その後数日は、珍しく大きな波風も立たなかった。原生地域の探索が半月を要して一区切りつき、採取した高級魔石の原石と魔獣の素材が見込み以上の値を付けたのだ。パーティの金庫が潤えば、ギルバートの不機嫌も薄らぎ、ミーシャの口元も緩む。決定的な亀裂が生じる前の、危うい平穏が続いていた。
休暇を迎えた今日、まだ昼も半ばというのに、ミーシャは既に高価な装飾品の物色とカフェ巡りに興じるため町へ消え、バルガスは賭場の匂いに鼻を鳴らして出歩いている。ギルバートは相変わらず行き先を告げずに姿をくらました。全員が宿に戻るのは夜半頃だろう。
そんな中、アリスは宿の厨房に立っていた。
朝市で買い集めた材料を前に、試行錯誤を繰り返す。穀物から搾った醤油のような液体を見つけて購入したが、口に含むと塩辛さはあってもうま味は薄く、渋いエグみが舌に残るばかりだった。軽く舌打ちして、仕方なく容器を脇へ押しやる。
「仕方ない。別の手を使おう」
鶏卵とヤギの乳、岩塩、干し魚から取った出汁を混ぜ合わせ、鉄板に脂を引いて卵焼きを焼く。低級魔石のおかげで温度管理は正確で、2026年のキッチンと比べても遜色のない便利さだ。ふんわりと膨らんだ卵焼きが焼き上がると、隣の鍋で炊き上げた米を手に取る。
アルフィリアでは米の食べ方が異なる。粉末にして小麦粉代わりにするか、固く炊いてサラダ風に仕立てるのが一般的で、日本のような「握って食べる」文化はない。市場の奥で見つけた短粒種の米を、有栖の記憶を頼りに炊いてみたのだ。箸でつついてみると柔らかさと粘りがちょうど良く、手で丸めても崩れることはなかった。
「よし」
岩塩で味をつけた小ぶりなおにぎりをひとつ口に運ぶ。懐かしい素朴な塩気と仄かな甘みが喉を通った。
「うん、悪くないじゃん」
干し魚を炙って刻み、中に忍ばせたおにぎりを何個か並べていく。続けて何も入れていない具なしのおにぎりも数個作り、沸騰させた湯でゆがいたアオナの葉で包んだ。海苔の代用品ではないが、酸味のある葉はシャキッとした歯応えを与えてくれる。
さらに鉄板で肉巻きに取り掛かる。軽く塩抜きした猪肉の脂身の塩漬けを取り出し、薄くスライスする。その上に茹でたゴールデンキャロットの細切りとアスパラブロッコリーを巻いて串に通し、ゆっくりと焼き始めた。猪肉特有の芳醇な香りが漂い出す頃合いに、年季の入った宿の女将が厨房に入って来た。
「あらあら、良い匂いがするわね」
「あ、お疲れ様です! すみません、厨房使わせてもらっちゃって」
アリスが慌てて頭を下げると女将はふふっと笑った。
「いいのよ。あなたには魔石を分けてもらったしね」
女将は弁当箱の中を覗き込み、「それにしても変わった料理ね。異国のお弁当かしら」と微笑む。
「ええ。ずっと遠くの国です」
アリスは笑って受け流す。肉巻きを詰め終わると、女将は袋から林檎を二つ取り出して寄越した。
「デザートにどうかしら。異国の料理にも合うかもしれないわ」
「ありがとうございます!」
礼を述べて林檎をハンカチに包み、弁当箱と水筒と共に鞄に入れる。宿を出て小道を辿ると、訓練場の跡地——寂れた空き地があった。休暇になるとレオンが一人で剣を振るっている場所だ。
朽ちかけた木枠を潜ると、レオンは真剣な面持ちで太刀を閃かせていた。研ぎ澄まされた動き、呼気と呼気の合間で鋭く交錯する足捌き。それは鍛錬と言うより「戦いへの執念」そのものに見える。アリスは胸の奥で息を呑んだ。
(本当に稽古バカ……)
同時に、その鬼気迫る表情に過去の記憶が蘇りそうになる。レオンの怒号、振り下ろされる刃。恐怖で震える膝の感覚。けれど——いま目の前にいるのは苛烈な復讐者ではない。ただ一心に剣を磨く一人の青年。アリスは軽く息を吐き、平静を取り戻した。
「やっほー。頑張ってるね」
手を振るとレオンが剣を止めた。振り向いた表情にはまだ少し警戒が残っているが、先程まで漲っていた研ぎ澄まされた殺気は霧散している。
「またお前か……」
呆れた溜息と皮肉げな視線。それでも刃先は鞘に収まっていた。
「せっかくの休暇なのにさ。遊びに行ったりしないの?」
「いらん。鍛錬をしていた方が落ち着く」
レオンは眉間を寄せ、やれやれと独りごちるように言葉を続けた。
「冷やかしに来ただけか。お前も暇人だな」
「ぶー。違いまーす」
鞄から包みを取り出す。
「なんだそれは」
レオンが怪訝な顔をするので得意げに胸を張った。
「差し入れだよ。お弁当。あたしが作ったんだよ」
「アリスが料理……?」
「うん。レオンってお昼は干し肉とかだよね。お腹すいてるでしょ」
「……腹を空かせているのはお前の方じゃないのか。数日前も――」
「あーもー! あの時のことは良いじゃない! ほら!」
包みを押し付けると、レオンは受け取ったまま呆然としている。アリスは敷物を広げ、「さ、座って」と促した。レオンが膝を折ると、隣にちょこんと腰を下ろす。
「開けてみてよ」
弁当箱を開けた途端、レオンの眉がわずかに跳ねた。
「これは……?」
「えへへ。私の故郷で習った料理なの」
「お前は俺とほぼ同郷の出身じゃなかったか?確か2つ隣の村の……」
「うるさい! 細かい! いいから食べて!」
手渡されたおにぎりを恐る恐る頬張るレオン。咀嚼を続けるうちに、口元が緩んだ。
「む……食えなくはない」
「美味しい?」
「……食えなくはない」
そう言いながらも卵焼きや肉巻きへ次々に手を伸ばしている。アリスは満足げに微笑み、弁当箱の隅に添えた白いソースを指さした。
「おかずにそのソース付けて食べてみてよ」
——これはマヨネーズを模した試作品。卵黄に酢と柑橘果汁を合わせ、油を少しずつ撹拌しながら泡立てて岩塩や香辛料で味を調えたものだ。アルフィリア風にアレンジしているが、味はそれなりに再現できている。
レオンは怪訝そうにソースを掬い、肉巻きに添えた。
「これは……食えるな」
「もー、素直じゃない」
全て平らげると、アリスは熱いお茶を水筒から注ぎ渡した。低級魔石で保温されていたお茶は、春の花園のような香気を放っている。レオンが喉を潤している最中、アリスは林檎を一つ手渡した。
「これ、宿の女将さんからだよ」
二人並んで頬張る。シャクッと心地よい歯応えが小気味よかった。少しの沈黙の後、レオンが静かに口を開いた。
「本当に……何かあったか?」
「えっ」
「何か心配事か。それともギルバートやミーシャと揉めたり」
「あはは。ないない」
レオンはアリスをじっと見据え続ける。
「しかし……」
「杞憂だよ。でも心配してくれてありがとね」
レオンは僅かに首を傾げただけで何も言わない。しばしの静寂。近くの木から小型のリスが降りてくると、アリスは残りの林檎をそっと地に置いた。リスは鼻をぴくつかせながら齧りはじめる。
「レオンはさ。そんなに訓練してなりたいものとかあるの?」
「今を生きる力が欲しいだけだ。先のことなんて考えてない」
「ふーん」
「お前こそどうなんだ」
「あたしは……退屈な家から出たかっただけ。冒険者としてパーティにいれば実入りもいいし」
「そうか」
再びの沈黙。リスの頬袋がぱんぱんに膨らんでいくのを眺めながら時が流れる。
弁当を片付けながらアリスは立ち上がる。
「あたしもう戻るね。まだ訓練するの?」
「ああ」
「そう。頑張ってね」
踵を返した刹那、
「アリス」
呼び止められて振り向く。
「ん?」
「……悪くなかった。ごちそうさま」
アリスは軽く歯を見せてにっと笑った。
「お粗末様」
鞄を抱えて宿への道を戻る。胸の奥に小さな火が灯っているのを感じながら。