劉備に転生した俺、三国志が思ったより治安悪すぎる ~ニートになりたいだけなのに、関羽と張飛が俺を覇王にしようとしてくる~   作:ブンチョウ

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第29話 荊州入境、履歴書に反乱歴が多すぎる

荊州の関門が見えた時、俺は本気で助かったと思った。

 

街道の先に、土塁と木柵を組み合わせた関がある。高い物見櫓には荊州の旗が翻り、門前には槍を持った兵が整列していた。

 

あそこを越えれば荊州だ。

 

曹操も、さすがに劉表の領内へ簡単には踏み込めない。

 

踏み込めば、劉備一人を追うだけでは済まない。荊州牧である劉表との争いになる。

 

「着いた……」

 

老いた荷馬の背で、俺は長い息を吐いた。

 

古城を捨て、橋を渡り、曹操本人に追いかけられながら、ここまで南へ逃げてきたのだ。

 

橋を渡った直後は、曹操軍の騎兵がすぐ背後まで迫っていた。

 

だが、劉辟と龔都が別方向へ残した足跡や轍が、追手の目を散らしてくれた。関羽と張飛も交代で後方を警戒し、近づきすぎた物見を追い払った。

 

そのおかげで曹操軍の本隊とは、どうにか距離を離すことができた。

 

もっとも、完全に振り切れたわけではない。

 

数騎の物見は、今も俺たちの後を離れずについてきている。

 

途中で荷車を一台失った。

 

使える荷車は四台。

 

その四台には負傷者、老人、子供、食料、傷薬、それに袁紹から預かった軍資金と、俺の無実を証明する大量の帳簿が詰め込まれている。

 

劉辟と龔都の一団は、曹操軍の目を散らすために分かれた。

 

俺のそばに残っているのは、関羽、張飛、甘氏、糜氏、廖化とその仲間、蔡陽軍の降兵、杜遠の元部下、捕虜の杜遠。

 

それに、帰る村を失った者、負傷者の家族、どうしても同行を望んだ古城の民たちである。

 

人数は――正直、まだ完全には把握できていない。

 

だが、もういい。

 

荊州へ入れば、少なくとも今日は曹操と戦わずに済む。

 

「兄貴、門が閉まるぞ」

 

張飛が言った。

 

「……え?」

 

重い音を立てて、関門の扉が閉じた。

 

物見櫓で鐘が鳴る。

 

城壁の上へ弓兵が並び、一斉にこちらへ矢を向けた。

 

「止まれ!」

 

「それ以上近づけば射る!」

 

「武器を地へ置け! 所属と人数を名乗れ!」

 

俺は荷馬の上で固まった。

 

背後では曹操軍が追ってくる。

 

正面では荊州兵が弓を引いている。

 

(……そうだよな)

 

俺は自分たちの列を振り返った。

 

巨大な青龍偃月刀を担いだ関羽。

 

蛇矛を握った張飛。

 

司空府の印がついた赤兎馬。

 

元黄巾の廖化。

 

武装した降兵と元山賊。

 

縄を掛けられた杜遠。

 

袁紹軍の印が入った金袋。

 

その後ろには難民と負傷者。

 

向こうから見れば、避難民ではない。

 

どこかの国を一つ滅ぼした後、そのまま次の土地へ攻め込んできた略奪軍だ。

 

「門を開けねえなら、壊すか?」

 

張飛が蛇矛を持ち上げた。

 

「亡命先へ攻城戦を仕掛けるな!」

 

「だが兄貴、このままじゃ入れねえぞ」

 

「だから話し合うんだ!」

 

関羽が赤兎馬を進めた。

 

「俺が参ろう」

 

青龍偃月刀を持った関羽が、赤兎馬に乗って門前へ進む。

 

どこからどう見ても、敵将へ降伏を勧告しに行く猛将の姿だった。

 

「お前も待て! 話し合いへ行く格好じゃない!」

 

「武器は使わぬ」

 

「使うかどうかではなく、見た目の問題だ!」

 

俺は荷馬から降りた。

 

できるだけ武器を持たず、できるだけ弱そうな者だけを連れていく。

 

そして両手を見える位置へ上げたまま、関門へ近づいた。

 

城壁の上から、髭の短い中年の役人が俺を見下ろした。

 

「名を名乗れ」

 

「劉備と申します」

 

俺は、できるだけ小さく、目立たず、害のない人間に見えるよう頭を下げた。

 

「戦を逃れ、家族と負傷者を連れてきただけの者です。荊州領内へ入れていただきたい」

 

「劉備?」

 

役人が眉を寄せた。

 

後ろから関羽の声が響く。

 

「漢室の宗親、中山靖王の後裔、劉備玄徳である」

 

「余計な肩書きを足すな!」

 

張飛も負けじと叫ぶ。

 

「徐州の主で、豫州牧で、曹操と袁紹の両方が恐れる俺たちの兄貴だ!」

 

「お前はもっと黙れ!」

 

城壁の上で、弓の弦がいっせいに鳴った。

 

「待ってください!」

 

俺は慌てて両手を振った。

 

「いまのは身内による誇張です!」

 

「徐州を治めたことはないのか」

 

「……あります」

 

「豫州牧ではないのか」

 

「そう名乗った時期もあります」

 

「曹操のもとにいたのか」

 

「いました」

 

「袁紹のもとにもいたのか」

 

「いました」

 

役人の目が細くなる。

 

「現在は、どちらの配下なのだ」

 

「それを、俺も確認しているところです」

 

長い沈黙が落ちた。

 

「袁紹軍の者なのか」

 

「正式に辞めたという書付はありません」

 

「では曹操軍の者か」

 

「それは確実に違います」

 

「曹操の敵か」

 

「曹操本人は、そう思っている可能性が極めて高いです」

 

役人が額を押さえた。

 

「なぜ、ご本人の所属が一つも明らかでないのだ」

 

「俺が一番困ってるんですよ……」

 

何のためにここまで逃げてきたのだ。

 

荊州へ着いた途端、前職と前々職と前々々職を洗いざらい聞かれている。

 

これでは亡命申請ではない。

 

反乱歴を自分で書かされる履歴書だ。

 

「後ろの者たちは何者だ」

 

役人が尋ねた。

 

「家族、負傷者、民、降兵、それから――」

 

俺は後ろを見た。

 

「元山賊も少し」

 

「少し?」

 

「正確な人数は確認中です」

 

城壁の上がざわめいた。

 

「人数も分からぬ武装集団を入れろというのか!」

 

「隠しているわけではありません! 分類が複雑なんです!」

 

廖化が木簡を持ってきた。

 

「玄徳公。こちらに記しております」

 

役人へ渡された木簡には、

 

兵。

 

負傷者。

 

降兵。

 

家族持ち。

 

荷車を引ける者。

 

大工仕事のできる者。

 

元山賊。

 

様々な分類が並んでいる。

 

役人が木簡を睨んだ。

 

「この負傷者は、兵の人数へ含まれているのか」

 

「含まれている者と、含まれていない者がいます」

 

「家族持ちは?」

 

「兵と民の両方におります」

 

「大工仕事のできる者は?」

 

「兵、民、元山賊の中におります」

 

役人の表情が、少しずつ険しくなる。

 

「同じ者を何度数えた」

 

「だから、それを整理している途中なんです!」

 

そこへ糜氏が進み出た。

 

「こちらをご覧ください」

 

糜氏が差し出した別の帳簿には、現在同行している者、別行動中の者、武装者、非武装者、負傷者、世話を必要とする者が分けて記録されていた。

 

確認できていない部分には、無理に数字を入れず、

 

『不明』

 

『別行動』

 

『未確認』

 

と記されている。

 

役人が顔を上げた。

 

「分からぬものを、分からぬと書いたのか」

 

「適当に埋めるよりましです」

 

俺は答えた。

 

「数字を増やしても、食べる物は増えませんから」

 

役人は帳簿と俺を交互に見た。

 

警戒は解いていない。

 

だが少なくとも、こちらが人数を隠して侵入しようとしているわけではないとは理解したらしい。

 

「馬も調べる」

 

荊州兵が数人、列の後方へ向かった。

 

嫌な予感がした。

 

予感はすぐに当たった。

 

「この馬には、司空府の印があります!」

 

兵が叫ぶ。

 

赤兎馬の尻を覆っていた泥と粗布の間から、はっきりと焼き印が覗いていた。

 

役人が低い声で尋ねる。

 

「劉備殿。その馬は曹操のものではないのか」

 

「それは――」

 

「こいつの主人は俺だ」

 

関羽が堂々と答えた。

 

「譲り受けた書付はあるか」

 

「ない」

 

役人の視線がさらに冷たくなる。

 

俺は口を開こうとした。

 

「兄者」

 

関羽が、珍しくうんざりした顔で俺を見る。

 

「もう、その話は言わないでくれ」

 

関羽は赤兎馬の首へ手を置いた。

 

「こいつは俺の友だ」

 

赤兎馬も同意するように、大きく首を振った。

 

役人が困惑した。

 

「友かどうかではなく、所有者を聞いている」

 

張飛が横から笑う。

 

「関羽の馬で間違いねえ。今度、三兄弟と一馬で、また桃の木の下へ行くことになってるからな」

 

城壁の兵たちがざわついた。

 

「馬も義兄弟なのか?」

 

役人が真顔で尋ねた。

 

「まだ違います!」

 

「兄者」

 

関羽が眉を寄せる。

 

「まだ、とは何だ」

 

「お前もそこへ食いつくな!」

 

話がどんどんおかしくなる。

 

俺は頭を押さえながら、仕方なく事情を説明した。

 

「曹操が、関羽に相応しいと言って渡したらしいのです」

 

「らしい?」

 

「私はその場にいませんでした」

 

「書付はないのだな」

 

「ありません」

 

「司空府の印は残っている」

 

「はい」

 

「関羽殿は、曹操軍から正式な許しを得ずに離れた」

 

「……はい」

 

役人は木簡へ何かを書き込んだ。

 

(駄目だ。正直に説明するたびに、馬泥棒の一団へ近づいていく)

 

「荷車も調べる」

 

俺の嫌な予感はまだ終わっていなかった。

 

荊州兵が荷物を改める。

 

食料。

 

傷薬。

 

布。

 

帳簿。

 

そして、袁紹軍の印が押された金袋。

 

「袁紹軍の軍資金です!」

 

役人が俺を見た。

 

「司空府の馬に続いて、袁紹の金まで持っているのか」

 

「預かった金です!」

 

「なぜ持っている」

 

「袁紹軍で兵糧を預かる仕事を任されたためです」

 

「ならば、なぜ袁紹軍の本陣ではなく、荊州にいる」

 

「それは……」

 

前線から逃げたかったからです。

 

そう正直に答えれば、今度こそ門は開かない。

 

俺が言葉を探していると、関羽が代わりに答えた。

 

「袁紹軍の混乱を見抜き、汝南の民を守るため転進した」

 

「言い方を立派にしても、逃げてきたことは変わらないだろ!」

 

役人が尋ねる。

 

「軍資金は使ったのか」

 

「一部は」

 

「何に」

 

「食料と傷薬です」

 

「許可は?」

 

「異なる内容の軍令が二通届きまして、どちらへ従うか確認する前に袁紹軍が敗れました」

 

役人が完全に疑いの目を向ける。

 

「それを横領というのではないか」

 

「違います!」

 

俺は反射的に帳簿を抱えた。

 

「誰から、何を、どれだけ買ったか、可能な限り記録しています!」

 

糜氏が木簡を並べる。

 

食料の購入記録。

 

傷薬と布の購入記録。

 

支払った金額。

 

村人の指形。

 

立会人。

 

保管先。

 

配給した人数。

 

役人が木簡を何枚も確認した。

 

「奪った金なら、なぜこれほど細かく記録している」

 

「後で横領と言われたくないからです!」

 

張飛が横から言う。

 

「橋で金袋を落としかけた時も、必死で拾わせてたぞ」

 

「人を助けた後で拾ったんだ! 不利な部分だけ話すな!」

 

「人を先に助けたのか」

 

役人が尋ねた。

 

「それは当然でしょう」

 

俺が答えると、役人は妙な顔で俺を見た。

 

まずい。

 

また何か立派な意味をつけられそうだ。

 

「次に、あの縄を掛けられた男は何者だ」

 

役人が杜遠を指した。

 

「山賊の頭領です」

 

「なぜ連れている」

 

「処分が終わっていないからです」

 

「逃亡中に、賊の裁きを続けているのか」

 

「途中で放したら、また誰かを襲うかもしれないでしょう!」

 

俺は杜遠について説明した。

 

甘氏と糜氏の車列を襲ったこと。

 

財産を奪ったこと。

 

二人を曹操へ売ろうとしたこと。

 

部下の一部が降伏したこと。

 

略奪品の返還がまだ終わっていないこと。

 

「なぜ、その場で首を刎ねなかった」

 

役人が尋ねる。

 

「事情を調べずに殺して、後から間違いだと分かっても戻せないでしょう」

 

杜遠を殺せば、俺が処刑の責任を負う。

 

放せば、再犯の責任を負う。

 

置き去りにすれば、曹操へ情報を売られるかもしれない。

 

だから連れてきただけだ。

 

だが役人は、少し考え込んだ。

 

「逃げる最中にも、私刑を避けたのか」

 

「いえ、そこまで立派な話では――」

 

「こいつらは、逃げる途中でも帳簿と俺を捨てなかった」

 

杜遠が不機嫌そうに口を挟んだ。

 

「お前は黙ってろ!」

 

「なぜだ。事実だろう」

 

「捕虜から補強証言をされると、余計に怪しくなるんだよ!」

 

役人は長く息を吐いた。

 

「事情は分かった。だが、武装した者をそのまま荊州へ入れることはできぬ」

 

「では、どうすれば」

 

「兵は武器を門外へ置け」

 

「断る」

 

関羽が即答した。

 

「青龍偃月刀を手放すことはできぬ」

 

「俺もだ!」

 

張飛が蛇矛を地面へ突き立てる。

 

城壁の上で、再び弓が引かれた。

 

「ならば通せぬ」

 

荊州側も譲らない。

 

当たり前だ。

 

武装した数百人をそのまま入れれば、内側から門を奪われる可能性がある。

 

だが、関羽と張飛から武器を取り上げようとすれば、曹操軍より先にここで戦争が始まる。

 

「待ってください」

 

俺は両者の間へ入った。

 

「武器を捨てるのと、持ったまま入るの間を取りましょう」

 

役人が俺を見る。

 

「まず、負傷者、子供、老人を先に入れてください」

 

「兵は?」

 

「門外に残します」

 

「武器は?」

 

「弓は弦を外す。矢はまとめて封をする。槍は束ねる。剣は鞘から抜かず、紐で封じる」

 

さらに俺は続けた。

 

「門の内側では軍の隊列を組みません。荊州側の許しなく封を解かない。武器と人数は、そちらとこちらの両方で記録する」

 

役人は関羽と張飛を見た。

 

「その二人の武器は」

 

「本人に持たせてください」

 

「受け入れられぬ」

 

「取り上げようとした方が危険です」

 

役人は黙った。

 

俺は小声で続ける。

 

「俺が止めます」

 

「二人が命に従わなかった場合は?」

 

役人が尋ねた。

 

俺は関羽と張飛を見る。

 

「……従うよな?」

 

張飛が笑った。

 

「兄貴が止めるなら仕方ねえ」

 

関羽も静かに頷く。

 

「兄者の命であれば従おう」

 

関所役人は、二人の武将が俺の一言で引いたことに驚いたようだった。

 

(頼むから、門を越えるまでは本当に従ってくれ)

 

交渉の結果、負傷者、老人、子供、それらを世話する者だけは先に門内へ入ることが認められた。

 

甘氏は子供と負傷者のそばにつく。

 

糜氏は軍資金と帳簿の一部を持った。

 

「では、俺も家族の責任者として」

 

俺が自然に門へ向かう。

 

後ろから襟を掴まれた。

 

「兄貴はこっちだ」

 

張飛だった。

 

「なぜだ!」

 

「武装した奴らをまとめるんだろ」

 

関羽も言う。

 

「兄者がいなければ、誰が皆を抑える」

 

関所役人まで、気まずそうに頷いた。

 

「劉備殿には、門外の者たちを統率していただきたい」

 

「また俺だけ外なのか!」

 

甘氏が門を通る前に振り返った。

 

何も言わない。

 

俺も、何か立派な言葉を口にする気はなかった。

 

「先へ行け。門が閉じても、戻ってくるな」

 

甘氏は、俺の袖へ一度だけ手を伸ばしかけた。

 

だが触れず、そのまま子供の手を取って門の内側へ入った。

 

糜氏も荷車を進める。

 

「軍資金と帳簿の一部は、こちらへ移します」

 

「全部ではないのか?」

 

「一か所へ集めて門を閉じられれば、旦那様の手元に何も残りません」

 

「……なるほど」

 

「残りは旦那様がお持ちください」

 

「俺より逃亡慣れしてないか?」

 

「旦那様を見て学びました」

 

少し傷ついた。

 

その時だった。

 

「北より騎馬!」

 

物見の兵が叫ぶ。

 

街道の向こうに、数騎の騎馬が姿を現した。

 

俺たちを追っていた曹操軍の物見だ。

 

荊州兵が弓を構える。

 

関所役人の顔が変わった。

 

「劉備殿。あなたを入れれば、荊州も曹操との争いへ巻き込まれる」

 

「こちらからは手を出しません!」

 

俺は関羽と張飛を振り返った。

 

「絶対に攻撃するな!」

 

「門前まで来てもか?」

 

張飛が尋ねる。

 

「来てもだ!」

 

「矢を放たれた場合は」

 

関羽が確認する。

 

「防ぐだけにしろ。追うな!」

 

曹操軍の騎馬も、荊州の旗と城壁の弓兵を見て止まった。

 

ここで矢を放てば、劉備を追うだけでは済まない。

 

荊州の関門を守る兵へ攻撃を加え、劉表の支配地へ兵を踏み入れることになる。

 

荊州側からも矢は飛ばない。

 

曹操軍がまだ関門を越えていない以上、こちらから攻撃すれば、今度は荊州側が先に戦を始めたことになる。

 

両者は遠くから睨み合った。

 

俺は息を殺した。

 

(頼む。帰ってくれ。俺一人を追うために、ここで荊州と戦争を始めないでくれ)

 

しばらくして、曹操軍の騎馬はゆっくりと向きを変えた。

 

完全に諦めたわけではないだろう。

 

本隊へ、俺たちが荊州の関門まで到達したと報告するつもりなのかもしれない。

 

だが少なくとも、今ここで攻撃するつもりはないらしい。

 

関所役人も、それを確認してから俺へ尋ねた。

 

「劉備殿。荊州へ入り、何を求める」

 

俺は慎重に答えた。

 

ここで領地が欲しいなどと言えば危険人物。

 

兵が欲しいと言えば侵略者。

 

官職が欲しいと言えば、また働かされる。

 

「領地はいりません」

 

役人が僅かに目を見開く。

 

「官職も望みません」

 

関羽が後ろで何か言いたそうにしているが、無視する。

 

「兵を増やすつもりもありません。家族と負傷者を休ませたい。曹操軍が去るまで、身を置ける場所があれば十分です」

 

「荊州の兵糧を求めるか」

 

「必要な物は申告します。ある物も、足りない物も隠しません」

 

「兵を勝手に動かさぬか」

 

「許しなく動かしません」

 

「他に望みは」

 

「できれば、人の少ない静かな場所をお願いします」

 

窓際でいい。

 

何も任せず、隅に置いてくれ。

 

曹操が俺のことを忘れるまで、昼寝をさせてくれ。

 

それだけが望みだ。

 

ところが役人は、妙に感心した顔をした。

 

「領地も官位も求めず、ただ家族と傷ついた者の安堵を願うか」

 

「そうです」

 

「劉備殿ほどの者が」

 

「俺ほどの者だからこそ、何も任せないでください」

 

関羽が感極まったように言う。

 

「兄者は、ご自身の功を一つも誇られぬ」

 

「誇ったら仕事を任されるだろ!」

 

張飛も口を挟む。

 

「兄貴の働きなら、俺が全部話してやるぞ!」

 

「絶対に話すな!」

 

関所役人は、上役へ報告するため、俺に書面を作るよう求めた。

 

氏名。

 

家柄。

 

これまでの官職。

 

仕えた相手。

 

曹操との関係。

 

袁紹との関係。

 

汝南にいた理由。

 

同行者。

 

兵と民のおおよその人数。

 

荊州へ入る目的。

 

荊州内で守る決まり。

 

俺は木簡の束を前にして頭を抱えた。

 

「全部書いたら、反乱を繰り返してきた人間にしか見えない」

 

「事実を記せば、兄者の忠義は伝わろう」

 

関羽が言う。

 

「督郵を殴ったところから書くか?」

 

張飛も身を乗り出す。

 

「最初から犯罪歴を載せるな!」

 

「では、曹操から逃げたところからか?」

 

「どこから始めても不利になるんだよ!」

 

結局、言い訳を長く書く方が怪しいと判断し、事実と現在の希望だけを簡潔に記した。

 

袁紹軍の金については、返却先が分からない。

 

赤兎馬については、書付がない。

 

杜遠の処分は未決。

 

劉辟と龔都の勢力は別行動中で、正確な人数は不明。

 

不利なことも隠さなかった。

 

関所役人が木簡を読み、尋ねる。

 

「このようなことまで書いてよいのか」

 

「後から見つかる方が怖いんです」

 

誠実さではない。

 

監査対策である。

 

 

上申書を持った早馬が走り去った後、俺たちは門外で一夜を過ごすことになった。

 

甘氏と糜氏、負傷者や子供たちは門の内側。

 

俺と関羽、張飛、廖化ら武装者は門の外。

 

北の遠方には、曹操軍らしき火が見える。

 

「返事は、いつ来るんだ」

 

俺が尋ねると、関所役人は北の空を見ながら答えた。

 

「劉備殿らが到着する前から、曹軍が南下していることと、大勢の武装した者が関門へ向かっていることは、烽火と早馬で襄陽へ伝えてある」

 

「俺が来る前から、怪しい武装集団として報告されてたのか……」

 

「昨夜の上申書は、先に出した報告への追記として送った。関門と襄陽の間では、早馬を途中で乗り継がせている」

 

なるほど。

 

俺が木簡と格闘している間にも、別の書類が先に進んでいたらしい。

 

行政手続きは、本人より先に目的地へ着くことがある。

 

「早ければ明朝にも返事が届く」

 

「遅ければ?」

 

「数日」

 

「その間に曹操が来る!」

 

「来たら戦えばいい」

 

張飛は気楽に言った。

 

「ここで戦ったら、荊州へ入れてもらえなくなるんだよ!」

 

関羽が静かに提案する。

 

「ならば俺と張飛だけで北へ出て、曹軍を――」

 

「行くな! なぜお前たちには、待つという選択肢がないんだ!」

 

俺は眠れなかった。

 

門が開かなければ、どの道へ逃げるか。

 

曹操軍が来れば、どうやって時間を稼ぐか。

 

家族だけ入れて、俺たちだけ追い返されたらどうするか。

 

廖化は、俺が夜通し軍略を練っていると思ったらしい。

 

実際には、入境を断られた場合の夜逃げ経路を考えていただけだ。

 

翌朝。

 

荊州側からの返答が届いた。

 

関所役人が木簡を開く。

 

「劉備玄徳殿の家族、負傷者、老人、子供の入境を認める」

 

まず、そこまで聞いて俺は息を吐いた。

 

「武装した者も、人数と武器を記録し、荊州領内において略奪、無断の徴発、無断の戦闘を行わぬことを条件に、入境を認める」

 

周囲から安堵の声が漏れた。

 

「劉備玄徳殿本人には、荊州牧・劉表様へ事情を報告していただく」

 

嫌な予感がした。

 

「また、劉表様は、劉備玄徳殿を客礼をもって迎えるとのことだ」

 

関羽が当然のように頷いた。

 

「相応の礼であろう」

 

張飛も笑う。

 

「これで兄貴も、ゆっくりできるな」

 

「待て」

 

俺は関所役人を見る。

 

「客というのは、用が済んだら帰れる客だよな?」

 

役人が僅かに目を逸らした。

 

「それは、劉表様とのお話によるかと」

 

関羽が言う。

 

「兄者ほどの方を、ただ休ませるだけとは思えぬ」

 

張飛も嬉しそうに続ける。

 

「城か軍を任されるかもしれねえな!」

 

「領地も官職もいらないと書いただろ!」

 

「何も求めぬからこそ、より重い役目を任せられるのではないか」

 

関羽が真顔で答えた。

 

「なぜ断ると役職が大きくなるんだ!」

 

関門が開いた。

 

弓は弦を外す。

 

矢はまとめて封をする。

 

槍は束ねる。

 

剣は鞘へ入れ、紐を巻く。

 

隊列を崩し、一団ずつ人数と武器を記録して門を通る。

 

関羽と張飛だけは武器を持ったままだが、俺の命令に従うことを条件に許された。

 

赤兎馬も関羽とともに門へ近づく。

 

記録係が木簡へ書き込む。

 

「赤兎馬。所有者、関羽。譲渡の書付、なし」

 

「その後へ、友と書いておけ」

 

関羽が言った。

 

「書かなくていい!」

 

「重要な事実だ」

 

「入境台帳に友情を記録するな!」

 

記録係は困り果てた顔で、俺と関羽を見比べた。

 

結局、何と書いたのかは見なかった。

 

門を越える。

 

背後で、荊州の関門がゆっくりと閉じた。

 

遠くからこちらを監視していた曹操軍の騎馬も、この場では荊州領の境を越えずに退いていく。

 

俺は、ようやく大きく息を吐いた。

 

「助かった……」

 

長かった。

 

これで、しばらくは戦わずに眠れる。

 

そう思った。

 

「劉備殿」

 

荊州側の役人が、新しい木簡の束を抱えて近づいてきた。

 

「劉表様との面会に備え、これまで治めた土地、仕えた主君、率いた兵、関係する諸侯について、詳しい経歴をまとめていただきます」

 

「さっき書いたばかりだろ」

 

「先ほどのものは、入境のための上申書です」

 

「今度は?」

 

「劉表様との面会資料です」

 

「何が違うんだ?」

 

「より詳しくお願いいたします」

 

関羽が木簡の束を見て言う。

 

「兄者の功績を書ききるには、それでも足りまい」

 

張飛が隣へ座ろうとする。

 

「俺が横で教えてやる!」

 

「お前たちは絶対に手伝うな!」

 

「督郵を殴った話は外すのか?」

 

「全部外せ!」

 

荊州へ入った最初の日。

 

俺は曹操軍ではなく、木簡の山を前にしていた。

 

(逃亡先へ着いた初日から、また書類仕事かよ……)

 

どうやら俺は、どこへ逃げても、仕事からだけは逃げられないらしい。

 

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