への猛烈な苛立ちと、己の無力さへの焦燥が、悲鳴となって空間に響き渡る。そして──映像は、最も暗く、冷たい「その日の夜の寮の裏」へと切り替わった。

 

 街灯の光すら届かない暗闇の中。

 

 画面の視界が、突如として激しく上下に揺さぶられ、背後の壁へと叩きつけられる。視線の先には、冷たい瞳で自分を見下ろしている兄がいた。完全に存在を否定された、あの対峙の瞬間。

 

 兄が去っていく、その瞬間。テレビの画面にピキピキと無数の「亀裂」が走り始めた。

 

『あ……、兄さん……っ、違う、私は……私は完璧に……っ!』

 

 独白はもう、言葉の形を成していなかった。それはもう、ただの嗚咽。

 

『兄さんから、完全に拒絶された……。私のすべてだった「正しさ」が、アイデンティティが、一瞬にして粉々に砕け散っていく……。私の何がダメだったの? どうして私を見てくれないの? 兄さん、兄さん、兄さん、兄さん──!!!』

 

 パツィィィィン──!

 

 精神の決定的な「亀裂」を証明するかのように、ブラウン管テレビの画面が、内側から激しい爆発を遂げて粉々に砕け散った。黒い硝子の破片が飛び散り、スピーカーからはシャーという、耳を劈くような絶叫に似た雑音が響き渡る。

 

「……っ、うあ、あああぁぁぁ……っ!!!」

 

 隣に立つ現実の堀北は、両手で頭を抱え、狂ってしまいそうなほどの自己嫌悪と絶望に身を震わせながら、その場に激しく崩れ落ちた。

 

 彼女の目からは大粒の涙が溢れ、床へと滴り落ちていく。兄への妄執、クラスメイトへの傲慢、そして突きつけられた決定的な拒絶──それらすべてが、彼女の精神の檻を内側から完全に破壊しようとしている。

 

「ツンツンさん! ツンツンさん、しっかりするのよ! あたしがここにいるのよー!」

 

 ヒュロポスが焦燥の声を上げ、彼女の元へと駆け寄る。

 

 地響き。塔全体を揺らすような音は数十秒、続き収まる。

 

「……立て、堀北。ここに長居する意味はない」

 

 床に膝をつき、溢れる涙を拭おうともせず嗚咽を漏らす堀北鈴音を見下ろし、オレは極めて淡々と声を掛けた。

 

 すべてを剥ぎ取られ、己の根源を白日の下に晒された彼女の姿には、かつての孤高な佇まいの面影などどこにもない。その姿はただの、兄に拒絶された傷を抱える一人の脆弱な子供。

 

「ちょっと人間さん! なんて冷たいのよ! ツンツンさんは今とっても傷ついているのよ! 少しは慰めてあげるとか、優しい言葉をかけてあげたらどうなのよー!」

 

 ヒュロポスが短い羽を激しくバタつかせ、クリアな青いレンズから抗議のグリッド光を明滅させてオレを強く非難した。

 

 だが、オレはその声を完全に無視し、一歩踏み出してうずくまる堀北へとさらに言葉を投げかける。

 

「立て。お前がそのままだというのなら、オレは先に行く」

 

「……っ……、……ぅ……」

 

 堀北は顔を伏せたまま、震える呼吸を繰り返すだけで、立ち上がる気配すら見せない。これ以上の言葉は無駄だと判断し、オレは躊躇なく彼女への見切りをつけた。

 

 救い上げる手を用意するつもりはない。ここで歩みを止める程度の人間は、この異世界においてただの足手まといでしかないからだ。

 

 オレはくるりと背を向けると、講堂の部屋の出口である重い扉に向かって歩き出した。

 

 コツ、コツ、とオレの足音が冷たい床に響く。

 

「まって……」

 

 背後から、蚊の鳴くような、掠れた小さな声が聞こえた。

 

 置いていかないで、という魂の叫び。だが、その弱々しい懇願は、耳には届いても、足を止める動機にはなり得ない。オレは歩みを緩めることなく、扉の真ん前へと辿り着き、そのノブに手をかけた。

 

 ──その瞬間。

 

 ドガッ!

 

「この大馬鹿人間さんっっ!!!」

 

 突如として、かなりの質量を持った金属の塊が、オレの脇腹へと全力で体当たりをかましてきた。不意を突かれたオレの身体が、わずかに横へとよろめく。

 

 視線を落とせば、謎の鳥型のメカニカル・マスコット──ヒュロポスが、金属の装甲を怒りで真っ赤に加熱させるかのような勢いで、オレの前に立ちはだかっていた。

 

 意識が扉の方へ向かっていたとはいえ、反応できない速度でオレに一撃を入れたヒュロポスに素直に感心してしまう。

 

「あの子は泣いているのよ! とっても悲しくて、とっても苦しいから泣いているのよ! どうして待ってあげないの!? どうして信じてあげないの!? 人間さんには、人の心っていう温かいものがプログラムされてないのよーっ!」

 

 ヒュロポスはクリアな瞳の奥に、無垢な『怒り』と『悲しみ』を宿しながら、オレを烈火の如くまくし立てた。

 

 オレは脇腹の衝撃をやり過ごし、冷ややかに足元のマスコットを見下ろした。

 

「ここにいて、オレが堀北に心にもない慰めの言葉をかけ、優しく手を引いて立ち上がらせたとして、その先に何がある」

 

「え……?」

 

「今度は、兄の代わりにオレに依存させるのか? 他者に寄りかからなければ自立すらできないその精神の『弱さ』こそが、アディトンを生み出した諸悪の根源だろう。本人が内側から変わろうとしない限り、甘やかす行動は何の解決にもならない」

 

「それは……」

 

 ヒュロポスは一瞬だけ、言葉を詰まらせて押し黙った。オレの言う通り、ここから先の対処をするには、本人の意志が不可欠だという事実を、理解してしまったのだろう。

 

 オレたちにまだこのアディトンをどうにかする術は存在しない。オレたちよりも遥かに先にこの場所を研究していた何者かですら対応できなかったのだ。なればこそ、このアディトンの造物主たる堀北本人の意思は重要なファクターとなる。

 

 前の実験結果では得られなかった新しい結果を、新たな結末を迎える為には――本人の回復意思は最低限クリアすべき代物であると推測できる。

 

 だからオレは堀北を連れ出した。オレが求める結末のために。

 

「──それでも、待ってあげるのよ!!」

 

 論理を完全に放棄した、力技のゴリ押し論法。ヒュロポスはでんとその場に短い足を投げ出して座り込み、短い羽を器用に胸の前で組み合わせてみせた。

 

「人間さんがツンツンさんを待ってあげないっていうなら、あたしもここから一歩も動かないのよ! ストライキなのよ! あたしは絶対に動かないのよ!」

 

 オレは小さくため息を吐く。

 

 この状況でヒュロポスという戦力と喧嘩別れして失うのは、オレにとっても都合が悪い。彼女がいなければ、オレ単体での戦闘効率は著しく下がる上に今後の探索にも支障が出る。

 

「待てばいいんだな」

 

 オレは扉にかけた手を離し、壁に背を預けて腕を組んだ。ヒュロポスは「むー」と不満げにレンズを明滅させながらも、オレがその場に留まったことに免じて、それ以上の抗議を止めた。

 

 それから、短くない時間が経過した。

 

 灰色の沈黙が部屋を支配する中、やがて、かすかな音が響く。

 

 うつむいていた堀北が、ゆっくりと立ち上がり、乱れた制服を几帳面に整えながら、こちらへと一歩一歩、近づいてきた。

 

「……もう大丈夫よ、綾小路くん」

 

 オレの前に立った彼女の声は、驚くほど平穏だった。

 

 だが──その顔を見た瞬間、オレの眉が微かに動く。

 

 堀北の口元は、綺麗な弧を描いて微笑んでいた。だが、その切れ長の瞳には一切の光がなく、完全に死に絶えている。これまでの人生で一度もしたことがないのだろう、あまりにも歪で、今にもひび割れて崩れ落ちそうな、痛々しい作り笑い。

 

 兄に拒絶された自分を隠すため、そしてオレに見捨てられないために、彼女は壊れた心の上に、無理やり新たな「聞き分けの良い自分」という歪な仮面を張り付けたのだ。

 

「ツンツンさん……本当に大丈夫なのよ? 無理しちゃダメなのよ……?」

 

 そのあまりの不気味さと痛々しさに、さっきまで恋愛禁止だの何だのと騒いでいたヒュロポスが、本気で心配そうな声を漏らして彼女を見上げる。

 

「ええ、本当に大丈夫よ。さあ──行きましょう」

 

 堀北は感情の籠らない引きつった笑顔のまま、そう促し、自ら進んで講堂の扉を押し開けて外へと足を踏み出した。

 

 だが、扉を潜り抜けた瞬間、オレたちの肌を襲ったのは、文字通り「死」を予感させるほどの、圧倒的な暗闇だった。

 

 オレたちの視界に広がっていたのは、昨日までのアディトンの姿ではない。見渡す限り天高くそびえ立っていた巨大な書架のすべてが、暗闇に覆い尽くされている。

 

「暗いのよー! 怖いのよー! それにちょっと寒いのよ!」

 

 ヒュロポスの言の通りにどこか寒さすら感じてしまう。

 

 この異常なまでの変化、そして空間全体から漂う圧倒的な崩壊の気配──。

 

「……時間がないのかもな」

 

 オレは、静かにそう悟った。

 

 彼女の精神の核が、現実世界でのストレスと、先ほどの記憶の開示によって、いよいよ末期症状を迎えている。このまま放置すれば、このエリアがどうなるのか予想もつかない。

 

 ここからの選択肢はいくつかある。

 

 残された、まだ調べていない最後の部屋を探索するか。

 

 それとも新しく出来た――書架の中央。それなりに距離があるにも関わらず、それでも目に入る程の螺旋階段。わかりやすく光源が存在する天にも届きそうな螺旋階段を進むか。

 

 そして──これ以上のリスクを侵さず、すべてを諦めて現実世界へ撤退するか。

 

 オレは腕を組み、思考を巡らせる。

 

 本来なら、ここで堀北鈴音という駒を切り捨てるのが、オレにとって最もリスクの少ない最適解だ。彼女さえ見捨てれば時間と共にフォーラムに現れたアディトンは、堀北の退場という現実を伴って消え去るだろう。

 

 遠くない内に、彼女の心は完全に限界を迎える。その時、アディトンが迎える末路は二つに一つ。

 

 謎の紙片に書かれていた情報が、オレの脳裏に蘇る。

 

 一つは【剪定】。現実の彼女が問題を起こして、その結果退学になるという結果を持ってアディトンは切除される。

 

 もう一つは【崩壊】。コアの制御が利かなくなり、精神そのものが完全に狂い、再起不能になり――その結果は植物状態。

 

 どちらを選んでも、オレの知ったことではないはずだった。

 

「──螺旋階段へ行くぞ」

 

 オレの口から出た方針に、ヒュロポスが「えっ」とレンズを丸くした。

 

 論理も何もない、非合理の極みである方針だった。リスクしかなく、見返りも不確定。他者を救うために、わざわざ危険な深部へと足を踏み入れるなど、本来なら絶対にあり得ない。

 

 けれども──オレの胸の奥を動かしたのは、理屈ではない、未知への純粋な『好奇心』だった。

 

 見てみたいと思ってしまったのだ。

 

「……ええ。あなたがそう言うなら、従うわ」

 

 堀北は再び、あの歪な作り笑いの仮面を顔に張り付け、オレの後ろへと付いてくる。

 

 オレたちは、中央にそびえ立つ、螺旋階段のステップへと、暗闇の中歩き始めた。

 

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