朝露がまだ石畳の窪みに残る頃、アリス達は宿近くの公園に集まっていた。
王都中央区の南端に位置する公園は、この街の発展を象徴するかのように整然としていた。舗装された小道が幾何学模様を描き、花壇の縁取りは白く磨かれた御影石で統一されている。中央の噴水は魔石動力で一定のリズムで水を吐き出し、朝の冷気の中に細かな飛沫を撒き散らしていた。
しかし、自然すらも人工物に見えるこの空間を好んで訪れる者は少なく、記念祭の時期でもない平日の早朝とあってはなおさらだった。公園内は都市部に不似合いな静寂に包まれていた。
「お呼び立てして申し訳ありません」
憲兵服に身を包んだ中背の男が、一歩前に出て頭を下げた。三十代と思しき容貌は堅実な職業人そのもの――短く整えられた髪、日焼けした頬、そして何よりも職務に慣れ親しんだ者特有の隙のない立ち姿。だがその目の下には薄い隈が刻まれており、予算と人員不足に喘ぐ現場の疲労が滲んでいた。
「なんで公園なんだよ。宿の個室でもいいだろ」
バルガスが欠伸交じりに呟いた。ミーシャが無言でバルガスの脇腹を小突いたが、バルガスは意に介さない。
「宿は誰が聞いているか分かりません。ここなら人目も少なく見通しもよい。隠れて盗み聞きするのは困難です」
憲兵の男は至極もっともな理由を淡々と述べた。公園を見渡せば、早朝の散歩者と思しき老人が遠くのベンチに一人いるきりだ。公園の生け垣は低く、視界を遮るものはない。
「まあ、とにかくお疲れ様。今日からしばらく頼むよ」
ギルバートが穏やかに微笑んで、男の方へ手を向けた。
レオンが腕を組んだまま憲兵の男を一瞥する。
「それが懇意の憲兵か」
「その通り。グレイソン氏だ」
ギルバートが紹介するように手を差し出すと、憲兵の男は再び姿勢を正した。
「初めまして。自分はグレイソン=ケイン。憲兵隊南支部所属でございます」
最後まで礼儀正しく言い切り、一拍置いてから一礼をする。その所作は軍人のそれであり、冒険者たちの自由な空気とは対照的だった。
「いかにも堅物って感じね」
ミーシャが短く評した。シルクのブラウスの上に羽織った薄手のケープを翻しながら、品定めするような視線をグレイソンに向ける。
「実際は機転の利く方なんだ。イレギュラーな調査だから頼りにしているよ」
ギルバートがミーシャの毒舌を軽く受け流す。グレイソンは僅かに眉を下げ、困ったように視線を落とした。
「はい。ですが正直に申しまして、教団がらみでは強硬な対応は行いにくく——」
「えっ? 公爵家からの書状もあるのに?」
アリスが目を丸くして問い返した。赤い髪を後ろで束ねた顔には素直な驚きが浮かんでいる。
「公爵家の書状は確かに強力です。ですが——」
グレイソンが言葉を継ぐのを、ギルバートが引き取った。
「王都も一枚岩ではないんだよ。教団からの寄付金や高位貴族同士のしがらみもある」
淡々と言われた言葉に、公園の朝の空気が一層冷たく感じられた。アリスの表情が僅かに曇る。
「要するに買収されてるってことでしょ?」
ミーシャが容赦なく核心を突いた。グレイソンは唇を引き結び、一瞬の間を置いてから静かに答えた。
「……否定はできません。ですので自分のできることは情報提供や内部折衝に限られます」
その声音には無力感と義侠心が入り混じっていた。レオンが僅かに眉をひそめ、ミーシャは小さく溜息をつく。
「それで十分だ。こちらも書状を盾にして動く」
レオンが低い声で告げると、グレイソンがその言葉に真摯な表情で頷いた。
「はい。現状、憲兵の権限で教団の本丸に踏み込めた試しはありません。だから今回の依頼は……皮肉ですが、願ってもない機会です」
「ああ。問題は事態が表面化した時だが」
レオンが腕を組み直しながら先を促す。
「その時は守ってくれるんでしょ?」
アリスが小首を傾げながら問いかけた。その瞳には当然のような期待が浮かんでいる。
グレイソンはアリスの目をまっすぐに見つめ返した。朝の光が憲兵服の徽章を白く光らせる。
「最善を尽くします。犠牲を少しでも減らしたいという気持ちに偽りはありません」
「あら、憲兵らしくて結構ね」
ミーシャが口角を上げる。その微笑みには皮肉の棘が含まれていたが、瞳に悪意は感じられなかった。
「まあ任しておけよ。厄介ごとは俺らの得意分野だ」
バルガスが胸を叩いて豪快に笑う。朝霧の残る公園に、その声はやけに大きく響いた。
ギルバートが一同を見渡し、手を打って場を締めた。
「それでは手筈通りに行こう」
全員の視線がギルバートに集まる。
「僕とミーシャは教団本部へ。アリスとレオンは支部。バルガスはグレイソン憲兵と同行して北街区の商業区へ」
ギルバートが指を折りながら配置を確認する。アリスがこくりと頷く。
「教団には『講習を務めた優秀な錬金術師が改めて教団を訪れたいと漏らしている』と噂を流しておいた。『王都が教団の活動を警戒している』ともね。門前払いになることはないはずだ」
「優秀な?」
アリスが眉を上げて自分を指差す。
「ああ、教団の興味を誘うためにね。高品質で評判の良いポーションを作れる、程度だが」
ギルバートはさも当然のように言った。
「へえ、準備がいいじゃねえか」
バルガスが感心したように鼻を鳴らす。
「無論、同日の来訪だと結び付けられるリスクはある。だが、教団は有望な錬金術師を手に入れる誘惑の方が強いだろうと踏んでいる。それに、本部に目が向いていれば支部の警戒は薄くなるだろう」
ギルバートの瞳が冷たい光を宿したまま、口元だけが微笑んでいる。
「どうかしら。いずれにせよ成果を焦らないこと。分かったわね」
ミーシャがアリスとレオンに鋭い視線を向けた。アリスが「うん」と頷き、レオンも無言で同意する。バルガスも「おうよ」と短く応じた。
朝の公園に散っていく六つの背中を、噴水の水音が静かに見送っていた。
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教団の支部は、北街区の外れに位置していた。
街路から一本入った閑静な場所に建つその建物は、外見こそ質素だったが、壁面の手入れは行き届いていた。白漆喰が塗り直されたばかりらしく、朝の陽光を受けて淡く輝いている。
アリスとレオンは扉を押し開けた。支部の玄関ホールは簡素だが清潔な空間だった。ホールの左右には木製の長椅子が置かれ、正面に受付の小さな卓が見える。
受付に座っていた若い信者が二人の来訪に気付き、姿勢を正した。
「おはようございます。どのようなご用件で」
「クロスハートと申します。以前、こちらで錬金術の講習を担当させていただいたのですが、改めて教団を見学したいと思ってお伺いしました」
アリスが丁寧に頭を下げると、受付の信者は手元の記録を確認し、小さく頷いた。
「承知いたしました。担当の者を呼んでまいりますので、しばらくお待ちくださいませ」
信者が奥へ消えると、アリスとレオンはホールの長椅子に並んで腰を下ろした。
アリスは何気なく壁を見回した。以前に講習で訪れた時は講堂へ直行し、玄関ホールをゆっくり見る暇がなかった。今あらためて眺めると、壁には教団の慈善活動の記録と感謝状が几帳面に並べられていた。
『北街区における医療支援活動』
『街路清掃および植樹活動の記録』
『孤児院への寄付および物資提供』
一つ一つの文面には具体的な日付と活動内容が記され、感謝状には支援を受けたと見られる人々の署名が連なっている。決して形だけのものではなかった。
「慈善活動も結構やってるんだね」
アリスが感心したように呟く。
「勢力を拡大させるために認知度の向上を狙っているだけだろう」
レオンは腕を組んだまま淡々と返した。その視線は感謝状ではなく、ホールの内装に向けられていた。出入口の位置を確認しているのだろう。
「そりゃそういう狙いもあるだろうけどさ、助かってる人もいるわけじゃん」
アリスが感謝状の一つに目を細めながら反論する。署名の文字は拙いが、一文字一文字に心が込められているように見えた。
「一時の救済では本質的な解決には繋がらん」
レオンの声は静かだった。否定しているのではない。事実を述べているだけ、という響きがあった。
「むー……まあ、誰かさんは黙々と尽くすタイプだもんね」
アリスが小声で呟くと、レオンが僅かに視線を動かした。
「何の話だ」
「べっつにー」
アリスは口を尖らせて視線を逸らした。その拍子に、ホールの奥の方へ目が走る。
(あの子……)
エマの姿は見当たらなかった。講習の時に姿を見せたあの小柄な少女が、どこかの角からひょっこり現れるのではないかと、無意識に期待していた自分がいる。同時に、会えなかったことへの安堵も半分ほどあった。会えば聞かなければならない事がたくさんある。隣にいる真面目な剣士は誤魔化しを許してくれないだろう。
アリスは膝の上で指を組んで、小さく息を吐いた。
しばらくして廊下の奥から足音が近づいてきた。現れたのは、以前の講習の時と同じ中年の案内役だった。その表情は、前回会った時と変わらず穏やかだ。記憶が正しければ、支部の運営を取り仕切る実務担当のはずだった。
「大変お待たせしました。クロスハート先生、お久しぶりです。本日は御足労いただきまして」
案内役は深々と頭を下げた。
「どうも! お久しぶりです!」
アリスが明るい声で応じる。
「我が教団の見学をご希望されているとお伺いしましたが」
「ええ、以前講習の講師をやらせていただいた時に伺った教義が……ずっと頭に残っていまして」
アリスは一拍置いて、声の響きを少し改めた。
「私も生まれや才能で人を区別することはおかしいと思っていました。それで改めて教団について知りたいと思ったんです」
言葉は滑らかに出た。相手を信用させるための建前——そう自分に言い聞かせながらも、本当にそう思っている部分が胸の奥にある。だが同時に、そんな自分を白々しく感じる部分もあった。本心を利用して嘘を塗り重ねるのは、純粋な嘘よりも始末が悪いかもしれない。
「教義にご共感まで頂けるとは、大変嬉しく存じます」
案内役の男性は深く頷いた。その表情には純粋な喜びが浮かんでいた。
「ところで、お隣の方は」
案内役の視線がアリスの隣に座るレオンに向けられた。
「彼は私の護衛を務めてくれています」
アリスが答えると、レオンは無表情のまま浅く頭を下げた。
「……レオン=ヴァンデルと申します。よろしく」
案内役が僅かに眉をひそめた。穏やかな表情の端に、警戒の色が差す。
「護衛付きとは珍しいですね。良家のご出身ですか」
アリスが口を開きかけたが、レオンが先に答えた。
「彼女は錬金術の素材採集で危険な所に出向くこともある。護衛は必須だ」
「そうそう! そうなんです!」
アリスが慌てて相槌を打つ。案内役の眉は元の位置に戻ったが、納得しきってはいない様子だった。
「……後、個人的に親しい友人なんです。出身も同郷でして」
アリスが何気なく付け加えると、案内役の表情が一瞬緩んだ。
「ほう、恋人が護衛をされてるということですか。とても情緒的ですね」
「いやいや! そんなんじゃ——」
「……単なる腐れ縁だ」
レオンがアリスの言葉を遮るように淡々と言い切った。
「ちょっと! 言い方!」
アリスがレオンの脇を肘で小突く。レオンは僅かに身じろぎしながら片眉を動かした。
案内役は二人のやり取りを眺めて、ほうと息を漏らした。先ほどの警戒は解けたように見えたが、どこか疑問を抱いたままにしているようでもあった。
「はは、仲がよろしいことで。ではご友人にも我が教団の理念を知っていただきましょう。ご案内させていただきます」
案内役は踵を返し、ホールの奥にある廊下へと歩き出した。アリスとレオンが後に続く。
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廊下は石床が続いていて、建物の造りは旧式だが手入れは行き届いていた。
「とはいえ、あまり大きな施設ではないんですよ。礼拝堂と展示室、それに簡易な講堂と研究室がある程度で」
案内役が歩きながら説明する。
「研究室ですか?」
アリスが反射的に問い返した。
「ええ、医薬品の研究などに使用しているものです。そちらは一般の方は見学できないので、今日は礼拝堂や展示室程度になりますね」
レオンが後ろから問う。
「本部は大規模な施設なのか」
「事務的機能を果たすための設備を備えていますが、過剰な施設ではございません」
案内役は振り向いて、丁寧な口調で答えた。
「寄付金を無駄遣いはできませんからね」
と、付け加える声には、誠実さが滲んでおり偽りではない事を感じさせた。
廊下の突き当たりに木製の両開き扉があった。案内役が扉を押し開ける。
「こちらが当教団の礼拝堂です」
礼拝堂はそれほど広くなかった。十数人が座れば埋まる程度の木製長椅子が二列に並び、正面に祭壇らしき台がある。一般的な教会と特段の違いはない——と一見は思えた。
しかしただ一つ、目を引くものがあった。
正面の壁を飾るステンドグラスだ。「手を取り合う人々」が描かれている。貧しき者も富める者も等しく手を取り合い、円環を成して立っている図。色遣いは温かく、見る者に安らぎを与える構図だった。
だが、アリスの目は足元に留まった。人々が立つ地面には、砕けた石が散らばっていた。群青色の石——それは普段自分が使っている石によく似ている。「手を取り合う人々」はその石を踏み台にしている。あるいは、踏み砕いたのか。
アリスの胸がざわめいた。そのステンドグラスが意図するところは薄っすらと読み取れた。だからこそ落ち着かない気持ちだった。
「こちらが教義の冊子になります」
案内役が祭壇の脇から二冊の薄い冊子を取り出し、アリスとレオンに手渡した。
折りたたまれただけの簡素な冊子だった。粗い紙に印刷された文字は簡素だが丁寧で、教義の条文が短く連ねられている。
『汝に才あり』
『されど才は汝を選びし者にあらず。神光は全ての額に等しく降り注ぐ』
『偽石の輝きをもって人を分かつ者は、神の前に原罪を負う』
ありきたりで善的な教義が並ぶ中で、最後の一節だけが際立っていた。アリスはその文字を指先でなぞった。
「独特の教義だね」
アリスが小声でレオンに囁く。
「回りくどい言葉にも聞こえるな」
レオンも小声で返す。冊子の末文に目を落としたまま、僅かに眉を寄せていた。
アリスは冊子を閉じて案内役に向き直った。
「あの、教祖様はどんな方なんですか?」
「大変に素晴らしい方ですよ。万人のために尽くしてくださる方です」
案内役の目に敬虔な光が宿った。
「直接会ったことはあるのか」
レオンが問う。
「何度かは。ですがあまり衆目に姿を晒す方ではないのですよ」
「肖像画とかもないんですか?」
アリスが礼拝堂の壁を見回しながら訊ねた。教会には教祖の肖像画や彫像が飾られるのが通例だが、この礼拝堂には何もなかった。
「ええ、神聖な方ですので、安易な絵姿は残されないのです」
案内役は誇らしげに答えた。
「……教祖ってそんなもんなんだっけ」
アリスは再びレオンに小声で囁いた。
「多くの目に晒されないほうが偶像が壊れずに済む、ということだろう」
レオンが淡々と返す。アリスはなるほどと頷いたが、胸の中のざわめきは消えなかった。
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礼拝堂を出て、案内役に続いて廊下を歩く。次に案内されたのは展示室だった。
展示室は礼拝堂よりも更に小さな部屋だった。木製の棚に革細工や工芸品が並べられ、部屋の隅には小さな卓上に香水の瓶が数本並んでいる。壁際には出荷待ちと思われる木箱も積まれていた。
「こちらは教徒が作った工芸品などの展示室です。商用に出荷しているものもあるので倉庫も兼ねてますね」
案内役が手を広げて室内を紹介する。
「香水まであるんですね」
アリスが香水の瓶に近づいた。透明な硝子瓶の中に薄青色の液体が揺れている。
「ええ、材料の栽培から調合、容器の製作まですべて教徒の手で行っております」
アリスが瓶を手に取ろうとした時、硝子の底面に刻まれた小さな刻印に目が止まった。
下向きに咲いた花が花冠を作る意匠。繊細だが特徴的な文様だった。
(あれ、これって……)
アリスの指が一瞬止まる。その刻印に、どこかで見覚えがあった。だが記憶の糸を手繰り寄せる前に、案内役の声が思考を断ち切った。
「……ところで、クロスハート先生はとても優秀な錬金術師とのことですね」
アリスは反射的に笑顔を作った。
「いえ、まだまだ修行中の身ですよ」
「聞くところによると、大変に高品質な治療薬をお作りになられているとか」
アリスはわずかに目を細めた。言葉の響きに探りがある。用意していた言葉を返した。
「試行錯誤の真っ最中ですよ。いずれ安価に生産できて、一般の方々にも届けば良いなと思っています」
レオンがアリスに目配せした。アリスは無言で頷く。
「市井の民にも、ですか。素晴らしいことです」
案内役の声が僅かに熱を帯びた。
「ええ。分け隔てなく多くの人の病気を治してこその治療薬ですから」
アリスの言葉に、案内役は深く頷いた。その目には先ほどまでの探りではなく、純粋な感嘆が浮かんでいたように見えた。あるいは、そう見えただけなのかもしれない。
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展示室の見学を終え、廊下に戻ったところで、案内役が突然立ち止まった。
「申し訳ありません。祈りの時間ですので少し失礼します」
そう言い残して、案内役は廊下の角を曲がって姿を消した。
アリスとレオンは廊下に残された。アリスが少し途方に暮れたようにレオンに呟く。
「待ってればいいのかな」
「いや、おそらくは――」
「え?」
アリスが意図を聞き返そうとしたところで、廊下の奥から、衣擦れの音と共に新しい足音が近づいてきた。
現れたのは白衣に包まれた若い男だった。痩身の体躯に少しぼさぼさとした長髪。白衣の片側のポケットから覗くメモ用紙にはびっしりと書き込みがされている。蒼白な顔には度の強い眼鏡が掛けられ、その奥の充血した眼が二人を捉えた。
「ようこそ。クロスハート先生」
若者は柔らかに微笑んだ。しかしその目は平静そのものだった。笑みが口元にだけ浮かび、瞳の奥には何の感情も揺らいでいない。
「ティルと申します。研究室の補佐をしております」
レオンがアリスに目配せをする。アリスはその意図を即座に理解した。いなくなったタイミングが良すぎるということだろう。案内役がこのティルという男を呼びに行ったのかもしれない。
「あ、はい。初めまして」
アリスが明るい声を作る。
「最近、上の方で『特別な錬金術師』の先生をお招きする計画があると伺いまして。もし宜しければ、私共の研究班にご見学いただけませんか?」
ティルは柔和な口調で言った。噂を流したことが予想以上の功を奏しているのかもしれない、とアリスは感じた。
「特別な錬金術師ですか? 買い被りだと思いますけど」
「いえ。お噂は聞いています。ぜひ研究班と議論していただけたら」
ティルの視線が一瞬だけ下を向く。その動きは微細で特に不自然さはなかった。
「……しかし私にどれほどお力添えができるか」
「謙遜なさらないでください」
ティルは目を細めて微笑んだ。
「先生は『治療』が大変お得意だと聞いております。……一度お会いできればと思っていました」
「……!」
アリスの心臓が一拍跳ねた。
アリスは平静を装いながら一瞬考え込む。噂に尾ひれがついてるだけなのかもしれない。それに自分の能力の事はエマは黙っていてくれた、と思っている。では別の情報源から伝わったのか。あまり考えたくないが「黙っているふり」をしていたのか。自分も彼女の事を仲間に伝えたのだから、彼女も伝えたのかもしれない。
どちらにせよ、今ここで結論は出ない。潜入任務である以上、誘いに対する回答は一つしかなかった。
「では……ご厚意に甘えて」
アリスが微笑むと、ティルの口元が微かに緩んだ。
「研究は機密情報ですので……お連れの方はここでお待ちいただけませんか?」
ティルの視線がレオンに向けられた。
「俺は護衛だ。彼女が行くなら俺も同席する」
レオンの声は低く、しかし有無を言わせない響きがあった。
「外部の方にお見せするわけには―」
「ならば彼女も見ることはない」
レオンが即座に返した。ティルの眉が僅かに動く。
「……」
ティルは腕を組むと、思考を巡らせるように一瞬目を伏せた。やがて小さく息を吐く。
「わかりました。ただし、研究内容は他言無用とさせていただきます」
アリスはその言葉に軽い違和感を覚えた。機密情報を扱う研究としては、折れるのが早い気がする。割り切ったのか。あるいは、見せられる程度のものしかないと分かっているのか。いずれにせよ、退く理由はなかった。
「ああ」
レオンが短く応じる。
「分かりました」
アリスが頷くと、ティルは廊下の奥にある扉へと先に立って歩いた。
扉を開けた瞬間、消毒液の鋭い匂いが鼻を突いた。その奥に、微かに花のような香りが混じっている。甘く、そしてどこか冷たい香りだった。
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その頃ギルバートとミーシャは教団本部の応接室にいた。
支部とは趣の異なる建物だった。規模は数倍大きく、石造りの外壁には教団の紋章が掲げられている。応接室には深紅の絨毯が敷かれ、高価な応接テーブルと椅子が設えられていた。表向きは質素を装う教団も、貴族の来訪を受ける部屋だけは体裁を整えているらしい。
老女が二人の前に座った。六十代後半ほどだろうか。痩身に身を包んだ法衣と、傍らに置かれた杖。深い歳月を刻んだ顔には柔和な笑みが浮かんでいるが、その瞳は一点の曇りもなく二人を見つめていた。
「これはこれは。随分と大仰なことで」
老女はゆっくりと頭を下げた。
「公爵閣下の命で参りました。ギルバート=グランツと申します。活動支援金の用途についてお伺いしたいことがございまして」
ギルバートが姿勢を正して言った。その手には王都から発行された書状が握られている。
「ラウラ=メルクと申します。まあまあ、まずはお座りください」
ラウラに促され、二人は椅子に腰かける。使用人と思しき女性が紅茶を三つテーブルに置いて一礼した。
ミーシャがさっそくとばかりにテーブルに書類を広げる。
「支援金の用途が『困窮者自立支援』で、内訳に黒塗り部分があるようだけど」
ミーシャは書状の写しを指先で追いながら、冷徹な声音で切り出した。
「尊厳にかかわる部分でして、申し訳ございません。困窮者の情報を保護するのも慈善のうちでございます」
ラウラは柔和に微笑んで応じた。
「便利な言葉ね。受益者の名前も黒塗りなのかしら」
ミーシャが引かずに問い詰める。ラウラの微笑は崩れなかった。
「社会は万人により支えられます。支援の成果を受け取る者がいるとするなら、すべての民でしょうね」
「支援が本当に困窮者に届いているのか。その可視化こそが、社会に対する責任の果たし方ですよ」
ギルバートが穏やかに、しかし明確な口調で割って入った。
「可視化こそが責任と仰いますね。それは王都の方針でしょうか? それともグランツ侯爵家のご意向で?」
ラウラの目が初めてギルバートを正面から射抜いた。笑みは崩さない様子だが、空気が一変する。
ギルバートは苦笑しながら答えた。
「私は公爵閣下の名代で来ています。区別はありません……ただ、透明性のもたらす強固な秩序は万人の利益になる。今の社会を存続させるためです」
「秩序のための透明性。素晴らしいことです」
ラウラが頷く。その声には深い理解が滲んでいた。だが、続く言葉は鋭かった。
「ただ、私どもには透明性を求められるほどの『既得権』がございません。権力なき者に権力の礼儀を求めるのは少々居心地の悪いことでして」
「権力なき者がこんな大きな組織を動かすのですもの。謙遜がすぎるわ」
ミーシャが薄く微笑みながら冷たく言い放った。
「当教団は民の寄付であり、信頼の結実です。決して生来の特権によるものではございません」
ラウラは穏やかな表情のまま、二人の前に静かな壁のように座り続けた。
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北街区の酒場は、昼前だというのに湿った空気と安酒の匂いで満ちていた。
バルガスは酒場の入り口でグレイソンと別れ一人で扉を押し開けた。憲兵の顔が知れた男を連れて歩けば、聞き込みどころではなくなるからだ。
「ちょっと聞きてえことがあるんだけどよ」
バルガスがカウンターに近づくと、店主は拭いていたグラスを置いて無愛想に顔を向けた。
「……まずは一杯、だろ?」
「一応仕事中なもんでよ。出すもんは出すさ」
バルガスは小袋から銀貨を何枚か取り出しカウンターに置いた。転がった銀貨が乾いた音を立てた。
「……で、何の用だ」
店主の目が銀貨を一瞥し、再びバルガスに戻る。
「最近若いのが姿をくらますことが多いだろ? 何か知ってることがあれば教えてくれねえか」
「金目当てか?」
店主の声には猜疑心が滲んでいた。
「へへ。身内を探してるお貴族様は金に糸目をつけねえんでな。嬢ちゃん一人の居場所で、俺様が十年遊べる額が出てるんだよ。報酬もらえたらアンタにも御馳走するぜ」
バルガスが笑いながらカウンターに肘をつく。店主は呆れたように息を吐いた。
「噂話なら奥の席の旦那に聞くといい。いつも一人で酒をあおっているが妙に物知りでね」
店主は親指で店の奥を指した。店の奥に向けているのは親指だけで目線は手元を向いている。そしてその顔には商売人の愛想はもうなく、どこか憐れみにも似た色が浮かんでいた。
バルガスの視線がその方向へ向けられた。
酒場の最奥。薄暗い照明の中に、バルガス以上の巨躯が鎮座していた。無骨な革鎧を纏い、椅子に深く腰を沈めている。左頬には深い傷跡が走り、右の手だけ黒皮の手袋をはめていた。手袋のない左手はグラスを握り、琥珀色の液体を無言で揺らしている。
(デケえな……こいつが例の奴か)
バルガスは酒場に入る前のグレイソンの忠告を思い出した。
『北街区には厄介な男がいる。もし絡まれたら早めに切り上げろ』
グレイソンの声は低く慎重だった。
『憲兵なのに手が出せねえのか?』
『……裏では有名な元傭兵だ。憶測だけで手が出せる相手じゃない』
グレイソンはそう言って、バルガスの肩を一度だけ強く掴んだ。
バルガスは奥の男の横顔を遠目に眺めた。傷跡の奥に潜む何かが、酒場の薄暗い灯りの下で妖しく光っているように見えた。
(厄介そうなのは間違いねえな)
バルガスは鼻を鳴らしカウンターに向き直った。店主に小声で訊ねる。
「あの旦那、名前は?」
店主はグラスから目を離さずに短く答えた。
「……聞かない方が身のためだよ」
バルガスは奥の男から目を離さないまま、再び銀貨を二枚カウンターに置いた。
「じゃあ酒を一瓶ほどくれ。それであの旦那に声をかける」
店主は黙って蒸留酒のボトルとグラスを二つ置いた。バルガスは瓶とグラスを持って立ち上がる。椅子の脚が床板を削る重い音がした。