アリスの少し優しい世界   作:しあんあるふぁ

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第三話

その日の深夜、アリスは薄手の麻の寝間着に羽織を一枚掛けただけのラフな格好で宿の部屋を抜け出した。長い赤髪は普段のような垂らしではなく、軽く三つ編みにして右肩に寄せている。廊下の松明が揺れるたびに、影が壁に踊った。

 

 

宿の裏手、納屋と物置を兼ねた小さな小屋に灯りが見えた。扉の隙間からは油の臭いと、金属を擦る微かな音が漏れている。

 

 

「よっ。遅くまで精が出るねー」

 

 

扉を開けると、潮風のような乾いた埃が鼻を掠めた。レオンは肩口までの革エプロンを掛け、作業台に向かっていた。聞き慣れた声に振り向きもせず、手の止まらないまま短く応じる。

 

 

「……アリスか。何の用だ」

 

 

昼間の焚き火での一件が、まだ彼の心に棘を刺したままなのだろう。声の奥に張り詰めたものがあり、警戒は解けていない。むしろ、深夜に突然現れた仲間への疑心の方が勝っているようだ。――当然だ。彼女はこれまで幾度も彼の失態をあげつらい、嘲笑に加担してきたのだから。

 

 

「別に。ちょっと気になっただけ」

 

 

傍の木箱に腰掛けようとすると、彼が低く警告する。

 

 

「俺に構うとギルバートやミーシャに何を言われるか分からんぞ」

 

 

言葉とは裏腹に、視線は作業へと戻されていく。アリスは箱に腰を落ち着けながら微笑み返した。

 

 

「ミーシャは『エトワール』に行ったよ。あの子、月に一度は社交場に行くみたい。ギルバートも出かけたけど……あいつは場所言わないから分からないや。バルガスはもういびきで部屋が振動してる」

 

 

指先で耳を突く仕草をする。なるべく冗談めかして言うことで緊張を和らげるがレオンの表情は変わらない。

 

 

「それより何してるの? それ」

 

 

問いかけると、レオンは諦めたように息を吐いた。

 

 

「……装備の整備だ」

 

 

広げられた布の上には剣帯や魔術師用のグローブ、使い込まれたナップサックなどが並んでいた。彼の指先は迷いなく動き、ギルバートの剣の鍔を調整し、ミーシャの魔石ケースの蝶番を滑らかに潤滑させる。油の香りとともに、工具の触れ合う音が静かな夜気の中に融けた。

 

 

「こんなに遅くまで。それにみんなの分まで」

 

 

アリスが呟くと、レオンは工具を置いて両手を拭った。

 

 

「必要なことだ。1人の準備不足が思わぬ被害を招くこともある」

 

 

言い方が淡泊なせいで伝わりにくいが、その腕は確かだ。鞘の合わせ目まで慎重に確認し、布のほつれは縫い直されている。昼間の非難など無かったかのように黙々と――いや、違う。あえて無視しているのだろう。

 

 

アリスの心中に、複雑な感情が波紋を作った。この誠実さをきちんと示せば、仲間たちの態度も変わるのではないか。だが“無能”というレッテルを貼られた者は、多少の成果を示しても認められることはない。特に権威主義者のギルバートと狭量なミーシャがいる限りは。そしてそのレッテルは自分が貼ったものでもある。内心で溜息をつく。

 

 

ふと目線を落とすと、レオンの左腕に引っ搔き傷が見えた。昼間の戦闘で負ったものだろう。血こそ止まっているが、肉の裂け目が白く滲み始めている。

 

 

「あ、それ……」

 

 

指摘するとレオンは顔をしかめ、視線を逸らした。

 

 

「大した傷じゃない」

 

 

「ダメだよ。ばい菌でも入ったらどうするの」

 

 

立ち上がり強引に左腕を引き寄せると、抗う暇もなく右手を当てる。緋色の光が輪郭を取り、柔らかく脈打つ。これがアリスの《レアスキル》――他者が持たない独自の治癒力。魔石を介さず直接生命エネルギーを与えることができる。

 

 

この世界では魔法のほとんどが魔石によって行使される。低級魔石は万人が使え、炊事洗濯に役立つ温水や光源を提供する。対して高級魔石は資質を持つ者だけが真価を発揮でき、例えばミーシャやギルバートであれば竜種ですら焼き尽くす熱を生む。だが資質の乏しいアリスが同じ石を使ってもせいぜい暖炉火程度しか起こせない。

 

 

唯一、アリスが高い素養を持つのが《防護(プロテクション)》だ。アリスが他者に施した結界は時間の経過による減衰か致命的な衝撃で剥がれるまで継続し、術者本人を起点とするほど、要するに術者に近ければ近いほど安定する。パーティにおいてアリスの存在意義はそこだった。火力では及ばずとも、この能力がある限り誰も簡単には死なない――はずだった。

 

 

「防護切れてたんだね。ごめんね」

 

 

謝罪の言葉にレオンは怪訝そうな顔をする。

 

 

「どうした、夕方から様子がおかしい。まさか本当に何か企んでいるのか」

 

 

「うるさいなあ。はい、終わったよ。痛くない?」

 

 

「……ああ」

 

 

手を離すと皮膚は滑らかに再生しており、あとに残るのは微かな痕のみだ。アリスは額の汗を拭いながら尋ねた。

 

 

「あたしも何か手伝おうか?」

 

 

「必要ない。早く寝ろ」

 

 

にべもない返事。けれど以前より棘がないと感じるのは気のせいではないだろう。アリスはくすりと笑う。

 

 

「はいはい。おやすみ」

 

 

立ち上がり、羽織を翻して小屋を後にした。夜風が頬を撫で、髪をさらう。星空は遠く瞬き、明日への期待と不安を同時に孕んでいる。

 

 

(ま、どうせなら良い人生送りたいしね)

 

 

胸の中で呟き、宿の階段を静かに上がった。背後の納屋からは金属がこすれ合う穏やかな旋律が続いていた。

 

 

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