Persona x Classroom of the Elite   作:仔羊肉

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Intermission

 

【The Sun Rank Ⅱ】

 

 高度育成高等学校の学生寮の一階、エレベーターの脇。そこにある青い扉。肩に乗るヒュロポスはオレの見つめている方向を見ても何も気づかず、そしてペルソナに覚醒した堀北も気づいた様子は無かった。

 

 オレは迷うことなく歩み寄り、その青い扉のノブへと手をかけた。

 

 手のひらを刺すような、凍てつくほどの金属の冷感が現実の皮膚感覚を麻痺させていく。ノブを回し、扉を押し込むと、抵抗なく開かれた境界の向こう側から、音が不自然に遮断された無響室のような静寂が溢れ出してきた。

 

 オレは一歩をそちらへと踏み出し、自らの身体を引き込まれるままに委ねた。

 

 瞬きをした刹那、オレの五感は完全に切り替わっていた。

 

 網膜を埋め尽くしたのは、現実感がなく、濃淡様々な青い光と、厳粛な医学・科学的研究室を思わせる──もう見慣れた景色だった。

 

 ガラス張りの高い壁の向こう側には、人間の感情や思考のハッシュログとおぼしき青い発光ラインが、幾重にも幾何学的な数式模様を描いて流動している。そこは物質界のルールが通用しない研究室。

 

「ようこそ。我がベルベットルームへ……」

 

 部屋の中央に置かれた、重厚なマホガニーの長机。その向こう正面に腰掛けた老翁──イゴールが、いつも通りに細長い両手の指を複雑に組み、ギョロリとした眼光のまま、歪な三日月のような笑みを浮かべてオレを迎えた。

 

「今回はまた、なんとも見事な成果を携えてのお越しですな──最初の試練を乗り越え、新たなる絆の萌芽をその手に掴んだこと、まずは祝福させていただきましょう」

 

 イゴールは歌うような独特の声音で告げた。

 

 最初の試練。彼が指しているのは、堀北鈴音のアディトンを完全に消滅させ、彼女自身にその歪みを受け入れさせてペルソナ『プロウニコス』を覚醒させたまでの出来事なのだろう。

 

 この老人たちは、オレが現実世界やフォーラムで何を成し、誰の精神に揺らぎを与えたかを、リアルタイムに把握している。

 

 ──復興部の立ち上げ時、そしてヒュロポスと会話していた時、そして堀北と契約を結んだ時に脳裏に流れた声。それはイゴールの隣に立つ女性、ヴィクトリアの声だった。

 

 だからこそ、オレは一つの疑念を抱いている。

 

「一つ、聞きたいことがある」

 

 オレは長机の前に佇み、イゴールの傍らに直立している人物へと視線を転じた。ネイビーのドクターコートを完璧に着こなし、小脇にバインダーを抱えた研究主任、彼女こそがヴィクトリア。彼女の整った容姿には、人間の持つ生々しい感情の揺らぎが一切存在しない。

 

「オレたちがフォーラムで探索している際に見つけた、紙片。フォーラムの詳細を纏められた紙。……あれは、お前たちがこの高度育成高等学校という場を使って行っている『実験』の結果、あるいはその副産物なのか?」

 

 高度育成高等学校の裏にあるフォーラム。それ自体が、このベルベットルームという超越者たちに関係あっても何もおかしくはない。オレ以外には不可視の扉、ペルソナ合体と呼ばれる儀式、そして研究主任という立場で人知を超えた能力を持つ怪物とその主。

 

 全ての黒幕だったとしても何もおかしくはない。

 

 だが、ヴィクトリアは視線をバインダーの用紙から一切動かさず、感情の起伏を完全に削ぎ落とした、素っ気ない声音で短く答えた。

 

「違う。断言するけれど、あれは私たちの研究成果でも、こちらで用意した世界でもない。貴方の抱いている疑問を全て否定しておく」

 

「……そうか」

 

 オレは短く答え、彼女のその無機質な言葉を脳内の引き出しに仕舞い込んだ。

 

 ヴィクトリアの主張をそのまま鵜呑みにするつもりはない。

 

 しかし、少なくとも彼女たちが現時点で「自分たちの預かり知らぬもの」として定義しているというスタンスだけは、重要な前提として記憶しておく必要がある。

 

「質問は以上だ。いつも通り、ペルソナの合体を頼みたい」

 

 オレがブレザーの懐から、高度育成高等学校の学生証端末を取り出すと、ヴィクトリアは小さく、事務的なため息を一つだけ吐き、冷淡に踵を返した。

 

「いいわ。ついてきなさい。より高密度の精神因子融解を行うため、実験室に切り替える」

 

 彼女のスマートな足取りに導かれ、オレは研究室の奥に設置された、スライド式の重厚な自動扉をくぐった。

 

 気圧が僅かに変化する感覚と共に現れたのは、まるで最先端の無菌培養室か、あるいは巨大な化学プラントを思わせる異空間だった。

 

 部屋の壁面には、淡いエメラルドグリーンと、鈍い琥珀色に怪しく発光する巨大なガラス製のポッドが数基、並んでいる。

 

 そしてポッドの底部からは、半透明の肉厚なパイプが幾重にも走り、中央に鎮座するさらに巨大な一基のポッドへと連結されていた。

 

「端末をそこの金属スロットへ」

 

 ヴィクトリアが指示した台座のスロットへ、オレは学生証端末を差し込んだ。ガチリ、と機械的なロックがかかると同時に、端末の液晶画面が激しくノイズを走らせて明滅を始める。

 

 ふわり、と重力を完全に無視して、端末の基盤から二つの異なる光の粒子が湧き出してきた。

 

 一つは、赤く、パチパチと不規則に爆ぜる火の粉のような光──魔術師のアルカナに属する『ジャックランタン』の因子。

 

 もう一つは、緑色の、瑞々しくも静かに波打つ光──恋愛のアルカナに属する『ピクシー』の因子。

 

 二つの精神の残滓は空中で急速に圧縮され、固有の暗号暗号外殻を纏いながら、親指ほどの大きさをした、それぞれの属性色に輝く美しい『結晶』へと形を変えた。オレの手元にある複数の駒を融解し、別の存在へと最適化するプロセスが始まる。

 

「因子の融解実験を開始するわ」

 

 ヴィクトリアが感情のない手つきでコントロールパネルを操作すると、駆動音と共に、左右のポッドの上部ハッチが滑らかに開いた。二つの結晶は、重力に引かれるようにして、それぞれのポッドの中へと静かに落ちていく。

 

 ポッドを満たしていた特殊な溶解液に触れた瞬間、ジャックランタンの赤い結晶とピクシーの緑の結晶は、カチカチとガラスが割れるような音を立ててひび割れ、ドロドロとした濃色の流体へと溶け出していった。

 

 それは元のの形状、そして個としての自我を完全に失い、純粋なエネルギーの「原液」へと分解される。

 

「因子の抽出、および論理分解完了。中央の触媒ポッドへバイパスを開放」

 

 ヴィクトリアの冷徹なナレーションに伴い、左右のポッドから融解した液体が、太いパイプを伝って中央のポッドへと勢いよく流れ込んでいった。

 

 赤と緑。相反する精神の原液が中央で激しく混ざり合い、マーブル状の不気味な渦を形成していく。溶液が不穏に泡立ち、システム内の圧力が限界値まで上昇していくのが、インジケーターのデジタル数値で見て取れた。

 

 そこへ、上部のノズルから「新たな溶解液」がドクドクと容赦なく注ぎ込まれた、その瞬間──。

 

 ゴオオォォォッ──! 

 

 部屋全体の空間そのものが激しく震えるほどの、凄絶な発光現象が起きた。

 

 あまりの光量にオレが目を細める中、中央のポッドの内部では、二つの異なる因子がシステムによる強力な圧力を受け、混ぜ合わされていく。

 

 光が収束し、不気味な泡立ちが静まった時、そこにあったのは、以前の二つよりも遥かに妖艶で、底知れぬ精神汚染の魔力を内包した、全く新しい『紫色の結晶』だった。

 

 プシュー、と圧力が抜ける排気音が静まり返った部屋に響き、中央のポッドのハッチが開く。

 

 孵化を終えた紫色の結晶が空中へと浮かび上がり、滑るような軌跡を描いてオレの学生証端末へと真っ直ぐに飛び込んだ。それはまばゆい光の粒子となって吸い込まれていく。

 

 それと同時に──オレの脳内の、精神の海の最深層へと、甘く痺れるような電流の衝撃が走り抜けた。

 

 新たなペルソナのビジュアル、そして最適化されたスキル暗号とステータスが、網膜の裏側へと直接、強制的に書き込まれていく。

 

『──あたしの名はリリム。淫らな夢を紡ぎ、戦う者の魂を惑わす悪魔の娘。……フフ、コンゴトモヨロシク』

 

 脳裏に響き渡ったのは、ピクシーの純朴なものとは明確に異なる、妖艶さと冷酷さを孕んだ、どこか小悪魔的な少女の声だった。

 

「実験は成功。今回の実験に使用した、ピクシーとジャックランタンは共に成長している。よってその成長結果もこちらで記載しておく。……その力、有効に使いなさい」

 

 ヴィクトリアはバインダーに目を落としたまま、やはり素っ気なく、事務的な口調で実験の終了を告げた。

 

 オレは金属スロットから学生証端末を引き抜いた。その液晶画面には、『悪魔』のアルカナを示すタロットカードとリリムの情報が鮮明に刻まれていた。

 

 手に入れた、新たなる駒。

 

 フォーラムでの戦いにおいて、どう機能させるべきか。

 

 オレは端末を制服のポケットへと収め、老人たちの視線を背中に感じながら、静かに青い研究室を後にする。

 

 網膜が再び、圧倒的な白光によって塗り潰されていく。現実世界への帰還の感覚が、じわじわとオレの意識を物質界へと引き戻していった。

 

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 堀北のアディトンを攻略した翌日。いつも通りの時間帯に目を覚ます。ヒュロポスの方向を見れば『ヒュゴースピピピピー……ヒュゴースピピピ』といびきをかいている。相変わらずの謎生物っぷりである。あいつにとって生物学的ないびきなど何の意味も持ってなさそうだ。野生動物だったのならば一夜として持たず他の生き物の餌になることだろう。

 

 オレは足音を立てずにキッチンへと向かい、手際よく二人分──正確には、一人と一匹分の朝食の準備に取り掛かった。

 

 オレにとって食事とは、単に肉体を維持し、効率的な筋繊維の構築と脳の覚醒を促すための「栄養素の摂取」でしかなかった。カロリーとビタミン、タンパク質の数値だけが徹底的に管理され、無味乾燥なペーストや固形物を、義務として胃袋に流し込む作業。そこに「調理の楽しみ」や「味覚の探求」といった無駄な情緒が挟まれる余地は一切なかった。

 

 だからこそ、この学校に来てから始めた自炊という行為は、オレにとって一種の新鮮な実験のような側面を持っている。口喧しい同居人のせいで日々のプライベートポイントに余裕があるわけもなく、ましてやクラスポイントが0になり、支給されるポイントの予定がない現状において、いかに冷蔵庫の残渣から最低限のコストで満足のいく一皿を作り出すか。それはそれで、一種のパズルと言えるだろう。

 

 フライパンに僅かな油を引き、卵を落とす。ジッと小気味よい音が響き、白身が綺麗に固まっていくのを見計らいながら、トースターから焼き上がった食パンを取り出した。オレの分はそのまま皿に盛り、ヒュロポスの分は彼女の小さな嘴でも啄みやすいよう、あらかじめ一口サイズに小さくちぎって別の平皿へと並べていく。さらに、ビタミン補給のためのわずかなフルーツを添えれば、簡易的ながらもバランスの取れた朝食の完成だ。

 

 トレイに二つの皿とブラックコーヒー、そして彼女用の牛乳を乗せ、リビングのローテーブルへと運ぶ。

 

 そのタイミングを見計らったかのように、部屋の隅で「ピュオッ」という短い叫びが聞こえた。ヒュロポスのクリアな青いレンズが明滅し、起きたことを知らせてくる。

 

「ふぁぁ……あ、人間さん、おはよ立つのよ。くんくん……なんだか、とっても香ばしくて美少女の好みにぴったりな匂いがするのよ!」

 

 短い足をトコトコと交互に動かしながら、ヒュロポスがテーブルの脚を器用に駆け上がってきた。オレの肩を定位置にしている時の素早さとは違い、寝起きだからかその動作は緩慢気味。

 

 だが、テーブルの上に座り込んだ彼女が、ちぎられたトーストに向かって首を伸ばした瞬間、オレの目は彼女の身体のある異変を捉えていた。

 

 彼女の背中にある、短いメタリックな羽根の隙間。普段であれば滑らかな装甲の合わせ目が見えるだけのその場所に、場違いな『代物』が挟まっていたのだ。

 

 オレは食事の手を止め、その物体を凝視する。

 

 それは、オレたちが肌身離さず所持している高度育成高等学校の「学生証端末」に酷似している。しかし、サイズは通常の十六分の一程度しかなく、まるで精密に作られたミニチュアのようだった。筐体は現実の端末よりも深く沈んだ黒色をしており、その表面には、どこか歪んだ、それでいて幾何学的な紋章が刻印されている。

 

「ヒュロポス」

 

「む? なによ人間さん、せっかくの朝食を前にして、あたしの美貌に見惚れちゃったの?」

 

「なんだ、それは」

 

 軽口を叩く彼女を無視し、オレは視線をそのミニチュア端末へと集中させる。ヒュロポスがオレの視線に気づいたのか、端末を羽根で器用に取り出し短い羽根を使って動かす。

 

 すると、その物理的な動作に連動するように、羽根の間に挟まれたミニチュア端末の液晶画面が、静かに鮮やかな青い光を放って起動したのだ。

 

 ヒュロポスの隣に移動し、小さな画面を覗き込めば何らかの地図のようなグラフィックが展開された。

 

 単なる玩具や飾りではない。明らかに、高度なプログラムと独自のシステムを持つ精密デバイス。

 

「……これはフォーラムか?」

 

 オレの短い問いかけに、ヒュロポスはちぎったトーストを嘴に咥えたまま、ニマニマとした表情を作っている。

 

「またまたー。人間さんったらとぼけちゃって! これは人間さんが、日頃からフォーラムの現場監督として命を懸けて頑張ってる世界一プリティーなあたしに、感謝のしるしとしてプレゼントしてくれたものじゃないの?」

 

「心当たりは一切ない。オレがそんな手の込んだ真似をするわけがないだろう」

 

「ピョっ! 確かに!」

 

 このようなミニチュア端末を彼女に与えたという記録は一秒たりとも存在しない。

 

 オレの明確な拒絶に、ヒュロポスは「えー? じゃあ、こんな素敵なものをくれたのは誰なのー?」と不満そうに嘴を尖らせ、咥えていたトーストをごくりと飲み込んだ。

 

「おかしいのね……あたし、昨日、ツンツンさんのアディトンから帰ってきてから、このお部屋のクッションでお昼寝してたのよ。そんで、パッと目が覚めて、なんだか背中とお腹のあたりがモゾモゾするなーって思って確認したら、あたしのお腹のパーツの中に、これがすっぽり入ってたのよ。てっきり、ツンツンさんじゃないツンデレな人間さんのサプライズ演出かと思ったのよ」

 

 起きたら、お腹の引き出しの中に勝手に入っていた、か。

 

 オレは内心で深い溜息を吐き出すのをどうにか堪えた。機械と生物の狭間にある存在とはいえ、何の前触れもなく自身の内部構造に未知のデバイスが『混入』している状況を、これほどまでに気楽に受け入れられる彼女の精神構造には呆れる他ない。まさに何でもありの不思議生物感を遺憾なく発揮している。

 

 だが、呆れて思考を放棄することはリスクの観点から許されない。オレはカップに手を伸ばし、一口含んで喉を潤してから、再び問いを重ねた。

 

「それで、お前はその怪しい端末を使って、具体的に何をしているんだ? ただ画面を切り替えて遊んでいるだけではなさそうだが」

 

「怪しいとは失礼なのよ! これ、すっごく便利なんだから!」

 

 ヒュロポスは短い足を投げ出してテーブルの上に堂々と座り込み、自慢げに胸を張ってミニチュア端末をオレの前に掲げてみせた。

 

「これね、あたしたちが探索してる共通地下迷宮『フォーラム』の情報が、たっくさん載ってるのよ! ほら、ここを見るのよ。人間さんがシャドウをバッサバッサ倒してくれたおかげで、どこのエリアが新しく『修復可能』になったかとか、この修復可能エリアの素材変換器はどこにあるとか! 一目でわかるようになってるの! これがあれば、これからのフォーラムの復興計画がめちゃくちゃ捗るのよー!」

 

 画面を覗き込み凝視すると、確かにそこには『フォーラム』の不気味な階層構造が、極めて詳細に描かれている。

 

 非常にタイミングが良い。良すぎる、と言ってもいい。

 

 オレたちが次の段階へ進むべき道標として、あるいはフォーラムの探索をより効率的に完成させるためのナビゲートデバイスとして、これ以上のものはない。だが、それゆえに、オレの胸中には猜疑心が芽吹き始める。

 

 このデバイスは、一体誰が、何の目的で用意したものだ? 

 

 真っ先に脳裏に浮かんだのは、あの夢の世界──ベルベットルームの住人たちの顔だった。長い鼻を持つ不気味な老人イゴール、そしてその傍らに佇むヴィクトリア。彼らがオレの「ワイルド」としての資質や、ペルソナの合体を促進させるために、ヒュロポスを介してこのデバイスを『支給』したのだろうか。

 

 わからない。目的が不明瞭ではあるが実力という観点にのみ焦点を当てれば異世界のあれこれに関する最有力の容疑者を疑ったところで結論は出ない。

 

 オレは無言のまま、デバイスの液晶画面から放たれる青い光と、それを保持しているヒュロポスのクリアなレンズをじっと見つめた。

 

 さらに検証すべき最大の論点は、目の前の同居人が『スパイ』であるかどうかだ。

 

 もし彼女が最初からオレを監視し、特定の行動へと誘導するために配置された高度な自律型のAIなのだとしたら、オレは掌を転がされていることとなる。

 

 だが……オレはこれまでのヒュロポスとの短い、しかし濃厚な奇妙な日々を振り返り、その可能性を即座に引き下げた。

 

 理由はその精神性のあまりの稚拙さと、無防備なまでの善意と無計画なまでの行動によるもの。

 

 まぁ、最も、本人が知らされていないだけの監視者という立場ならば十分に使えるのだろうが。

 

 疑えばキリがない現状。そんな状況でヒュロポスを見つめ続けていたせいか、パチクリと目を見開いて──。

 

「そ、そんなに熱心に見つめられても困るのよ……!」

 

 ヒュロポスは持っていたミニチュア端末で慌てて自分の顔を隠すようにしながら、やたらと早口でまくし立て始めた。

 

「に、人間さんがあたしのことを好きになっちゃうのは、あたしが世界一の美少女として生まれてきちゃった以上は、しょうがないことだけど……! でも、あたしはそんな、ちょっと見つめられたくらいでコロッと落ちちゃうような安い美少女じゃないんだからね!  もっと男を磨いて、ガッポリ稼げるようになってから出直してくるのよ!」

 

「……は?」

 

 あまりにも予想の斜め上を行く発言に、オレの口から気の抜けた声が漏れた。オレはただ、急に現れたデバイスの危険性を疑っていただけなのだが、こいつの脳内ではどのような変換が行われたのだろうか。

 

 しかし、ヒュロポスの暴走はそれだけでは留まらなかった。彼女は端末の陰からチラリとオレの顔を伺うと、ふん、と不遜に短い嘴を上へと向けた。

 

「でもでも、人間さんは日頃の探索でもあたしの指示をちゃんと聞くし、ご飯もこうして美味しく作れるから、減点ばかりじゃないのよ。それなりにいい点は取ってるの。だから……あたしがフォーラムをたくさん復興して、いつか元の輝かしい、誰もが振り返る究極の美少女の姿に戻った暁には、ちゅーくらいはしてあげてもいいのよ? だからそんなに焦ってアプローチしてこなくても大丈夫なのよ!」

 

 ビシッと短い羽根をオレに向けて、何故か完璧な上から目線での話であった。

 

 時計の針は淡々と進み、学校の登校時刻が近づいている。

 

 この不条理極まりない鳥の勘違いに対して、弁舌を駆使して反論することは、可能か不可能かで言えば容易に可能だった。彼女の認知の歪みを一から十まで指摘し、自己評価の過大さを叩き潰すことは難しくない。

 

 だが──それを実行した後に待っているのは、彼女のさらなるヒステリックな抗議と、それによる時間的リソースの大幅なロス、そして何よりオレ自身の凄まじい精神的疲労だけだ。

 

 得られるリターンがゼロに対して、支払うべきコストが大きすぎる。

 

 オレは微かに痛むこめかみを指先で押さえ、深い溜息と共に、色々な思考を根本から諦めることにした。この部屋において、彼女の自意識過剰に付き合うことほど非合理的な行為はない。

 

「……分かったから、さっさとそのトーストを食べろ」

 

「むー! またそうやって、都合が悪くなると大人の理屈で話を逸らすのよ! そういう照れ隠しをしてる人間さんも、ちょっとだけプリティーだから許してあげるのよー!」

 

 ガツガツと音を立ててトーストを啄み始めた同居人を他所に、オレは冷めかけの卵料理を口へと運ぶ。

 

 フォーラムの謎、未知の端末の出現、そして深まる世界の謎。処理すべき問題は山積みのはずだったが、静かに思案に耽ることすら目の前の騒がしい鳥のせいで出来そうにない。

 

 今はただ、この朝食を終わらせること。それだけが、今のオレにできる唯一の現実逃避だった。

 

 

 

 

 

 

 

【The High Priestes RankⅡ】

 

 

 

 騒がしい朝食を終え、オレは学生寮の一階エントランスへと降りていた。自動ドアが左右に開くと、五月の瑞々しくも少し肌寒い朝の空気が顔を撫でる。

 

 敷地内を囲む植栽の緑が、朝露を弾いてきらきらと輝いていた。今日の予定を、と思考の巡らせながら一歩を踏み出した時、オレの視界に見慣れない黒髪のシルエットが飛び込んでくる。

 

 エントランスのすぐ脇、敷地内に等間隔で設置されている木製のベンチ。そこに、堀北鈴音が一人で腰掛けている。

 

 その膝の上には通学用のスクールバッグが整然と置かれ、彼女の両手はそれを品良く押さえている。しかし、その表情は一目でそれと分かるほどに険しく、綺麗な眉間には不機嫌そうな皺が深く刻まれていた。完全なる仏頂面だ。

 

 通りかかる他の生徒たちが、その近寄り難いオーラに気圧されて自然と距離を取っていくほどだった。

 

 オレの足音が近づくのに気づいたのか、堀北はゆっくりと顔を上げた。鋭い切れ長の瞳がオレの姿を真っ直ぐに捉える。オレと視線が交錯した瞬間、彼女は小さく鼻を鳴らし、硬い声色で切り出してきた。

 

「……随分と遅いのね、綾小路くん」

 

「登校するには十分な余裕があるはずだが」

 

 オレはいつも通りの平坦なトーンで返しつつ、彼女の様子を観察した。普段の彼女であれば、他人の登校時間など意にも介さず、誰よりも早く一人で教室へ向かっているはずだ。それが、わざわざこんな場所で時間を潰している。

 

「まさかオレのことを待っていたのか?」

 

 オレが至極真っ当な推測を口にした、その瞬間だった。

 

 堀北の白い頬が、まるで沸騰したかのように一気に鮮やかな朱色へと染まった。彼女は弾かれたようにベンチから立ち上がると、いつもの冷静沈着な彼女からは想像もつかないような速度の「早口言葉」でまくし立て始めた。

 

「な、何を馬鹿なことを言っているのかしら!  私があなたみたいな事なかれ主義の塊をわざわざ貴重な朝の時間を割いてまで待つ道理がどこにあるというのよ!?  勘違いも甚だしいわ。私はただ、今日の朝の空気の比熱や湿度が読書……いえ、思考の整理に適しているかを確認するために、偶然、このベンチに座るという選択したに過ぎないわけで、そこに貴方との待ち合わせといった低俗な意図は一ミリたりとも介在していないのだから、その自意識過剰な脳内回路を今すぐリセットして──」

 

 息を吸うタイミングすら忘れたかのような、凄まじい防衛本能の露呈。しかし、一通り言い訳の言葉を弾丸のように吐き出し終えた後、彼女はふっと視線を斜め下へと落とした。赤みの引かない耳の裏を隠すように、黒髪を少しだけ指先で整える。

 

 ひと呼吸の沈黙の後、彼女は観念したように小さく息を吐き出し、今度は消え入るような、しかし先ほどよりもずっと芯のある声で正直に告白した。

 

「……ええ、そうよ。待っていたわ。文句あるかしら」

 

 開き直るようなその視線には、他者を拒絶するための歪な仮面はもうなかった。自分の弱さを受け入れ、ペルソナ『プロウニコス』を覚醒させたことによる、彼女なりの人格的な『変化』がそこには確かに表れていた。

 

 その様子を、オレの右肩の上から見つめている存在がいた。居候のロボット鳥がじっとりとした半目でツッコんでくる。

 

「……ちょっと人間さん、今の聞き方は流石にデリカシーがなさすぎるのよ。美少女のピュアな乙女心を、土足でズカズカ踏みにじるなんて最低の所業なのよ。あたしがツンツンさんの立場だったら、今の一言で人間さんの好感度メーターはマイナス100万ポイントに大暴落してるところなのよ」

 

「黙りなさい、ヒュロポス」

 

「ピヨピヨ」

 

 都合が悪くなって鳥のフリをする鳥頭。

 

「それで、わざわざオレを待ってまで、何の用だ?」

 

 堀北は一度深く息を吸い込み、頬の赤みを完全に静めると、本来の聡明な、しかしどこか憑き物が落ちたような穏やかな表情になってオレを見つめた。

 

「今日の放課後、やりたいことがあるの」

 

「やりたいこと?」

 

「ええ。まずは須藤くん……そして平田くんたちのところへ行って、謝ってくるわ」

 

 彼女の口から飛び出した「謝罪」という単語に、オレは僅かに眉を動かした。あの徹底的な実力至上主義者であり、他者の無能を容赦なく切り捨ててきた堀北鈴音が、自発的にクラスメイトへ頭を下げに行くというイベント。

 

「謝る?  堀北、お前が須藤や平田にか?」

 

「なによ、その意外そうな目は」

 

「そこまで謝るほどのことなのか? 図書館での一件にしても、お前はただ須藤の小テストの点数という事実を指摘しただけだ。平田にしても、クラスをまとめようとする彼のスタンスに対して、お前なりの当時の意見を述べたに過ぎないはずだ」

 

 オレの言葉は慰めではなく、純粋な事実の整理だった。無能な人間にその事実を告げることは罪でも何でもない。むしろ当然の義務ですらある。

 

 だが、堀北はオレのその問いかけに対して、毅然と首を横に振った。その切れ長の瞳には、明確な自己批判と、それ以上に強い矜持が宿っていた。

 

「謝るほどのことよ、綾小路くん」

 

 彼女はベンチの横に置いていたスクールバッグを持ち上げ、しっかりと両手でその持ち手を握りしめた。

 

「須藤くんに対して、私は彼の夢を軽んじたわ。バスケットボールのプロになるという彼の目標を、ただの幼稚な我儘だと一蹴して傷つけた……それはAクラスに上がりたいと願う私にとって、絶対にやってはいけない自傷行為だったのよ」

 

 彼女の言葉が、朝の静謐な空気の中に染み渡っていく。

 

「誰かの目指す高い目標や夢を、能力の多寡だけで測ってせせら笑う。もし、今の私がそんな自分の振る舞いを『恥ずべきこと』だと自覚できないのだとしたら……それこそが、人間として最も恥ずべき行いだわ。私はあの時、自分自身と対峙して、ようやく気付かされたの。他者を見下すことでしか保てないプライドなんて、ただの虚飾でしかないってことにね」

 

「なるほど」

 

 オレは静かに彼女の言葉を反芻した。

 

 彼女の変化は、単に「優しくなった」というような表面的なものではない。自身の絶対的な行動指針である「Aクラスへの到達」という目標そのものの質を、彼女自身の内面から高めようとしているのだ。

 

 他者を軽んじていた悪癖は鳴りを潜め、他者の存在の必要性を理解し、一人では出来ないことを群れを率いることで実現しようとする。

 

「平田に対してはどうするつもりだ?」

 

「勉強会への協力を申し出る。謝罪の言葉だけしゃなくて、行動でも示すつもり。中間テストに向けた勉強会の補佐。そして──バラバラなDクラスが、一丸となるために努めること。まずはこれからよ」

 

 堀北は前を見据え、一歩を踏み出しながら言った。

 

「これまでの私は、クラスの連中なんて足手まといだとしか思っていなかった。でも、今回の事態を経て、そしてあの異世界の出来事を以って、理解したわ。一人で戦うことの限界をね。平田くんの持つ『クラスをまとめたい』という理想と、私が今、求める結果を出すための勉強会。その両立ができるのなら……どんなことでも、私はやれるわ。やってみせるわよ」

 

 その横顔には、かつて兄である堀北学の背中をただ必死に追いかけていた迷子の少女の面影はなかった。

 

「そうか。お前がそう決めたのなら、オレから言うことは何もない。……放課後、精々上手くやるんだな」

 

「ええ。だから、今日の復興部の予定は参加できるかわからない」

 

「まぁ、まずは退学者を出さないこと。そっちが優先だからな」

 

 不機嫌そうな仏頂面から、未来を見据える聡明な表情へと切り替わった堀北鈴音。

 

 オレたちは並んで、高度育成高等学校の校舎へと続く並木道を歩き始めた。朝の光が、オレたちの進む道を真っ直ぐに照らし出していた。

 

 

 

 

 

 

【The Hierophant Rank Ⅰ】

 

 

 放課後の教室は、中間テストという目前の危機を控えて、独特の騒がしさに包まれていた。

 

 多くの生徒がポイントゼロのショックから立ち直れず、かといって真面目に机に向かうこともできずに無駄な時間を費やす中、教室内を凛とした足取りで動く人影があった。

 

 堀北鈴音だ。

 

 ショートカットになった彼女の髪は、まだ見慣れないはずなのに、どこか彼女の新しい決意を象徴しているようで、奇妙なほど馴染んでいた。彼女が向かったのは、クラスの女子である松下千秋と、王美雨の席だった。

 

「──少し、いいかしら。松下さん、王さん」

 

 低く、けれど以前のような刺々しさを抑えた声。

 

 二人は一瞬、あの孤高の堀北から話しかけられたことに驚き、顔を見合わせた。王──みーちゃんが、おずおずと「なぁに、堀北さん?」と首を傾げる。

 

「今、開いているクラスの勉強会を手伝いたいの。平田くんからも許可を得ているわ……もしよければ、今日から二人のサポートに回ってもいいかしら」

 

「え、あ……私たち、でいいの?」

 

「こちらがお願いする立場よ、王さん」

 

 明確に協力をする姿勢を示す堀北。その変貌はクラスの全員に影響を与えている。揉めた須藤や池に山内は感情に引っ張られていい顔をしていない。

 

 けれども他の成績上位者でありながら非協力的な態度であった数名は驚きと戸惑いを浮かべて悩み始めている。我関せずを貫いているのは高円寺くらいだ。

 

 教室の隅から眺めていたオレは、彼女がアディトンでの経験を経て、確実に「己の足で歩き始めようとしている」のを感じていた。

 

 だが、本当の問題である須藤たちを誘うのには良い手ではないのだろう。堀北は今はがむしゃらに出来ることを探っているが必ずしもそれがプラスに働くわけではない。

 

 むしろ、池や山内は平田に敵愾心を抱いている。須藤も敵対的だ。その観点で言うのなら本当に助けが必要な三人からの心証は良くはない。

 

 まずは声をかけやすく、優秀な層から外堀を埋めようとしているのだろう。実に合理的だ。だが人間すべてが合理的であるのならばこのような危機には陥っていない。

 

 この場合、合理的であることこそが遠回り。

 

 そこへ、堀北がオレの視線に気づき、松下たちに軽く断りを入れてからこちらへ歩いてきた。

 

「綾小路くん。ちょうどいいわ、少し相談──いえ、伝言があるの」

 

「伝言?」

 

 彼女は周囲に声が漏れないよう、僅かに声を潜めた。

 

「今日の昼休み、兄さんと少し話す機会があったの。その時にね……兄さんが、あなたと話がしたいと言っていたわ」

 

「生徒会長が?」

 

 思わぬ名前にオレの眉が微かに動く。先日の深夜、特別棟の裏で対峙した生徒会長、堀北学。あの男がわざわざオレを指名してくるとはな。

 

「ええ。今日の夜六時頃、場所は後から連絡するわ。その、時間は作れる?」

 

「……まぁ、特に予定はない」

 

 オレが短く答えると、堀北はほっとしたように胸を撫で下ろした。しかし、その直後、彼女は何かを思い出すように眉間を寄せ、酷く複雑な思案顔になった。

 

「そう……ならよかったわ。それと、ね。もし兄さんと会ったら、その……兄さんが何か妙な勘違いをしているみたいだから、あなたからちゃんと否定しておいて頂戴」

 

「勘違い? 何のことだ」

 

「深く聞かないで。とにかく、私とあなたの間に……その、不適切な、あるいは不必要な関係性があると思い込んでいる節があるのよ。とにかく、毅然とした態度で『何もない』と言い切って」

 

「……要領は得ないが、わかった」

 

 何に対して怒っているのか、少し耳の裏を赤くしながら言い放つ堀北に、オレは適当に頷いておく。おそらく、先日の深夜の現場を見られたことや、彼女の精神的な変化の裏にオレがいることを、生徒会長なりに邪推したのだろう。

 

 堀北は一度コホンと咳払いをすると、いつもの表情に戻り、手元のノートを抱え直した。

 

「まだ三人には、聞く耳を持ってもらえなかったけれど……私は諦めるつもりはないわ。明日も、明後日も、彼が受け入れるまで声をかけ続けるつもりよ」

 

「そうか。頑張れ」

 

 オレの口から出た、あまりにも短い、けれど明確なエール。

 

 それを聞いた瞬間、堀北は弾かれたように目をパチクリとさせ、動きを止めた。

 

 だが、彼女はすぐにフッと、柔らかく自然な笑みを浮かべた。

 

「ええ──頑張るわ」

 

 その、ほんの一瞬だけ教室内で浮いた、二人の空気。

 

 それを見逃すほど、Dクラスの女子は純朴ではなかったらしい。後ろから、ニヤニヤとした笑みを浮かべた松下が近寄ってきていた。

 

「へぇー……堀北さん、綾小路くん相手だと随分可愛い顔で笑うんだね? もしかして、もうそういう仲だったりするわけ?」

 

「ちょっと千秋ちゃん、直球すぎるよぉ!」

 

 みーちゃんも顔を赤くしながら、けれど興味津々といった様子でこちらを見ている。

 

「な、何を言っているのよ、あなたたち! 業務連絡よ、ただの!」

 

 堀北は一瞬で顔を真っ赤に染め上げると、早口言葉のような勢いで否定し、ノートを引ったくるようにしてそそくさと教室から退散していった。オレもまた、松下たちの追及がこちらに向く前に、静かに荷物をまとめて教室を後にした。

 

 胸ポケットから、小さな声が聞こえる。

 

『はぁ、人間さん、復興部は恋愛禁止なのよー! ちゃんと頭にいれておくのね!』

 

「ただのクラスメイトのからかいだ」

 

 小声でそう返しつつ、オレは夜の六時に向けて、思考を切り替えていった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 夜六時。

 

 指定された場所である学園の武道場へと赴く。重厚な引き戸を開けると、静謐な空気が肌を刺した。

 

 板張りの床の奥、夕闇が差し込む道場の中央に、真っ白な道着を身に纏った堀北学が静かに佇んでいた。その佇まいだけで、彼が達人であることが理解できる。

 

 生徒会長はオレの姿を認めると、ゆっくりと目を開けた。

 

「時間通りだな、綾小路。──人払いはしてある。そこに用意してある道着に、着替えろ」

 

 彼が視線で示した先には、オレの体格に合うように用意された柔道着が置かれていた。ここから理由をつけて逃げ出す選択肢を脳内でシミュレートするが、この男がそれを許すはずもない。

 

「……拒否権はなさそうですね」

 

「ない。お前の『中身』を、より深く知る必要がある」

 

 やれやれ。諦めて道着を着用し、畳の上へと足を踏み入れる。堀北学はオレの構えのない立ち姿をじっと見つめ、一つ息を吐いた。

 

「怪我をさせない心得はあるな?」

 

「……まぁ、それなりには」

 

 オレがそう答えた、まさにその返答の直後だった。

 

 生徒会長の身体が、爆発的な踏み込みで間合いを詰めてきた。

 

 ──速い。

 

 前回、特別棟の裏で堀北鈴音を庇った際の突きとは、重みも鋭さもまるで違う。今回は実力を量るための威嚇ではない。明確な「手合わせ」、あるいは「試合形式」の、一切の手抜きのない攻防だ。

 

 むしろ前回のやり取りで手加減があったことを悟る。

 

 オレは上体を僅かにずらし、鋭く放たれた上段突きを掌で弾く。だが、彼はそれを予測していたかのように、即座に軸足を回して鋭い回し蹴りをオレの脇腹へと叩き込んできた。

 

 骨の軋むような風切り音。オレは即座に腕を畳み、その衝撃を受け流す。

 

 ──かなり出来るな……。

 

 この堀北学という男の技量は、現役のプロ格闘家や武道の師範代を相手にしても退けを取らないだろう。生徒会をこなしながら、この実力の維持し続ける才能には、率直に舌を巻く。

 

 次々と繰り出される猛攻に対し、オレは最小限の動きでステップを刻み、受け流し、相手の体勢を崩すための、いなし、捌いていく。

 

 何度目かの交差。堀北学が大きく踏み込み、大振りの右ストレートを放ってきた。

 

 そのモーションの大きさと迫力に、道場の隅で戦況を見守っているであろう、ヒュロポスの「ひゃぅあ!?」という声が耳に届く。

 

 だが、オレはそれが『フェイント』であることを、彼の視線の僅かな揺らぎから看破していた。

 

 本命の一撃が、あわやというタイミングで死角から放たれる──。

 

 今までの大きな動きをフェイントとして、影から迫る本命の一撃、上段回し蹴り。彼の放った蹴りの威力をそのまま利用する形で浮き上がり、着地。体重移動と体幹をずらすことにより威力を完全に殺し切る。

 

 一瞬の静寂。そして再開。

 

 攻防の果てに気づけば、オレの指先──鋭い貫手が、堀北学の喉元から数ミリメートルの位置で完全に静止していた。

 

 生徒会長の動きが、ピタリと止まる。彼の額から、一筋の汗が床へと落ちた。

 

「……ここまで、だな」

 

 堀北学が低く、けれどどこか満足げな声を漏らし、ゆっくりと両手を下げた。オレもまた指を引き、一歩下がって礼を交わす。

 

「見事だ、綾小路。俺の全力をここまで完璧に捌ききるとはな。特に上段回し蹴りからの着地。中国拳法の消力だとするならばお前の底が、未だに見えない」

 

「買いかぶりです。オレの方こそ、あわやというところでした」

 

 道着を整えながら答えると、道場の壁際に用意されていたスポーツドリンクのボトルを一本、オレに向かって投げてきた。それを受け取り、一口喉を潤す。

 

 すると、堀北学はタオルで汗を拭いながら、実にあっさりとした、けれど極めて的外れな質問を投げかけてきた。

 

「──で、お前は鈴音と付き合っているのか?」

 

 危うく、口に含んだ水分を吹き出しそうになった。

 

 オレは無表情を維持したまま、心底呆れた溜息を吐く。

 

 ……妹があれだけのブラコンなら、この兄は兄で、相当なシスコンということか。

 

 堀北兄妹の、外見に似合わない内面の極端さに、頭が痛くなる。

 

「付き合っていませんよ。そもそも、あいつがそんな色恋沙汰に関心を持つような人間に見えますか? 堀北が変わったように見えたのなら、それはあいつ自身の力によるものですよ」

 

「そうか。それでもいい」

 

 彼は道場の床に視線を落とし、独白のような、静かな口調で話始める。

 

「俺は……鈴音をあそこまで追い詰めたことを、悔いている。あいつを俺への依存の中に縛り付け、伸び伸びと自由であったはずの能力を潰してしまった。……本来なら、あいつには俺以上の才能があったはずなのだ。それなのに、俺という小さな背中を目標にしたあまりに、あいつ自身の器を小さくまとめてしまった」

 

 その声音には、冷徹な仮面の奥にある、一人の兄としての本物の後悔と痛みが滲んでいた。

 

 オレはボトルを見つめながら、静かに言葉を返した。

 

「……あんたら兄妹は、本当に似たもの同士だな」

 

「何?」

 

「妹は、兄のことを『自分なんかじゃ一生追いつけない、立派で完璧な人』だと言う。なのに兄は、妹のことを『自分を超える才覚を持っているはずの存在』だと言う。お互いに、自分のことを過小評価しすぎて、相手のことを過大評価しすぎているんじゃないか?」

 

 その言葉に、堀北学は目を見開いた。しばらくの沈黙の後、彼は自嘲気味にフッと息を漏らした。

 

「……そうかもな。他人のことは見えても、血の繋がった妹のこととなると、歪みが生じるものらしい」

 

「それと──」

 

 オレは生徒会長の端正な顔を見据える。

 

「あんたも妹も、どちらかと言えば、対人関係は不器用そうだ」

 

「……っ。くくっ」

 

 彼は一瞬、呆れたように絶句した。だが、すぐにその口元から、現実の彼からは想像もつかないような、柔らかな笑みが溢れ出た。その笑みはどこか妹を彷彿させる。

 

「お前がそれを言うのか、綾小路。友達作りに失敗して、クラスで孤立しているお前が」

 

「……オレはただ目立ちたくないだけだ」

 

「違うのよ! 人間さんはコミュ障なのよ! 友達づくりヘタクソ一等賞なのよ!」

 

 いつの間にか足元に歩いてきたヒュロポスを無視する。

 

「ふ……まぁいい。実は今日、鈴音に生徒会へ入らないかと誘ったのだが、断られてな」

 

 彼の言葉に、オレは少し意外な印象を受ける。あの堀北なら、兄に近づくために飛びつくかと思ったが。

 

「断ったのか」

 

「ああ。『まだ時期じゃない。少なくとも、私が認められる私になってから、生徒会の門を叩きます』と、そう俺に言い放った……あいつが俺の誘いを拒絶したのは、生まれて初めてのことだ」

 

 その言葉を語る彼の表情は、どこか嬉しそうでもあった。依存ではなく、自立した一人の人間として兄と対峙しようとしている妹の姿が、そこにはあった。

 

 堀北学は再び鋭い眼光をオレへと向けた。

 

「綾小路。お前は……生徒会に興味はないか?」

 

 今度はオレへの勧誘か。

 

 オレは少しの間、沈黙の中で逡巡した。生徒会という組織が持つ権限や、そこから得られる情報には、確かに魅力がないわけではない。

 

 だが──。

 

「いや、遠慮しておく」

 

「何故だ。お前ほどの男が、檻の中で燻っている必要性を感じないが」

 

「魅力がないわけじゃないが……今は、あのDクラスの面々が、どう動き、どう変わっていくのかを、特等席で観ていたい」

 

 オレの答えを聞いた生徒会長は、僅かに寂しそうな、けれど深く納得したような表情を浮かべて頷いた。

 

「そうか。お前がそう言うのであれば、無理強いはしない。……だが、俺もお前たちDクラスの、その歩みの行方を見てみたいと、今は本気で思っている」

 

 彼は立ち上がり、道着の帯を締め直した。

 

「そのためにも、生徒会長として約束しよう。お前たちの学年におけるクラス間闘争に、上級生や学校のルールによる『余計な邪魔』が入らないよう、俺は俺の立場で尽力する。お前は、お前の望む席で、その行く末を見届けるがいい」

 

「それは助かる……会長」

 

「学でいい」

 

 夕闇が完全に道場を包み込む中、オレと堀北学の間で、現実世界における一つの「黙約」が交わされた。

 

 

 

 

 




フレーバーテキスト

【コープによるアビリティ】

【0.愚者】
Rank1 総攻撃が解放される
Rank2 追撃が行えるようになる


【2.女教皇】
Rank1
探索時に堀北鈴音を誘うことができる
Rank2
攻撃時に攻撃力上昇支援を行うことがある


【5.法皇】
Rank1
学園生活時に起こり得る上級生とのトラブルに巻き込まれ難くなる


【19.太陽】
Rank1
探索時にヒュロポスを選択することができる
Rank2
フォーラムのマップが解放される
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