人柱力? いいえ違います。ただの超魔王バールの憑代です 作:華洛
木ノ葉隠れの里の中心部から少し外れた場所にあるラーメン屋「一楽」は、昼時らしい活気に満ちていた。
暖簾をくぐれば、まず鼻を打つのは濃厚なスープの香りだ。豚骨と醤油の混ざった深い匂いに、煮込まれた具材の甘みが重なる。湯気は絶えず立ちのぼり、店主の手際よい動きに合わせて、丼と箸の触れ合う小気味よい音が響く。客たちの話し声も、決して騒がしいわけではないのに、店の空気を確かに温めていた。
その一角で、扇子ヤヨイは目の前の丼を見つめ、ひどく真剣な顔をしていた。
チャーシュー増し。
メンマ増し。
味玉追加。
ネギも多め。
せっかく木ノ葉まで来たのだ。しかも相手は、あの七代目火影が愛したとまで言われる名店である。中途半端な注文をする方が失礼だろう――そんな理屈を自分の中で組み立てた結果、目の前にはなかなか豪勢な一杯が鎮座していた。
「ここが……七代目火影が愛用している伝説のラーメン……」
思わず漏れた声は、半ば感嘆で、半ば畏敬だった。
木ノ葉という里そのものに、ヤヨイは複雑な感情を抱いている。
先祖を辿れば、自分たち“扇子”は、この里にいるうちはの分流だ。血の縁がまったくないわけではない。だが、今のヤヨイにとって木ノ葉は、あくまで話に聞く遠い土地でしかなかった。近しいようで遠く、無関係のようで無関係でもない。そういう曖昧な距離感の場所だ。
けれど、その複雑さも、目の前の丼から立ちのぼる香りの前では少しだけ後ろへ退く。
「いただきます」
箸を割り、麺を持ち上げる。
湯気がふわりと顔を撫でた。ひと口啜った瞬間、ヤヨイの目が大きく見開かれる。
「……おいしい」
それは飾り気のない、率直な感想だった。
麺のコシはしっかりしていて、噛めば小麦の風味がほどける。スープは濃いのにくどくなく、舌の上に旨味だけを残して喉へ落ちていく。具材もまた丁寧で、主張しすぎず、それでいて一つひとつがきちんと役割を果たしていた。
「これが……これが七代目火影の愛した味……!」
少し震える声でそう呟きながら、ヤヨイは夢中で麺を啜った。
傭兵家業をしていれば、食事はどうしても実用本位になる。野営用の携行食、保存の利く干し肉、適当に腹を満たすだけの屋台飯。そういうものが悪いわけではないが、こうしてちゃんと美味しいものに出会う機会は決して多くない。だからこそ、今この瞬間の幸福は、思っていた以上に大きかった。
今日は依頼帰りに木ノ葉の近くまで来ていた。どうせならと変装を整え、少しだけ里へ立ち寄ったのだが――来て正解だった、とヤヨイは心から思った。
「有名店って、やっぱりちゃんと有名になる理由があるんだなぁ……」
しみじみと呟き、レンゲでスープを掬う。熱い。うまい。胃の腑に落ちていくたび、張っていた気まで少しずつ緩んでいく気がした。
その時だった。
「お待たせしたッス」
不意に、すぐ隣から落ち着いた声がした。
ヤヨイはレンゲを持ったまま顔を上げる。
いつの間に現れたのか、黒いプリニーがそこに立っていた。
丸みを帯びた小さな身体。黒い皮。愛嬌のあるはずの外見。だが、その奥にあるものを知っているヤヨイにとって、その姿は決してただ可愛らしいだけのものではない。周囲の客たちは誰も気にした様子を見せていなかった。簡易の認識阻害でも使っているのだろう。相変わらず手際がいい。
「あ、おかえり」
「ただいま戻ったッス」
黒いプリニーはいつも通りの無表情で、ヤヨイの隣に控えた。
「それで?」
「青プリニーたちは全員、幻術をかけて魔界へ帰還させたッス。これ以上、この世界で勝手に騒ぐことはないはずッス」
「そっか。ありがと」
ヤヨイは素直に礼を言った。
あの手の連中は、放っておけば余計なことしかしない。騒ぎを大きくする前に処理してくれる黒色プリニーの存在は、実際かなりありがたかった。
「ラハール側にこっちの情報は?」
「大きな進展はないはずッス。ただ、完全に安心はできないッス」
「だよねぇ」
味玉を半分に割りながら、ヤヨイは小さく頷く。
超魔王バールをその身に宿している以上、追手が本格的に動き出す可能性は常にある。今はまだ静かでも、それは嵐の前の一時に過ぎないのかもしれない。
だが、そんな不穏な話をしているわりに、黒いプリニーの空気はどこか妙だった。
「……ん?」
ヤヨイは箸を止めた。
「どうしたッスか」
「いや」
じっと見上げる。
相変わらず無表情。声も平坦。姿勢も変わらない。なのに、ほんのわずかに――本当にわずかにだが、空気が柔らかい気がした。
「なんだか、良いことでもあった?」
「……特に無かったッス」
返答は即答だった。
しかも声色も変わらない。
だがヤヨイは、ますます怪しいと思った。
この黒色プリニーは、何もない時はもっと無だ。今はそれよりほんの少しだけ、何かがある。
「ほんとに?」
「本当ッス」
「ふーん……」
ヤヨイはじっと見つめる。
黒いプリニーは微動だにしない。実に堂々としたものだ。
けれど、追及しても答えない時は答えない。そういう相手だということも、ヤヨイはもう理解していた。
「……まあ、いいや」
そう言って、再びラーメンへ意識を戻す。
「それより、せっかくだし何か食べる? 一楽のラーメン、美味しいよ」
「自分は結構ッス」
「遠慮しなくていいのに」
「プリニーの身で名店の味を堪能するのは、少々複雑ッス」
「なにそれ」
思わず吹き出す。
黒色プリニーは冗談を言っているつもりはないのだろうが、その真面目さが妙におかしかった。
「真面目だなあ、ほんと」
「ルールは守るべきッス」
「うん、知ってる」
ヤヨイはくすくす笑いながら、スープを飲む。
やはり美味しい。そして隣に立つ黒いプリニーは、やはりどこか少しだけ機嫌が良さそうに見えた。
もっとも、その理由を本人が語ることはなかったけれど。
ヤヨイが最後の麺を啜り終え、満足げに息を吐いた頃。
黒いプリニーが、静かな声で続けた。
「それと、もうひとつ報告があるッス」
「ん?」
レンゲを置きながら、ヤヨイは顔を上げる。
黒いプリニーの声音はいつも通り平坦だったが、内容が軽いものではないことはなんとなくわかった。
「青プリニーたちから得た情報ッス。どうやら魔神エトナが、神樹の実に興味を持ったらしいッス」
「……嫌な予感しかしないんだけど」
ヤヨイは早くも眉間を押さえた。
黒いプリニーは淡々と続ける。
「神樹の実を食べればナイスバディになれる、という情報を掴んだようッス」
「誰だそんな嘘教えたの!?」
思わず声が大きくなった。
店の客が何人かこちらを見る。ヤヨイは慌てて咳払いし、少し声を落とした。
「いや、うん、待って。待って。最悪」
「誤情報である可能性は高いッス」
「高いっていうか、ほぼ確実に誤情報でしょ……」
げんなりと肩を落とす。
だが問題は、情報の真偽ではない。魔神エトナがそれを信じて動くかもしれない、という一点が致命的だった。
「……で?」
「神樹の実に関わる存在として、大筒木一族と敵対を始めた可能性があるッス」
「うわぁ……」
今度こそ、心の底から嫌そうな声が漏れた。
大筒木一族。
この世界において、ほとんど災害そのものと呼んで差し支えない連中だ。そこへ魔神クラスがぶつかる。まともな結果になるはずがない。
「もし本当にやり合ったら、洒落にならないんだけど」
「その通りッス」
「洒落にならないどころか、最悪この星ごと吹き飛ぶでしょ……」
ヤヨイは額を押さえたまま、深々とため息を吐いた。
大筒木一族も十分に規格外だ。だが、魔神クラスもまた別方向にどうしようもなく規格外である。そんな連中が本気で衝突すれば、被害が大陸ひとつで済む保証などどこにもない。
そして何より厄介なのは――
「……あんまり派手にやられると、あたしの中のも刺激されるかもしれないんだよね」
ヤヨイは無意識に、自分の胸元へ手を当てた。
その奥に潜む超魔王バール。
普段は沈黙していても、強大な悪意や破壊の気配には敏感だ。もし魔神や大筒木が本格的に暴れれば、内にいる“あれ”が黙っているとは思えない。
「非常に好ましくない状況ッス」
「ほんとにね……」
せっかく美味しいラーメンを食べて幸せな気分だったのに、一気に胃が重くなった気がした。
店の賑わいは変わらない。湯気も、笑い声も、丼の触れ合う音もそのままだ。だがヤヨイの中では、さっきまでの穏やかな時間が、じわじわと別の色に塗り替えられていく。
「……よし、食べたし出よう。こういう時は早めに動いた方が――」
ヤヨイが席を立とうとした、その瞬間だった。
ぴたり、と。
足が床に縫い付けられたように動かなくなる。
「……え?」
違和感は一瞬遅れて理解に変わった。
足元から伸びる影。それが店の外へ向かって細く長く繋がっている。
「影縛り……!?」
ヤヨイの表情が強張る。
黒いプリニーは驚いた様子もなく、静かに周囲へ視線を巡らせた。
「やっぱり来たッスか」
「やっぱりって、知ってたの!?」
ヤヨイが小声で詰め寄る。
黒いプリニーは淡々と答えた。
「七代目火影・うずまきナルトは、悪意を感知できるッス」
「……あ」
その一言で、ヤヨイも察した。
自分自身に強い悪意があるわけではない。
だが、自分の内側にはいる。とびきり大きくて、濃くて、どうしようもなく禍々しい悪意の塊が。
「主人の中にいる存在は、悪意としては特大級ッス。危機感を抱いて忍を動かしても不思議ではないッス」
「うわぁ……最悪のタイミング……」
ヤヨイは心底嫌そうに顔をしかめた。
店の外にある気配は、一つや二つではない。
しかも、ただ数が多いだけではなかった。息を潜める技量、間合いの取り方、気配の置き方。そのどれもが洗練されている。木ノ葉の精鋭が動いているのだと、嫌でもわかった。
ここで大人しく捕まる、という選択肢はヤヨイの中にはなかった。
木ノ葉が敵だとは思っていない。
むしろ、木ノ葉そのものに悪意があるとは考えていない。だが、だからこそ厄介だった。事情聴取、身元確認、能力の追及。そうした手順のどこかで写輪眼に辿り着けば、扇子の存在が露見する可能性がある。
最悪、情報が他里へ漏れる。
そうなれば、扇子の隠れ里が探られ、写輪眼を狙う連中が群がるかもしれない。
そんな未来は、絶対に認められなかった。
「……ごめん。あたしもここで捕まるわけにはいかない」
小さく呟く。
その目から、さっきまでの気の抜けた空気が消えた。
暖簾の向こうで、複数の気配が一斉に動く。
「動くな!」
低い声とともに、木ノ葉の忍が店内へ踏み込んでくる。
先頭に立つ男の影が、ヤヨイの足元をさらに強く縫い止めた。
「里の近辺で確認された異常な悪意反応について、事情を聞かせてもらう」
「任意同行って感じじゃないね」
男の視線が、ヤヨイの胸元へ向けられる。
正確には、その奥に潜む“何か”へ。
「お前の中にいる“それ”は見過ごせない」
「……でしょうね」
ヤヨイは否定しなかった。
ここで誤魔化しても無駄だろう。木ノ葉の精鋭が動いている時点で、もう普通の傭兵では通らない。
黒いプリニーが、静かに一歩前へ出る。
「主人」
「うん」
「どうするッスか」
「決まってる」
ヤヨイは短く息を吐いた。
「逃げるよ」
「了解ッス」
黒いプリニーの声は平坦だった。
だが、その瞬間、店内の空気がわずかに揺らいだ。
それは殺気ではない。
術の気配とも少し違う。もっと根源的な、空間そのものが軋むような違和感だった。
「……あ」
ヤヨイが目を細める。
忍たちもまた異変に気づいたらしく、一斉に周囲を警戒した。
空間が、歪む。
店の中央、何もないはずの場所が渦を巻くようにねじれ、その中心から小さな影が現れた。
灰色のプリニーだった。
黒色のプリニーと同じく、愛嬌のあるはずの小さな身体。だが、その存在感は妙に重い。色の薄さとは裏腹に、そこに立つだけで場の空気が沈むような感覚があった。
「迎えに来たッス」
低い声が、短く響く。
「灰プリ!」
「遅くなったッス」
灰色プリニーはそれだけ言って、木ノ葉の忍たちへ視線を向けた。
写輪眼が万華鏡写輪眼に変化して静かに回る。
「新手か!」
「警戒しろ!」
忍たちが身構える。
だが、灰色プリニーは攻撃しない。ただ淡々と告げた。
「主を返してもらうッス」
「させるか!」
影がさらに伸びる。
同時に、別の忍が苦無を構えて踏み込もうとする。
その瞬間、灰色プリニーの周囲の空間が大きくねじれた。
「神威」
短い一言だった。
だが、その響きと同時に、空間そのものが渦を巻いて裂ける。
ヤヨイと黒いプリニーを包み込むように、歪みが広がった。影縛りの拘束ごと、空間そのものを引き剥がして持っていくような、常識外れの力。
「っ――!?」
ヤヨイは思わず目を見開いた。
足元の拘束が消えるのではない。拘束されたまま、自分ごと別の場所へ持っていかれる。そんな感覚だった。
「待て!」
「消えるぞ!」
「時空間忍術か!?」
木ノ葉の忍たちの声が飛ぶ。
だがもう遅い。
黒色プリニーが最後に一度だけ木ノ葉側を振り返る。
その視線は静かで、どこか冷たかった。
「また厄介なことになったッスね」
「ほんとだよ!」
ヤヨイが叫んだ次の瞬間、視界が完全に渦に呑まれる。
店内から、三つの影が消えた。
あとに残ったのは、空になった丼と、張り詰めた沈黙だけだった。
ほんの数秒前まで、そこには昼の賑わいがあった。
湯気が立ち、客が麺を啜り、店主が鍋を振っていた。だが今は、その日常の真ん中にだけ、不自然な空白が穿たれている。
「あれは写輪眼……しかも万華鏡だったぞ。なんでぬいぐるみに浮き出てるんだ」
「影縛りの拘束ごと持っていかれた……」
忍たちがざわめく。
影縛りを使っていた奈良一族の男も、険しい顔で足元を見下ろした。
その時だった。
「――神威、だと」
低く、驚きを押し殺した声が店の外から響いた。
暖簾をくぐって現れたのは、はたけカカシだった。
片目を細め、つい先ほどまで灰色プリニーがいた場所を見つめている。
「あ、六代目火影?」
「今の術を見たんですか」
「ああ」
カカシは短く答えた。
その表情は普段よりもずっと険しい。軽く目を細めているだけのように見えて、その実、視線の奥には明確な動揺があった。
「見間違えるはずがない」
「では、やはりあれは……」
カカシはゆっくりと、だがはっきりと言った。
「神威だ」
その場の空気が凍りつく。
「まさか」
「そんなはずは……」
忍たちの動揺をよそに、カカシは黙って空間の残滓を見つめていた。
神威。
それは、カカシにとってあまりにも因縁の深い瞳術だ。見間違えるはずがない。
だが、だからこそ理解が追いつかなかった。
なぜ、あんな灰色のプリニーが。
なぜ、あの瞳術を。
カカシは無意識に、自分の左目の古傷へ触れた。
そこにはもう写輪眼はない。だが、かつて確かに自分と共にあった力の感覚だけは、今も身体が覚えている。
空間の歪み方。
引き剥がすような吸引。
あの独特の軋み。
間違いようがなかった。
「……厄介なことになったね」
その呟きは、誰に向けたものでもなかった。
だが、その場にいた誰もが、ただならぬ事態だけは理解していた。