「あ、これ……」
古ぼけた本屋の隅の棚で、一ノ瀬有栖(ありす)は一冊のライトノベルに目を釘付けにされた。
『孤高の騎士と復讐の果て〜敵対した元仲間たち、後悔してももう遅い〜』
表紙には、どこか見覚えのある黒髪の青年が、嫌味な笑みを浮かべた金髪の貴族風男子と小柄な魔術師少女、巨漢の格闘家を尻目に、寂しげな横顔を向けている。有栖は思わず吹き出しそうになった。
「うわ、テンプレすぎて逆に新鮮……今どきこんなのあるんだ。」
気になってその場でパラパラとページをめくる。挿絵の付いたページを見るだけで物語の大筋はすぐさま掴めた。勇者パーティーの雑用係として扱われていた剣士レオンが、「お前は役立たずだ」と追放され、行き着いた辺境の村で偶然救った村娘クロエと共に頭角を現し、最終的に元仲間たちへの壮絶な復讐劇へ──。
「……あはは、こりゃベタすぎでしょ。ギルバートったら『相変わらず』嫌味だし、ミーシャも陰険で……バルガスまで脳筋ムーブ全開なんだもんなぁ」
読むほどに胸騒ぎがした。なぜ私は彼らの人となりを“知っている”のか?
まるでこの話が実体験だったかのように。いや、そんなはずは。
だが次の瞬間、雷に打たれたような激しい頭痛と共に、奔流のような映像が脳内を駆け抜けた。
────。
* * *
血と砂埃の臭い。夜空を焦がす炎。叫び声が遠ざかり、やがて静寂が訪れる。暗闇の中、誰かの荒い息遣いだけが響いている。そうだ、あれは私自身のものだ。
「待って、レオン……話を聞いて。私が悪かったの! もう二度と、あなたをバカにしないわ、だから──っ」
蹲るように地に伏せたまま哀願する声が、自分の口から漏れている。
「──もう遅い。それに、お前らの罪は俺を愚弄し続けたことじゃない。その一生で償え」
冷たい青い瞳。かつて何度も向けられた侮蔑とは違う、底なしの憎悪と蔑視の眼差し。その刃が振り下ろされ、宙に舞う自分の右手を見ながら、私の意識は闇に飲まれた。
* * *
「……あー、そっか」
有栖は薄く笑い、手にしたラノベをそっと本棚へ戻した。表紙の青年の目が、最後にじっとこちらを見たような気がしたが、それはきっと駅ビルの照明が反射しただけだ。
本屋を出ると、冬の冷たい風が頬を撫でた。彼女の背中を覆う艶やかな黒髪が、風に煽られて大きな弧を描くようにして流れる。街は黄昏に沈みかけ、人々の足音と電車の轟音とが、無秩序な交響曲のように渦を巻いていた。
──右手。
ふと、視線を落とす。グレーのカーディガンの袖の中で、有栖の右手が微かに痙攣した。包帯も義手もない、健全な五本の指。爪を噛む癖も、ペンを握る時の力加減も、十六年間この身体で培われたものだ。それなのに、今この瞬間、右手首から先がなかったような幻肢痛が走った。
「……嫌なこと、思い出しちゃったなあ」
小さく呟く。吐息が白く、すぐに人混みに吸い込まれて消えた。
私の前世、アリス・クロスハートは、野生の獣に喉笛を噛みちぎられて死んだ。癒しの力の源だった右腕を奪われ、泣きながら野を這いずり回り、助けを求めた末路だった。レオンは知らないだろう。いや、知っていても、知らない顔をしたのだろう。あの男ならきっと。
「……それにしてもさあ。命乞いする女の子の腕、すっぱり切っちゃうとか。酷くない?」
眉をひそめつつも、口元は苦笑で歪む。過去の自分を省みると、決して聖人君子ではなかった。才能だけで傲慢になり、人の心を踏みにじってきたのは自分の方だ。
「そりゃ……前世の私も、相当レオンに酷いこと言ったし。悪かったとは思うよ? でもさ……」
思い返せば思い返すほど、腹が立ってくる。同時に虚しさがこみ上げる。
「……結局、『何が』私にとって一番の罪だったんだろ」
考え込む有栖の耳に、近くのコンビニから流れるクリスマスソングが届いた。通り過ぎるカップルの談笑。塾帰りらしい小学生の集団が、はしゃぎながら走っていく。――そう、ここは2026年の東京。魔法も魔獣もいない代わりに、LEDの看板があちらこちらで煌めき、信号待ちのバスからは陽気な洋楽が漏れ聞こえる。
「……ふぅ」
有栖は深呼吸した。肺いっぱいに吸い込んだ空気は澄んでいて、どこにも血や灰燼の匂いはない。
「もう終わったこと、だよね。やめよっか。あいつだって……幸せそうだったし」
言い聞かせるように呟き、スマホを取り出す。画面にはSNSのプッシュ通知と友人たちからのメッセージが並んでいる。帰宅したら、彼女たちとオンラインゲームの約束があるのだ。
「とりあえず今日は——」
そこで、見たことのないアプリのアイコンが画面上部に点滅した。「Return」という文字列が踊る。触れるつもりはなかったのに、指が勝手に動いてタップしてしまう。
───瞬間、鈍く重い眠気が有栖を襲った。地面がぐるりと反転し、立ち止まろうとした足が虚空を掻く。街灯の光が万華鏡のように歪み、次第に色を失い、真っ白な闇へと溶けていった。