劉備に転生した俺、三国志が思ったより治安悪すぎる ~ニートになりたいだけなのに、関羽と張飛が俺を覇王にしようとしてくる~ 作:ブンチョウ
「おい、関羽。お前、その馬の洗濯をやめろ」
汝南の寂れた街道を、泥にまみれながら進む道中、俺――劉備は、横を行く義弟を小声でたしなめた。
「兄者、しかし……いくらなんでも、これほどの天下の名馬を、このように泥まみれにしておくのは忍びねえ。常に磨き上げ、万全の状態を保ってこそ、武人の嗜みってもんだろう」
関羽は本気で不満そうな顔をして、俺の目が届かない一瞬の隙を見ては、懐から取り出した布で馬の体をこっそりと拭っている。
「嗜みなんて言っている場合か! 隠蔽工作をしてるんだよ、隠蔽工作を!」
俺はため息をつきながら、道端のぬかるみから泥をすくい、関羽が跨がっている真っ赤な巨馬――赤兎馬の臀部へ、ベチャリとなすりつけた。
「兄者!」
「悲鳴を上げるな! 馬は何も言ってないだろ!」
赤兎馬が、いかにも不満そうに鼻を鳴らした。
「言ってるぞ」
「今のは鼻息だ!」
せっかく俺が必死に泥を塗って隠しているというのに、こいつが拭き取るせいで、泥の隙間から焼き印が見え隠れしている。
そこには、簡潔ながらも力強い「曹」の一文字が刻まれていた。
呂布が敗れた後、曹操の厩へ収められた際に押された、紛れもない曹操府の所有印だ。
関羽の言い分では、曹操から、
『この馬は、お前にこそ相応しい』
と、直接譲り受けたらしい。
だが、そんなものは口約束だ。
正式な譲渡の書付など、一枚もない。
そもそも関羽は、曹操に無断で陣を辞してきたのである。
関羽からすれば、正式に賜った愛馬なのだろう。
しかし客観的に見れば、これは完全に、
『最高権力者の専用車を、譲渡証明も退職許可もなしに持ち出した』
状態にほかならない。
「いいか、絶対に足がつくなよ。ただでさえ目立つんだから」
言いかけて、俺は自分の言葉に気づいた。
(なんだこれ。まるで俺が車両強盗団の頭みたいじゃないか)
必死に身の安全を考えているだけなのに、やっていることは、盗品へ泥を塗って出所を隠す犯罪者そのものだった。
「兄者がそこまで言うなら、これ以上は拭わねえが……」
関羽は納得のいかない顔で、泥に汚れた赤兎馬の尻を見ている。
「だが、曹公は確かに、俺に相応しいと申された」
「口で言っただけだろ」
「その場には侍従もいた」
「その侍従が、逃げている俺たちのために証言してくれると思うか?」
関羽は髭を撫で、少し考え込んだ。
「曹公なら、事実を曲げることはあるまい」
「その曹操から逃げてるんだよ、俺たちは!」
赤兎馬が、また鼻を鳴らした。
馬にまで呆れられた気がする。
「それに、俺は赤兎馬へ乗って逃げたわけじゃねえ。兄者のもとへ戻るために――」
「言い方を変えても、やったことは変わらない!」
「曹公は馬の前で申されたんだぞ」
「馬の前でお前を褒めたからって、馬ごともらえるわけじゃない!」
「目は俺を見ていた」
「見つめ合ったかどうかは聞いてない!」
「真っ直ぐな目だった」
「どんな思い出になってるんだよ!」
関羽は、まだ納得していない。
「とにかく、もう拭くな」
「雨が降ったら?」
「知らないよ!」
俺の目的は、袁紹軍から支給された前渡しの軍資金と、現地調達用の未記入の出納札、それから最低限の衣服と食料だけを抱えて、安全な田舎へ夜逃げを決めることだ。
曹操と袁紹という二大勢力の両方から追われる前に、どこかひっそりとした場所へ潜伏したい。
関羽が許昌で偏将軍の官位を受け、上質な緑の衣をまとい、良い酒と肉を腹いっぱい与えられていたという事実には、この際、目をつぶろう。
しかし、手土産代わりに曹操の秘蔵の名馬を持ち出し、道中の関所を守る将たちを力ずくで斬ってきたのは、さすがに目をつぶれない。
(俺が袁紹の金を持ち、関羽が曹操の馬を持っている。これでは、逃亡中の義兄弟というより、東西から盗んできた戦利品を持ち寄った盗賊団だ)
一刻も早く、どこか安全な拠点に身を隠さなければならない。
そんな折、遠くの小高い丘の上に、崩れかけた小さな城塞が見えてきた。
城壁の一部は無惨に崩れ落ち、正面の門も壊れたところを古材で継ぎ合わせ、どうにか塞いでいる。
だが、そのみすぼらしい城門の脇には、見覚えのある雑な縫い目の旗が、頼りなげに風へ揺れていた。
大きく書かれた「劉」の字。
細かいことは考えず、勢いだけで作った旗だ。
「……張飛。張飛の旗だ」
胸の奥が、じんわりと緩んだ。
徐州が落ちてから、生死も分からず行方不明だった、もう一人の義弟。
あいつなら簡単には死なないと思っていた。
だが、曹操軍にも、張飛と同じくらい人間離れした連中はいる。
生きていると信じていたというより、死んだ可能性を考えないようにしていただけだった。
「翼徳も無事だったか」
関羽も、目を細めて笑った。
(ああ、これでようやく、頼れる用心棒が二人に戻る)
最初に浮かんだのがそれだった。
我ながら、兄として情緒がない。
だが、今の俺は曹操と袁紹の両方から追われる可能性がある。
関羽と張飛が揃えば、夜中に誰かが俺の首を取りに来ても、俺が起きる前に片づけてくれる。
「翼徳なら、兄者の姿を見れば泣いて歓迎するだろうな」
「ああ。早く声をかけよう」
俺たちは完全に気を緩めていた。
張飛が、関羽を裏切り者だと思い込んでいることなど、微塵も知らなかったのだ。
俺たちが古城の麓へ近づき、物見の兵がこちらを指差して何やら大声で叫んだ、その直後だった。
閉ざされていたボロボロの城門が、内側から蹴破られるような勢いで開いた。
「曹操の犬が、どの面下げて兄者の前に戻ってきやがったァァァッ!」
門の奥から、猛烈な怒号とともに、黒い旋風が飛び出してきた。
張飛だ。
だが、その両目は血走り、顔は夜叉のように歪んでいる。
手には、完全に殺意の乗った蛇矛が握られていた。
張飛は俺の姿を視界へ捉え、一瞬だけ目を見開いた。
足も、わずかに止まりかけた。
だが、次の瞬間には、その動揺を激しい怒りで塗り潰し、一直線に関羽へ突進してきた。
「えっ」
「張飛!? 何だ、その物騒な出迎えは。まず得物を――」
「死ね、裏切り者ォッ!」
「話を聞け!」
張飛の蛇矛は、一切の躊躇なく関羽の顔面を抉りにいった。
ガギィィィンッ!
間一髪、関羽が青龍偃月刀を横にして防ぐ。
強烈な衝撃で火花が散り、赤兎馬が激しく嘶いて前脚を跳ね上げた。
その煽りを食らい、すぐ横にいた俺は馬から無様に転げ落ち、街道の泥水へ尻餅をついた。
「おい、待て! 張飛、お前、何をして……!」
「兄者は黙ってろ!」
「久しぶりに会って一言目がそれかよ!」
感動の再会は、開始三秒で崩壊した。
「黙れ、関羽! てめえ、よくも兄者を置き去りにして、曹操の禄を食みやがったな! この裏切り者が!」
張飛は怒りに任せて蛇矛を振り回し、関羽は青龍偃月刀でそれを受け流す。
二人とも天下無双の化け物だ。
長年の連携から互いの癖を知り尽くしているため、本気で打ち合いながらも、最後の一線では急所を外している。
殺したくはない。
だが、許せない。
その二つが、刃の間でぶつかっていた。
「張飛、誤解だ! 俺は兄者を裏切ってねえ!」
「嘘をつけ! てめえが曹操から偏将軍の位をもらって出世した噂は、こっちまで届いてるぞ! その上等な緑の衣は何だ! 曹操からの贈り物じゃねえか!」
「この衣は、曹公が勝手に用意しただけだ!」
「脱ぎもせず、嬉しそうに着てるだろうが!」
「嬉しそうには着てねえ!」
「似合ってる顔をするな!」
「顔は生まれつきだ!」
「そこは否定しろ!」
何の喧嘩だ。
「徐州で仲間が血と泥にまみれて倒れていた時、てめえは曹操の席で、上等な酒と肉を食らっていたそうだな!」
「違う! あの宴は、三日に一度の小宴と、五日に一度の大宴に呼ばれただけだ!」
(十分に常連客じゃないか。休む日の方が少ないだろ)
「それのどこが、たまの宴だ!」
「俺から頼んだわけじゃねえ!」
「断りもしなかったんだろ!」
「出された酒を捨てるのは、造った者に失礼だ!」
「肉は!」
「育てた者に失礼だ!」
「全部食ってるじゃねえか!」
張飛の追及が止まらない。
関羽の弁明は、続けば続くほど、曹操から受けた待遇の良さを証明する結果になっていた。
「それに、その真っ赤な馬だ! 曹操の秘蔵の名馬じゃねえか!」
「断じて違う! この馬は、曹公が俺に相応しいと申され、直接くだされたものだ!」
「なら、それを証明する書付はあるのか!」
「それは……」
「曹操の許し状でもあるのか!」
「……ない」
「ただの盗人じゃねえか!」
(張飛の方が、よほど法務確認に向いている)
「盗んでねえ! 曹公は、この馬が俺に相応しいと申された!」
「それは馬を褒めたのか、お前を褒めたのか、どっちだ!」
「俺を見ていた!」
「馬の隣に立ってただけだろ!」
「目が合った!」
「見つめ合った話はしてねえ!」
関羽が言葉に詰まる。
その隙へ、張飛の蛇矛が鋭く突き出された。
「俺はなぁ……徐州から命からがら逃げ延びた兵を、一人ずつ泥の中から拾い集めてきたんだよ!」
関羽が青龍偃月刀で受ける。
「腹を空かせて泣く子供を背負い、足の傷から血が止まらねえ仲間を引きずって、ここまで来た!」
張飛の声が、わずかに掠れた。
「その間……兄者も、お前も、死んだと思ってた!」
関羽の動きが止まった。
「それなのに、お前は曹操の隣で、綺麗な服を着て酒を飲んでいたのかよ!」
張飛の両手が震えている。
怒りだけではない。
俺たちが死んだと思いながら、張飛は一人で敗残兵と難民を集め、ここまで連れてきた。
助けられなかった人間もいただろう。
関羽が曹操のもとで生きていると聞いた時、きっと最初は安心した。
安心した後で、腹が立ったのだ。
自分だけが泥と血の中へ取り残されたように感じたのだろう。
さすがに、ここで茶化す気にはなれなかった。
関羽も、何も言い返さない。
その沈黙を、張飛は肯定と受け取ったらしい。
「これ以上、兄者の身内に裏切り者はいらねえ! 叩き斬ってやる!」
張飛が地面を蹴って跳び、全体重を乗せた一撃を関羽へ放とうとする。
関羽は張飛の言葉に動揺したのか、足場を崩していた。
受けきれない。
このままでは、どちらかが死ぬ。
(止めてくれ、張飛。関羽を失ったら、曹操と袁紹の両方から追われる俺を、誰が守るんだよ!)
恐怖と保身。
防衛戦力が半減してしまうという絶望感から、俺は考えるより先に身体を動かしていた。
丸腰のまま、関羽の前へ立ち塞がる。
「やめろーーーッ!」
ピタリ、と。
俺の喉元の、わずか数寸手前で、蛇矛の鋭い穂先が止まった。
膝が震える。
冷や汗が全身から噴き出す。
本気で死ぬかと思った。
「兄者……」
張飛の目が揺れる。
「待て、張飛! 関羽だけを責めるな! 徐州の城を捨て、お前たちを置いて逃げ出したのは、俺も同じだ!」
俺の真意は単純だった。
俺だって、徐州が落ちた時に家族も兵も置いて逃げた。
そんな俺に、関羽だけを責める資格はない。
そして何より、ここで関羽を斬られたら困る。
「あ、兄者……そこまで……。自分の命を差し出してまで、こいつを信じるのか……?」
違う。
俺の命を守るためだ。
背後の関羽も、感極まったような声を漏らした。
「兄者……俺を一度も疑わなかったのか」
「疑ってる!」
思わず即答した。
関羽の顔が固まる。
「特に赤兎馬は、かなり疑ってる!」
「兄者!」
「お前の説明が怪しすぎるんだよ! だから全部話せ! 勝手に感動して話を終わらせるな!」
張飛は蛇矛の動きを止めたものの、完全には下ろさなかった。
「……話せ、関羽」
ここでようやく、関羽が青龍偃月刀を下げ、真面目な顔で事実を語り始めた。
「徐州の城が落ちた時、俺は甘夫人と糜夫人、それから侍女や糜家の使用人たちを守っていた。だが、逃げ道は曹操軍に塞がれた」
胸の奥が縮んだ。
「二人は……生きているのか」
「ああ」
関羽は、俺を真っ直ぐに見て頷いた。
「侍女や使用人たちも、生き残った者は多い」
息が抜けた。
甘氏と糜氏は、生きている。
その一言で、胸の奥へ刺さったままだったものが、少しだけ抜けた。
本当によかった。
俺が山の中を逃げ回っていた間も、二人は生きていた。
「俺一人なら、斬り抜けられたかもしれねえ。だが、嫂君らを置いて逃げれば、俺だけが助かることになる」
張飛の蛇矛の穂先が、少し下がる。
「曹操から出された条件は、俺が武器を置き、その配下へ入るなら、嫂君らと使用人たちの命を保証するってものだった」
「それで、曹操へ降ったのか」
「そうだ」
関羽は目を逸らさなかった。
「嫂君らを見捨てて逃げれば、俺は二度と兄者の前へ戻れねえ」
張飛の眉が動く。
「……だったら、なんで嫂たちをここへ連れてこなかったんだ」
「赤兎馬なら一日で着く道も、荷車を伴えば数日かかる。兄者が袁紹のところにいるって噂を聞いたが、どこにいるかまでは分からなかった」
「それで?」
「俺が追手を引いたまま嫂君らのもとへ戻れば、かえって危ねえ。だから信頼できる古参兵と糜家の者をつけて、別の道から汝南へ向かわせた。俺は先に兄者の生死を確かめ、安全な合流場所を探した」
「財宝や官位はどうした」
「全部置いてきた。辞去の書も残した」
「曹操の許しは得たのか」
「……急いでいた」
「得たのか」
「得てねえ」
張飛の目が細くなる。
「五つの関を斬って抜けたって話も聞いた」
「通行の書と、赤兎馬を賜った証を求められた」
「持ってなかったんだな」
「持ってなかった」
「それで斬ったのか」
「急いでいた」
「急いでいれば何でも許されると思うな!」
「向こうが退かなかった!」
「お前も退かなかったんだろうが!」
「兄者が待っていた!」
「俺は待ってない! 逃げ回ってた!」
「そこは俺から言わせろ!」
なぜ張飛に代弁されなければならないのか。
(退職届を机へ置いただけで、社用車に乗って警備員を五人斬ってきたのか。相変わらず、現場の力業が恐ろしすぎる)
関羽の忠義に嘘はなかった。
だが、やり方は最悪だった。
張飛の疑いが完全に消えないのも、よく分かる。
その時だった。
街道の遠くから、地鳴りのような騎馬の音が響いてきた。
曹操軍の旗を掲げた騎兵、およそ六十騎が、こちらへ向かって急接近してくる。
先頭を駆けるのは、怒りに顔を歪めた曹操軍の将、蔡陽だった。
「関羽ゥゥゥ!」
蔡陽の叫びが、丘へ響く。
「五関の守将を斬り、曹公の名馬を奪って逃げた逆賊め! 今日こそ、斬られた者たちの仇を討ち、その首を持ち帰ってくれる!」
張飛は蔡陽を見た。
次に関羽を見る。
「……曹操のところへ戻る気は、なさそうだな」
「当たり前だ」
「いや、待て」
俺は慌てて口を挟んだ。
「追われているから無実とは限らない。盗人だって追われる」
「兄者!」
「事実だろ!」
関羽が、ものすごく傷ついた顔をした。
張飛は小さく頷く。
「確かに」
「お前まで納得するな!」
「なら、あいつを斬ってみせろ。てめえが曹操の犬じゃねえって証拠を、ここで示せ」
「待て、関羽! これ以上斬れば、話が余計に大きくなる!」
俺は慌てて叫んだ。
すでに関所の将を五人も斬っている。
そこへ追撃部隊の将まで加えたら、曹操から本気で大軍を差し向けられてもおかしくない。
「まず話し合え! 曹操本人の命令かどうかも――」
風を切る音がした。
「兄者!」
関羽に肩を掴まれ、地面へ引き倒される。
俺が立っていた場所を、何本もの矢が通り過ぎた。
「話し合う気、全然ないじゃないか!」
「兄者、下がってろ!」
「最初からそう言え!」
関羽が青龍偃月刀を構える。
張飛は城門脇に置かれていた太鼓のばちを握った。
「関羽」
低い声だった。
「太鼓が鳴り終わる前に片づけろ」
「誰に言ってやがる」
関羽が赤兎馬へ飛び乗る。
張飛のばちが太鼓を打ち鳴らした。
ドンッ!
腹の底へ響く音と同時に、赤兎馬が飛び出す。
赤い矢だった。
蔡陽が槍を構える。
「関羽! 曹公から受けた恩を忘れたか!」
「忘れてねえ!」
関羽が叫ぶ。
「だから官位も財宝も、全部残してきた!」
二騎が正面からぶつかる。
蔡陽の槍を、関羽の青龍偃月刀が外へ弾く。
蔡陽はすぐに槍を引き、赤兎馬の胸元を狙った。
赤兎馬が横へ跳ぶ。
蔡陽も弱くはない。
だが、関羽と赤兎馬の組み合わせは、その上を行っていた。
「ならば、なぜ曹公へ背く!」
「恩は忘れねえ!」
関羽の青龍偃月刀が大きく振り上げられる。
「だが、俺の兄者は劉備一人だ!」
青龍偃月刀が一閃した。
張飛の太鼓が叩き終わるより早く、蔡陽の首が宙へ浮いた。
俺はその瞬間を直視できず、思わず顔を背けた。
(退職の手続きが、どうして敵将の首になるんだよ。人事部への納品物として重すぎるだろ。コンプラ違反も極まれりだ)
指揮官を失った蔡陽の部隊は、完全に戦意を失った。
武器を捨てる者。
蜘蛛の子を散らすように逃げる者。
負傷して動けない者が、街道へ溢れる。
関羽が赤兎馬を反転させ、城門前へ戻ってきた。
青龍偃月刀からは、曹操と決別した証拠の血が滴っている。
張飛は太鼓を叩く手を止め、ばちを投げ捨てた。
そして蛇矛を地面へ置くと、大股で関羽へ近づき、その上等な緑の衣を乱暴に掴んだ。
一瞬、また殴りかかるのかと周囲が息を呑む。
だが張飛は、そのまま額を関羽の胸へ押しつけた。
「……生きていたなら、もっと早く来やがれ、馬泥棒」
「まだ言うか」
関羽の声も、わずかに掠れていた。
張飛は返事をしない。
その肩が一度だけ揺れる。
関羽も立派な言葉は返さなかった。
ただ、張飛の肩へ手を置く。
「……お前もな」
それだけだった。
俺たちが離れていた時間を埋めるには、あまりにも短い言葉だった。
だが二人には、それで十分だったらしい。
俺は、二人が殺し合わずに済んだという安堵で完全に腰が抜け、その場へへたり込んだ。
「おお……劉備様は、ご自身の命を懸けて関羽殿の忠義を見抜いておられたのだ……」
「敗北の責任をすべて一人で背負い、義弟を守る……これが上に立つ者の器か……!」
周囲の兵たちが、勝手に勘違いして涙を流している。
違う。
恐怖で立ち上がれないだけだ。
放っておいてくれ。
だが、関羽と張飛が再び並んでいる姿を見ると、胸の奥が少しだけ軽くなった。
二人とも生きていた。
それだけは、素直にうれしかった。
張飛が、ゆっくりと顔を上げる。
「ところで関羽」
「何だ」
「その馬は、本当にお前のなのか」
「まだ言うか!」
「いや、そこは俺も気になる!」
「兄者まで!」
感動の和解は、赤兎馬の所有権問題によって、わずか十秒で終了した。
◆
感動の再会を果たし、俺たちは張飛が拠点としている古城の中へ入った。
いよいよ三兄弟の再会の宴かと思った。
豪華でなくてもいい。
肉の一切れ。
酒の一杯。
温かい飯。
それくらいは期待しても罰は当たらないはずだ。
俺の前へ出されたのは――。
底が透けて見えるほど水の多い、薄い粟粥。
塩気のない、茹でただけの野草。
石のように固い、小さな干し肉の切れ端。
「……張飛。これは飯なのか?」
「すまねえ、兄者。今の俺たちに出せる、精いっぱいだ」
「底が見えてるぞ」
「今日はまだ多い方だ」
「これで多いのかよ」
「粟が三粒入ってる」
「数えるな!」
「四粒かもしれねえ」
「どっちでもいいよ!」
俺は椀を持ち上げた。
粥というより、粟の気配が残る湯だった。
「昨日は、もう少し温かかった」
「問題は温度じゃない!」
張飛は、ばつの悪そうな顔で頭を掻き、古城の現状を説明し始めた。
徐州が陥落した際、生き残った古参兵や負傷兵、逃げ遅れた家族や難民を連れて南へ逃げる途中、腕に色褪せた黄色い布を結んだ農民たちから助けを受けたのだという。
彼らは、
『劉備様は、俺たち黄巾の民を無闇に殺さなかった』
『張レンという娘が、劉備様を恩人と呼んでいた』
『汝南には曹操に反発する者が多く、捨てられた城がある』
と教えてくれたらしい。
そうして流れ着いたこの古城だが、現在抱えている人員は、古参兵が約百二十人。
徐州からの難民が二百人以上。
戦える地元民が数十人。
傷病者が多く、倉に残る兵糧は、もって半月。
城壁は壊れ、雨漏りする兵舎に、使える井戸は一本だけ。
俺は安全な避難所へ着いたつもりだった。
現実は、壊れた城、飢えた兵、二百人を超える難民。
そして城外には、曹操軍の将の死体と降兵までいる。
(避難先どころか、完全に新しい職場じゃないか)
しかも、給料も食事もない。
「よく、ここまで来たな」
俺が言うと、張飛は粥の椀を握ったまま答えた。
「途中で助けられなきゃ、無理だった」
張レンから受け取った、黄色いリボンを思い出した。
今、どこにあるのかも分からない。
俺はあの時、少女の首が刎ねられるところを見たくなかっただけだ。
怖くて、逃がした。
それだけだった。
だが、その行動が何年も経ち、張飛や兵たちを助けた。
「兄者の徳が、俺たちをここまで導いたんだな」
関羽が静かに言った。
いつもなら、すぐに否定するところだった。
俺に徳があったとは思わない。
ただ、助かった者がいる。
それなら、それでいい。
「……まあ、俺がすごいということで、話をまとめておこう」
関羽と張飛が深く頷いた。
(いや、そこは少しくらい否定してもいいんだぞ)
「兄者、蔡陽の兵はどうする」
張飛が城外を顎で示した。
指揮官を失った兵のうち、逃げなかった者たちは、城外へ集められている。
負傷者も多い。
「逃がせば、この城の兵数も、倉の中身も曹操へ知られる。今なら、全員まとめて始末できる」
張飛の声は低かった。
現実的には、その意見にも理がある。
この城には、降兵へ食わせる余裕などない。
逃がせば、曹操へ内情を伝えられる。
だが、武器を捨てた者を皆殺しにすれば、蔡陽を討っただけでは済まなくなる。
何より、今の張飛へ、さらに人を殺させたくなかった。
「馬鹿言え。武器を捨てた者は殺すな。負傷者は、こっちの兵と分けずに傷を見ろ」
「敵兵もか?」
「傷口は敵味方を選ばない」
格好をつけたつもりはない。
放っておけば傷が腐る。
そこから病が広がれば、兵より先に難民や子供が死ぬ。
「それに蔡陽の遺骸も、雑に扱うな。棺へ納めて、首も胴へ戻して曹操の陣へ返せ」
「丁重に返すのか」
「これ以上、恨みを増やしてどうする。少しでも曹操の怒りを逸らして、本格的な討伐軍派遣の稟議を遅らせないと、俺たちが死ぬんだよ! 返す時に『壊れ物注意』とでも書いておけ」
「何だ、それ」
「忘れろ」
つい口から出た。
張飛は首を傾げたが、関羽は真剣に頷いている。
「兄者の意図は分かった」
「分かるな。書かなくていい」
「丁重に運べってことだな」
「そこだけ分かれ」
俺は懐から出納札を取り出した。
「それから、俺が持ってきた金は、周りの村から食料を買うために使え。絶対に奪うな。誰から、何を、いくらで買ったか、全部この札へ残せ。兵と民と負傷者の数も、分けて数えろ」
使途不明金。
捕虜虐殺。
現地略奪。
そんな三点を俺の名前で残した日には、曹操と袁紹のどちらに捕まっても終わる。
後から問い詰められても、
『俺は食料を買い、難民を養っただけです』
と言える状態にしておきたい。
それだけだ。
「兄者……」
関羽が深く頭を下げた。
「曹操との全面戦を避けつつ、袁紹の財を民の糧へ変えるつもりだったのか」
「目先の怒りに任せず、敵兵まで生かして話を聞く……さすが兄者だ」
張飛まで感心している。
「俺は腹を満たすことしか考えてなかった。兄者は、ここへ来た時から、この城を立て直すつもりだったんだな」
「違う! 俺は逃げ込むつもりで来たんだ!」
二人が顔を見合わせる。
「民に悟られねえよう、わざと軽く言ってやがる」
「兄者は昔から、そういう人だ」
「人の話を聞け!」
俺としては、単に後から責任を追及されたくないだけである。
だが、またしても俺の保身は、
『敵味方を超えて民を救い、汝南へ新しい秩序を作る深謀』
へと変換されてしまった。
もう何を言っても駄目だった。
◆
夕方。
どうにか粟粥を胃へ流し込み、今後どうやってこの貧乏な古城で生き延びるかを考えていた時だった。
城壁の見張りが、慌てた声で叫んだ。
「南東の街道に車列!」
関羽が弾かれたように立ち上がる。
「荷車が数台! 女や使用人らしき姿が見えます!」
城内がざわめいた。
「ですが、後ろから武装した一団が迫っています!」
関羽が椀を置き、城壁へ駆け上がる。
張飛も蛇矛を掴んだ。
同時に、腕へ黄色い布を巻いた農民の伝令が、息を切らして古城へ駆け込んできた。
「玄徳様!」
農民は地面へ膝をつき、肩で息をしながら叫んだ。
「奥方様方はご無事です!」
「本当か!」
俺は思わず立ち上がった。
「甘夫人も、糜夫人も生きておられます!」
生きている。
その一言で、胸の奥へ詰まっていたものが抜けた。
本当によかった。
今度こそ、二人に会える。
「ですが!」
農民が続けた。
「後ろから武装した者どもが迫っております! このままでは、古城へ着く前に追いつかれます!」
……感動する時間、三秒。
「なんで俺の感動の再会には、毎回追っ手がついてくるんだ! 空気を読め!」
農民が目を丸くした。
「も、申し訳ございません!」
「お前に言ったんじゃない!」
張飛はすでに城門へ向かっている。
「嫂たちを迎えに行くぞ、関羽!」
「おう!」
関羽が赤兎馬へ飛び乗る。
二人は、完全に戦う顔になっていた。
俺だけが、空になった粟粥の椀を持ったまま、その場から動けずにいた。
俺が欲しかったのは、ただ家族と合流して、
『生きていてよかった』
と涙を流して抱き合うような、感動の再会である。
敵の追跡つき。
時間制限あり。
救出に失敗すれば、家族が全滅。
そんな高難度の救出任務を、どうして三兄弟の再会と同じ日に開催するのか。
「兄者!」
門へ走りながら、張飛が振り返った。
「早く来い!」
「俺も行くのかよ!」
思わず叫び返した。
だが、椀を置き、走り出す。
怖い。
できることなら城内へ隠れていたい。
それでも、甘氏と糜氏が追われていると聞いて、座ったまま待つことだけはできなかった。
「待て! せめて馬を用意しろ! 俺だけ徒歩で救出へ行かせる気か!」
関羽と張飛の背中を追いながら、俺は全力で叫んだ。
「あと赤兎馬は、本当に関羽の馬でいいのか、帰ってから決めるぞ!」
「まだ疑ってるのか、兄者!」
「証文を出してから文句を言え!」
感動の再会より先に、息が切れそうだった。