第十七話 真鍮の円環
路地裏の湿った闇を抜けると、宿の灯が見えてきた。
アリスは自分の呼吸を意識しながら、一歩ずつ石畳を踏みしめていた。背後でミーシャが小さく咳き込む気配。前を歩くギルバートはいつもと変わらぬ様子だった。
「もうすぐだね」
ふいにギルバートが告げた。
宿の入り口が近づくにつれ、アリスの肩から力が抜けた。灯りが温かく、人の声が穏やかに聞こえてくる。いつもの喧騒が、何よりも安らぎを覚えさせた。
「おお、皆一緒かよ」
宿の扉を開けると酒場のテーブルでバルガスが大柄な身体をもたせかけ、特大のジョッキを傾けていた。その顔は薄い赤に染まっている。同卓にレオンも腰かけていた。
「……何があった?」
三人を一瞥するとレオンの瞳が一瞬鋭くなる。ミーシャの服装や髪の乱れに気付いたのだろう。
「あとで話すよ。まずはミーシャを診なくちゃ」
「分かった」
アリスが手を振って答えると、レオンは短く頷いて警戒を解いた。
「一時間後に宿の個室に集まって欲しい。状況整理をしよう」
ギルバートが淡々と告げる。
「ああ? また会議かよ。最近多いな」
バルガスがぼやきながらジョッキを飲み干すと、ギルバートは懐中時計にちらりと目を落とし、すぐに部屋へと戻って行った。レオンも無言で立ち上がり、テーブルにチップを置いて去っていく。
二人が去った後も酒場にはいつもの雰囲気が流れていた。
「行くわよ」
ミーシャが促し、アリスもこくりと頷いた。
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アリスの部屋。質素なベッドサイドランプが柔らかく室内を照らしている。アリスはミーシャの外套を脱がせ椅子に座らせた。
「あーやっぱりちょっとコブになってる? 痛くない?」
ミーシャの頭頂部にはこん棒で殴られた際にできた腫れがあった。
「大したことないわ。アンタこそ手は大丈夫? まだ痺れるでしょ」
「平気平気。さっさと治しちゃうね」
アリスは右手をかざした。掌から溢れる緋色の光がミーシャの傷を包み込む。
「……ねぇミーシャ」
「何?」
「ごめんね。何か巻き込んじゃって」
治療の合間を縫ってアリスが言う。
「アンタが悪いわけじゃないでしょ。私が油断しなきゃすぐに片付いてたわ」
ミーシャはそっけなく答えながらもその声には柔らかさがあった。
「あはは、そうかもね」
ふとミーシャの視線がアリスの左手へと注がれる。──台座だけになった指輪。低級魔石は消え去り、鈍い真鍮の円環だけが残っていた。
「その指輪、やっぱりあいつに貰ったの?」
「うん……装備の整備してた時にそのついでにって」
アリスは恥ずかしそうに頬を掻いた。
「ふーん……」
ミーシャがにやっと笑う。
「まぁいいんじゃない? 華やかさには欠けるけど宝石箱の賑やかしにはなるかもね」
「ええーっ?」
アリスは唇を尖らせたが、その表情は柔らかかった。
治療が終わるとミーシャが大きく伸びをした。
「はいおーけー。これで大丈夫だよ」
「ありがと。やっぱりアンタの手は便利よね」
ミーシャは軽口を叩きながら椅子から立ち上がった。
「まだ会議までは時間あるわね」
ミーシャが時計を見る。アリスはこめかみを軽く指で叩いて少し迷ってから口を開いた。
「ミーシャ、ごめん。ちょっとレオンを呼んでいいかな」
「はぁ? 何で?」
「ちょっと会議の前に相談したいことがあるんだ」
ミーシャは首を傾げたがすぐに察したように頷いた。
「分かったわ。着替えてくるから呼んできなさい。十分後にアンタの部屋でいい?」
アリスは頷いた。まだ頭の中に残る違和感。エマの刺青と暴漢の刺青が重なるようにちらつく。
「うん、ありがと」
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きっかり十分後。レオンがノックを鳴らし部屋に入った。着替えを終えたミーシャもすでに部屋にいた。
「火急の要件か? 会議の後でも良いかとは思ったが」
レオンが尋ねる。
「うん、実はね……」
アリスは暴漢に襲われたことを簡潔に伝えた。レオンは少し眉間にしわを寄せながらも無言で聞いていた。
「さっき様子がおかしかったのはそのせいか。しかしそれは会議で当然報告すべきことだろう」
「うん、それは会議で報告するよ。でもそれだけじゃないんだ。エマちゃんの事は覚えてるよね?」
「あの路地裏で会った女か」
ミーシャが聞き逃さず口を挟んだ。
「ちょっと。何の話よ」
アリスは路地裏でエマと出会い、その友人の幻影粉中毒の少女を治療した経緯を話した。そして暴漢の刺青とエマの刺青が酷似していたことも伝える。翡翠色の薔薇のような刺青だ。
「刺青ははっきりとは覚えてないんだけど……でも色も特徴も同じだったと思う」
「あの女とその暴漢に何らかの関係が疑われるということだな」
ミーシャが薄くため息をついた。
「刺青の一致くらいじゃ分からないわよ。平民の流行りかもしれないじゃない」
しかしアリスにはどうしても偶然には思えなかった。教団での出会いそして今回の暴漢の出現。すべてがつながっているような気がしてならない。
「それに……この前の教団の調査あったよね」
「無原罪の輪のやつね」
「その時にエマちゃんもいたんだ」
「なに?」
「ちょっと。何でそれ黙ってたのよ? 一応、公的調査の仕事よ」
ミーシャが眉を顰めると、アリスはばつが悪そうに答えた。
「ごめん……あの子に迷惑がかかると思って」
「庇うほどの義理があったか?」
レオンが問う。批判と言うよりも純粋な疑問という聞き方だった。
「その……講習の時にポーションの精製がうまく行かない子どもがいて。ちょっと手を貸しちゃったの。教団の人にはバレてないんだけどエマちゃんには見られてて。でも黙っててくれたから悪い子じゃないなって」
ミーシャが呆れたようにため息をついた。
「あんたは本当に……」
「らしいと言えばそうだがな」
レオンも事も無げに呟いた。
「でも……そのお人よしに免じて今回は許すわ。ただし次はないからね」
ミーシャが譲歩するように言った。忠告は厳しいが表情は柔らかかった。
「うん。ありがとう」
「ん……アリス。会議では『教団で講習をしている時に同じような刺青を入れた人間を見た』とだけ言いなさい。『意識してなかったからどんな人物だったかは覚えてない』でいいわ」
「了解。今度あの子に会ったら事情を聞いてみるから」
「調査の事もまだ言わなくていいわ。聞かれたら『サロンに興味があったから』とでも言いなさい」
「いいのか?」
レオンが問う。感情は薄いが、その表情は少し意外さが混じっていた。
「ええ、それに……タイミングが良すぎて気に入らないのよね」
ミーシャが意味ありげに呟いた。アリスにはその真意が分からなかった。
「え?」
「何でもないわ」
「アリス」
レオンがアリスに向き直る。
「もし、そのエマという娘が教団やその暴漢と関わる人間だったらどうする気だ?」
「それは……その時はちゃんと対処するよ」
「さっき言ったはずよ。必ず私やレオンに報告しなさい。一人で抱え込むのは絶対ダメよ」
「うん……肝に銘じます」
「ああ」
レオンが頷く。
「お前が死んだらミーシャも俺も困る」
「えっ……」
予想外の言葉にアリスは戸惑った。
「キザなセリフねえ」
ミーシャがからかうように笑う。
「パーティの仲間としてだ」
「あははっ! 了解! 約束は絶対守るよ!」
緊張した空気が和らいだ。左手の指輪が窓からの月明かりを受けて微かに輝いていた。