ろくでもない日だった、とアリスは思う。
朝、身支度を整えて鏡を覗き込んだとき、前髪が気に入らなかった。右側だけ妙に跳ね上がり、水で押さえても反抗的に跳ね返ってくる。何度直しても、直すほど余計に不自然になっていった。
「……あーもう。いいや」
そう諦めたのが、今日の始まりだった。
午前中、依頼されていた錬金術の作業を始めた。肝心の素材、木の実の断面に白いカビが浮いているのを見つけて、気分は急降下した。扱いの雑な商人から仕入れたものだ。カビを削って使うこともできなくはない。だが品質は落ち、納品後に依頼主に文句を言われる未来が容易に想像できた。それに粗悪品を納めること自体が嫌だった。
「仕方ない……材料を買いに行こう」
作業台の片付けを始めた。そこで、うっかり手が当たってしまった。高価な蒸留用フラスコが床に落ち、砕け散った音が部屋に響いた。
「はぁ……」
ため息が自然と出た。
買い出しに出かける。しかし、肝心の材料はどの店も品切れだった。歩き回って、ようやく必要なものを手に入れた頃には、空はどんよりと曇っていた。
そして、店を出たところで雨が降り始めた。朝は青空だったから傘など持っていない。
商店の軒先で雨宿りしながらぼんやりと人通りを眺めていた。歩く人々は誰も立ち止まらない。ただ自分だけが足を止めている。
――もしかしたら。
ふいにそんな思いがよぎる。もしレオンが通りかかって「濡れるぞ、傘に入れ」と声をかけてくれたら。あるいはミーシャが「そんなところで突っ立ってないで入りなさいよ」と笑ってくれたら。ほんの些細な幸運でこの“ろくでもない日”は、“まあまあ悪くない日”に変わるんじゃないか?
そんな期待を胸に抱えて十五分。雨は一向に止まない。途中でギルバートのような姿も遠目に見かけたが、彼はこちらに気づかないまま悠々と貴族街のほうへ消えていった。そもそも本当に彼だったかどうかすらよく分からない。
「はぁ……」
諦めて濡れて帰ることにした。幸い宿は近い。
宿が見えた途端、雨が弱まり始めた。あとちょっとだけ店の前で待っていれば。宿の入り口に着くころには雨は完全にやんだ。
入り口で立ち尽くしたまま宿の壁に向かって力なく握りこぶしを振り下ろす。小さくコンと音がした。
「なんなのよ!もう!」
予想外に大きめの声が出た。まばらな通行人が自分の方を向く。それでも構わずに続けた。
「なんで! あたし! 何にも悪いことしてないのに!」
「必死に頑張ってるのに! うまくいかないの!」
心の奥でくすぶっていた感情が堰を切ったように溢れてきた。
「ギルバートは悪巧みばっかしてて! ミーシャは偉ぶってるくせに自分のことばっかで! レオンは不器用で言葉足らずで! バルガスは……どうでもいい! でも! こんなことにイライラしてるあたしが一番イヤで!」
言い終わってしばらく肩で息をしていると、入り口の扉がギィと開く音がした。
「どうした。そんなに濡れて」
アリスが顔を上げると、扉の向こうでレオンとミーシャが並んで立っていた。
「……なんでふたり一緒なの?」
「たまたま出くわしただけよ」
ミーシャが少し面倒くさそうに肩をすくめる。
「付き合ってよ!」
アリスは乱暴に髪を掻き上げながら叫ぶ。
「何にだ」レオンが問う。
「付き合ってよ! お酒! 二人とも!」
「……まず着替えなさい。風邪ひくわよ」
ミーシャが呆れた顔で答える。結局二人を強引に付き合わせることになった。
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宿の1階にある酒場のテーブル席。酒場はまだ忙しくなる前で客は疎らだった。アリスは着替えてきたワンピース姿でテーブルに頬杖を突きながら店の女将に注文する。
「おばちゃん! エール3つ! キンキンに冷やして!」
「はいよ」
「冷やすと香りが飛ぶぞ」
「どうでもいいけど静かに飲みなさいよ」
アリスは二人の言葉に耳を貸さず、ジョッキが運ばれると一気に半分ほどあおった。冷たい泡が喉を刺激する。寒々しい今日の悔しさも少し溶けた気がした。そして堰を切ったように愚痴を始める。
「でね素材が不良品でね。どこ行っても売り切れで」
「錬金術は材料選びが肝心だ。なぜ代替品を用意しておかなかった」
「黙って聞いてなさい。『そうだね』って言ってればいいのよ」
レオンは「しかし今後のため……」と言いかけたがミーシャに睨まれて口を閉じた。
酒が喉を通るたびに、身体の奥から少しずつ力が抜けていく。普段は常に堅張っている何かが緩む。3杯目あたりでアリスのろれつが回らなくなってきた。
「寝るなら部屋に戻りなさいよ」
ミーシャが呆れたように言う。
「う~ん……」
答える間もなく、アリスはテーブルに突っ伏した。
「あーあ。ほんと手のかかる……」
ミーシャは呆れながらも肩を抱き起こそうとする。
「ううん……」
アリスの口許から寝言がもれた。
「なんで切っちゃうのよ……レオン……」
「何の話だ。俺が何を切った」
レオンが怪訝な顔をすると、ミーシャは小さく笑った。
「この子酔うとよくわからないこと言うのよ。気にしないで」
レオンは黙ってアリスの肩を軽く叩き、「起きろ」と促す。しかし彼女は小さく唸るだけで意識を手放していた。
「あんた仲良いんだから愚痴くらい聞いてあげなさいよ」
「こういうのは同性の役目だと思うが」
「屁理屈こねてんじゃないわよ」
ミーシャは手早くジョッキを置き直して席を立つ。
「私が運ぶのも面倒だしアンタ運んでね」
レオンは薄くため息をつきアリスの腋と膝裏に腕を入れて抱き上げた。彼女は女性としては背丈のある方だ。しかしこの日は妙に軽く思えた。
「余計なことまで背負いすぎてるのよ、この子は」
ミーシャが背後からぼやくように言った。
宿の階段を登る二人の足音だけが響いた。夕日が踊り場の窓から差し込む。明日はきっと晴れるだろう。
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少し前のことだった。
宿の2階、レオンの部屋にノックの音が響く。
「ちょっと来なさい」
レオンが扉を開けると、そこには薄手のローブコートを羽織ったミーシャが立っていた。
「何の用だ」
「濡れネズミがいるのよ」
「……アリスか」
「そう」
ミーシャは顎で下を示した。
「一人であんな顔されたら面倒でしょ」
レオンは無言で頷き、扉を閉めた。
二人は階段を降り、宿の入口でアリスと遭遇した。そして現在に至るのである。