劉備に転生した俺、三国志が思ったより治安悪すぎる ~ニートになりたいだけなのに、関羽と張飛が俺を覇王にしようとしてくる~   作:ブンチョウ

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第35話 倉破り、守備隊を作った覚えはない

「今日こそ寝る」

 

 俺は、誰に聞かせるでもなく宣言した。

 

 新野へ来てからというもの、何かを決めるたびに木簡が増え、その木簡を整理するために、また別の木簡が増えている。

 

 今日など、穀物一袋の持ち主を確かめようとしただけだ。

 

 その結果、三つの村から同じ税を二度取っていた疑いが生じ、徴収札を封じ、写しを作り、襄陽へ報告することになった。

 

 寝ない理由は、もう十分に働いた。

 

 俺は敷物へ横になった。

 

「明朝、襄陽へ送る写しと封を確認していただきます」

 

 糜氏が言った。

 

「朝の仕事は、朝の俺に任せる」

 

「朝の旦那様も、旦那様です」

 

「いまの俺くらい助けてくれ!」

 

 糜氏は、まだ灯りの下で木簡を確認していた。

 

 原本は、県丞立ち会いのもとで臨時の文書倉へ入れた。

 

 写しの一つは県丞。

 

 一つは糜氏。

 

 襄陽へ送る分は、明朝、使者へ渡す。

 

 さらに、札の傷、紐、印の欠け方を記した木簡は別の場所に置いてある。

 

 これで、どれか一つを失っても、すべてが消えることはない。

 

 完璧な責任分散である。

 

「見張りは、まだ必要なのか」

 

「保管場所を分けましたので」

 

「うん」

 

「見張る場所も増えました」

 

「証拠を分けたせいで、仕事まで増えてるじゃないか……」

 

 俺が責任を分けると、なぜ労働だけが一か所へ集まるのだろう。

 

 甘氏は、夜まで書き写しをしていた者や、見張り役へ食事を配らせていた。

 

「もう皆を休ませよう」

 

「交代の方へ食事を渡してからにいたします」

 

「食べ終わった者から解散でいいだろう」

 

「はい」

 

 甘氏は素直に頷いた。

 

 ようやく終わる。

 

 俺は目を閉じた。

 

「ところで」

 

 甘氏の声がした。

 

 目を開ける。

 

「まだ何か?」

 

「食事が、一つ多く減っています」

 

 俺は半身を起こした。

 

「多く食べた人がいるんじゃないか」

 

「一人分を二度受け取れば、配った方が気づきます」

 

「では、数え間違い?」

 

「食事を受け取った方が、一人多いようです」

 

 甘氏は、近くにいた見張り役へ向いた。

 

「先ほど、食事を持って倉の裏へ向かった方は、どなたですか」

 

 男たちは顔を見合わせた。

 

「次の交代だと申しておりました」

 

「お名前は?」

 

 誰も答えない。

 

 糜氏が見張りの名を記した木簡を確認した。

 

「交代の者は、まだ全員こちらにおります」

 

「では、食事を持っていったのは誰なんだ」

 

「新しく来た方かと思いまして……」

 

 前日に来た者たちの家族と技能は、甘氏と糜氏が記録している。

 

 だが、その中にも該当する者はいない。

 

 県丞の配下でもない。

 

「知らない人に食事を渡して、見張りだと信じたの?」

 

「次の見張りだと名乗ったので……」

 

「名乗るだけで役目が決まるなら、俺も今日から働かぬ者だと名乗るぞ!」

 

 糜氏が俺を見た。

 

「名乗る前から、たびたび申しておられます」

 

「実現してないんだよ!」

 

 甘氏は騒がず、食事を渡した者へ順に尋ねていく。

 

 どのような衣だったか。

 

 どちらから来たか。

 

 誰と話していたか。

 

 どちらへ歩いていったか。

 

 男の一人が、倉の裏を指した。

 

 その時だった。

 

「火だ!」

 

 外から叫び声が上がった。

 

 続いて、張飛の声が響く。

 

「荷車の方だ!」

 

 俺は立ち上がった。

 

「どうして寝ようとすると燃えるんだよ!」

 

 ◆

 

 荷車置き場の端で、藁が燃えていた。

 

 使える荷車は四台。

 

 いずれも、汝南からここまで人と荷を運んできた大切な物である。

 

 まだ車体には燃え移っていない。

 

 だが風が吹けば、藁の火はすぐに広がる。

 

「荷車を離せ!」

 

「子供と病人を先に向こうへ!」

 

「馬を外せ!」

 

「井戸の水を全部使うな! 土と濡らした布も使え!」

 

 張飛が燃えた藁束を蹴った。

 

 藁束が宙を飛び、避難している人々の方へ転がる。

 

「人のいる方へ蹴るな!」

 

「荷車から離しただけだ!」

 

「荷車から離して、人へ近づけたら駄目だろ!」

 

 張飛が追いかけ、藁束を踏みつける。

 

 新しく来た者たちも動き始めた。

 

 荷車を扱える者が馬を外す。

 

 職人が車輪止めを抜き、荷車を押す。

 

 元兵の男たちが、子供と老人を火から遠ざける。

 

 元黄巾の者が、水桶を持って走る。

 

 読み書きのできる者は、避難した家族の名を確かめていた。

 

 誰も命じていない。

 

 それぞれが、自分にできることを始めている。

 

「そっちへ荷車を置くな!」

 

 火から遠ざけた荷車が、水桶を運ぶ道を塞いでいた。

 

「水が通れない!」

 

 職人たちが慌てて荷車を動かす。

 

 有能ではある。

 

 ただし、全員が別々に有能なので、放っておくと互いの仕事を邪魔する。

 

「水は右!」

 

「荷車は左!」

 

「子供は門から離れた空き家の前へ!」

 

「馬は井戸のそばへ集めるな!」

 

 一つずつ声をかけると、ばらばらだった動きが少しずつ整った。

 

(だから、こういうことをすると指揮したことになるんだよな……)

 

 分かっている。

 

 だが、火事の最中に誤解を恐れて黙っているわけにもいかない。

 

 その時、糜氏が荷車置き場とは反対の方向へ歩いていくのが見えた。

 

「糜氏、どこへ行く!」

 

「文書倉を確認します」

 

「いま火事だぞ!」

 

「見張りを名乗った者は、倉の裏へ向かいました」

 

 糜氏は振り返らない。

 

 数歩遅れて、俺も嫌なことに気づいた。

 

 火が偶然なら、知らない男が文書倉の裏へ向かった理由がない。

 

「張飛、火は任せた!」

 

「任せろ!」

 

「今度は燃えている物を投げるな!」

 

「分かっている!」

 

 本当に分かっているのだろうか。

 

 ◆

 

 文書倉の正面には、封が残っていた。

 

 県丞の印も、糜氏が結んだ紐も切れていない。

 

「無事じゃないか」

 

 息を吐いた。

 

 糜氏は倉の横へ回った。

 

「旦那様」

 

 裏口の紐が切られている。

 

 扉も、わずかに開いていた。

 

「火は陽動です」

 

「嫌な予感を、毎回きちんと当てないでくれ!」

 

 倉の中で、何かが倒れる音がした。

 

 俺たちは立ち止まる。

 

 糜氏が扉の隙間へ目を凝らし、一歩近づいた。

 

「待て!」

 

 俺は腕をつかんだ。

 

「中に刃物を持った者がいるかもしれない」

 

「ですが、札が」

 

「札より先に人だ!」

 

 言った直後、裏口から男が飛び出した。

 

 脇に包みを抱えている。

 

 甘氏が食事の数から見つけた、名簿にいない男だろう。

 

 男は俺たちを見ると、反対側の路地へ走った。

 

「待て!」

 

 張飛が蛇矛を持って追ってくる。

 

「殺すな!」

 

「逃がすな!」

 

「全員で追うな!」

 

 張飛が走りながら振り返った。

 

「どれだ!」

 

「全部だ!」

 

「難しいぞ!」

 

「お前は追え! ただし殺すな!」

 

 俺は周囲へ叫ぶ。

 

「門と火の見張りを空にするな!」

 

「武器を持って全員で走るな!」

 

「子供と病人のところには人を残せ!」

 

 殺せば、誰に命じられたのか聞けない。

 

 全員で追えば、別の侵入者に入られる。

 

 火の始末も終わっていない。

 

 新しく来た者たちまで武器を持って走れば、夜の城内で暴動が起きたようにしか見えない。

 

 廖化が男の逃げた路地を見る。

 

「正門へは向かいません」

 

「なぜ分かる」

 

「火で門の警戒が強くなっています。外から来た者が、人に見られず出られる道は少ない」

 

「どこへ行く」

 

「古い排水路です」

 

 張飛の声が遠くから響く。

 

「止まれェ!」

 

 家々の戸が震える。

 

 廖化が静かに言った。

 

「張将軍の声から逃げれば、自然に排水路へ向かいます」

 

「張飛の隠れる気のなさを、誘導に使うの?」

 

「隠して追うより、逃げる道を選ばせられます」

 

 なるほど。

 

「張飛!」

 

「何だ!」

 

「そのまま叫んでろ!」

 

「俺の声が必要か!」

 

「今だけはな!」

 

「夜番将軍としてか!」

 

「役職は忘れろ!」

 

 張飛の声が、さらに大きくなった。

 

「止まれェ! 逃げても無駄だぞォ!」

 

 新野全体へ侵入者の位置を知らせながら追跡している。

 

 隠密としては最低。

 

 警報としては完璧だった。

 

 ◆

 

 前日に来た者たちも、路地へ出ていた。

 

 荷車職人が、修理中の車を横へ動かす。

 

 鍛冶職人が、長い鎖を路地の端へ渡す。

 

 元兵たちは武器を抜かず、棒と松明を持って脇道へ立った。

 

 御者は、騒ぎで暴れそうな馬を押さえている。

 

 廖化へ顔を向けた。

 

「誰が命令したの?」

 

「誰も」

 

「誰も?」

 

「自分にできることをしたのでしょう」

 

「それが一番、組織みたいに見えるんだよ!」

 

 張飛が、前を走りながら叫ぶ。

 

「よく動くじゃねえか! やはり仲間に入れよう!」

 

「だから兵を募るな!」

 

「いま新野を守ってるぞ!」

 

「それを襄陽へ説明するのは俺なんだよ!」

 

 侵入者は排水路へ飛び込んだ。

 

 古い水路は、人が腰を曲げれば通れるほどの幅がある。

 

 張飛も続こうとする。

 

「待て!」

 

「なぜだ!」

 

「お前が入ったら詰まる!」

 

「俺を何だと思っている!」

 

「大きい人間だと思ってる!」

 

 廖化が別の道を指す。

 

「出口へ回ります」

 

「関羽は?」

 

 遠くから馬の蹄が聞こえた。

 

 赤兎馬だ。

 

 関羽は城内を追わず、門から外へ回ったらしい。

 

「先に出口を押さえるつもりでしょう」

 

「全員、俺より先に正しい判断をしないでくれない?」

 

 俺は廖化とともに、排水路の出口へ向かった。

 

 ◆

 

 侵入者が排水路から這い出した。

 

 泥にまみれたまま立ち上がる。

 

 その前に、赤兎馬がいた。

 

 闇の中で、赤い毛並みだけが灯りを受けて浮かんでいる。

 

 関羽は馬上で青龍偃月刀を構えた。

 

 振り下ろさない。

 

 道を塞ぐだけだ。

 

「止まれ」

 

 男が進路を変える。

 

 だが別の道には、職人たちが動かした荷車と鎖がある。

 

「そっちは塞がってる!」

 

 教える必要はなかった。

 

 男はすでに荷車へぶつかり、抱えていた包みを落としていた。

 

 追いついた張飛が迫る。

 

 男は短刀を抜いた。

 

 張飛は蛇矛の刃を使わず、柄で手首を打つ。

 

 短刀が落ちた。

 

 次の瞬間、男は地面へ押さえつけられていた。

 

「殺すなと言われている」

 

 張飛が男の腕を背中へ回す。

 

「兄貴の仕事を増やすと、俺が怒られるからな」

 

「俺の仕事が生死の基準なの?」

 

「死体より、生きてる奴の方が話を聞けるだろ」

 

「正しい。正しいけど、俺みたいな言い方をするな!」

 

 男を縛り、落とした包みを拾う。

 

 糜氏も追いついた。

 

「中を確認します」

 

 周囲に緊張が走った。

 

 襄陽へ送る徴収札の写しか。

 

 重複した三枚の札か。

 

 あるいは、それらを記した木簡か。

 

 糜氏が紐を解く。

 

 包みの中から出てきたのは――。

 

「……赤兎馬の記録?」

 

 俺は木簡を一枚取った。

 

 北方の物見に出た日。

 

 旧砦で退路を見張った日。

 

 飼料の支給量。

 

 関羽の使用確認。

 

 そして、

 

『所持者・関羽。譲渡書なし。馬体に司空府の印あり』

 

 という、何度見ても頭の痛い記録。

 

「なぜ、これを盗んだ?」

 

 侵入者は答えない。

 

 答えないというより、本人も固まっている。

 

 どう見ても、盗む包みを間違えた顔だった。

 

 糜氏が言う。

 

「中身を外から判別できないよう、同じ布と紐で包んでおきました」

 

「囮を作ったの?」

 

「通常の保管方法です」

 

 文書倉には、糜氏が管理する物資や馬の記録も、別棚に収めていたらしい。

 

「偶然にしては、相手への精神的損害が大きい!」

 

 関羽が木簡を受け取った。

 

「赤兎馬の働きを記した、大切な物だ」

 

「徴税不正の証拠より深刻そうな顔をするな!」

 

 赤兎馬が包みへ鼻を寄せた。

 

 関羽は馬の首を撫でる。

 

「安心せよ。お前の働きは消えておらぬ」

 

「馬の勤務記録を本人へ確認させるな!」

 

 赤兎馬が鼻を鳴らす。

 

 張飛が笑った。

 

「泥棒も、命懸けで盗んだ先が馬の餌とは思わなかっただろうな」

 

「勤務記録も入ってる!」

 

「なら、働きと飯の記録だ」

 

「まとめると余計に馬の話になるだろ!」

 

 緊張していた者たちの間から、笑いが漏れた。

 

 押さえつけられている侵入者だけは、まったく笑っていない。

 

 ◆

 

 侵入者の衣を調べると、内側から粗い木片が出てきた。

 

 木片には、簡単な印が刻まれている。

 

 三つの村。

 

 重複した札。

 

 原本。

 

 写し。

 

 襄陽へ送る分。

 

 字を知らなくても分かるよう、形と刻みで示されていた。

 

「狙う物は知っていたのか」

 

 包みを間違えただけで、偶然倉へ入ったわけではない。

 

 重複した徴収札が三枚あること。

 

 原本と写しを分けたこと。

 

 襄陽へ送る予定であること。

 

 そこまで知られている。

 

 糜氏が文書倉を確認した。

 

「原本は無事です」

 

「写しは?」

 

「確認できる分は残っております」

 

「確認できない分がある言い方をしないで!」

 

「県丞がお持ちのものは、ここでは確認できません」

 

「そういう意味ね!」

 

 甘氏も戻ってきた。

 

「この方は、夕方前には新野へ入っていたようです」

 

「分かるのか」

 

「食事を受け取る前に、井戸の場所と交代の時刻を尋ねております」

 

「食事の数から、そこまで分かったの?」

 

「一人ずつ尋ねました」

 

 俺は侵入者を見る。

 

「食事をもらってから盗みに入ったの?」

 

 男は顔を伏せた。

 

「律儀なのか図太いのか分からないな……」

 

 ◆

 

 聞き取りは、県丞、糜氏、廖化の立ち会いで行った。

 

 男の仕事口と倉への出入りについては、男を見知っていた荷運び人から、先に別の場所で確認した。

 

 張飛は、男の前に腕を組んで立っている。

 

 男が一言答えるたびに、張飛が少し身を乗り出す。

 

「張飛、後ろへ下がれ」

 

「なぜだ」

 

「お前の顔を見ながら話すと、相手がこちらの望む答えを探し始める」

 

「嘘をつきにくくなるぞ」

 

「本当のことも言いにくくなるんだよ!」

 

 張飛を壁際へ移す。

 

 関羽も入ろうとしたが、青龍偃月刀を外へ置いてもらった。

 

 侵入者は、周辺で荷運びや倉仕事をしていた男だった。

 

 豪族の正式な家臣ではない。

 

 手代や商人の間を行き来し、荷の積み下ろしをしていたという。

 

「誰に命じられた」

 

 県丞が尋ねる。

 

「名は知りません」

 

「嘘をつくな!」

 

 張飛が壁際から声を上げる。

 

「張飛!」

 

「まだ近づいてねえ!」

 

「声が近いんだよ!」

 

 男は震えながら話した。

 

 知らない男から銭を渡された。

 

 荷車置き場へ火をつけ、人を集めろと言われた。

 

 三つの村に関する札と記録を持ち出すよう命じられた。

 

 依頼主の名は知らない。

 

 衣や話し方から、手代に近い者だと思った。

 

 断れば、以前に荷を抜いたことを役所へ告げると脅された。

 

 倉の中が暗く、包みを取り違えた。

 

「荷を抜いたことはあるのか」

 

 男は黙った。

 

「そこは黙るの?」

 

「……少しだけ」

 

「少しの量も、後で確認するからな」

 

 男の顔がさらに沈む。

 

 俺は県丞へ言った。

 

「この男が話したことと、こちらで確かめたことは分けて記録してください」

 

「手代に近い者だと思った、というだけで、手代が命じたことにはしない」

 

「承知しました」

 

 張飛が不満そうに言う。

 

「本人が申しているぞ」

 

「苦しくなれば、知っている者の名を適当に出すこともある」

 

「痛めつければ、もっと話すかもしれん」

 

「苦しくて話したことが本当か、また調べる仕事が増えるだろ!」

 

 張飛が俺を見る。

 

「そこか?」

 

「そこもだ!」

 

 本当は、間違った相手を犯人にして、周辺の豪族をまとめて敵に回したくない。

 

 慎重なのではない。

 

 怖いのだ。

 

 だが県丞は、深く頷いた。

 

「供述だけで人を罪へ落とさぬ。さすがでございます」

 

「敵を増やしたくないだけです」

 

「だからこそ、事実を分けられるのでしょう」

 

「また良い意味に変わった……」

 

 侵入された場所も、そのままにはできない。

 

 裏口は、県丞と糜氏が立ち会って新しい紐を掛け、それぞれの印で封じた。

 

 古い排水路の出口には、鍛冶職人と荷車職人が鎖と廃材で仮の格子を組んだ。

 

 見張りの交代は二人一組とし、名を刻んだ木札を引き継ぐ。

 

 食事を渡す者は、木札と見張りの名簿を照らし合わせる。

 

 糜氏が新しい木簡を開いた。

 

「また増えた?」

 

「見張りの交代と、食事を渡した相手を分けて記します」

 

「泥棒を捕まえると、泥棒対策の帳簿が増えるのか……」

 

 ◆

 

 騒ぎが収まりかけた頃、前日に新野へ来た一団の代表が、おずおずと俺へ近づいた。

 

「劉備様」

 

「今度は何ですか」

 

「お渡しする時を逃しておりました」

 

 小さな書状を差し出す。

 

 差出人を見て、嫌な予感がした。

 

「張レン?」

 

 書状は短かった。

 

 黄巾の名だけで追われる者が、こちらへ向かう。

 

 食わせろとは言わない。

 

 働かせてほしい。

 

 自分は止めたが、劉備のもとなら追い返されないと、誰も聞かなかった。

 

 使えぬ者は返してもよい。

 

 俺は書状を二度読んだ。

 

「返したら、どこへ行くの?」

 

 代表の男が答える。

 

「行くところのない者が多いかと」

 

「返せないことを分かって書いてるだろ!」

 

 張レン本人はいない。

 

 それなのに、彼女らしい無茶だけが先に届いている。

 

「私は止めた、というところも怪しい」

 

「止めてはおられました」

 

「本当に?」

 

「劉備様のところなら働き口はあるだろう、と申された後で」

 

「それは送り出してるんだよ!」

 

 甘氏が書状を見た。

 

「働ける方々は、今夜すでに町を守ってくださいました」

 

 糜氏も頷く。

 

「持参した食料と、できる仕事も確認できております」

 

「二人とも、張レン側に回らないでくれ!」

 

「事実を申しただけです」

 

 糜氏は平然としている。

 

 事実は、いつも俺に不利である。

 

 ◆

 

 夜の騒ぎで動いた者を、県丞が記録していた。

 

 火を消した者。

 

 子供や病人を避難させた者。

 

 馬を移した者。

 

 路地を塞いだ者。

 

 排水路を見張った者。

 

 逃走者の捕縛を助けた者。

 

 避難した家族の名を確かめた者。

 

「新しく来た者たちも、よく統制されておりました」

 

 県丞が言う。

 

「統制していません」

 

「劉備殿の『人を先に』『門を空にするな』『殺すな』という言葉に従っております」

 

「火事と泥棒が出たから、その場で動いただけです」

 

「正式な役目もない者が、同じ指示で動いたのでしょう」

 

 俺は黙った。

 

 否定の仕方を間違えた。

 

 命令して動かしたのではない。

 

 命令しなくても動いた。

 

 こちらの方が、もっと危険な評価になる。

 

「この人たちは兵ではありません」

 

「承知しております」

 

「報告には、何と書くんですか」

 

 県丞は木簡を見た。

 

「夜間の守りへ協力した一時滞在者、と」

 

「長いけど、それでお願いします!」

 

 張飛が口を挟む。

 

「守備隊でいいだろ」

 

「よくない!」

 

「昨夜、町を守ったぞ」

 

「一晩動いただけで兵にするな!」

 

「なら、仮の守備隊だ」

 

「仮を付けても駄目だ!」

 

 張飛は少し考えた。

 

「夜だけ守備隊」

 

「勤務時間で所属を変えるな!」

 

 ◆

 

 夜が明ける頃には、新野の中の空気が少し変わっていた。

 

 前日まで、新しく来た者たちは門の外から来た一時滞在者だった。

 

 それが今では、

 

 火を消してくれた者。

 

 子供を運んでくれた者。

 

 馬を守ってくれた者。

 

 泥棒を逃がさなかった者。

 

 として、新野の住民から声をかけられている。

 

 農具を直せる職人へ、壊れた鍬が持ち込まれる。

 

 御者は、荷車の車輪を見てほしいと頼まれている。

 

 読み書きのできる男は、甘氏のところで家族記録を手伝い始めた。

 

 元兵たちは、北門の壊れた柵を直している。

 

「正式に住むことを認めたわけではないんだけど」

 

 甘氏は、門の近くで働く者たちを見た。

 

「昨夜、助けていただいた方を、今日すぐ門外へ戻すのは難しいでしょう」

 

「そう言われると困る」

 

 糜氏も言う。

 

「食料と働きは分けて記録しておきます」

 

「もう残す前提なの?」

 

「返す場合にも、働いた分を清算しなければなりません」

 

「どちらへ進んでも帳簿が必要なんだな!」

 

 俺の人生には、帳簿のない出口がない。

 

 ◆

 

 日が昇ると、関羽と廖化が北方の見回りへ出た。

 

 昨夜の侵入者に仲間がいないかを確かめるためである。

 

 赤兎馬も同行した。

 

 出発前、関羽は昨夜盗まれかけた勤務記録を糜氏へ戻した。

 

「確かに預かった」

 

 糜氏が言う。

 

「次からは、どの包みか分かるようにしておいてくれ」

 

「侵入者にも分かります」

 

「では、俺だけに分かる印を」

 

「旦那様が忘れます」

 

「否定できない!」

 

 関羽は赤兎馬へ乗った。

 

「友よ。今日は北を見に行く」

 

 赤兎馬が鼻を鳴らす。

 

「勤務日が一日増えるな」

 

 張飛が言った。

 

 赤兎馬の腹を見る。

 

「餌も増えるのか?」

 

 関羽が振り返った。

 

「働きに応じた飼料は必要だ」

 

「馬の労務管理だけ完璧になっていく……」

 

 ◆

 

 昼前。

 

 関羽と廖化が戻ってきた。

 

 赤兎馬の脚には、乾いた土が付いている。

 

「兄者」

 

 関羽の顔は、いつもより硬かった。

 

「今度は何だ」

 

「旧砦より北で、新しい馬の跡を見つけた」

 

「逃げた賊じゃないのか」

 

「複数の馬が、一定の間を保って進んでいる」

 

 廖化が地面へ簡単な図を描いた。

 

「一本道だけではありません。水場と脇道へ入り、また戻っています」

 

「荷を探した跡は?」

 

「ありません」

 

「村を襲った跡は?」

 

「ありません」

 

「では何をしていた」

 

「道を見ていたのでしょう」

 

 荷車が通れる幅。

 

 迂回できる場所。

 

 水を取れるところ。

 

 馬が休める場所。

 

 同じ道を往復し、いくつかの場所では足跡を消そうとしている。

 

「賊ではありません」

 

 廖化が言った。

 

「兵を通す道を確かめに来た者だと思われます」

 

 曹操軍。

 

 その言葉が、頭に浮かんだ。

 

 まだ確定ではない。

 

 別の勢力かもしれない。

 

 だが、単なる山賊より良いとは思えなかった。

 

「昨夜は倉泥棒だったよな?」

 

「はい」

 

「どうして朝になったら、軍の斥候になるんだよ!」

 

 張飛が槍を取った。

 

「今度は斥候狩りか?」

 

「狩るな!」

 

「逃がすのか?」

 

「まず正体を確かめるだけだ!」

 

 北門の近くにいた新しい者たちが、話を聞いて集まってくる。

 

「北の道なら知っています」

 

「馬の跡も少し読めます」

 

「物見なら手伝えます」

 

「待ってください!」

 

 俺は両手を上げた。

 

「勝手に守備隊を作らないで!」

 

 男たちは顔を見合わせた。

 

「守備隊ではありません」

 

「では何ですか」

 

「昨夜、新野を守った者です」

 

 俺は言葉に詰まった。

 

 関羽が静かに言う。

 

「すでに、この地を守る者になったということだろう」

 

「一晩で所属意識を作るな!」

 

 門の外には、北へ続く道がある。

 

 その先に、統制された騎馬の足跡が残っている。

 

 徴収札を守るための夜が、新野の守りを形にし、そのまま北方の軍事警戒へつながっていた。

 

「俺は倉泥棒を捕まえただけなんだけど……」

 

 張飛が槍を担いだ。

 

「では、次は斥候だな」

 

「話を進めるな!」

 

 赤兎馬が北の道へ顔を向け、短く鼻を鳴らした。

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