Persona x Classroom of the Elite 作:仔羊肉
暗闇の中、唯一許された光源に向かって足を進め、オレたちは螺旋階段の麓まで辿り着いた。闇の中ではシャドウもいて、数回の戦闘を強いられたが大きな傷もなく、体力的にも問題はない。
先ほどまでの整然とした図書館の面影は消え失せ、不気味な闇が広がり満ちるアディトンの中を、オレたちは天へと続く螺旋階段に沿って一歩ずつ昇っていく。
足音だけが、不気味なほど冷たく響く。
「……うぅ、暗いのよ、寒いのよ……。なんだか、お葬式みたいな重苦しい空気なのよ……」
オレの頭の上に乗ったヒュロポスが、短い羽を縮こまらせ、レンズの瞳を不安げに明滅させながらぶつぶつと呟く。いつもなら「美少女監督」を自称して騒がしいはずの謎の鳥も、この空間が放つ冷気のプレッシャーには抗えないらしい。
少なくとも寮の階段ならば十数階層を昇ったタイミングでオレは微かに歩調を緩め、後ろを歩く少女へと視線を向けた。
「堀北。大丈夫か」
「……ええ、もちろんよ。心配してくれてありがとう、綾小路くん」
振り返った堀北は、荒い息を吐き、肩を小刻みに震わせていた。にもかかわらず、その口元には、やはりあの感情の籠らない綺麗に引きつった「作り笑い」が張り付いている。
切れ長の瞳には一切の光がなく、ただオレの指示を待つ操り人形のような虚ろさだけを湛えていた。
限界なのは明白だった。オレは腕を組み、階段の踊り場にある少し開けたスペースを指差す。
「一度、休憩を挟むぞ」
オレが段差に腰を下ろすと、堀北も全否定することなく、指示に従って静かに隣へ腰掛けた。以前の彼女なら強がって拒絶していたかもしれない。
「人間さんたち、これを飲むのよ! カロリーと水分を補給して、元気出すのよ!」
不意に、ヒュロポスが短い足を投げ出して踏ん張った。
すると、彼女の白い金属製のお腹が、まるでシステムデスクの引き出しのようにと音を立てて前方にスライドした。
「……おい」
オレは思わず、その光景に目を丸くした。
ヒュロポスがお腹の引き出しの奥から短い羽で引っ張り出したのは、冷えたスポーツドリンクのペットボトルが三本。ぬいぐるみ程度の大きさの腹に収まるにはサイズが大きすぎる。
そして手に取った飲み物にも見覚えがあった。冷蔵庫に冷やしておいた筈のスポーツドリンクだ。一度、寮に戻って出る際に「準備してるのよー! 少し待っててなの!」とか言っていたが……。
「お前、そんな真似ができたのか」
「ふふん、女の子なんだから秘密の一つや二つ、当然あるのよ! 驚いた? 驚いたのよ!?」
誇らしげに胸を張るヒュロポスを無視し、オレは受け取ったペットボトルを一本、堀北へと手渡した。彼女は「ありがとう」と小さな声で言い、機械的に蓋を開けて口をつける。
喉を潤す彼女を見つめながら、オレは冷徹に現実を切り出した。
「堀北。この螺旋階段を上り詰めた先には、お前の『コア』──アディトンの心臓部が待ち受けている可能性が極めて高い」
「……コア」
「ああ。そこにいるのは、今までの有象無象とは一線を画す強力なシャドウだ。今のオレの力でも、戦いながらお前を完璧に庇いきることはできないかもしれない。戦闘が始まったら、お前はなるべくオレから離れて身を隠してくれ。それと、不用意な行動は絶対に慎め。いいな」
堀北は一切の不満を漏らさず、光のない瞳でオレを見つめ、二つ返事で深く頷いた。
「ええ、分かったわ。あなたの言う通りにする。私は絶対にあなたの足手まといにはならないし、不用意なことはしない。だから、だから……」
今の彼女は、実の兄から存在を全否定された絶望から身を守るため、「自分で考えること」を放棄している。異世界という環境においてオレという新たな上位存在を見つけ、その命令に無条件に従う人形になることで、心が完全に壊れるのを必死に引き止めているのだ。依存先をすり替えただけの、歪な過剰適応。
「休憩は終わりだ。行くぞ」
オレたちは再び立ち上がり、暗闇の螺旋階段を上り始める。だが、その終わりは、唐突に訪れた。
数分と歩かないうちに、突如としてオレたちの足元から大理石のステップが文字通り消滅したのだ。
気がつけば、オレたちは四方が果てしない空白で満たされる奇妙なフロアの中央に突っ立っていた。
「な、何なのよこれ! 階段がなくなっちゃったのよー!」
ヒュロポスが悲鳴を上げる。
そのフロアの、ほんの数十メートル先。暗闇の奥から、静かに歩み出てくる『一人の男』の姿があった。
端正な容姿に、眼鏡の奥から放たれる、すべてを見透かすような冷徹な眼光。高度育成高等学校の制服を乱れなく着こなしたその姿は。
「……兄さん?」
堀北の口から、仮面がひび割れるような掠れた声が漏れた。
生徒会長──堀北学。
次の瞬間、身体が、弾かれたように前へと駆け出そうと堀北は動く。
「待て、 動くな」
暗闇の奥に立つ『堀北学』が、凍てつくような低い声で命じた。
「──鈴音。来い」
「ッ!」
その絶対的な命令は、オレとの約束を容易に上書きする。
堀北はオレの制止を振り切り、狂ったように兄の幻影へと向かって駆け出していく。その背中から、消え入りそうな、けれど明確な一言がオレの鼓膜を叩いた。
「……ごめんなさい」
約束を破る罪悪感よりも、兄という絶対神に命じられた言葉が勝る。
堀北が『学』の眼前に辿り着き、その白い手を伸ばそうとした──その瞬間だった。堀北学の輪郭が激しくぶれる。
次の瞬間、そこに立っていたのは、大人の男ではなかった。
それは、白いワンピースを着た、異様に背の低い──幼い少女の姿だった。
顔立ちは堀北鈴音そのもの。けれど、その瞳にはどす黒い怨嗟の光が宿っている。
『──卑怯者』
幼き少女の姿をした『影』が、冷酷な声で、目の前の堀北鈴音を断罪した。
『お兄さんを免罪符にして、他人を足手まといと決めつける愚かさ。自分の能力を過信して、自分の考えこそが常に正しいと思い込む傲慢さ……』
「な、何を……」
『それだけじゃないわ。今のあなたを見て。その愚かさからも、傲慢さからも目を背けて、今度は隣の男の言う通りに動くだけの人形になった。傷つきたくないからって、自分で考えることすらも辞めようとしている……どこまで弱くて、どこまで醜いのよ、卑怯者』
最も見たくなかった己の脆弱さを、最も純粋だった頃の自分の姿で突きつけられる。その直接的な精神の弾劾に、堀北は頭を抱えて激しく首を振った。
「やめて……! やめなさい……っ! 私は、私はただ、兄さんに……!」
『兄さんに認められたかった? そんなのはもう無理よ、あなたの愚かしさが全てを壊した。一人じゃ何もできない出来損ない。出来損ないのくせに、お前が変わる気が無いのも、己の醜さを認める気が無いのも、私は全部知っているわ。だって、私はお前で、お前は私なのだから──だったら、このままここで、私と一緒に朽ちちまえばいい』
「いやあぁぁぁぁぁぁっっ!」
堀北が悲鳴を上げた瞬間、幼い少女の影の背後から、灰色の巨大な触手が噴き出した。少女の身体を覆い隠すように急激に変貌を遂げていく。
白銀の氷が鎧となり、巨大な『盾』が形成され、その姿は一瞬にして、巨大な槍を携えた女巨人へと変貌する。
そして、堀北鈴音本人の身体は、その巨人の胸の奥へと、泥に沈むようにして完全に呑み込まれてしまった。
『──ここは私の聖域。不可侵領域。侵入者は、誰であろうと許さない。誰一人として踏み込むことを許さない』
兜が開き美しい造り物の顔が出てくる。幾重にも重なったノイズ混じりの絶叫が放たれる。
凄まじい風圧を伴い、シャドウが手にした巨大な大理石の槍が、凄まじい速度でオレとヒュロポスめがけて突き出された。
「人間さん、来るのよっ!」
「ジャックランタン!」
オレは間一髪の所で槍を避けては精神の海から最速で火炎の断片を引きずり出し、己の前に顕現させる。
「アギラオ!」
放たれた高熱の爆炎が、突進の軌道上ではじけた。ドォン、と激しい爆破音が轟く。だが、直撃したはずの炎は、アテナの肉体を覆う分厚い氷の鎧を微かに融かしただけ。
ダメージが通っていない。
「あたしも行くのよ! イカロス──ガル!」
ヒュロポスの叫びと共に、鋭利な疾風の刃がアテナの側頭部へと襲いかかる。氷の鎧に風の刃が激突し、鋭い火花を散らした。しかし、その一撃の直後、オレの動きは完全に停止した。
「……チッ」
アテナの氷の鎧が、一瞬だけ激しい電子ノイズを放ち、その半透明な大理石の胸部が透けて見えたのだ。
そこには──巨大なシャドウの心臓部で、まるで深い眠りに落ちたように瞳を閉じ、白い霧のコードに全身を縛り付けられた、堀北鈴音の本体が横たわっていた。
「ツンツンさんが、シャドウの中に閉じ込められちゃってるのよ……っ! これじゃ、本気で攻撃したら、ツンツンさんまで粉々になっちゃうのよおぉ!」
「胸の核は狙えない。継戦能力を削ぐぞ。標的は、あの巨大な槍か、あるいは左腕の盾だ」
「分かったのよ! 落とさせればいいのね!」
オレの指示に、ヒュロポスが鋭く応じる。
「火力を集中させろ、行くぞ」
「イカロス、もう一発なのよ! ガル!」
再び放たれた疾風の刃が、敵が構える大理石の槍の柄を容赦なく引き裂こうと突き進む。オレもまた、ジャックランタンの魔力を引き絞った。
「アギラオ」
爆炎の塊が、風の刃を追いかけるようにして槍の穂先に炸裂する。風と火炎の複合攻撃。だが、大理石の女神は眉一つ動かさず、左腕の巨大な盾を掲げた。凄まじい衝撃波がフロアを満たしたが、煙の向こうから現れた盾には、焦げ跡すら残っていない。
相性が悪い。ならば──。
「ペルソナチェンジ。ジャックフロスト」
オレは一瞬で精神の断片を切り替え、氷の精霊を脳裏に固定する。炎の対極にある冷気の魔力を、敵の盾へと収束させた。
「ブフーラ!」
アギラオを上回る濃密な絶対零度の吹雪が、掲げていた盾に向かっていく。高熱からの瞬間冷却。見た目通りに金属ならば熱衝撃により割れるだろう。
しかし、それは希望的観測。熱力学が働く世界ならアギラオもブフーラも存在しない。
大理石の巨人は、ただ冷酷に槍を一振りした。それだけで、空間を支配しかけた冷気の結界が、ガラス細工のようにあっけなく霧散した。
――何故、冷気は盾で受け止めなかった?
熱や風撃は盾で受け止め、冷気は槍で払った――。オレの思考は隣で驚愕するヒュロポスによって一度、中断される。
「うそ……魔法が全然効かないのよ! ずるいのよ!」
ヒュロポスのレンズの瞳が焦燥に染まる。
「こうなったら、あたしの自慢のパワーでへし折ってやるのよ! イカロス、美少女突撃──ッ!!」
業を煮やしたヒュロポスが、ペルソナに特攻を命じた。イカロスが超高速の弾丸と化し、敵の持つ盾を狙って一直線に突進していく。
だが、その瞬間。オレの視線は、巨大なシャドウの『異変』を明確に捉えていた。
迫り来るイカロスに対し、大理石の女神は迎撃の構えを取らない。むしろ盾や槍を使わずに腕を交差させて防ごうとしているのだ。
あまりにも異質な構え。嫌な予感が脳髄に響き渡る。
「ヒュロポス! イカロスを戻せ!」
オレは喉が裂けるほどの鋭さで言い放った。
「えっ、なんなのよ──ひゃぅあ!」
オレの声に、ヒュロポスは思考よりも先に本能で反応した。激突するわずか数十センチ手前、イカロスが翼を逆噴射させ、空間の空気を爆発させて無理やり急ブレーキをかける。そして、反転するイカロスに向かって無数の棘が伸びる。
「い、痛ったーい! 痛いのよー!」
串刺しになることは避けたものの、何本かはイカロスを掠める。ペルソナはダメージを受けるとオレたちにもフィードバックで痛みが伴う。
数カ所に傷がついたイカロスと同じ場所を羽で押さえながらヒュロポスは憤慨する。けれども女巨人の様相を見れば怒っていた顔はすぐさま泣き顔に変わった。
「ひ……ひぃぃぃ……ッ!? あ、危なかったのよぉ……! 全身からトゲが生えてきたのよぉ!」
イカロスを大慌てで手元に引き戻し、ヒュロポスがガタガタと金属体を震わせながら冷や汗を流す。巨人から突き出た無数の針は、他人を寄せ付けないため山嵐と酷似している。
オレはジャックフロストを静かに消滅させ、巨大なシャドウの姿を凝視する。
近づこうとすれば全身の針で串刺しにし、離れて魔法を撃てば盾と槍で無効化する。他者の干渉を一切認めず、ただ引きこもり、近づく者すべてを封殺する。
「人間さん、これじゃ手も足も出ないのよ! どうすればいいのよぉ!」
恐怖にレンズを震わせるヒュロポス。だが、オレの思考は驚くほど冷静だった。この目の前のシャドウが展開する「絶対の拒絶」にはシステム上の穴がある。
行動を振り返ればその違和感は強調される。
「ヒュロポス、ガルだ」
「もー、それは効かないのよー。てもしょうがないから撃ってあげるのよ! ガルッ!」
全てを切り刻む風撃が女神に襲いかかるが――盾に完全に防がれる。そしてオレは再度としてブフーラを唱える。今度は槍。
――やはり、槍の一振りで霧散させられた。
今の状況、魔法に対して絶対的な防壁を維持しているのは、左右に構えた『槍』と『盾』の存在。そして、その二つの武装には明確な属性の穴――弱点が存在しているのではないか?
オレの放った最後のブフーラ。その位置は盾の下半分を目掛けて放ったものだ。それを振り払うためにわざわざ地面に槍を刺してまで防いだ。本当に魔法に対して無敵であるのならばそんな動きは必要ない。よっぽどやられて嫌なのだろう。
あの槍と盾さえ排除できれば、今の状況を維持するシステムは根底から崩壊するはずだ。狙うべきは、両武装の破壊。
それぞれの弱点を正確に撃ち抜く必要がある。
「ヒュロポス、作戦を切り替えるぞ。オレの合図にタイミングを完全に合わせて、もう一度攻撃を仕掛ける」
「ふぇ? そんなこと言ったって、普通に撃っても弾かれるだけなのよ!」
「今度は狙いを変える。お前の『ガル』は、盾ではなく『槍』を狙え」
「槍を……? じゃあ、人間さんはどうするのよ?」
「オレは『ブフーラ』を『盾』に撃ち込む。風の刃が槍の弱点を襲うのと同時に、絶対零度の冷気を盾の弱点へと衝突させる。ただし気づかれないために射線と視線は逆の獲物を狙う」
オレの意図を察したのか、ヒュロポスは瞳のレンズをキチキチと回転させ、力強く頷いた。
「えっとえっと! 盾を狙いながら槍を見る? えっと、槍を見ながら盾を狙う? えっえっ……」
頭の上に幾つもの疑問符が浮かぶヒュロポスに対して「お前は盾を見ながら槍を狙うんだ」と言えば小さな声で「盾を見ながら槍を狙うのよ、盾を見ながら槍を狙うのよ」とぶつぶつ呟きながらお互いの立ち位置、獲物の射線上へ広がる。
大理石の女巨人が、再びこちらを排除せんと巨大な槍を持ち上げる。そのモーションの起こり、完全に静止した世界の境界線で、オレは牙を剥いた。
「――今だ、撃て!」
「盾槍ガルなのよぉぉぉっ!!」
ヒュロポスの絶叫と同時に、空間を裂く強烈な疾風の刃が『槍』へと殺到する。それと一瞬の狂いもなく、オレは精神の海から引きずり出したジャックフロストの魔力を解放した。
「ブフーラ!」
猛烈な銀白の吹雪が、今度は『盾』へと直撃する。
右からの風撃が槍の弱点を、左からの冷気が盾の弱点を。それぞれの武装が最も拒絶する天敵の属性を突いた、完全な同時飽和攻撃。
『――ッ!?』
膠着していた状況が動き出す。
バリィィィィィンッ!
ガラスが粉々に砕け散るような、凄絶な破壊音がフロアに響き渡る。
傲慢なまでに不可侵を謳っていた大理石の槍と盾が、ノイズの粒子を吹き出しながら、耐えきれずに一瞬で砕け散った。
『あ、あああ、あ……ッ!!』
二大武装という最大の拠り所を失ったことで、本体を包んでいた覇気が消える。均衡を大きく崩したシャドウが、その場に激しく膝を突いた。
完全なダウン状態。
オレとヒュロポスが、その決定的な隙を見逃すはずがなかった。
「人間さん、今なのよ! ツンツンさんを助け出すのよぉ!」
「総攻撃だ――ペルソナチェンジ」
ヒュロポスの鋭い合図に応じ、オレは精神のデータベースを限界以上の速度で回転させる。ワイルドの能力をフルに解放し、精神の底から現状のペルソナの断片を、連続して引きずり出した。
「アギラオ! ブフーラ! ジオ! ガル!」
四本の魔力が膝をつく巨人へ襲いかかる。魔法を防ぐ術はその両腕にはもう存在しない。
ジャックランタンの爆炎が敵の胸部を獰猛に灼き、ジャックフロストの吹雪が叩きつけ、間髪入れずに顕現させたピクシーが激しい紫電を叩き込む。さらに嵐の如き風撃をシルキーが放つ。
抵抗する術もなく、狂ったような光の奔流の中で滅多打ちにされた。そして、その魔法の弾幕の合間を縫うようにして、ヒュロポスのペルソナが天高く舞い上がる。
「これで終わりなのよ! イカロス、最大出力で突撃ーーっっ!!」
白い翼を限界まで広げたイカロスが、眩い太陽のエネルギーを纏い、超高速の光の弾丸と化して垂直に急降下。
視界が真っ白に染まるほどの爆発が巻き起こる。
大理石の女巨人は、断末魔の悲鳴を上げる間もなく、その巨体を激しく引き裂かれ――やがて、煤のような黒い霧となって、空間にサラサラと消滅していった。
静寂が戻る。
シャドウが霧散したその中心。床の上には、白いワンピース姿ではなく、高度育成高等学校の制服を身に纏った堀北鈴音が、静かに横たわっていた。
「ツンツンさん!」
ヒュロポスが慌てて駆け寄る。オレもまた歩を進めたが、彼女のすぐ近く、中空。不気味に蠢く『何か』を見つけ、足を止めた。
それは、小さな黒いモヤの塊だった。
煤やタールを凝縮したかのような、悍ましい負のエネルギー。それはまるで、周囲の空気を吸い上げるようにして、ほんの少しずつ、だが確実に成長している。
……これが精神のコア。
シャドウの原型とよく似ている。唯一、違う点を言えば通常のシャドウは成長することがない。だがこの精神のコアは目で見えるほどの体積を変化させていっている。
今のこの状態であるのならば破壊することはできそうだ。
だが、これを無理に壊せば、堀北の精神そのものが耐えきれない。事前の情報通りに無事では済まないだろう……。
「う、あ……」
不意に、床に倒れていた堀北が小さな呻き声を漏らし、長い睫毛を震わせた。ゆっくりと開かれたその瞳には、先ほどまでの人形のような虚ろさはなく、けれど、言葉を失うほどの深い恐怖と絶望が宿っていた。
「綾小路……くん……? 私、は……」
彼女は自分の白く震える手を見つめ、それから周囲の荒廃した景色へと視線を彷徨わせる。そして、何かに気づいたように、その顔を激しく歪めた。
「あの化け物の中にいた時、私は、あなたのことを……あなたたちを、殺そうと、攻撃して……っ」
現実世界でのストレス。兄からの無慈悲な拒絶。それらによって暴走した彼女の『シャドウ』は、確かにオレたちを排除しようとした。その記憶の残滓があるようだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ! 私は、また、取り返しのつかないことを……! 私はやっぱり、兄さんの言う通り、ただの足手まといで……出来損ないの、卑怯者よ……!」
酷く怯え、自分を呪うように謝罪を繰り返す堀北。
そんな彼女に対し、オレは慰めの言葉をかけるような真似はしなかった。ただ、現状で確定している事実だけを彼女に突きつける。
「堀北。感傷に浸っている暇はない。二つ言わなければならない」
「え……?」
「一つ。お前がそうやって自分を否定し、心を閉ざし続ければ、今消えたはずのあのシャドウは、近いうちに必ず再度姿を現す。アディトンはそういうシステムだ」
オレはすぐ近くで大きくなりつつある黒いモヤを指差す。
「そして二つ目。あのシャドウをこのまま放置していれば、お前の精神への悪影響を与え続ける。そして現実世界においてお前の致命的な足枷となる。退学で済めばマシかもしれない。その後の人生にすら影響を及ぼすとオレは考える」
オレの声は、冷たい現実の刃となって彼女の鼓膜を刺した。
堀北は一瞬だけ息を呑み、それから、全てを諦めたように力なく、弱々しく嗤った。
「そう……ね。でも、ちょうどいいじゃない……。私のような出来損ないは、最初から自分の意志なんて持たずに、誰かの言う通りに動く人形でいた方が、兄さんの言う通り、誰の迷惑にもならないのかもしれないわ……私が兄さんみたいになりたいだなんて、愚かにも夢見たから……」
完全に心を折られた者の言葉。
その歪んだ自己完結に呼応するように、彼女の胸元の黒いモヤが、また一段と不気味にそのサイズを大きくした。
その瞬間だった。
「――いい加減にするのよぉぉぉっっ!」
見れば、ヒュロポスが小さな体を目一杯に投げ出し、多種多様の動物で出来た羽根で堀北の頬へと強烈なビンタを喰らわせていた。
「きゃっ……!?」
「なんなのよそれ! ツンツンさんの意気地なし! バカ! あんた、現実世界ではいつもツンツンツンツンしてて、全然可愛くなくて、生意気だったじゃないのよ! でも、あたしは、そんなあんたの真っ直ぐなところが、ちょっとだけカッコいいって思ってたのよ!」
ヒュロポスは短い羽を激しくバタつかせ、レンズの瞳から火花が散りそうなほどの勢いで、床に伏せる堀北を睨みつけた。
「なんで人間って、みんなして『間違ってる間違ってる』って言われたら、すぐにそうやって諦めちゃうのよ!? 現実のツンツンさんは、あんなに必死に頑張ってたじゃないのよぉ! 間違ったかもしれないけど頑張ってたじゃない!」
「……何がわかるのよ、あなたに……っ!」
堀北もまた、感情を爆発させるように声を荒らげ、涙を浮かべて叫び返した。
「私は……兄さんに呆れられて、完全に突き放されたのよ!? それだけじゃない、私はあの時、綾小路くんの制止さえ振り切って、裏切るような真似をしてまで、兄さんを追いかけたのよ……! 本物じゃないってわかってたのに! その結果がこれよ! 私にはもう、どうしようもないわ……! どうすればいいのか、これ以上どうやって前を向けばいいのか、私には分からないのよ……っ!」
初めて吐き出された、堀北鈴音という少女の、剥き出しの弱音。
誰にも頼れず、一人で背負い込み、道を見失ってしまった迷子。
そんな彼女を見上げ、ヒュロポスは今度は、フンスと自分の小さな胸を力強く叩いてみせた。
「分からないなら、一緒に考えればいいじゃないのよ! ここにはあたしがいるのよ!」
「え……?」
「あたしだけじゃないのよ! あたしの一番の部下である人間さんだって、わざわざあんたを助けるために、こんな不気味な場所までついてきてくれたのよ! 一人じゃどうしようもなくても、三人で考えれば、素敵な答えがきっと見つかるのよ!
」
根拠なんてどこにもない。けれど、ヒュロポスの放つ言葉には、それを真実だと錯覚させるほどの、勢いと無垢な『善意』が満ちていた。
呆然とする堀北をよそに、ヒュロポスはオレの方をビシッと短い羽で指差す。
「ほら、人間さん! ツンツンさんをギュッとしなさい!」
「……オレがか?」
「そうなのよ! ほら、早くするのよ!」
非常にめんどくさい展開だ。けれどもヒュロポスの勢いのままに従い、オレは膝を突く。床に座り込む堀北の細い身体を、その腕の中に引き寄せた。
衣服越しに伝わる彼女の身体は、驚くほど冷たく、そして激しくガタガタと震えていた。
「ほら……ツンツンさん」
ヒュロポスが、今度は優しく、包み込むような声で言葉を紡ぐ。
「震え、止まったでしょう? 一人は淋しくて、寒くて、不安で、とっても悲しいけれど――誰かと一緒なら、世界はとってもあったかいのよ!」
「っ……、あ……」
堀北の目から、大粒の涙がハラハラと零れ落ち、オレの制服の肩を濡らす。不思議なことに、ヒュロポスがそう言い放った瞬間、彼女の身体の拒絶的な震えは、嘘のようにピタリと止まっていた。
絶望の底に沈み、バラバラにこぼれ落ちていた「何か」が、今、確かな温もりを媒介にして、彼女の心へと戻っていく。
キィィィィィン――!
突如として、浮かんでいた黒いモヤの塊が、反転するようにして眩いばかりの純白の光を放ち始めた。
あまりの光量にオレが目を細めると、その光は収束し、一丁の鋭利な『鋏』へとその姿を変えた。
それは堀北に取って何を象徴つけているものなのか。
「これは……」
堀北は涙を拭い、その鋏を、今度は自分の意志でしっかりと手に取った。
そしてオレの腕から静かに離れると、迷いのない瞳で、自らの長い黒髪へと鋏の刃を当てた。
チョキン。
躊躇いなく刃が噛み合い、彼女の象徴でもあった美しい黒髪が、バサリとフロアに切り落とされる。兄が好きだと言ったから伸ばしていた黒髪を――切り落とす。
その瞬間、放たれた髪と、彼女の手にある鋏が、青い粒子の光となって、混ざり合いながら空中へと舞い上がった。光は急速に膨らみ、彼女の背後に、女性の姿が浮かび上がる。
「……これが、私の力」
直感的にそれを理解したのだろう。堀北は凛とした表情で、自らのペルソナを見つめた。ショートカットになった彼女の横顔には、もう先ほどまでの脆弱さは微塵もない。
けれど、彼女はふと、少しだけ耳を赤くしてオレの方を振り返った。
「……綾小路くん。あの、その……現実に戻る前に、もう一度だけ……抱きしめて、もらえないかしら。その、まだ少しだけ、寒くて……」
いつものツンツンした態度とはあまりにもかけ離れた、年相応の少女としての、掠れたおねだり。
だが、その不器用な願いがオレの腕に届くより先に――世界のシステムが、強制的な終了を告げた。
「ひゃぅあ!? な、なになにこれ!?」
フロア全体に、鼓膜を震わせるほどの激しい地鳴りが鳴り響いた。見上げれば、どこまでも続きそうな真っ白な空間に、蜘蛛の巣のような巨大な罅が入り始めている。
コアのシャドウが消え、新たな力であるペルソナと化したアディトンはどうなる? そんな実験結果は一つも記載されていなかった。
「そんな、嘘でしょう!? 出口はどこよ!」
ショートヘアを揺らし、堀北が焦燥の声を上げる。
オレは最速で周囲を見渡した。崩落する瓦礫の向こう側、この最上階の壁面に、一つだけ外の世界へと繋がっているらしき『窓』が産まれていることに気づく。
だが、ここはアディトンの頂上付近だ。窓の外を見ても地面は遥かに遠い。
「……飛び降りて無事でいられる高さじゃない」
流石のオレでも、生身でこの高度から自由落下すれば五体が消滅する。退路を断たれ、堀北が息を呑んだその時――。
「ふふ……ふふふふふ、おほほ、おほほほほーなのよ!」
オレの足元で、ヒュロポスが突然、腰に手を当てて不気味な笑い声を上げ始めた。
「なんなのよ、こんな時に変な笑い声を上げて!」
「へ、変!? と、とってと高貴でお嬢様っぽかった筈なのよ! ツンツンさんは、本当に分かってないのよ! それにこんなピンチの時にやってくるのは相場が決まってるのよ! そう、こんな時こそ、美少女監督の出番なのよぉー!」
高らかに宣言する謎の鳥。だが、背後の大理石の天井が大きな音を立てて崩落し、巨大な破片がすぐ近くに突き刺さる。完全に時間切れだ。
「何でもいいから、何かあるなら早くなさいっっ!」
調子の戻った堀北が、怒鳴るような口調でヒュロポスを急かす。
「もー! せっかく格好良く決めようと思ったのに、ツンツンさんは相変わらずせっかちなのよ! まぁいいわ、よく見てるのよ!」
ヒュロポスは不満げにクチバシを尖らせつつも、その場でクルリと華麗に一回転し、翼を大きく広げてポーズを取った。
「――美少女監督、めーいくあっぷなのよぉぉぉっ!」
ポンッ! という、場違いなほどに軽い破裂音。次の瞬間、眩い光の中から現れたのは、ひよこ型のロボット鳥ではなかった。
それは、全体的に丸っこいピンク色の鳥のフォルムをベースにしつつも、頭部には巨大なローターが回転し、尾翼には精巧な歯車が噛み合う――おもちゃをそのまま巨大化させたような、奇妙な『鳥型ヘリコプター』だった。
『さぁ、突っ立ってないで、早く乗るのよ人間さんたち!』
ヘリコプターのボディから、スピーカー越しのようなヒュロポスの声が響き渡る。
「……本当に、何でもありだな、お前は」
「ちょっと、呆れてる場合じゃないわ、綾小路くん! 乗るわよ!」
オレと堀北は、崩れ落ちる床を蹴り、転がり込むようにしてヒュロポスの機内へと飛び乗った。
二人がシートに収まったのを確認すると同時に、頭上のローターが凄まじい爆音を立てて高速回転を始める。
『美少女ヘリコプター、発進なのよぉぉぉ!!』
ヒュロポスは一直線に加速し、完全に崩壊へと向かうアディトンの窓を突き破ろうとするが――引っかかる。その光景に堀北は真っ青になる。
「こ、このポンコツっ!」
『うわーん、酷いのよー! ひっかかっちゃったのよー! うわーん、うわーん!』
「くっ! ヒュロポス、今から私が貴方に補助をかけるからなんとかしてっ!」
堀北は目を瞑り、自らの胸に手を当てる。まるで水面に潜るかのように手が沈み込めば――次の瞬間。
「来なさいっ! プロウニコス! ――ヒートライザ!」
瞬間、ヘリコプター全体に赤い光が纏われる。
天高くそびえる闇の書架の檻から、灰色の空へと力強く飛び立った。背後で『アディトン』が、光の粒子となって完全に霧散していくのが見える。
新たなる結果か。
紙片では確認されてない。切り捨てるわけでもなく、壊すわけでもない第三の選択肢。オレはその光景を見て満足する。
こうして、最初の領域の攻略は、一応の終了を迎えたのだった。
◇ ◇ ◇
パツン、と五感の境界線が不意に弾け、世界の色彩が急速に塗り替えられていく。
気がつけば、自動販売の前。突入時となんら代わりのない場所に意識は戻される。
「……っ、は、あ……っ」
隣で、短い激しい呼吸の音が聞こえた。
見れば、堀北が床に両手を突き、肩を大きく上下させていた。
「本当に……戻って、きたのね……」
堀北は震える手で自らの髪に触れた。
兄に認められたい一心で、かつて彼が好んだという理由だけで頑なに伸ばし続けていた美しい黒髪。切ったのはあくまで異世界で現実にフィードバックまではされないのだろう。
「……ねぇ、綾小路くん」
堀北は立ち上がり、長い黒髪をひと房掴むと、まっすぐな瞳でオレを見つめた。
「この後、少し、付き合ってもらえないかしら」
それは彼女からの、明確な拒絶の呪縛を断ち切るための「お願い」だった。フォーラムの探索は時間の概念は存在しない。しかしながら精神の疲労は存在する。今回のアディトン攻略はかなりハードだったが――一度乗りかかった船だ。それに、今日はこれ以上のフォーラム探索やアディトンへの再突入は精神的にも厳しいだろう。
「……構わない」
「ありがとう」
彼女は小さく、微かな生真面目さを宿した顔で御礼を述べた。オレたちはそのまま、早退した静かな学園の敷地を抜け、ケヤキモール内にある美容院へと足を運んだ。
美容院に到着し、堀北が受付を済ませて施術台へと案内される。オレは待合席のソファに腰を下ろしたが、そこからの十数分間は、ある種のアディトン攻略以上に居心地の悪いものとなった。
「ちょっと、そこのお兄さんとここの彼女。まだ学校の授業時間のはずなのに、もしかして彼女とデートのために抜け出してきちゃった感じ?」
堀北の髪に霧吹きをかけながら、担当の女性美容師がニヤニヤとからかうような声をオレに投げかけてくる。
早退届を出しているとはいえ、男女二人でこの時間に美容院にいれば、そう邪推されるのも無理はない。オレが曖昧に視線を彷徨わせていると、さらに別の美容師がオレの手元に一冊の分厚い雑誌をポンと置いた。
「手持ち無沙汰なら、これでも読んで待っててよ」
渡されたのは、何故か最新の『女性用ヘアカタログ』だった。
オレがそれを何気なく広げると、肩の上のヒュロポスが我が意を得たりとばかりにレンズの瞳を輝かせ、ページを真剣に覗き込み始めた。
『人間さん、人間さん! このふんわりボブってやつ、かわいいのね、私にすっごく似合いそうなのよ! あ、でもこっちのベリーショートってやつも可愛いのねー! ねぇねぇ人間さん、あたしにはどれが似合う?』
もちろん、脳内に直接響く彼女の声は周囲には聞こえていない。だが、ヒュロポスがカタログのモデルを短い羽でビシビシと指差すたびに、おもちゃが勝手に激しく駆動しているように見えるため、近くを通る美容師たちの視線が痛烈なものになっていく。非常にめんどくさい状況だった。
それからさらに十数分が経過し、ハサミの心地よい音が止んだ。
「お待たせしましたー」
美容師の声に誘われるようにして、オレはカタログから顔を上げた。
そこには、これまで見慣れていた長い黒髪をすべて失い、肩のラインで綺麗に切りそろえられた堀北鈴音が立っていた。首回りがすっきりとしたその姿は、瑞々しさと同時に、どこか張り詰めていた意地が綺麗に削ぎ落とされたような印象を与える。
当の本人は、自分の新しい髪型がよほど落ち着かないのか、頬を微かに染めながらそわそわと毛先を指先で弄っている。
「……どうかしら。その、変ではないかしら」
上目遣いに、少しだけ不安そうに問いかけてくる堀北。すると、ペルソナを覚醒させたことで、現実世界でもヒュロポスの存在を微かに認識できるようになっていた彼女の耳元へ、ピンクの鳥が激しく羽を羽ばたかせながら詰め寄った。
『ツンツンさん、すっごく可愛いのよ! 人間さん、ほら、突っ立ってないでちゃんと男らしく褒めてあげるのよ! 美少女監督の太鼓判なのよ!』
ヒュロポスの騒がしいジェスチャーに、堀北は眉をひそめてオレの肩の玩具を睨みつけた。
「……綾小路くん、あなた自身の率直な感想でいいわ。どう?」
防衛本能的なトゲを少しだけ残しつつも、オレの言葉を待つ堀北。オレは彼女の新しい髪型をもう一度静かに精査し、思ったままの事実を口にした。
「似合ってるんじゃないか、凄くいいと思うぞ」
「――ッ」
瞬間、堀北の顔が耳の裏まで一気に真っ赤に染まった。
それを見逃すはずのない周囲の美容師たちが、一斉にクスクスと声を上げて囃し立てる。
「あらあら、お熱いねー! ほら彼女、顔真っ赤だよ?」
「もう、ごちそうさまって感じ!」
「なっ――、ち、違うわ! そんなんじゃないから……っ! 綾小路くん、行くわよ!」
限界を迎えた堀北は、激しい足取りで支払いを済ませると、オレの腕を引っ張るような勢いで慌ただしく店を飛び出していった。
◇ ◇ ◇
美容院を後にした帰り道、夕暮れ時のケヤキモールの風が、彼女の短い髪を優しく揺らしていた。
道中、オレたちはモール内のコンビニに立ち寄り、それぞれ一本ずつ安価なアイスキャンディーを購入した。
パリッ、と静かな歩道に、アイスをかじる音が響く。
「……授業を抜け出すなんて初めてだわ」
堀北はアイスを口に咥えたまま、どこか遠い目をしながらぽつりと言った。
「こうやって買い食いをするのも初めて。ましてや、歩きながら食べるなんて……今までの私なら、言語道断と切り捨てていたはずなのに。本当に、悪い病気にでも罹ったのかしらね」
自嘲気味に、だがその横顔には不思議な充実感が漂っている。そんな彼女の言葉に、オレも手元のアイスを見つめながら言葉を付け加えた。
「奇遇だな。オレも初めてだ」
オレにとっても、授業のサボりも、買い食いも、歩行中の飲食も、すべてが人生で初めての経験だった。
「え……?」
堀北は驚いたように足を止め、オレの顔を凝視した。そして、オレの言葉が冗談ではないことを察すると、顔をふっと赤くして、視線をアイスへと戻した。
「そう……。あなたも、初めてなのね」
その口元には、アディトンで見た歪な仮面ではない、どこか年相応の少女としての嬉しそうな笑みが、微かに、けれど確かに咲いていた。
◇ ◇ ◇
やがて、夕闇が本格的に降り始める頃、オレたちは学生寮の前に帰り着いた。
エントランスの自動ドアをくぐる直前、堀北は不意に足を止め、オレを振り返った。その表情は、先ほどまでの穏やかなものから、強い意志を持つ彼女のものへと戻っていた。
「綾小路くん。最後に、一つ明確な提案があるわ」
「提案?」
「ええ。あなたと、ヒュロポス。あなたたちが裏でコソコソとやっているフォーラムだとかアディトンだとかいう異世界の件、私にも手伝わせなさい」
堀北の口から飛び出た言葉は、予想外であると同時に、ある意味では必然のものだった。
ペルソナ『プロウニコス』を顕現させた彼女の実力は、先ほどの脱出劇で垣間見えている。戦力という意味での駒が増えるのは、今後の探索において歓迎すべき事態。
「戦力が増えるのはいいが……いいのか? 自分からそんな面倒事に首を突っ込んで」
「ええ。ただし、これは無償の奉仕ではないわ」
堀北は腕を組み、ショートカットの毛先を凛と揺らしながら、オレを真っ直ぐに射抜いた。
「その代わり、私のことも手伝いなさい。私は私のために、この学校でAクラスを目指す……私一人では、限界があるということを認めるわ。だから――」
彼女は一歩、オレとの距離を詰める。
「貴方の力を、Aクラス進出のために貸しなさい。異世界の脅威からあなたたちを助ける代わりに、現実の世界で私をサポートすること。これは、私とあなたの『取引』よ」
実の兄から拒絶され、壊れかけた少女は、今、自らの足で立ち上がり、オレという存在を「利用価値のある協力者」として再定義した。対等な取引相手としての決意表明。
オレは内心で、彼女のその急速な精神の変革に、静かな合格点を与える。
「その取引、乗った」
「交渉成立ね。じゃあ、また明日」
堀北はフンと鼻を鳴らすと、今度こそ迷いのない足取りで自動ドアの向こうへと消えていった。
『人間さん、人間さん! これで復興部のメンバーが増えたのね! これでフォーラムのビルドも、現実の学園生活も、一安心なのよー!』
肩の上で大はしゃぎするヒュロポスを宥めながら、オレは部屋へと戻る。堀北のアディトンの問題は確かに解決した。
しかしながら差し迫っている中間試験の事は何も解決していない。オレは一つの手を打つために――ある人物に面会を求めた。
第一章はここまでです。一度全体の手直しや推敲に入るので少し時間が空くかもしれません、ご了承ください。