劉備に転生した俺、三国志が思ったより治安悪すぎる ~ニートになりたいだけなのに、関羽と張飛が俺を覇王にしようとしてくる~ 作:ブンチョウ
新野は、俺が望んだとおりの場所だった。
人が少ない。
襄陽から遠い。
そして、静かだった。
「静かだ……」
老いた荷馬の上で、俺は思わず呟いた。
城壁に囲まれた町は見えているのに、市場の呼び声も、荷車の音も、兵の怒鳴り声もほとんど聞こえない。
城門を出入りする者もまばらだ。
襄陽のように、役人が木簡を抱えて走り回っている様子もない。
「人が少ねえな」
張飛が周囲を見回した。
「いいじゃないか」
俺は久しぶりに明るい気持ちになった。
「人が少なければ、俺へ仕事を持ってくる奴も少ない」
これなら、本当に休めるかもしれない。
劉表から渡された調査項目は多いが、町そのものが小さければ、調べる量にも限度がある。
城壁。
井戸。
倉。
家屋。
農地。
住民。
数え終われば、それで終わりだ。
「兄者」
関羽が、北側の城壁を見上げた。
「あそこは崩れかけているぞ」
「見なかったことにしろ」
「見なければ直らぬ」
「今日くらいは見なかったことにしたいんだよ」
城門へ近づくにつれ、町が静かな理由が少しずつ分かってきた。
城壁の一部は土が剥がれ、石が露出している。
門扉は僅かに傾き、左右がきれいに噛み合っていない。
堀の一部は土砂と枯れ草で埋まり、子供でも歩いて渡れそうだった。
城外の畑には雑草が伸びている。
市場へ続く道沿いには、戸を閉めたままの店が並んでいた。
屋根の抜けた家もある。
使われている井戸の前には、静かな町には不似合いなほど長い列ができていた。
「兄貴」
張飛が城門を見上げる。
「この門、少し押したら倒れるんじゃねえか?」
「押すなよ」
「倒れるか確かめるだけだ」
「お前の確認は破壊と同じなんだよ!」
張飛は不満そうに手を引っ込めた。
関羽は城壁と北へ続く街道を見比べている。
「防ぐには、かなり手を入れる必要がある」
「防ぐ話は後にしよう。まず住むんだ」
「曹操軍は、こちらが住み終わるまで待ってはくれまい」
「新居へ着いた直後に、隣人の襲撃予定を話すな!」
俺は新野の町を見た。
(静かな田舎じゃない)
人が減り、仕事をする者がいなくなったから、静かなだけだ。
俺は休むために、再建予定地へ送られたらしい。
◆
新野の県丞は、城門の内側で俺たちを待っていた。
五十を少し過ぎたほどの男で、痩せた身体に擦り切れた衣をまとっている。
その後ろには、数名の小吏がいた。
誰も怠けているようには見えない。
むしろ、長い間、人手の足りない仕事をどうにか回してきた者の顔だった。
本来、新野を治める県令は別にいる。だが、前任者は病を理由に襄陽へ戻り、後任はいまだ決まっていないという。
今は、この県丞が県の仕事を代行していた。
劉表から渡された書付には、後任の県令が着任するまで、城の防備、避難民の居住、支給物資、修繕については、俺と協議し、その指示を受けるよう記されていた。
官職も領地もいらないと言ったはずなのに、「後任が来るまで」という期限の見えない一文だけで、俺は臨時の責任者にされていた。
「劉備玄徳様でございますな」
「様はいりません」
「では、劉備殿」
「それでお願いします」
県丞は深く頭を下げた。
「新野へお越しいただき、ありがたく存じます」
「俺は一時的に滞在するだけです」
「承知しております」
その返事が妙に早かった。
本当に承知しているのか不安になる。
「まずは新野の現状をお伝えいたします」
県丞は、小吏たちへ合図した。
三つの木箱が運ばれてきた。
一つ目を開く。
中には木簡が詰まっていた。
「こちらが戸籍です」
二つ目の箱を開く。
「こちらが兵糧配給の人数帳です」
三つ目。
「こちらが城壁修繕、見張り、堀の浚渫などへ出た者の労役名簿です」
俺は三つの箱を見た。
「住民より帳簿の方が多くないか?」
「長年の記録がございますので」
「更新は?」
県丞は黙った。
嫌な予感がした。
俺は戸籍と配給帳を開き、人数を見比べた。
「戸籍に書かれている人数と、食料を受け取っている人数が全然違うぞ」
「逃げた者、亡くなった者、他の村へ移った者がおります」
「では、労役へ出た人数が戸籍より多いのはなぜだ?」
県丞はさらに言いにくそうな顔になった。
「同じ者が、別の名で記されていることがございまして」
「別の名?」
「本名、字、幼い頃の呼び名、家の名、村でのあだ名などが混じっております」
張飛が木簡を覗き込んだ。
「俺なら、張飛、翼徳、張三、それから酒樽で四人だな」
「最後の一人は誰が記録したんだ!」
「昔、村の奴らがそう呼んでた」
「初めて聞いたぞ!」
関羽も髭を撫でる。
「俺なら関羽、雲長、髭殿――」
「お前たちを例にすると、帳簿の信用がさらに下がるから黙ってくれ!」
県丞が申し訳なさそうに頭を下げた。
「人手が足りず、古い帳簿を写して使うことも多く……」
話を聞けば、事情は単純ではなかった。
戦乱で人が逃げる。
労役へ出たまま帰らない。
家族ごと他村へ移る。
死亡を届ければ、残された家族が畑を失うと恐れる。
行方不明を死者としてよいかも判断できない。
その結果、古い名前だけが帳簿の中へ残る。
「この者に話を聞きたい」
俺は、先月の城壁修繕へ出た者の名を指した。
県丞が木簡を覗く。
「その者は、昨年亡くなっております」
「死人を働かせるな!」
張飛が笑った。
「死んでも働けるなら、人手不足が解決するな」
「解決してない! 誰かが死人の名前で働いてるだけだ!」
調べると、亡くなった父の名で息子が労役へ出ていた。
父の死亡を届ければ、息子が跡を継いだと認められる前に、役所や近隣の豪族から無主の畑として扱われるかもしれない。
だから家族は、父がまだ生きていることにしていたらしい。
別の家では、行方不明の兄と、実際に働く弟が同じ人間として扱われている。
さらに別の者は、本名とあだ名の両方で一度ずつ労役へ出たことになっていた。
「まず、いま実際にいる人間を数え直そう」
俺は木簡を閉じた。
「亡くなった者の名は消しますか」
県丞が尋ねる。
「勝手に消すな」
「ですが、亡くなっているのであれば――」
「亡くなったと確認できた者、行方が分からない者、他所へ移った者を分けろ」
名前を完全に消せば、その家や畑が「持ち主なし」として扱われるかもしれない。
後で本人が戻ってきて、
『生きているのに家を取られた』
などと言い出したら、間違いなく俺の責任になる。
「戻る者がいるかもしれない。家族も残っている」
俺は言った。
「帳簿から消すのと、人間がいなくなるのは同じじゃない」
県丞は、しばらく俺を見た。
「承知いたしました」
なぜか、深く感じ入ったような顔をしている。
違う。
俺は後日の苦情を防ぎたいだけだ。
◆
次に、避難民を入れる家を確認することになった。
荊州側から渡された記録では、新野には複数の空き家がある。
そのうち、すぐ使えると書かれた一軒へ向かった。
県丞が戸を開ける。
中から老女の悲鳴が上がった。
幼い子供が、老女の背後へ隠れる。
空き家ではなかった。
「これはどういうことだ?」
俺が尋ねると、県丞が答えた。
「この家の戸主は、兵として徴発された後、戻っておりません」
「だから空き家なのか?」
「税も納められておらず、帳簿上は戸主不在となっておりますので」
「人が住んでるなら、空き家じゃないだろ」
「ですが、戸主が――」
「戸主がいなくても、この二人はいる」
老女は、俺たちが家を取り上げに来たと思っているらしい。
子供の肩を抱き、壁際まで下がっている。
俺は武器を持った兵たちへ、外へ出るよう手で示した。
「ここに住んでいていい」
老女が顔を上げる。
「誰が戻ってくるか分かるまでは、勝手には動かさない」
「ですが……税を……」
「今はそれより、住んでいる人間がいるかどうかを確認している」
立派な約束はできない。
税を永遠に免除するとも言えない。
家を正式に与える権限が俺にあるかも怪しい。
だから、今すぐ追い出さないことだけを伝えた。
甘氏が、老女の後ろにいる子供へ目を向けた。
衣の袖が裂け、腕が半分ほど見えている。
甘氏は何も言わず、手元の木札へ印をつけた。
おそらく布か衣服の不足だろう。
「本当に誰も住んでいない家を確認してから、避難民を入れよう」
俺は県丞へ言った。
「帳簿に空き家と書いてあっても、実際に見ろ」
「すべて、でございますか」
「全部だ」
県丞の顔が僅かに引きつった。
俺も同じ気持ちだ。
仕事が増えた。
だが、確認せずに避難民を入れれば、今のような家族と衝突する。
後で余計に面倒になるよりはましだ。
◆
面倒は、確認が終わるまで待ってはくれなかった。
城内の一角で、大声が上がった。
劉備一行についてきた避難民と、新野の住民が言い争っている。
「この家は空いていると聞いた!」
「俺たちの親族の家だ!」
「誰も住んでいないではないか!」
「畑へ出ているだけだ!」
避難民側は、荊州へ来れば家と畑を与えられると思っていたらしい。
新野の住民側は、劉備一行が自分たちの土地を奪いに来たと警戒している。
「やめろ!」
俺は両者の間へ入った。
「誰かが使っている家や畑を、勝手に取るな!」
避難民の男が反発する。
「では、我らはどこで暮らせばよいのです!」
「本当に空いている場所を確認する。それまでは天幕だ!」
「子供もいるのです!」
「分かってる! だから急いで確認する!」
張飛が周囲を見回した。
「城壁の上なら空いてるぞ」
「人を城壁に住ませるな!」
「見晴らしはいいぞ」
「雨も風も全部入るだろ!」
住民から、小さな笑いが漏れた。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
俺は県丞へ、家屋を分けて記録するよう命じた。
現在、所有者や家族が暮らしている家。
戸主は不在だが、家族が残っている家。
完全に無人の家。
直せば使える家。
崩れていて危険な家。
「畑も同じだ。帳簿だけでなく、いま誰が耕しているか確認してくれ」
「所有者と耕す者が違う場合は?」
「勝手に決めるな。両方書け」
また項目が増えた。
だが、今ここで適当に割り振れば、来年の収穫時に必ず揉める。
(俺は休みに来たはずなのに、到着初日から不動産争いを処理してるぞ……)
◆
昼になる前に、俺の前へ木簡が積み上がった。
城壁の亀裂。
傾いた門。
埋まった堀。
濁った井戸。
鼠に食われた穀物。
空き家の所有者。
荒れた農地。
足りない寝具。
馬の飼料。
労役名簿の誤り。
住民と避難民の口論。
杜遠を縛っている縄が傷んでいるという報告まである。
俺は木簡の山を見た。
襄陽より仕事が多い。
「全員、集まれ!」
関羽、張飛、甘氏、糜氏、廖化が集まった。
県丞や小吏もいる。
「全部を俺へ持ってくるな」
一同が静かになる。
「それぞれ担当を決める」
「兄者」
関羽が尋ねる。
「何を任せる」
「糜氏」
「はい」
「倉と兵糧と物資。荊州から届く支給品、俺たちが持ってきた食料、荷車四台、傷薬、布、農具、軍資金、毎日の配給を頼む」
糜氏はすでに木簡を整理していた。
「承知しました」
「帳簿に書いてある量ではなく、本当にある量を数えてくれ」
「すでに一部、確認しております」
「どうだった?」
「帳簿にある穀物の一部は、鼠に食われています」
「鼠の食べた分は、どう記録されてる?」
「帳簿では、住民へ配ったことになっております」
「鼠を住民にも受給者にも数えるなよ!」
「鼠害として分けて記します」
また記録が一つ増えた。
だが俺の仕事ではなくなったので、深く考えないことにする。
「甘氏」
「はい」
「家族、名前、住居、子供、老人、負傷者を頼む。誰と誰が一緒に暮らしているか、誰の世話が必要かを確認してくれ」
甘氏が尋ねる。
「新野の方と、我らとを分けて記しますか」
「食料と家は、分けて確認する必要がある」
俺は少し考えた。
「だが、子供や病人を助ける時まで分けるな」
出身ごとに窓口を分けたら、同じ仕事が二倍になる。
それを避けたいだけだ。
甘氏は静かに頷いた。
「承知しました」
「関羽」
「うむ」
「北門と街道。物見の位置、馬が通れる道、荷車が通れる道、逃げる道を確認してくれ」
「攻める道ではなく、逃げる道か」
「両方調べればいい。ただし曹操軍を見つけても、勝手に戦いへ行くなよ」
「物見の役目だろう」
「お前の場合、物見のまま敵陣へ入るから言ってるんだ」
「兄者の命がなければ動かぬ」
「必ず報告してくれ」
関羽は赤兎馬の手綱を取った。
「友も連れていくのか」
「当然だ」
「飼料代の元を取るくらいは働いてもらえ」
関羽が不満そうに俺を見た。
赤兎馬まで鼻を鳴らした。
「二人で抗議するな!」
「張飛」
「おう!」
「城壁、門、堀、井戸だ」
張飛が嬉しそうに腕をまくる。
俺は嫌な予感を覚えた。
「壊れている場所を調べるんだぞ」
「分かってる」
「壊れそうかどうか、殴って試すな」
「分かってる」
「門を持ち上げて重さを確かめるな」
「分かってる」
「その顔は、全部やるつもりだろ!」
「信用がねえな」
「これまでの実績に基づく評価だ!」
最後に廖化を見る。
「廖化」
「はい」
「誰が何をできるか、聞いて分けてくれ」
「俺が、でございますか?」
「元黄巾、蔡陽軍の降兵、杜遠の元部下。俺は一人一人のことを知らない。お前なら、ある程度は分かるだろう」
「しかし、俺のような者に、そのような役目を――」
「将軍になれと言ってるんじゃない。できる仕事を聞いて、分けるだけだ」
廖化は、それでも大きく頭を下げた。
「必ず、お役に立ってみせます」
そこまで重く受け取らなくていい。
俺は自分で全員へ聞き取りをしたくないだけだ。
「出身ごとに固めるな。城壁、井戸、家の修理、荷運び、畑、警備。できる仕事へ分けてくれ」
「承知しました」
県丞や小吏たちが、なぜか感心した目で俺を見ている。
俺は彼らにも言った。
「新野のことは、あなたたちの方が知っている。現場で決められることは、現場で決めてくれ」
「我らへ、お任せくださるのですか」
「俺一人で全部できないだけです」
県丞は深く頭を下げた。
「自らの才のみを頼まず、人を見て任せる。それこそ、上に立つ方の器なのでしょう」
「違う。仕事を減らしたいだけだ」
関羽が頷く。
「兄者は、己一人の才で民を治めようとはせぬ」
「だから違うと言ってるだろ!」
張飛も笑う。
「俺たちにも働けってことだな!」
「お前は少し深く受け取れ!」
◆
杜遠は、縄を掛けられたまま、新野まで連れてこられていた。
元部下たちが作業へ分けられるのを見て、不満そうに座っている。
「いつまで俺を連れ回すつもりだ」
「奪った物と被害者の確認が終わるまでだ」
「汝南から荊州まで来たぞ」
「場所が変わっても、奪った物は消えない」
「なら、さっさと殺すか放すかしろ」
「二択を迫るな! どっちも後で問題になるんだよ!」
廖化が、杜遠の元部下について聞く。
「あの男は何ができる」
「弓だ」
「戦以外は?」
「罠を作れる」
俺が尋ねる。
「獣を捕る罠か、人を襲う罠か」
「どちらもだ」
「前者だけ使え!」
杜遠本人も、縄をつけたまま作業へ回すことにした。
働いたから無罪ではない。
功績を挙げたから仲間でもない。
ただ、食料を渡す以上、逃げない範囲で働いてもらう。
「俺は何をする」
「お前の元部下が嘘をついてないか、横で見てろ」
「それだけか」
「嫌なら井戸を掘れ」
「見る」
判断が早かった。
◆
担当を分けた直後、最初の緊急問題が起きた。
水だった。
張飛から報告が入る。
「兄貴。井戸はあるが、使えるのはほとんど一つだ」
「他は?」
「一つは泥が入って浅い。一つは水が濁ってる。もう一つは城壁の外だ」
使える井戸へ、新野の住民と避難民が集中している。
水を汲む順番を巡り、言い争いが始まっていた。
兵の一部が大きな桶を持って前へ出ようとし、住民が押し返している。
「兵が先に使うな!」
俺が叫ぶと、兵たちが止まった。
張飛が言う。
「働く奴が水を飲まなきゃ、城壁も井戸も直らねえぞ」
「子供や病人の方が先に倒れる!」
「兵は最後か?」
「最後にして倒れられても困る!」
結局、水を用途ごとに分けることにした。
飲み水。
炊事用。
病人と負傷者。
馬。
修繕作業。
使える井戸の水は、人の飲み水と炊事、それに病人や負傷者へ優先して回す。
城外の井戸は水を確かめたうえで、護衛をつけて馬に使う。濁った井戸の水は、ひとまず修繕作業へ回す。
甘氏が病人と子供の必要量を確認する。
糜氏が配分を記録する。
張飛は使えない井戸の浚渫へ回した。
「俺は将軍だぞ」
「今のところ、荊州から正式に将軍へ任命された奴は一人もいない!」
張飛は井戸の底を覗き込んだ。
「なら、井戸将軍になるか」
「勝手に役職を増やすな!」
「井戸を直せば、住民も喜ぶぞ」
「仕事内容は否定してない! 肩書きを否定してるんだ!」
張飛は笑いながら井戸へ向かった。
その後ろへ、元黄巾、降兵、新野の住民がついていく。
張飛は荒っぽい。
だが、自分も泥の中へ入り、大きな石を持ち上げる。
命令だけして安全な場所へ立っているわけではない。
最初は怯えていた住民たちも、張飛と一緒に綱を引き始めた。
(井戸将軍……意外と向いてるのか?)
いや、認めてはいけない。
役職が定着する。
◆
午後になると、糜氏が馬の飼料について報告してきた。
「普通の軍馬には、粗い飼料を混ぜても問題ありません」
「赤兎馬は?」
「質の悪い豆だけを残します」
関羽が赤兎馬の首を撫でた。
「こいつは働きが違う」
「食費も違うんだよ!」
「北方の物見に必要な馬だ。軍の費用から出すべきだろう」
「友の主人を名乗った直後に、食費だけ全員へ負担させるな!」
「友であり、軍馬でもある」
「都合に合わせて身分を使い分けるな!」
関羽は真剣な顔で考えた。
「ならば、軍馬として働いた日数に応じて、飼料を出せばよい」
俺は一瞬、答えに詰まった。
理屈は通っている。
糜氏がすぐ木簡を出す。
「では、赤兎馬の使用日と飼料量を記録いたします」
「馬にまで勤務記録ができた……」
赤兎馬が得意げに首を振る。
「お前は公費が通ったからって喜ぶな!」
◆
夕方。
担当を決めた。
仕事を分けた。
これで俺の前の木簡は減る。
そう思っていた。
現実には、再び木簡が積み上がっていた。
鼠害を誰の損失として扱うか。
井戸の順番。
家屋の割り当て。
城壁へ使う木材。
配給を減らすか。
赤兎馬の飼料。
杜遠の縄。
行方不明者の畑。
「全部を俺へ持ってくるな!」
俺が叫ぶと、周囲が静まった。
「糜氏が決められる配給は、糜氏が決める!」
「甘氏が分かる家族と住居のことは、甘氏に任せる!」
「城壁と井戸は張飛!」
「北門と街道は関羽!」
「作業の組み分けは廖化!」
「担当同士で決められることは、俺へ持ってくるな!」
県丞が目を見開いた。
「我らが判断しても、よろしいのでしょうか」
「そのための担当だろ!」
「これまでは、細かなことも上役へ確認を――」
「確認を待ってる間に、水がなくなる!」
俺は木簡の山を指した。
「自分で決められることまで、全部上へ持ってきたら、誰も仕事が終わらない!」
県丞は、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
「ただし」
俺は念を押した。
「人を殺す。家や畑を取り上げる。大勢の食料を止める。そういうことは勝手に決めるな。俺へ持ってこい」
張飛が尋ねる。
「面倒な話だけ、兄貴へ持ってくるのか?」
「……そういうことになるな」
仕事をゼロにはできなかった。
だが、鼠の食べた豆の数まで俺が決めるよりはましだ。
「細かなことは我らへ任せながら、人命や田畑に関わる責めは、御自ら負われるのですな」
県丞が言った。
「負いたいわけじゃない。勝手に決められた方が、後でもっと困るだけだ」
「小事は人へ任せ、重い責めからは逃げぬ。そのお考え、肝に銘じます」
「だから、そこまで深く受け取らなくていい!」
関羽が満足そうに頷く。
「兄者のもとでは、身分ではなく働きによって役目が決まる」
廖化も、何やら感動した顔をしている。
甘氏や糜氏へ行政の一部を任せ、元黄巾の廖化へ作業の編成を任せ、張飛へ井戸を任せた。
確かに普通ではないかもしれない。
だが、俺は得意そうな者へ押しつけただけである。
「張飛へ井戸を任せるのは、身分とは関係ないだろ」
「俺は井戸将軍だからな!」
「その役職は認めてない!」
◆
夜。
俺は、ようやく横になった。
新野へ到着した初日。
城壁は崩れかけ。
井戸は詰まり。
戸籍では死人が働き。
空き家には人が住み。
赤兎馬には勤務記録ができた。
これだけ働けば、今日くらいは眠っても罰は当たらないだろう。
「旦那様」
甘氏の声がした。
目を開ける。
甘氏と糜氏が立っていた。
「もう明日にしないか?」
「今夜、屋根のある場所で眠れない子供が、まだおります」
甘氏が短く告げる。
糜氏も続けた。
「明日の配給を今日と同じにすれば、次の支給が届く前に穀物が不足します」
木簡の山はない。
二人が、今夜決める必要のある問題だけを持ってきている。
俺は起き上がった。
「修繕できる家へ、子供と老人を先に入れよう」
「兵の配給は少し減らす。ただし、井戸や城壁で重い仕事をした者には、その分を足してくれ」
「明日の朝、倉の中身をもう一度確認する」
糜氏が頷く。
甘氏も小さく頭を下げた。
二人が問題を整理してくれたから、俺は判断するだけで済んだ。
全部を一人で抱えていたら、一晩かかっても結論が出なかっただろう。
「……助かった」
俺が言うと、甘氏は少しだけ頷いた。
糜氏は次の木簡を開く。
「では、赤兎馬の飼料について――」
「それは明日にしてくれ!」
◆
翌朝。
ついに、新野で食事を必要とする人数の仮集計がまとまった。
新野の住民。
俺たちと一緒に来た者。
まず、いま実際にいる人間を、一人につき一度だけ数えた。
その横に、同じ人間が重なって入る内訳として、負傷者、子供、老人、働ける者、武装できる者を分けて記した。
行方不明と確認中の者は、今日の総数には加えていない。
完全ではない。
だが、少なくとも今日、何人分の粥を作ればよいかは分かる。
俺は木簡を両手で持ち上げた。
「やっと数え終わった……」
「仮の集計です」
糜氏が訂正する。
「今だけは終わったことにしてくれ」
俺は木簡を置いた。
今日は少し休もう。
城壁と井戸は張飛。
北門は関羽。
配給は糜氏。
住居は甘氏。
作業は廖化。
俺の仕事は、解決できない問題が来るまで待つことだ。
「玄徳様!」
北門から兵が駆け込んできた。
早すぎる。
「曹操軍か?」
「違います!」
少しだけ安心する。
「なら何だ」
「北より、民の一団が参りました!」
俺の表情が止まった。
北門へ向かう。
門の外には、疲れ切った人々がいた。
荷を背負った男。
幼い子供を抱いた女。
杖をついた老人。
傷ついた元兵らしい者。
そして、一団の先頭には、粗末な布へ大きく書かれた「劉」の文字があった。
劉辟でも龔都でもない。
汝南で分かれた村や小集団の一部だ。
俺が新野へ向かうという噂を道中で聞き、少し離れて後を追っていたらしい。
一団の先頭の男が、地面へ膝をついた。
「玄徳様のもとへ参りました」
俺は手元の人口帳簿を見る。
門外の一団を見る。
もう一度、帳簿を見る。
「……この帳簿、もう古いの?」
糜氏が、何も言わず新しい木簡を取り出した。
「追加いたします」
「数え終わるまで待ってから来てくれよ!」
門外の者たちは、俺の叫びを聞いて安堵したように頭を下げた。
おそらく、
『人数を確かめ、受け入れる準備をしてくださる』
とでも思ったのだろう。
新野の住民たちは、不安そうに「劉」の旗を見ている。
また人が増える。
食べる口が増える。
家と畑を求める者が増える。
そして俺の前には、完成した直後に古くなった人口帳簿がある。
(静かな場所を頼んだはずなのに、どうして人の方から追いかけてくるんだよ……)
俺は新しい木簡を受け取り、北門の外へ並ぶ人々を見た。
新野へ着いて、まだ二日目。
俺の休暇は、人口調査のやり直しから始まるらしい。