アリスの少し優しい未来   作:しあんあるふぁ

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第十二話

宿の酒場は、朝の光に白く満ちていた。木の床を洗い流した水の匂いと、窯から立ち上るパンの香りが混ざり合い、胃を優しく揺さぶる。

 

 

昨日の悪夢はもう遠く、夜に再び見ることはなかった。目覚めはすっきりとしていて、鏡に映る自分の顔には、かすかに眠気を帯びた色が残っているだけだった。

 

 

アリスは窓際の席に腰掛け、大雑把に切り分けられた黒パンにイチジクのジャムを塗っていた。夜はにぎわう酒場も早朝の店内は閑散としていて、テーブルに向かっているのはアリスだけだった。そして正面の扉を開けて入ってきたのは、山のような帳簿の束を抱えたレオンだった。

 

 

「おはよー。……って、それ何?」

 

 

レオンはアリスの問いに答えず、ただ酒場の奥のテーブルに重い帳簿をドンと置いた。同時に、細い紐で縛られた伝票の束が崩れ、一枚が床に滑り落ちる。

 

 

「帳簿だ」

 

 

「それは見ればわかるけど。そんなに溜まってたの?」

 

 

レオンは椅子を引いて座り、額に落ちた黒髪をかき上げた。目には薄くクマがあり、夜通し作業していたことが窺える。彼は深く息をついてから、簡潔に言った。

 

 

「ギルバートがしばらく出先で連絡が取れない。帰還までにこれまでの帳簿をまとめろと言われていてな」

 

 

「……えらく無茶振りするね」

 

 

「いつものことだ」

 

 

アリスは口を尖らせながらも、ジャムを塗り終わったパンを千切り、一口頬張る。いつもの事だと言いながらもレオンの横顔は険しかった。探索や調査で警戒しているときよりも、ずっと深刻に思える。

 

 

「ふーん……じゃあさ、手伝ってあげようか?」

 

 

どこか軽い気持ちで発した言葉だったが、レオンの反応は驚くほど速かった。彼は顔を上げ、漆黒の瞳をまっすぐアリスに向ける。

 

 

「助かる。……だが難しいぞ。俺は数字が得意ではない」

 

 

アリスは内心苦笑する。前世のアリスであれば、「なんでそんな基本的なことができないの?」と冷笑していたかもしれない。だが今は違う。レオンの専門は剣と守護だ。畑が違うのだ。

 

 

「任せて。あたし『簿記2級』持ってたんだよ」

 

 

「ボキ?」

 

 

「んーん。こっちの話」アリスは照れ笑いしながら手を振った。

 

 

---

 

 

宿のレオンの部屋に場所を移し、二人はテーブルを挟んで帳簿と向き合う。部屋の空気は少し埃っぽく、壁際のチェストにはメモ帳やペンが散乱していた。

 

 

「じゃあ、あたしが伝票を整理するからさ。レオンは検算しながら帳簿に記載していってね」

 

 

「了解した」

 

 

アリスは手際よく伝票を仕分けし始めた。魔石で動く電卓のような補助機械を左手の指で叩きながら、右手では結果を記録帳に転写していく。数字の羅列を一つ一つ拾い上げ、補助機械が音もなく計算する。その隣でレオンもまたアリスがまとめた記録帳を確認しながら、結果を帳簿に書き込んでいく。ペンが紙の上を滑る音とページをめくる微かな摩擦音だけが部屋に満ちた。

 

 

数時間が経ち、アリスは記録帳への記載が一区切りしたところで肩を回した。

 

 

「ふぅ、とりあえず終わり」

 

 

「早いな」

 

 

「得意って言ったでしょ、でもここから確認もしないとね」

 

 

彼女はいたずらっぽく微笑む。それからふと思い出したように呟いた。

 

 

「……それにしても、今更だし知ってたことではあるけど」

 

 

レオンが帳簿のページを捲る手を止める。

 

 

「装備や宿代だけじゃなくて、魔石やちょっとした消耗品とかも全部パーティの運用資金から出ていくんだね」

 

 

「最近は大体そうだろう」

 

 

「魔石や消耗品とかはそれぞれが自分のお金で買えば帳簿も楽なんじゃないの?」

 

 

「そうしていたパーティもある。だが」

 

 

レオンはペン先で墨を少し足しながら続けた。

 

 

「パーティ内で不満がたまりやすく不和が起きやすいそうだ。例えば俺やバルガスは身体補助程度にしか高価な魔石を使わないが、アリスやミーシャは使用頻度が高い。自然と個人負担が偏ることになる」

 

 

「じゃあその分お給料多くするとか」

 

 

「それでも問題が出やすいんだ。給料を多くしたとて使用すればするほど自分の取り分が減ることには変わりない。結果的に魔石の使用を渋り、無駄な被害が出たり成果が上がりにくくなるそうだ」

 

 

「ふーん、そんなもんなのかな」

 

 

アリスが頬杖をついてぼんやりと呟くと、レオンは帳簿の数字を指で追った。

 

 

「うちのお人よしのヒーラーには関係ないことだがな」

 

 

「褒めてるの?」

 

 

互いに笑い合う。その笑みがなぜか少し照れくさかった。

 

 

そこからまた作業に戻り、一通りの作業が一段落した。すでに昼下がりになっていた。アリスは沸かした紅茶を飲みながら帳簿を見て呟いた。

 

 

「まあ、大体こんなもんでしょ。完全には金額合ってないけど、バルガスとかよく伝票なくしてたりするし、その辺が原因じゃない?」

 

 

「ああ、ずいぶん助かった」

 

 

「えへへ、どういたしまして……ん?」

 

 

アリスの目が一つの欄で止まった。

 

 

「この『商会への利払い』って言うのは?」

 

 

「ああ、円滑な取引のために各商会やギルドへ運用資金の借り入れや、逆に出資なども行っているんだ。借り入れた場合は利息を払うことになるが、商会との関係が深くなれば消耗品の購入や探索の成果物の納入時に有利だからな」

 

 

「複数の商会に借り入れや貸し出しがあるね」

 

 

「取り扱い商品や出荷価格も異なるからな。それに商会が破綻しないとも限らん。複数の商会と関係を深めておくのはリスクを分散するための常套手段だろう」

 

 

「それは分かるんだけど……東商会って大きな商会だよね。西商会は逆に細かい商品を取り扱う小さな商会だったと思うんだけど。ポーションを納品したのもそこだよね」

 

 

「その通りだがそれがどうかしたのか」

 

 

アリスはページを指でなぞった。

 

 

「ここ見て。東商会と西商会からどちらも資金の借り入れをしてるんだけど、東商会はわずかな利息なのに、西商会への利息は東商会の5倍近い。しかも東商会は無担保での貸し出しなのに、西商会へは高品質な魔石を担保として差し出してる」

 

 

レオンが眉を寄せた。

 

 

「……確かに。しかも1ヶ月前に東商会からの借り入れを減らして西商会からの借り入れを増やしているな」

 

 

「1ヶ月前……、あっ」

 

 

アリスの表情が曇る。レオンは帳簿を睨みながら静かに言った。

 

 

「アリスが負傷したときだな」

 

 

アリスはわずかに肩を縮めた。そのときの痛みを思い出したわけではない。ただ、自分の不注意が間接的にパーティ全体の資金繰りに影響を与えたとしたらと考えると心が重かった。

 

 

「気にするな、あれはアリスが悪いわけじゃない。それに今回の件とは直接の因果はないはずだ。直接はな」

 

 

レオンの声は励ますようでありながら、事実を突きつける響きを持っていた。アリスは紅茶のカップを両手で包み込みながら小さく頷いた。

 

 

「そうだよね、探索が一度滞ったくらいじゃ商会が資金を引き揚げる理由にはならない、ならないよね?」

 

 

「もちろんだ。それにあれはまだ下準備での調査段階だったしな」

 

 

レオンの言葉にアリスはほっとしたような表情を見せた。そして再び帳簿へ目を落とす。

 

 

「東商会への口利きはミーシャだが、西商会へはギルバートが行っていたはずだ。単に取引や交渉が杜撰なだけかもしれん」

 

 

「そうだね」

 

 

レオンは帳簿を閉じて立ち上がった。

 

 

「いずれにしてもパーティの資金は全員の資金だ。可能なら東商会と対等な条件にすべきだろう。まだ日も高い。今日は西商会へ一度訪ねてみよう」

 

 

「うん、あたしも行くよ」

 

 

アリスも腰を上げた。レオンは外套を羽織りながら振り返る。

 

 

「助かる。ついでに遅めの昼食を御馳走しよう」

 

 

「えへへ、ごちそうさま」

 

 

二人は宿を出た。街道の向こうでは雲がゆっくりと流れ、午後の陽射しを受けた建物の壁が黄金色に輝いている。美味しいお昼ご飯の約束に胸を躍らせつつも、アリスの頭の片隅には、西商会の異常な数字が引っかかっていた。

 

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