研究室は、清潔という言葉が一番しっくりくる空間だった。
消毒液が香る中で、床は磨き上げられた石畳が淡い灯りを反射している。木製の棚には試験管やフラスコが大きさ順に並べられ、実験データと思しきファイルが色と高さを揃えて整然と収められていた。
泥臭さがない――研究に携わる人間特有の、慌ただしさや散らかりを一切感じさせない空間だった。
「すごく綺麗にされてるんですね」
思わず口をついて出た感想に、ティルは穏やかに首を振った。
「いやいや、物が少ないだけですよ」
そう言って彼は棚の前を歩き、一冊のファイルを抜き取った。
アリスの視線がふと、研究室の奥に向けられる。ガラスで仕切られた小さな部屋があり、その向こうには植物を育てるための空間が広がっていた。天井近くの採光窓から陽光が差し込み、培養土の上で草花が柔らかく揺れている。ほとんどは一般に流通している薬草で、見慣れた黄色い百合の花も混じっていた。だが隅の方には、見慣れない植物が数株、静かに根を張っている。しかし、距離があって詳細までは見えなかった。
「案内の者が説明したかもしれませんが」
ティルがファイルを手に、振り返りながら口火を切った。
「当研究室では、医薬品の製造と研究を行っています」
「一般人にも薬を配布しているらしいな」
レオンが静かに問いかけると、ティルは僅かに目を見開いた
「おや、ご存じでしたか」
「たまたま見かけただけだ。……薬の質は良くないようだったが」
ティルは困ったように眉を下げ、わざとらしく頭を掻いた。
「はは、お恥ずかしい。なにぶん予算が限られていましてね。良質な素材がなかなか手に入らないんですよ」
「でも、どうして薬を配ったりなんて」
アリスが首を傾げると、ティルはさも当然のように答えた。
「社会貢献ですよ。庶民には薬が手に入りにくい者もいるでしょう。我々の役に立てることがあるなら、それを怠る理由はありません」
レオンは腕を組んだまま、わずかに目を細めた。何かを見極めようとするような沈黙だったが、アリスはティルの言葉に少し表情を明るくした。
「それは素敵なことですね」
「ええ。ただそれだけではありません」
ティルはファイルから束ねられた書類を取り出し、アリスに差し出した。受け取ったアリスの目に、びっしりと文字が埋め込まれたページが映る。
「薬を配布する上で、投与後の経過も協力していただいているんです。立派な研究資料になりますからね」
「研究データを見せていいのか?」
レオンが低く問いかけると、ティルは柔らかく微笑んだ。
「対象者には同意を取っています。誰かは分からないように情報は伏せてありますので、問題ありませんよ」
アリスは差し出された資料をめくった。レオンも背後から身を乗り出し、肩越しに覗き込む。
そこには、薬を服用した人々のデータが時系列で記されていた。
『五十代女性 中肉中背 金髪 投与後目立った変化なし』
『三十代男性 高身長肥満 黒髪 有意な結果あり』
『十代女性 低身長痩身 黒髪 認知機能の軽度障害 投与後回復傾向 経過観察中』
様々な世代と体格の人々の記録が、一ページに十人ほどの割合で綴られている。ティルが持っていたファイルの厚みからして、あれがすべて検体データであるならば――数百人規模のデータを集めていることになる。
アリスはページをめくる手を止め、徐々に眉を寄せていった。投与対象に若者が多いことも気になった。だがそれ以上に、一つだけ妙な違和感が胸に引っかかった。
「……でも、不思議ですね」
「何がですか?」
ティルが小首を傾げる。
「これだけのデータを集めているのに、投与量や成分比の調整がほとんど行われていない。個人の体格や年齢に応じて最適化すれば、もっと効果的なはずです」
慈善事業の一環としての治療薬研究。ならば、治療の効果を高めることが何より重要なはずだ。そう思った。
ティルは目を細めた。初めて、興味を示したような光が充血した瞳の奥に宿る。
「先生は……鋭いですね」
「錬金術師としては当然の疑問ですけど」
アリスは肩をすくめて応じた。ティルも小さく頷き、しかし次の瞬間にはその肯定をあっさりと手放すように首を振った。
「ええ、最適化は可能です。ですが私は、そこには興味がありません」
「……どういうことですか」
ティルはテーブルにあったある器具に目を向けた。銀色の小球が数個、細い糸で一列に吊り下げられている器具。ティルが端の小球を持ち上げて放すと、カチリと硬い金属音が響き、反対側の球だけが同じ角度で跳ね上がった。跳ねた球は戻り、また反対側が跳ねる。規則的な往復が暫く続く。
ティルはその器具の動きを眺めながら、一拍置いて口を開いた。
「……薬とは、投与される対象によって効果が変わりますね。想定以上の効き目がある者もいれば、効き目がないどころか悪化する者もいる」
「ええ、効果には個人差があるものですから」
アリスが頷くと、ティルは銀球を見つめたまま続けた。
「気持ち悪くありませんか?」
「……え?」
問いの意味を測りかねてアリスが瞬きする。ティルは視線をアリスに向けた。
「他の物で考えてみてください。同量の水と塩を混ぜれば塩水の塩辛さは同じ。同じ材料で工法が同じなら、建築物の強度はほぼ均質だ」
「……確かに。でも生体は複雑だから」
アリスが言いかけると、ティルは遮るように一歩踏み出した。
「複雑。ええ、その通りです」
ティルの声は平坦だった。興奮ではない。むしろ興奮の対極にあるような、温度のなさだった。
「ですが『複雑だから分からない』と『複雑だが法則がある』は別のことです。私が知りたいのは後者です」
眼鏡の位置を直す仕草もせず、ティルは淡々と続けた。
「もし塩水や建築もそうなら、評判の店はすぐ潰れて橋は落ちます。人体だけなのですよ。なぜかは分かりません。分からないから調べる。それだけの話です」
球と球が触れ合い、乾いた音が続く。その律動的な響きだけが、部屋の空気を満たしていた。
「……」
アリスは言葉を失った。正論であるようで、何かが欠けている。欠けているからこそ、言葉で否定しきれない。その歯痒さが喉の奥に引っかかった。
「だからこそ先生にご協力いただきたいのです」
ティルの声が、低く滑り込んできた。
「……」
「先生のお力とお身体があれば……因果の糸が少しは見えるかもしれません」
(……身体?)
言葉に熱が入っただけだろうか。しかし、わずかに滲んだ不穏な響きに、アリスの体が強張る。
その気配を感じ取ったのか、レオンが一歩前に出た。険のある表情は作らない。右手をティルに向け、穏やかだが有無を言わせない言葉で制した。
「今日は見学だけで十分だ。これ以上は失礼する」
ティルは一瞬だけレオンを見た。そして、何事もなかったかのように器具に目を戻した。銀球が最後に微かに揺れ、そして完全に静止した。
「ああ、残念です」
ティルは穏やかに微笑んだ。その笑みには遺憾の色はあっても、執着の気配はなかった。
「またいらしてください。先生との研究は……期待しています」
「……ええ、また」
アリスは努めて平静に応じた。二人が背を向けると、背後で静かに棚が閉まる音がした。
研究室を出ると、廊下の静けさが耳に残った。消毒液の匂いも消え、ただ石畳に靴音が響くだけだった。
「……なんだったんだろう、あれ」
アリスが小声で呟くと、レオンは歩調を緩めずに短く応じた。
「分からん。だが今はこれ以上深入りしない方がいい」
「でも研究の内容自体は……」
「内容は問題なかった。だがあの男の目が問題だ」
アリスは立ち止まり、レオンを見上げた。
「目?」
「肩書や技術じゃない。お前自身を見ているような視線だった」
「……あたしを?」
「ただの予感だ。杞憂ならそれでいい」
レオンはそれ以上何も言わず、再び歩き出した。アリスはその背中を追いながら、胸の奥に残る冷たい違和感を振り払うことができなかった。
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同時刻、教団本部。
「それでは。また後日視察にも伺わせていただきます」
ギルバートが穏やかに一礼すると、ラウラも深く頷いた。
「いつでもお待ちしております」
応接室を出て、長い廊下を歩き始める。石造りの床に靴音が反響し、壁の燭台が長い影を床に落としていた。ミーシャが隣を歩きながら、小声で感想を漏らそうとしたその時――ギルバートの足が止まった。
視線は廊下の壁に掛けられた一枚の肖像画に向けられていた。
描かれていたのは、白銀の髪を長く垂らした男性だった。立派な上衣に金糸の縁取りが施され、胸元には精緻な紋章が刺繍されている。誇り高い眼差しは貴族のそれだったが、その表情の奥には威厳と共に、どこか諦めにも似た影が落ちていた。清貧を漂わせる飾り気のない廊下に似合わず、立派な額縁に収められていた。
「……美しい肖像画ですね」
ギルバートが振り返り、ラウラに向かって言った。ラウラはその視線を追い、僅かに目を細める。
「ええ、大変に神聖なお姿です」
「この方について伺っても?」
問いかけながら、ギルバートは肖像画の胸元の紋章を一瞥した。どこかで見た意匠のような気がした。だが記憶のどこにあるのかは思い出せない。あるいは——思い出す必要がないのかもしれない。
ミーシャもギルバートの横から肖像画を覗き込んだ。金糸の刺繍や白銀の髪の繊細な描き込みを、青灰の瞳が映す。
「……私たちの灯火です」
ラウラはそれ以上は語らなかった。その声には深い敬愛が滲んでいたが、同時に名を口にすることへの躊躇いのようなものも感じられた。言葉の端が、ふっと揺れる。
ギルバートは一拍置いて、穏やかに頷いた。
「そうでしたか。非常に高貴なお姿です」
それだけを残して視線を外す。ミーシャも無言のまま肖像画から目を離し、二人は廊下を後にした。背後で、肖像画の男性だけが静かにこちらを見つめていた。
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宿に戻ったアリスは、自室の机に向かった。
灯りを点け、羊皮紙とペンを取り出す。窓の外はまだ薄明るく、夕闇が街を包み始めている頃合いだった。
「……今日の調査状況、まとめておこう」
小さく呟き、アリスはペンを走らせた。
研究室の様子。ティルの言葉。データファイルの内容。整理しながら書き出していくと、頭の中の情報が少しずつ形になっていく気がした。
だが数行書いたところで、急に強い眠気が襲ってきた。
「……え? まだ夕方なのに……」
瞼が鉛のように重くなる。指先から力が抜け、ペンが滑り落ちて床に小さな音を立てた。視界がぼやけ、羊皮紙の文字が滲んでいく。
(なに、これ……)
思考が溶けるように途切れ、アリスの体は机に突っ伏した。深い闇が、あっという間に意識を飲み込んでいった。