数日後——
アリスは教団の敷地内にある簡易講堂の扉を押し開けた。薄暗い廊下から踏み込んだ先は、意外なほど明るく清潔な空間だった。天井は高く、採光用の窓から差し込む午後の陽射しが、白漆喰の壁を柔らかく照らしている。内装は質素な造りだが、一般住民向けに開放されていることを謳うだけあって、居心地の悪さは特に感じられない空間だった。
「アリス先生でいらっしゃいますね。本日はよろしくお願いいたします」
案内役の教団関係者——灰髪に深い皺を刻んだ初老の男性が、丁寧に頭を下げた。アリスも微笑みを返し、預けていた道具箱を講壇の近くのテーブルへ運んだ。
蒸留装置のガラス部分を丁寧に取り出し、台座を組み立てていく。曲がったガラス管に陽射しが屈折して、虹色の光が壁に揺れる。続いて試験管を整然と並べ、ラベル付きの小瓶を大小の順に配置する。指先が触れるたびにガラスが軽く鳴り、規則正しい音を奏でた。
板書用の黒板には、午前中の予定をチョークで書き込んでおく。基礎的な薬草の識別から、簡易ポーションの調合法まで——無難な範囲で収めるつもりだった。
「生徒さん用の器具はこちらに配置しました。準備ができましたら声をおかけ下さい」
教団側の手際よい働きで、人数分の小型蒸留セットも整っていく。アリスは頷きながら器具に異常がないか最終チェックをした。
その時、ふと背中に視線を感じて振り返る。
入口の柱の影に立つ人影があった。
小柄な体躯。淡い金髪がフードの隙間から覗き、琥珀色の瞳が揺れている。——あの時の少女だ。
「あ……」
アリスは思わず声を漏らした。
「エマちゃん……だよね?」
少女は一瞬たじろぎ、それから慌てたように一礼した。フードの端が僅かにめくれ、翡翠色の薔薇の刺青がちらりと見える。
「こんにちは! 覚えてくださってありがとうございます。あの時は……本当に助かりました!」
頭を何度も下げながら、エマは柔らかな笑みを浮かべる。声にはまだ幼さが残るが、言葉遣いはしっかりしていた。アリスは彼女に近づき、視線の高さを合わせるように少しだけ屈んだ。
「あの子は大丈夫?」
「はいっ! おかげさまで元気になりました。本当に感謝してます」
元気になった——その言葉にアリスの胸はわずかに痛んだ。自身の治癒スキルは毒性の除去には有用だが、依存症の根本解決には程遠い。少女の家族や周囲がどれほど尽力したか想像するだけで心が重くなる。
だがエマ本人には友人が何故倒れたのかを追求するのは憚られた。それに元気になったと言うならば、少なくとも自責の念に囚われ続ける必要はないだろう。
「そっか……良かったよ」
アリスは穏やかに笑って答えた。
「でも今日はお一人なんですね」
「え?」
「ああいえ、レオンさんと一緒に来ていましたから……」
「あ~うん。今日はね」
短く応じつつも、アリスの心中には微かな陰りが滲む。この教団に対する警戒心は消えていないが、エマがいる時点で単純な危険はない——そう信じたい自分がいた。
「エマちゃんはここの教団の人なの?」
問いに彼女は首を横に振った。
「いえ、私はただのお手伝いですよ。知り合いの方がこの教団に関わっていて、それでたまにお手伝いしてるんです」
「そうなんだ。まあいろいろ事情はあるよね」
「ありがとうございます」
話が一段落したタイミングで、先ほどの初老の関係者が時計を手に近づいてきた。
「アリス先生、まもなく開演の時間ですが、よろしいでしょうか?」
「あっ、わかりました」
アリスはエマに向かって笑顔を向ける。
「じゃあまた何かあったら声かけてね」
「はい! 本当にありがとうございました」
エマは再び深く頭を下げると、そっとフードを被り直し、列の一角へ戻っていった。講堂に集った数十人は既に着席しており、各々の席に器具が配られた状態で静かに開始を待っている。信者と思われる数名は明らかに熱心な信仰者らしい表情で胸元に手を当て祈りを捧げており、対照的に市井の町人たちはやや緊張した面持ちで器具をまじまじと眺めていた。
その空気を切り裂くように講堂前方の演壇に一人の男が姿を現した。黒衣の僧衣に肩章をつけた壮年の幹部は、恭しく一礼する。
「皆さま、お集り頂き感謝いたします。本日は錬金術の一端に触れる機会をいただいたことを喜ばしく思います」
挨拶は丁寧だった。しかし続く言葉で場の空気が凍る。
「しかしながらその前に。我が『無原罪の輪』の基本理念をご理解いただくのが肝要かと思います」
信者たちは一斉に熱狂的な眼差しを向けたが、一般市民の多くは怪訝な顔付きになった。だが幹部は構わずに語り始めた。
「かつて、世界の根源は『無原罪』でした。あらゆる存在は本来平等であり、富も知識も武勇も、……先天的な才能さえも、誰かが独占すべきものではありません。」
幹部は芝居がかった口調で両腕を広げる。
「しかし今の世界はそうではありません。『持てる者』が富、知識、才能、そのすべてを独占しています。彼らは血の滲むような努力でそれを築いたと謳いますが、実際のところ、それはただ『生まれ』という偶然がもたらしたものでしかありません。そしてそれこそが世界が抱える『原罪』なのです。」
熱弁が続くにつれ、信者たちはうっとりと頷き、聴衆は徐々に引いた面持ちになっていった。
「我らは不当に奪われたすべてを取り戻し、『再分配』すべく立ち上がります。貴族の蔵に眠る宝物や医薬品を貧しき者の手に。賢者の知識を万人の学びへ。全ては平等で『原罪なき』円環に還るべきなのです」
最後に今回の講習はその第一歩であると締めくくり、一礼した。
まばらな拍手が響く。信者たちの喝采が主旋律となり、他の者たちは乾いた表情で手を叩いた。アリスはそんな光景を静かに観察していた。
(確かに共感できる部分もある……でも彼らは『持てる者』がなぜ富や才を持つに至ったのか、その過程や責任については一切語っていない)
教義が掲げる理念自体には理想主義的な美しさがある。実際に救われる者もいるのだろう。しかし『再分配』という言葉が引っ掛かった。再分配を行うのが教団であるならば——
(……それは、『権力』が移動しただけなんじゃないかな)
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幹部がアリスに向かって一礼した。
「それでは先生、後はよろしくお願いします。」
「あ、はい」
アリスは一瞬間の空白を埋めるように頷き、講壇の中央へ足を進めた。数十の視線が一斉に集まる。信者の熱のこもった瞳と、町人たちの素朴な好奇心が入り混じった空気の中で、彼女は背筋を伸ばした。
「今日は講師を務めます、アリス・クロスハートです。よろしくお願いします。では早速ですが──今日は薬草を使ったポーションの抽出について学んでいきましょう」
透き通るような声が講堂内に通った。教科書を開かせながら初歩的な成分構成を説明し、座学を進める。彼女が普段扱う高度な材料は封印しているため、話題も必然的に抑え目になる。だが専門用語を極力避けながらも要点を押さえた語り口は聴衆を惹きつけた。
「では実際に抽出に入っていきます。まずは準備してもらった薬草の粉末をフラスコに入れ──」
実習が始まると各々器具の前に腰を下ろし、恐る恐る蒸留操作に挑み始める。アリスは最初に設置されたデモンストレーション台で、低級魔石を媒介とした典型的な抽出手順を披露した。通常なら10分もかからない作業だが、今回は数倍の時間をかけて慎重に行う。不純物が緩やかに分離され琥珀色の液体が滴り落ちる様子に町人たちは感嘆の声を漏らした。
(我慢、我慢……)
内心でそう呟きながらアリスは苦笑いする。自身のレアスキルを使えば一瞬で完成する。だがギルバートやミーシャとの約束通り抑制するしかない。蒸留器のガラス容器に淡い虹彩が反射しているのを眺めながら彼女は一呼吸置いた。
実習の進行速度に合わせつつも、教室内を巡回し始めた。
いくつかの班を回って問題点を指摘していくうちに相当な時間が経過していた。手持ちのフラスコは既に完璧なポーションが満ちている。ほぼすべての班で精製は最終段階を迎えていた。そんな中──。
ふと、少年の卓に目が留まった。年齢は十歳前後だろうか。蒸留液の色が濁ったままであることに気づき足を止めた。
「どうしたの? うまくいってない?」
優しく訊ねると男の子は顔を上げた。その目には明らかな不安と落胆が滲んでいる。
「うん……色がうまく変わらなくて……」
俯いた男の子は小さな声で呟いた。
「もしかしたら、自分で摘んできた薬草……勝手に入れちゃったせいかも。お母さん、いつも腰が痛いって……だから体に良いって薬草を今日摘んできたの」
確かにその薬草は体の痛みに効くものだった。しかし、簡易なポーションの精製には適さない薬草で、乾燥の工程もなされていない。抽出がうまくいってないのはこのせいだろう、とアリスは思う。
「お母さんにポーション持って帰るって言ったのに……どうしよう……」
男の子は今にも泣き出しそうな顔だった。
テーブルに残った薬草を見る。茎の切り口は爪でちぎったように潰れている。それでも葉の部分は傷ついていない。根元から慎重に、手で摘んだのだろう。刃物も使わずに。その子の爪は薬草の汁や泥で汚れていた。
『腰の痛む母親のために』
その気持ちが伝わってくるようだった。その子は俯いたままだ。周りの生徒は自分の蒸留装置を見ていてこちらを見ていない。
ギルバートやミーシャの忠告が脳裏に浮かぶ。そして──いつも一緒にいるパーティの、ちょっと不器用で過保護な仲間の姿も浮かぶ。それでも───
(……えいっ)
アリスはローブの袖口を大きく捲り上げるようにして手元を隠し、指先に力を集中させた。指先が淡く熱を孕む。袖口の隙間から緋色の光が一瞬だけ迸り、蒸留装置へ向けられた。
フラスコの中では即座に不純物が沈殿し、鮮やかな琥珀色が析出していく。まもなく高品質なポーションが精製された。
「あっ!見て! 良い色になってきたよ!」
アリスが声を上げると少年は飛び跳ねるように顔を輝かせた。
「えっ、本当に!?」
「うん! 大成功だよ! お母さんも喜ぶって!」
「良かったぁ……!」
大喜びする少年の手を握って一緒にはしゃぎながらも、アリスは最後に釘を刺すことを忘れない。
「でも次からはちゃんと教えた通りにやらないとダメだよ」
「うん!」
少年は満面の笑みを浮かべながら大きく頷いた。
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講習が終わり、生徒たちが各々精製したポーションを手に講堂を去ると、室内は静まり返った。教団の幹部が近づき一礼する。
「本日は誠にありがとうございました。明日もぜひよろしくお願いいたします」
儀礼的な感謝を述べると、幹部はそそくさと踵を返し退室した。一人残されたアリスは片付けに取りかかり始める。そこにエマが現れた。
「片付け、お手伝いしますよ」
「ありがとう、助かるよ」
二人で蒸留装置を片付けてテーブルを整理している最中、エマがふと口を開いた。
「……教団の教義では、特別な才能で他人の成果を歪めることは『不平等』とされていますよ。アリスさん」
思わぬ指摘にアリスは手を滑らせかけた。
「えっ!? 見てたの。えへへ……あれはね……」
とっさに誤魔化そうとするが言葉にならない。エマは一瞬口角を上げてから続けた。
「でも……あの男の子は今日はお母さんに笑顔で薬を渡せるでしょうね」
「……うん。そうだね」
ほっと胸を撫でおろしつつもアリスは微かに不安を覚えた。エマの眼差しが妙に穏やかだったからだ。
片付けがあらかた終わると講堂の外からざわめきが伝わってきた。教団による炊き出しが始まったらしい。
広場に出ると粥を求める貧民たちが群がり、頼りない声で教義を唱える信者たちの姿があった。その光景が二人の目に飛び込む。
「皆、必死なんです。旧教会も王都の貴族たちも、今を生きることに精一杯な人たちを誰も見てくれない。だからこの教団の『持てる人から奪い、みんなで分け合う』という教えが唯一の蜘蛛の糸に見えてしまうんです」
エマは静かな声で言った。アリスはしばし考えるように頷いた。
「……それでも誰かに不幸を移すような方法じゃ、本当に救うことにはならないと思う」
「アリスさんは不思議な方ですね」
エマは真剣な眼差しを崩さないまま一拍置いて言葉を継いだ。
「……どうか間違えないでくださいね」
エマの声は水面のように静かだった。
「え? うん。教団の人にはバレないように気を付けるよ」
アリスは笑ってみせるがエマの瞳は深く沈んでいる。
「ええ、気を付けてください。……あなたの為に」
花が咲くように微笑むエマに見送られながらアリスは広場を後にした。
夕陽が街並みを朱く染め上げる中、アリスは宿への道を急いだ。風が頬を掠め、夕闇の匂いを運んでくる。遠くで教会の鐘がひとつ鳴った。