劉備に転生した俺、三国志が思ったより治安悪すぎる ~ニートになりたいだけなのに、関羽と張飛が俺を覇王にしようとしてくる~   作:ブンチョウ

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第27話:夜逃げ準備、民が全員ついてくる

 官渡(かんと)袁紹(えんしょう)軍が大敗したとの報せが汝南(じょなん)へ届いてから、まだ数日しか経っていない。

 

 それなのに、すでに曹操(そうそう)軍の斥候らしき姿が、汝南の街道や山沿いで目撃され始めていた。

 

 古城の執務室は、もはや本来の機能を失いつつあった。

 

 机の上に広げられているのは、汝南各地から届いた出所も怪しい人員報告の木簡、袁紹軍の本陣から届いた、日付も命令内容も互いに矛盾する二通の軍令、そしてどこまで信用してよいか分からない避難経路の地図だ。

 

 俺は、関羽(かんう)張飛(ちょうひ)甘氏(かんし)糜氏(びし)廖化(りょうか)劉辟(りゅうへき)龔都(きょうと)の全員を執務室へ集めた。

 

 彼らは一様に緊張した面持ちで、俺が曹操軍に対して、どのような防衛策を講じるのかを待ち構えている。

 

 俺は地図上の「古城」と書かれた一点へ、人差し指を容赦なく突き立てた。

 

「この城は捨てる」

 

 張飛が即座に身を乗り出した。

 

「戦う前からか? 兄貴」

 

「戦ったら確実に死ぬからだ!」

 

 劉辟や龔都も、納得がいかないという顔で互いを見合わせる。

 

「お待ちくだされ、玄徳公! 各地の者を合わせれば、我らには数千の兵と民がおります。古城を拠点に籠城すれば、曹操軍とて容易には――」

 

「物理的に不可能だ」

 

 俺は、都庁時代に叩き込まれた施設管理の手引きを脳内でめくるように、この城の欠陥を早口で並べ立てた。

 

「いいか、よく聞け。城壁は各所で崩れている。門は古材を継ぎ足して、辛うじて形を保っているだけだ。水源となる井戸は一本しかなく、これでは数千人の飲み水すら賄えない。倉は底が見えており、兵舎は次の雨で間違いなく潰れる。その上、この城には動けない怪我人と、老人と、子供までいるんだぞ!」

 

 そもそも、数千人の全員が戦える兵ではない。

 

 各地の拠点へ分散している者も多く、今すぐ古城へ集められる戦力など、報告書の数字より遥かに少ないはずだった。

 

 張飛が、つまらなそうに鼻を鳴らした。

 

「なら、戦える奴だけ残ればいい。足手まといを逃がしてから、ここで暴れてやるさ」

 

「その戦える奴の妻や子供は、一体誰が逃がすんだ!」

 

 俺の怒鳴り声に、龔都がはっとしたように目を見開いた。

 

 その瞳へ、急速に熱いものが込み上げていく。

 

「……民を置き去りにして、我らだけで勝っても意味がない。そうおっしゃるのですな」

 

「違う! 置いていったら、後から全員が俺のところへ『どうしてくれるんだ』と陳情に押し寄せて、俺が一生恨まれるだろ! 苦情を持ち込んでくる相手を増やすな!」

 

 だが、関羽が静かに、そして深く頷いて、俺の言葉を上書きした。

 

「敵へ城を渡すことを恐れず、守るべき者を戦場から遠ざける。兄者は、目先の土壁ではなく、真の国の礎たる『人』を選ばれたのだな」

 

「勝手に美談へ翻訳するな! 俺はただ曹操と戦いたくないだけだ!」

 

 俺の悲鳴のようなツッコミは、彼らの耳には、謙虚な仁君の照れ隠しとしか聞こえていないようだった。

 

 

 俺は、汝南各地から提出された最新の人員報告の木簡を皆へ見せた。

 

 正確な総人数はまだ集計中だが、古城周辺だけでも、自力で長い距離を歩けない人間が多すぎる。

 

「いいか。人と兵糧を運ぶ時の基本だ。全員で一斉に逃げたら、道が人で詰まって全滅する」

 

 物理的な制約を並べるだけで、胃が痛くなってくる。

 

 使える荷車は、甘氏と糜氏が持ってきた五台を中心に、近隣の村から借りられる古い荷車が数台あるだけだ。

 

 負傷者を載せれば、食料を積む場所が減る。食料を積めば、歩けない者を乗せられない。

 

 数千人が同時に動けば、敵の斥候に一目で見つかる。道や橋が混雑し、一度でも列が止まれば、曹操軍の騎兵に追いつかれる。

 

 乳幼児や老人は、訓練された兵と同じ速さでは歩けない。

 

 避難の速度は、最も遅い者に引きずられる。

 

 張飛が、腕を組んだまま事も無げに言った。

 

「なら、前の奴から順番に全力で走らせればいいじゃねえか」

 

「後ろの奴は、前が動くまで進めないだろ! 一番狭いところで列が詰まるんだよ!」

 

「後ろからぐいぐい押せば進むだろ」

 

「避難民を槍衾みたいに押すな! 前の人間が潰れる!」

 

 すると、関羽が窓の外につながれている愛馬へ目を細めながら口を開いた。

 

「兄者。赤兎馬ならば、一日でかなりの距離を駆け抜けられますが」

 

「お前一人だけ先へ着いてどうするんだ!」

 

「兄者も後ろに乗ればよいのです」

 

「絶対に嫌だ! 赤兎馬は速すぎるし、お前の巨大な背中にしがみついて乗ったら、俺の腰が物理的に砕ける!」

 

 張飛が楽しげに声を上げて笑う。

 

「がはは! なら俺の後ろでもいいぞ、兄貴」

 

「そっちに乗ったら、腰だけでは済まずに命が消える!」

 

 馬の移動速度と、難民集団の移動速度は、まったくの別物だ。

 

 以前、汝南のどこかの夫婦から届いた、あの切実な苦情が頭をよぎる。

 

『夫が乗った老馬があまりにも遅く、妻が徒歩で追い抜いてしまった』

 

 あの老馬すら、貴重な輸送力として数えなければならないのが、今の俺たちの現実だった。

 

 

 俺は、避難民を一斉に動かす愚を避けるため、集団を四つに分け、時間をずらして出発させる計画を説明した。

 

「最初に出すのは、自力で長く歩けない重傷者、乳幼児、老人、体調の悪い者だ。荷車は三台。最低限の食料と傷薬、寝具を積む。甘氏には、この者たちの世話を頼む」

 

 甘氏が静かに頷く。

 

「承知いたしました」

 

「次は、兵ではない家族、侍女、使用人たちだ。炊事や裁縫ができる者、農具や生活道具を扱える者も一緒に動かす。荷車は二台。糜氏が物資の配分と、次の休息場所を整えるための道具を管理してくれ」

 

「帳簿類も第二陣へ載せます」

 

 糜氏が即答する。

 

「食料より先に決めるな。あとで話し合おう」

 

「話し合う余地はございません」

 

 嫌な予感しかしない。

 

「第三陣は、自力で歩ける一般の民、武装を解いた元山賊、蔡陽軍の降兵だ。物資を担いで歩かせ、道中では荷車を押し、橋を直し、道を塞ぐ物を片づけさせる。廖化、お前がまとめろ」

 

「はっ!」

 

「最後尾は、関羽、張飛、劉辟、龔都と、その配下の戦える者たちだ。敵の斥候を警戒し、古城にまだ大勢が残っているように見せかける。各集団が無事に通過したかを確かめる連絡役も兼ねろ」

 

 説明を終えると、張飛が当然のように身を乗り出した。

 

「なるほどな。で、兄者はもちろん最後尾で俺たちと一緒だな?」

 

「違う!」

 

 俺は即答した。

 

 全員の視線が俺に突き刺さる。

 

「俺は第一陣より先に行って、次の休息場所が安全かを確かめる! 先に道を見る役だ!」

 

 関羽がこれを聞き、またしても感心したように立派な髭を撫で回した。

 

「なるほど……。最も危険な先頭に立ち、自ら道を開きつつ、後続すべての行く先を見通すおつもりか。やはり兄者の視野は広い」

 

「違う! 俺はただ、誰よりも早く安全な場所へ逃げ込みたいだけだ!」

 

 張飛が首を傾げる。

 

「でもよ、兄貴。兄貴が最初にここを出ちまったら、誰が『最後の最後に出ていく奴』を決めるんだ? 荷物の割り振りで揉めたら、誰が裁くんだよ」

 

「……お前たちで話し合って決めろ」

 

 関羽と張飛が、寸分の狂いもなく同時に答えた。

 

「兄者がおられねば、我らでは決められませぬ」

 

「兄貴がいねえと、劉辟の野郎も龔都の野郎も、全員が勝手に動き出して喧嘩になるぞ」

 

「俺たちを喧嘩する前提で話すな!」

 

 劉辟が抗議する。

 

「では、龔都。もし橋を渡る順番で意見が割れたら、そなたは譲るか?」

 

 関羽に問われ、龔都が黙った。

 

 劉辟も黙った。

 

 俺は両手で顔を覆い、天を仰いだ。

 

「俺が! 一番! 逃げたいのに! なんで俺がいないと、誰も逃げられないんだよ!」

 

 組織の上に立つ者は、逃げる自由すら書類と裁可の山によって縛られるらしい。

 

 元公務員の悲哀が、千数百年の時を越え、俺の身へ深く染み渡っていた。

 

 

 全員への指示を終え、それぞれが準備に取りかかる中、俺は密かに機会をうかがっていた。

 

(とはいえ、書類の整理さえ終われば、第一陣へ紛れてこっそり先へ行ってやる)

 

 執務室の片隅で、甘氏が淡々と荷造りをしているのが見えた。

 

 俺の着替えや日用品、執務に使う小物を整理している彼女の手元を覗き込み、俺は眉をひそめた。

 

「おい、甘氏。なぜ俺の荷物がそこにあるんだ? 第一陣の荷車へ積み込むんじゃないのか?」

 

 それらの衣服は、第一陣ではなく、明らかに最後まで古城へ残す荷物の山に置かれていた。

 

 甘氏は衣服を丁寧に畳みながら、表情一つ変えずに答えた。

 

「先に運んでおいても、どうせあなたは『あれを忘れた』『これを残してきた』と仰って、最後に戻ってこられるでしょうから」

 

「今回は戻らない! 何を言っているんだ。曹操が本気で攻めてくるんだぞ。絶対に、絶対に最初に出ていって戻らない!」

 

 俺が必死に弁明するのを、甘氏はただ静かに見つめ、俺の衣服の袖にあったほつれを針と糸で直し始めた。

 

「では、ここにお残りの皆様や、不安に震える子供、怪我人を差し置いて、あなた様だけが先にお出になれますか?」

 

「出られるとも! 俺の命が一番大事――」

 

 言いかけて、俺は口を閉ざした。

 

 開け放たれた窓の向こう。

 

 中庭では、怪我をした若い兵が痛みに耐えながら荷車へ乗せられている。

 

 その側では、小さな子供たちが、何が起こっているのかも分からないまま、不安そうな目でこちらを見上げていた。

 

 俺は甘氏から、そして子供たちから、ばつが悪そうに視線を逸らした。

 

「……分かった。俺の荷物は、その、一番最後ではなく、すぐ持ち出せる位置に置いておいてくれ」

 

 甘氏は、やはり「分かっていました」と言わんばかりに、小さく、静かに頷くだけだった。

 

 

 一方、糜氏は実業家の血筋らしい冷徹な手際で、荷車へ積む物資の選別を行っていた。

 

「まず重傷者、子供、老人です。次に、道中で必要となる粟、麦、塩、乾燥肉。傷薬、布、鍋、寝具、生活道具も外せません」

 

 使用人たちが、糜氏の指示に従って荷物を分けていく。

 

「その次に、袁紹軍から預かった軍資金。使用済みと未使用の出納札、受け取りの証となる札、兵と民と降兵の人数を記録した木簡。杜遠一団から押収した略奪品の記録。各地の井戸、農地、兵糧、荷車の報告も必要です」

 

 俺は、荷車の場所を占領し始めた大量の木簡を見て、つい声を荒らげた。

 

「おい、糜氏! こんな重くて食べられもしない木簡を、なぜわざわざ持っていくんだ? 食料を積んだ方がましだろう!」

 

 糜氏は筆を持ったまま、冷たい視線を俺へ向けた。

 

「旦那様。これらは軍資金の使い道、預かった降兵の人数、そして接収した財産の記録です。置いていけば、どうなるかお分かりですか?」

 

「どうなる?」

 

「旦那様が、袁紹軍の公金をすべて私的に使い込み、略奪品を不法に処分したという扱いになります。曹操に捕まる前に、袁紹側の監査によって旦那様の首が物理的に飛びます」

 

 俺は即座に直立不動になり、木簡の山を指差した。

 

「帳簿を最優先で積め! 人命の次、いや、同等だ!」

 

 張飛が呆れ果てた声を出す。

 

「おいおい、兄貴。食料より帳簿が上なのかよ」

 

「当たり前だ! 食料がなくなれば腹が減るだけだが、帳簿がなくなれば横領の罪で首が飛ぶんだぞ! 監査を舐めるな!」

 

 糜氏がため息をつき、積み荷の割り振りを書き直した。

 

「では、傷薬と食料の次にいたします。これで旦那様の首は三番目ですね」

 

「……俺の命の優先順位が三番目に下がった気がするが、背に腹は代えられん」

 

 さらに糜氏から、馬用の飼葉もかなりの量を運ぶ必要があると告げられた。

 

 俺は、中庭で一頭だけ不釣り合いな威圧感を放っている真っ赤な巨躯――赤兎馬を見た。

 

「……あの馬、ここへ置いていったら駄目か?」

 

 関羽が凄まじい眼光で俺を睨みつけた。

 

「何を言われるか、兄者! 天下の名馬を敵に渡せと!?」

 

「だって、あの馬、一頭だけで普通の馬三頭分くらい粟を食うんだぞ! 燃費が悪すぎる!」

 

「赤兎馬は天下に二つとない名馬です!」

 

「天下の名馬であっても、粟を食わねばただの肉だ! そして食えば食うほど、俺たちの粟が減る!」

 

 俺は関羽の肩を掴んで詰め寄った。

 

「お前が『俺の馬だ』と言い張るなら、その飼葉の重さと同じ分だけ、お前の私物を減らせ。着替えや本を置いていけ」

 

「な、なぜ拙者が……!」

 

「持ち主としての権利だけ主張して、維持にかかる費用を軍全体へ押しつけるな! 支出を減らせ!」

 

 張飛が横から、けらけらと笑う。

 

「がはは! 面倒だから、飼葉の代金は曹操へ請求すればいいんじゃねえか?」

 

「馬を返せという書状と一緒に、お前を物理的に処分する追っ手が来るわ!」

 

 結局、赤兎馬の所有権と維持費を巡る不毛な議論は、ここでも何一つ解決しなかった。

 

 

 曹操軍の先遣隊にこちらの情報を与えないため、俺は汝南各地へ至急の命令を出した。

 

「劉の旗を下ろせ」

 

 劉辟と龔都が、青天の霹靂とばかりに驚愕した。

 

「な、なぜですか、玄徳公! 我らの結束の証である、あの『劉』の旗を!」

 

「当たり前だ。曹操軍は、その旗が掲げられている村から順番に、反乱へ関わったかを調べるに決まっている。俺の仲間だと一目で分かる目印を、わざわざ立てておいてやる必要がどこにある!」

 

 命令を聞いた近隣の村の代表者たちも、不安そうに古城へ押し寄せてきた。

 

「玄徳公、本当に旗を下ろさねばならないのですか? 旗がなくなれば、我らは公の庇護から外れたのだと周囲に思われてしまいます」

 

「近隣の山賊が戻ってくるかもしれません! 他の村からも『あいつらは裏切った』と疑われます!」

 

 俺は苛立ちを抑えきれず、机を叩いた。

 

「見捨てるから下ろせと言っているんじゃない! 敵の目からお前たちを隠すためだ! 標的にされたいのか!」

 

 その瞬間、村人たちの顔から不安が消え、一様に深い感銘の表情へ変わった。

 

「おお……。玄徳公は、ご自分のお名前をあえて隠してまで、我ら弱き民を守ろうとなさるのか……」

 

「そのような崇高なお考えを、我らは知らずに……!」

 

「もう、そういう美しい勘違いでいいから、とにかく一秒でも早く下ろせ!」

 

 すると、別の村人が涙を拭いながら熱く語り出した。

 

「分かりました! では、あの旗は決して捨てず、油紙に包んで土の中へ深く埋めておきます! そして、玄徳公が再びこの汝南へお戻りになった日に、天高く掲げてみせます!」

 

「戻ってくる日のための宝物みたいに保存するな! 見つからないよう徹底しろ!」

 

 しかし、俺の制止も虚しく、汝南各地の「劉」の旗は燃やされることなく、熱い忠誠心と共に地中へ埋められていった。

 

 表向き、汝南から劉備の旗は消えた。

 

 だが、その旗は俺の再起を待つ象徴として、以前より厳重に保存されてしまったのである。

 

 

 だが、すべての村が旗を下ろすだけで済むわけではなかった。

 

 すでに曹操側の役人や密偵に、

 

『あの村は劉備へ食料を提供した』

 

『劉備軍の道案内を買って出た』

 

 という情報が漏れている村も存在した。

 

 その一つの村の代表者が、顔を真っ青にして古城へ駆け込んできた。

 

「玄徳公、お助けください! 旗を下ろしたところで、我らが公へ従ったことは、すでに曹操軍に知られております! このまま残れば、村ごと反乱へ加わった者として処刑されるのは火を見るより明らかです!」

 

 俺は胃のあたりが急速に冷たくなるのを感じた。

 

(……最悪だ。俺は彼らに臣従など求めていない。ただ、略奪をしないという保証と、保護の目印として旗を掲げることを認めただけだ。だが、曹操が『旗を借りただけです』などという言い訳を聞き入れるわけがない!)

 

 ここで見捨てれば、俺が旗の使用を許した責任を問われる。

 

 何より、自分が認めた旗のために、罪もない人々が皆殺しにされるなど、元都庁職員としての良心が、そして一人の人間としての倫理観が許さなかった。

 

 俺はため息をつき、手元の木簡を引き寄せた。

 

「……そちらの村で、自力で歩けない者の正確な人数は?」

 

「えっ? ええと、老人が十数名と、怪我人が数名……」

 

「荷車は何台ある?」

 

「二台ほどございますが、車輪が傷んでおります」

 

「廖化! すぐに予備の車輪と補修用の木材を手配しろ。村の食料は何日分ある?」

 

「……五日分ほどです」

 

「家畜は連れていけるか? 誰が最後に村を出るかは決めているか?」

 

 俺が矢継ぎ早に、極めて具体的な質問を重ねるたび、村人の目に、みるみる希望の光が宿っていく。

 

 彼らにとって、この細かな事務作業こそが、救済の約束そのものに見えたのだろう。

 

「一度に古城へ押し寄せるな。道が詰まる。こちらが指定した時刻に、指定した裏道を通って移動を始めろ」

 

 村人は、その場に崩れ落ちるようにして、床へ額を擦りつけた。

 

「おお、玄徳公……! 我らのような行きずりの民まで、命を懸けてお救いくださるのですね……!」

 

「頭を下げる前に、さっさと戻って正確な人数を数え直せ! 一人の数え違いも許さん!」

 

 俺としては、自分が使用を認めた旗のせいで虐殺が起きれば、自分の責任になるため、やむを得ず保護対象へ加えるという、極めて官僚的な危機管理のつもりだった。

 

 だが、村人たちの目には、俺が彼らのために自らの退路を狭めてまで手を差し伸べる、無私の仁君にしか見えていなかった。

 

 

 避難の準備が進む中、龔都の部下の一人が、血気盛んな様子で恐ろしい提案を持ってきた。

 

「玄徳公! 持ち出せない兵糧や古城の建物、そして各地の村の家々は、すべて焼き払いましょう! 井戸を埋め、橋を落とし、村を焦土とすれば、曹操軍とて追撃の足を鈍らせるしかありません!」

 

「絶対に焼くな!」

 

 俺は反射的に、叫ぶような大声で却下した。

 

 龔都が怪訝そうに反論する。

 

「しかし、残しておけば敵の食料となり、兵の宿として使われますぞ!」

 

「家を焼いたら、戦いが終わった後に、戻ってきた村人たちはどこで寝るんだ! 井戸に毒を入れるな。畑を荒らすな。家を焼くな! 橋も、最後の避難民が渡りきるまでは、一本たりとも傷つけるな!」

 

 俺の脳内は、再び切実なソロバン勘定で満たされていた。

 

(アホか! 生活の基盤を全部壊したら、こいつら数千人を、この先ずっと俺の予算で養い続けなきゃいけなくなるだろ! 戻れる場所を残しておけば、状況が落ち着いた後に『では、お疲れ様でした』と、それぞれの村へ帰ってくれるんだよ! 自立支援の基本を忘れるな!)

 

 張飛が首を傾げる。

 

「でもよ、敵に米を残すのは癪じゃねえか?」

 

「持ち出せない米は、逃げる村人たちへその場で配りきれ。残った分を曹操が食うとしても、家や畑をすべて灰にするよりは、数千倍ましだ!」

 

 龔都は、信じられないものを見るように、目から大粒の涙をこぼした。

 

「……敵に勝つことよりも、戦の後に民が再び立ち上がり、帰れる故郷を残すことを優先されるとは。なんと慈悲深く、遠くまで見通したお考えか……!」

 

「戻る場所がなくなったら、全員が俺の背中へ、ずっとおんぶ紐でくっついてくるだろ! 俺が重さで潰れるんだよ!」

 

「おお……。そこまで民の将来を、ご自分の身を削ってまで考えておられるとは……!」

 

「なぜ俺が何を言っても、評価が天井を突き抜けるんだ!」

 

 

 古城からの撤退を前に、もう一つの大問題が持ち上がった。

 

 かつて略奪を働き、現在は古城の地下で拘束されている杜遠(とえん)と、その配下にいた元山賊たちの処遇である。

 

 張飛は、

 

「面倒だから、ここへ置いていけばいい」

 

 と言う。

 

 廖化は、

 

「解放すれば、すぐに曹操軍へ駆け込み、我らの正確な人数や避難路を売るでしょう」

 

 と懸念を示す。

 

 関羽は、

 

「連れていくとなれば、ただでさえ足りない兵を監視へ割かねばならん」

 

 と指摘した。

 

 どれを選んでも不利益しかない、最悪の三択だ。

 

 俺は頭を抱えた末、前世の役所でよく使った「判断を保留し、当面の処置だけを決める」という論理を適用することにした。

 

「よし、こうする。杜遠本人は、縛ったまま荷車へ乗せて連行する。ただし、杜遠と元の部下たちは同じ集団へ置かず、引き離せ」

 

 俺は木簡へ指示を書きながら続ける。

 

「元山賊のうち、負傷している者は、敵味方を分けず第一陣の荷車へ乗せて手当てする。動ける者は少人数に分け、廖化の部下に見張らせた上で、荷車を押す、橋を直す、道案内をするなど、避難作業へ参加させろ。当然、武器は返さない。略奪品はすべて証拠として、帳簿と一緒に運ぶ」

 

 張飛が眉をひそめる。

 

「逃げた奴はどうする?」

 

「作業中に逃げた者まで、無理に追いかけて殺す必要はない」

 

「もし曹操軍がいる北へ逃げていったら?」

 

「放っておけ。自分から一番危険で、死ぬ可能性の高い場所へ行きたいと言うなら、引き留める理由はない」

 

 張飛は、にやりと笑った。

 

「そりゃ確かに、逃亡というより、自分の首を曹操へ差し出しに行くようなものだな」

 

 杜遠の最終的な処分は、この場では決めず、保留とした。

 

 まずは目の前の引っ越し作業である。

 

 使えるものは、泥棒の持つ棒であろうと使い倒す。それが行政の正しいやり方だ。

 

 

 曹操軍の斥候は、間違いなく古城の周辺を嗅ぎ回っている。

 

 もしここが、すでにもぬけの殻だと知られれば、彼らは全力で追撃を始めるだろう。

 

 俺は、第一陣と第二陣が出発した後も、古城に大勢が残っているように見せかける偽装を徹底するよう命じた。

 

「城壁の旗は、そのまま残せ。見張りは一人ずつ、城壁の上を交代で、大股でゆっくり歩け。遠くから見て、何人も巡回しているように見せるんだ」

 

 皆が頷く。

 

「炊事の煙は普段通り、いや、普段より少し多めに上げろ。夜も各所で火を焚き続ける。空の鎧や古着を壁際へ置いて、人影に見せかけろ。太鼓も、あらかじめ決めた間隔で鳴らし続けろ。門前の足跡は消すな。荷車は城の反対側、南の裏門から出せ」

 

(曹操軍よ、しばらくは『中にまだ大軍がいるぞ』と疑って、城壁の外でじっと睨んでいてくれ! 頼むから、その間に俺を遠くまで逃がしてくれ!)

 

 関羽が感嘆の息を漏らした。

 

「なるほど。兵を減らしながら、敵の目には、かえって増えているように見せる。退却戦における見事な欺瞞策ですな」

 

 張飛も嬉しそうに拳を叩く。

 

「城を捨てるってのに、その空っぽの城そのものへ戦わせるわけか! 兄貴、冴えてるじゃねえか!」

 

「戦わせていない! 中身のない空城に、人がいるふりをさせるだけだ!」

 

 すると張飛が、嬉々として太鼓のばちを握り、凄まじい勢いで打ち鳴らし始めた。

 

 ドンドコドンドコドンドコドンドコ!

 

「おい! 張飛! 叩きすぎるな!」

 

「元気がねえと、敵に『逃げ腰になっている』と怪しまれるだろ!」

 

「元気すぎる空き城も、逆に不自然で怪しいわ! 普段通りの音を保てと言っているんだ!」

 

 俺は張飛からばちを取り上げ、廖化へ太鼓を鳴らす間隔の管理を任せた。

 

 

 日没直前。

 

 薄暗い夕闇に紛れて、第一陣が古城の南門から静かに出発を始めた。

 

 車輪の軋む音を極力抑えた荷車三台には、重傷者、幼い子供、老人、そして最低限の傷薬と食料、寒さをしのぐための布と寝具が、隙間なく積み込まれている。

 

 甘氏は、不安で泣き出しそうな子供の手を握り、負傷者の側について歩いていた。

 

 糜氏も南門まで来て、第一陣へ載せた食料と薬の数量を最後に確かめている。

 

 だが彼女自身は、帳簿と残り二台の荷車を管理するため、第二陣で出発する予定だった。

 

 俺は二人の妻のもとへ歩み寄った。

 

「……いいか、甘氏。安全な場所へ着いたら、何があってもこちらへ戻ってくるなよ」

 

 甘氏は何も言わず、ただ俺の泥で汚れた袖を一度だけ、ぎゅっと強く掴んだ。

 

 その小さな手の力強さに、俺は一瞬、息を呑んだ。

 

 甘氏はすぐに手を離し、前を向く。

 

 糜氏が、事務的ながらも、少しだけ声を和らげて言った。

 

「第二陣が出る時には、軍資金と、例の旦那様の首がかかった帳簿類を、私が責任を持って運びます」

 

「……俺より先に、その書類の束を逃がすのか?」

 

「当然です。帳簿は、旦那様と違って自分で走ることができませんので」

 

「俺だって、そんなに速く走れるわけじゃないぞ!」

 

「旦那様には、関羽殿と張飛殿がついておられます」

 

 俺が二人の義弟を振り返ると、関羽と張飛は胸を張り、力強く頷いた。

 

「あの二人に引きずられて運ばれたら、曹操に追いつかれる前に、俺の体が引きちぎれて死ぬ!」

 

 そんな俺の、冗談とも本気ともつかない叫びを背に、第一陣の静かな列がゆっくりと動き出し、汝南の闇の中へ消えていった。

 

 俺も、その列の最後尾へしれっと混ざり、そのまま古城から脱出しようと一歩を踏み出した。

 

 だが、その瞬間。

 

 背後から、無数の俺を呼ぶ声が容赦なく押し寄せてきた。

 

「玄徳公! 第二陣の出発準備が整いましたが、集合場所の割り振りはどうしますか!」

 

「玄徳公! 南の古い橋が、荷車の重さに耐えられないと廖化殿から報告が!」

 

「玄徳公! 隣村の避難民が、予定より早く到着し、入り口で混乱が起きています!」

 

「玄徳公! 拘束中の杜遠を、どの荷車に乗せるか、ご判断を!」

 

 俺は遠ざかっていく第一陣の背中を、涙目で虚しく見つめながら絶叫した。

 

「なぜ夜逃げの瞬間まで、俺だけこんなに残業させられるんだよ!!」

 

 

 俺は呼び出しを受け、古城南側の古い橋へ急行した。

 

 川に架かる木造の橋は、長年の放置で板が腐り、いくつかの支柱が川底の泥へ沈みかけていた。

 

 このまま荷車を続けて通せば、途中で橋ごと川へ崩れ落ちる可能性が高い。

 

 第一陣の荷車三台は、橋の手前で止まっていた。

 

 甘氏たちを先へ行かせるどころか、まだ一台も橋を渡れていない。

 

 別の頑丈な橋へ回れば、移動時間は倍以上になる。曹操軍の斥候に見つかる危険も跳ね上がる。

 

「……やるしかない。廖化! 元山賊や地元の民、糜家の使用人の中から、大工仕事ができる者、縄を扱える者、荷車を直したことがある者を集めろ!」

 

 俺は、かつて都庁で災害時の施設復旧計画を作った際の知識を総動員し、現場へ指示を飛ばした。

 

「まず荷車から、歩ける者を全員降ろせ! 人と荷物を分け、一台ずつの重さを減らすんだ。荷車は一台ずつ、ゆっくり渡らせろ!」

 

 人々が動き出す。

 

「橋の両側に丈夫な縄を張り、人が引いて荷車の傾きを支えろ。厚い板を追加で敷いて、車輪の重さを広い場所へ散らすんだ。橋の上では絶対に荷車を止めるな! 子供と老人は、荷車とは別に先に歩いて渡れ。押し合うな! 馬は最後だ。一頭ずつ歩かせろ!」

 

 張飛が、しびれを切らしたように鼻息を荒くする。

 

「兄貴、まどろっこしいぜ! 俺が後ろから、荷車ごと持ち上げて一気に押し渡せば早いだろ!」

 

「お前が、その規格外の重さで橋へ乗ったら、荷車より先に、お前ごと橋が落ちるわ! 川で泳ぎたいのか!」

 

 関羽が赤兎馬の手綱を引きながら進み出ようとした。

 

「赤兎馬ならば、この程度の崩れかけた橋など、一跳びで――」

 

「馬も後だと言っているだろうが!」

 

「しかし、こ奴の足取りは驚くほど軽いのですぞ」

 

「馬の足取りの話をしているんじゃない! 単純な重さの話だ!」

 

 この突貫工事の最中、元黄巾や山賊、降兵たちの中から、

 

「俺は昔、木こりをやっていました」

 

「俺は橋の修繕を手伝ったことがあります」

 

「縄なら任せてくれ」

 

 という者が次々と名乗り出た。

 

 驚くほど手際よく、橋の補強が進んでいく。

 

 俺が日頃から、彼らの前の仕事や特技を無駄に分類し、木簡へ記録していた人員資料が、戦場ではなく災害復旧と輸送の実務において、完璧な形で役立った瞬間だった。

 

 

 橋の補強を見届ける間にも、先へ出した斥候から、地形と敵情の報告が次々と届いた。

 

「報告します! 北の街道では、曹操軍の斥候が急速に増えており、突破は困難です!」

 

「東へ進めば、徐州や許昌方面へ近づきます。極めて危険です!」

 

「西の道は険しい山道で、荷車を通すことができません!」

 

 残された道は、南、あるいは南西へ続く街道だけだった。

 

 その先にあるのは――荊州。

 

(荊州……。領主の劉表は、俺と同じ漢の皇族だ。いきなり俺の首を刎ねるような真似はしないだろう。だが、あの男のもとへ逃げ込めば、今度はどんな厄介な役職や軍事任務を押しつけられる?)

 

 地図を睨み、脳内で新しい亡命先の待遇と不利益を計算していると、関羽がそっと尋ねてきた。

 

「兄者。すでに荊州の劉表を頼ることまで、遠く見通しておられるのですな」

 

「見通していない! 俺はただ、曹操から遠く、荷車が壊れずに通れる道を、消去法で探しているだけだ!」

 

 張飛が、にやにやしながら言った。

 

「劉表の親父なら、兄貴を大歓迎するに違いねえさ」

 

 俺は心底、嫌そうな顔を作った。

 

「歓迎されるのが、この世で一番恐ろしいんだよ。大歓迎の直後には、必ずその歓迎にかかった分を取り戻すための、膨大な厄介事がついてくるに決まっている!」

 

 俺は、荊州行きを正式に決めることは保留した。

 

「まず道中が安全か、川の渡し場が使えるかを確認しろ。本当に逃げ込めるかは、現地を見てから決める」

 

 あくまで現地の状態と、確かな報告を重視する。

 

 お役所仕込みの慎重姿勢だけは、こんな時でも崩さなかった。

 

 

橋の補修が終わり、第一陣の先頭の荷車が、ようやく橋へ乗り始めた。

 

一台目には、自力で長く歩けない重傷者と幼い子供たちが乗っている。橋板が荷重を受けるたび、ぎしり、ぎしりと嫌な音を立てた。

 

「ゆっくりだ! 一度に進むな! 前の車が向こう岸へ着いてから、次を渡せ!」

 

俺は橋のたもとで、声を枯らして指示を飛ばした。

 

本当なら俺が一番先に渡りたい。

 

むしろ、補修が終わった瞬間に走って渡り、そのまま南へ消えてしまいたい。

 

だが、最初の荷車が途中で落ちれば、後ろに並んでいる全員が止まる。そうなれば、最終的な責任はなぜか俺へ集中する。

 

責任者とは、誰より先に逃げたいのに、誰より先に逃げると怒られる理不尽な生き物である。

 

「玄徳様!」

 

北側の見張りに立っていた兵が、転がるように駆けてきた。

 

「北の街道に砂塵! 騎兵がこちらへ向かっております!」

 

俺の胃が、ぎゅっと縮んだ。

 

「旗は!?」

 

「『曹』の旗です!」

 

終わった。

 

いや、待て。

 

まだだ。まだ曹操本人とは限らない。

 

曹操軍である以上、「曹」の旗を掲げていても何もおかしくない。曹仁かもしれないし、曹洪かもしれない。名前も知らない中間管理職が、様子を見るために派遣されただけかもしれない。

 

「数は!?」

 

「遠目ではありますが、数百騎ほど! 後方にも砂塵が見えますが、本隊かどうかまでは分かりません!」

 

数百騎。

 

先遣隊だ。

 

少なくとも、今見えているのは曹操軍の本隊ではない。

 

俺は胸をなで下ろしかけ――すぐに別の恐怖へ気づいた。

 

先遣隊ということは、その後ろから本隊が来る。

 

しかも、こいつらに避難の途中だと知られたら、橋を渡り終える前に大勢の騎兵が追加される。

 

全然安心できない。

 

むしろ締め切り時刻が具体的になっただけだ。

 

「第一陣を急がせろ! ただし橋の上では走らせるな! 第二陣は荷物を持てる者へ分けろ! 荷車だけに積むな!」

 

「兄者」

 

関羽が青龍偃月刀を手に、北の街道を見据えた。

 

「敵が数百騎ならば、ここで迎え撃ち、先鋒を打ち破ることもできましょう」

 

「迎え撃たない!」

 

俺は即答した。

 

「数百騎を倒したら、次はもっと大勢が来るだろ! 先遣隊は本隊へ戻してやれ! ここにはまだ兵が残っている、攻めれば痛い目を見ると思わせればいい!」

 

「なるほど」

 

関羽が深く頷いた。

 

「敵を討ち取ることより、近づかせぬことを優先されるのですな」

 

違う。

 

近づいてほしくないし、戦いたくもないし、できれば敵には俺の存在そのものを忘れてほしい。

 

「張飛! お前も絶対に追うなよ!」

 

「まだ何もしてねえだろ!」

 

「これからする顔をしてるんだよ!」

 

張飛は不満そうに鼻を鳴らしたが、蛇矛を肩へ担ぎ直した。

 

関羽と張飛には、俺が目先の手柄に惑わされず、避難民全員の生存を優先しているように見えたらしい。

 

関羽が静かに言った。

 

「兄者。橋は我らが守ります。嫂君らと民を先に」

 

「俺も一緒に先へ――」

 

言いかけたところで、南側から別の声が飛んできた。

 

「旦那様! 第二陣の荷車へ載せる物資の順番を決めてください!」

 

糜氏だった。

 

続いて橋の上から、

 

「玄徳様! 先頭の車輪が橋板の隙間へ嵌まりました!」

 

さらに北側から、

 

「敵騎、速度を上げています!」

 

逃げようとするたびに、仕事が増える。

 

どうして俺の人生は、退路にだけ次々と窓口が開設されるのだろう。

 

「荷車を止めろ! 無理に引くな! 橋板の下へ板を差し込め! 第二陣は食料と傷薬を優先しろ! 関羽と張飛は北側から動くな! 敵が退いても追うなよ!」

 

俺が叫ぶと、周囲の兵たちが一斉に動き始めた。

 

誰もが、俺の命令には一切の迷いがないと思っているようだった。

 

実際には、迷いしかない。

 

俺は今すぐ橋を渡るべきなのか。

 

荷車を助けるべきなのか。

 

曹操軍の騎兵が来る前に隠れるべきなのか。

 

袁紹から預かった軍資金だけを抱えて逃げるべきなのか。

 

できることなら、全部を誰かに任せて、安全な場所で昼寝をしたい。

 

「玄徳様!」

 

物見の兵が再び叫んだ。

 

「曹操軍の先遣騎兵、古城へ近づいております!」

 

その背後に本隊がいるのか。

 

誰が率いているのか。

 

曹操本人まで来ているのか。

 

今の俺たちには、まだ何も分からなかった。

 

ただ一つ確かなのは、もう時間が残されていないということだけだった。

 

第一陣の一台目の荷車が、ようやく橋の向こう岸へ辿り着こうとしている。

 

俺はまだ、橋のこちら側にいた。

 

(俺は……一番先に逃げて、安全な場所で昼寝をするはずだったんだけどな……)

 

北の街道では、「曹」の旗を掲げた騎兵たちが、古城へ迫りつつあった。

 

 

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