劉備に転生した俺、三国志が思ったより治安悪すぎる ~ニートになりたいだけなのに、関羽と張飛が俺を覇王にしようとしてくる~ 作:ブンチョウ
──生き延びた。
あの曹操との命がけのサシ飲み――いや、デスハラ面接を、リアル失禁寸前の震えと「雷、怖いぃぃぃ!」という渾身の醜態で切り抜けた俺、劉備。
今日こそ静かに荷をまとめる。
現金、替えの服、逃走経路。できれば夜明け前には許昌を出る。
「よし。今日こそ大人しく隠居の準備をして――」
門が、外から蹴り飛ばされた。
ドガシャァン!
「おい劉備! 聞いたぞ! 昨日は雷で机の下に潜ったんだってなぁ!?」
夏侯惇、曹洪、そのほか曹操軍の、酒と筋肉と声量で生きている連中が、遠慮なく土足で入ってきた。
「いや、その件はですね。恐怖を利用して曹操殿の警戒を――」
「いいから来い!」
「えっ」
「雷が怖いなら、酒で流せばいい!」
「理屈が粗い!」
両腕を掴まれた。
逃げようと足を踏ん張ったが、相手は歴戦の武将だ。俺の抵抗など、酔った大人が子供の腕を引く程度の手応えしかなかった。
(なんで昨日、命懸けで曹操を騙してまで生き延びた俺が、翌日には先輩社員との強制二次会に連行されてるんだよ……!)
連れて行かれた先は、許昌でも指折りの妓楼――聚楽亭。
高官、豪商、武将。金と権力を持つ男たちが、昼には言えない話を酒で薄めて吐き出す場所だった。
帳場に立つ女たちは客の身なりを見る。
廊下の端にいる男たちは、誰の連れかを見て道を空ける。
酒を運ぶ下働きまで、どの卓に近づいてはいけないかを知っている。
その空気が、俺には少し嫌だった。
だが、嫌だと思ったところで帰れるわけではない。
俺は半ば引きずられるように、奥の座敷へ放り込まれた。
◆
「こちら、春燕にございます」
「秋水と申します」
宴席が始まると、二人の女が俺の両脇に座った。
春燕は、笑う時だけ目元を柔らかくする。
秋水は、酒を注ぐたびに、必ず出入口と窓の位置を見ていた。
ただの芸妓ではない。
春燕は袁紹方へ情報を流す間諜。
秋水は許昌の地下にある暗殺組織を束ねる女。
二人とも、男の欲望を見慣れていた。
褒める男。
泣く男。
金を積む男。
脅す男。
そして、断れば機嫌を悪くする男。
酒が進むほど、その分類は雑になっていく。
「おい、天下の芸妓なんだろ」
夏侯惇が、春燕の腕を掴んだ。
「少し踊れ。せっかくの宴だ」
春燕は笑った。
笑ったまま、指先だけが止まった。
「お戯れを。今宵はお客様が主役でございますから」
「いいから」
夏侯惇の手が、袖口を乱暴に引いた。
隣で、秋水の呼吸が浅くなる。
彼女の手は膝の上にあった。
けれど指先だけが、隠した刃の位置を確かめている。
ここで斬れば、座敷の外にいる護衛が入る。
春燕を連れて逃げるには、廊下が狭すぎる。
殺せる人数と、逃げ切れる人数は違う。
秋水は、そういう計算をしていた。
春燕は、笑顔を崩さなかった。
崩せなかった。
その時だった。
「……待った」
座敷の隅で、盃を抱えたまま半分寝ていた俺が、顔を上げた。
頭が重い。
視界が少し揺れている。
でも、春燕の顔だけは見えた。
笑っているのに、笑っていない顔だった。
(あれ、踊る前の顔じゃないな)
そう思った。
それだけだった。
正義感が燃え上がったわけでもない。
乱世の女を守る覚悟ができたわけでもない。
ただ、あんな顔のまま踊らせるのは、なんだか気に入らなかった。
「劉備?」
「踊りってのは……」
俺は立ち上がろうとして、一度よろけた。
卓に手をつく。
盃が倒れる。
酒が畳に広がる。
「踊りってのは、人を引っ張って始めるもんじゃないだろ」
座敷が静かになった。
夏侯惇が、怪訝そうに俺を見る。
「なんだ、急に」
「いや、違う。そういう立派な話じゃなくて」
俺は春燕と秋水の方を見た。
そのまま二人の前へ出た。
「……見本が必要だ」
「は?」
「踊りはな。上手いやつが先に踊るんだよ」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
でも酒が入ると、前世の変な自尊心だけは残る。
大学時代、ダンス部で少しだけ目立っていた。
大会で一度だけ、後輩に「先輩、あの回転もう一回見たいです」と言われた。
それだけの記憶が、今になって頭の中で妙に光っていた。
「お前ら、ちょっと下がれ」
俺は春燕と秋水を押しのけなかった。
ただ二人の前に立ち、手の甲で背後を示した。
春燕は一瞬、俺の横顔を見た。
秋水は、その手が震えていることに気づいた。
怖くないわけではない。
この男も、夏侯惇たちを恐れている。
それでも、前に立った。
「音!」
俺が叫ぶと、楽師たちが困った顔をした。
「なんでもいい! 速いやつ!」
控えめな弦の音が鳴った。
俺は上着を脱いだ。
帯を外した。
酔っている。
止める人間もいない。
「行くぞ……!」
床に手をつく。
まず片手で体を支えた。
次に肩へ体重を流し、足を大きく払う。
片脚が畳すれすれを走り、反動で腰が浮く。
もう片方の脚が、遅れて大きく円を描いた。
「ウィンドミルゥゥゥ!」
「何だそれは!?」
夏侯惇が叫ぶ。
俺は止まらなかった。
肩から背中へ。
背中から反対の肩へ。
重さが移るたびに、脚が外へ振り抜かれる。
回転がついた。
勢いのまま、頭頂で床を押す。
「ヘッドスピン!」
視界が、畳と天井と夏侯惇の顔を高速で往復した。
座敷の空気が変わった。
最初は笑い声だった。
「ギャハハハ! 劉備が裸で回ってるぞ!」
だが、俺の脚が一度、床を掃くように走った時。
夏侯惇の笑いが止まった。
「……待て」
盃を持つ手が、わずかに下がる。
「あれは、転んでいるのではないのか?」
「転んでいるなら、あんなふうに次の動きへ繋がらん」
曹洪が、低い声で言った。
「肩と背で受けた重さを、脚の振りへ逃がしている。こちらが踏み込んだ足元を払われれば、槍を構える前に崩されるぞ」
「しかも、倒れたように見せて……」
夏侯惇の顔から、酒の抜けたような色が消えた。
「立つ時には、もう別の間合いにいる」
俺はもちろん、そんなことを考えていない。
頭が回りすぎて、吐くか吐かないかの瀬戸際である。
だが、夏侯惇たちには違って見えた。
床に伏せた者が、そのまま反撃へ移る。
重心を消し、足元から相手を崩す。
それは、彼らが戦場で最も嫌う種類の動きだった。
「劉備殿……」
曹洪が、いつの間にか呼び方を変えていた。
「まさか、あれが本性か」
「知らん! 俺も知らん!」
ようやく回転を止めた俺は、畳に突っ伏した。
「……うぷ」
◆
宴が終わったのは、それから間もなくだった。
夏侯惇たちは、さっきまでの騒ぎが嘘のように静かだった。
春燕にも秋水にも、もう踊れとは言わなかった。
誰かが酒を注ごうとすると、「劉備殿の前だぞ」と小声で止める者までいた。
俺は座敷の隅で、壁にもたれていた。
頭が重い。
胃が気持ち悪い。
もう家に帰りたい。
ただそれだけだった。
ふと見ると、春燕と秋水は、少し離れた場所に立っていた。
春燕は乱れた袖を直している。
秋水は、指先で襟元を押さえたまま、こちらを見ていた。
俺は何か言おうとして、言葉が出なかった。
気まずい。
ものすごく気まずい。
床にはさっきまで俺が半裸で回っていた痕跡がある。
今さら格好いいことを言える状況ではない。
俺は近くに落ちていた自分の上着を拾い、春燕の方へ放った。
「……それ」
春燕が受け止める。
「羽織っとけ。寒いだろ」
秋水にも、店の者が持っていた羽織を指差した。
「そっちも。……いや、別に俺が見るとかじゃないからな」
言ってから、余計だったと気づいた。
俺は顔を逸らした。
「もう今日は終わりでいいだろ。俺が踊ったし」
春燕は、上着を胸元で押さえたまま、動かなかった。
「なぜ、私たちを止めたのですか」
「え?」
「あのままなら、あなたは何もせずに座っていても困らなかったでしょう」
「困ったぞ」
俺は正直に答えた。
「俺が見てて嫌だった」
春燕の目が、わずかに揺れた。
俺はそれに気づかず、続ける。
「あと、踊るなら、ちゃんと踊りたい時に踊れ。あれは、なんか違う」
秋水が、静かに息を吐いた。
「……あなたは、礼を要求しないのですね」
「礼?」
「こういう場所では、助けた側は、助けたことを忘れません」
「俺は忘れたい」
「は?」
「今日のこと全部忘れて寝たい。頭が割れそうなんだよ」
春燕は、口元を押さえた。
笑ったのか。
泣きそうになったのか。
俺には、よく分からなかった。
秋水は、しばらく俺を見ていた。
暗殺者として人を見る時の目だった。
弱みはあるか。
欲はあるか。
利用できるか。
この男は何を求めているか。
だが、答えが見つからない。
劉備は、女を助けた見返りに何も求めず、格好をつける余裕もなく、ただ吐きそうになっていた。
それが、秋水には一番理解しにくかった。
襖が開いた。
「お待たせいたしました。お冷でございます」
夜桜だった。
芸妓の格好をしているが、彼女は曹操軍の間諜であり、今では俺の影として動いている。
夜桜は、春燕の手の中にある俺の上着を見た。
秋水の乱れた襟元を見た。
そして、畳に転がる俺を見た。
「……ああ」
すべて察したように、小さく息をついた。
春燕が夜桜を見る。
「あなたは、この方の側の人間?」
「ええ」
「この方は、いつもああなのですか」
夜桜は、少し困ったように笑った。
「いつもではありません」
「では、なぜ」
「……あの人は、誰かが嫌がっている顔を見ると、急に落ち着かなくなるのです」
夜桜は冷たい水を俺の前に置いた。
「でも、本人は大したことをしたつもりがないのでしょうね」
「なぜ分かるのです」
「礼を言われると、逃げますから」
「逃げる?」
「はい。たぶん今も、逃げたいと思っています」
「帰りたい……」
俺は畳に額をつけたまま呟いた。
春燕と秋水は、顔を見合わせた。
それから、ほんの少しだけ笑った。
◆
夜がさらに深くなった頃。
俺は水を飲み、ようやく座れる程度には回復していた。
春燕が、俺の前へ小さな紙片を置いた。
「一つだけ、お渡しします」
「なにこれ。請求書?」
「違います」
秋水が、低い声で言った。
「天子の義父、董承様が、宮廷の裏で人を集めているようです」
「董承おじさんが?」
「同志を集め、連判を取る準備をしている、と」
春燕は、俺の顔を見た。
今度は笑っていなかった。
「いずれ、劉備様にも話が来るかもしれません」
(同志を集めてる? 連判?)
俺は紙片を見た。
(ああ、なるほど)
董承おじさんも、そろそろ隠居するのか。
同志というのは、送別会の幹事たち。
連判というのは、寄せ書きだ。
歴史上の偉い人は、退職祝いまで物々しいな。
「分かった」
俺は頷いた。
「誘われたら、ちゃんと参加するよ」
春燕と秋水が、同時に黙った。
夜桜だけが、目を細めた。
たぶん、何かとんでもない勘違いをしている。
だが、今は止めなかった。
◆
翌朝。
俺が聚楽亭を出る時、春燕と秋水は、門の内側に立っていた。
春燕はいつもの笑顔を浮かべていた。
けれど、昨日までの笑顔とは少し違っていた。
秋水は、相変わらず表情を崩さない。
ただ、俺が段差でよろけた時だけ、半歩前に出た。
すぐに止まった。
触れる資格があるのか、まだ自分でも分からなかったのだろう。
「劉備様」
春燕が言った。
「この店では、毎晩、たくさんの言葉が落ちます」
「うん」
「拾えるものは、拾っておきます」
秋水が続けた。
「あなたに渡すかどうかは、その時に決めます」
「え?」
「何でもかんでも背負わせるつもりはない、という意味です」
「……あ、うん。ありがとう?」
意味はよく分からなかった。
だが、二人が昨日より少しだけ楽そうに見えたので、俺はそれ以上聞かなかった。
門の外では、夏侯惇と曹洪が待っていた。
二人は俺を見るなり、深く頭を下げた。
「劉備殿」
「昨日は、その……失礼した」
「え?」
「いや、何でもない」
夏侯惇は春燕と秋水をちらりと見た。
昨日まで、この店の芸妓としてしか見ていなかった二人が、今はまるで劉備の配下を見るような目で俺を見送っている。
夏侯惇は、背中に冷たいものが走るのを感じた。
(己の異様な体術で我らを黙らせ、一夜であの女たちの態度まで変えた)
(劉備玄徳……やはり、敵に回してはならん男か)
その頃、俺はただ、吐き気をこらえながら考えていた。
(もう二度と、先輩との飲み会には行かない)
こうして俺は、酔っ払ってブレイクダンスを披露しただけなのに、春燕と秋水という二人の夜の蝶に、逃げ道のない興味と信頼を植え付けた。
後に二人は、聚楽亭で聞いた情報を選び取り、俺へ流すようになる。
許昌の妓楼は、いつの間にか劉備のための情報網になっていた。
そして俺は、その情報網から聞いた「董承が連判を集めている」という話を、ただの送別会の寄せ書きだと思い込み、後に最高の笑顔で署名することになる。