劉備に転生した俺、三国志が思ったより治安悪すぎる ~ニートになりたいだけなのに、関羽と張飛が俺を覇王にしようとしてくる~   作:ブンチョウ

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第34話 返還裁定、穀物一袋に持ち主が三人

 賊より、被害者の方が多かった。

 

 新しい木簡を受け取っている間にも、倉の前の列は伸びていった。

 

 穀物を奪われたという農民。

 

 税として預かった荷だと主張する手代。

 

 運送中の荷を失った商人。

 

 布を見つけた女。

 

 農具を返してほしい老人。

 

 馬具を指さす御者。

 

 銅銭を奪われたという旅人。

 

 さらには、何を失ったのか本人もよく覚えていないのに、とりあえず並んでいる者までいる。

 

 張飛が列の先から最後尾まで見渡した。

 

「昨日の賊より多いな」

 

「賊を捕まえたら、被害者と持ち主候補が全員来たんだよ!」

 

「全部返せば減るぞ」

 

「誰に返すかで揉めてるんだ!」

 

 列の先頭では、先ほどの農民、豪族の手代、商人が、まだ一つの穀物袋を囲んでいた。

 

 一袋の穀物に、持ち主が三人。

 

 昨日まで持ち主不明だったのに、一晩で増えすぎである。

 

(山賊は、奪った荷を倉へ放り込むだけで済んだんだよな)

 

 俺たちは、その荷を村ごと、人ごと、理由ごとに分解しなければならない。

 

 賊の仕事より、事後処理の方が細かい。

 

 県丞が俺の横へ立った。

 

「どなたの訴えから、お聞きになりますか」

 

「私どもの荷が先です」

 

 身なりの整った男が、列の途中から進み出た。

 

 近隣の豪族に仕える手代だという。

 

「公に納められた税の荷でございます。先に確認されるのが筋かと」

 

 商人も声を上げる。

 

「運送帳と商印が残っております。証のある荷から確かめるべきでしょう」

 

 農民たちも黙っていない。

 

「我らが作った穀物だ!」

 

「先に奪われたのは俺たちだぞ!」

 

 県丞が小声で尋ねる。

 

「身分の高い者からにいたしましょうか」

 

「それをやったら、農民の順番が永遠に来ないだろ」

 

「では、被害の大きな者から」

 

「誰の被害が一番大きいか決めるために、全員の話を聞く必要がある」

 

「どのようにいたしましょう」

 

 俺は列を見た。

 

 ここで順番を決めれば、その順番自体について文句を言われる。

 

「来た順でいい」

 

 豪族の手代が眉を動かした。

 

「我が主人のお名前をお聞きになったうえで、その扱いでしょうか」

 

「早く返してほしいなら、次からは早く並ぶよう伝えてください」

 

「……は?」

 

 張飛が吹き出した。

 

 別に、身分の高い者を軽んじたつもりはない。

 

 優先順位という新しい責任を背負いたくなかっただけである。

 

「来た順なら、俺が誰を先にしたかで恨まれずに済む」

 

 小声で付け足すと、県丞は深く頷いた。

 

「身分ではなく、同じ決まりの下に並ばせる。なるほど」

 

「そういう立派な話ではありません」

 

 ◆

 

 倉の前では、誰かが話すたび、別の誰かが横から口を挟む。

 

 これでは何も聞き取れない。

 

 俺たちは県の役所に近い空き地へ、簡単な席を設けた。

 

 卓をいくつか並べる。

 

 請求する者が立つ場所を一つ。

 

 証言を待つ者が並ぶ場所を一つ。

 

 確認の終わった者が待つ場所を一つ。

 

 最初から分けなければ、途中で全員が混ざる。

 

 俺は集まった者たちへ言った。

 

「最初に言っておきます」

 

「これは、罪を裁く正式な場ではありません」

 

「旧砦から回収した物を、誰へ返すか確かめるための仮の場です」

 

 税そのものの最終判断。

 

 豪族同士の争い。

 

 商人の契約。

 

 そこまで俺が決めるつもりはない。

 

 そもそも俺は県令ではない。

 

 新野も俺の領地ではない。

 

「防備や避難民、物資について県丞と話し合うよう言われているだけです。何もかも俺が決めるわけではありません」

 

 俺は念を押した。

 

 県丞が続ける。

 

「とはいえ、現在この物資を預かっているのは新野です。返還先が決まらぬまま、倉を開けるわけにはまいりません」

 

 逃げ道が塞がれた。

 

(正式な裁判ではないと言っているのに、正式な責任だけ残ってるぞ……)

 

 役割も決める。

 

 県丞は、新野に残る戸籍や税の記録を確認。

 

 糜氏は、旧砦から回収した物資の帳簿と数量。

 

 甘氏は、家族関係、住んでいた村、行方不明者の記録。

 

 廖化は、降伏した賊や杜遠から、どこで何を奪ったかを聞く。

 

 関羽と張飛は、列の整理と揉め事の防止。

 

 張飛が胸を張った。

 

「俺は裁きの将軍だな」

 

「列を並ばせるだけだ」

 

「では、行列将軍か」

 

「井戸将軍より弱そうになったな」

 

「声なら強いぞ」

 

 張飛が列へ向き直る。

 

「一人ずつ話せ! 横から口を挟むな!」

 

 全員が黙った。

 

 空き地の端にいた馬まで顔を上げた。

 

「少し声を落とせ!」

 

 俺は耳を押さえた。

 

「証言する前に、全員が罪を認めそうだ!」

 

「静かになったぞ」

 

「静かになりすぎだ!」

 

 ◆

 

 最初に確認するのは、先ほどから争われている穀物袋だった。

 

 袋には三つの印がある。

 

 村を示す焼き印。

 

 税として徴収されたことを示す木札。

 

 運送を引き受けた商人の印。

 

 証拠が三つある。

 

 問題も三つある。

 

 農民の代表が前へ出た。

 

「この穀物は、我らの村で作りました」

 

 袋の焼き印を示す。

 

「口を閉じる糸の通し方も、我らの村のものです」

 

「いつ奪われましたか」

 

「手代へ渡した後です。荷車へ積まれ、北へ運ばれていきました。その途中で賊に奪われたと」

 

「その後は?」

 

 農民の顔が曇った。

 

「失われた分を、もう一度納めろと言われました」

 

 列の後ろで、同じ村の者たちがざわめく。

 

「もう一度?」

 

「はい。このままでは冬を越せません。せめて、この袋だけでも村へお返しください」

 

 次に手代が前へ出る。

 

「村から税として受け取った時点で、この穀物は村の物ではございません」

 

「誰の物ですか」

 

「官倉へ納めるべき税穀です。我が主人は、その徴収と運送の取りまとめを任されております」

 

 木札を示す。

 

「徴収済みであることは、この札が証しております」

 

「では、村は税を納めたことになっているのですか」

 

「我が主人のもとに残る記録では、そのように」

 

「それなのに、もう一度納めろと?」

 

 手代は表情を変えない。

 

「納めるべき場所へ届いておりません」

 

「村はあなたへ渡したのでしょう」

 

「村から受け取った後、運送中に失われた分まで、我が主人が補ういわれはございません」

 

 今度は商人が前へ出る。

 

「その荷を運んでいたのは私です」

 

「あなたが穀物を買ったのですか」

 

「いいえ。運送を請け負いました」

 

「では、この穀物そのものが欲しいのですか」

 

 商人は口を閉じた。

 

「……穀物だけの話ではございません」

 

 商人が失ったものを挙げていく。

 

 荷車。

 

 馬。

 

 護衛へ支払う金。

 

 受け取っていない運送料。

 

 先に立て替えた運送の費え。

 

「荷を他へ返され、私の損だけが残るのは納得できません」

 

「つまり」

 

 俺は三人を見た。

 

「農民は穀物そのものを返してほしい」

 

「手代は、官倉へ納める税穀であると主張している」

 

「商人は、運送で生じた損を認めてほしい」

 

 三人は互いを見る。

 

「三人とも、同じ理由でこの袋を欲しがっているわけではない?」

 

 商人が先に頷いた。

 

「私は、この一袋を持ち帰りたいわけではございません。立て替えたものと、失ったものを無かったことにされたくないのです」

 

 糜氏が、俺の前に置かれた木簡へ目を落とした。

 

「旦那様。記録を分けた方がよろしいかと」

 

「全部この穀物袋の話だろ?」

 

「争っている内容が異なります」

 

 糜氏は新しい木簡を並べた。

 

 一つ目。

 

 回収した物資。

 

 穀物の種類、量、袋の印、回収場所。

 

 二つ目。

 

 返還請求者。

 

 誰が、どの理由で返還を求めているか。

 

 三つ目。

 

 税の納付状況。

 

 村が、誰へ、いつ、どれだけ渡したか。

 

 四つ目。

 

 運送中の損害。

 

 荷車、馬、護衛、運送料、立替金。

 

 五つ目。

 

 緊急使用した分。

 

 昨日、粥へ使った量と、後で返す相手。

 

 俺は五枚の木簡を見た。

 

「穀物一袋から、帳簿が五つ生まれた……」

 

 張飛が横から覗き込む。

 

「五つあるなら、三人へ一つずつ渡しても二つ余るぞ」

 

「帳簿を分けても、穀物は増えない!」

 

 ◆

 

 農民は、すぐに穀物を返してほしいと訴えた。

 

 村の食料が足りない。

 

 手代は、税の札がある以上、官倉へ戻すべきだと言う。

 

 商人は、損害が記録されるまで動かすなと求める。

 

 三人とも、完全な嘘を言っているようには見えない。

 

 だから困る。

 

 俺は穀物袋を見る。

 

「この袋は、今日は誰にも返しません」

 

 三者から一斉に声が上がった。

 

「お待ちください!」

 

「なぜです!」

 

「我らは冬を越せません!」

 

「ただし」

 

 俺は農民側を見た。

 

「この袋の扱いが決まるまで、同じ分を村からもう一度取ることも止めます」

 

 手代が顔を上げた。

 

「劉備殿には、我が主人の徴税を止める権限はございません」

 

「永久に免じろとは言っていません」

 

「この袋が誰の損失なのか分からない間に、村だけから同じ量をもう一度取るなと言っているんです」

 

「しかし――」

 

「村は一度、あなたへ渡したのでしょう?」

 

 手代は答えない。

 

 県丞へ向き直った。

 

「襄陽へ報告が届き、返答があるまで、この分をもう一度集めるのを待たせることはできますか」

 

「返還先と納付の扱いが定まるまで、県丞の名で、郷へ徴収を待つよう伝えます」

 

 手代はしばらく黙った後、低い声で答えた。

 

「……襄陽の裁可が下るまでならば」

 

 次に商人を見る。

 

「運送中に失った物は、穀物の返還とは別に残します」

 

「穀物を誰へ返すか決まっても、荷車や立替金まで無かったことにはしません」

 

 商人はゆっくり頷いた。

 

 手代へ目を戻した。

 

「官倉へ納める税穀だという主張も、いま否定はしません」

 

 誰にも渡さない。

 

 誰の主張も消さない。

 

 すべて保留。

 

(これなら、少なくとも間違った相手へ返した責任だけは避けられる)

 

 完璧な責任回避だった。

 

 ところが県丞は、感心したように言う。

 

「力のある者へ急いで渡さず、三者の損を分けて残されるのですな」

 

「間違えるのが怖いだけです」

 

「間違いを恐れぬ者ほど、弱い者へ損を押しつけます」

 

「なぜ何を言っても評価が上がるんだ……」

 

 ◆

 

 次に前へ出たのは、粗末な衣を着た女だった。

 

 幼い子供を連れている。

 

「この鍬と布は、我が家の物です」

 

 回収品の中から、刃の根元に金具を巻いた鍬と、色褪せた布を示した。

 

「夫は?」

 

 県丞が尋ねる。

 

「徴発されてから戻りません」

 

 別の手代が口を挟んだ。

 

「戸主本人がおらぬ家の主張を、何によって認めるのです」

 

 女の肩が縮む。

 

 甘氏が家族の記録を開いた。

 

「こちらの方の夫は、行方不明として記録されています」

 

「現在は、妻と子供が家に残り、この方が畑を耕しています」

 

「近くにお住まいの方からも、鍬について話を聞いております」

 

 近隣の老人が呼ばれる。

 

「ああ。その鍬は知っている」

 

 金具を指さした。

 

「刃が外れた時、あの女の亭主が自分で巻いたものだ。曲がり方まで同じだ」

 

 女が布の端を裏返す。

 

「ここは、私が縫いました」

 

 小さな糸の結び目がある。

 

 甘氏は記録と見比べた。

 

「この家で使っていた布の特徴として、昨日聞いたものと一致します」

 

 手代はなおも言う。

 

「しかし、家の戸主は夫です」

 

 女が抱えた鍬へ目を向けた。

 

「夫がいない間、畑を耕していたのは誰ですか」

 

「この女でしょう」

 

「では、鍬について、この人以外の誰へ聞くんですか」

 

「それは……」

 

「戸主がいなくなったら、残った家族は家の物を何も説明できないんですか?」

 

 俺は別に、妻の財産権について大演説をしたいわけではない。

 

 実際に使っていた者へ聞く。

 

 ただそれだけである。

 

 他に請求する者はいない。

 

 近隣の証言も一致した。

 

「鍬と布は、この家へ返してください」

 

 女は鍬を受け取った。

 

 すぐには頭を下げなかった。

 

 両手で金具を持ち、指先で何度も撫でた。

 

 隣の子供も、父親が巻いたという金具へ触れる。

 

 女はようやく顔を上げた。

 

 何かを言おうとしたが、声が出ない。

 

「使っていた物が戻っただけです」

 

 俺はそれだけ言った。

 

 女は深く頭を下げ、鍬を胸へ抱えて列を離れた。

 

(少なくとも、これは間違ってないよな)

 

 そう思える物が一つでもあったことに、少しだけ安心した。

 

 ◆

 

 次の農民には、証文も札もなかった。

 

「持っていた物は、賊にすべて奪われました」

 

 本人が自分の物だと主張する袋にも、分かりやすい印がない。

 

 先ほどの手代が言う。

 

「証のない者の話まで認めれば、誰もが自分の物だと申します」

 

 それは正しい。

 

「言っただけで返すことはできません」

 

 農民は俯いた。

 

「ですが、証文を賊に奪われた者へ、証文を出せと言っても出せません」

 

 農民が顔を上げる。

 

「袋の傷や縫い方」

 

「中に何が入っていたか」

 

「おおよその量」

 

「奪われた時期と場所」

 

「一緒にいた者」

 

「同じ物を自分の物だと言う者が他にいないか」

 

「一つだけではなく、いくつか話が合えば、証として扱います」

 

 廖化が、降伏した賊から聞き取った記録を開く。

 

 甘氏も、家族や村の記録を確認する。

 

 県丞は過去の届けを探す。

 

 証文がないなら、別の話を積み重ねるしかない。

 

 県丞が言う。

 

「文字を持たぬ者にも、証を立てる道を残されるのですな」

 

「証文だけで返して、後から本当の持ち主が来るのが怖いんです」

 

「だからこそ、複数の証を求められる」

 

「また良い意味に変換された……」

 

 ◆

 

 確認を続けていると、一人の男が印のない穀物袋を指した。

 

「これは、私の物です」

 

「中身は何ですか」

 

「粟です」

 

 袋を開ける。

 

 入っていたのは麦だった。

 

 男の顔が引きつる。

 

「賊が袋を入れ替えたのでしょう」

 

「いつ奪われましたか」

 

「十日前です」

 

 県丞が別の質問をする。

 

 男は半月前と答えた。

 

「場所は?」

 

「北の街道です」

 

 廖化が尋ねると、川の近く。

 

 甘氏が聞くと、村の外。

 

 答えるたび、奪われた場所が動いていく。

 

 杜遠が、少し離れた場所から男を見た。

 

「そいつは、砦の近くで荷を奪われた奴じゃねえ」

 

 甘氏の記録では、男は汝南から来た避難民だった。

 

 新野近辺へ到着したのは数日前。

 

 十日前に新野北方で荷を奪われることはできない。

 

 張飛が男の前へ立った。

 

「他人の物を盗ろうとしたのか?」

 

 男はその場へ伏せた。

 

「子供に食わせたかったのです!」

 

 列の中にいた女と子供が、身を縮める。

 

 糜氏へ向き直った。

 

「虚偽の請求として記録してください」

 

「今回は返還請求から外す」

 

「承知しました」

 

「働けるなら、作業へ回す」

 

 張飛が尋ねる。

 

「嘘をついても、飯は出すのか」

 

「子供が嘘をついたわけじゃない」

 

「親は?」

 

「働けるなら働いてもらう」

 

「罰はないのか」

 

「記録に残す。次も同じことをすれば、間違いでは済まない」

 

 本音を言えば、食料を止めて男が盗賊に戻れば、さらに面倒になる。

 

 家族ごと追い払えば、また新しい山賊の一団を作るかもしれない。

 

「嘘を許すわけではない」

 

「だが、親が嘘をついたからといって、子供の粥まで止めるな」

 

 糜氏が、別の木簡を取り出した。

 

「また帳簿が増えた?」

 

「偽りの申し出と配給を、同じ記録にしないためです」

 

「混同を防ぐために、俺の頭の中が混乱してるんだけど!」

 

 張飛が腕を組む。

 

「嘘つきの帳簿と、飯の帳簿を分けるのか」

 

「お前は一緒にしたいのか?」

 

「分けた方がいいな」

 

「理解が早い!」

 

 ◆

 

 いくつかの請求を確認するうち、返還の基準も形になってきた。

 

 持ち主だけが知る補修跡がある。

 

 複数の証言が一致する。

 

 別の請求者がいない。

 

 奪われた場所と時期が合う。

 

 税や売買が絡んでいない。

 

 そうした物は返す。

 

 請求者が複数。

 

 税札が付いている。

 

 運送途中だった。

 

 証言が食い違う。

 

 賊しか出所を知らない。

 

 緊急使用済み。

 

 そうした物は保留。

 

 中身を知らない。

 

 場所や時期が何度も変わる。

 

 同じ者が別の名で何度も請求する。

 

 他人へ証言を強要する。

 

 そうしたものは虚偽の疑いとして別にする。

 

「ただし」

 

 俺は念を押した。

 

「返還請求を断ることと、配給を止めることと、住む場所から追い出すことは別です」

 

「一つ嘘をついたから、全部失うことにはしない」

 

 県丞が記録する。

 

「罪と生活を分ける、ということですな」

 

「一緒にすると、何を罰しているのか分からなくなるだけです」

 

 県丞は、返還と配給を別々の木簡へ記した。

 

 ◆

 

 関羽と張飛は、秩序を保つには役立った。

 

 役立ちすぎた。

 

 一人の老人が証言のため前へ出る。

 

 農具を示した。

 

「この農具を知っていますか」

 

 老人は張飛を見る。

 

 次に関羽を見る。

 

 青龍偃月刀と蛇矛。

 

「……分かりません」

 

「さっきは知っていると言っていたでしょう」

 

「何も分かりません」

 

 顔が青い。

 

 張飛へ手を振った。

 

「少し離れてくれ」

 

「なぜだ」

 

「証人が、お前の望む答えを当てる試験になってる!」

 

 関羽が静かに言う。

 

「正しいことを申す者なら、恐れる必要はあるまい」

 

「お前も離れろ!」

 

「俺もか」

 

「青龍偃月刀と蛇矛に挟まれて、平然と話せる農民がどれだけいると思ってるんだ!」

 

 二人は不満そうに離れた。

 

 張飛が言う。

 

「俺は行列将軍ではなかったのか」

 

「列だけ見てろ。証言者は見るな」

 

「見るなと言われると難しいな」

 

「目を閉じるな! 列が乱れる!」

 

 老人は、二人が離れるとようやく農具の持ち主について話し始めた。

 

 武力は便利だ。

 

 便利すぎて、使う場所を間違えると証言まで変わる。

 

 ◆

 

 昨日、破れた袋から選り分けた穀物を粥にした。

 

 その穀物についても、農民と手代が持ち主を名乗った。

 

 現物はもうない。

 

 子供や病人の腹の中だ。

 

 県丞が尋ねる。

 

「持ち主が決まった場合、誰が返すのでしょう」

 

 俺は黙った。

 

 使うと決めたのは俺。

 

 だが、食べたのは子供、病人、負傷者。

 

 新野全体の緊急措置である。

 

「食べた子供へ返させるなよ」

 

「それは当然でございます」

 

「俺個人の借金にもするな」

 

 糜氏が答えた。

 

「新野の配給分から、急ぎ借りた物として返します」

 

「新野の蓄えからでいいのか」

 

「新野へ避難した方々のために用いたものですので」

 

 俺は胸を撫で下ろした。

 

「よかった……」

 

 張飛が首を傾げる。

 

「兄貴が食わせたんだから、兄貴の恩にすればいいじゃねえか」

 

「返すべき相手がいるのに、俺の恩へ変えるな!」

 

「民は喜ぶぞ」

 

「持ち主は喜ばない!」

 

 県丞はまた感心した顔をする。

 

「私恩とせず、公の借用として責任を残されるのですな」

 

「俺個人の借金にされたくないだけです!」

 

 ◆

 

 夕方までに、いくつかの物は持ち主へ戻った。

 

 独特の補修跡がある鍬。

 

 家族の縫い印が残る布。

 

 革の傷と馬の癖まで一致した馬具。

 

 村の印と複数の証言が一致し、税や売買の絡んでいない穀物。

 

 一方、保留になった物の方が多い。

 

 税札の付いた穀物。

 

 商人が運送中だった荷。

 

 複数の村が主張する袋。

 

 印のない銅銭。

 

 緊急使用した穀物。

 

 発送した者と受け取る予定だった者の主張が異なる品。

 

 虚偽や確認不足も出た。

 

 中身を知らない者。

 

 奪われた時期が合わない者。

 

 同じ物を別の名で請求した者。

 

 すべてを解決できたわけではない。

 

 むしろ解決しなかった物の方が多い。

 

 それでも、夫が直した鍬を持った女は、子供と一緒に畑の方へ歩いていった。

 

(少なくとも、あの一件だけは間違ってなかった……と思いたい)

 

 正しい判断をした自信ではない。

 

 間違っていないことを祈る気持ちである。

 

 県丞が、襄陽へ送る報告書を持ってきた。

 

 旧砦の賊を排除。

 

 避難民を誘導。

 

 回収物資を戦利品として分配せず。

 

 一部を緊急使用。

 

 返還先を公開で確認。

 

 複数の請求あり。

 

 税、所有、運送損害を分けて記録。

 

 虚偽請求一件。

 

 一部返還。

 

 残りは保留。

 

 降伏した賊の処分も未決。

 

「賊を追い払った話より、その後の説明の方が長くないか?」

 

「物資を私物化していないことを、明らかにする必要がございます」

 

「書かなかったら、俺が新野の外で略奪したように見えるからな」

 

「そこまで先を見越しておられたのですな」

 

「疑われる未来しか見えないんです!」

 

 ◆

 

 夜。

 

 糜氏が、今日の木簡を整理していた。

 

 俺は横になりながら尋ねた。

 

「最初の穀物袋は、結局誰の物になった?」

 

「保留です」

 

「一日かけたのに?」

 

「農民の所有、税の納付、商人の運送料と損失を分けて確認する必要があります」

 

「では今日、何が分かったんだ」

 

「少なくとも、三者が同じ理由で争っているのではないことが分かりました」

 

「問題を分ければ簡単になると思ったのに、問題の数が増えた……」

 

 甘氏が、湯の入った椀を置いた。

 

「ですが、返せた物もございます」

 

「全部無駄ではなかったのは分かってる」

 

 糜氏が、さらに木簡を開く。

 

「では、明日の確認順ですが――」

 

「明日もあるの?」

 

「倉には、まだ荷が残っております」

 

「賊は一日で降ったのに、被害者の確認は何日かかるんだよ……」

 

 俺の休暇は、穀物一袋ずつ延期されていくらしい。

 

 ◆

 

 翌朝。

 

 糜氏と県丞が、保留にした穀物袋の税札を照合していた。

 

 俺は少し離れた場所で、今日も伸び始めた列を見ていた。

 

「旦那様」

 

 糜氏に呼ばれる。

 

 卓の上に、一枚の税札が置かれている。

 

 その隣に、別の札。

 

「何か分かった?」

 

「こちらをご覧ください」

 

 二つの札は、別の穀物袋から外した物だった。

 

 村名は違う。

 

 袋の焼き印も違う。

 

 しかし、

 

 徴収した日。

 

 穀物の量。

 

 担当した手代。

 

 札に刻まれた番号。

 

 本来なら、荷一つごとに別の番号を刻むという。

 

 それらが、すべて同じだった。

 

「書き写しを間違えたんじゃないか」

 

 県丞が答える。

 

「一つならば、その可能性もございます」

 

 糜氏が三枚目の札を置いた。

 

 これも別の村。

 

 別の袋。

 

 同じ日。

 

 同じ量。

 

 同じ担当者。

 

 同じ番号。

 

 俺は三枚を見比べた。

 

「同じ税を、何回取ったことになってるんだ?」

 

 昨日の手代が呼ばれた。

 

 男は札を見る。

 

「書き写した際の誤りでしょう」

 

「三枚とも?」

 

「下の者が同じ記号を使ったのかもしれません」

 

 糜氏が別の記録を開く。

 

「三つの村すべてで、最初の穀物が失われた後、同じ量を再び徴収された記録があります」

 

 手代の顔が、わずかに固まった。

 

 県丞が低い声で言う。

 

「一度、村から穀物を集める」

 

「運送中に賊へ奪われる」

 

「失われた分を、村から再び集める」

 

「そして最初の徴収には、複数の村で同じ番号を用いる」

 

「そうなれば、どの荷がどの村から来たのか、後から追うことができません」

 

 単なる書き間違いかもしれない。

 

 手代個人の不正かもしれない。

 

 豪族側が、組織として行っていた可能性もある。

 

 賊と通じていたとまでは、まだ言えない。

 

 何も確定していない。

 

 ただし、見なかったことにもできない。

 

「物資の返還だけでは済まぬかもしれません」

 

 県丞が言った。

 

 豪族の徴税へ触れれば、襄陽の有力者を敵に回すかもしれない。

 

 触れなければ、村から同じ税が何度も取られる。

 

 そして俺は、すでに三枚の札を見てしまった。

 

「穀物の持ち主を決めるだけだったよな?」

 

 誰も答えない。

 

 俺は税札を指さした。

 

「賊の帳簿より、役所の帳簿の方が怖いんだけど……」

 

 倉の前では、今日も返還を求める列が伸びていた。

 

 その横で、新しい調査用の木簡が、また一枚増えた。

 

 

「私どもの荷が先です」

 

 身なりの整った男が、列の途中から進み出た。

 

 近隣の豪族に仕える手代だという。

 

「公に納められた税の荷でございます。先に確認されるのが筋かと」

 

 商人も声を上げる。

 

「運送帳と商印が残っております。証のある荷から確かめるべきでしょう」

 

 農民たちも黙っていない。

 

「我らが作った穀物だ!」

 

「先に奪われたのは俺たちだぞ!」

 

 県丞が小声で尋ねる。

 

「身分の高い者からにいたしましょうか」

 

「それをやったら、農民の順番が永遠に来ないだろ」

 

「では、被害の大きな者から」

 

「誰の被害が一番大きいか決めるために、全員の話を聞く必要がある」

 

「どのようにいたしましょう」

 

 俺は列を見た。

 

 ここで順番を決めれば、その順番自体について文句を言われる。

 

「来た順でいい」

 

 豪族の手代が眉を動かした。

 

「我が主人のお名前をお聞きになったうえで、その扱いでしょうか」

 

「早く返してほしいなら、次からは早く並ぶよう伝えてください」

 

「……は?」

 

 張飛が吹き出した。

 

 別に、身分の高い者を軽んじたつもりはない。

 

 優先順位という新しい責任を背負いたくなかっただけである。

 

「来た順なら、俺が誰を先にしたかで恨まれずに済む」

 

 小声で付け足すと、県丞は深く頷いた。

 

「身分ではなく、同じ決まりの下に並ばせる。なるほど」

 

「そういう立派な話ではありません」

 

 ◆

 

 倉の前では、誰かが話すたび、別の誰かが横から口を挟む。

 

 これでは何も聞き取れない。

 

 俺たちは県の役所に近い空き地へ、簡単な席を設けた。

 

 卓をいくつか並べる。

 

 請求する者が立つ場所を一つ。

 

 証言を待つ者が並ぶ場所を一つ。

 

 確認の終わった者が待つ場所を一つ。

 

 最初から分けなければ、途中で全員が混ざる。

 

 俺は集まった者たちへ言った。

 

「最初に言っておきます」

 

「これは、罪を裁く正式な場ではありません」

 

「旧砦から回収した物を、誰へ返すか確かめるための仮の場です」

 

 税そのものの最終判断。

 

 豪族同士の争い。

 

 商人の契約。

 

 そこまで俺が決めるつもりはない。

 

 そもそも俺は県令ではない。

 

 新野も俺の領地ではない。

 

「防備や避難民、物資について県丞と話し合うよう言われているだけです。何もかも俺が決めるわけではありません」

 

 俺は念を押した。

 

 県丞が続ける。

 

「とはいえ、現在この物資を預かっているのは新野です。返還先が決まらぬまま、倉を開けるわけにはまいりません」

 

 逃げ道が塞がれた。

 

(正式な裁判ではないと言っているのに、正式な責任だけ残ってるぞ……)

 

 役割も決める。

 

 県丞は、新野に残る戸籍や税の記録を確認。

 

 糜氏は、旧砦から回収した物資の帳簿と数量。

 

 甘氏は、家族関係、住んでいた村、行方不明者の記録。

 

 廖化は、降伏した賊や杜遠から、どこで何を奪ったかを聞く。

 

 関羽と張飛は、列の整理と揉め事の防止。

 

 張飛が胸を張った。

 

「俺は裁きの将軍だな」

 

「列を並ばせるだけだ」

 

「では、行列将軍か」

 

「井戸将軍より弱そうになったな」

 

「声なら強いぞ」

 

 張飛が列へ向き直る。

 

「一人ずつ話せ! 横から口を挟むな!」

 

 全員が黙った。

 

 空き地の端にいた馬まで顔を上げた。

 

「少し声を落とせ!」

 

 俺は耳を押さえた。

 

「証言する前に、全員が罪を認めそうだ!」

 

「静かになったぞ」

 

「静かになりすぎだ!」

 

 ◆

 

 最初に確認するのは、先ほどから争われている穀物袋だった。

 

 袋には三つの印がある。

 

 村を示す焼き印。

 

 税として徴収されたことを示す木札。

 

 運送を引き受けた商人の印。

 

 証拠が三つある。

 

 問題も三つある。

 

 農民の代表が前へ出た。

 

「この穀物は、我らの村で作りました」

 

 袋の焼き印を示す。

 

「口を閉じる糸の通し方も、我らの村のものです」

 

「いつ奪われましたか」

 

「手代へ渡した後です。荷車へ積まれ、北へ運ばれていきました。その途中で賊に奪われたと」

 

「その後は?」

 

 農民の顔が曇った。

 

「失われた分を、もう一度納めろと言われました」

 

 列の後ろで、同じ村の者たちがざわめく。

 

「もう一度?」

 

「はい。このままでは冬を越せません。せめて、この袋だけでも村へお返しください」

 

 次に手代が前へ出る。

 

「村から税として受け取った時点で、この穀物は村の物ではございません」

 

「誰の物ですか」

 

「官倉へ納めるべき税穀です。我が主人は、その徴収と運送の取りまとめを任されております」

 

 木札を示す。

 

「徴収済みであることは、この札が証しております」

 

「では、村は税を納めたことになっているのですか」

 

「我が主人のもとに残る記録では、そのように」

 

「それなのに、もう一度納めろと?」

 

 手代は表情を変えない。

 

「納めるべき場所へ届いておりません」

 

「村はあなたへ渡したのでしょう」

 

「村から受け取った後、運送中に失われた分まで、我が主人が補ういわれはございません」

 

 今度は商人が前へ出る。

 

「その荷を運んでいたのは私です」

 

「あなたが穀物を買ったのですか」

 

「いいえ。運送を請け負いました」

 

「では、この穀物そのものが欲しいのですか」

 

 商人は口を閉じた。

 

「……穀物だけの話ではございません」

 

 商人が失ったものを挙げていく。

 

 荷車。

 

 馬。

 

 護衛へ支払う金。

 

 受け取っていない運送料。

 

 先に立て替えた運送の費え。

 

「荷を他へ返され、私の損だけが残るのは納得できません」

 

「つまり」

 

 俺は三人を見た。

 

「農民は穀物そのものを返してほしい」

 

「手代は、官倉へ納める税穀であると主張している」

 

「商人は、運送で生じた損を認めてほしい」

 

 三人は互いを見る。

 

「三人とも、同じ理由でこの袋を欲しがっているわけではない?」

 

 商人が先に頷いた。

 

「私は、この一袋を持ち帰りたいわけではございません。立て替えたものと、失ったものを無かったことにされたくないのです」

 

 糜氏が、俺の前に置かれた木簡へ目を落とした。

 

「旦那様。記録を分けた方がよろしいかと」

 

「全部この穀物袋の話だろ?」

 

「争っている内容が異なります」

 

 糜氏は新しい木簡を並べた。

 

 一つ目。

 

 回収した物資。

 

 穀物の種類、量、袋の印、回収場所。

 

 二つ目。

 

 返還請求者。

 

 誰が、どの理由で返還を求めているか。

 

 三つ目。

 

 税の納付状況。

 

 村が、誰へ、いつ、どれだけ渡したか。

 

 四つ目。

 

 運送中の損害。

 

 荷車、馬、護衛、運送料、立替金。

 

 五つ目。

 

 緊急使用した分。

 

 昨日、粥へ使った量と、後で返す相手。

 

 俺は五枚の木簡を見た。

 

「穀物一袋から、帳簿が五つ生まれた……」

 

 張飛が横から覗き込む。

 

「五つあるなら、三人へ一つずつ渡しても二つ余るぞ」

 

「帳簿を分けても、穀物は増えない!」

 

 ◆

 

 農民は、すぐに穀物を返してほしいと訴えた。

 

 村の食料が足りない。

 

 手代は、税の札がある以上、官倉へ戻すべきだと言う。

 

 商人は、損害が記録されるまで動かすなと求める。

 

 三人とも、完全な嘘を言っているようには見えない。

 

 だから困る。

 

 俺は穀物袋を見る。

 

「この袋は、今日は誰にも返しません」

 

 三者から一斉に声が上がった。

 

「お待ちください!」

 

「なぜです!」

 

「我らは冬を越せません!」

 

「ただし」

 

 俺は農民側を見た。

 

「この袋の扱いが決まるまで、同じ分を村からもう一度取ることも止めます」

 

 手代が顔を上げた。

 

「劉備殿には、我が主人の徴税を止める権限はございません」

 

「永久に免じろとは言っていません」

 

「この袋が誰の損失なのか分からない間に、村だけから同じ量をもう一度取るなと言っているんです」

 

「しかし――」

 

「村は一度、あなたへ渡したのでしょう?」

 

 手代は答えない。

 

 県丞へ向き直った。

 

「襄陽へ報告が届き、返答があるまで、この分をもう一度集めるのを待たせることはできますか」

 

「返還先と納付の扱いが定まるまで、県丞の名で、郷へ徴収を待つよう伝えます」

 

 手代はしばらく黙った後、低い声で答えた。

 

「……襄陽の裁可が下るまでならば」

 

 次に商人を見る。

 

「運送中に失った物は、穀物の返還とは別に残します」

 

「穀物を誰へ返すか決まっても、荷車や立替金まで無かったことにはしません」

 

 商人はゆっくり頷いた。

 

 手代へ目を戻した。

 

「官倉へ納める税穀だという主張も、いま否定はしません」

 

 誰にも渡さない。

 

 誰の主張も消さない。

 

 すべて保留。

 

(これなら、少なくとも間違った相手へ返した責任だけは避けられる)

 

 完璧な責任回避だった。

 

 ところが県丞は、感心したように言う。

 

「力のある者へ急いで渡さず、三者の損を分けて残されるのですな」

 

「間違えるのが怖いだけです」

 

「間違いを恐れぬ者ほど、弱い者へ損を押しつけます」

 

「なぜ何を言っても評価が上がるんだ……」

 

 ◆

 

 次に前へ出たのは、粗末な衣を着た女だった。

 

 幼い子供を連れている。

 

「この鍬と布は、我が家の物です」

 

 回収品の中から、刃の根元に金具を巻いた鍬と、色褪せた布を示した。

 

「夫は?」

 

 県丞が尋ねる。

 

「徴発されてから戻りません」

 

 別の手代が口を挟んだ。

 

「戸主本人がおらぬ家の主張を、何によって認めるのです」

 

 女の肩が縮む。

 

 甘氏が家族の記録を開いた。

 

「こちらの方の夫は、行方不明として記録されています」

 

「現在は、妻と子供が家に残り、この方が畑を耕しています」

 

「近くにお住まいの方からも、鍬について話を聞いております」

 

 近隣の老人が呼ばれる。

 

「ああ。その鍬は知っている」

 

 金具を指さした。

 

「刃が外れた時、あの女の亭主が自分で巻いたものだ。曲がり方まで同じだ」

 

 女が布の端を裏返す。

 

「ここは、私が縫いました」

 

 小さな糸の結び目がある。

 

 甘氏は記録と見比べた。

 

「この家で使っていた布の特徴として、昨日聞いたものと一致します」

 

 手代はなおも言う。

 

「しかし、家の戸主は夫です」

 

 女が抱えた鍬へ目を向けた。

 

「夫がいない間、畑を耕していたのは誰ですか」

 

「この女でしょう」

 

「では、鍬について、この人以外の誰へ聞くんですか」

 

「それは……」

 

「戸主がいなくなったら、残った家族は家の物を何も説明できないんですか?」

 

 俺は別に、妻の財産権について大演説をしたいわけではない。

 

 実際に使っていた者へ聞く。

 

 ただそれだけである。

 

 他に請求する者はいない。

 

 近隣の証言も一致した。

 

「鍬と布は、この家へ返してください」

 

 女は鍬を受け取った。

 

 すぐには頭を下げなかった。

 

 両手で金具を持ち、指先で何度も撫でた。

 

 隣の子供も、父親が巻いたという金具へ触れる。

 

 女はようやく顔を上げた。

 

 何かを言おうとしたが、声が出ない。

 

「使っていた物が戻っただけです」

 

 俺はそれだけ言った。

 

 女は深く頭を下げ、鍬を胸へ抱えて列を離れた。

 

(少なくとも、これは間違ってないよな)

 

 そう思える物が一つでもあったことに、少しだけ安心した。

 

 ◆

 

 次の農民には、証文も札もなかった。

 

「持っていた物は、賊にすべて奪われました」

 

 本人が自分の物だと主張する袋にも、分かりやすい印がない。

 

 先ほどの手代が言う。

 

「証のない者の話まで認めれば、誰もが自分の物だと申します」

 

 それは正しい。

 

「言っただけで返すことはできません」

 

 農民は俯いた。

 

「ですが、証文を賊に奪われた者へ、証文を出せと言っても出せません」

 

 農民が顔を上げる。

 

「袋の傷や縫い方」

 

「中に何が入っていたか」

 

「おおよその量」

 

「奪われた時期と場所」

 

「一緒にいた者」

 

「同じ物を自分の物だと言う者が他にいないか」

 

「一つだけではなく、いくつか話が合えば、証として扱います」

 

 廖化が、降伏した賊から聞き取った記録を開く。

 

 甘氏も、家族や村の記録を確認する。

 

 県丞は過去の届けを探す。

 

 証文がないなら、別の話を積み重ねるしかない。

 

 県丞が言う。

 

「文字を持たぬ者にも、証を立てる道を残されるのですな」

 

「証文だけで返して、後から本当の持ち主が来るのが怖いんです」

 

「だからこそ、複数の証を求められる」

 

「また良い意味に変換された……」

 

 ◆

 

 確認を続けていると、一人の男が印のない穀物袋を指した。

 

「これは、私の物です」

 

「中身は何ですか」

 

「粟です」

 

 袋を開ける。

 

 入っていたのは麦だった。

 

 男の顔が引きつる。

 

「賊が袋を入れ替えたのでしょう」

 

「いつ奪われましたか」

 

「十日前です」

 

 県丞が別の質問をする。

 

 男は半月前と答えた。

 

「場所は?」

 

「北の街道です」

 

 廖化が尋ねると、川の近く。

 

 甘氏が聞くと、村の外。

 

 答えるたび、奪われた場所が動いていく。

 

 杜遠が、少し離れた場所から男を見た。

 

「そいつは、砦の近くで荷を奪われた奴じゃねえ」

 

 甘氏の記録では、男は汝南から来た避難民だった。

 

 新野近辺へ到着したのは数日前。

 

 十日前に新野北方で荷を奪われることはできない。

 

 張飛が男の前へ立った。

 

「他人の物を盗ろうとしたのか?」

 

 男はその場へ伏せた。

 

「子供に食わせたかったのです!」

 

 列の中にいた女と子供が、身を縮める。

 

 糜氏へ向き直った。

 

「虚偽の請求として記録してください」

 

「今回は返還請求から外す」

 

「承知しました」

 

「働けるなら、作業へ回す」

 

 張飛が尋ねる。

 

「嘘をついても、飯は出すのか」

 

「子供が嘘をついたわけじゃない」

 

「親は?」

 

「働けるなら働いてもらう」

 

「罰はないのか」

 

「記録に残す。次も同じことをすれば、間違いでは済まない」

 

 本音を言えば、食料を止めて男が盗賊に戻れば、さらに面倒になる。

 

 家族ごと追い払えば、また新しい山賊の一団を作るかもしれない。

 

「嘘を許すわけではない」

 

「だが、親が嘘をついたからといって、子供の粥まで止めるな」

 

 糜氏が、別の木簡を取り出した。

 

「また帳簿が増えた?」

 

「偽りの申し出と配給を、同じ記録にしないためです」

 

「混同を防ぐために、俺の頭の中が混乱してるんだけど!」

 

 張飛が腕を組む。

 

「嘘つきの帳簿と、飯の帳簿を分けるのか」

 

「お前は一緒にしたいのか?」

 

「分けた方がいいな」

 

「理解が早い!」

 

 ◆

 

 いくつかの請求を確認するうち、返還の基準も形になってきた。

 

 持ち主だけが知る補修跡がある。

 

 複数の証言が一致する。

 

 別の請求者がいない。

 

 奪われた場所と時期が合う。

 

 税や売買が絡んでいない。

 

 そうした物は返す。

 

 請求者が複数。

 

 税札が付いている。

 

 運送途中だった。

 

 証言が食い違う。

 

 賊しか出所を知らない。

 

 緊急使用済み。

 

 そうした物は保留。

 

 中身を知らない。

 

 場所や時期が何度も変わる。

 

 同じ者が別の名で何度も請求する。

 

 他人へ証言を強要する。

 

 そうしたものは虚偽の疑いとして別にする。

 

「ただし」

 

 俺は念を押した。

 

「返還請求を断ることと、配給を止めることと、住む場所から追い出すことは別です」

 

「一つ嘘をついたから、全部失うことにはしない」

 

 県丞が記録する。

 

「罪と生活を分ける、ということですな」

 

「一緒にすると、何を罰しているのか分からなくなるだけです」

 

 県丞は、返還と配給を別々の木簡へ記した。

 

 ◆

 

 関羽と張飛は、秩序を保つには役立った。

 

 役立ちすぎた。

 

 一人の老人が証言のため前へ出る。

 

 農具を示した。

 

「この農具を知っていますか」

 

 老人は張飛を見る。

 

 次に関羽を見る。

 

 青龍偃月刀と蛇矛。

 

「……分かりません」

 

「さっきは知っていると言っていたでしょう」

 

「何も分かりません」

 

 顔が青い。

 

 張飛へ手を振った。

 

「少し離れてくれ」

 

「なぜだ」

 

「証人が、お前の望む答えを当てる試験になってる!」

 

 関羽が静かに言う。

 

「正しいことを申す者なら、恐れる必要はあるまい」

 

「お前も離れろ!」

 

「俺もか」

 

「青龍偃月刀と蛇矛に挟まれて、平然と話せる農民がどれだけいると思ってるんだ!」

 

 二人は不満そうに離れた。

 

 張飛が言う。

 

「俺は行列将軍ではなかったのか」

 

「列だけ見てろ。証言者は見るな」

 

「見るなと言われると難しいな」

 

「目を閉じるな! 列が乱れる!」

 

 老人は、二人が離れるとようやく農具の持ち主について話し始めた。

 

 武力は便利だ。

 

 便利すぎて、使う場所を間違えると証言まで変わる。

 

 ◆

 

 昨日、破れた袋から選り分けた穀物を粥にした。

 

 その穀物についても、農民と手代が持ち主を名乗った。

 

 現物はもうない。

 

 子供や病人の腹の中だ。

 

 県丞が尋ねる。

 

「持ち主が決まった場合、誰が返すのでしょう」

 

 俺は黙った。

 

 使うと決めたのは俺。

 

 だが、食べたのは子供、病人、負傷者。

 

 新野全体の緊急措置である。

 

「食べた子供へ返させるなよ」

 

「それは当然でございます」

 

「俺個人の借金にもするな」

 

 糜氏が答えた。

 

「新野の配給分から、急ぎ借りた物として返します」

 

「新野の蓄えからでいいのか」

 

「新野へ避難した方々のために用いたものですので」

 

 俺は胸を撫で下ろした。

 

「よかった……」

 

 張飛が首を傾げる。

 

「兄貴が食わせたんだから、兄貴の恩にすればいいじゃねえか」

 

「返すべき相手がいるのに、俺の恩へ変えるな!」

 

「民は喜ぶぞ」

 

「持ち主は喜ばない!」

 

 県丞はまた感心した顔をする。

 

「私恩とせず、公の借用として責任を残されるのですな」

 

「俺個人の借金にされたくないだけです!」

 

 ◆

 

 夕方までに、いくつかの物は持ち主へ戻った。

 

 独特の補修跡がある鍬。

 

 家族の縫い印が残る布。

 

 革の傷と馬の癖まで一致した馬具。

 

 村の印と複数の証言が一致し、税や売買の絡んでいない穀物。

 

 一方、保留になった物の方が多い。

 

 税札の付いた穀物。

 

 商人が運送中だった荷。

 

 複数の村が主張する袋。

 

 印のない銅銭。

 

 緊急使用した穀物。

 

 発送した者と受け取る予定だった者の主張が異なる品。

 

 虚偽や確認不足も出た。

 

 中身を知らない者。

 

 奪われた時期が合わない者。

 

 同じ物を別の名で請求した者。

 

 すべてを解決できたわけではない。

 

 むしろ解決しなかった物の方が多い。

 

 それでも、夫が直した鍬を持った女は、子供と一緒に畑の方へ歩いていった。

 

(少なくとも、あの一件だけは間違ってなかった……と思いたい)

 

 正しい判断をした自信ではない。

 

 間違っていないことを祈る気持ちである。

 

 県丞が、襄陽へ送る報告書を持ってきた。

 

 旧砦の賊を排除。

 

 避難民を誘導。

 

 回収物資を戦利品として分配せず。

 

 一部を緊急使用。

 

 返還先を公開で確認。

 

 複数の請求あり。

 

 税、所有、運送損害を分けて記録。

 

 虚偽請求一件。

 

 一部返還。

 

 残りは保留。

 

 降伏した賊の処分も未決。

 

「賊を追い払った話より、その後の説明の方が長くないか?」

 

「物資を私物化していないことを、明らかにする必要がございます」

 

「書かなかったら、俺が新野の外で略奪したように見えるからな」

 

「そこまで先を見越しておられたのですな」

 

「疑われる未来しか見えないんです!」

 

 ◆

 

 夜。

 

 糜氏が、今日の木簡を整理していた。

 

 俺は横になりながら尋ねた。

 

「最初の穀物袋は、結局誰の物になった?」

 

「保留です」

 

「一日かけたのに?」

 

「農民の所有、税の納付、商人の運送料と損失を分けて確認する必要があります」

 

「では今日、何が分かったんだ」

 

「少なくとも、三者が同じ理由で争っているのではないことが分かりました」

 

「問題を分ければ簡単になると思ったのに、問題の数が増えた……」

 

 甘氏が、湯の入った椀を置いた。

 

「ですが、返せた物もございます」

 

「全部無駄ではなかったのは分かってる」

 

 糜氏が、さらに木簡を開く。

 

「では、明日の確認順ですが――」

 

「明日もあるの?」

 

「倉には、まだ荷が残っております」

 

「賊は一日で降ったのに、被害者の確認は何日かかるんだよ……」

 

 俺の休暇は、穀物一袋ずつ延期されていくらしい。

 

 ◆

 

 翌朝。

 

 糜氏と県丞が、保留にした穀物袋の税札を照合していた。

 

 俺は少し離れた場所で、今日も伸び始めた列を見ていた。

 

「旦那様」

 

 糜氏に呼ばれる。

 

 卓の上に、一枚の税札が置かれている。

 

 その隣に、別の札。

 

「何か分かった?」

 

「こちらをご覧ください」

 

 二つの札は、別の穀物袋から外した物だった。

 

 村名は違う。

 

 袋の焼き印も違う。

 

 しかし、

 

 徴収した日。

 

 穀物の量。

 

 担当した手代。

 

 札に刻まれた番号。

 

 本来なら、荷一つごとに別の番号を刻むという。

 

 それらが、すべて同じだった。

 

「書き写しを間違えたんじゃないか」

 

 県丞が答える。

 

「一つならば、その可能性もございます」

 

 糜氏が三枚目の札を置いた。

 

 これも別の村。

 

 別の袋。

 

 同じ日。

 

 同じ量。

 

 同じ担当者。

 

 同じ番号。

 

 俺は三枚を見比べた。

 

「同じ税を、何回取ったことになってるんだ?」

 

 昨日の手代が呼ばれた。

 

 男は札を見る。

 

「書き写した際の誤りでしょう」

 

「三枚とも?」

 

「下の者が同じ記号を使ったのかもしれません」

 

 糜氏が別の記録を開く。

 

「三つの村すべてで、最初の穀物が失われた後、同じ量を再び徴収された記録があります」

 

 手代の顔が、わずかに固まった。

 

 県丞が低い声で言う。

 

「一度、村から穀物を集める」

 

「運送中に賊へ奪われる」

 

「失われた分を、村から再び集める」

 

「そして最初の徴収には、複数の村で同じ番号を用いる」

 

「そうなれば、どの荷がどの村から来たのか、後から追うことができません」

 

 単なる書き間違いかもしれない。

 

 手代個人の不正かもしれない。

 

 豪族側が、組織として行っていた可能性もある。

 

 賊と通じていたとまでは、まだ言えない。

 

 何も確定していない。

 

 ただし、見なかったことにもできない。

 

「物資の返還だけでは済まぬかもしれません」

 

 県丞が言った。

 

 豪族の徴税へ触れれば、襄陽の有力者を敵に回すかもしれない。

 

 触れなければ、村から同じ税が何度も取られる。

 

 そして俺は、すでに三枚の札を見てしまった。

 

「穀物の持ち主を決めるだけだったよな?」

 

 誰も答えない。

 

 俺は税札を指さした。

 

「賊の帳簿より、役所の帳簿の方が怖いんだけど……」

 

 倉の前では、今日も返還を求める列が伸びていた。

 

 その横で、新しい調査用の木簡が、また一枚増えた。

 

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