劉備に転生した俺、三国志が思ったより治安悪すぎる ~ニートになりたいだけなのに、関羽と張飛が俺を覇王にしようとしてくる~   作:ブンチョウ

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第18話:衣帯詔、ただの寄せ書きだと思った

 ──生き延びた。

 

 恐怖のサシ飲み面接、そして夜の蝶たちとのブレイクダンス決戦を乗り越え、俺はいよいよ本格的な「夜逃げ(許昌からのバックレ)」の準備に入ろうとしていた。

 

 そんなある日の夜。

 

 我が家の裏口から、一人の初老の男が血走った目で転がり込んできた。

 

 漢の天子(献帝)の国舅にして、宮廷の重鎮──董承(とうしょう)である。

 

「劉備殿……夜分にすまぬ。だが、漢王朝の正統なる血を引く貴殿なら、我が心が分かるはずだ」

 

 董承はブツブツと早口で囁きながら、懐から厳重に包まれた絹の帯を取り出し、俺の目の前でスッと広げた。

 

 そこには、赤い文字でびっしりと何か熱いメッセージが書き込まれ、余白には董承をはじめとする何人かの名前が署名されている。

 

(あ、これ……アレだ)

 

 薄暗い密室。初老の男の悲壮な顔。赤い文字。

 

 パニック状態の俺の脳は、前世のブラック企業時代の記憶と完全にリンクして、最悪のバグを引き起こした。

 

(退職する先輩の時に回ってくる、『色紙の寄せ書き』だ! 断ると『あいつは空気が読めない』って社内でハブられるやつだ!)

 

 俺の目は完全に濁った「社畜のそれ」になった。

 

(董承おじさんも定年退職(隠居)するから、みんなで『お疲れ様でした〜!』ってサイン集めてるんだな。それにしても、筆の赤い墨で書くなんて痛いというか、昭和のヤンキーみたいなセンスだな……)

 

「すでに国舅である私をはじめ、多くの同志がこの署名に名を連ねておる。さあ、劉備殿もここに署名を!」

 

「あ、ハイハイ! 喜んで!」

 

 俺は「社内の付き合いが悪い奴」と思われないよう、最高のビジネススマイルで筆を取った。

 

 そして、まだ誰も書いていない一番目立つ中央の特等席に、『劉備玄徳』と力強く、これ以上ないほど達筆でデカデカとサインを書き残してしまったのだ。

 

「これでよし、と。おじさん、今まで本当にお疲れ様でした!」

 

「おお……劉備殿! 貴殿のその覚悟、しかと見届けた!」

 

 董承は涙ぐんで帯を懐にしまい、嵐のように去っていった。

 

 ◆

 

「ふぅ、危ない危ない。社内営業は基本だからな」

 

 俺が呑気にお茶をすすっていると、部屋の襖がスッと開き、裏で全てを監視していた我が秘書(お嬢様)──公孫蘭(こうそんらん)が、冷徹な顔で「とある木札(コピー)」を持って現れた。

 

「劉備様、素晴らしいご決断です。先ほどの『衣帯詔(いたいしょう)』の写しでございます」

 

「いたいしょう?」

 

「ええ。ついに曹操暗殺計画の首謀者として、漢王朝の全忠臣を束ねる『テロ組織のトップ』に就任されたのですね。サインの配置も完璧です。中央の一番目立つ場所……我らが主の覇気を感じます」

 

「…………えっ?」

 

 お茶を吹き出しそうになった。

 

「暗殺!? 寄せ書きじゃなくて、ガチの国家転覆テロの連判状だったのおおぉぉぉ!?」

 

「はい。皇帝陛下がご自身の血でお書きになられた『曹操を殺せ』という密命です」

 

 俺の全身から、文字通りバケツで水を被ったように血の気が引いた。

 

(なんで俺、一番中心にデッカく名前書いちゃってんの!? これ曹操に見つかったら、一族郎党どころか俺の耳たぶまでミンチにされてシュレッダーにかけられるじゃん!!!)

 

 致命的な「付き合いサイン」の重さに気づき、俺は部屋の隅で過呼吸になりながら、ガタガタと生まれたての小鹿のように震え出した。

 

「ど、どうしよう! 今すぐ董承の家に行って、消しゴムで名前を消してこないと死ぬ!!」

 

 ◆

 

 居ても立っても居られず、深夜の宮廷の裏門付近を半狂乱でうろついていた俺は、ふと物陰からすすり泣く声を聞いた。

 

「……どうか、この子だけは……」

 

 月明かりの下、膨らみかけたお腹を庇うようにして泣いていたのは、可憐な少女だった。

 

 董承の娘であり、天子(献帝)の寵愛を受ける若き側室──董貴人(とうきじん)である。

 

 彼女は父親の暗殺計画を知り、「もし失敗したら、私のお腹の子供(皇帝の血を引く赤ん坊)もろとも曹操に殺される」と絶望の淵にいたのだ。

 

(ひえええ! 皇帝の奥さん!? テロ計画の核心人物じゃん、関わったら即ギロチンだ!!)

 

 ……それでも。

 

 前世の俺の妹と同じくらいの年頃だろう。

 

 しかも、腹には子供がいる。

 

 こんな夜の宮廷の隅で、一人きりで泣いている妊婦を見捨てて、そのまま逃げられるほど、俺は人間をやめきれていなかった。

 

「董貴人様」

 

 俺は、二歩どころか三歩下がった。

 

 下がりすぎて、ほとんど壁際だった。

 

 それでも俺は、必死に背筋を伸ばした。

 

「どうか、まずは深く息をしてください。今この場で、あなた様が背負わねばならぬものなど、本当は何一つありません」

 

 董貴人が、涙に濡れた目でこちらを見る。

 

 俺は内心で悲鳴を上げていた。

 

(やめて! そんな目で見ないで! 俺は今、国家転覆テロの連判状から名前を消しに来ただけの通りすがりのおじさんだから!)

 

 だが、口から出た声だけは、不思議なほど穏やかだった。

 

「天下がどう動くか。曹公がどう考えるか。董承殿が何を決められたか。陛下がどれほどお苦しみか。それらは、確かに大きなことです。けれど今、あなた様が一番に守るべきものは、天下でも、朝廷でも、漢の名でもありません」

 

 俺は、決して近づかない。

 

 指一本触れない。

 

 ただ、彼女の腹を見ないようにしながら、深く頭を下げた。

 

「あなた様ご自身と、その御腹の中におられる小さな命です」

 

 董貴人の肩が、小さく震えた。

 

「その御子は、誰かの旗ではありません。誰かの恨みを晴らすための剣でもありません。漢王朝の血を引くから尊いのではない。まだ何も知らず、何も選べず、ただ母の温もりの中で生きようとしているから尊いのです」

 

 俺は、そこで一度、息を呑んだ。

 

(やばい。俺、何を言ってるんだ。これ、めちゃくちゃそれっぽく聞こえてない?)

 

 だが止まれなかった。

 

 止まれば逆に怪しまれる気がした。

 

「だから、どうか泣かないでください。涙を流すなとは申しません。怖い時に怖いと言うことは、恥ではありません。ですが、あなた様の不安を、御子にまで背負わせてはなりません」

 

 董貴人は、両手で腹を抱いた。

 

 俺は、さらに慎重に言葉を選ぶ。

 

「温かい湯を飲み、身体を冷やさず、信頼できる侍女をそばに置いてください。夜には香の強いものを避け、静かな曲を聞き、眠れる時に眠る。それでよいのです。今のあなた様に必要なのは、策ではありません。休息です」

 

 あまりにも現代の妊婦メンタルケアだった。

 

 だが、董貴人には、それが命を包む慈悲の言葉に聞こえた。

 

「董貴人様。世の男たちは、すぐに天下を語ります。忠義を語り、血筋を語り、大義を語ります。ですが、天下も忠義も血筋も、大義も、すべては生きている人のためにあるものです」

 

 俺は、自分でも知らぬうちに、低く静かな声になっていた。

 

「母と子を踏み台にして成る大義なら、その大義はすでに腐っております」

 

 董貴人が息を止めた。

 

 それは、父である董承にも、献帝にも、宮中の誰にも言えなかった言葉だった。

 

 俺は慌てて付け足した。

 

「あ、いえ、これは別に、どなたかを批判しているわけではなく! 一般論です! 一般的な健康管理と人権意識の話でして!」

 

 しかし遅かった。

 

 董貴人の瞳には、すでに別の光が宿っていた。

 

 俺は両手を前に出し、必死に無害アピールをした。

 

「私はあなた様に、何かを決めろなどとは申しません。父君に従えとも、逆らえとも申しません。陛下のために泣けとも、漢のために死ねとも申しません。ただ、生きてください。御子を生かすことだけを、今夜の務めとなさってください」

 

 董貴人の頬を、涙が伝った。

 

 だが先ほどまでの絶望の涙ではなかった。

 

「劉備様……」

 

「いえ、本当に様付けされるほどの者ではありません。私はただの、少し字を書く場所を間違えた男です」

 

「字を……?」

 

「忘れてください」

 

 俺は全力で目を逸らした。

 

 董貴人は、かすかに笑った。

 

 その笑みを見て、俺は心底安堵した。

 

(よし。笑った。これで今日は寝てくれる。頼むから寝て。あと俺のサインを消させて)

 

 だが、董貴人は静かに頭を下げた。

 

「劉備様。私は、初めて誰かに、母として扱っていただきました」

 

 俺の背筋が凍った。

 

(やめて。その認識は重い。俺は母子手帳の概念を持ち込んだだけ)

 

 董貴人は、涙を拭い、腹に手を添えた。

 

「この子は、旗ではない。剣ではない。生きるべき命なのですね」

 

「はい。そうです。そこだけ覚えていただければ、私はもう今夜の用事を全部終えたようなものです」

 

「では、劉備様」

 

「はい」

 

「もしこの子が生まれたなら……どうか一度だけ、抱いてやってくださいませ」

 

 俺の顔から血の気が引いた。

 

(終わった)

 

 董貴人は、救われたように微笑んでいた。

 

 俺は、宮廷の夜風の中で、静かに悟った。

 

 寄せ書きのサインを消しに来ただけなのに。

 

 俺はまた、絶対に背負ってはいけないものを、背負わされかけている。

 

 ◆

 

「はぁ……はぁ……サインは消せなかったし、皇帝の奥さんには取り返しのつかないフラグを立ててしまったし、もう許昌からは1秒でも早くバックレる(脱出する)しかない!」

 

 半泣きで自宅に逃げ帰った俺を待っていたのは、見慣れた二人の女性だった。

 

 我が家の凄腕メイド長(宮廷女官)の白雪(しらゆき)と、曹操の親族にして人事トップの曹華(そうか)である。

 

「劉備様、素晴らしい手際です」

 

 白雪が、完璧な礼とともに冷たい微笑を浮かべた。

 

「董貴人様を、精神的に完全掌握(洗脳)されたのですね。彼女の侍女たちには、すでに私の配下が接触を始めております。うまくいけば、これからは天子の寝室の会話(最高機密)も、劉備様にお届けできますわ」

 

「えっ」

 

「それに」

 

 曹華が、手元の木簡をパタンと閉じて妖艶に笑う。

 

「従兄(曹操)が、万が一あの暗殺計画の書類(衣帯詔)を押収したとしてもご安心を。私が人事権を使って、劉備様の名前だけを『同姓同名の全く別の無能な役人』のデータにすり替える(ハッキングする)手を、いま準備させておりますわ。間に合うかは、従兄がいつ動くか次第ですけれど」

 

「……は?」

 

「さあ劉備様。できる限りの準備はいたしました。安心して、盛大にテロを起こしてください!」

 

(違う!!! テロなんか起こさねえよ!!! 俺は早くこのブラック企業(許昌)からバックレたいだけなんだよ!!! お前ら、有能すぎて逆に俺の退路を絶つ(外堀を埋める)のやめてえええええ!!!)

 

 ◆

 

 そして翌朝。

 

 絶望で一睡もできなかった俺の元へ、ついに曹操から「待望の命令」が下った。

 

『袁術が北上してきた。劉備、お前が5万の兵を率いて討伐に行ってこい』

 

(よっしゃあああああ!!! 合法的な長期出張(バックレ)のチャンスきたああああ!!! やったぜ、二度と許昌なんか帰ってくるかああああ!!!)

 

 俺は内心で狂喜乱舞し、ガッツポーズをキメた。

 

 その「輝くような鋭い眼光」を横で見ていた関羽(かんう)は、己の髭を撫でながら深く、深く頷いた。

 

(……ハッ! なるほど。衣帯詔に署名して油断させた直後、あえて曹操から兵権を騙し取り、外側から許昌を包囲して一気に裏切る作戦。兄者の神がかったスピード感……まさに乱世の奸雄(曹操)を上回る、天性のテロリストの器よ!)

 

 こうして劉備は、ただの「付き合いの寄せ書きサイン」をして、妊婦に母子手帳の概念を説いただけで、天子の側室(董貴人)をマイハーレムの16人目にロックオン。

 

 世界からは「曹操の真下で皇帝の妻を寝取り、朝廷の最高機密を掌握した上で、まんまと兵権を騙し取って宣戦布告した、世紀のテロマスター」として、さらに凶悪すぎる怪物の評価を更新。

 

 曹操のブラック企業から、会社のカネを丸ごと横領してバックレるかのような勢いで、次なる歴史イベント『車冑(しゃちゅう)誅殺編』へと、トコトコ(大爆走で)進まされていくのだった。

 

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