路地は薄暗く、湿った石畳が泥と落ち葉で黒ずんでいた。人通りの少ない裏道を縫うように、二人は足を速める。
「アリス、もっと急ぎなさい」
ミーシャの声が短く響く。ショートヘアの茶髪を留めたバレッタが、わずかな光を反射する。
「だって! このドレス、走りにくいんだもん!」
アリスは裾を両手でたくし上げながら、必死に足を運ぶ。ドレスの生地は裏道を走るには不向きだった。せめて普段のローブならば、もっと自由に身が動くのに。
曲がり角を何度も何度も曲がる。壁に貼られた古びた張り紙、積み上げられた空き木箱、錆びた手押し車。それらを目印にして、二人は
「……撒けたわね。さすがにここまで追っては来ないでしょう」
ミーシャが少し乱れた髪を整えながらつぶやく。
アリスはようやく膝に手をつき、上がった息を整えた。
「よかった……でもちょっとここ薄暗いね。足元もよく見えないし、怖いかも」
その言葉が終わるよりも早く――
ぬっと。
前方の曲がり角から肥え太った大男が姿を現した。不健康な脂肪を纏った胴回りはシャツの縫い目が引き裂かれそうだ。その瞳は焦点が合わず、薄っすらと青色の影が揺らいでいる。
「っ……!」
ミーシャが咄嗟にアリスの腕を引いたのと同時に、
背後から追いついた足音が二つ聞こえた。
アリスが反射的に振り返ると、前方の巨漢とは対照的に細身な男たち、のっぽと痩せぎすがニヤニヤと笑みを浮かべていた。
「囲まれた……!?」
前には巨漢。後ろに追いついたのっぽと痩せぎす。狭い路地が封鎖された形になった。三人は息を荒げながらじりじりと距離を詰める。
「お嬢ちゃん……怪我したくなきゃ付いてきな」
巨漢の言葉に唾液が糸を引く。明らかに理性を欠いていた。
アリスが後ずさる間にもミーシャは腕を組み直し、冷ややかな視線で暴漢たちを見下す。
「何よこいつら。様子がおかしいわね」
「うん……どうにかして逃げた方が」
アリスは咄嗟に提案したが、逃げ道はどこにもない。
「アリス、下がってなさい」
言い終えると同時だった。ミーシャは腰のベルトから魔石を摘み上げる。群青色の石が淡く脈動し始める。
「逃げ道を塞いだって無駄よ。逃げる意味がないもの」
一歩前に踏み込み、片手を右から左へ払う。その刹那――
嵐が生まれた。
「吹き飛びなさい!」
ミーシャの言葉に呼応するように、轟音が路地に反響し石や木屑が舞い上がり、男たちを飲み込んだ。巨漢は呻き声も上げられず吹き飛び路地奥の壁に激突する。痩せぎすは鎧戸に叩きつけられ、のっぽも反対側の泥溜まりへ投げ出される。
風が収まったとき三人は地に伏していた。
「すご……でも殺してないよね?」
「当たり前でしょ。雑魚相手に本気なんて出さないわよ」
ミーシャは吐き捨てるように言った。攻撃魔法の素養があるものにとって、人を吹き飛ばす程度の竜巻を起こす事自体は難しくない。しかし狭い路地裏で周囲に被害が及ばぬように、しかも男たちに致命傷を与えないように出力を制御することは並大抵のことではなかった。
だが次の瞬間――倒れたはずの三人がむくりと起き上がった。
「!?」
「……は…はは……」
巨漢がよろめきながら立ち上がり、顔を上げた。そこに浮かんだ笑みは喜びとも恐怖ともつかない歪みであった。
「頭の中が……空だ。何も考えなくても力が出やがる……」
のっぽの男もぶつぶつと呟きながら前進する。手は震えているがその目は爛々と輝いていた。
「ああ……俺にも……あるはずだったんだ……」
暴漢の様子を見てアリスは奇妙な違和感を覚えた。
(なに……?)
妙なのは表情や頑丈さだけではない。体全体から放たれる不自然な力の揺らぎ。陶器の人形の手足が急に動き出したような気持ち悪さ。
そして気づいた。
(……魔力壁!?)
アリスは目を凝らす。暴漢それぞれの表面に極薄い膜のような光が纏わりついている。
それは
「これは……
ミーシャが驚愕の声を漏らした。
巨漢が身を沈める。次の瞬間、その巨躯に見合わぬ弾け飛ぶような速度でミーシャとアリスに突進する。明らかに
「……っ!」
アリスは咄嗟に魔石を取り出し、
「きゃああっ!」
最初は一筋の熱い痛み。次いで神経が凍りついていくような感覚が右手から肩へ、肩から全身へ広がる。意識ははっきりしているのに、手足が自分のものではなくなる。膝が折れると同時に右手から魔石がこぼれ落ちた。
(
「アリス!」
ミーシャが叫ぶ。
「……はは! 貴族のガキなんか簡単に殺せるぞ!」
巨漢が笑いながらミーシャに迫り、その太い右腕を振り下ろす。
「……ハッ」
ミーシャは軽く嘲り笑いながら
「雑魚がおもちゃを手に入れたくらいで調子に乗るんじゃないわよ」
ミーシャは巨漢の腕をいなし、懐に潜り込み背負い投げの要領で相手を舞わせる。巨躯は空中で一回転し鈍い音と共に地面へ叩きつけられた。
「ぐあっ!」
さらにミーシャは掌を地に向け雷を呼ぶ。地面を伝う
「終わりね」
ミーシャがそう告げた瞬間、
「ミーシャ! 後ろ!」
ゴンッ!
という鈍い音が頭蓋に響いた。視界が白く弾け魔法の集中が千切れる。
「く……っ」
ミーシャの体が前に傾ぐ。彼女の後頭部にこん棒が振り下ろされていた。影に潜んでいたのは、小柄な第四の暴漢だ。路地の闇に紛れて気配を殺していた小男が牙を剥いた。
「もう一人……!?」
巨漢が
「ははっ! 油断したな!」
巨漢はミーシャの首根っこを掴み持ち上げた。
「かはっ……」
華奢な肩が苦悶に強張る。首筋がきしみ、酸素が絶たれる。声は出ない。
(回復が早すぎる……! どうして……)
のっぽの男も起き上がりアリスの元へ近づく。
「ははっ、力があるってのは良いもんだなあ」
男がアリスの髪を掴み上げた。痛みと共に視界が強制的に上を向かされる。
「……嫌っ!」
か細い声が漏れる。
「腕の一本でも折れば大人しくなるか? 頭が無事なら構わねえ」
男はアリスの右腕を掴む。
(レオン……)
脳裏に浮かんだのは出発する前の一幕だった――
『これを付けていけ。不格好だが……装備の整備をする時に作っておいた』
『えぇ!? でもこれって』
『……とっさに使うにはその形状が一番良いんだ。右手はお前の要だ。左手に付けろ』
『それは分かるけどぉ……それに左手って……うん……でもありがとう』
『ああ』
――アリスは左手を男の眼前に掲げる。その手に付けられた指輪の中石に埋め込まれているのは、持てる者も持たざる者も等しく照らす光。“万人の石”と呼ばれる低級魔石だった。
パリンッ!
次の瞬間、指輪の低級魔石が砕け散り細かい火の粉となってのっぽの顔面を襲う。のっぽは目を焼かれ悲鳴をあげた。
「ぐあっ!」
男の手が緩んだ。アリスは痺れの残る体を無理矢理動かし、左手で男の手指を逆方向に捻った。骨が軋む音がした。
「がっ!」
たまらず男がアリスから手を放す。アリスは崩れるように地面に倒れ込んだが必死に起き上がり、足を引きずるように後退する。
(誰か……人を……!)
だが小男が進路を塞いだ。素早く軽快な動きだった。
「くっ……!」
のっぽの男も目潰しから回復し近づいてくる。
「このクソガキが……! たっぷりと嬲ってやらねえとな」
アリスは左手をぎゅっと握る。今は台座だけになった指輪。だがその冷たさが奇妙な安心感を与えた。
(戦わなきゃ……。あたしにもできることを)
「随分派手に遊んでいるじゃないか」
路地の入り口から凜とした声が響く。
のっぽの男の体が突然吹き飛ぶ。竜巻が彼を壁に叩きつけた。うめき声をあげる間もなく、のっぽの男は地面に崩れ落ちた。
「貴族のガキがあ!」
痩せぎすの男が魔石を振り上げる。しかし放たれた
「やるね」
ギルバートは剣の柄に指を添え疾走する。柄頭の一撃。痩せぎすの男が倒れる。
突然の乱入に巨漢が
「なんだぁ!?」
混乱した巨漢がミーシャから注意を逸らした。その隙にミーシャは自身を拘束する巨漢の腕を掴み、逆上がりのように勢いをつけ、巨漢の顎へ蹴りを放った。
「ぐおっ……!」
急所を打ち抜かれた巨漢の腕がゆるむ。拘束から逃れたミーシャは掌を相手の腹部へ押し当て、ゼロ距離で
「がはぁっ!」
圧縮された衝撃波が巨漢の体内を貫通する。内臓を揺らすような重低音が路地に広がり、巨漢は目を剥いて口を開き崩れ落ちた。
「ひぃっ!」
小男が踵を返し逃げようとする。だが次の瞬間、ミーシャの姿が消えた。小男の肩に素早く飛びつき、両足で首を締め上げた。
「お返しよ」
ミーシャの体がしなやかに旋回し、小男の体が石畳に頭から叩きつけられた。小男は声も出せず失神する。
「ざまあみなさい……」
ミーシャは肩で息をしながら吐き捨てる。
「淑女の振る舞いとは思えないね」
ギルバートが静かに歩み寄り苦笑した。
「うるさいわよ……げほっ」
ミーシャは咳き込みながらも一瞥を送り返す。
「アリスも大丈夫かい。興味深い低級魔石の使い方だったよ」
ギルバートはアリスに視線を移した。
「う……うん、大丈夫」
アリスは息を整えながらも微笑み返した。
「アンタ見てたならさっさと入りなさいよ……」
ミーシャが恨めしげに言う。
「二人が拘束されていたからね。下手に入ると巻き添えにするかもしれないし、人質にされる可能性もあった。アリスは良いタイミングで逃れてくれたよ」
「……まもなく衛兵も来るだろう、早めにここから撤退しよう」
ギルバートの指示にアリスは頷きかけたが、ふと倒れている大男に目を向けた。
大男の掌に刻まれた小さな刺青。それは翡翠色の薔薇のように見えた。
(……!)
アリスが息を飲む。その刺青には見覚えがあった。
「どうかしたかい?」
ギルバートが問いかけたがアリスは首を振る。
「……何でもない」