劉備に転生した俺、三国志が思ったより治安悪すぎる ~ニートになりたいだけなのに、関羽と張飛が俺を覇王にしようとしてくる~ 作:ブンチョウ
今朝、ようやく完成した人口帳簿は、完成した直後にもう古くなった。
北門の外に並ぶ人々を見ながら、俺は手元の木簡へ視線を落とす。
木簡の上段には、いま新野にいる人間を、一人につき一度だけ数えた総数がある。
その内訳が、新野の住民と、俺たちと一緒に来た者。
さらに別の欄へ、同じ人間が重なって入る属性として、負傷者、子供、老人、働ける者、武装できる者を記している。
昨日から甘氏や糜氏、県丞、小吏たちが総出で調べ、今朝ようやくまとめた数字だ。
その木簡の向こうに、まだ一度も数えていない人間が立っている。
荷を背負った男。
乳飲み子を抱いた女。
杖へ体重を預ける老人。
衣の上からでも傷が分かる元兵らしい者。
小さな荷車。
そして、先頭には粗末な布へ墨で書かれた大きな「劉」の文字があった。
「玄徳様のもとへ参りました」
一団の先頭に立つ男が、地面へ膝をついた。
後ろの者たちも、それに続いて頭を下げる。
俺は人口帳簿を閉じた。
「誰に、ここへ来いと言われた」
「誰にも言われておりません」
「では、なぜ来た」
「玄徳様が新野へ向かわれたと、道中で聞きました」
「劉辟か龔都の命令ではないのか」
男は首を振った。
「両将とは、汝南で別れて以来、お会いしておりません」
命令もない。
連絡もない。
こちらが呼んだわけでもない。
噂だけを頼りに、歩いてきたらしい。
「どこで俺が新野へ向かうと聞いた」
「北へ戻る商人からです。その者も、別の旅人から聞いたと」
「誰も確かめてない噂だけで、ここまで来たのか?」
男は困った顔をした。
「玄徳様の旗がある場所なら、少なくとも子供を売らずに済むと聞きました」
周囲が静かになった。
誰が、そんな話を広めたのだ。
俺は子供を売らない。
当たり前だ。
しかし当たり前のことが、当たり前ではない場所から来た人間には、それだけで行き先を決める理由になるらしい。
俺は北の街道を見た。
「荊州の関門は、どうした」
男は一瞬、答えをためらった。
「通っておりません。大きな道を避け、村人から聞いた古い山道を越えました」
「劉の旗と武器を持ったまま、入境の検めを避けてきたのか!」
「関門へ参れば、追い返されると思い……」
ますます勝手に入れられなくなった。
荊州側から見れば、俺を頼る集団が正式な関門を避けて領内へ入り、そのまま新野へ合流しようとしている。
呼び寄せたのではないと、何度書いても足りない状況だった。
張飛が腕を組んだ。
「兄貴を慕って来たんだ。入れてやればいいだろ」
俺は帳簿を張飛へ突きつけた。
「入れたら、食料も家も井戸も増えるのか?」
「増えねえな」
「そこまで考えてから門を開けろ!」
「だが、外へ置いとくわけにもいかねえだろ」
「それで困ってるんだよ!」
県丞が俺の横へ来た。
「劉備殿」
「分かってます」
「まだ何も申し上げておりませんが」
「荊州側に新野での滞在を認められたのは、俺と一緒に入境した者だけ。この人たちは人数に含まれていない。勝手に入れれば、汝南から兵を呼び寄せたと疑われる。そうでしょう」
県丞は小さく頷いた。
「そのとおりでございます」
俺は門外の「劉」の旗を見る。
旗の下には、疲れ切った人々が並んでいる。
だが、荊州側から見れば別の景色になる。
劉備が新野へ入った。
その直後、劉の旗を掲げた集団が合流した。
元兵もいる。
武器を持った者もいる。
どう見ても、勢力拡大である。
「戦える者はおるのか」
関羽が門外の者へ尋ねた。
数人の男が手を挙げる。
新野の住民たちから、低いざわめきが起きた。
「聞き方!」
俺は関羽を振り返った。
「何がだ」
「兵を増やすための面接みたいになってるだろ!」
「戦える者を確認しただけだ」
「蔡瑁に報告されたら、その一言だけ抜き出されるんだよ!」
張飛が笑う。
「実際、曹操が来たら戦える奴は多い方がいい」
「いま必要なのは、荊州へ反乱の釈明をしなくて済む人数なんだ!」
新野の住民が、少しずつ門の周囲へ集まってきた。
「また人が増えるのか」
「我らの兵糧も足りぬというのに」
「空き家を全部、外から来た者へ渡すつもりではないか」
「劉備殿は、汝南の兵を集めているのではないか」
不安を口にしているのは、新野の住民だけではなかった。
昨日まで俺についてきた避難民たちも、門外の一団を見ている。
「我らも家が決まっていない」
「食料が減る」
「先に来た者を優先してもらわねば困る」
(来たばかりの俺たちが、もう古参の顔をしてるぞ……)
人間というものは、門を一日早くくぐるだけで、内側の人間になるらしい。
先頭の男が、もう一度頭を下げた。
「家を奪うつもりはございません。数日だけでも、城壁の内へお入れください」
「食料はあるのか」
男は背後へ手を伸ばした。
仲間が、小さな袋を二つ運んでくる。
中身は雑穀と乾いた豆だった。
決して空ではない。
だが、この人数を何日も食べさせられる量でもない。
県丞が小声で言う。
「襄陽へ報告し、許しを得るまで門外へ留めることもできます」
制度上は、それが正しい。
勝手に入れない。
勝手に定住させない。
報告し、返事を待つ。
だが、返事が届くまで何日かかる。
門外を見る。
老人の一人は、立っているだけで膝が震えている。
母親に抱かれた子供は、顔を赤くして浅い息をしていた。
腕に布を巻いた男の傷からは、まだ血が滲んでいる。
甘氏が、熱を出しているらしい子供を見ていた。
何も言わない。
何かを頼む目でもない。
ただ、その子供の状態を確認している。
俺は視線を逸らした。
少しして、また門外を見る。
(ここで死なれたら、俺が追い返したことになる)
責任を取らされる。
評判が悪くなる。
新野の門前で死人が出れば、他の者が騒ぐ。
それ以前に、子供が倒れるのを見た後で、普通に夕飯を食べられる気もしない。
「今夜だけでも、門の内側へ入れる」
県丞が確認した。
「正式に、新野の住民として受け入れるということでしょうか」
「違う。そこまでは決めていない」
「では、どのような扱いで」
「道へ放置しないための、仮の保護だ」
俺は指を折った。
「子供、老人、病人、負傷者を先に入れる」
「武器を持っている者は、門前ですべて申告」
「弓は弦を外す。矢はまとめて封じる」
「剣や刀は鞘から抜かず、紐を掛ける」
「持ってきた食料と荷物を記録する」
「小さな荷車も、俺たちが持ってきた四台とは分け、誰の物か記す」
「家族ごとに名前を確認する」
「正式な許しが出るまでは、門の近くへ仮に置く」
「新野の家や畑を、勝手に使わせない」
先頭の男が深く頭を下げた。
「一夜、雨風をしのげれば十分でございます」
「門へ入ったからといって、家や畑をもらったと思うなよ」
「心得ております」
本当に心得ているかは、まだ分からない。
だが、緊急避難と正式な居住を分けておけば、少なくとも後から、
『劉備が勝手に新しい住民を増やした』
と言われた時に弁明できる。
制度は人を助けるためにある。
そして同時に、俺が責任から逃げるためにもある。
◆
門の内側へ入れた後、甘氏と糜氏が新来者の確認を始めた。
一つの集団に見えても、事情はそれぞれ違った。
劉の旗を村の守りの印として掲げた者。
劉辟や龔都の一団へ一時的に加わっていた者。
曹操軍が近づいたという噂だけで村を捨てた者。
家族を失い、同行する相手がいなくなった者。
元兵だが、もう武器を持ちたくない者。
俺の兵に加われば食べられると思って来た者。
先に新野へ入った親族を追ってきた者。
「玄徳様」
腕に古い傷のある男が俺の前へ出た。
「俺を兵へ加えてください」
その隣では、別の男が首を振る。
「俺はもう戦いたくありません。畑があれば、働きます」
関羽が前者を見る。
「戦える者は、備えとして必要だ」
「戦えるからといって、全員を兵にする必要はない」
「曹操への備えはどうする」
「畑がなければ、その前に全員飢える!」
兵へ入れる。
言葉だけなら簡単だ。
だが兵にすれば、食料がいる。
武器がいる。
訓練がいる。
命令する人間がいる。
戦死した時は、家族の面倒まで発生する。
人一人を兵と呼んだ瞬間、その人間に関する仕事が一気に増えるのだ。
廖化へ向き直った。
「戦える者も、まず何ができるかを聞け。農作業、大工、鍛冶、荷運び。戦う以外の仕事があるなら、そちらへ回す」
「承知しました」
「武器を持っていた者だけ、別に記録しておいてくれ」
関羽は少し不満そうだった。
だが、何も言わずに引いた。
糜氏が新しい木簡へ人数を書き始める。
俺は今朝完成した帳簿を開いた。
「この人たちを、今朝の実人数へ足せばいいんだよな?」
「食事を必要とする人数には加えます。ただし、すべての数字が同じように増えるわけではありません」
「なぜだ」
「この方々の中には、先に新野へ来た家族の名簿に、行方不明者として記されていた者がおります」
「まだ来てなかったのに?」
「行方不明の家族として記録されていました」
「生きて来たら、増える数字と増えない数字があるのか……」
「はい。実人数と配給人数は増えます。家族の名簿では、行方不明から所在確認済みへ移ります」
糜氏は木簡を並べる。
「こちらは新たに追加される方」
「こちらは、家族の名簿に行方不明者として記されていた方」
「こちらは武器を持っていた方」
「こちらは保護が必要な方」
「こちらは働ける方です」
「一人来ただけで、何か所の数字が変わるんだよ」
「食料、住居、家族、作業、武器の五か所です」
「人口って、一つの数字じゃないのか?」
「食べる人数と、働ける人数は同じではありません」
「正しいけど、聞きたくなかった!」
数字は人間を簡単にするためにあると思っていた。
実際には、人間一人が増えるたび、数字の種類が増える。
◆
「襄陽へ報告を出す必要があります」
県丞が木簡を持ってきた。
「増えた人数を、いくつと記しましょう」
「まだ全部確認できていない」
「しかし報告を遅らせれば、人数の増加を隠していたと思われる恐れがあります」
それも困る。
確認が終わってから報告すれば遅い。
確認前に報告すれば数字が違う。
どちらを選んでも、後から説明が必要になる。
「いま分かっていることを、分かっている範囲で書こう」
俺は報告する項目を分けた。
現時点で名前を確認できた人数。
まだ確認中の人数。
子供、老人、病人、負傷者。
武器を持っていた人数。
持参した食料。
俺が呼び寄せた者ではないこと。
正式な関門を通らず、山道から入境したこと。
正式な居住許可を出していないこと。
緊急保護として門内へ入れたこと。
「分からない数は、分からないと書いてください」
県丞が俺を見た。
「少なく記せば、問題を小さく見せることもできますが」
「後で増えたら、隠したと言われる」
「多く記せば、支給を増やせる可能性もございます」
「実際より多ければ、水増しだ!」
県丞は深く頭を下げた。
「人数を少なく見せることも、多く見せることもなさらぬのですな」
「どちらも後で困るからです!」
張飛が、報告書を覗き込んだ。
「俺たちが呼んでねえって、何度も書いてあるな」
「一番大事なところだ!」
「そこまで書くと、逆に怪しくねえか?」
俺は張飛を見る。
確かに。
何度も否定すると、かえって疑われることがある。
「……一度だけ、はっきり書こう」
「兄貴も、たまには俺の意見を聞くんだな」
「喜ぶな。お前の指摘が正しいと、俺の方が不安になる」
◆
昼前。
糜氏が、新来者を含めた食料の見込みを持ってきた。
「昨日の配給量を続ければ、荊州から次の支給が届く前に不足いたします」
「昨日も不足するって言ってなかったか?」
「さらに早まりました」
「何日持つ?」
「倉の再確認が終わらなければ、断定できません」
「断定できないくらい悪いの?」
「昨日の見込みが使えなくなったことだけは確かです」
俺は顔を伏せた。
「人口だけじゃなく、食料の見込みまで一日で古くなった……」
新来者の一人が、持ってきた豆の袋を差し出した。
「皆のためにお使いください」
他の者も、それぞれ少量の穀物や干した野草を持ってくる。
俺は手を上げて止めた。
「全部まとめる前に、誰がどれだけ持ってきたか記録してくれ」
「皆で分けるのではないのですか」
「病人や子供へ回す分は相談する」
俺は袋を見る。
「だが、門へ入った途端に全部取り上げたら、次から誰も正直に荷物を見せなくなる」
隠されれば、必要な時に使えない。
持ち主へ返せなくなる。
後から、
『自分はもっと持っていた』
と言われる。
だから記録する。
ただそれだけだ。
先頭の男は、なぜか感動したように頭を下げた。
「我らのような者の、わずかな持ち物までお守りくださるのですか」
「守るというか、誰の物か分からなくなるのが困るんです」
俺の説明は、今回も正しく伝わらなかった。
◆
廖化が、働ける者から技能を聞き取っていた。
「農作業ができる者」
複数の手が上がる。
「大工仕事」
三人。
「鍛冶」
一人。
「牛や馬を扱える者」
二人。
「井戸を掘ったことがある者」
「おい!」
離れた場所から張飛が駆けてきた。
「井戸を掘れる奴は、俺のところへ寄こせ!」
俺は頭を抱えた。
「井戸将軍が、ついに部下を集め始めた……」
「井戸が直れば水が増えるぞ」
「仕事は認めてる! 役職を認めてない!」
「部下が増えれば、もっと早く直る」
「その理屈だけは正しいのが腹立つ!」
井戸掘りの経験がある者たちは、少し怯えながら張飛の後ろへ並んだ。
張飛は満足そうに頷く。
「よし。今日中に泥を全部出すぞ」
「無理はさせるなよ!」
「分かってる」
「お前の『分かってる』は信用できない!」
廖化は、新来者だけで一つの作業集団を作らなかった。
新野の住民。
先に来た避難民。
元黄巾。
蔡陽軍から降った者。
杜遠の元部下。
それぞれを混ぜ、城壁、井戸、家屋、荷運び、畑の確認へ振り分けていく。
出身ごとに固めれば、仲間意識は強くなる。
だが同時に、何か起きた時に全員が一緒に動く。
混ぜておいた方が、勝手な集団を作りにくい。
一人の新野住民が、甘氏のそばに座る病人を見た。
「働けぬ者にも、食料を渡すのですか」
責める口調ではない。
自分たちの分が減ることを恐れているだけだ。
「道へ追い出せば、働けるようになるのか?」
「なりません」
「なら、追い出しても問題が場所を変えるだけだ」
城外で倒れれば、遺体を片づけるのも新野だ。
賊に拾われれば、今度は敵として戻ってくるかもしれない。
病が広がれば、門を閉めても遅い。
どう考えても、最初から管理した方が楽である。
「子供、老人、病人は甘氏のところへ」
「働ける者は廖化へ」
「武器を持っていた者は、別に記録」
「全部を同じ扱いにするな」
県丞は、また木簡へ何かを書き込んでいた。
俺の発言を名言集にするのはやめてほしい。
◆
「荒れた畑があれば、耕します」
新来者の農民たちが申し出た。
新野の周辺には、雑草の伸びた畑がいくつもある。
人手が増えたのだから、耕せばよい。
そう簡単に済めばよかった。
県丞が土地の記録を持ってくる。
「こちらは、戸主が行方不明」
「こちらは戸主が亡くなりましたが、相続が決まっておりません」
「こちらは遠方の豪族の名義です」
「こちらは隣家が一部だけ使用しております」
「こちらは持ち主が記録から判別できません」
「空いている土地は?」
「見た目には多くございます」
「見た目じゃなく、問題なく使える土地は?」
県丞は黙った。
予想どおりだった。
「荒れた畑を、新たに来た者へ与えますか」
「与えない」
新来者たちの顔が曇った。
「だが、今年耕すことは認める」
新野の住民も、新来者も、俺を見る。
「いま誰も耕していない畑だけだ」
「境を確認する」
「帳簿上の持ち主を残す」
「家族が残っているなら、その名も書く」
「耕したから持ち主になったとはしない」
「種籾と農具を誰が出したか記録する」
「収穫の取り分は、耕す前に決める」
「元の持ち主が戻ってきても、育てた作物をその場で全部奪わせない」
張飛が腕を組んだ。
「面倒だな。荒れてるなら、使った奴の物でいいんじゃねえか?」
「それをやったら、来年になって元の持ち主が戻ってくる!」
「戻ってこなかったら?」
「戻ってこなかったと決めるのはいつだ!」
「三年くらいか?」
「なぜお前が決める!」
土地を渡せば、元の持ち主が帰ってきた時に揉める。
使わせなければ、収穫が増えない。
だから、使う権利と持つ権利を分ける。
面倒だが、俺の責任を少しでも薄くするには、それしかない。
「土地を奪わず、荒れることも許さぬのですな」
県丞が感心して言った。
「どっちからも後で怒られたくないだけです」
「両者の権利を守るということですな」
「話を立派にするな!」
◆
規則を決めた直後、一つの畑で争いが起きた。
雑草に覆われた細長い土地。
帳簿上の持ち主は行方不明。
隣家の男は、
「この畑は、我が一族が使うはずだった」
と主張した。
新来者の農民は、
「何年も荒らしておいて、いまさら何を言う」
と反発する。
「いま、誰か耕しているのか」
「誰も」
「種をまいたか」
「まだです」
「境はどこだ」
隣家の男が石を指す。
新来者の男は、その二歩先の木を指した。
「全然違うじゃないか」
「昔から石までです」
「いや、木までだった!」
周囲の老人たちへ聞いても、意見が分かれる。
昔の洪水で境の印が流れた。
その後、石を置き直した。
いや、石は別の畑のものだ。
話を聞くほど分からなくなる。
「争っていない部分だけ、今年は耕せ」
俺は畑の中央を指した。
「境を争っている場所には、印を立てて残す」
「古い記録と近隣の証言を調べる」
隣家の男が不満そうに言う。
「後から来た者へ使わせるのですか」
「使わせるだけだ。渡すとは言っていない」
新来者にも言う。
「耕したから、自分の土地になると思うな」
「働いた分の取り分は決める。土地の持ち主は別だ」
双方とも、完全には納得していない。
張飛が俺の耳元で言う。
「どっちも不満そうだな」
「片方だけが笑ってる決定よりは、たぶんましだ」
「二人とも怒ってたら、悪い決定じゃねえのか?」
「……そういう場合もある」
不安になるから、これ以上考えるのはやめよう。
◆
午後には、新来者のうち働ける者が作業へ加わっていた。
井戸から泥を運び出す。
崩れた家の屋根へ新しい木を渡す。
荒れた畑の草を刈る。
倉の穀物を乾いた場所へ移す。
城壁用の土を踏み固める。
破れた寝具を繕う。
新野の住民の視線も、少しずつ変わった。
「食うだけの者ではないらしい」
「井戸の泥出しが、昨日より進んだ」
「あの女は、衣を繕うのが早い」
だが、全員が安心したわけではない。
「いまは働いているが、数が増えれば町を奪われる」
そう囁く者もいる。
劉備側の避難民にも、
「我らは玄徳様を頼ってきたのだから、新野の者より優先されるべきだ」
と言い出す者がいた。
双方へ向き直った。
「先にいたから全部優先でも、後から来たから何もなしでもない。水も食料も家も、必要な量と実際の人数で決める」
避難民の一人が不満を示す。
「玄徳様へ従ってきたことは、考慮されないのですか」
「俺を頼っただけで他人の家を取れるなら、明日から全員が俺を頼ったと言い出すだろ!」
男は黙った。
周囲の新野住民から、小さな笑いが漏れる。
俺は笑えなかった。
実際、明日から全員がそう言い出す可能性がある。
◆
「穀物なら、あるかもしれねえぞ」
拘束された杜遠が、縄を掛けられたまま口を挟んだ。
警戒しながら杜遠を見る。
「どこに」
「新野の北西に、古い砦がある」
「古い砦?」
「昔は街道の中継に使ってたらしいが、今は捨てられてる」
杜遠によれば、そこを周辺の賊が使っているという。
奪った穀物。
塩。
布。
すぐに売れない物を、一時的に置く場所らしい。
「表から行けば、見張りに気づかれる」
「裏手に細い山道がある」
「なぜ知っている」
廖化が杜遠を睨んだ。
「昔、取引した」
「何を取引した」
「穀物と、人を襲う場所の情報だ」
「完全に仲間じゃないか!」
「同じ山で稼いでただけだ」
「それを仲間と言うんだよ!」
杜遠は肩をすくめた。
「俺を連れていけば、裏道へ案内できる」
怪しい。
あまりにも都合がよい。
逃げるための嘘かもしれない。
砦に仲間がいて、待ち伏せしている可能性もある。
穀物があるとは限らない。
あったとしても、賊が村から奪った物なら、本来の持ち主がいる。
勝手に新野へ運べば、俺たちも山賊と同じだ。
「まず、本当に砦があるかだけ確かめる」
俺は関羽を見る。
杜遠には、砦までの道と目印を地面へ描かせた。廖化と、新野周辺の山を知る猟師にも確かめさせる。
少なくとも、存在しない砦を探して山中をさまようことはなさそうだった。
「俺が参ろう」
関羽はすでに青龍偃月刀へ手を置いていた。
「見るだけだぞ」
「賊が襲ってきた場合は」
「自分を守るだけ!」
「逃げる賊は」
「追うな!」
「砦へ入ることは」
「するな!」
「遠くから見ただけでは、中に何があるか分からぬ」
「今日は存在確認だけでいい!」
関羽は不満そうだった。
赤兎馬も、早く走りたそうに地面を掻いている。
「友を説得してくれ」
「赤兎馬は俺の命に従う」
「お前より馬の方が話を聞きそうなのが嫌なんだよ!」
関羽は少人数を連れ、北西へ物見に出た。
杜遠は縄を掛けられたまま、去っていく赤兎馬を見送った。
「見つけたら、あいつは戻ってくるのか?」
「戻ってくるよう命令した」
「そうか」
「なぜ不安そうなんだ」
「関羽って男は、賊を見るだけで帰れるのか?」
捕虜にまで心配された。
◆
夕方。
襄陽側から使者が来た。
最初に報告された人数と、新野へ必要な支給物資を確認するためだという。
最悪の時機だった。
門の近くには、新たな仮設区域。
そこには今日入れたばかりの人々。
見れば、人数が増えていることはすぐに分かる。
使者は周囲を見回した。
「先日報告された人数より、増えているようですが」
「今日、増えました」
「劉備殿が呼び寄せたのですか」
「呼んでません!」
「しかし、劉の旗を掲げております」
「あれは俺が渡した旗ではありません!」
「報告には、正式な関門を通っていないともあります」
「山道から勝手に入ってきたんです!」
「その者たちを、門内へ入れられたと」
「病人と子供を門前へ放置するわけにもいかなかったんです!」
「戦える者も含まれているとか」
「全員を兵にはしません!」
「兵としてではなく、民として受け入れるということですか」
俺は言葉に詰まった。
兵を増やしていると言われるのも困る。
民を集めていると言われるのも困る。
どちらに転んでも、勢力拡大になる。
県丞が助け舟を出した。
「正式な居住ではございません。緊急保護として門内へ入れております」
県丞は順番に説明した。
武器は申告し、封じている。
人数と持参食料を確認中。
土地の所有権は移していない。
荒れた畑も、一時的な耕作だけ。
襄陽へ訂正報告を送る予定。
使者は報告書へ目を通した。
「今後さらに人が増える場合は、必ずお知らせください」
「俺も、これ以上増やしたくありません!」
使者は、なぜか感心したように俺を見た。
「人が集まりすぎることを懸念されるほど、玄徳殿は民から頼られておられるのですな」
「そういう話ではありません!」
俺が求めているのは、静かな町。
少ない人口。
少ない仕事。
だが人は、俺が逃げた方向へ追いかけてくる。
使者は、
「追加支給については、襄陽へ持ち帰り検討いたします」
と言った。
検討。
つまり、すぐには来ない。
食料だけは、報告書より早く減っていく。
◆
夜。
糜氏が、新しい仮集計を持ってきた。
「今日、食事を必要とする人数はまとまりました」
「今度こそ決まったのか?」
「今日の分は」
「その言い方だと、明日は変わるんだな」
「明日、新たな者が来なければ変わりません」
「来ないと言ってくれ」
「確認できないことは申し上げられません」
正しい。
正しいが、今は慰めてほしかった。
「一人増えるたび、何種類の数字が変わるんだ」
「少なくとも、食料、住居、作業、武器、家族です」
「もう一つ増やしてくれ」
「何でしょう」
「俺の睡眠時間だ」
俺は横になろうとした。
「旦那様」
甘氏が静かに呼ぶ。
「まだ、屋根のない場所で眠る子供がおります」
俺は目を閉じたまま答えた。
「何人だ」
「修繕が終わった家へ移せば、全員ではありませんが、減らせます」
「病人と子供を先に」
「元気な者は、今夜だけ天幕で我慢してもらおう」
糜氏が言う。
「働いた者へ追加する配給は、持参食料から出す分も記録いたします」
「頼む」
問題は三つだけに整理されている。
家。
食料。
明日の作業。
担当を分けた意味はあった。
俺は考え、必要なことだけを決める。
「……終わったか?」
糜氏が次の木簡を開く。
「荒地の収穫配分について――」
「それは明日にしてくれ!」
◆
翌朝。
関羽が北西の物見から戻った。
赤兎馬の蹄が、朝の静かな道を叩く。
関羽の青龍偃月刀に血はついていない。
まずそこを確認し、少し安心した。
「杜遠の申した砦は、実在する」
杜遠が得意そうな顔をした。
「ほらな」
「穀物は?」
「砦へ荷車が出入りした跡がある。見張りらしき者も確認した」
「中身は」
「分からぬ」
「戦ってないだろうな?」
関羽が少し黙った。
「見張りの一人が、こちらへ近づいてきた」
俺の顔が引きつる。
「それで?」
「赤兎馬を見て逃げた」
「お前が何もしなくても、見た目が討伐なんだよ!」
「追ってはいない」
「そこは偉い!」
関羽が僅かに眉を寄せる。
褒められる内容ではなかったらしい。
だが、今日は無事に戻ってきただけで十分だ。
砦は実在する。
賊もいる。
荷車の跡もある。
杜遠の話が、完全な嘘ではないことは分かった。
ただし、穀物の量も、本来の持ち主も不明。
次に考えるべき問題が、また一つ増えた。
「劉備殿」
県丞が、襄陽へ送る訂正報告を持ってきた。
「昨日の追加人数と暫定措置を、ひとまずまとめました」
俺は木簡を受け取った。
「今度こそ、これを送ればいいんだな」
「現在確認できた範囲では」
嫌な言い方だった。
だが、送らないわけにもいかない。
「では、すぐに――」
「玄徳様!」
北門から物見が駆け込んできた。
俺は訂正報告を抱えたまま身構えた。
「曹操軍か?」
「違います!」
「また民か?」
物見は一瞬、答えにくそうに黙った。
「……はい」
俺の顔が止まった。
「北の街道に、別の一団が見えます。女子供と荷車を含んでおります」
「別の一団?」
昨日来た者たちの先頭の男が、気まずそうに手を上げた。
「我らの後ろにも、いくつかの村が続いておりました」
俺は男を振り返った。
「最初に言え!」
「我らも、どこまで来ているか分からず……」
糜氏が無言で新しい木簡を取り出した。
県丞は、完成した訂正報告を見下ろす。
俺は報告書を見る。
北の街道を見る。
食料の帳簿を見る。
さらに、賊が物資を蓄えているらしい北西の砦を見る。
「荊州へ報告を出す前に、訂正の訂正が必要になってるじゃないか!」
関羽が北の方角を見た。
「後続の民が来るならば、砦の賊に襲われる恐れもある」
杜遠も言う。
「あいつらは、女子供のいる一団なら見逃さねえぞ」
避難民を守るなら、砦の賊を放置できない。
だが、砦の物資を奪えば、こちらも山賊と変わらなくなる。
食料は足りない。
人は増える。
荊州への説明も必要。
そして北の街道には、まだこちらへ向かう人々がいる。
(静かな新野へ来たはずなのに、どうして北から人と仕事が途切れないんだよ……)
昨日直した人口帳簿。
今日作った訂正報告。
明日には、どちらもまた古くなる。
俺の休暇は、どうやら書類より先に消滅したらしい。