目覚めるはずの意識が、どこか違う底へ沈んでいく。
最初に感じたのは、色の不自然さだった。視界のすべてが、古い絵画のように灰色がかっていた。酒場の灯りは薄く濁り、人々の笑い声は水槽の底から聞こえるように距離を持っている。窓からのぞく星の光すら青白く凍りついているように見えた。
——ああ、これは夢だ。
そう理解した瞬間、恐怖が胸を覆った。夢なのに、四肢の感覚がない。いや、ある。しかし動かない。まるで他人の肉体に憑依した幽霊のように、視界だけが連れ回される。
そして「私」が喋り出した。口が勝手に動く。酷いことを言っている。それがわかっているのに、止められない。
そうだ。これは私と彼が初めて会った時だった。
「レオン……、へぇ、同郷じゃん」
この声は私のものだ。しかしどこか甲高く、棘のように尖っている。赤い髪を誇らしげに靡かせながら、「私」は肘を突いて吟味するように相手を見下ろしている。目の前に立つ男――レオン。その漆黒の瞳は「私」の攻撃性を吸い込むように静かだった。
「だからって別に優遇するつもりはないけどね」
「……ああ」
私の言葉に一拍遅れて彼が頷く。その間は迷いでも躊躇でもなく、ただ事実を受け止めただけだと理解する。「私」の舌はなおも滑らかに毒を紡ぐ。
「愛想悪いなあ。まあ壁になってくれればそれでいいけどさ」
「……善処する」
彼は否定も肯定もせず、淡々と口にした。今であればその奥に潜む控えめな誠実さを掬い取れるのに、この時の「私」はただ嘲るように笑い飛ばすだけだった。
——待って。何でこんな言い方してるの。同郷なんだから、もっと……
心で叫ぶ声は虚しく消え、夢は容赦なく続く。
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次の場面へ切り替わる。パーティでの初めての探索後。反省会と称したつるし上げだった。湿った土と獣の臭いがまだ鼻腔に残っている気がする。酒場の木床は黒ずみ、泥のような汚れが飛んでいる。誰かのジョッキから零れたビールの匂いがじとりと立ち昇っていた。
「あんたさ、もうちょっとテキパキ動けないの。あたしが動く羽目になったじゃん」
レオンはテーブルに肘を預け、静かにグラスの底をじっと見つめていた。
「ちょ……無視!? あたしが話してるんだけど!!」
——違う。彼は“無視”していない。“言葉を選んでいる”。なのに昔の「私」は汲み取らなかった。
「……悪かった」
短い謝罪。だが「私」が求めているのは言葉ではなかった。彼を言い負かす事だった。
「悪かった? そんだけ? 言葉選べる脳みそくらい付いてんでしょ!」
「……言っても、お前は納得しない」
ぼそりとした反論。彼なりの精一杯の応答だ。けれどそれがまた私の神経を逆撫でした。
「はあ!? なによそれ、感じ悪っ……!」
胸の奥で今にも窒息しそうになるほど息が詰まる。視界の端でギルバートが嘆息し、ミーシャが冷笑を噛み殺している気配を感じた。しかし「私」は、ただ目の前の青年の無口だけに苛立ちをぶつけていた。
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また景色が切り替わる。ギルバートが請け負ってくる山のような錬金術の依頼を「私」が夜通しかけてこなしているとき、彼は訪ねてきた。
「なに? 忙しいんだけど。見ればわかるでしょ」
机の上には砕けた魔石の欠片や挽き潰した薬草の滓が散乱している。乾き気味の眼球が痛い。「私」は苛立ちを隠さず声を尖らせる。
「……その依頼、断った方がいい。危険な香りがする」
低い警告。鋼のように硬く真摯な声。だが「私」の耳は閉ざされていた。
「はあ? 依頼物は王都が直接禁止してるものじゃないし。それに危険があろうが使うやつの自己責任でしょ」
「……依頼の量も多すぎる。休息もろくに取れてないだろう」
彼は部屋の惨状を一瞥し、さらに続ける。
——そう、この時はもう何日もほとんど眠れていなかった。
「じゃああんたがやってくれんの? 素材の成分一つ知らない奴が? 役立たずの癖にあたしの領域に踏み込まないでよ」
その言い捨てを聞いた瞬間、「私」の視界が白く灼ける。背中に冷水を浴びせられたような衝撃。この記憶だけは心臓を抉るほど鮮烈に焼き付いていた。
「成分は知らん。だが、依頼主の目がまともではなかった」
レオンは冷静なまま食い下がる。今思えば、彼はいつだって“人”を見ていた。だが「私」の口はもう止まらない。
「あのね。ギルバートが受けるって判断して、あたしが請け負ってんの。あんたに言われる筋合いはないの。分かったら黙ってて」
——怖い。早く目覚めて。
「……分かった、すまなかった」
その一言で彼は去った。音を立てぬ足取りで。閉まる扉越しに残るのは自分の荒い呼吸だけだった。
——嫌だ。やめて。多分次は……あの場面がくる。それだけは。
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だが世界は容赦なく舞台を転換する。冬の朝のような冷たい光の中で、レオンが荷物をまとめていた。私はそれを眺めていた。宿の裏口は狭く、吐く息がすぐさま凍るほど寒い。彼の纏う黒い外套が薄闇に融けていくようで――このまま消えてしまいそうな、そんな姿に見えた。
「お疲れ様。まあすぐに代わりも来るみたいだし、今後はご自由に」
その言葉を自分で聞きながら、奥歯が砕けそうなほど震えた。違う、と叫びたいのに舌は縛られたままだ。
レオンは何も言わず荷物をまとめている。「私」の視界で、その背中がやけに小さく見えた。これまで見たこともないくらい孤独が滲んでいた。
「何か喋ったらどうなの。最後くらいさあ。いつも黙ってばっかりで……」
言葉尻が揺れる。けれどそれは憐れみではない。「私」の中には苛立ちと嘲りだけが煮え滾っていた。背中に向かって唾棄するように投げ捨てる。
「あんたが何を考えてるのか、あたし最後まで一つも分かんなかったわ」
——違う! そうじゃない! レオンは伝えようとしなかったわけじゃない。あたしが聞く耳を持っていなかっただけ!
「……」
沈黙は氷塊となって降り積もる。雪より白く冷たいものが喉を塞ぎ、叫びは形にならない。
「……ふん。まあいいや。バイバイ無能さん。二度と顔見せないでね」
絶望の音。言葉という凶器を全力で投げつけた感触が掌に残る。それすら「私」にとっては
「承知した」
彼の返事は驚くほど静かだった。黒い毛皮のマフラーを翻し、彼は出口へ歩き出す。靴音がやけに遠く感じる。暗がりへ溶け込む背中は一度たりとも振り返らない。
——嫌だ。行かないで。お願い……一言だけ。『ごめん』って言わせて……!
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目の前の色が濃くなる。視界が歪み、酒場の天井が血のような赤に滲む。そして突然――
「……おい、アリス!」
深い沼の底から引き上げられるように瞼が震えた。鋭い声はすぐ傍らから降ってくる。汗で濡れた体に冷え切った布地が貼りついている。焦点が合うと照明の白い光が視界を照らした。宿裏の小さな小屋。いつも通り装備の整備をしていたレオンと一緒にいたら、いつの間にかうたた寝をしていたようだった。
「随分うなされていた。大丈夫か?」
夢の中とは違う、温もりを失っていない彼の掌が肩に触れる。そこにはかつてのレオンと同じだが、全く異なる優しさが滲んでいた。その声は低く落ち着き、どこにも棘がない。彼の瞳は微かな不安と心配で揺れていた。
「……うん、大丈夫」
声がかすれて震える。目の奥で涙腺が熱を帯びているのを感じた。
「疲れがたまってるなら無理をするな。早く休め」
そう促しながらもレオンの視線は穏やかだった。もし「私」なら――こんな労りを掛けられたら「余計なお世話だ」と嫌悪を表したのかもしれない。でも今は。
「ありがとう……あのね、レオン」
声を絞り出す。言葉になるよう必死に息を吸う。今ならこの言葉を言える。
「ごめんね」
その四文字が宙に舞った瞬間、レオンは一瞬怪訝な顔を浮かべた。だがすぐに表情を戻し、「気にするな」と短く返し、手元の皮手袋や小刀の整備を再開した。それ以上の追及も詮索もしない。
記憶の底で固まった氷が溶けていくのを感じながら、アリスはそっと目を閉じた。まだ肩先で鼓動は不規則に跳ねているが、悪夢はもう遠い。夢の名残のような灰色の靄もゆっくりと晴れていく。
アリスは掌に残る汗の冷たさを握りしめながら、静かに息を整えていた。