アリスの少し優しい世界   作:しあんあるふぁ

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第六話

あの日から二日後の朝だった。

 

 

薄いカーテンを縫う日差しに目を細めながら、アリスはベッドに腰を下ろした。左足に僅かな鈍痛が残るが、日常生活に支障をきたすほどではない。手当てと、自身の癒しの力が及ぼした効果だ。窓を開けると、街の喧騒とともに乾いた空気が流れ込んでくる。

 

 

「……やっぱり、この世界の空は低いな」

 

 

呟きは誰にも届かず、朝風に攫われた。

 

 

原生地域の探索は、ヒーラーであるアリスが離脱したことでしばらく見送られていた。昨日の朝食の席で、ギルバートは婉曲に、しかし明確に不満を表明していた。

彼曰く「錆びたネジが何本壊れるより、主歯車が勝手に火を吹く方が致命的だ」

――つまり「足手まといの剣士より無茶な行動で離脱するヒーラーの方が厄介」ということだった。

 

 

「まあ、彼らしいよね」

 

 

苦笑しながら室内を見渡す。蒸留装置が三脚に固定され、干した薬草と試薬が整然と並ぶ。ここ数日の“空白”を利用し、アリスは錬金術の作業台を復旧させていた。疲労回復効果を持つポーションの抽出を一通り終えて、蒸留装置から試験管に注ぐ。琥珀色の液体が微かに泡立ち、瓶底の沈澱物が渦を巻いた。

 

 

「さて――仕上げ」

 

 

アリスは右手の指先に淡い緋色の輝きを灯す。癒しの力は傷の修復に用いるだけではない。毒素の分解や不純物の沈殿促進といった化学作用も促進できるのだ。溶液の入った試験管に触れた瞬間、濁りが沈降し液体の透明度が一気に増した。

 

 

「あはは……すごいなアリスさん……じゃなくて、あたし」

 

 

思わず零れた一人言に苦笑する。普通の錬金術師なら半日を要する工程を一時間余りで完了させる技術――その素養が自分にあると知ったとき、彼女は確かに驕った。その傲慢さが結局は前世で自身を滅ぼした。だから今回は偽りの謙虚さで傲慢さを覆っていると、彼女は自覚している。

 

 

部屋をノックする音がした。

 

 

「はーい」

 

 

返事をすると同時に扉が開く。入ってきたのはミーシャだった。短めの茶髪にヘアピンを付けて、淡青色のケープの裾を揺らしながら歩み寄る。

 

 

「おはよ。思ったより真面目にやってるのね」

 

 

ミーシャは部屋を見回し、蒸留器と乾燥中の薬草を眺める。その声にはいつもの挑発的な響きが薄く、代わりに何かを探るように揺れていた。

 

 

「気分転換も兼ねてね。収入の足しになればギルバートの機嫌もちょっとは良くなるでしょ」

 

 

アリスが笑いかけると、ミーシャはちらりと目を逸らす。

 

 

「……そう」

 

 

「で、何か用? 怪我の心配してきてくれたの?」

 

 

「ばか。怪我なんてあんたならすぐ治るでしょ」

 

 

「まあね」

 

 

アリスは肩を竦めた。ミーシャの言葉の裏を察するのは難しくない。プライドの高い彼女が“心配”を正面から認めることは稀なのだ。

 

 

「……これ、あげるわ」

 

 

ミーシャはバッグから小さな硝子瓶を取り出し、テーブルに置いた。蓋の周りには花模様の焼き印が施され、薄紫色の液体が満たされている。

 

 

「香水?」

 

 

微かに漂うのは、乾いた木のような落ち着きの中にすうっと鼻に抜ける清涼感がある芳香だった。

 

 

「昨日、商会で買って来たの。ストレス緩和の成分が入ってるって。怪我って精神も消耗するでしょう?」

 

 

ミーシャはそっぽを向きながら言う。頬が僅かに紅潮しているのが見て取れた。

 

 

「ありがとう。ふふっ……すごく嬉しい」

 

 

素直にお礼を言えばミーシャは少し驚いたような表情を見せた。そしてすぐに薄く笑みを浮かべ、

 

 

「別に。ただの気まぐれよ」

 

 

いつもの棘が含まれてはいたものの、声音は柔らかかった。アリスは思わず微笑む。

 

 

「ねぇミーシャ。よかったら今日の午後、一緒にお茶でもしない? このお礼ってことで奢るよ」

 

 

「……まぁ。構わないわ。でも奢るの私だから」

 

 

ミーシャの口角が上がった。

 

 

「了解。じゃあ十三時に宿の玄関で」

 

 

「遅れないでよ」

 

 

「もちろん」

 

 

アリスは瓶を大事そうに抱え、香りをひと嗅ぎした。心を落ち着かせる香りに包まれた刹那、ふと前世の情景が脳裏を過ぎる。レオンだけでなく、ミーシャやバルガスをも心中では見下していた。己の才能を過信し、人の情を嗤っていた日々――それが終わる瞬間を思い出してしまう。

 

 

(今度は間違えないようにしないとね)

 

 

固く誓いながら、彼女は硝子瓶の蓋を静かに閉じた。

 

 

---

 

 

太陽が天辺を越えるころ、二人は街の中心に位置する『黄金樹亭』へ向かった。白亜の円柱に蔦が這う洒落た佇まいは、庶民向けと言いながらも客層は富裕層が多い。ギルバート御用達の店らしいと聞き及んでいる。

 

 

店内は大理石の床が磨き抜かれ、中央には噴水を模したインテリアが涼を演出していた。ウェイトレスに案内されたテラス席からは噴水越しに往来が望める。

 

 

「ここのアップルタルト、絶品らしいわよ」

 

 

メニューを見ながらミーシャが言った。

 

 

「じゃあそれにしようか。あとハーブティーと……ミーシャは何飲む?」

 

 

「私はカフェオレ。角砂糖は3つね」

 

 

ウェイトレスがオーダーを受けた後、暫し沈黙が落ちる。最初に口を開いたのはミーシャだった。

 

 

「ねぇ。アリスさぁ――あんた最近変わったよね」

 

 

テーブルに置かれたコースターを見つめながら続ける。

 

 

「昔はもっと冷淡だった気がする。人の怪我なんか『死ぬほどの傷じゃないわ』って一蹴してたくらいでしょ?」

 

 

アリスは小さく息を吐き、視線を遠くに投げる。

 

 

「そんなこと言ってたっけ? ……いや。言ってたかも、うん」

 

 

前世の記憶が蘇る。確かに“私”は他人の痛みに鈍かった。

 

 

「でもさ。やっぱり痛いものは痛いじゃん。治せるならそれに越したことはないし。耐えて当たり前なんて――今じゃ思えないよ」

 

 

ミーシャは目を丸くした後、呆れたように唇を歪めた。

 

 

しかし嘲りではない。むしろ安堵のようなものが滲んでいる。

 

 

「……ま。別に悪い変化じゃないけど」

 

 

そこで丁度ウェイターがオーダーを運んできた。湯気立つカフェオレとハーブティー。タルトの切り目から果肉がきらめき、表面には艶めく蜜がかかっている。

 

 

一口タルトを掬い上げたミーシャが訊ねる。

 

 

「甘くなったのはあいつのせい?」

 

 

フォークの先で指すようなジェスチャーするミーシャ。

 

 

「え?」

 

 

「レオンのことよ。最近やけに親しくしてるじゃない」

 

 

「それは……否定はしないけど。きっかけはいろいろあって」

 

 

「きっかけって何?」

 

 

「秘密♪」

 

 

アリスがわざと軽く返すと、ミーシャは露骨に顔をしかめた。

 

 

しかし追及せずタルトに没頭し始める。暫く咀嚼してから、ぽつりと言った。

 

 

「ま、いいけどね。……でも気をつけなさいよ。あいつ変に拗らせてるし。そもそも何考えてるか分からないのよ」

 

 

「ふふっ、あたしもそう思う。けど面白いよ?」

 

 

「あんたも大概おかしいわよ」

 

 

「そうかなあ」

 

 

ミーシャが笑ったそのとき、カウンター席の男たちの声が耳に入った。

 

 

『──おいおい聞いたか。また北区で"幻影粉"吸ってた商人が病院送りだ』

 

『ここんところ毎週一件はあるな。ギルドも手が回らないってよ』

 

 

「またその話? 物騒ねぇ」

 

 

ミーシャは心底辟易した顔をする。

 

 

「知ってるの?」アリスが問うと、

 

 

「詳しくないわ。ギルバートが夜会で話題に上がったとか言ってたけど」と答えた。

 

 

「夜会……」

 

 

「お偉いさんの集まり。アリスも招待されることあるでしょ?」

 

 

「そうだっけ……」

 

 

曖昧に返しながらも、アリスは記憶の奥を探る。確か前世でもあった――が、参加しなかった。面倒だったし、そんな場に赴くギルバートを内心で良く思ってなかった。しかし今思えば、彼はそこで何かを得ようとしていたのかもしれない。

 

 

カフェオレを啜りながらミーシャが続ける。

 

 

「とにかく治安悪いと儲からないのは皆同じ。私たちにも影響出るでしょ」

 

 

「……うん。そうだね」

 

 

話はそれで終わり、他愛のない日常話に移っていく。だがアリスの脳裏には、幻影粉という名が妙な引っかかりを残していた。

 

 

会計を済ませ外へ出る。噴水から滴る水音と昼下がりの陽射しが交錯する中、ミーシャが振り返った。

 

 

「それじゃ私は別に用事があるから」

 

 

「うん、今日は付き合ってくれてありがと」

 

 

「私が奢ったんですけど?」

 

 

ミーシャが不満げに口を尖らせる。

 

 

「ふふっ。またよろしくね」

 

 

アリスは笑って手を振る。ミーシャも小さく手を上げ、人混みへ消えて行った。

 

 

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