宿の石段を登りきったところで、レオンは足を止めて宿の裏手へ足を向けた。
「俺はここで」
「え、部屋に戻らないの?」
「物置で装備の整備をする。何かあったら呼べ」
ぶっきらぼうだが、いつもの優しさに変わりはない。アリスは小さく頷きながら、
「うん。ありがとね」
と言った。レオンは背嚢を肩に掛け直し、短く「ああ」と応える。その背が裏手の暗がりへと消えてゆくのを見届けてから、アリスは宿の玄関を開けた。今日一日でどれだけ汗と埃を吸い込んでしまったことだろう。早く湯浴みをして身を清めたい。
「さてと」
玄関を潜り、階段を上って二階の自室へ向かう。部屋に入ると壁際のタンスから普段着のワンピースとタオルを取り出した。湯浴みの準備を終えて浴場のある東の棟へ急ぐ。廊下の石床がきゅるりと鳴るたびに胸が弾んだ。
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男女別の浴場は夕飯前で利用者が少ないようで、女湯にはアリスのほかに数名の宿泊客がいた。だが湯煙と熱気のおかげで個々の境界は曖昧になる。衣服を籠に放り込み裸身になると、アリスは鏡に映った自分を見つめた。
「うーん……やっぱりちょっと太ったかな……」
腹部を触りながら、つい呟いてしまう。燃えるような長い赤髪と赤瞳。同世代の女性と比べればやや高い背丈。白磁のような肌は湯船に入る前から蒸気で淡く上気している。
掌からはみ出すほどの重みを持った乳房を、タオルでそっと覆う。柔らかい丘陵に指を沿わせれば、沈むような感触と同時に微かな熱が残った。腰回りはくびれてはいるものの、下腹にはなだらかな脂肪の層がある。決して肥満ではないが――。
レオンはどう思うだろうか。ふと彼の無頓着そうな眼差しを思い出す。
きっと「俊敏に剣を振るうには邪魔だ」くらいにしか思わないに違いない。そこまで考えたら思わず苦笑が浮かんだ。
(って……裸でなんて考え事してるのよ……)
頬が薄く上気するのを感じながら、アリスはタオルを持って浴槽へ向かった。
脱衣所を出ると湿った熱気に包まれ、全身から汗が湧き出る感覚が走る。天井近くの窓から差し込む月光が湯気を透過させ銀白の霧を浮かべる中で、体を洗うための小ぶりな椅子に腰を下ろし桶を手に取った。汲んだ湯は指先を軽く痺れさせる温度で芯まで浸透していく。長い髪も泡立てた香油で洗浄し汗と共に汚れを落としていった。
体の隅々まで清め終え湯船に浸かると、湯気が一気に顔へ押し寄せ視界がぼやける。熱い水流が肌を揉みしだくように流れていき、疲労が溶け出すような錯覚を覚えた。今日一日の出来事を反芻するうち「俺を盾に使え」というレオンの言葉が脳裏を占領する。その瞬間不意に心臓が跳ね上がり、頬から耳まで熱波が駆け巡る。彼の真摯な眼差しと声色を想起するだけで恥じらいが全身を苛み、湯舟の中で身を縮こまらせてしまった。
湯船の中で膝を抱えて座り込む。水面を手で弄びながら、波紋に揺れる自分の顔を見つめる。赤い髪と長い睫毛のせいで時折魔女のように見られがちだが今日は少し幼く見える。頬はほんのり上気し紅を刷いたような艶やかさを持っている。唇もぷっくりとした立体感があり瑞々しい。アリスは小さく苦笑いしながら口元を押さえた。
(変だよ私)
けれど不快ではない。むしろ心地よい混乱だ。前世では才能を示す術でしかなかった自分の力が、今こうして誰かを守るために使うことができている事実も。訓練で泥まみれになりながら成長しようと足掻く自分も。そしてレオンと向き合えるようになったことも。全てが新鮮で奇妙で、嬉しかった。
「……よし」
決意を新たに湯船から上がる
身体を拭き上げ、改めて自分の姿を見る。湯上がりの熱気が引き、火照っていた肌が引き締まっていく感覚があり、顔立ちもさっきよりは凛としていた。脱衣籠から服を取り出し身に着けていく。チュニック丈のワンピースに袖を通し革のベルトを締めて髪を整える。
(新しい未来を歩めてるって思っていいよね)
心の中で呟きながら浴場を後にした。廊下に出るとすでに日はほとんど落ちており暗い闇が辺り一面を包み込んでいる。けれどそんな暗闇の中にも活気が溢れているように感じる。宿の酒場から漏れ出てくる光と人々の話し声が聞こえてくるからだ。
(今夜も賑やかになりそうだね)
心の中で呟きながら酒場へ向かう足取りはとても軽かった。
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酒場では酔っ払いたちが杯を交わしているが、カウンター席だけは奇妙な静けさが保たれていた。そこに腰掛けていた人物は背筋を伸ばしてグラスを傾けている。
「あれ、ギルバート。珍しいね」
馴染みの端正な横顔が振り返る。銀糸のような金髪がさらりと肩を撫でた。彼はいつも忙殺されている印象があるせいか、酒場でひとり静かに杯を傾ける姿は少しばかり新鮮だ。
「やあアリス。今日は早かったからね」
「ふーん、座っていい?」
「ああ、もちろんさ」
カウンター越しに店主が目くばせする。ギルバートが何かを差し出すより先に口を開いた。
「じゃああたしは軽めの果実酒をお願い」
「承りました」
店主が小さく頭を下げると同時にグラスが運ばれてくる。酸味の強いベリーと蜂蜜の甘さが控えめに香り立つ。アリスは一口含むとふぅ、と小さく息を吐いた。
「怪我はもう大丈夫かい」
「うん!もう全然大丈夫!迷惑かけてごめんね」
「いや、僕の方も言い過ぎたよ。すまなかったね」
互いに微笑み合いつつ、暫し会話が途切れた。ギルバートは珍しく神経質そうな様子もなく、普段よりも柔和な表情でグラスを揺らしている。
「アリス。後で僕の部屋に来てくれないか。頼みたいことがあるんだ」
「ここでじゃダメなの?」
「落ち着いた場所で話したいからね」
アリスは首を傾げつつも了承した。確かに個室の方が込み入った話はしやすいだろう。
「分かった。じゃあ後でね」
アリスは残りの果実酒を飲み干して席を立つ。ギルバートは微笑を浮かべたまま彼女を見送った。
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ギルバートの部屋は書架と積み重なった羊皮紙で占められている。壁一面に吊るされた紋章旗や銀杯が部屋全体を格式高い空気に彩っていた。
「何か飲み物でも入れようか」
「いや、さっきごちそうになったからいいよ。それで話って?」
アリスが椅子に腰を下ろすとギルバートは机の引き出しから羊皮紙を取り出し静かにテーブルへ広げた。精緻な筆致で記された依頼文にはアリス宛てに複雑な調合法が記載されている。
「ある商人から錬金術の依頼が入っていてね。薬剤の鎮痛作用や効果時間を劇的に高める媒体だ。精製の難易度は高いが君なら難なくこなせるはずだ」
詳細に読むまでもなくアリスの指が僅かに震える。記された成分表には猛毒植物や希少魔石などが列挙され危険性が滲み出ていた。これらを混合することで生まれる媒体は従来の鎮静剤を遥かに凌駕する鎮痛作用と依存性をもたらす代物になることは明白だ。あの“幻影粉”のように。
「……これ。効果を高めすぎて毒性が強すぎるよ。依存性も高い。王都の規定にも違反してるわ」
声が僅かに強張る。だがギルバートは眉一つ動かさず平然とした態度で続けた。
「その分報酬は高い。その商人は君の錬金術の腕や僕らのパーティを信用していてね。契約に対する書類は不要だ。つまり情報の漏洩についても心配はいらない」
「……そういうことじゃない。この媒体から作られた薬を服用し続ければどういう末路を辿るのか。想像はついているはずよ」
つい口調が荒くなるがギルバートは静かな微笑を湛えたままだ。
「それでもその薬を求めている人がいるんだよ。需要がある以上供給が生まれるのは自然な流れだろう」
あの路地裏で、金髪の少女・エマに助けを求められ、黒髪の少女を救った記憶が脳裏に蘇る。あのときは辛うじて救えたがもし救いきれなければ……。いや、それは建前だ。本心じゃない。
救えた喜びや救えなかったかもしれない恐怖よりも、自らの手で不幸を増やすことが嫌だった。痛みを与えることが怖かった。『俺を盾に使え』という巨大な献身をもらって、なおそんなことを思うのは、やはり私が自分の事しか考えていないことの証左だろう。
「ごめん、ギルバート。私受けられない」
「……錬金術は多くの人の渇望を満たし、幸福にするためのものじゃなかったかな?」
ギルバートの声には僅かに失望と寂寥が滲んでいる。
「不幸を減らすためのものよ。幸福は人によって違うけど、痛みは誰だって痛いもの。不幸な人を増やす技術なんてない方がいいわ」
これは前世から薄っすらとは抱いていた思いだった。かつては才能に溺れて見失ってしまった信念の欠片だった。しかし今はこの信念だけは曲げたくないという強い思いがある。
「……君は僕に考えが一番近いと思っていたんだけどな」
僅かな沈黙のあとでギルバートが嘆息混じりに呟く。彼にとってこの回答は意外であったらしい。
「君を変えたのはやはりレオンかい?」
「私は変わってないよ。変わりたいとは、ずっと思ってるけどね」
アリスが静かに、少し寂しげに微笑むとギルバートも困ったように肩をすくめた。
「そうかな。まるで別人のようだけど」
「買い被りだよ。申し訳ないけどこれで失礼するね」
席を立とうとするとギルバートが再度呼び止める。
「……気が変わったら言ってくれればいい」
「あり得ないけどね」
「分からないさ」
アリスは一瞥したのみで無言のまま扉へ向かう。背中にかかる視線を振り払うようにドアノブを捻って退出した。
廊下に出た瞬間ほっと息をつくと同時に背後の扉の鍵が静かに閉まる音が響いた。
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扉を出た途端、斜め向かいの影からミーシャの姿が見えた。淡青の寝巻きの上にショールを羽織り、頬杖をついて壁に凭れている。
「ミーシャ……」
「聞こえてたわよ。大声じゃなかったけど私の部屋の隣だもの」
ギルバートの部屋での会話を聞いてしまったらしい。アリスは多少動揺しながらも努めて平静を装う。
「ギルバートの依頼……どう思う?」
ミーシャは逡巡するように視線を逸らすがすぐに正面を向いた。
「どう思うってあんたが断ったんでしょ? で、私にどう答えてほしいの?」
アリスは少し考え込んだあとに一言だけ返した。
「……正直に」
ミーシャは短く息をつく。
「私はあんたの『ノー』が正しいかどうか分からない。でもあんたがそう決めたならそれはあんたの意思でしょ。それでいいんじゃない」
その言葉は思いのほか素朴で、しかし芯の通った温度があった。アリスは胸の内で何かが解けていくのを感じて、ゆっくりと頷く。
「……ありがと。助かる」
ミーシャは微笑みを浮かべる代わりに視線を落とした。
「おやすみ」
「うん。おやすみなさい」
別れ際、ミーシャがそっと背を向けた時、雨粒が窓ガラスを叩き始める音が聞こえた。それはまるで小さな火種が夜陰に溶けてゆくような静寂だった。