大通りから一本入った路地裏に、古びた看板が揺れていた。
文字の端がこすれて読みにくくなり、木の扉には所々黒ずんだ傷があった。それでも開け放たれた窓から漏れる香ばしい匂いと、まだ新しいレースのカーテンが、どこか暖かな手入れの跡を物語っていた。
「ここ、前から気になってたんだよね。宿のおばちゃんがおすすめしてたの」
アリスが誇らしげに言い、レオンを中へ押し込むように招いた。
店内は、外見に反して思いのほか明るかった。天井に吊るされた灯籠型の魔石灯が、ふわりと蜂蜜色の光を落としている。壁には古い街並みの絵画や、収穫祭を描いた色褪せたポスターが並び、床板の鳴る音も年月を感じさせる。テーブルクロスは藍染めの布で統一され、ところどころ小さな穴を繕った糸の跡が愛嬌を添えていた。
席についた二人は、卓上で開いたメニューを見比べる。
「何にする?」
アリスの声は弾んでいる。レオンは一瞬考えるような素振りを見せたものの、
「任せる」
と短く答えた。
「じゃあ……こっちのランチセットで!鳥の炭火焼きにシチューつき。レオンも同じでいい?」
「構わない」
注文を終えると、店内は静かな時間に包まれる。店の主人であろう恰幅のよい老婆が厨房へ消え、残ったのは薪ストーブの炭が爆ぜる小さな音だけだった。
「そういえばそろそろぶどうの収穫祭だっけ」
アリスがふいに口を開いた。言葉は軽いが声にはほのかな期待が混じる。
「二週間後だ。冷害が危惧されたが収穫は例年並みらしいな」
レオンはどこかから聞きかじった情報を思い出すように答えた。
「へえ。じゃあ今年も楽しみだね。……ふーん、そういえばさ」
アリスは肘をテーブルに置き、頬杖を突く。
「レオンは普段お酒飲まないよね。弱いの?」
「飲む必要がなかっただけだ。弱くはない」
アリスは目を丸くし、嬉しそうに身を乗り出す。
「じゃあ収穫祭一緒に行かない? おいしいワインとか食べ物がいっぱい出るんだよ!」
レオンはわずかに眉を寄せ、少し考えるように目を伏せた後、
「……気が向いたらな」
と呟いた。
「えー行こうよー。絶対楽しいって」
アリスが拗ねたように唇を尖らせると、レオンは微かに肩をすくめた。
アリスは微笑みながらも薄くため息をつく。ふいと窓際に目をやると、貼り紙が目に入った。厚手の紙に紅いインクで『幻影粉に関する重要情報に最高で金貨百枚の報奨金』と記されていた。
「あっ、見てレオン。『幻影粉に関する重要情報に報奨金』だって」
アリスが張り紙を指さしながら言う。
「憲兵も手を焼いているのか」
「金貨百枚ってすごいよね。私たちにも出来ることあるかな」
レオンは紙面をじっと見つめ、ため息まじりに返した。
「さあな。だが、まずは西商会が先だ」
そこへ熱気を帯びた皿が運ばれてきた。鳥の皮が焦げる匂いと、シチューの香りが一気に立ちのぼる。炭火で焼かれた鳥肉は肉汁が滴り、シチューは具だくさんでパンの焼き目は香ばしい。湯気が顔を包み込むや否や食欲を刺激する。
「わあ!いただきまーす!」
明るい声で宣言し、アリスはナイフで鳥肉を切り分ける。肉を一切れ頬張ると、頬が綻んだ。レオンはそれを見て小さく笑い、無言で手を合わせる。
ふとシチューの中に白い塊を見つけたアリスは、それをスプーンで掬い上げる。湯気を立てる一口大に切られた球根状の具材。
「あ、これゆり根が入ってる!
レオンが視線を上げる。
「あの黄色い花か」
「うん。花も綺麗だけど、ゆり根もホクホクしてて美味しいんだ」
レオンは小さく頷き、スプーンを口に運ぶ。
「旨いな」
「でしょ?日当たりの良いところだと大きな球根ができるの。今が旬でワインとも合うんだ」
レオンはパンを千切りながら言う。
「……講釈が長い。冷めないうちに食え」
「もー、せっかちなんだから」
言葉とは裏腹に、アリスは楽しそうに笑いながらスプーンを進め始めた。
昼食を終えた二人は店を後にした。
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大通りに戻りしばらく歩くと、視界の先に目的の建物が現れた。
石造りの壁面は年季が入って黒ずみ、周囲よりひと回り小さいがしっかりした基礎を持ち、看板には『西商会』の文字が刻まれている。扉の前には三人ほど職人が立っており、荷馬車から搬入された麻袋を片付けていた。
レオンが先に立って扉を押し開けると、
「いらっしゃいませ」
と朗らかな声が迎える。見覚えのある若い担当商人が、丁寧な礼と共に二人を出迎えた。
「ようこそお越しくださいました。本日はどういったご用件でしょうか」
と柔和な笑みを浮かべる。アリスは隣のレオンへ視線を送り、レオンが頷いて話し始める。
「借入金の金利についての質問がある」
商人の表情が僅かに曇ったが、すぐに平静を取り戻し、狭い廊下を通った奥の部屋へ二人を案内した。
互いに応接テーブルの椅子に腰かけた後に、レオンが借用書をテーブルに置く。
「……正直、金利の条件が明らかにこちらに不利ですよね?」
アリスが率直に切り出すと、商人は困ったような笑みを浮かべる。
「お客様の将来的な利益予想を元に合理的なリスク評価をさせていただいております」
レオンはテーブルの借用書の数字を指差す。
「担保を預けているのに東商会より金利が高いのはどういうことだ」
レオンの低い声には責め立てるような鋭さはないが、芯を突く響きがある。
「……東商会との比較は、あまりお勧めできません。当商会は中央の信頼ある取引先に、多くの資金を回しておりますので」
「中央の取引先?東商会の方が資金規模は大きいはずだが」
「ええ、まあ……いや、失礼しました。詳細はお答えできません」
商人は言葉を濁し、指先で借用書の端をなぞる仕草を見せた。そこへ隣室から年配の商人が足早にやって来て、若い商人の肩を叩いた。小声で囁くと、若い商人は慌てて椅子から立ち上がる。
「……少々お時間を頂きます。回答は三日後に書面にて行わせていただきますので」
商人はそう言い置き、逃げるように奥へ戻っていく。扉が閉ざされると重い静寂が訪れた。
アリスとレオンは互いに視線を交わす。腑に落ちないものを感じながらも、今ここで問い詰める術はなかった。
「……埒が明かないな」
レオンが低く吐き捨てる。
「行くぞ」
アリスも頷き、椅子を押しのけて立ち上がった。
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扉を押し開け、商会の出口へ足を踏み出す。夕暮れに変わり始めた太陽の光が磨りガラスを通して入り込み、淡い虹を描いていた。ふいに通路の奥から慌ただしい足音が聞こえる。
「きゃっ!?」
通路の奥の角を曲がり、飛び出してきたのは麻袋を抱えた若い男だった。蒼白な顔には汗が滲み、焦点の定まらない目つきでありながら、その足は何かに動かされるようにこちらへ向かって突き進んでくる。アリスは避けきれずに男と激突し、その身体が大きく傾いた。
「アリス!」
レオンの腕が閃くように動いた。アリスの腰を素早く抱き寄せ、倒れかかる彼女の重心を引き戻す。
「大丈夫か」
「う、うん……ありがと……」
安堵に胸を撫で下ろした瞬間──
パラパラと、麻袋の隙間から極小の青い粉末が舞い散った。
空気を染め上げるような冷たく清涼な香りをアリスは感じる。
冬の夜気をそのまま吸い込んだような──
二人に構わず、男は震える手で袋を抑えながら駆け去ろうとする。
「おい、気を付けろ。ぶつかっておいて黙って行く気か」
レオンの声は鋭かったが、あくまで非常識を咎める程度のものだった。しかし、アリスは弾かれたようにレオンの袖を強く引っ張る。
「レ、レオン! いいよ、もう出よう!」
アリスの声は上擦っていた。普段飄々とした彼女にしては珍しい切迫ぶりに、レオンは戸惑いながらも男から視線を外す。
「アリス……?」
「いいから」
アリスに促されるまま商会を後にし、大通りの人波へ紛れる。十分に商会から離れ、路地の曲がり角まで来たところでレオンが足を止めた。
「どうした。急に慌てて」
「……ねえ、レオン。さっきお店で話したサンリリィのこと、覚えてる?」
アリスは周囲を警戒するように見回してから、声を潜めてレオンを見上げた。
「何?」
レオンが怪訝な顔をする。
「サンリリィは通称でね。本当は別の名前なんだ」
アリスは深呼吸し、言葉を選ぶように続けた。
「一般には知られてないけど……太陽の光を完全に遮って、蕾のうちから月の光だけを浴びせて育てるとね……綺麗な青い花を咲かせるの。他にも細かい条件があるんだけどさ」
レオンの瞳が小さく見開かれる。
「その青い花弁は強い薬効と毒性がある。黄色の花弁とは比べ物にならないほどにね」
「……まさか」
「本当の名前は『
アリスは服を手で払う。服にわずかに付着した青い粉が舞い上がり、街の夕焼けを浴びて瑠璃色に煌めいた。