黄金樹亭でミーシャと別れた後、アリスは錬金術の素材と日用品の買い出しに明け暮れた。市場の奥の専門店で乾燥薬草を幾つか、雑貨屋で麻の布と蝋燭を買い求め、宝石細工師の工房では魔石の研磨具を受け取る。気づけばポーチはずっしりと重く、西の空は茜色を溶かして藍へと移ろいていた。
「……遅くなっちゃった」
路地裏の水たまりに映る空を見上げながら、彼女は小さく呟いた。ポーションの納品は明日にして、今日はもう休もう。それに、レオンに手伝ってもらえば荷物も楽だ。そんな打算を胸に秘めつつ、宿の扉を開ける。
「おお、嬢ちゃん。帰ったのか」
1階の酒場では、バルガスが大柄な体をカウンターに預けていた。片手に握る樽のように大きいジョッキは既に半分以上空き、頬は紅潮している。
「ただいま、バルガス」
「まあ座れよ。一杯どうだ」
「じゃあ、一杯だけね」
勧められるまま席に着くと、ぬるめの蒸留酒が無造作に注がれた。酒精の刺激が喉を滑り落ち、一日の疲労がふわりと弛緩する。
「結構強いね」
「ああ。だからって酔いつぶれんなよ?」
バルガスが豪快に笑いながら自らも煽る。彼はこういうとき饒舌だ。普段は脳筋呼ばわりされるが、意外と人の顔色をよく見ている。
「そういえば聞いたか」
「何が?」
アリスは口を拭いながら返す。
「レオンの事だよ。金庫番を任されたって話だぜ」
「……レオンが?」
内心で小さな針が刺す感覚。前世では資金管理はギルバートやミーシャが担当しており、無能と蔑まれたレオンが金銭を扱う機会などなかった。不自然に思えて眉を寄せる。
「なんだかんだで信頼されてるってことだろ。アリスだってレオンの事が好きなんだろ?」
突然の言葉にアリスは目を見開いた。
「えっ!?」
「最近はいつも一緒にいるじゃねえか! このバルガス様の目はごまかせねえぜ! ガハハ!」
「違うって! もう!」
アリスは苦笑しながら肩を竦めた。
「だからよ。最近は皆帰りが遅えんだよ。この前はギルバートを歓楽街で見たぜ」
「ギルバートが? 歓楽街に?」
「ああ、あいつもやることやってんだよ」
バルガスがまた豪快に笑う。だがアリスの脳裏には前世のギルバートの姿が浮かんでいた。彼は享楽を嫌悪し、歓楽街へ出向く人たちを「汚らわしい俗物」とさえ揶揄していたことすらあった。その彼が?
「ギルバートは一人で歓楽街に?」
「あ? さあな。女抱えてたかは遠目で分からんかった」
「そう……」
思考が堂々巡りする。探索が滞りギルバートの負担が増えたからレオンに帳簿を任せ、鬱憤晴らしに歓楽街へ行く?私の怪我のせい?彼も男性だ。不自然ではないのか?
だがここで考えても答えは出ない。アリスはグラスを煽って酒をすべて飲み干した。
「ごちそうさま。バルガスも飲みすぎちゃダメだよ」
「こんなん水みてえなもんよ。お疲れさん」
バルガスが手を振る。アリスは大きく膨らんだポーチを抱え直し、2階へと続く階段を昇る。部屋の窓を開ければ、夜気がひやりと頬を撫でた。荷解きもそこそこに寝台へ倒れ込む。枕もとの小机にはミーシャから貰った香水の瓶が薄明かりを浴びていた。
(何だか色々気になることが増えたけど……今は寝よう)
アリスは瞼を閉じる。深い呼吸を繰り返し、心のざわめきを夜へと溶かしていった。
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翌日、商会の重い扉が閉まる音は、夕暮れの喧騒にあっさり吸い込まれていった。アリスは懐から取り出した懐中時計型の魔石灯をちらりと見る。針は六時を少し回ったところで、街灯の灯が次々と点じ始める頃合いだった。
「ありがとうねレオン、手伝ってくれて」
横を歩く背の高い青年に、軽く目配せをする。ポーションの納品は彼女一人でも可能な仕事だったが、重い素材箱を運んでくれたのはレオンの厚意——いや、多分義務感だろう。どちらにせよ、有り難いことには変わりない。
「大したことじゃない。それにパーティのためだからな」
相変わらず素っ気ない返事。だがアリスはその横顔に、僅かではあるが緩んだ眉尻を見逃さなかった。
「ふふっ」
「何だ?」
「ううん。ただバルガスから聞いたよ。金庫番を任されたんだって」
「帳簿管理だけだ。鍵の管理はギルバートがやってるからな」
ぶっきらぼうだが、その声色はどこか責任の重みを抱えているようにも映った。
「それでも助かるよ……。じゃあこれお願いね。番人さん」
預託書を手渡すと、レオンはそれを大切そうに懐へしまい込む。本来報酬管理はリーダーのギルバートと補佐役であるミーシャが担うべきものだが、その穴埋めとして彼が選ばれたのなら、やはり信頼の証に他ならない。
レオンが帳簿管理を任せられたのは本当に彼への信頼が高まっているからかもしれない。パーティの雰囲気は明らかに前世より良い。……でもそれは良いことなのだろうか。
アリスは一瞬、歩幅を狭めた。前世でレオンはパーティを追い出されてからクロエという善良な村の娘と絆を育んだ。彼にとってはかけがえのない絆だっただろう。もし彼がパーティから抜けない事でその絆がなくなってしまうのであれば——。
思考に沈みかけたその時、路地裏から微かな悲鳴が耳を突いた。
「なんだ?」
レオンと同時に振り向き、二人はほぼ同じ速度で暗がりへ足を踏み入れる。奥の木箱にもたれるようにしてうずくまる黒髪の少女。傍らには小柄なフードの少女が必死の形相で支えている。フードの端から鮮やかな金髪をのぞかせるが、その顔は巧妙に隠され、素顔を窺い知れない。
「あっ!助けてください。私の友人が急に倒れたんです!様子が……すごくおかしくて!」
金髪の少女が助けを求める。涙で潤んだ瞳を大きく見開き、彼女は縋るようにアリスとレオンを見上げていた。ぽろぽろと零れ落ちる雫が、怯えに震える白い頬を濡らしている。その必死な眼差しには、友人を想う純粋な悲しみと恐怖に満ちているように見えた。
アリスは膝を折り、脈を取る。汗腺が破裂したかのように大量の発汗、土気色の顔面に混濁した瞳孔。うわ言を呟く唇は紫を通り越して黒ずみつつあった。
「これは……?」
レオンが呻くように呟く。
「大丈夫」
アリスは右手をかざす。緋色の光が少女の体表を奔り、腐敗じみた毒気がじりじりと退いていく。隣で金髪の少女が息を呑む気配。だが治療の効率は著しく悪い。体内の毒が凝縮しすぎて循環路が詰まっているのだ。
(毒性が強い……!もう少し力を集中させないと!)
集中のあまり全身の血液が逆流するような感覚。額から汗が滲み、視界が一瞬白く弾ける。緋色の光がより強くなり黒髪の少女を包み込む。脇で見守る金髪の少女は目を丸くした。
「すごい……!」
そして黒髪の少女の呼吸は確実に穏やかになり、五分と経たぬうちに少女は寝息を立て始めた。
「もう大丈夫だよ」
金髪の少女に微笑みかけると――彼女は先刻までの悲痛な面持ちから、一転し冷めたような無機質な目に変わっていた。しかしそれも束の間、アリスがその違和感に気づくよりも早く、再び瞳を潤ませる。
「どうしたの?」
「あっ!いえなんでもないです!本当にありがとうございました!あなた方は命の恩人です!」
金髪の少女はぺこりと頭を下げた。その様子は先ほどの友人を想う少女から何ら違和感がない。
「そう、良かった。ところでこの子の症状……」
アリスが問いかけた刹那、立ち眩みに襲われ足元が揺らぐ。咄嗟にレオンが肩を支えた。
「大丈夫ですか!?」
金髪の少女が焦った声を上げる。
「うん、ちょっと疲れちゃって……。レオン、彼女を病院に連れて行ってあげて」
「いえ、大丈夫です。彼女は私が送ります」
予想外に毅然とした拒否。さらに少女はいとも容易く意識のない大人の女性を背負ってみせた。華奢な体躯に不釣り合いな膂力だ。
「でも……」
「彼女の家も知っているので。あの、ところで私はエマっていいます。あなた方は……」
「私はアリス、こっちはレオンだよ」
「重ね重ね、ありがとうございました、このご恩は忘れません」
エマと名乗った少女は深々と一礼し、軽々と友人を背負って夜闇に消えた。去り際に、フードの袖口が僅かに捲れ、翡翠を思わせる鮮やかな緑の薔薇の刺青がちらりと見えた。まるで月光に妖しく咲く花。その光景が網膜に焼きついたまま、アリスは妙に落ち着かない気分になる。
「あの子……力持ちだね……」
「ああ」
レオンは同意するように頷いた。
「たびたび無茶しすぎだ」
「ごめんね、ギルバートには黙っておいて……」
「それにしても、あの女……」
「うん、多分『幻影粉』の中毒症状だと思う。心配だよね……」
「いや、そっちじゃない。もう片方の方だ」
レオンは視線を虚空に流しながら言った。
「フードの子?彼女は特に異常はなかったよ」
「そうじゃない。あの女の服のふくらみがな……」
「えっ!?レオン、そんなとこ見てたの!?確かに可愛い子だったけど……」
「もういい……」
レオンはそれ以上の追及をやめる。アリスはレオンに支えられながら、他愛のないやりとりを交わしながら宿へと向かう。
夜空の星屑は静かに瞬き、二人の影を舗道に長く引き延ばしていた。