劉備に転生した俺、三国志が思ったより治安悪すぎる ~ニートになりたいだけなのに、関羽と張飛が俺を覇王にしようとしてくる~   作:ブンチョウ

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第32話 追加住民、許可人数を超えました

 今朝、ようやく完成した人口帳簿は、完成した直後にもう古くなった。

 

 北門の外に並ぶ人々を見ながら、俺は手元の木簡へ視線を落とす。

 

 木簡の上段には、いま新野にいる人間を、一人につき一度だけ数えた総数がある。

 

 その内訳が、新野の住民と、俺たちと一緒に来た者。

 

 さらに別の欄へ、同じ人間が重なって入る属性として、負傷者、子供、老人、働ける者、武装できる者を記している。

 

 昨日から甘氏や糜氏、県丞、小吏たちが総出で調べ、今朝ようやくまとめた数字だ。

 

 その木簡の向こうに、まだ一度も数えていない人間が立っている。

 

 荷を背負った男。

 

 乳飲み子を抱いた女。

 

 杖へ体重を預ける老人。

 

 衣の上からでも傷が分かる元兵らしい者。

 

 小さな荷車。

 

 そして、先頭には粗末な布へ墨で書かれた大きな「劉」の文字があった。

 

「玄徳様のもとへ参りました」

 

 一団の先頭に立つ男が、地面へ膝をついた。

 

 後ろの者たちも、それに続いて頭を下げる。

 

 俺は人口帳簿を閉じた。

 

「誰に、ここへ来いと言われた」

 

「誰にも言われておりません」

 

「では、なぜ来た」

 

「玄徳様が新野へ向かわれたと、道中で聞きました」

 

「劉辟か龔都の命令ではないのか」

 

 男は首を振った。

 

「両将とは、汝南で別れて以来、お会いしておりません」

 

 命令もない。

 

 連絡もない。

 

 こちらが呼んだわけでもない。

 

 噂だけを頼りに、歩いてきたらしい。

 

「どこで俺が新野へ向かうと聞いた」

 

「北へ戻る商人からです。その者も、別の旅人から聞いたと」

 

「誰も確かめてない噂だけで、ここまで来たのか?」

 

 男は困った顔をした。

 

「玄徳様の旗がある場所なら、少なくとも子供を売らずに済むと聞きました」

 

 周囲が静かになった。

 

 誰が、そんな話を広めたのだ。

 

 俺は子供を売らない。

 

 当たり前だ。

 

 しかし当たり前のことが、当たり前ではない場所から来た人間には、それだけで行き先を決める理由になるらしい。

 

 俺は北の街道を見た。

 

「荊州の関門は、どうした」

 

 男は一瞬、答えをためらった。

 

「通っておりません。大きな道を避け、村人から聞いた古い山道を越えました」

 

「劉の旗と武器を持ったまま、入境の検めを避けてきたのか!」

 

「関門へ参れば、追い返されると思い……」

 

 ますます勝手に入れられなくなった。

 

 荊州側から見れば、俺を頼る集団が正式な関門を避けて領内へ入り、そのまま新野へ合流しようとしている。

 

 呼び寄せたのではないと、何度書いても足りない状況だった。

 

 張飛が腕を組んだ。

 

「兄貴を慕って来たんだ。入れてやればいいだろ」

 

 俺は帳簿を張飛へ突きつけた。

 

「入れたら、食料も家も井戸も増えるのか?」

 

「増えねえな」

 

「そこまで考えてから門を開けろ!」

 

「だが、外へ置いとくわけにもいかねえだろ」

 

「それで困ってるんだよ!」

 

 県丞が俺の横へ来た。

 

「劉備殿」

 

「分かってます」

 

「まだ何も申し上げておりませんが」

 

「荊州側に新野での滞在を認められたのは、俺と一緒に入境した者だけ。この人たちは人数に含まれていない。勝手に入れれば、汝南から兵を呼び寄せたと疑われる。そうでしょう」

 

 県丞は小さく頷いた。

 

「そのとおりでございます」

 

 俺は門外の「劉」の旗を見る。

 

 旗の下には、疲れ切った人々が並んでいる。

 

 だが、荊州側から見れば別の景色になる。

 

 劉備が新野へ入った。

 

 その直後、劉の旗を掲げた集団が合流した。

 

 元兵もいる。

 

 武器を持った者もいる。

 

 どう見ても、勢力拡大である。

 

「戦える者はおるのか」

 

 関羽が門外の者へ尋ねた。

 

 数人の男が手を挙げる。

 

 新野の住民たちから、低いざわめきが起きた。

 

「聞き方!」

 

 俺は関羽を振り返った。

 

「何がだ」

 

「兵を増やすための面接みたいになってるだろ!」

 

「戦える者を確認しただけだ」

 

「蔡瑁に報告されたら、その一言だけ抜き出されるんだよ!」

 

 張飛が笑う。

 

「実際、曹操が来たら戦える奴は多い方がいい」

 

「いま必要なのは、荊州へ反乱の釈明をしなくて済む人数なんだ!」

 

 新野の住民が、少しずつ門の周囲へ集まってきた。

 

「また人が増えるのか」

 

「我らの兵糧も足りぬというのに」

 

「空き家を全部、外から来た者へ渡すつもりではないか」

 

「劉備殿は、汝南の兵を集めているのではないか」

 

 不安を口にしているのは、新野の住民だけではなかった。

 

 昨日まで俺についてきた避難民たちも、門外の一団を見ている。

 

「我らも家が決まっていない」

 

「食料が減る」

 

「先に来た者を優先してもらわねば困る」

 

(来たばかりの俺たちが、もう古参の顔をしてるぞ……)

 

 人間というものは、門を一日早くくぐるだけで、内側の人間になるらしい。

 

 先頭の男が、もう一度頭を下げた。

 

「家を奪うつもりはございません。数日だけでも、城壁の内へお入れください」

 

「食料はあるのか」

 

 男は背後へ手を伸ばした。

 

 仲間が、小さな袋を二つ運んでくる。

 

 中身は雑穀と乾いた豆だった。

 

 決して空ではない。

 

 だが、この人数を何日も食べさせられる量でもない。

 

 県丞が小声で言う。

 

「襄陽へ報告し、許しを得るまで門外へ留めることもできます」

 

 制度上は、それが正しい。

 

 勝手に入れない。

 

 勝手に定住させない。

 

 報告し、返事を待つ。

 

 だが、返事が届くまで何日かかる。

 

 門外を見る。

 

 老人の一人は、立っているだけで膝が震えている。

 

 母親に抱かれた子供は、顔を赤くして浅い息をしていた。

 

 腕に布を巻いた男の傷からは、まだ血が滲んでいる。

 

 甘氏が、熱を出しているらしい子供を見ていた。

 

 何も言わない。

 

 何かを頼む目でもない。

 

 ただ、その子供の状態を確認している。

 

 俺は視線を逸らした。

 

 少しして、また門外を見る。

 

(ここで死なれたら、俺が追い返したことになる)

 

 責任を取らされる。

 

 評判が悪くなる。

 

 新野の門前で死人が出れば、他の者が騒ぐ。

 

 それ以前に、子供が倒れるのを見た後で、普通に夕飯を食べられる気もしない。

 

「今夜だけでも、門の内側へ入れる」

 

 県丞が確認した。

 

「正式に、新野の住民として受け入れるということでしょうか」

 

「違う。そこまでは決めていない」

 

「では、どのような扱いで」

 

「道へ放置しないための、仮の保護だ」

 

 俺は指を折った。

 

「子供、老人、病人、負傷者を先に入れる」

 

「武器を持っている者は、門前ですべて申告」

 

「弓は弦を外す。矢はまとめて封じる」

 

「剣や刀は鞘から抜かず、紐を掛ける」

 

「持ってきた食料と荷物を記録する」

 

「小さな荷車も、俺たちが持ってきた四台とは分け、誰の物か記す」

 

「家族ごとに名前を確認する」

 

「正式な許しが出るまでは、門の近くへ仮に置く」

 

「新野の家や畑を、勝手に使わせない」

 

 先頭の男が深く頭を下げた。

 

「一夜、雨風をしのげれば十分でございます」

 

「門へ入ったからといって、家や畑をもらったと思うなよ」

 

「心得ております」

 

 本当に心得ているかは、まだ分からない。

 

 だが、緊急避難と正式な居住を分けておけば、少なくとも後から、

 

『劉備が勝手に新しい住民を増やした』

 

 と言われた時に弁明できる。

 

 制度は人を助けるためにある。

 

 そして同時に、俺が責任から逃げるためにもある。

 

 ◆

 

 門の内側へ入れた後、甘氏と糜氏が新来者の確認を始めた。

 

 一つの集団に見えても、事情はそれぞれ違った。

 

 劉の旗を村の守りの印として掲げた者。

 

 劉辟や龔都の一団へ一時的に加わっていた者。

 

 曹操軍が近づいたという噂だけで村を捨てた者。

 

 家族を失い、同行する相手がいなくなった者。

 

 元兵だが、もう武器を持ちたくない者。

 

 俺の兵に加われば食べられると思って来た者。

 

 先に新野へ入った親族を追ってきた者。

 

「玄徳様」

 

 腕に古い傷のある男が俺の前へ出た。

 

「俺を兵へ加えてください」

 

 その隣では、別の男が首を振る。

 

「俺はもう戦いたくありません。畑があれば、働きます」

 

 関羽が前者を見る。

 

「戦える者は、備えとして必要だ」

 

「戦えるからといって、全員を兵にする必要はない」

 

「曹操への備えはどうする」

 

「畑がなければ、その前に全員飢える!」

 

 兵へ入れる。

 

 言葉だけなら簡単だ。

 

 だが兵にすれば、食料がいる。

 

 武器がいる。

 

 訓練がいる。

 

 命令する人間がいる。

 

 戦死した時は、家族の面倒まで発生する。

 

 人一人を兵と呼んだ瞬間、その人間に関する仕事が一気に増えるのだ。

 

 廖化へ向き直った。

 

「戦える者も、まず何ができるかを聞け。農作業、大工、鍛冶、荷運び。戦う以外の仕事があるなら、そちらへ回す」

 

「承知しました」

 

「武器を持っていた者だけ、別に記録しておいてくれ」

 

 関羽は少し不満そうだった。

 

 だが、何も言わずに引いた。

 

 糜氏が新しい木簡へ人数を書き始める。

 

 俺は今朝完成した帳簿を開いた。

 

「この人たちを、今朝の実人数へ足せばいいんだよな?」

 

「食事を必要とする人数には加えます。ただし、すべての数字が同じように増えるわけではありません」

 

「なぜだ」

 

「この方々の中には、先に新野へ来た家族の名簿に、行方不明者として記されていた者がおります」

 

「まだ来てなかったのに?」

 

「行方不明の家族として記録されていました」

 

「生きて来たら、増える数字と増えない数字があるのか……」

 

「はい。実人数と配給人数は増えます。家族の名簿では、行方不明から所在確認済みへ移ります」

 

 糜氏は木簡を並べる。

 

「こちらは新たに追加される方」

 

「こちらは、家族の名簿に行方不明者として記されていた方」

 

「こちらは武器を持っていた方」

 

「こちらは保護が必要な方」

 

「こちらは働ける方です」

 

「一人来ただけで、何か所の数字が変わるんだよ」

 

「食料、住居、家族、作業、武器の五か所です」

 

「人口って、一つの数字じゃないのか?」

 

「食べる人数と、働ける人数は同じではありません」

 

「正しいけど、聞きたくなかった!」

 

 数字は人間を簡単にするためにあると思っていた。

 

 実際には、人間一人が増えるたび、数字の種類が増える。

 

 ◆

 

「襄陽へ報告を出す必要があります」

 

 県丞が木簡を持ってきた。

 

「増えた人数を、いくつと記しましょう」

 

「まだ全部確認できていない」

 

「しかし報告を遅らせれば、人数の増加を隠していたと思われる恐れがあります」

 

 それも困る。

 

 確認が終わってから報告すれば遅い。

 

 確認前に報告すれば数字が違う。

 

 どちらを選んでも、後から説明が必要になる。

 

「いま分かっていることを、分かっている範囲で書こう」

 

 俺は報告する項目を分けた。

 

 現時点で名前を確認できた人数。

 

 まだ確認中の人数。

 

 子供、老人、病人、負傷者。

 

 武器を持っていた人数。

 

 持参した食料。

 

 俺が呼び寄せた者ではないこと。

 

 正式な関門を通らず、山道から入境したこと。

 

 正式な居住許可を出していないこと。

 

 緊急保護として門内へ入れたこと。

 

「分からない数は、分からないと書いてください」

 

 県丞が俺を見た。

 

「少なく記せば、問題を小さく見せることもできますが」

 

「後で増えたら、隠したと言われる」

 

「多く記せば、支給を増やせる可能性もございます」

 

「実際より多ければ、水増しだ!」

 

 県丞は深く頭を下げた。

 

「人数を少なく見せることも、多く見せることもなさらぬのですな」

 

「どちらも後で困るからです!」

 

 張飛が、報告書を覗き込んだ。

 

「俺たちが呼んでねえって、何度も書いてあるな」

 

「一番大事なところだ!」

 

「そこまで書くと、逆に怪しくねえか?」

 

 俺は張飛を見る。

 

 確かに。

 

 何度も否定すると、かえって疑われることがある。

 

「……一度だけ、はっきり書こう」

 

「兄貴も、たまには俺の意見を聞くんだな」

 

「喜ぶな。お前の指摘が正しいと、俺の方が不安になる」

 

 ◆

 

 昼前。

 

 糜氏が、新来者を含めた食料の見込みを持ってきた。

 

「昨日の配給量を続ければ、荊州から次の支給が届く前に不足いたします」

 

「昨日も不足するって言ってなかったか?」

 

「さらに早まりました」

 

「何日持つ?」

 

「倉の再確認が終わらなければ、断定できません」

 

「断定できないくらい悪いの?」

 

「昨日の見込みが使えなくなったことだけは確かです」

 

 俺は顔を伏せた。

 

「人口だけじゃなく、食料の見込みまで一日で古くなった……」

 

 新来者の一人が、持ってきた豆の袋を差し出した。

 

「皆のためにお使いください」

 

 他の者も、それぞれ少量の穀物や干した野草を持ってくる。

 

 俺は手を上げて止めた。

 

「全部まとめる前に、誰がどれだけ持ってきたか記録してくれ」

 

「皆で分けるのではないのですか」

 

「病人や子供へ回す分は相談する」

 

 俺は袋を見る。

 

「だが、門へ入った途端に全部取り上げたら、次から誰も正直に荷物を見せなくなる」

 

 隠されれば、必要な時に使えない。

 

 持ち主へ返せなくなる。

 

 後から、

 

『自分はもっと持っていた』

 

 と言われる。

 

 だから記録する。

 

 ただそれだけだ。

 

 先頭の男は、なぜか感動したように頭を下げた。

 

「我らのような者の、わずかな持ち物までお守りくださるのですか」

 

「守るというか、誰の物か分からなくなるのが困るんです」

 

 俺の説明は、今回も正しく伝わらなかった。

 

 ◆

 

 廖化が、働ける者から技能を聞き取っていた。

 

「農作業ができる者」

 

 複数の手が上がる。

 

「大工仕事」

 

 三人。

 

「鍛冶」

 

 一人。

 

「牛や馬を扱える者」

 

 二人。

 

「井戸を掘ったことがある者」

 

「おい!」

 

 離れた場所から張飛が駆けてきた。

 

「井戸を掘れる奴は、俺のところへ寄こせ!」

 

 俺は頭を抱えた。

 

「井戸将軍が、ついに部下を集め始めた……」

 

「井戸が直れば水が増えるぞ」

 

「仕事は認めてる! 役職を認めてない!」

 

「部下が増えれば、もっと早く直る」

 

「その理屈だけは正しいのが腹立つ!」

 

 井戸掘りの経験がある者たちは、少し怯えながら張飛の後ろへ並んだ。

 

 張飛は満足そうに頷く。

 

「よし。今日中に泥を全部出すぞ」

 

「無理はさせるなよ!」

 

「分かってる」

 

「お前の『分かってる』は信用できない!」

 

 廖化は、新来者だけで一つの作業集団を作らなかった。

 

 新野の住民。

 

 先に来た避難民。

 

 元黄巾。

 

 蔡陽軍から降った者。

 

 杜遠の元部下。

 

 それぞれを混ぜ、城壁、井戸、家屋、荷運び、畑の確認へ振り分けていく。

 

 出身ごとに固めれば、仲間意識は強くなる。

 

 だが同時に、何か起きた時に全員が一緒に動く。

 

 混ぜておいた方が、勝手な集団を作りにくい。

 

 一人の新野住民が、甘氏のそばに座る病人を見た。

 

「働けぬ者にも、食料を渡すのですか」

 

 責める口調ではない。

 

 自分たちの分が減ることを恐れているだけだ。

 

「道へ追い出せば、働けるようになるのか?」

 

「なりません」

 

「なら、追い出しても問題が場所を変えるだけだ」

 

 城外で倒れれば、遺体を片づけるのも新野だ。

 

 賊に拾われれば、今度は敵として戻ってくるかもしれない。

 

 病が広がれば、門を閉めても遅い。

 

 どう考えても、最初から管理した方が楽である。

 

「子供、老人、病人は甘氏のところへ」

 

「働ける者は廖化へ」

 

「武器を持っていた者は、別に記録」

 

「全部を同じ扱いにするな」

 

 県丞は、また木簡へ何かを書き込んでいた。

 

 俺の発言を名言集にするのはやめてほしい。

 

 ◆

 

「荒れた畑があれば、耕します」

 

 新来者の農民たちが申し出た。

 

 新野の周辺には、雑草の伸びた畑がいくつもある。

 

 人手が増えたのだから、耕せばよい。

 

 そう簡単に済めばよかった。

 

 県丞が土地の記録を持ってくる。

 

「こちらは、戸主が行方不明」

 

「こちらは戸主が亡くなりましたが、相続が決まっておりません」

 

「こちらは遠方の豪族の名義です」

 

「こちらは隣家が一部だけ使用しております」

 

「こちらは持ち主が記録から判別できません」

 

「空いている土地は?」

 

「見た目には多くございます」

 

「見た目じゃなく、問題なく使える土地は?」

 

 県丞は黙った。

 

 予想どおりだった。

 

「荒れた畑を、新たに来た者へ与えますか」

 

「与えない」

 

 新来者たちの顔が曇った。

 

「だが、今年耕すことは認める」

 

 新野の住民も、新来者も、俺を見る。

 

「いま誰も耕していない畑だけだ」

 

「境を確認する」

 

「帳簿上の持ち主を残す」

 

「家族が残っているなら、その名も書く」

 

「耕したから持ち主になったとはしない」

 

「種籾と農具を誰が出したか記録する」

 

「収穫の取り分は、耕す前に決める」

 

「元の持ち主が戻ってきても、育てた作物をその場で全部奪わせない」

 

 張飛が腕を組んだ。

 

「面倒だな。荒れてるなら、使った奴の物でいいんじゃねえか?」

 

「それをやったら、来年になって元の持ち主が戻ってくる!」

 

「戻ってこなかったら?」

 

「戻ってこなかったと決めるのはいつだ!」

 

「三年くらいか?」

 

「なぜお前が決める!」

 

 土地を渡せば、元の持ち主が帰ってきた時に揉める。

 

 使わせなければ、収穫が増えない。

 

 だから、使う権利と持つ権利を分ける。

 

 面倒だが、俺の責任を少しでも薄くするには、それしかない。

 

「土地を奪わず、荒れることも許さぬのですな」

 

 県丞が感心して言った。

 

「どっちからも後で怒られたくないだけです」

 

「両者の権利を守るということですな」

 

「話を立派にするな!」

 

 ◆

 

 規則を決めた直後、一つの畑で争いが起きた。

 

 雑草に覆われた細長い土地。

 

 帳簿上の持ち主は行方不明。

 

 隣家の男は、

 

「この畑は、我が一族が使うはずだった」

 

 と主張した。

 

 新来者の農民は、

 

「何年も荒らしておいて、いまさら何を言う」

 

 と反発する。

 

「いま、誰か耕しているのか」

 

「誰も」

 

「種をまいたか」

 

「まだです」

 

「境はどこだ」

 

 隣家の男が石を指す。

 

 新来者の男は、その二歩先の木を指した。

 

「全然違うじゃないか」

 

「昔から石までです」

 

「いや、木までだった!」

 

 周囲の老人たちへ聞いても、意見が分かれる。

 

 昔の洪水で境の印が流れた。

 

 その後、石を置き直した。

 

 いや、石は別の畑のものだ。

 

 話を聞くほど分からなくなる。

 

「争っていない部分だけ、今年は耕せ」

 

 俺は畑の中央を指した。

 

「境を争っている場所には、印を立てて残す」

 

「古い記録と近隣の証言を調べる」

 

 隣家の男が不満そうに言う。

 

「後から来た者へ使わせるのですか」

 

「使わせるだけだ。渡すとは言っていない」

 

 新来者にも言う。

 

「耕したから、自分の土地になると思うな」

 

「働いた分の取り分は決める。土地の持ち主は別だ」

 

 双方とも、完全には納得していない。

 

 張飛が俺の耳元で言う。

 

「どっちも不満そうだな」

 

「片方だけが笑ってる決定よりは、たぶんましだ」

 

「二人とも怒ってたら、悪い決定じゃねえのか?」

 

「……そういう場合もある」

 

 不安になるから、これ以上考えるのはやめよう。

 

 ◆

 

 午後には、新来者のうち働ける者が作業へ加わっていた。

 

 井戸から泥を運び出す。

 

 崩れた家の屋根へ新しい木を渡す。

 

 荒れた畑の草を刈る。

 

 倉の穀物を乾いた場所へ移す。

 

 城壁用の土を踏み固める。

 

 破れた寝具を繕う。

 

 新野の住民の視線も、少しずつ変わった。

 

「食うだけの者ではないらしい」

 

「井戸の泥出しが、昨日より進んだ」

 

「あの女は、衣を繕うのが早い」

 

 だが、全員が安心したわけではない。

 

「いまは働いているが、数が増えれば町を奪われる」

 

 そう囁く者もいる。

 

 劉備側の避難民にも、

 

「我らは玄徳様を頼ってきたのだから、新野の者より優先されるべきだ」

 

 と言い出す者がいた。

 

 双方へ向き直った。

 

「先にいたから全部優先でも、後から来たから何もなしでもない。水も食料も家も、必要な量と実際の人数で決める」

 

 避難民の一人が不満を示す。

 

「玄徳様へ従ってきたことは、考慮されないのですか」

 

「俺を頼っただけで他人の家を取れるなら、明日から全員が俺を頼ったと言い出すだろ!」

 

 男は黙った。

 

 周囲の新野住民から、小さな笑いが漏れる。

 

 俺は笑えなかった。

 

 実際、明日から全員がそう言い出す可能性がある。

 

 ◆

 

「穀物なら、あるかもしれねえぞ」

 

 拘束された杜遠が、縄を掛けられたまま口を挟んだ。

 

 警戒しながら杜遠を見る。

 

「どこに」

 

「新野の北西に、古い砦がある」

 

「古い砦?」

 

「昔は街道の中継に使ってたらしいが、今は捨てられてる」

 

 杜遠によれば、そこを周辺の賊が使っているという。

 

 奪った穀物。

 

 塩。

 

 布。

 

 すぐに売れない物を、一時的に置く場所らしい。

 

「表から行けば、見張りに気づかれる」

 

「裏手に細い山道がある」

 

「なぜ知っている」

 

 廖化が杜遠を睨んだ。

 

「昔、取引した」

 

「何を取引した」

 

「穀物と、人を襲う場所の情報だ」

 

「完全に仲間じゃないか!」

 

「同じ山で稼いでただけだ」

 

「それを仲間と言うんだよ!」

 

 杜遠は肩をすくめた。

 

「俺を連れていけば、裏道へ案内できる」

 

 怪しい。

 

 あまりにも都合がよい。

 

 逃げるための嘘かもしれない。

 

 砦に仲間がいて、待ち伏せしている可能性もある。

 

 穀物があるとは限らない。

 

 あったとしても、賊が村から奪った物なら、本来の持ち主がいる。

 

 勝手に新野へ運べば、俺たちも山賊と同じだ。

 

「まず、本当に砦があるかだけ確かめる」

 

 俺は関羽を見る。

 

 杜遠には、砦までの道と目印を地面へ描かせた。廖化と、新野周辺の山を知る猟師にも確かめさせる。

 

 少なくとも、存在しない砦を探して山中をさまようことはなさそうだった。

 

「俺が参ろう」

 

 関羽はすでに青龍偃月刀へ手を置いていた。

 

「見るだけだぞ」

 

「賊が襲ってきた場合は」

 

「自分を守るだけ!」

 

「逃げる賊は」

 

「追うな!」

 

「砦へ入ることは」

 

「するな!」

 

「遠くから見ただけでは、中に何があるか分からぬ」

 

「今日は存在確認だけでいい!」

 

 関羽は不満そうだった。

 

 赤兎馬も、早く走りたそうに地面を掻いている。

 

「友を説得してくれ」

 

「赤兎馬は俺の命に従う」

 

「お前より馬の方が話を聞きそうなのが嫌なんだよ!」

 

 関羽は少人数を連れ、北西へ物見に出た。

 

 杜遠は縄を掛けられたまま、去っていく赤兎馬を見送った。

 

「見つけたら、あいつは戻ってくるのか?」

 

「戻ってくるよう命令した」

 

「そうか」

 

「なぜ不安そうなんだ」

 

「関羽って男は、賊を見るだけで帰れるのか?」

 

 捕虜にまで心配された。

 

 ◆

 

 夕方。

 

 襄陽側から使者が来た。

 

 最初に報告された人数と、新野へ必要な支給物資を確認するためだという。

 

 最悪の時機だった。

 

 門の近くには、新たな仮設区域。

 

 そこには今日入れたばかりの人々。

 

 見れば、人数が増えていることはすぐに分かる。

 

 使者は周囲を見回した。

 

「先日報告された人数より、増えているようですが」

 

「今日、増えました」

 

「劉備殿が呼び寄せたのですか」

 

「呼んでません!」

 

「しかし、劉の旗を掲げております」

 

「あれは俺が渡した旗ではありません!」

 

「報告には、正式な関門を通っていないともあります」

 

「山道から勝手に入ってきたんです!」

 

「その者たちを、門内へ入れられたと」

 

「病人と子供を門前へ放置するわけにもいかなかったんです!」

 

「戦える者も含まれているとか」

 

「全員を兵にはしません!」

 

「兵としてではなく、民として受け入れるということですか」

 

 俺は言葉に詰まった。

 

 兵を増やしていると言われるのも困る。

 

 民を集めていると言われるのも困る。

 

 どちらに転んでも、勢力拡大になる。

 

 県丞が助け舟を出した。

 

「正式な居住ではございません。緊急保護として門内へ入れております」

 

 県丞は順番に説明した。

 

 武器は申告し、封じている。

 

 人数と持参食料を確認中。

 

 土地の所有権は移していない。

 

 荒れた畑も、一時的な耕作だけ。

 

 襄陽へ訂正報告を送る予定。

 

 使者は報告書へ目を通した。

 

「今後さらに人が増える場合は、必ずお知らせください」

 

「俺も、これ以上増やしたくありません!」

 

 使者は、なぜか感心したように俺を見た。

 

「人が集まりすぎることを懸念されるほど、玄徳殿は民から頼られておられるのですな」

 

「そういう話ではありません!」

 

 俺が求めているのは、静かな町。

 

 少ない人口。

 

 少ない仕事。

 

 だが人は、俺が逃げた方向へ追いかけてくる。

 

 使者は、

 

「追加支給については、襄陽へ持ち帰り検討いたします」

 

 と言った。

 

 検討。

 

 つまり、すぐには来ない。

 

 食料だけは、報告書より早く減っていく。

 

 ◆

 

 夜。

 

 糜氏が、新しい仮集計を持ってきた。

 

「今日、食事を必要とする人数はまとまりました」

 

「今度こそ決まったのか?」

 

「今日の分は」

 

「その言い方だと、明日は変わるんだな」

 

「明日、新たな者が来なければ変わりません」

 

「来ないと言ってくれ」

 

「確認できないことは申し上げられません」

 

 正しい。

 

 正しいが、今は慰めてほしかった。

 

「一人増えるたび、何種類の数字が変わるんだ」

 

「少なくとも、食料、住居、作業、武器、家族です」

 

「もう一つ増やしてくれ」

 

「何でしょう」

 

「俺の睡眠時間だ」

 

 俺は横になろうとした。

 

「旦那様」

 

 甘氏が静かに呼ぶ。

 

「まだ、屋根のない場所で眠る子供がおります」

 

 俺は目を閉じたまま答えた。

 

「何人だ」

 

「修繕が終わった家へ移せば、全員ではありませんが、減らせます」

 

「病人と子供を先に」

 

「元気な者は、今夜だけ天幕で我慢してもらおう」

 

 糜氏が言う。

 

「働いた者へ追加する配給は、持参食料から出す分も記録いたします」

 

「頼む」

 

 問題は三つだけに整理されている。

 

 家。

 

 食料。

 

 明日の作業。

 

 担当を分けた意味はあった。

 

 俺は考え、必要なことだけを決める。

 

「……終わったか?」

 

 糜氏が次の木簡を開く。

 

「荒地の収穫配分について――」

 

「それは明日にしてくれ!」

 

 ◆

 

 翌朝。

 

 関羽が北西の物見から戻った。

 

 赤兎馬の蹄が、朝の静かな道を叩く。

 

 関羽の青龍偃月刀に血はついていない。

 

 まずそこを確認し、少し安心した。

 

「杜遠の申した砦は、実在する」

 

 杜遠が得意そうな顔をした。

 

「ほらな」

 

「穀物は?」

 

「砦へ荷車が出入りした跡がある。見張りらしき者も確認した」

 

「中身は」

 

「分からぬ」

 

「戦ってないだろうな?」

 

 関羽が少し黙った。

 

「見張りの一人が、こちらへ近づいてきた」

 

 俺の顔が引きつる。

 

「それで?」

 

「赤兎馬を見て逃げた」

 

「お前が何もしなくても、見た目が討伐なんだよ!」

 

「追ってはいない」

 

「そこは偉い!」

 

 関羽が僅かに眉を寄せる。

 

 褒められる内容ではなかったらしい。

 

 だが、今日は無事に戻ってきただけで十分だ。

 

 砦は実在する。

 

 賊もいる。

 

 荷車の跡もある。

 

 杜遠の話が、完全な嘘ではないことは分かった。

 

 ただし、穀物の量も、本来の持ち主も不明。

 

 次に考えるべき問題が、また一つ増えた。

 

「劉備殿」

 

 県丞が、襄陽へ送る訂正報告を持ってきた。

 

「昨日の追加人数と暫定措置を、ひとまずまとめました」

 

 俺は木簡を受け取った。

 

「今度こそ、これを送ればいいんだな」

 

「現在確認できた範囲では」

 

 嫌な言い方だった。

 

 だが、送らないわけにもいかない。

 

「では、すぐに――」

 

「玄徳様!」

 

 北門から物見が駆け込んできた。

 

 俺は訂正報告を抱えたまま身構えた。

 

「曹操軍か?」

 

「違います!」

 

「また民か?」

 

 物見は一瞬、答えにくそうに黙った。

 

「……はい」

 

 俺の顔が止まった。

 

「北の街道に、別の一団が見えます。女子供と荷車を含んでおります」

 

「別の一団?」

 

 昨日来た者たちの先頭の男が、気まずそうに手を上げた。

 

「我らの後ろにも、いくつかの村が続いておりました」

 

 俺は男を振り返った。

 

「最初に言え!」

 

「我らも、どこまで来ているか分からず……」

 

 糜氏が無言で新しい木簡を取り出した。

 

 県丞は、完成した訂正報告を見下ろす。

 

 俺は報告書を見る。

 

 北の街道を見る。

 

 食料の帳簿を見る。

 

 さらに、賊が物資を蓄えているらしい北西の砦を見る。

 

「荊州へ報告を出す前に、訂正の訂正が必要になってるじゃないか!」

 

 関羽が北の方角を見た。

 

「後続の民が来るならば、砦の賊に襲われる恐れもある」

 

 杜遠も言う。

 

「あいつらは、女子供のいる一団なら見逃さねえぞ」

 

 避難民を守るなら、砦の賊を放置できない。

 

 だが、砦の物資を奪えば、こちらも山賊と変わらなくなる。

 

 食料は足りない。

 

 人は増える。

 

 荊州への説明も必要。

 

 そして北の街道には、まだこちらへ向かう人々がいる。

 

(静かな新野へ来たはずなのに、どうして北から人と仕事が途切れないんだよ……)

 

 昨日直した人口帳簿。

 

 今日作った訂正報告。

 

 明日には、どちらもまた古くなる。

 

 俺の休暇は、どうやら書類より先に消滅したらしい。

 

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