劉備に転生した俺、三国志が思ったより治安悪すぎる ~ニートになりたいだけなのに、関羽と張飛が俺を覇王にしようとしてくる~ 作:ブンチョウ
荊州へ入れば、少なくとも書類仕事からは逃げられる。
そう考えていた時期が、俺にもあった。
「兄者。安喜県尉の次は、下密県丞であったか?」
「そこを詳しく書く必要ある?」
「劉表殿へ提出する経歴だ。正確でなければならぬ」
「正確に書けば書くほど、短期間で職場を転々としてきた人間になるんだよ!」
荊州の関門を越えてから数日。
俺たちは、襄陽から少し離れた場所に設けられた仮の野営地に滞在していた。
負傷者や老人、幼い子供たちは、荊州側が空けてくれた倉や小屋に入っている。甘氏や糜氏、侍女たちもそちらだ。
一方、関羽や張飛、廖化、その仲間、蔡陽軍から降った者、杜遠の元部下など、見るからに武器と縁が切れなさそうな連中は、まとめて天幕暮らしである。
俺も当然、天幕だった。
なぜなら、兵を抑えられる者が襄陽の城門外に必要だからと、最後まで外へ残された責任者だからだ。
家族と同じ小屋へ入れてほしいと言ったところ、
『劉備殿には、武装した者たちの統率をお願いいたします』
と丁寧に断られた。
言葉遣いが丁寧なら、残業が残業ではなくなるとでも思っているのだろうか。
そして今、俺の前には木簡の山がある。
劉表との面会に先立ち、これまでの経歴をまとめろと言われたのだ。
歴任した官職。
治めた土地。
仕えた主君。
戦った相手。
現在率いている兵。
同行する民。
所持する物資。
荊州で何を望むか。
人間一人の人生を振り返るにしては、質問が細かすぎる。
「督郵を殴った話は、どこに入れる?」
張飛が木簡を覗き込んだ。
「どこにも入れない」
「だが、あれが俺たち三兄弟の最初の大仕事だぞ」
「犯罪歴を代表的な業績みたいに言うな!」
関羽が髭を撫でながら言う。
「虎牢関にて呂布と戦ったことは、記しておくべきだろう」
「誰が証明するんだよ」
「俺と張飛が見ている」
「身内二人だけの証言は、証拠として弱いんだよ!」
「ならば俺が関羽の言葉を証明し、関羽が俺の言葉を証明すればよい」
張飛が得意げに言った。
「相互に保証しても、身内二人なのは変わらない!」
しかも、この二人に任せれば、俺の経歴は間違いなく盛られる。
黄巾賊との戦いは、数万の敵を仁徳だけで屈服させたことになる。
徐州では、民が俺を求めて城門に群がったことになる。
曹操のもとから逃げた件は、奸雄の本性を見抜いた戦略的離脱になる。
袁紹軍の兵站を任された話は、北方全軍の命脈を一手に握ったことになる。
汝南で劉辟や龔都を追い返そうとした件は、数千の兵を各地へ潜ませる深謀遠慮になる。
どれも表面だけを見れば、完全な嘘とは言い切れないところが一番怖い。
「確認できることだけ書く」
俺は木簡を取り上げた。
「分からない人数は不明。別行動中の者は別行動。決まっていない処分は未定。余計な美辞麗句はなしだ」
「兄者の偉業を削るのか」
「削るんじゃない。元の大きさに戻すんだ!」
関羽は納得していない顔だった。
張飛は隙を見て、督郵の欄を増やそうとしている。
俺は木簡を胸元へ引き寄せた。
面会資料の作成だけで、これほど防衛戦を強いられるとは思わなかった。
◆
「もう少し地味な服はないか?」
面会当日の朝。
甘氏が、俺の衣の襟を整えていた。
用意されたのは、華美ではないが、汚れもほつれもない上質な衣である。
袁紹のもとで兵站を任されていた頃に着ていたものよりは控えめだが、避難民の代表を装うには十分立派だった。
「これ以上地味にしますと、従者の方と間違われます」
「それでいいんだよ。隅に立って、何も聞かれずに帰りたい」
甘氏は返事をしなかった。
襟元を直し終えると、今度は袖の皺を指で伸ばす。
「劉使君へお目にかかるのでしょう」
「そうだけど、俺は領地も官職もいらないと、もう書いたからな」
甘氏の手が、一瞬だけ止まった。
「書けば、いただかずに済むのですか?」
「……そのはずだ」
甘氏はそれ以上何も言わず、袖を整え直した。
不安になるから、無言で疑問を投げかけるのをやめてほしい。
少し離れた場所では、糜氏が木簡を並べていた。
「旦那様。こちらをお持ちください」
「まだあるのか」
「現在同行している者の概数。負傷者と非戦闘員の内訳。残っている食料。使用可能な荷車。武器。馬。袁紹軍から預かった軍資金の残額と支出です」
「面会に行くだけなのに、荷物が経理検査みたいになってるぞ」
「尋ねられる可能性があります」
「聞かれたことだけ答えればいいんだな?」
「はい。聞かれていないことまで、関羽殿と張飛殿にお話しさせないでください」
糜氏も、こちらを見ずに言った。
「分かってる。問題は俺ではなく、あの二人だ」
「兄者!」
ちょうど関羽の声がした。
「赤兎馬も連れていってよいのだろうか」
「駄目に決まってるだろ!」
「なぜだ。俺の友だぞ」
「劉表との面会へ、司空府の印がある友を連れていくな!」
張飛が笑った。
「桃の木の話もしてやれば、向こうも分かるんじゃねえか?」
「今日だけは絶対にするな!」
糜氏は黙って、赤兎馬の飼料に関する木簡を資料の下へ加えた。
増えてる。
面会前から、すでに仕事が増えている。
◆
襄陽は、腹立たしいほど栄えていた。
街道は整えられ、荷車が行き違えるだけの幅がある。
商人の声が飛び交い、店先には布、穀物、油、塩、陶器が並んでいる。
役所の前には記録を抱えた小吏が出入りし、倉の前では兵が荷の数を改めていた。
汝南の崩れた古城とは違う。
壁は立っている。
門は閉まる。
井戸は複数ある。
倉には、本当に物が入っている。
「いい所だな、兄貴」
張飛が、胡麻をまぶした餅を焼く店へ目を向けた。
「飯も多そうだ」
「城壁も兵も整っている」
関羽も満足そうに周囲を見る。
俺だけは別の場所を見ていた。
役所。
役所。
また役所。
記録を抱えた人間。
その記録を受け取る人間。
受け取った記録を別の場所へ運ぶ人間。
(組織が大きい)
つまり、仕事が多い。
「兄者、顔色が悪いぞ」
関羽が尋ねた。
「役所が多すぎる」
「国がよく治まっている証ではないか」
「仕事が無数にある証でもあるんだよ」
ここで大物客将として迎えられたら、毎日のように会議へ呼ばれる。
宴へ出ろ。
意見を述べろ。
兵を見ろ。
民を慰撫しろ。
北の状況を報告しろ。
曹操への備えを考えろ。
安全なはずの襄陽が、俺には巨大な本社ビルにしか見えなかった。
案内役の荊州兵が、怪訝そうな顔で俺を見ていた。
俺は慌てて姿勢を正す。
まだ面会も始まっていない。
ここで逃げ道を探していると思われるわけにはいかなかった。
◆
劉表は、噂どおりの人物だった。
年長者らしい落ち着きと、漢室の宗親としての威厳がある。
派手に声を張り上げるわけではない。
それでも広間へ入った瞬間、自然と視線が集まる。
ただし、柔らかな表情の奥にある目は、こちらを細かく見ていた。
俺の歩き方。
礼の仕方。
関羽と張飛との距離。
持参した木簡。
何を先に話すか。
逃げ込んできた遠縁の親族を、ただ歓迎しているだけではない。
どう扱うべき人物か、測っている。
「玄徳。よくぞ荊州まで参られた」
劉表が声をかけた。
俺は深く頭を下げる。
「劉使君のご厚情により、家族、負傷者、老人、子供たちが門内へ入ることができました。まず、そのことへ御礼申し上げます」
自分を客として迎えた礼は、後でいい。
甘氏や糜氏、負傷者を受け入れたことを、劉表本人の前で確定させておきたい。
俺が多少気に入られなくても、あの者たちまで追い出されては困る。
劉表は、わずかに目を細めた。
「玄徳自身のことより、連れてきた者たちのことを先に申すか」
「すでに俺より苦労しておりますので」
「よい。傷ついた者には休む場所を与えよう。老人と子供も、すぐに追い出すことはせぬ」
俺は胸の奥で息を吐いた。
一つ確保した。
少なくとも今日、甘氏たちが門外へ戻されることはない。
「ありがとうございます」
短く答え、もう一度頭を下げた。
劉表の左右には、二人の男がいた。
一人は蔡瑁。
軍人らしい体つきで、こちらを見る目に遠慮がない。
歓迎より先に、危険性を測っている顔だ。
もう一人は蒯越。
表情は穏やかだが、手元の木簡と俺の答えを交互に見ている。
こちらは、人間より数字と結果を見ている。
どちらも、俺にとって楽な相手ではなかった。
「いくつか、確かめたいことがございます」
蔡瑁が口を開いた。
「どうぞ」
「玄徳殿は、曹操のもとにおられた」
「はい」
「その後、袁紹を頼った」
「はい」
「汝南にて劉辟、龔都らを従えた」
「従えたつもりはありません」
「だが、彼らは玄徳殿の言葉に従い、各地で旗を掲げた」
「こちらの言葉を深く受け取りすぎたのです」
蔡瑁は表情を変えない。
「曹操は、官渡で袁紹を破った後、自ら玄徳殿を追った」
「俺も、そこまでされる理由を知りたいです」
蔡瑁の眉が僅かに動いた。
冗談だと思ったらしい。
本気である。
曹操は忙しいはずだ。
袁紹軍の動きを警戒し、北方の情勢を整理し、許昌へ戻る必要もある。
なぜ、その途中で俺を自ら追ってくるのか。
部下に任せればいいではないか。
「曹操は兄者の器を恐れている」
関羽が後ろから言った。
「兄貴が本気を出せば、曹操も夜に眠れねえからな」
張飛も続ける。
蔡瑁の視線が鋭くなった。
俺は振り返る。
「お前たちが俺を危険人物として売り込んでどうする!」
「事実を申したまでだ」
「事実ではなく、お前たちの個人的な評価だ!」
蔡瑁は、ますます俺を疑っている。
面会へ連れてきた時点で負けだったかもしれない。
「官職も領地も求めぬと、上申書にはある」
蔡瑁が続けた。
「はい」
「ならば、兵を解散させればよいのではないか」
来た。
荊州側からすれば当然の疑問だ。
官職も土地もいらない。
だが、武装した者は手放さない。
それでは、表向きだけ大人しくして、兵力を保持しようとしているように見える。
「兵だけなら、解散させてもよい者はいるでしょう」
「だけなら?」
「兵には、家族がいます」
蔡瑁は黙って俺を見る。
「妻や子を連れている者。負傷して働けない者。元の村へ戻れない者。曹操側から、俺に加わったと見られている者もいます」
「武器を捨て、民へ戻ればよい」
「武器を取り上げても、食べる口は消えません」
俺は、糜氏から渡された帳簿を出した。
「兵だけ解散させれば、家族を食わせる者がいなくなる。食えなくなれば、別の軍へ入るか、賊になるでしょう」
蒯越が初めて口を開いた。
「兵を減らすことと、危険を減らすことは、同じではないと?」
「はい。腹を空かせ、帰る場所を失った兵ほど、扱いに困る者はいません」
俺は実際、汝南でそれを見た。
元黄巾。
元官軍。
元山賊。
最初から悪党だった者ばかりではない。
食う場所を失い、命令する相手を失い、家族を抱えたまま武器だけ残った者が、山や街道に流れ込んでいる。
兵を「解散」と書けば、帳簿の上では人数が減る。
だが、人間そのものが消えるわけではない。
(解散させた後、こいつらが荊州内で山賊になったら、結局俺の責任にされる)
それだけは避けたい。
蔡瑁は、今度は少し長く黙った。
「汝南の民まで連れて逃げたとも聞いている」
「全員ではありません」
「なぜ、自軍だけで逃げなかった」
俺は答えに詰まった。
兵の解散なら、損得で説明できた。
こちらは少し違う。
「俺の旗を掲げた村がありました」
「それが?」
「曹操軍から見れば、俺の仲間です」
「玄徳殿が掲げさせたのか」
「俺が配ったわけではありません」
そこは明確にしておきたい。
旗を作って村へ配り、勢力圏を広げた覚えはない。
「ですが、略奪を禁じる印として使われることを止めませんでした。俺の旗を掲げれば、劉辟や龔都の兵も勝手に物を取らない。その形を認めました」
蔡瑁が俺を見る。
「ならば、その後で無関係とは言えぬと?」
「はい」
それだけ答えた。
ここで長く語れば、自分を立派に見せようとしているようになる。
俺が認めた印のせいで危険になった村を、後になって知らないとは言えなかった。
それだけだ。
広間が少し静かになる。
劉表は黙ったまま俺を見ていた。
「兄貴は置いて逃げようとしても、最後には戻るからな」
張飛が沈黙を壊した。
「前半を言うな!」
せっかく短く収まった話が、急に小物の失敗談へ戻ってしまった。
いや、実際その通りではある。
俺は何度も自分だけ先へ逃げようとした。
荷物を第一陣へ載せようとした。
橋を渡ろうとした。
荊州の門へ家族と一緒に入ろうとした。
なぜか全部失敗した。
劉表の口元に、僅かな笑みが浮かんだ。
蔡瑁は笑っていない。
蒯越は木簡に何かを書き足している。
「袁紹軍の軍資金についても、確かめたい」
蔡瑁が言った。
「現在も玄徳殿が保有しているそうだな」
「はい」
俺は帳簿を差し出した。
「使った分、残っている分、購入した物を分けています」
蔡瑁は帳簿へ目を通す。
「この金を、劉荊州へ差し出すつもりはあるか」
「できません」
広間の空気が一瞬だけ変わった。
関羽も張飛も、口を挟まなかった。
これは俺の金ではない。
だから迷う必要もない。
「袁紹は敗れた」
「敗れたからといって、預かった金が俺の物になるわけではありません」
「敗軍の混乱の中、誰が正式に受け取るのかも分からぬのではないか」
「だから、誰へ返すべきか分かるまで、残金を封じています」
蔡瑁が問う。
「荊州へ滞在するための礼として差し出すこともできぬと?」
「他人の金で礼をするわけにはいきません」
差し出して喜ばれるなら、俺も楽だ。
だが、後から袁紹側の誰かが、
『あの軍資金は自分が管理していた』
『劉備は勝手に劉表へ渡した』
と言い出したら、どうする。
俺は二つの勢力から同時に横領犯扱いされる。
絶対に嫌だ。
劉表が帳簿を手に取った。
しばらく目を通し、静かに言う。
「その金は、引き続き玄徳が保管せよ」
「よろしいのですか」
「使途を残し、必要があれば荊州側へも示すように」
「承知しました」
助かった。
いや、助かっていない。
(前の職場の預かり金を持ったまま、新しい職場の監査まで受けることになったぞ)
返却先不明の負債を抱えたまま、管理者だけ増えた。
「一行には、元黄巾、降兵、山賊までいると聞く」
蔡瑁の質問はまだ続いた。
「それらを、本当に統率できるのか」
「まだ、完全には」
俺が答えると、蔡瑁の眉が上がった。
ここで自信満々に「できます」と言うのは簡単だ。
だが、後で一人でも問題を起こせば、虚偽申告になる。
「分からないことを、できるとは言えません。ただ、同じ出身の者だけを大勢集め、武器を持たせるつもりはありません」
俺は現在考えている分け方を説明した。
元山賊は少人数に分ける。
廖化の仲間を監督につける。
大工、鍛冶、農作業、荷運びなど、できる仕事を確認する。
蔡陽軍の降兵も、元の部隊の形で固めない。
杜遠は被害調査が終わるまで拘束を続ける。
「兵ではなく、働き手として分けるのか」
蒯越が尋ねた。
「全員を兵にしたら、食料だけ減りますから」
俺は正直に答えた。
「武器を持たせる必要のない者には、持たせません。畑を耕せるなら耕してもらう。車を直せるなら車を直してもらう。城壁を直せるなら、その方が助かります」
蒯越は蔡瑁を見た。
何か考えが一致したようだった。
嫌な予感がする。
俺が仕事を分けようとするたび、なぜか組織の仕組みが立派になっていく。
「司空府の印がある赤兎馬については?」
蔡瑁が帳簿の次の項目を見た。
来た。
「赤兎馬は俺の友だ」
関羽が即答した。
蔡瑁の眉が、ほんの少し動く。
俺はすぐ割って入った。
「口頭で譲られたという主張はありますが、書付がなく、所有については現在も未解決です」
「兄者」
「今日は桃の木の話をするな」
俺は小声で関羽へ釘を刺した。
張飛が口を開きかける。
「お前もだ!」
「まだ何も言ってねえぞ」
「言おうとしただろ!」
赤兎馬の問題は、それ以上追及されなかった。
ただし蔡瑁の目には、
『曹操の名馬を友と呼ぶ危険な猛将』
という情報が、確実に追加された。
俺たちの安全評価は、また少し下がった気がする。
◆
一通りの確認が終わると、劉表が改めて俺へ尋ねた。
「玄徳。荊州で何を望む」
ようやく本題だ。
ここだけは間違えてはいけない。
「領地は望みません」
蔡瑁が俺を見る。
「官職も必要ありません」
蒯越が俺を見る。
「兵を増やすつもりもありません」
劉表が俺を見る。
なぜ全員、俺が嘘をついているかのような目をするのだ。
「家族と負傷者、それに連れてきた者たちが暮らせる場所をお貸しいただければ、それで十分です」
「襄陽の近くがよいか」
「いえ」
俺は反射的に答えた。
襄陽の近くは駄目だ。
役所が多い。
会議が多い。
偉い人が多い。
何より、劉表から呼び出されやすい。
「襄陽から離れた場所をお願いします」
「ほう」
「人が少なく、静かな場所がよいです」
できれば役所も少ない方がいい。
報告は月に一度。
宴会なし。
会議なし。
曹操も来ない。
誰も俺を知らない。
昼寝をしていても怒られない。
そのような理想郷を求めている。
蔡瑁と蒯越が、顔を見合わせた。
その瞬間、背中が寒くなった。
「それならば」
蔡瑁が地図を広げた。
「新野はいかがでしょう」
「新野?」
聞き覚えがある。
だが、今はまだ思い出したくない。
蒯越が地図の一点を指した。
「襄陽から距離があり、人口もそれほど多くありません。周辺には耕作できる土地があり、避難民を受け入れる余地もございます」
悪くない。
「襄陽から遠い」
「はい」
「人が少ない」
「はい」
「農地がある」
「ございます」
「静かに暮らせる」
蔡瑁が、わずかに間を置いた。
「曹操軍が来なければ」
俺の顔が止まった。
「今、最後に何と言いました?」
「北方への備えとして、重要な土地です」
蒯越が地図をなぞる。
「曹操勢力が南下する場合、この方面を通る可能性が高い」
「最前線じゃないか!」
「人は少ない」
「そこだけ希望に合っていても駄目だろ!」
俺が求めているのは、人が少なく静かな場所だ。
敵が多くて人が少ない場所ではない。
「新野ならば、玄徳殿の一行を置く余地がある」
蔡瑁が淡々と言う。
「城壁や倉は、一部修繕が必要ですが」
「また壊れた城か!」
「耕作されていない土地もあります」
「また荒れた畑か!」
「北方街道を監視するにも適しております」
「また曹操を見る仕事か!」
逃げてきた先で、結局曹操の方向を見張ることになる。
この世に、曹操が視界へ入らない職場はないのだろうか。
「俺は荊州へ迷惑をかけたくありません」
俺は丁寧に断ろうとした。
「ゆえに、玄徳へ北方を託せる」
劉表が好意的に受け取る。
「大軍を率いているわけでもありません」
「関羽、張飛がおる」
「城を治めるほどの経験も――」
「徐州を治めてただろ!」
張飛が横から言った。
「黙れ!」
関羽も続ける。
「兵站、民政、兵の統率、裁き、すべて経験している」
「お前まで推薦資料を追加するな!」
劉表が、少し笑った。
「玄徳は、自らの力を小さく申す癖があるようだ」
「今回は本当に小さいんです!」
「新野の防備も、現在は大きくない」
蔡瑁が言う。
「玄徳殿のご希望にも合いましょう」
「防備が小さいことを希望した覚えはない!」
だが、広間の空気はすでに決まっていた。
劉表は俺を厚遇したい。
蔡瑁は俺を襄陽から遠ざけたい。
蒯越は難民と兵を、土地の再建へ使いたい。
三人の考えている理由は違う。
しかし、結論だけが恐ろしいほど一致している。
新野。
俺に逃げ道はなかった。
「正式な領地を与えるということではない」
劉表が言った。
「まずは玄徳一行の滞在地とする」
少しだけ安心する。
「避難民には居住と耕作を認める」
必要だ。
「初期の兵糧、種籾、木材、農具も、可能な限り支給しよう」
ありがたい。
「新野周辺の賊を抑え、北方街道と曹操側の動きを報告してもらいたい」
いらない仕事がついてきた。
「荊州の許しなく、その境外へ軍を出してはならぬ」
「出しません」
そこだけは心から同意できる。
「兵と民の人数、食料、武器も記録せよ」
「また数えるのか……」
思わず声が漏れた。
「正式な官職については、後日改めて考える」
「考えなくて結構です!」
俺は反射的に答えた。
劉表は、また謙遜だと思ったらしい。
「まずは新野を整え、ゆっくり休むがよい」
俺は指を折って、任されたことを数えた。
住民の保護。
城壁の修理。
井戸と倉の確認。
農地の再生。
賊の取り締まり。
北方の監視。
兵と民の人数報告。
「これは、一時的な休息ですよね?」
「無論だ」
劉表は穏やかに頷いた。
「休む部分が一つも見つからないのですが」
◆
面会が終わる直前、劉表は蔡瑁と蒯越を少し下がらせた。
「玄徳」
「はい」
「本当に、天下を望んでおらぬのか」
その問いに、すぐ答えることはできなかった。
天下など欲しくない。
そう言い切れば簡単だ。
だが、俺の周りには関羽と張飛がいる。
甘氏と糜氏がいる。
逃げてきた兵と民がいる。
劉辟や龔都も、どこかで俺の言葉を待っているかもしれない。
天下を望まないから、何もしない。
そう言って昼寝をすれば、彼らの食料が増えるわけではない。
「今は」
俺は少しだけ考えて答えた。
「連れてきた者たちが、次の冬を越せるかどうかで精いっぱいです」
天下を望むとも、望まないとも言わなかった。
劉表は、しばらく俺を見た。
その目には親しみもあった。
警戒もあった。
どちらか一方ではない。
「新野へ行けば、彼らが暮らせる土地はあるのですか」
「ある」
劉表は答えた。
「ただし、整える必要はある」
「曹操軍は?」
「北から来るならば、新野を通る可能性が高い」
俺は顔を伏せた。
「やはり最前線じゃないですか……」
劉表は、俺が怖がっているとは思わなかったらしい。
「玄徳が民を戦場へ置くことを懸念するのは分かる」
違う。
俺自身も戦場へ置かれることを懸念している。
だが、それを訂正すると話が長くなりそうだったので、黙っておいた。
◆
野営地へ戻ると、甘氏と糜氏が待っていた。
張飛は到着するなり、大声で言った。
「城をもらったぞ!」
「もらってない!」
俺は即座に訂正した。
「仮の滞在地だ!」
「どこだ?」
廖化が尋ねる。
「新野」
関羽が頷く。
「北方を押さえる要地だな」
「そういう説明は、もう聞きたくない」
甘氏が、俺の顔を見る。
「静かな場所だったのですか」
俺は少し黙った。
「曹操が来なければな」
甘氏はそれ以上尋ねず、俺の荷物をまとめ始めた。
「待て。決定が早くないか?」
甘氏は衣を畳みながら言う。
「もう、お断りできないのでしょう?」
俺は答えられなかった。
糜氏は、荊州側から渡された支給予定の木簡を読んでいる。
「兵糧、種籾、修繕用の木材、農具の一部が支給されるようです」
「食料が出るのか?」
俺の顔が少し明るくなる。
「はい」
「当面は荊州側が持ってくれる?」
「新野の住民、逃れてきた民、兵、負傷者の人数を報告し、必要量を申請することが条件です」
俺の顔が元へ戻る。
「また人数を数えるのか……」
「倉の残量、耕作地、収穫の見込み、馬の飼料も必要です」
関羽が横から言った。
「赤兎馬の分も頼む」
「友の食費は主人が申請書を書け!」
関羽が少し考えた。
「……兄者が書いた方が早い」
「友を名乗った直後に、事務だけ俺へ戻すな!」
赤兎馬が、関羽の後ろで鼻を鳴らした。
「お前も同意するな!」
その時、荊州側の役人が新しい木簡の束を抱えてやってきた。
「劉備殿。新野へ到着後、こちらを調べてご報告ください」
差し出された木簡を見る。
城壁の破損箇所。
門の状態。
井戸の数と水量。
倉の残量。
使用可能な家屋。
荒れた農地。
現在の住民。
流入する避難民。
武装できる者。
馬と荷車。
北方街道。
周辺の賊。
曹操軍の斥候。
木簡をめくっても、めくっても、項目が続く。
「俺は休みに来たんですよね?」
「もちろんです」
役人は爽やかに答えた。
「新野を整えながら、ゆっくりお休みください」
俺は、木簡の束を抱えたまま固まった。
「静かな場所を頼んだら、仕事だけが静かに積み上がってるんだけど!」
関羽と張飛は、新たな拠点を得たことを喜んでいる。
甘氏は荷造りを続ける。
糜氏は新しい帳簿を開き、その表へ静かに二文字を書いた。
『新野』
廖化は、歩ける者と荷車へ乗せる者の確認を始めている。
どうやら、本当に移動するらしい。
俺は襄陽の方角を振り返った。
曹操から逃げてきた。
袁紹の仕事からも逃げてきた。
汝南の数千人からも逃げようとした。
そして今度は、静かに休むため、新しい城の再建へ向かう。
(どうして俺は、逃げるたびに役職と部下と仕事が増えるんだよ……)
その問いへ答えてくれる者は、どこにもいなかった。