「おい、アリス。聞いてるのか?」
軽やかでありながら底冷えのする声が、耳にまとわりつく。声は低く甘いが、芯に棘がある。かつて数え切れないほど聞いた――ギルバートの声だった。
視界が揺れ、焦点を合わせると―――そこは確かにアルフィリアの荒野だった。街の外れにある野営地。乾いた草いきれと松明の煙が鼻腔を刺し、地面には焚き火跡の煤が散っている。
(……戻ってきたの?)
右手の甲を見る。透けるような白磁の肌。爪は桜貝のよう。かつての有栖は少し黄色みを帯びた健康的な肌で、日焼け止めを塗るのが億劫だった。今は掌にうっすら血管が透けて見える。かつての長い黒髪は、今は腰まで届く燃えるような赤髪となり、ほつれ毛が焚き火の赤を反射していた。身長は現代の165センチほどから僅かに縮み、視界は低くなる。それでもこの世界の標準的な女性よりは高い部類だった。
頭の中には確かに16年分の記憶や東京の景色が残っている。それでも掌に収まるiPhoneの感触はなく、今は硬い皮手袋が手の肌に密着していた。時間も空間もねじれた錯覚に胸が詰まる。だが、ここで取り乱せば不審がられる。平静を装わねばならない。叫びたくなる気持ちを抑えてから口を開く。
「……ごめん。ちょっと考え事してた」
声を出してみて初めて気づく。声質は少し高くなっているのに違和感がない。まるで体が魂に先立って以前の自分の声の出し方を覚えているかのようだ。
焚き火を囲む四つの顔。対面のギルバートは眉目秀麗な顔立ちに冷笑を浮かべ、隣のミーシャは短い茶髪を弄りながら鼻で笑っていた。バルガスは指を鳴らしながらも顔は明後日の方向を向いており半分話を聞いていない。そして右隣に座るレオンは……ただ無言で切り株に背を付けて、炎の揺らめきを映した瞳を半ば閉じていた。どうやら今日の探索でレオンが些細な判断ミスを犯し、それがきっかけで非難が集中しているらしい。
「まったく情けないよ。パーティの一員だっていう自覚はあるのかい?」
ギルバートの声は芝居がかっていて、わざと周囲に聞かせる意図が透けている。
「これじゃまた『無能レオン』の烙印を押されてしまうなぁ」
ミーシャがクスクス笑いながら、「ほんとに役に立たないわねぇ。いるだけで空気が澱むんだから」と追い打ちをかける。
「まあまあ。俺様がいればこんな奴いなくても同じだぜ」
バルガスが豪快に笑うが、レオンはピクリとも反応せず。その姿に胸が締め付けられる。このまま放っておけば──間違いなく“あの日”がやってくる。だが、突然レオンを庇えばパーティ全員に不信感を与えてしまうだろう。どうすれば……?
「……アリス。君も何か言ってやったらどうだい?」
ギルバートの流し目。ああ、そう言えば前世でもこのタイミングで彼は必ず私に水を向けてきた。あの時は乗ってしまい、レオンの弱さを嘲笑いさえした。その積み重ねが悲劇に繋がったのだ。
(ダメだ。また同じ過ちは繰り返せない)
思考は高速で巡る。しかし結論を出す前に軽い空腹がアリスを襲った。アリスは咄嗟に左手で腹部を押さえる。
(……そうだ。夕食)
「あ、あたし! お腹空いちゃって!」
自分でも驚くほど明るい声が出た。四人の視線が一斉に集まる。
「今日はこれくらいにして宿に戻ろうよ! だってほら、町のおばちゃんが言ってたじゃん? 地元で取れた野鳥の料理が絶品だって。ハーブと野鳥のオイルで煮込んだヤツ。絶対美味しいって!」
前世の知識が役に立った。この町では季節の終わりに渡り鳥の狩猟があり、宿の定番メニューとなっている。現代で言えば野鳥を使ったコンフィのようなものだっただろうか。とにかく美味しいと評判だった。
「は?」
ギルバートが片眉を吊り上げた。ミーシャは呆れたように溜息をつき、バルガスは目を輝かせる。
「おお、それなら賛成だぜ! 肉があれば俺様は万事OKだ!」
巨漢の歓声に場の張り詰めた空気が緩む。レオンも少しだけ瞳を見開いたが、何も言わないまま腰を上げた。
「……まあいい。この件は明日改めて検討しよう」
ギルバートは不服そうだったが、結局矛を収めた。火の始末を終え、一行は宿へと歩き出す。
夕闇は深く、星が瞬き始めたばかり。
帰り道、隣を歩いていたレオンがぽつりと言った。
「……どういう風の吹き回しだ」
声には驚きよりも疑念の方が濃厚だ。アリスは一拍置き、月明かりに照らされた地面を見つめながら答えた。
「別に? お腹空いただけだよ」
短く返すと、レオンは訝しげに眉を寄せたもののそれ以上は何も訊かず、二人は無言で足並みを揃えて歩き続けた。和やかとは程遠いが、居心地が悪いというわけでもない雰囲気だった。
(まだ間に合う)
前世では崩壊する一方だった信頼関係。それを修復できるかもしれない。その思いがアリスの心に小さな灯火となって宿った。
空は高く澄み渡り、宿の灯りが道標のように遠くに見える。アリスは拳を軽く握りしめた。
「……さて、どうやって挽回していくかな」
小さく呟いた声は夜風に紛れ、誰にも届かずに消えていった。