劉備に転生した俺、三国志が思ったより治安悪すぎる ~ニートになりたいだけなのに、関羽と張飛が俺を覇王にしようとしてくる~ 作:ブンチョウ
第一陣の一台目が、橋の向こう岸へ着いた。
続く二台も、橋板を軋ませながら、ゆっくりと南側へ渡っていく。
落ちなかった。
ひっくり返らなかった。
橋も壊れなかった。
これだけ聞けば順調に思えるが、北の街道からは「曹」の旗を掲げた先遣騎兵が迫っている。
俺は橋の北側で、胃を押さえながら叫んだ。
「次の荷車を進めろ! ただし急ぐな! 橋の上では絶対に走らせるな!」
「急げと言った直後に、急ぐなとは難しい注文ですな」
関羽が青龍偃月刀を握ったまま、冷静に指摘してくる。
「時間は急げ! 動きは慎重にしろ! それくらい空気を読んでくれ!」
俺が無茶な要求をしている間にも、北の街道から上がる砂塵は、少しずつ大きくなっていた。
最初に見つけたのは、数百騎ほどの先遣隊だった。
だが、その後方から、さらに巨大な砂塵が立ち上っている。
嫌な予感しかしない。
前世で言えば、窓口へ怒鳴り込んできた客の後ろから、その会社の法務部と役員と社長本人が、資料を揃えて歩いてくるような光景である。
それでも俺は、まだ希望を捨てていなかった。
「待て。落ち着け。曹の旗があるからって、曹操本人とは限らないだろ。曹仁とか曹洪とか、もっと話の通じそうな親戚かもしれない」
横で関羽が北を見据えた。
「兄者の言う通りです。曹軍の将ならば、あの旗を掲げても不思議ではありません」
「そうだろう! よし、まだ望みはある!」
俺が胸をなで下ろした瞬間、物見の兵が馬から転げ落ちるように駆け込んできた。
「玄徳様! 先遣隊の後方に、大軍を確認しました!」
「指揮しているのは誰だ!?」
「遠目ではありますが、中央に黒い
「本人確認をそんなに詳しくするなッ!」
俺は頭を抱えた。
だが、報告はまだ終わっていなかった。
別の物見が、息を切らせて駆けてくる。
「北の村からも知らせです! 曹操本人が馬を駆り、こちらへ向かっているとのこと!」
本物だ。
間違いない。
曹操が自分で来た。
官渡の戦後処理だけでも死ぬほど忙しいはずの最高責任者が、部下へ任せず、汝南まで出張してきた。
汝南の反乱勢力を鎮め、袁紹の影響を断ち、その中心にいる俺をまとめて処理するつもりなのだろう。
俺の知っている歴史では、絶対に逆らってはいけない撤退行事である。
「曹操自ら来たならば、ここで決着を――」
関羽が青龍偃月刀の柄を握り締める。
「つけない! 本人が来たから逃げるんだよ!」
「敵の総大将を討てば、この戦は終わるぞ!」
張飛まで蛇矛を振り回し、好機を得たように鼻息を荒くしている。
「総大将へ近づく前に、こっちの命が終わるんだよ! 曹操本人を狙うな! 第一陣を渡らせろ!」
俺の頭に「勝利」の二文字など、一瞬たりとも浮かんでいなかった。
あるのは避難、撤退、責任回避。
全員が生きて逃げれば大成功。
一人でも余計に死ねば、なぜか最後は俺の判断が悪かったことにされる。
関羽と張飛には、そんな俺の必死な顔が、敵将の首という目先の手柄に惑わされず、全軍の生存を優先する大将の姿に見えたらしい。
二人は静かに目を合わせ、深く頷いていた。
何を納得した。
やめろ。
勝手に俺の覚悟を高く見積もるな。
◆
曹操本人到着という凶報が届いた頃、第一陣の荷車三台は、どうにか橋を渡り終えていた。
甘氏、重傷者、幼い子供、老人たちは南側へ移動した。
続いて第二陣が橋へ向かう。
糜氏が率いる二台の荷車には、食料、傷薬、衣類、生活道具、そして袁紹軍から預かった軍資金と帳簿が積まれていた。
ところが、そのうち一台が橋の手前の泥濘へ車輪を取られ、完全に動かなくなった。
「おい、何があった! なんで止まってるんだ!」
俺が駆け寄ると、糜氏は侍女たちへ落ち着いて指示を出していた。
「旦那様、焦って引けば車輪が壊れます。中身を一度降ろします」
「俺が後ろから押せば一発だ!」
張飛が腕をまくる。
「壊すな! 力任せに押すな張飛! その中には俺の無実が積んであるんだ!」
「無実?」
関羽が不思議そうに眉を動かした。
「これは軍資金と帳簿ではないのか」
「帳簿があるから俺の無実が証明できるんだよ! 金だけ減って帳簿がなくなってみろ! 袁紹側からも曹操側からも、俺が混乱に乗じて公金を持ち逃げしたって言われるだろ!」
「旦那様、軍資金そのものも残してください」
糜氏が真顔で付け加えた。
「これがなければ、次の土地で食料も人手も得られません」
「分かってる! 金も大事だし、帳簿も大事だ! だから全部助けろ!」
人を助けるだけでも大変なのに、今度は金と書類の救助活動である。
俺は荷車の上を指さした。
「まず食料と傷薬を降ろせ! 金は小袋に分けて、手の空いている者に持たせろ! 帳簿は布で三重に包め! 絶対に濡らすな!」
荷物をすべて降ろし、空になった荷車を引き上げようとした。
張飛が力を込める。
「ぬおおおおっ!」
嫌な音がした。
バキィッ。
荷車の車軸が、見事に折れた。
沈黙が流れた。
俺は壊れた車軸を見つめた。
「……一台減った」
これで使える荷車は五台から四台になった。
第一陣の三台は、すでに南側へ渡っている。
こちら側で使えるのは、第二陣の残り一台だけだ。
泣いている暇はない。
俺は折れた荷車を指さした。
「これを橋の北側へ運べ! 横向きに倒して、道を塞ぐんだ!」
「捨てるのですか?」
廖化が尋ねる。
「捨てるんじゃない! 敵の騎兵を止める障害物として再利用する!」
壊れた備品でも、最後まで役に立ってもらう。
前世で言えば、減価償却を終えた公用車を庁舎前の車止めへ転用するようなものだ。
もっとも、公用車を横倒しにして敵騎兵を止める部署には、勤めた覚えがない。
◆
荷車から降ろした荷物は、人の手で橋を渡すことになった。
帳簿を抱える者。
傷薬を背負う者。
軍資金の小袋を持つ者。
担架を運ぶ者。
全員が狭い橋を行き交うものだから、橋の上は大混雑である。
その最中、負傷者を乗せた担架が大きく傾いた。
「うわっ!」
担架を運んでいた兵の一人が、抱えていた銭袋を支えるべきか、川へ落ちかけた負傷者を掴むべきか、一瞬だけ迷った。
「何をしてる! 人が先だ! 金は落ちても後で拾える!」
俺は考えるより先に橋板を蹴り、担架の端を掴んだ。
人命救助最優先。
前世の防災訓練で、耳にたこができるほど聞かされた言葉である。
「しっかり持て! そのまま南へ運べ!」
負傷者は無事に橋を渡った。
代わりに銭袋が一つ、橋の隙間から落ち、浅瀬の泥へ沈んだ。
俺はすぐに川岸を指さした。
「よし、次は金だ! 拾え! 一枚も流すな! 泥を払えばまだ使える!」
「兄者」
張飛が呆れたように俺を見る。
「さっき、人が先だって格好よく言ったばかりじゃねえか」
「人が先で、金は捨てろなんて一言も言ってない! 命が助かっても、明日から全員で餓死したら意味がないだろ!」
関羽が感銘を受けたように顎を引いた。
「民の命を何より先に救いながら、預かった財にも責任を尽くす。兄者の誠実さ、恐れ入ります」
人が死ぬのも嫌だ。
金がなくなるのも嫌だ。
だが一番嫌なのは、
『お前の判断で人が死んだ』
『お前が金をなくした』
と、あとから全責任を俺へ押しつけられることである。
俺の切実な危機管理は、またしても立派な仁義へ変換された。
◆
古城には、まだ大量の旗が残されていた。
空の衣服や鎧を立たせ、遠目には兵が並んでいるように見せている。
いくつかの竈では火を焚き、城内に大勢が残っているよう炊煙を上げていた。
廖化が古城から運ばせた太鼓を、橋の北側の小高い場所へ置く。
「敵へ、まだ兵が残っていると思わせます」
「よし、俺が鳴らしてやる!」
張飛が太鼓のばちを握った。
ドン!
ドン!
ドドドドドドドドン!
地面まで震えた。
「鳴らしすぎだ張飛!」
俺は耳を押さえて怒鳴った。
「それじゃあ『ここに大軍がいるぞ、決戦しよう』と曹操を誘ってるようなものだろ!」
「弱々しい音だと、逃げたってすぐに分かるだろ?」
「強すぎれば、曹操が本気で攻めてくるんだよ! ほどほどにしろ!」
張飛は不満そうに力を抜いた。
ぽん。
……ぽん。
…………ぽん。
今度は信じられないほど情けない音が響いた。
定年退職後の太鼓同好会でも、もう少し元気よく叩く。
「弱すぎる! 病人しか残っていないのが丸分かりだ!」
「兄者」
関羽が真剣な顔で尋ねた。
「敵へ適度な兵力を思わせる太鼓とは、どの程度の音なのだ」
「俺に太鼓の加減まで決めさせるな! そこそこの人数が、油断なく警戒しているような音だよ!」
「それが分からねえから聞いてるんだろ」
「俺だって分からないよ!」
張飛は何度か叩き方を変えた。
やがて、一定の間隔で重く響く、駐屯兵が警戒を続けているような調子へ落ち着いた。
不思議なことに、こういう時だけ妙に器用である。
「それだ! それを続けろ!」
「最初からそう言え!」
最初から説明できるなら苦労しない。
俺はすでに、曹操軍と戦う前から過労死しそうだった。
◆
関羽が橋の北側で
赤兎馬が身を翻す。
その臀部から、塗ってあった泥がぽろりと剥がれ落ちた。
下から現れたのは、くっきりと焼き付けられた「司空府」の所有印である。
「関羽! 後ろ! 司空府の印がまた見えてるぞ!」
関羽は、心の底からうんざりしたような顔で振り返った。
「……兄者。書付や所有の話は、しばらく忘れてはくれまいか」
「忘れられるか! 今から元の持ち主が大軍を連れて来るんだぞ!」
関羽は赤兎馬のたてがみを撫でた。
「書付がどうあれ、こいつの主人は俺だ。すでに魂が通じ合っている」
「気持ちが通じただけで、持ち主になれるわけじゃないんだよ!」
「がはは!」
張飛が腹を抱えて笑った。
「関羽の奴、すっかり馬に惚れ込んでやがる!」
「惚れてはおらん」
関羽は厳かに否定した。
「こいつは俺の友だ」
赤兎馬も言葉を理解したように、ブルルと鼻を鳴らし、大きく首を上下させた。
完全に相思相愛である。
俺たちが言い争っている間にも、第二陣の荷物は次々と橋の南側へ運ばれていた。
「友ねえ」
張飛が面白そうに赤兎馬を見る。
「なら、今度は俺たち三兄弟と一頭で、桃の木の下へ集まるか?」
冗談だった。
少なくとも張飛は冗談のつもりだった。
だが関羽は本気で考え込み始めた。
「うむ。同年同月同日に生まれずとも、義の道を共に歩む友。誓いの文句を少し改めれば――」
「改めるな!」
俺は叫んだ。
「桃園の誓いに馬を加えるな!」
「死ぬ時も一緒か?」
張飛が赤兎馬の顔を覗き込む。
「馬の方が寿命は短いぞ」
関羽が真剣な顔で赤兎馬を見る。
「考えるな! 誓い直すな! 今は全員で生きて逃げる話をしてるんだよ!」
桃園の誓いに第四の仲間が加わる未曾有の危機を、俺は全力で阻止した。
◆
曹操軍の先遣騎兵が、古城から橋へ続く道に姿を現した。
先頭の騎兵は、横倒しにした壊れた荷車を見て速度を落とす。
道幅が狭まり、一度に大勢の馬が通れない。
「来たぞ!」
龔都が武器を構えた。
「玄徳公! 敵の先鋒は数百! ここで叩けば、民を安全に逃がせます!」
「前へ出るな」
俺は低い声で命じた。
「荷車の向こう側へ踏み込むな。敵が退いても追うな。勝っても追うな。何があってもその場所を守れ」
関羽が俺を見る。
「敵将が目の前で挑発してきてもですか」
「絶対に追うな!」
俺は続いて張飛を指さした。
「特にお前だぞ!」
「なんで俺だけ見るんだよ!」
「お前が一番、勢いで追いかけそうだからだよ!」
ここで関羽や張飛が敵を蹴散らし、調子に乗って本隊へ突っ込んだら終わりだ。
戦いが広がる。
避難が止まる。
曹操本人が来る。
そして俺が死ぬ。
龔都や周囲の兵には、俺が敵の首や勝利よりも、民と全軍の生還を優先しているように見えたらしい。
「玄徳公の命、心得ました!」
龔都が力強く答える。
敵騎が壊れた荷車の左右から、一騎ずつ抜けてくる。
「今だ!」
関羽の青龍偃月刀が一閃した。
騎兵が馬上から叩き落とされる。
反対側では張飛が蛇矛を突き出し、別の騎兵の進路を塞いだ。
二人とも俺の命令を守り、前へは出ない。
荷車を抜けてきた敵だけを、橋の手前で確実に止めている。
「矢を無駄にするな!」
俺は後方から叫んだ。
「敵が集まった時だけ射ろ! 負傷者が出たら、すぐ南へ運べ! 数を漏らさず記録しろ!」
廖化が兵をまとめ、一定の間隔で少しずつ橋へ下がらせる。
見た目だけなら、俺が後方から戦場全体を把握し、一糸乱れぬ指揮をしているように見えただろう。
実際には、二人の戦闘狂が曹操軍へ突っ込まないよう、見えない綱を必死に引いているだけである。
「兄者!」
張飛が敵将らしき男を見つけ、目を輝かせた。
「あと一歩で、あいつの首が取れる!」
「取るな! 戻れ!」
「もう少しだぞ!」
「その首を取っている間に、曹操本人が到着するんだよ! 早く戻れ!」
張飛は心底残念そうに舌打ちし、橋の方へ下がってきた。
命令を守っただけで褒めたくなる。
普段の信用が低すぎる。
◆
第二陣の荷物が渡り終え、第三陣の民と降兵たちも橋を越えた。
劉辟と龔都には、先に南側へ渡ってもらう。
俺は二人を呼び止めた。
「いいか。橋を越えた後、全員で同じ道を行くな。これだけの人数が固まれば、すぐに見つかる」
二人が真剣な顔で頷く。
「旗はすべて外せ。武器は布で包め。兵だけで集まるな。家族や村ごとに分かれ、戦える者は自分たちの家族や仲間を守れ」
俺の本音は単純である。
数千人が一か所に固まっていたら、まとめて包囲される。
とにかく小さく分かれて、曹操軍の視界から消えてほしい。
劉辟が目を見開いた。
「一軍としての形を捨て、民をそれぞれの土地へ戻すのですな」
「そうだ。戦うために散るんじゃない。生き残るために散るんだ」
「我らの仕事は、何でしょう」
「劉辟。お前は家族、老人、子供を連れた者たちを率いろ。汝南の山間や隠れ里へ分かれて身を潜めるんだ」
俺は言葉を続けた。
「戦うことばかり考えるな。井戸を守れ。畑を荒らすな。種籾を残せ。曹操軍が去った後、すぐ生活へ戻れるようにしておけ」
劉辟の目に涙が浮かんだ。
「我らが再び暮らせる日まで考えてくださるとは……」
俺だって、避難させた数千人全員を永遠に養えるわけではない。
自分の村で暮らせる者には、一日でも早く戻ってもらわなければ、こちらの兵糧が先に尽きる。
「龔都。お前は動ける者を連れ、南西へ向かえ。ただし大人数で固まるな。あえて足跡を残し、曹操軍の目をそちらへ向けろ」
「承知!」
龔都が拳を握る。
「我らが命を懸け、追手を引きつけます!」
「命を懸けるな!」
俺は即座に怒鳴った。
「追手が増えたら散れ! 危なくなったら役目を捨てて逃げろ! 一人も無駄に死ぬな!」
龔都が息を呑んだ。
「我らの命まで、そこまで惜しんでくださるのですか」
「俺の命令で死なれたら、寝覚めが悪いんだよ!」
劉辟と龔都は、なぜか一層感激した様子で深く頭を下げた。
二人はそれぞれの集団を率いて南側へ渡っていく。
表向き、汝南から「劉」の旗は消える。
兵と民は家族や村ごとの小さな集団へ戻り、山林や間道へ分かれていった。
軍勢としては消えても、なぜか俺への感謝だけは残ったままだった。
◆
残るのは、俺、関羽、張飛、廖化、そして一握りの兵だけとなった。
「よし、これで全員渡ったな!」
俺が橋へ向かおうとした、その時だった。
北側から、一人の少年が泣きながら戻ってきた。
周囲の怒号も馬蹄も耳に入っていないように、地面を見ながら歩いている。
「おい! 何を戻ってきてるんだ!」
俺は少年へ駆け寄った。
「こっちへ来い!」
「お、お母ちゃんがいません」
少年は顔を涙でぐしゃぐしゃにしていた。
「途中ではぐれちゃって……」
古城の向こうから、曹操軍の怒号が聞こえる。
壊れた荷車の障害も、いつまで持つか分からない。
頭の中に、冷たい計算が浮かんだ。
一人を助けるために立ち止まれば、全体の危険が増す。
災害時には、救助する側まで危険へ入ってはならない。
前世で何度も聞いた正論である。
それでも俺の手は、少年の細い腕を掴んでいた。
「お母ちゃんを探すなら橋の向こうだ! ここへ戻ってきても見つからない! このまま残ったら、お前まで死ぬぞ!」
俺は少年を半ば抱えるようにして橋へ連れていく。
「玄徳様も、いっしょに来てくれるの?」
少年が涙目で俺を見上げる。
「当たり前だろ! 俺がいなきゃ、この先どちらへ逃げるか、決める奴がいないんだよ!」
英雄的な言葉ではない。
現場責任者としての、ただの愚痴だった。
だが少年は安心したように俺の手を握り返した。
俺は少年と共に橋を渡る。
続いて廖化と兵たちが渡り、最後に関羽と張飛が北側から下がってきた。
「橋板を外せ!」
俺が叫ぶと、南側に残していた兵たちが、あらかじめ緩めておいた橋板を数枚だけ引き抜いた。
張飛が大斧を担ぐ。
「全部叩き落とした方が早いぞ!」
「全部壊すな!」
俺は張飛の手を止めた。
「北側に逃げ遅れた者が残っているかもしれない。それに、戦が終われば地元の村人が使う橋だぞ! 完全に壊したら、あとで誰が直すんだ!」
俺の本音は、公共の橋を完全に破壊した責任を負いたくないという一点に尽きる。
橋を壊したせいで村人が川へ落ちた。
交易が止まった。
収穫物を運べなくなった。
そんな話が後世まで残ったら最悪である。
「橋板を数枚外すだけでいい! 綱も少し緩めろ! 壊れた荷車があるから、馬はすぐに渡れない!」
関羽が深く感銘を受けたように頷いた。
「敵を阻みながら、民のための道を残される。兄者の慈悲は、戦の後まで及ぶのですな」
曹操軍には人も技術もある。
完全に壊しても、どうせ直される。
それなら最初から、余計な破壊の責任を背負わない方が得なのだ。
◆
やがて曹操軍の本隊は、静まり返った古城へ入った。
城内には、人の姿がない。
ただし、完全な荒れ地になっているわけでもなかった。
竈には、まだわずかに温かい薄粥が残っている。
城壁の上に並んでいた兵は、空の衣服と鎧を組み合わせたものだった。
負傷者を治療していた場所は、急いで立ち去ったとは思えないほど整えられていた。
曹操のもとへ、部下から次々と報告が届く。
「城内に火を放った跡はありません」
「井戸への毒も、畑の破壊もありません」
「軍資金、帳簿、兵糧は、残らず運び出されたようです」
さらに別の将が駆け込んだ。
「黄巾の残党と、その家族や村人たちですが、軍勢としてまとまったまま逃げた様子がありません。小さな集団へ分かれ、山林や村々へ消えています」
「兵だけで逃げたのか」
曹操が問う。
「いえ。老人、子供、負傷者も伴っております。旗や軍装は捨てられ、どの集団に兵がいるか判別できません」
曹操は、静かに城内を見渡した。
曹操が自ら汝南まで兵を進めた目的は、劉備一人を討つことだけではない。
この地に残る黄巾系の勢力を鎮め、袁紹の影響を断ち、許都に近い汝南を再び安定させる必要があった。
だが、その火種の中心に劉備がいたことも事実だった。
劉備は、ただ敗走したのか。
それとも、この短い間に民と兵をまとめ、最初からこの分散まで計画していたのか。
曹操にも断定はできなかった。
しかし、老人や子供、負傷者まで置き去りにされていない。
家屋も井戸も畑も壊されていない。
軍勢としての形は消えているのに、人々が劉備を見捨てた形跡もなかった。
周到に計画したのなら、恐るべき統率力である。
混乱の中で成し遂げたのなら、それはそれで底知れない。
城や兵糧を奪うことはできる。
軍勢を打ち破ることもできる。
しかし、人の心に残ったものまで、剣で断つことはできない。
「追え」
曹操は短く命じた。
「劉備自身は、この地には留まれぬ。大勢を連れて進める道は限られている。南だ」
部下たちが一斉に動き出す。
空になった古城に、再び馬蹄の音が響いた。
◆
俺たちは橋を越え、南へ向かっていた。
劉辟と龔都の集団は、それぞれ別の道へ分かれていく。
残った本隊も、できるだけ小さな列にして進ませていた。
そこへ、各方面へ出していた物見が戻ってくる。
「玄徳様! 北は曹操軍の本隊が押さえています!」
「東は曹操の支配地です! 進めばすぐに見つかります!」
「西の山道は険しく、荷車を通すことができません!」
俺は泥まみれの地図を広げた。
北は曹操。
東も曹操。
西は山。
大人数と荷車四台を連れて進める道は、一つしか残っていない。
「……南か」
関羽が地図を指さす。
「南、あるいは南西。荊州へ通じる道ですな」
「劉表を頼ればいいじゃねえか」
張飛が気楽に言った。
「同じ漢の皇族なんだろ?」
「嫌だよ!」
俺は心の底から叫んだ。
「また有力者のもとで客将になるのかよ!」
前世でも転職活動は胃が痛かった。
しかも今度の就職先は劉表である。
家柄がよく、領地も広く、人材も多い。
その代わり内部には派閥があり、後継問題もあり、本人は慎重すぎて決断が遅い。
絶対に面倒な職場だ。
「兄者ほどの名声があれば、客将ではなく賓客として迎えられましょう」
関羽が慰めるように言った。
「それが一番困るんだよ!」
「なぜだ?」
「下の立場なら、命令されたから仕方がないと言えるだろ! 対等な客として迎えられたら、笑顔で無理難題を押しつけられても、角を立てずに断らなきゃならないんだよ!」
関羽は、よく分からないという顔をした。
張飛は、もっと分かっていない顔をしていた。
だが、文句を言っている場合ではない。
南へ逃げなければ、曹操に追いつかれる。
それだけは、俺にも理解できた。
◆
「何はともあれ、橋板を外して荷車で道を塞いだんだ」
俺は老いた荷馬の横で、ようやく息を吐いた。
「これで半日……いや、最低でも数刻は稼げるはずだ」
その瞬間。
物見の兵が、本日一番の絶望的な顔で戻ってきた。
「玄徳様! 大変です!」
「今度は何だ!」
「曹操軍が、もう橋を直しています!」
「もう!?」
「はい! 壊れた荷車を大勢でどかし、近くの林から木を切り出しております! 外した橋板の代わりも、すぐに渡されました! 先頭の騎兵は、すでに橋を越え始めています!」
「兄者が橋を全部壊すなって言うからだぞ」
張飛が呆れたように言った。
「人道的な判断が、今この瞬間だけ完全に裏目へ出てるじゃないか!」
曹操軍の橋を直す手際を甘く見ていた。
考えてみれば当然である。
曹操は大軍を動かす男だ。
川を渡れません。
橋が壊れています。
直せる者がいません。
そんな理由で進軍を諦めるはずがない。
「急ぐぞ、兄者」
関羽が赤兎馬へ跨る。
いつの間にか泥を落とされ、司空府の印までぴかぴかに見えている。
隠す気があるのか。
隣では張飛も、引き締まった一級の軍馬の手綱を握っていた。
そして俺の前へ連れてこられたのは、避難物資と負傷者へ良馬を回した結果、最後に残った老いた荷馬だった。
とぼとぼ。
非常にゆっくり歩いている。
これでは馬というより、前世の軽トラックから速度を取り除いた農作業用の運搬車である。
「……もう少し速い馬はいないの?」
「贅沢言うなよ、兄者」
張飛が笑う。
「嫌なら関羽の馬に乗せてもらえ」
関羽が真顔で頷いた。
「うむ。我が友も、兄者の重みならば受け入れるだろう」
赤兎馬が、フンッと鼻を鳴らした。
明らかに嫌そうだった。
「もう完全にお前たち二人で一組じゃないか! 俺が乗る隙なんかないよ!」
結局、俺は老いた荷馬の背に揺られ、避難列の最後尾を進むことになった。
前を行く赤兎馬は速い。
張飛の馬も速い。
俺の馬だけが遅い。
背後からは、修復された橋を渡る曹操軍の騎兵たちの足音が、地響きとなって近づいてくる。
俺は一番先に逃げるつもりだった。
誰よりも安全な場所へ行き、ゆっくり昼寝をするつもりだった。
それなのに、どうしてまた俺が最後尾なのだろう。
こうして劉備軍の荊州へ向かう、泥まみれで胃の痛い逃亡生活が、本格的に始まった。