第八話です。
中盤までのプロットとエンディングの構想はできているので、週1,2回くらいの更新を続けられたらなと思います。
商会の納品を終えた翌日の午前中、アリスは宿の部屋で姿見を見ていた。普段の白と黒が基調のローブ姿ではなく、動きやすい軽装に身を包んでいる。いつもは流している長い赤髪も、後頭部で高く結い上げ、ポニーテールにしている。頬に落ちる数本の髪を指で払い、身軽さを確かめるように軽く1回ジャンプをする。
「うん、これなら動きやすそう」
鏡に映る自分を見つめ、小さく頷く。有栖の記憶の中で、高校時代に体育の授業を受けていた頃の格好を思い出しながら選んだ服装だ。この世界の基準からすれば、どこか生地の足りない物乞いの少女のような無防備さに見えるかもしれないが、今はそれでいい。
「……さてと」
アリスは部屋の隅に立てかけられた木剣を掴んだ。市場の道具屋で安く買い求めたもので、まだ樹皮の香りが残っている。重さは本物の片手剣の三分の一ほどだろうか。振り回して慣れるまで、きっと時間がかかる。
それを手に取ると同時にカバンを肩にかけた。朝仕込んでおいたお弁当を忘れずに。今日はサンドイッチ。中身は厚切りのハムと、刻んだハーブを練り込んだチーズ、それに軽く燻製にした鳥肉、新鮮な野菜を挟んだ。朝市で買い込んだばかりのライ麦パンはまだ微かに温かい。
部屋を出ると1階の酒場ではまだ宿の主人が掃除をしている最中だった。挨拶だけ交わし宿の扉を開ける。朝靄はとうに晴れ、太陽が石畳を照らし返している。目的地はいつもレオンが剣を振るっている訓練場跡地。そこを目指してアリスは街の喧騒を掻き分けるように駆け出した。
朽ちかけた木枠を潜ると、いつも通りレオンが剣を振っていた。今日は鎧ではなく簡素なシャツを纏い、額にはうっすら汗が光っている。呼吸の律動と剣先の走る音が重なり合い、一挙一動が空気を切り裂く。アリスは心臓が鼓動する音を意識しながら声をかけた。
「おはよ!」
レオンが振り返る。視線がアリスの軽装を追った瞬間、彼の眉間が僅かに動いた。
「……その恰好は何だ」
問いには、呆れと戸惑いがないまぜになった響きがあった。
「レオン師匠! よろしくお願いします!」
アリスは凛と声を張り、姿勢を正した。拍子に背中の留め具が軋みを上げる。ポニーテールが勢い余って肩を叩き、少し恥ずかしさを覚えながらも笑顔を作る。
「この前みたいに皆の足を引っ張りたくないの。護身術ってほどじゃなくても、最低限、獣の攻撃くらい少しは捌けるように……お願い!」
「俺なんかに教わるな。鍛錬はしてるが指導者じゃない」
レオンは剣を肩に預けたまま冷静に返す。しかしアリスは引き下がらない。
「でも私、武器を持ったこともなくて」
「だから無理だと言――」
「今日だけでいいから! 半日でも!」
有無を言わせず身体ごと一歩踏み出し、木剣を差し出す。しばらく見つめ合いが続いた末、レオンは溜息とともに剣を木に立てかけた。
「……付き合ってやる。貸してくれ」
木剣を受け取ると数度振って重心を確かめ、「軽すぎるな」と小さく唸る。彼のその言葉に、アリスの顔がぱっと明るくなった。
「じゃあ師匠! 早速始めましょう!」
「師匠はやめろ。まずは構えだ。利き手で握れ」
教えが始まると、アリスは言われるがままに身体を動かした。握りの位置、肘の角度、足の開き具合。レオンの指示はシンプルだが正確で、無駄がない。しかし剣技に慣れないアリスは何度か体勢を崩し、ついには自重を支えきれずに足をもつれさせた。
「ごめんっ。あまり動いてなかったから身体硬くて……!」
両手を地面について肩で息をするアリスの耳に、靴底を擦る音が近づいた。レオンの逞しい腕が脇の下をくぐり、軽々と身体を持ち上げてくれる。
「……いいから続けろ」
至近距離。レオンの体温がすぐそこにある。シャツからかすかに香る汗の匂いと洗剤の匂い。前世で恐怖したはずの存在が、今はただ真摯にこちらを支えている。一瞬、動悸が高まる。だがアリスはそれを意識から振り払うように再び木剣を握りしめた。
それから、訓練は午前の日差しが頂点を過ぎる頃まで続いた。アリスの体力はとうに限界を迎えており、額から滴る汗を拭いながら、ついに喘ぐように申し出る。
「はぁ……ごめん、今日のところはここまでにしても……?」
「駄目だ。少なくとも半日が約束だろう」
レオンは淡々と宣告した。
「ですよね……!」
意地と諦めの中間で笑いを漏らしつつも、アリスは足を引きずるように立ち上がった。
休憩を挟みつつ素振りを終えると簡単な実践稽古が始まる。レオンもその辺の木の棒を拾い上げ、
「ゆっくり振るから止めてみろ」
と構えを取った。瞬間――アリスの視界がぐらりと揺れる。トラウマが堰を切ったように溢れ出した。前世で自分を斬ったレオンの姿。迸る鮮血。千切れ落ちる右腕。呼吸が乱れ、木剣を掴む指先が白くなり、右手に力が入りにくくなる。レオンはアリスの異変に気づき、即座に構えを解いた。
「……いったん休め。何か見えているんだな」
「……ごめん。でも立ち止まってる場合じゃ」
「無理をするな。剣を振るのは、恐怖に怯えないためだ。少しずつでいい」
レオンの声は低く、しかし確かな力を持っていた。彼はアリスの肩に手を置き、そのまま軽く叩く。
「……うん」
アリスは俯きながら頷いた。
レオンの大きな掌が、今のアリスには救いのように感じられた。過去の記憶と現在の状況がまだ整理しきれていない。それでも彼の温もりは本物だと信じたい。
アリスの息が整った頃を見計らうようにレオンが告げた。
「一度、実際に見える範囲で本気を出してみる。参考になるかは分からんが」
そう言ってレオンは剣を構えて、重心を落とす。次の瞬間、剣先が風を割った。目で追うことすら困難な高速の斬撃。金属が風を斬る独特の甲高い音。剣戟の残像が陽炎となって立ち上る。アリスは目を見開くしかできない。剣技ならギルバートにも全く劣らないだろう。
「すご……。やっぱりレオンは強いね」
「鍛錬を欠かしたら死ぬだけだからな」
返された言葉は飾り気がなく実直だ。それからしばらくレオンは無言で型を演じ続けた。アリスはその一挙手一投足を見つめながら、自分もこの領域を目指すべきなのか考える。いや、“目指す”のではない。“たどり着けないが近づきたい”という気持ちが芽生えつつあることに気づく。
再開した素振りと基礎訓練を終えるころには陽射しは完全に傾き、アリスはすっかりバテていた。
「明日からは早朝にするか」
「えぇ!? もうちょっとペース落としてもいいかなぁ……」
「甘えた声を出すな。足を引っ張りたくないんだろう?」
「そうだけどぉ……」
口を尖らせるアリスだがレオンの視線は真剣だ。
「あ、レオン。お弁当あるよ」
カバンを掻き分け、包み紙を開くとサンドイッチが顔を出す。しっかりと包まれていたので、まだパンはしっとりしている。レオンはそれを見て少し間を置き、
「……いただこう」
と素っ気なく答えた。二人並んで腰を下ろす。以前は微妙に空いていた空間が今日はずいぶんと狭い。触れそうな肘や膝。レオンが躊躇いなくサンドイッチに手を伸ばす動作も自然だ。
「美味しい?」
アリスが尋ねるとレオンはゆっくり咀嚼した後、
「ああ。美味い」
と言った。
「ふふっ、やっと言ってくれたね」
アリスの笑みにレオンはそっぽを向くが、頬が少し緩んだ気がする。
「アリス」
レオンの方を向くと彼の目が真正面からこちらを見据えている。夕暮れの空気の中で、その視線は静かだが強い。
「お前は盾になろうとするな。俺を盾に使え」
「えっ……」
唐突な言葉にアリスは固まる。
「すぐに駆け付ける」
レオンの言葉は迷いがない。
アリスの心に古い痛みが疼く。前世では彼女は仲間を信じることも敬うこともできなかった。結果、仲間を失い、そして自らの命も失った。その記憶が脳裏を掠めたとき、不意に視界が滲んだ。でもそれは恐怖からの涙ではない。誰かを信じられる喜びから生まれた微熱の雫だ。
「……うん」
小さく頷くとレオンは目を伏せた。しかし次に上げたときには、普段と同じく無表情に戻っていた。
「よろしくお願いします」
「……ああ」
弁当を食べ終わる頃には二人の影法師が長く伸びていた。遠くで夕鐘が鳴り響き、街に夜の気配が忍び寄る。アリスは木剣を丁寧に拭き、空になった弁当の包みをカバンに仕舞った。
「で、明日からもやるつもりか?」
「もちろんだよ。強くなりたいもの」
「馬鹿か。俺が盾になると言っただろう」
「盾を使うにも強さは必要でしょ?」
レオンは軽く息をつき、
「なら徹底的に鍛えるだけだ。ただし寝坊するなよ」
と言って先に立ち上がった。アリスも続いて立ち上がり、夕焼けに染まる空を仰ぐ。燃えるような朱に染まる雲は幻想的でありながらどこか物悲しい。
「約束する。起きれなかったら……罰でも何でも受けるよ」
冗談めかして笑うとレオンは小さく肩を竦め、
「期待せずに待っておく」
と言った。
二人は並んで歩きながら宿への道を辿る。風が通り過ぎるたび、木洩れ日のような笑みがアリスの口元に浮かぶ。不安はもちろんある。しかしアリスの胸には、それ以上に大きくて暖かなものが灯っていた。前世で壊したものを再び築き上げられる可能性。未来を変えられる希望。その灯火を絶やさぬよう、胸の前でそっと拳を握りしめる。
レオンとの間隔はもう随分と短くなった。その距離感だけで十分だと思えた。まだ何も解決していない。ギルバートの不可解な行動や幻影粉の噂。前世との違いに戸惑う部分も多い。けれど今日は、確かに一歩を進めることができた。それだけで充分に大きな成果だと胸を張ろう。
アリスは足取りを弾ませて、レオンの隣に並んだ。
「明日もよろしくね!」
「ああ」
短い応答の中にも確かに宿る意思を受け取って、アリスは満面の笑みを浮かべる。この夜を越えた先にある朝日に向かって、自分は歩いて行ける。そう確信しながら。