Persona x Classroom of the Elite 作:仔羊肉
008
平田が主催した勉強会が終了したであろう、その日の夕方。オレは用事を済ませて堀北を待っていた。
十九時を回ったころに部屋のチャイムが鳴る。扉を開ければ不機嫌そうに翼をパタパタと動かすピンク色の影と一仕事終えた女子生徒の姿があった。奇妙な玩具として周囲の認識を欺いているヒュロポスだ。その小さな嘴からは、先ほどから文字通りの意味で「ぷんすか」という言葉が漏れ聞こえていた。
そして、テーブルを挟んで正面には、堀北鈴音が座っている。彼女は平田の勉強会にオブザーバー、一部の生徒のサポートとして参加し、その報告をオレに伝えるためにここへ足を運んでいた。ついでにヒュロポスに幾つかのお願いごとをして堀北と行動してもらっていた。
その際に「に、人間さんも男の子だもんね! 仕方ないのよ! あたしは理解できる美人さんなのよー!」と言って堀北からも「そ、そう……」となにやら要らぬ誤解を与えている可能性があるが都合が良かったので訂正はしなかった。
「平田くんの勉強会に関しては、特段の問題はなさそうよ。松下さんや王さんへのサポートとして入ったけれど、今あの場に参加していた面子に関しては、このままいけば赤点を回避する程度なら問題ないわ」
堀北は淡々と、しかし確かな手応えを感じている風に言葉を紡ぐ。だが、彼女の視線が僅かに厳しさを増したのは、その後に続く『本命』たちの話に移った瞬間だった。
「ただ……肝心の須藤くん、池くん、山内くんの三人には、聞く耳すら持ってもらえなかったわ」
「酷かったのよ! もう、本当に酷かったのよ!」
堀北が言葉を区切るや否や、彼女の背後で大人しくしていたヒュロポスが我慢の限界とばかりに声を荒らげた。現実世界の人間には聞こえないその甲高い声が、オレの部屋の空気を振動させる。
「ツンツンさんが黙って聞いているのをいいことにめちゃくちゃ言ってたのよ! 酷い言い草だったのよ! 自分たちがどれだけ危ない状況にいるか分かってないのよ!」
ヒュロポスは短い羽をバタつかせながら、堀北を庇うようにオレへと詰め寄ってくる。その様子からは、堀北が現実世界でどれほど辛辣な拒絶を突っぱねられたのかが容易に想像できた。四月の間、周囲を見下し、孤高を気取っていた態度のツケが、この決定的な局面に至って最悪の形で跳ね返ってきているのだ。
「……ツンツンさんだって、これでも傷ついてるのよ。あんな風に言われて、平気なわけないのよ」
ヒュロポスが少しだけ声を落とし、気遣わしげに堀北を見つめる。だが、当の堀北は、その細い肩を微塵も震わせることはなかった。むしろ、その切れ長の瞳には、これまで以上に強固な光が宿っている。
「大丈夫よ、ヒュロポス。気遣いは受け取っておくけれど、私が傷つく理由も、傷ついていい理由なんてものもどこにもないわ」
堀北は言い放つ。その声には、一切の迷いも自己憐憫も含まれていない。
「元より、信頼関係は存在していない。そして、他人との繋がりを自ら断ち切るような真似をしたのは、他でもないこれまでの私自身よ。自業自得という言葉以外で、この状況を説明することはできないわ」
自らの非を完全に認め、客観的に現状を分析する。その精神の在り方は、ペルソナ『プロウニコス』を覚醒させたことで、かつての盲目的な傲慢から一歩踏み出した証でもあった。
「試験本番までは時間が多いわけじゃない、それでも、時間が許す限り、私は何度でも説得を試みるつもりよ」
傲慢さを捨て、泥を啜ってでも目的を成し遂げる。その強い決意を秘めた瞳を見つめながら、オレは小さく息を吐いた。
「そうか」
オレは短く呟き、静かに立ち上がる。
「なら、その目的を果たすためにも、今からフォーラムへ向かう。そして、堀北。お前にはそこでシャドウを倒してもらう」
「……唐突ね。手伝う約束をしているから構わないのだけれど……どういうことかしら? 勉強会の報告と、フォーラムでの活動に何の関係があるというの?」
堀北が不審そうに眉をひそめる。
オレはその問いには直接答えず、制服の上着を羽織り、フォーラムへと侵入するための準備を淡々と進めた。今は言葉で説明するよりも、異世界の構造そのものを彼女の目で確認させた方が早い。
──数分の後。オレたち三人は、寮の玄関口から現実の学校の影に潜む精神の迷宮『フォーラム』へと足を踏み入れる。
現世の色彩を奪い去ったような、ひんやりとした静寂と不気味な気配が周囲を支配している。現実世界の面影など残っていない、歪んだ構造を持つその空間のなかで、オレは足元に立つマスコットへと視線を向けた。
「ヒュロポス、今日堀北が須藤たち三人と話したのは、現実世界のどのあたりだ?」
「ええっと、確か体育館裏のテニスコートの近くなのよ!」
ヒュロポスが即座に小さな羽で方向を指し示す。
フォーラム内における該当の座標──現実世界でいう体育館裏、テニスコート付近へと移動する。
体育館に近づくにつれて、大気の淀みは目に見えて濃くなり、視界の先には複数体のシャドウが、蠢きながら徘徊しているのが確認できた。
「シャドウがいるわね……。でも、綾小路くん。なぜ道中にいた他の個体を無視して、わざわざここにいるシャドウを狙い撃ちにするの? 何らかの意図があるのなら説明してほしいのだけれど」
堀北がペルソナを召喚する構えを取りつつ、鋭い視線をオレに投げかけてくる。オレはシャドウたちの動きを注視しながら、これまで独自に導き出していたこの世界の『仮説』を彼女に開示することにした。
「単純な話だ。シャドウが居座っているエリアは、『復興』を阻害される。そして、このフォーラムを復興させる最大のメリットは、単に異世界が綺麗になることじゃない」
オレは一拍置き、現実世界の構造とこの迷宮の因果関係を口にする。
「フォーラムの特定のエリアを復興させると、現実の同じ座標において、生徒たちの間で発生するトラブルや突発的な事故が劇的に減少する」
「現実のトラブルが減少する……? そんなオカルトじみたことが……いえ、今更ね」
オレはさらに論理を重ねる。
「オカルト、と言ってしまえばそれまでだがな。東洋の古い思想にある『龍脈』に近いものだと感じている。古来より、特定の気が淀む場所では事件や事故、あるいは人間の諍いが多発するという話があるだろう。あれはその土地の地脈や龍脈が乱れていることが原因だとする説がある」
高度育成高等学校という、閉鎖され、常に評価と監視に晒された歪な環境。そこで生徒たちが吐き出す焦燥や不満、ストレスといった負のエネルギーは、このフォーラムに『澱み』として蓄積される。
紙片の情報を一部公開しながらオレは表向きの復興目的を口にする。
「フォーラムの復興という概念は、人間たちの負の認知によって乱された『龍脈の修復、および回復活動』そのものだとオレは判断した。そして今、テニスコート付近にシャドウが群がっているということは、復興できない。そして、復興していないこの場所で説得を行ったところで成功率は低いと踏んでいる」
オレは堀北の目を見据えた。
「須藤たちに言葉を届かせたいんだろう、堀北。なら、周囲の気を淀ませている目の前の障害を排除しろ。地脈の乱れを正し、現実の彼らの焦燥を少しでも和らげることができれば、お前の言葉が彼らに届くための『細い糸』を繋げることができるかもしれないぞ」
得心がいったように深く頷いた。彼女の背後に、影が、青い光を放ちながら揺らめき始めている。
「なるほどね……。この場所の淀みが現実と直結しているというわけね。面白いじゃない。理屈は分かったわ、綾小路くん」
堀北は前髪を払うと、凛とした足取りでシャドウの群れへと歩みを進めた。
「なら、さっさと終わらせましょう。来なさい、プロウニコス!」
青い影は形作り、女の姿へと変わる。
幾重にも重なる幾何学的な紋様が刻まれた暗青色の布を纏い、その隙間から輝く破片を散らす、美しくもどこか歪な姿。
手には知恵の光を宿した鈍色の槍を固く握り締めている。自身の未熟さを直視し、プライドの底から這い上がろうとする堀北の覚悟が、異形の神格として顕現した瞬間だった。
「凍りなさいっ! ブフッ!」
堀北の鋭い号令とともに、プロウニコスが猛然と動き出す。放たれた氷結の一撃が、フォーラムの不気味な大気を吹きすさぶ。
完全な不意打ちは複数体のシャドウのうち、一つを撃破する。しかし残るシャドウの個体がそれぞれの輪郭を得て、こちらへの敵意を隠さずに唸る。
「続くぞ、ヒュロポス」
「了解なのよ!」
オレの指示に合わせ、次々と切り崩していく。それほど時間を置かずして、テニスコート周辺に集まっていたシャドウはすべて、青い光の塵となって霧散する。
「人間さん! ここらへんを復興するには体育館の中にある素材変換器で素材を買うのよ!」
戦闘後、学生証端末によく似たデバイスを取り出して調べものをしていたヒュロポスが声を挙げる。しかしながら目の届く範囲に自動販売機は存在しない。荒んだ体育館跡の内部まで見通せるもののお目当ての代物はどこにもなかった。
体育館の中央部まで歩いてきてもその姿は見つからない。見渡しても廃れた木材やコンクリートが転がっている……そこでヒュロポスは何故か犬のように地面を嗅いでいる。鼻ではなく嘴でくんくんとしていることから本当に何の生物なのかイマイチよくわからなくなってくる。
「ここなのよー!」
そんな叫びを挙げながら地面を嘴で勢いよく突く。すると小さな地響きの後に空間に電流が迸る。そして、まるでそこに最初から鎮座していたかのように自動販売機が現れた。
そしてその光景を作り出した謎の生物はその麓で何故か胸を張っている。
「もしかして今後もこんなドッキリみたいなことが続くの?」
隣に立つ堀北が今起きた出来事を呆れながら見ていた。
「安心しろ、オレも始めての光景で驚いている」
オレの言葉にじっとりとした視線が隣から注がれていた。
「綾小路くん、貴方、訳知り顔で何でも知ってますって雰囲気だしてるけれど……」
「オレは一ヶ月ほど先にこの世界に遭遇しただけの初心者みたいなものだ」
「あ、呆れた……」
オレと堀北は今しがた現れた自動販売機に向かって歩き出す。学生証端末を翳した所で端末には【修復シマスカ? Y/N】と表記されるだけ。
「人間さん、自動販売機を直すところから始めるのよ! しゅーうふく! しゅーうふく!」
どうやら、フォーラムの寮の前にある自販機とは異なり、始めてヒュロポスと遭遇した際の自動販売機と同じ工程を踏まなければならないらしい。しかしながら初めて修復した時に比べれば要求されるポイントは遥かに低い。
自動販売機には既に直っているものと、修復が必要なものが存在することと修復に必要なDPは一定ではないということを頭の片隅に刻み込んでYの文字を指で押す。
以前と同じように激しい発光と共に目を見開けばそこには体育館、体育館周辺、テニスコート、プールの四つの缶がラインナップに加わっていた。要求DPはまばらで体育館周辺が安く、体育館が一番高い。
手持ちのDPは堀北のアディトンを攻略した際にそれなりに稼いではいたものの、この後の計画も含めればここで買えるのは安いものから二つが限度だろう。
再び、端末を翳して体育館周辺を押す。そしてテニスコートを押して出てきたのはデザインが異なるラベルの缶。
「……それをどうするわけ?」
ジトっとした視線を向けてくる堀北にオレは二つの缶を渡す。
「持って、ついてきてくれ」
「……えぇ」
手渡した缶をしげしげと眺めている。そこに描かれているデザインはテニスコートと体育館周辺の風景写真。成分表示は文字化けしていて読み取れない。何故か美味しい! というキャッチコピーまでついている。
その缶を持ったまま体育館のエリアを離れた瞬間に――。
「ひゃっ!」
ヒュロポスとは違う女性の驚いた声が背後から響き渡った。声の持ち主など一人だけで、振り返れば涙目でこちらを睨みつけている。
持っていたであろう二つの缶は空中に浮かび上がり、それぞれが目的地の地面へと飛び込み吸い込まれていく。
次の瞬間、地面が発光して――規則的な並びのタイルが浮かび上がる。ここだけを切り取れば現実の体育館の裏道と大差はない。
そして今度は地面から生えてくるかのようにテニスコートの外周フェンスが現れる。続いてテニスコート内部にポール、ネットと生えていき、瞬く間に高度育成高等学校のテニスコートが完成する。
荒涼としていたエリアの構造が組み替わり、現実のテニスコートを模した美しい空間へと『復興』が成された。周囲を包んでいた重苦しい大気の淀みが少しだけ晴れ、澄んだ気の流れがそこを満たしていくのを、オレは確かに肌で感じ取っていた。
「今日はここまでだ」
「綾小路くん、色々と聞きたいのだけれど。貴方、あの缶が勝手に動くと知っていたの?」
笑みを浮かべているが目が笑っていない。オレはどうだったかなと誤魔化す準備を始めようとしたが――。
「もっちろんなのよ! パレットを直した時は驚いたのよね、人間さん!」
そのヒュロポスの一言に堀北は綺麗な笑みを浮かべる。そして、異世界に高い音が一発、響き渡った。
翌日。
放課後のテニスコートの近く。オレと堀北は、部活に向かおうとしていた須藤の行く手を遮るようにして待ち構えていた。どうやら堀北は昨日の怒りを引きずっていないようだ。意志の強い瞳には今日こそはという決意が滲んでいるようにすら見える。
肩に大きなスポーツバッグをかけた須藤は、オレたちの姿を認めると、あからさまに不機嫌そうな表情を浮かべて足を止めた。
「……また、てめぇかよ」
その声には、未だに抜けない猜疑心や嫌悪感がはっきりと残っている。だが、先日までのようにオレたちを完全に無視して怒鳴り散らし、突き放すような刺々しい気配はなかった。
不満げではあるものの、こちらの話を聞くための最低限のスタンスは取ってくれている。フォーラムの澱みを排除した効果が、現実の彼の精神状態に少なからず影響を与えている可能性はやはり、極めて高いといったところだ。
「突然呼び止めてしまって悪かったわ、須藤くん。まずは、あなたに謝らなければいけないことがあるの」
堀北は一歩前に出ると、その切れ長の瞳でまっすぐに須藤を見つめた。
「ごめんなさい。この前、私はあなたに対して、バスケットボールのプロ選手になれるわけがないといった不躾な言葉を投げかけたわ。あなたの夢や努力を、何も知らない私が否定していい理由なんてどこにもなかった」
まっすぐに頭を下げた堀北に、須藤は面食らったように目を丸くした。あのプライドの塊のような堀北鈴音が、他人に、それも自分に対してこれほど綺麗に謝罪してくるとは夢にも思っていなかったのだろう。
「……っ、……おぅ」
須藤は戸惑いを隠せないまま、小さくそう答えるのが精一杯だった。堀北はゆっくりと顔を上げ、さらに真摯な言葉を繋いだ。
「だからこそ現実的な問題として聞いてほしいの。もしあなたが今回の特別試験で赤点を取り、退学処分になってしまったら……そのプロへの道が、極めて狭く、険しいものになってしまうということは理解しているかしら?」
その言葉に視線を反らすことこそが雄弁な答えを物語っている。
「バスケットボールのプロを目指すことの難しさは、あなたが一番よく分かっているはずよ。それに、高度育成高等学校を中退したという経歴が社会でどのように扱われるか──その風聞や世間の目を考えれば、道は限りなく狭くなる。学校に残ることは、あなたの夢を繋ぎ止めるために必要なことだと思わない?」
堀北の理路整然とした説明に、須藤は悔しそうに歯を食いしばった。
「んなことは、わかってんだよ……!」
地を這うような声で須藤が吐き捨てる。
「でもよ、今更勉強したところでどーにもなんねーだろ。そんなもん、一夜漬けと大差ねぇじゃねぇか。今から足掻いたって、結果が変わるわけねぇんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、オレは須藤に対して驚いた視線を向けた。
「……んだよ、その目は。文句でもあるってのか」
須藤がオレの視線に気づき、苛立たしげに睨みつけてくる。
「こっちはずっとバスケ一筋でやってきてんだ。基礎の重要性なんて、言われなくても嫌ってほど分かってんだよ。基礎がねぇ奴がいくらその場しのぎの練習をしたって、本番じゃ何も通用しねぇ。勉強だって同じだろ。基礎が空っぽの俺が、今更数日ノートを開いたところで、どうにもならねぇって諦めるのは当然じゃねぇか」
なるほど、そういうことか、と得心する。
須藤健という男は、単なる思慮が浅いだけの乱暴者ではない。スポーツという厳しい世界において、地道な積み重ねと基礎の構築がどれほどの重みを持つかを、身体に染み込ませて理解しているのだ。
だからこそ、勉強における自らの致命的な『基礎の欠如』を正確に自覚しており、今からの勉強と付け焼き刃の一夜漬けでは大差がなく、どちらも赤点という高い壁を越えられないと、初めから無理だと諦めている節があった。
「いいえ、必ず間に合わせてみせるわ」
諦念に沈みかけていた須藤の言葉を、堀北の力強い声が真っ向から打ち破った。
「基礎がないのなら、それを補うための効率的な戦略を立てる。あなたの理解度に合わせて、試験に出る最低限の要点だけを徹底的に叩き込むわ。私が、あなたを絶対に退学させないと約束する」
その強い瞳、一切の揺らぎもない圧倒的な覚悟を秘めた眼差しを、須藤は正面から見つめ返すことができない。
「なんで……」
須藤は視線を泳がせ、掠れた声を漏らす。
「なんで俺なんかに関わるんだよ。ほっとけばいいじゃねぇか……」
そんな言葉を続けようとした須藤だったが、最後にはその全てを胸の奥へと飲み込んだ。堀北の瞳にあるのは、憐れみでも偽善でもなく、ただただ目的を遂行せんとする純粋な意志だったからだ。
最終的に、須藤は「……チッ」と大きく頭を掻きむしり、観念したように頷いた。
「……分かったよ。俺だって、退学しねぇですむならそれが一番いいからな……今日からテストまで、部活を休む連絡をしてくる。待ってろ」
須藤はそれだけ言い残すと、足早に体育館のほうへと歩き去っていった。その大きな背中を見送りながら、堀北は呆然とした様子で自らの手を見つめ、劇的な説得効果に驚きを隠せないでいた。
「……信じられないわ。昨日まで、あれほど頑なに私の話を聞こうとしなかった須藤くんが、こんなにすんなりと説得を受け入れるなんて……少し、怖さすら感じるほどよ」
まるで世界の理が歪んだかのような奇妙な感覚に、堀北の細い肩が微かに震える。そんな彼女の隣で、オレは言葉を付け加えた。
「須藤は、お前が想像している以上に退学処分を恐れていたはずだ。あの状況下で他人を寄せ付けず、周囲を威嚇するような荒れた態度を取っていたのは、その恐怖を隠すための裏返しでしかない」
オレは須藤が去っていった方向を静かに見つめる。
「だからこそ、前段階として『聞く耳』を持たせた上で、目の前に救いの紐を垂らしてやれば、あいつは必死になって縋り付く。少なくとも、まだどこか他人事のように危機感の薄い池や山内とは違って、あいつの焦燥感は本物ということらしい」
しばらくして、部活の顧問への連絡を終えた須藤が戻ってきた。
オレと堀北は、事前に準備し、選定しておいた『パレット』をこれからの勉強場所として提示した。
すると、須藤は不思議そうに首を傾げた。
「勉強するなら、普通は図書館とかのほうが静かでいいんじゃねぇか?」
その当然の疑問に対し、堀北はあらかじめ用意していた建前を淀みなく口にした。
「前に揉めたから少し利用しにくいのよ。罪悪感やストレスで手を止まるよりかは、多少賑やかでもカフェのほうが集中できるわ」
「あー……まあ、お前がそう言うなら構わねぇけどよ」
心当たりしかない須藤は納得した様子で首を縦に振る。
堀北が口にした理由は、須藤に違和感を持たせないためのカモフラージュ──偽装に過ぎない。
本当の理由は、ここがフォーラムにおいて『復興が進んでいるエリア』だからだ。
フォーラムの澱みが現実にマイナスの作用をもたらすのであれば、逆に修復された空間は、現実にプラスの効果を作用させる。ストレスやプレッシャー、悩みから解放されるというのは人間のパフォーマンスを高める。
だが、どれほどの効果があるのかまでは判断がつかない。人間の精神の安定や、集中力の向上といったポジティブな影響を受けた生徒がどういう結果をもたらすのか。学年でも最下位クラスの須藤を下の指標にするにはいい機会ともいえる。
オレたちの仕掛けた環境が、須藤の成績や勉強に関する認知をどう変えていくのか。その実験は、ここから始まることになる。
◇ ◇ ◇
ケヤキモールの一角にあるパレット。
放課後のこの時間帯、店内は既に多くの生徒たちで賑わい、相当数の席が埋まっていた。
香ばしい珈琲の香りと、穏やかなBGMが漂う空間。日常の焦燥や、実力主義が支配する学校特有の息苦しいプレッシャーが、この店の境界線を越えた途端に綺麗に消えていた。
フォーラムにおいて最も『復興』が進んでいるこの座標は、間違いなく現実世界の人間たちの精神に、無意識レベルでの「精神的安定」と「受容の余裕」をもたらしている。
「……おい、本当にここでやんのかよ。なんか、場違いな気がすんだけど……」
隣を歩く須藤が身体を縮めながら囁いた。空気の良さ、居心地の良さはそのまま誰にとってもの居場所にはなり得ないのだろう。
大柄な体躯にスポーツバッグを肩にかけた彼の姿は、確かにお洒落なカフェの雰囲気には少し浮いていて、常日頃から問題と隣り合わせだった身からしてみれば違和感が強いのだろう。
そして、本当に気遅れしている理由はそこだけではなかった。
店の最奥にある、数名掛けのテーブル席。そこには、既に数人のDクラスの生徒が集まっていた。
長谷部波瑠加、三宅明人、佐倉愛里と他人と接することに抵抗を覚えている集団。
そして、小野寺かえで、篠原さつきに井之頭心といった部活動に所属している組。
そして、王美雨に松下千秋、さらには幸村輝彦とDクラスの中ではトップの成績を誇るものたち。
「ッ……」
須藤はその面々を視界に入れた瞬間、弾かれたように少し気まずそうに目を逸らした。
彼らがここにいるのは、決して偶然ではない。平田の勉強会とは別に、学力に不安のある生徒や、部活動があって他の生徒よりかは時間が取れない生徒、そして優秀ではあるが比較的に扱いづらかった生徒たちをここに集めるよう、堀北と裏で連携して調整しておいた結果だった。声をかけた全員が集まったわけでもないが、それでも、小野寺や篠原といった女子生徒、そして地味ながらも学力上位の幸村を引き込めたのは大きい。
しかし、須藤にとっては「最悪の布陣」に見えたに違いない。四月の間、授業態度が悪く、事あるごとにクラスメイトを威嚇し、暴言を吐き散らしてきたのだ。特に篠原や小野寺といった女子グループとは何度も衝突しかけている。幸村との相性も相当に良くない。
須藤の横顔には、自嘲と、再び拒絶されることへの身構えがありありと浮かんでいた。
「あ、堀北さん! こっちこっち!」
テーブルの席から、松下が真っ先に気づいて笑顔で手を振った。
「お待たせしたわね、みんな。連れてきたわよ」
堀北が凛とした声で応じ、須藤を促すように一歩進み出る。須藤は逃げ出したい衝動を堪えるように、肩を硬くしながらその後に続いた。
歓迎されない。文句を言われる。腫れ物を触るような目を向けられる。
そう覚悟していた須藤の耳に届いたのは、予想を完全に裏切る言葉だった。
「お、須藤じゃん。マジで部活休んで勉強しに来たんだな。」
座っていた三宅が、いつものぶっきらぼうながらも敵意のないトーンで声をかけた。
「す、須藤くん、よ、よよよよろしくねぇ」
王美雨がぎこちない笑みを浮かべて、噛み噛みながら用意していた空き席を示す。だがその様子こそが須藤の毒気を完全に抜き去る。ここまでビクビクした少女然とした女子に言葉だけとはいえ、歓迎されればいつもの怒声や悪態は取りづらい。
さらには、普段なら須藤の素行に対して眉をひそめるはずの篠原までもが文句も言わず大人しく席に座っている。佐倉も王と同じく歓迎しようと口を立ったがタイミングを逃したのか再び、着座。
「あ、あの……あぅ、なんでもないです……」
人見知りの激しい佐倉が、おずおずと何かを言おうと声を上げたが、結局のところ飲み込む。その行動だけでも四月の頃とは目覚ましいまでの変化である。
「……」
須藤は立ち尽くしたまま、信じられないものを見るかのように目を見開いた。
いつもの彼なら、「うるせぇ、余計なお世話だ」と突っぱねていたかもしれない。だが、今の彼を包むパレットの空気は、彼自身の警戒心を優しく解きほぐしていた。クラスメイトたちの言葉に棘はなく、純粋に「クラスの仲間」として自分を迎え入れようとしてくれていることが、痛いほど伝わってきたのだ。
「……足引っ張るかもしれねぇけど……よろしく頼むわ」
須藤はぶっきらぼうに、しかしはっきりとそう口にして、差し出された席へと腰を下ろした。その表情から、先ほどまでの刺々しい猜疑心は綺麗に消え去っていた。
「よし、全員揃ったな」
幸村が眼鏡の位置を正しながら、参考書を開く。
「須藤。お前が基礎の重要性を理解しているのは、堀北から聞いた。なら話は早い。今回の試験範囲における『基礎』を、俺や堀北が徹底的に叩き込んでやる。覚悟しておけよ」
幸村の好戦的な言葉は須藤が好みだったのがニヤリと不敵な笑みを浮かべている。
「へっ、望むところだ」
不敵な笑みを浮かべる須藤の瞳には、すでに前向きな闘志が宿っていた。その光景を、オレは一歩引いた位置から静かに観察していた。
──凄まじいな。
フォーラムの『復興』がもたらす現実への影響。それは、目に見えるトラブルの減少だけではない。
本来であれば、これまでの関係性の悪化から、衝突や不調和を避けて通れなかったはずの人間関係。それが、澱みが払われたことで、奇跡的なほどスムーズに「噛み合って」いる。
互いの認知の歪みが一時的に和らぎ、本来持っている善意や前向きな意思が、余計な摩擦を生むことなくストレートに伝達されているのだ。
「……驚いたわ」
隣に立つ堀北が、信じられないものを見たというように、小さく息を漏らす。
「私の事前のアプローチがあったとはいえ、これほど自然に彼らが須藤くんを受け入れ、須藤くんもまたそれを素直に聞き入れるなんて。昨日までのあの険悪なクラスの空気が、まるで嘘のようね」
「お前の説得が的確だったからだろう」
たった一日。けれど大きな変化があった一日。その一日を堀北は謝罪と決意表明のために歩き回った。Dクラス一人一人にアプローチをかけて、頭を下げて、言葉を交わした。
勿論、それが全員の心を変えるには至っていない。高円寺は興味を示さなかった、池や山内は許さなかった。他にもいまだに女子の数人からは嫌われている。
それでも、あの堀北学が自分を超える逸材と評価した存在なのだ。そのポテンシャルか開花すればこの程度は可能なのだろう。
オレは、肩の上で微動だにせず、ただの玩具として周囲の目を欺きながらも、どこか誇らしげに気配を漂わせているピンク色を見つめる。
「とってもいい雰囲気なのよ! ツンツンさんも昨日頑張った甲斐があるってものなのよね!」
堀北はその言葉が恥ずかしかったのかヒュロポスを軽く睨んで自らも席へと加わり、須藤の隣でノートを広げた。
澱みのない、澄み渡った空間。
フォーラムの復興がもたらす真の価値を確信しながら、オレは静かに、彼らの机の上に広がる参考書へと視線を落とした。
◇ ◇ ◇
勉強会は、その後も驚くほど恙無く進んでいった。
パレットの澄み渡った空気がもたらす高い集中力のおかげか、須藤は幸村の厳しい指導に対しても苛立つことなく、必死に食らいついていた。いつもの彼ならすぐに投げ出して机を叩いていたはずだが、今は辛抱強くノートにペンを走らせている。
一時間半ほどが経過した頃、幸村が「よし、一旦ここで休憩にしよう」と告げ、張り詰めていた空気がふっと弛緩した。
「みんな、お疲れ様。冷たい飲み物を買ってきたわ。好きなものを受け取って」
勉強会の主催者である堀北が、トレイに全員分のドリンクを載せて運んできた。普段なら他人に甲斐甲斐しくサービスするなど考えられなかった彼女の変化に、松下や篠原たちが驚きつつも「ありがとう、堀北さん!」「ありがたくいただく、堀北」と声を弾ませる。
冷たいオレンジジュースや珈琲が配られると、テーブルの雰囲気は一気に明るくなった。
だが、その明るい空気の裏で、幸村と松下は少しだけ緊張した面持ちで、堀北に視線を送っていた。
二人はドリンクのコップを手にしながら、声を潜めて話し始める。
「堀北。須藤の勉強に対するやる気は理解した。それは十分に伝わってくる……だが、かなり怪しいと言わざるを得ない」
幸村が眼鏡のブリッジを押し上げながら、厳しい現実を突きつけた。それに同調するように、松下もストローを弄びながら眉をひそめる。
「うん……今回の試験、範囲自体はそこまで広くないけれど、今週末だもん。本番で、須藤くんが赤点を回避できるだけの点数を取れるかって言われると、正直、五分五分か、それ以下かも」
「あ、あの……もっと問題があって」
みーちゃんがおずおずと手をあげる。
「あのね、みんなが勉強するってことは平均点が底上げされるってことだよね? 退学のラインがあがっちゃったら……」
その台詞に幸村と松下は驚く。堀北は理解していたのか同意するように頷いた。
赤点ラインは、クラス全体の平均点の半分。
もし須藤一人が前のまま低い点数を取ってしまえば、その時点で足切りに引っかかり、退学処分が確定する。それだけではなく、平田が開く勉強会や今ここで開いている勉強会が効果的であればあるほど平均点は上がってしまう。
今週末に迫った試験に向けて、問題点が多すぎる──それが、学力上位者である彼らの冷静な分析だった。
「ええ、それは私も重々承知しているわ。だからこそ、提案があるの」
堀北は二人を見据え、極めて静かに、しかし迷いのない声で一つの『案』を提示した。
「ここにいる成績優秀な人たち、つまり幸村くんや松下さん、王さんへのお願いなのだけれど……今回のテストの点数を、意図的に下げてほしいの。この作戦は平田くんの方にも話してみるつもりよ」
「なっ……!?」
幸村が思わず息を呑む。少し離れていた場所で談笑していた組も様子が変わったこちらのグループをみてくる。
「点数を下げるだと!? お前、何を言って──」
「平均点をコントロールするってこと?」
驚く幸村を制するように、松下が鋭くその意図を察知した。
「今回の赤点ラインは、クラス全体の平均点の半分。つまり、上位陣が意図的に点数を低く抑えれば、クラス全体の平均点が下がる。結果として、足切りとなる赤点ラインそのものを、極限まで引き下げることができる……そういうことだよね、堀北さん?」
「その通りよ。須藤くんの学力を急激に上げるのが難しいのであれば、合格基準となるハードルの方をこちらから引き下げればいい。そうすれば、須藤くんが赤点に引っかかる確率は限りなくゼロに近づくわ」
「……なるほど、確かに筋は通っている」
幸村は納得したように一度は頷いたものの、すぐにその表情を曇らせた。彼の内にある『学力優秀な生徒』としてのプライドと常識が、その手法に強い拒絶感を示していた。
「だが、意図的にテストの点数を下げるなんて真似、俺には抵抗がある。なぜ俺たちが、身を削ってまでそんなことをしなければならない? この勉強会くらいまでなら構わなかったがテストの点数を落とすとなると話は変わってくる。そもそも、この学校でテストの手を抜くなんてリスクが大きすぎる。普段の成績や態度が、今後の評価にどう響くか分かったものじゃない」
普通の進学校であれば、定期試験の点数はそのまま個人の評価、ひいては進路に直結する。幸村の危惧は、学生として至極当然のものだった。
しかし、堀北は首を横に振る。
「いいえ、幸村くん。この学校において、今回のペーパーテストの結果は、私たちが思うほど個人には大きな問題ではないはずよ」
彼女の切れ長の瞳が、強い知性の光を宿して幸村を見据える。
「普通の学校なら、普段の成績や態度が個人の価値を測るものになる。けれど、この高度育成高等学校においては、何よりも『クラス』という単位が重要視されているわ。五月一日にクラスポイントがゼロになった現実が、その何よりの証拠よ。もしも個人で判断されるのならばクラスポイントという概念は必要なくなる」
堀北はさらに言葉を重ね、クラスメイトたち全員に聞こえるように説得を続けた。
「勿論、成績が良いに越したことはないわ。けれど、今回のような『生徒の実力を量る試験』において本当に試されているのは、個人のテストの点数ではない。クラスとしてどう機能し、どう動くか──その組織としての対応力」
「……証拠はあるのか?」
幸村が疑わしげに目を細め、堀北に鋭い問いを投げかける。
「確たる証拠は、まだ無いわ。けれど、考えてみてほしいの」
堀北は一歩も引かなかった。
「もし、本当に純粋な学力だけがこの学校の指標なのだとしたら、私や幸村くんのような学力上位者が、なぜ『Dクラス』に配属されているの? その前提自体に矛盾が生じるはずよ」
その言葉に、幸村は言葉を詰まらせた。自身がなぜDクラスなのか、その疑問は彼にとっても拭いきれない屈辱であり、最大の謎だったからだ。
「だから、発想を変えるのよ。この学校が私たちに何を求めているのかを。恐らく、今後もクラスとしての総合的な実力を試されるような試験が次々と課されるはずだわ。そこでは学力だけではなく、身体能力や、思考力、もしくはコミュニケーション能力。あるいは個々の持つ特殊な技能が、場合によっては強力な武器と成り得る」
堀北は静かに、ドリンクを飲みながら少し離れた席でこちらを気にしている須藤の背中を視線で指し示した。
「そのためには、数は力よ。今ここで須藤くんが欠けるということは、私たちのクラスから『優れた身体能力を持つ人間』を、永久に手放すということを意味しているわ。今後のことを考えれば、彼を失うことはクラス全体にとって不利益になる。私はそう判断した」
熱を帯びた堀北の演説。
それは、ただの理屈を超えて、彼女が『プロウニコス』を覚醒させたことで得た、強固な意志から生じるものだった。
「……理屈はわかった」
幸村はため息を吐き、眼鏡をかけ直した。
「学力以外の側面で測られているというお前の根拠も、確かに一理ある……だが、それでもまだ納得できない。俺たちが自分の身を切り、わざと点数を下げてまで須藤を残すに値する、明確な理由──いや、決定的な『証拠』が欲しい。感情論や推測だけでは、俺のプライドは曲げられないんだ」
幸村輝彦という男を説得するには熱意や推測だけでは足りない。
堀北の熱意は確かにパレットの空気も相まって人の心を動かしつつある。しかし、幸村のように思考力に優れ、頭の固い優秀な生徒を完全に動かすには、決定的なピースがまだ足りていない。
──ふむ。やはり、そこが境界線か。
その様子を、静かに見守っていたオレは、心の中で呟いた。
堀北はよくやっている。かつての独りよがりだった彼女からは想像もつかないほど、他者を観察し、説得しようと試みている。だが、実利を重んじる人間を動かすには、明確な『証拠』が必要とされる時もある。
オレは持っていたコーヒーをテーブルに置く。その時、肩に止まっていたヒュロポスが滑空し、何故か堀北の前に躍り出る。
「ヒューポポポポ! 片腹痛いのよ!」
謎の鳥は謎の笑いを持ってテーブルの上に降り立った。堀北が睨んでくる。幸村や松下もこちらを胡乱げな目で見ていた。みーちゃんだけが「AIちゃん、どうしたの?」と尋ねていた。
「さぁ! 見せてやるのよ! 人間さん、秘密兵器をね!」
ヒュロポスが羽根を使って器用にこちらを示す。その動きに合わせて堀北たちや会話に加わっていなかった組もこちらを見ている。須藤の目は可哀想なやつという慈悲すら籠もっていた。
オレは盛大に溜息を吐いて――口にする。明日、堀北から全員に渡してもらうつもりだったあるものを鞄の中から取り出した。