劉備に転生した俺、三国志が思ったより治安悪すぎる ~ニートになりたいだけなのに、関羽と張飛が俺を覇王にしようとしてくる~   作:ブンチョウ

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第17話 許昌の夜の蝶たち

 ──生き延びた。

 

 あの曹操との命がけのサシ飲み――いや、デスハラ面接を、リアル失禁寸前の震えと「雷、怖いぃぃぃ!」という渾身の醜態で切り抜けた俺、劉備。

 

 今日こそ静かに荷をまとめる。

 

 現金、替えの服、逃走経路。できれば夜明け前には許昌を出る。

 

「よし。今日こそ大人しく隠居の準備をして――」

 

 門が、外から蹴り飛ばされた。

 

 ドガシャァン!

 

「おい劉備! 聞いたぞ! 昨日は雷で机の下に潜ったんだってなぁ!?」

 

 夏侯惇、曹洪、そのほか曹操軍の、酒と筋肉と声量で生きている連中が、遠慮なく土足で入ってきた。

 

「いや、その件はですね。恐怖を利用して曹操殿の警戒を――」

 

「いいから来い!」

 

「えっ」

 

「雷が怖いなら、酒で流せばいい!」

 

「理屈が粗い!」

 

 両腕を掴まれた。

 

 逃げようと足を踏ん張ったが、相手は歴戦の武将だ。俺の抵抗など、酔った大人が子供の腕を引く程度の手応えしかなかった。

 

(なんで昨日、命懸けで曹操を騙してまで生き延びた俺が、翌日には先輩社員との強制二次会に連行されてるんだよ……!)

 

 連れて行かれた先は、許昌でも指折りの妓楼――聚楽亭。

 

 高官、豪商、武将。金と権力を持つ男たちが、昼には言えない話を酒で薄めて吐き出す場所だった。

 

 帳場に立つ女たちは客の身なりを見る。

 

 廊下の端にいる男たちは、誰の連れかを見て道を空ける。

 

 酒を運ぶ下働きまで、どの卓に近づいてはいけないかを知っている。

 

 その空気が、俺には少し嫌だった。

 

 だが、嫌だと思ったところで帰れるわけではない。

 

 俺は半ば引きずられるように、奥の座敷へ放り込まれた。

 

 ◆

 

「こちら、春燕にございます」

 

「秋水と申します」

 

 宴席が始まると、二人の女が俺の両脇に座った。

 

 春燕は、笑う時だけ目元を柔らかくする。

 

 秋水は、酒を注ぐたびに、必ず出入口と窓の位置を見ていた。

 

 ただの芸妓ではない。

 

 春燕は袁紹方へ情報を流す間諜。

 

 秋水は許昌の地下にある暗殺組織を束ねる女。

 

 二人とも、男の欲望を見慣れていた。

 

 褒める男。

 

 泣く男。

 

 金を積む男。

 

 脅す男。

 

 そして、断れば機嫌を悪くする男。

 

 酒が進むほど、その分類は雑になっていく。

 

「おい、天下の芸妓なんだろ」

 

 夏侯惇が、春燕の腕を掴んだ。

 

「少し踊れ。せっかくの宴だ」

 

 春燕は笑った。

 

 笑ったまま、指先だけが止まった。

 

「お戯れを。今宵はお客様が主役でございますから」

 

「いいから」

 

 夏侯惇の手が、袖口を乱暴に引いた。

 

 隣で、秋水の呼吸が浅くなる。

 

 彼女の手は膝の上にあった。

 

 けれど指先だけが、隠した刃の位置を確かめている。

 

 ここで斬れば、座敷の外にいる護衛が入る。

 

 春燕を連れて逃げるには、廊下が狭すぎる。

 

 殺せる人数と、逃げ切れる人数は違う。

 

 秋水は、そういう計算をしていた。

 

 春燕は、笑顔を崩さなかった。

 

 崩せなかった。

 

 その時だった。

 

「……待った」

 

 座敷の隅で、盃を抱えたまま半分寝ていた俺が、顔を上げた。

 

 頭が重い。

 

 視界が少し揺れている。

 

 でも、春燕の顔だけは見えた。

 

 笑っているのに、笑っていない顔だった。

 

(あれ、踊る前の顔じゃないな)

 

 そう思った。

 

 それだけだった。

 

 正義感が燃え上がったわけでもない。

 

 乱世の女を守る覚悟ができたわけでもない。

 

 ただ、あんな顔のまま踊らせるのは、なんだか気に入らなかった。

 

「劉備?」

 

「踊りってのは……」

 

 俺は立ち上がろうとして、一度よろけた。

 

 卓に手をつく。

 

 盃が倒れる。

 

 酒が畳に広がる。

 

「踊りってのは、人を引っ張って始めるもんじゃないだろ」

 

 座敷が静かになった。

 

 夏侯惇が、怪訝そうに俺を見る。

 

「なんだ、急に」

 

「いや、違う。そういう立派な話じゃなくて」

 

 俺は春燕と秋水の方を見た。

 

 そのまま二人の前へ出た。

 

「……見本が必要だ」

 

「は?」

 

「踊りはな。上手いやつが先に踊るんだよ」

 

 自分でも何を言っているのか分からなかった。

 

 でも酒が入ると、前世の変な自尊心だけは残る。

 

 大学時代、ダンス部で少しだけ目立っていた。

 

 大会で一度だけ、後輩に「先輩、あの回転もう一回見たいです」と言われた。

 

 それだけの記憶が、今になって頭の中で妙に光っていた。

 

「お前ら、ちょっと下がれ」

 

 俺は春燕と秋水を押しのけなかった。

 

 ただ二人の前に立ち、手の甲で背後を示した。

 

 春燕は一瞬、俺の横顔を見た。

 

 秋水は、その手が震えていることに気づいた。

 

 怖くないわけではない。

 

 この男も、夏侯惇たちを恐れている。

 

 それでも、前に立った。

 

「音!」

 

 俺が叫ぶと、楽師たちが困った顔をした。

 

「なんでもいい! 速いやつ!」

 

 控えめな弦の音が鳴った。

 

 俺は上着を脱いだ。

 

 帯を外した。

 

 酔っている。

 

 止める人間もいない。

 

「行くぞ……!」

 

 床に手をつく。

 

 まず片手で体を支えた。

 

 次に肩へ体重を流し、足を大きく払う。

 

 片脚が畳すれすれを走り、反動で腰が浮く。

 

 もう片方の脚が、遅れて大きく円を描いた。

 

「ウィンドミルゥゥゥ!」

 

「何だそれは!?」

 

 夏侯惇が叫ぶ。

 

 俺は止まらなかった。

 

 肩から背中へ。

 

 背中から反対の肩へ。

 

 重さが移るたびに、脚が外へ振り抜かれる。

 

 回転がついた。

 

 勢いのまま、頭頂で床を押す。

 

「ヘッドスピン!」

 

 視界が、畳と天井と夏侯惇の顔を高速で往復した。

 

 座敷の空気が変わった。

 

 最初は笑い声だった。

 

「ギャハハハ! 劉備が裸で回ってるぞ!」

 

 だが、俺の脚が一度、床を掃くように走った時。

 

 夏侯惇の笑いが止まった。

 

「……待て」

 

 盃を持つ手が、わずかに下がる。

 

「あれは、転んでいるのではないのか?」

 

「転んでいるなら、あんなふうに次の動きへ繋がらん」

 

 曹洪が、低い声で言った。

 

「肩と背で受けた重さを、脚の振りへ逃がしている。こちらが踏み込んだ足元を払われれば、槍を構える前に崩されるぞ」

 

「しかも、倒れたように見せて……」

 

 夏侯惇の顔から、酒の抜けたような色が消えた。

 

「立つ時には、もう別の間合いにいる」

 

 俺はもちろん、そんなことを考えていない。

 

 頭が回りすぎて、吐くか吐かないかの瀬戸際である。

 

 だが、夏侯惇たちには違って見えた。

 

 床に伏せた者が、そのまま反撃へ移る。

 

 重心を消し、足元から相手を崩す。

 

 それは、彼らが戦場で最も嫌う種類の動きだった。

 

「劉備殿……」

 

 曹洪が、いつの間にか呼び方を変えていた。

 

「まさか、あれが本性か」

 

「知らん! 俺も知らん!」

 

 ようやく回転を止めた俺は、畳に突っ伏した。

 

「……うぷ」

 

 ◆

 

 宴が終わったのは、それから間もなくだった。

 

 夏侯惇たちは、さっきまでの騒ぎが嘘のように静かだった。

 

 春燕にも秋水にも、もう踊れとは言わなかった。

 

 誰かが酒を注ごうとすると、「劉備殿の前だぞ」と小声で止める者までいた。

 

 俺は座敷の隅で、壁にもたれていた。

 

 頭が重い。

 

 胃が気持ち悪い。

 

 もう家に帰りたい。

 

 ただそれだけだった。

 

 ふと見ると、春燕と秋水は、少し離れた場所に立っていた。

 

 春燕は乱れた袖を直している。

 

 秋水は、指先で襟元を押さえたまま、こちらを見ていた。

 

 俺は何か言おうとして、言葉が出なかった。

 

 気まずい。

 

 ものすごく気まずい。

 

 床にはさっきまで俺が半裸で回っていた痕跡がある。

 

 今さら格好いいことを言える状況ではない。

 

 俺は近くに落ちていた自分の上着を拾い、春燕の方へ放った。

 

「……それ」

 

 春燕が受け止める。

 

「羽織っとけ。寒いだろ」

 

 秋水にも、店の者が持っていた羽織を指差した。

 

「そっちも。……いや、別に俺が見るとかじゃないからな」

 

 言ってから、余計だったと気づいた。

 

 俺は顔を逸らした。

 

「もう今日は終わりでいいだろ。俺が踊ったし」

 

 春燕は、上着を胸元で押さえたまま、動かなかった。

 

「なぜ、私たちを止めたのですか」

 

「え?」

 

「あのままなら、あなたは何もせずに座っていても困らなかったでしょう」

 

「困ったぞ」

 

 俺は正直に答えた。

 

「俺が見てて嫌だった」

 

 春燕の目が、わずかに揺れた。

 

 俺はそれに気づかず、続ける。

 

「あと、踊るなら、ちゃんと踊りたい時に踊れ。あれは、なんか違う」

 

 秋水が、静かに息を吐いた。

 

「……あなたは、礼を要求しないのですね」

 

「礼?」

 

「こういう場所では、助けた側は、助けたことを忘れません」

 

「俺は忘れたい」

 

「は?」

 

「今日のこと全部忘れて寝たい。頭が割れそうなんだよ」

 

 春燕は、口元を押さえた。

 

 笑ったのか。

 

 泣きそうになったのか。

 

 俺には、よく分からなかった。

 

 秋水は、しばらく俺を見ていた。

 

 暗殺者として人を見る時の目だった。

 

 弱みはあるか。

 

 欲はあるか。

 

 利用できるか。

 

 この男は何を求めているか。

 

 だが、答えが見つからない。

 

 劉備は、女を助けた見返りに何も求めず、格好をつける余裕もなく、ただ吐きそうになっていた。

 

 それが、秋水には一番理解しにくかった。

 

 襖が開いた。

 

「お待たせいたしました。お冷でございます」

 

 夜桜だった。

 

 芸妓の格好をしているが、彼女は曹操軍の間諜であり、今では俺の影として動いている。

 

 夜桜は、春燕の手の中にある俺の上着を見た。

 

 秋水の乱れた襟元を見た。

 

 そして、畳に転がる俺を見た。

 

「……ああ」

 

 すべて察したように、小さく息をついた。

 

 春燕が夜桜を見る。

 

「あなたは、この方の側の人間?」

 

「ええ」

 

「この方は、いつもああなのですか」

 

 夜桜は、少し困ったように笑った。

 

「いつもではありません」

 

「では、なぜ」

 

「……あの人は、誰かが嫌がっている顔を見ると、急に落ち着かなくなるのです」

 

 夜桜は冷たい水を俺の前に置いた。

 

「でも、本人は大したことをしたつもりがないのでしょうね」

 

「なぜ分かるのです」

 

「礼を言われると、逃げますから」

 

「逃げる?」

 

「はい。たぶん今も、逃げたいと思っています」

 

「帰りたい……」

 

 俺は畳に額をつけたまま呟いた。

 

 春燕と秋水は、顔を見合わせた。

 

 それから、ほんの少しだけ笑った。

 

 ◆

 

 夜がさらに深くなった頃。

 

 俺は水を飲み、ようやく座れる程度には回復していた。

 

 春燕が、俺の前へ小さな紙片を置いた。

 

「一つだけ、お渡しします」

 

「なにこれ。請求書?」

 

「違います」

 

 秋水が、低い声で言った。

 

「天子の義父、董承様が、宮廷の裏で人を集めているようです」

 

「董承おじさんが?」

 

「同志を集め、連判を取る準備をしている、と」

 

 春燕は、俺の顔を見た。

 

 今度は笑っていなかった。

 

「いずれ、劉備様にも話が来るかもしれません」

 

(同志を集めてる? 連判?)

 

 俺は紙片を見た。

 

(ああ、なるほど)

 

 董承おじさんも、そろそろ隠居するのか。

 

 同志というのは、送別会の幹事たち。

 

 連判というのは、寄せ書きだ。

 

 歴史上の偉い人は、退職祝いまで物々しいな。

 

「分かった」

 

 俺は頷いた。

 

「誘われたら、ちゃんと参加するよ」

 

 春燕と秋水が、同時に黙った。

 

 夜桜だけが、目を細めた。

 

 たぶん、何かとんでもない勘違いをしている。

 

 だが、今は止めなかった。

 

 ◆

 

 翌朝。

 

 俺が聚楽亭を出る時、春燕と秋水は、門の内側に立っていた。

 

 春燕はいつもの笑顔を浮かべていた。

 

 けれど、昨日までの笑顔とは少し違っていた。

 

 秋水は、相変わらず表情を崩さない。

 

 ただ、俺が段差でよろけた時だけ、半歩前に出た。

 

 すぐに止まった。

 

 触れる資格があるのか、まだ自分でも分からなかったのだろう。

 

「劉備様」

 

 春燕が言った。

 

「この店では、毎晩、たくさんの言葉が落ちます」

 

「うん」

 

「拾えるものは、拾っておきます」

 

 秋水が続けた。

 

「あなたに渡すかどうかは、その時に決めます」

 

「え?」

 

「何でもかんでも背負わせるつもりはない、という意味です」

 

「……あ、うん。ありがとう?」

 

 意味はよく分からなかった。

 

 だが、二人が昨日より少しだけ楽そうに見えたので、俺はそれ以上聞かなかった。

 

 門の外では、夏侯惇と曹洪が待っていた。

 

 二人は俺を見るなり、深く頭を下げた。

 

「劉備殿」

 

「昨日は、その……失礼した」

 

「え?」

 

「いや、何でもない」

 

 夏侯惇は春燕と秋水をちらりと見た。

 

 昨日まで、この店の芸妓としてしか見ていなかった二人が、今はまるで劉備の配下を見るような目で俺を見送っている。

 

 夏侯惇は、背中に冷たいものが走るのを感じた。

 

(己の異様な体術で我らを黙らせ、一夜であの女たちの態度まで変えた)

 

(劉備玄徳……やはり、敵に回してはならん男か)

 

 その頃、俺はただ、吐き気をこらえながら考えていた。

 

(もう二度と、先輩との飲み会には行かない)

 

 こうして俺は、酔っ払ってブレイクダンスを披露しただけなのに、春燕と秋水という二人の夜の蝶に、逃げ道のない興味と信頼を植え付けた。

 

 後に二人は、聚楽亭で聞いた情報を選び取り、俺へ流すようになる。

 

 許昌の妓楼は、いつの間にか劉備のための情報網になっていた。

 

 そして俺は、その情報網から聞いた「董承が連判を集めている」という話を、ただの送別会の寄せ書きだと思い込み、後に最高の笑顔で署名することになる。

 

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