劉備に転生した俺、三国志が思ったより治安悪すぎる ~ニートになりたいだけなのに、関羽と張飛が俺を覇王にしようとしてくる~   作:ブンチョウ

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第1話 桃園の誤解

 五感のうち、最初に覚醒したのは「嗅覚」だった。

 

(……うわっ、くっさ!? なにこれ、信じられないくらいアンモニア臭いんだけど……!)

 

 ツンと鼻を突く猛烈な臭気に耐えかねて、俺は勢いよく跳ね起き──ようとして、背中に走ったチクチクとした不快感に顔をしかめた。

 

 目を開けると、視界に飛び込んできたのは(すす)で真っ黒に汚れた低い天井。

 

 そして自分が寝ていたのは、カビと埃の臭いが染みついた、硬い(わら)のベッドだった。

 

「どこだここ……。っていうか、俺は確か、職場のデスクで徹夜の仕様書を書いていて、胸が痛くなって……」

 

 いわゆる過労死というやつだろうか。

 

 冷や汗を流しながらよろよろと立ち上がり、外の空気を吸おうと木枠の扉を押し開ける。

 

 そこにあったのは、映画のロケセットですら生ぬるい、徹底的に泥臭い「絶望のディストピア」だった。

 

 舗装などひとかけらもない、家畜のフンまみれの泥道。

 

 窓のない薄暗い土壁の小屋がひしめき合い、濁ったボウフラの湧く水たまりの周りを、あばら骨が浮き出るほどガリガリに痩せた裸の子供たちが走り回っている。

 

「いやいや、おかしい。いくらなんでも、どこの発展途上国だよ……」

 

 混乱しながら、足元の水たまりに目を落とした。

 

 そこに映っていた「自分の顔」を見た瞬間、俺の思考は完全にフリーズした。

 

 耳たぶが、異常にデカい。

 

 大仏のそれすら凌駕し、誇張抜きで肩に届きそうなほど、びろーんと垂れ下がっている。

 

 驚いて自分の顔を触ろうと手を伸ばすと、今度はその「腕の長さ」に戦慄した。

 

 気をつけの姿勢をすると、指先が膝のあたりまで余裕で届くのだ。

 

「ミュータント……!? いや、待て。耳が大きくて、手が異常に長い。服装はボロボロの麻布。ここは……」

 

 脳内に、かつて貪るように読んだ三国志の知識が駆け巡る。

 

『蜀書』先主伝。

 

 劉備元徳──「身の長さ七尺五寸、手を垂れて膝に及ぶ。自らその耳を顧みるに重なる」。

 

 さらに実家は貧しく、母親と(むしろ)や草鞋を編んで暮らしていたという。

 

「う、嘘だろ……。俺、劉備に転生したのか!?」

 

 一瞬、脳裏に「歴史のヒーロー」という華やかな文字がよぎった。

 

 だが、次の瞬間、血の気が一気に引いた。

 

 現在の年号は光和七年。

 

 西暦で言えば、一八四年。

 

 直近の未来で何が起こるか。

 

 中国全土を血の海に変え、人口の数割を消し飛ばす地獄の戦争時代──「黄巾の乱」の開幕の年である。

 

「冗談じゃねえ!!」

 

 俺は自分の頭を抱えた。

 

 ステータス画面?

 

 便利なお助けチート能力?

 

 そんな液晶の光すらない。

 

 あるのは豚のフン尿の臭いと、一歩間違えれば餓死するリアルな乱世だけだ。

 

 現代人の俺が戦場になんか出たら、名もなき農民の錆びた槍に脇腹を刺されて、破傷風になって悶絶死するのがオチである。

 

「決めた。絶対に挙兵なんかしないぞ。誰が関羽や張飛と義勇軍なんか組むか! 隙を見て安全な山奥に逃げ込んで、一生ニートとして引きこもって天寿を全うしてやる!」

 

 俺は固く、そう心に誓ったのだった。

 

 生き残り資金──もとい、ニート生活費を稼ぐため。

 

 俺は仕方なく、実家の物置にあった筵や草鞋を市場へ持って行き、並べることにした。

 

 少しでも金を貯めて、ここから夜逃げするためだ。

 

 しかし、当時の市場の治安は世紀末そのものだった。

 

 ハエがたかる、腐りかけの怪しい肉。

 

 泥まみれの萎びた野菜。

 

 公的な警察組織など一切機能しておらず、市場のあちこちでガラの悪い男たちが通行人を脅しつけている。

 

 その時。

 

 ドス、ドス、と地面を揺らすような重苦しい足音が近づいてきた。

 

「おい、新顔ォ」

 

 地鳴りのようなドスの利いた声に顔を上げると、そこには身長二メートル近い、文字通りの巨漢が立っていた。

 

 顔中にタワシのような黒い無精髭を生やし、皿のように大きな目をギョロリと輝かせている。

 

 全身から漂うのは、強烈な酒の臭いと、こびりついた獣の血の匂い。

 

 この地域の肉屋を営み、裏では市場を暴力で仕切る本物のヤクザのボス──張飛翼徳であった。

 

「ここで商売するならよォ、俺の売れ残りの豚肉を十斤買うか、相応のショバ代を払うか、どっちかにしなァ……ああん!?」

 

 ゴリラが服を着て凄んでいるようなものだった。

 

 凄まじい威圧感に、周囲の商人は巻き添えを恐れて蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。

 

(ひ、ひええええええええ!! 本物だ!! ガチのヤクザだ、殺される!!!)

 

 現代人メンタルの俺の脳内ヒューズは、この瞬間に完全に消し飛んだ。

 

 恐怖のあまり膝の力が抜け、ドサリと無様に尻もちをつく。

 

 しかし、そのとき「バグ」が起きた。

 

 俺の異常に長い腕が、後ろに倒れ込んだ拍子に、偶然肉切り台の横に落ちていた「尖った巨大な牛の骨」の柄を、ガシッとジャストフィットで握りしめてしまったのだ。

 

 俺は恐怖のあまり顎をガタガタと震わせ、過呼吸で白目を剥きそうになりながら、目の前の恐怖の対象──張飛を凝視するしかなかった。

 

 パニックで完全に目が据わっている状態である。

 

 だが、張飛の視点──超深読みは、全く違っていた。

 

「……な、なんだこの男は……!?」

 

 張飛の背筋に、冷たい戦慄が走った。

 

 目の前の男は、自分の殺気を真っ向から受けてなお、一歩も引かずに腰を深く落とした。

 

 ただの腰抜けなのだが。

 

 さらに、あの異様に長い腕の先には、床に転がっていた牛の骨──暗器が握られ、いつでも自分の喉笛を掻き切れる絶妙な間合いを保っている。

 

(顎を震わせているのは、恐怖じゃない……。いつでも殺れるという歓喜に震える、武者震いか! あのイッちまっている目は、数え切れないほどの人間を屠ってきた本物の暗殺者の目だ……!)

 

 張飛の額から、ダラダラと冷や汗が流れ落ちる。

 

 彼はこの市場で、自分より強い者に会ったことがなかった。

 

 だが今、目の前にいる耳の大きな男からは、底知れない「死の気配」を感じる。

 

 どすん、と。

 

 張飛はその場に巨体を折り曲げ、膝をついた。

 

「ま、負けたぜ……! あんたほどの肝の据わった御仁は、この涿県(たくけん)にゃあ、いや、天下にだっていやしねえ! 惚れた、俺の家へ来てくれ、兄貴!」

 

「……へ?」

 

 兄貴!?

 

 劉備は「ひえっ、拉致される!」と思いつつも、ここで拒否すれば即座に殴り殺されると直感し、ガタガタ震えながら張飛の後ろをトコトコとついていくしかなかった。

 

 連れてこられた張飛の邸宅は、防犯用の高い土壁に囲まれた、いかにも地元の有力ヤクザの館だった。

 

 そこで俺は、酸っぱくて妙に苦い密造酒を無理やり飲まされていた。

 

 当時の酒は衛生環境が悪すぎて、一口飲むたびに胃がキリキリと痛む。

 

(早く帰って荷物をまとめて逃げないと……)

 

 そう思っていた矢先。

 

 バシャァン!! と凄まじい音を立てて、門扉が蹴破られた。

 

「おい、そこな者たち。一晩、俺を(かくま)ってもらうぞ」

 

 入ってきたのは、またしても大男だった。

 

 顔は熟した(なつめ)のように赤黒く、見事な髭を蓄えている。

 

 だが、着ている緑の服はボロボロで、生々しい返り血が黒くこびりついていた。

 

 手に持つ巨大な大刀からは、まだ血が滴っている。

 

 地元の悪徳役人を殺害し、現在絶賛逃亡中の超弩級の指名手配犯──関羽雲長である。

 

 関羽はギラリと目を光らせ、迷いなく俺の首筋に冷たい大刀の刃を突きつけた。

 

「役人の追っ手がすぐそこまで来ている。拒むなら、今ここで全員の首をハネる」

 

(ヤクザの次はテロリストかよおおおおお!! 誰か警察呼んで! 法律で俺を守ってよ!!)

 

 俺の恐怖メーターは限界を突破し、過呼吸で頭がクラクラしてきた。

 

 脳内では、「ひえっ! 法律で、この家を守って、役人が来たらサビだから……」と、必死に命乞いをしようとした。

 

 しかし、パニックのあまり口が上手く回らず、当時の中国語の不慣れなニュアンスが混ざり合って、口から出た言葉は全くの別物になった。

 

「法……? 糞食らえだ。この敷地は俺たちの領土だ。役人が来たら全員首をハネて、その大刀のサビにして庭に埋めればいい」

 

 さらに俺は、震える手で、首元の危ない大刀の刃を「のけて、のけて!」と指先でそっと押し返した。

 

 その、恐怖で無駄な力が完全に抜けたスムーズな手の動きが、関羽の目には神業に映った。

 

 関羽は、衝撃のあまり目を見張った。

 

「な、なんと……!?」

 

 関羽の脳内で、凄まじい超深読みが炸裂する。

 

 国家の最高権力である漢王朝の法律を「糞食らえ」と鼻で笑い、役人ごと葬ると言い放つとは。

 

 しかも、俺が放った決死の殺気と大刀の刃を、指先ひとつで完全に軌道を見切って受け流しおった。

 

 この耳の大きな男、ただ者ではない。

 

 これぞ、乱世を覆す真の覇王の器……!

 

 関羽はガタガタと震え、大刀を収めると、その場に平伏した。

 

「己の器の小ささが恥ずかしい。貴殿のような大傑物、生涯お目にかかったことがない。どうかこの関某(かんぼう)、あなたの配下にしていただきたい!」

 

「……へ?」

 

 はい?

 

 俺の意図とは裏腹に、目の前で天下無双の戦闘ゴリラ二人が、目を輝かせて俺を拝んでいる。

 

 地獄絵図だった。

 

「素晴らしい! 最高の兄貴に出会えた記念だ! 裏の桃の木の下で、俺たちの義兄弟の契りを結ぼうじゃねえか!」

 

 張飛が狂喜乱舞しながら、俺と関羽を裏庭へと引っ張っていく。

 

 そこには、確かに見事な桃の木が植えられていた。

 

 だが、リアルな桃の木というのは現代のものとは違う。

 

 幹にはびっしりとアブラムシが湧き、甘ったるい腐臭に誘われて得体の知れない羽虫がブンブンと飛び交う、おぞましい不衛生空間だった。

 

 そこで張飛は、どこからか持ってきた新鮮な「雄鶏の血」を、すっぱい密造酒の器にドボドボと注ぎ込んだ。

 

 当時の、ガチの呪術的な誓いの儀式──歃血(けっけつ)の盟である。

 

(絶対に飲みたくない。激しい腹痛で死ぬ)

 

 そう思って絶望している俺の横で、関羽と張飛は、目を血走らせて熱く叫んだ。

 

「我ら生まれた日は違えども、死す時は同年同月同日を願わん!!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、俺の心の中の現代人が絶叫した。

 

(嫌だァァァァァァ!!! 絶対にお前らガチ勢と一緒に死にたくない!!! お前らこれから何十回も死線くぐるだろ! 関羽なんて将来首チョンパされるの知ってんだよこっちは!! 俺は平和に長生きして、エアコンの効いた部屋の畳の上で死ぬんだよ!!! 一蓮托生にするなァ!!!)

 

 しかし、背後を振り返れば、早く飲めと言わんばかりに拳を握りしめている筋肉モリモリの弟たち。

 

 ここで「やっぱり辞めます」と言えば、一瞬で俺の身体がひき肉にされるのは火を見るより明らかだった。

 

「……っ」

 

 俺は引きつった笑顔を浮かべ、涙目で、そのドス黒い血の酒を一気に飲み干した。

 

「よ、よろしく……弟たち……」

 

 本当に殺さないでね。

 

「おおお! 兄貴ぃぃぃ!」

 

 感動した張飛に背中を思いきり叩かれ、肺の空気が全部口から飛び出そうになる。

 

 こうして、史上最弱のメンタルを持つ引きこもりニート・劉備と、天下無双の勘違い最強ゴリラ二人による、絶対に引き返せない地獄の旅路──義勇軍結成へのカウントダウンが始まってしまったのである。

 

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