劉備に転生した俺、三国志が思ったより治安悪すぎる ~ニートになりたいだけなのに、関羽と張飛が俺を覇王にしようとしてくる~ 作:ブンチョウ
「今日こそ寝る」
俺は、誰に聞かせるでもなく宣言した。
新野へ来てからというもの、何かを決めるたびに木簡が増え、その木簡を整理するために、また別の木簡が増えている。
今日など、穀物一袋の持ち主を確かめようとしただけだ。
その結果、三つの村から同じ税を二度取っていた疑いが生じ、徴収札を封じ、写しを作り、襄陽へ報告することになった。
寝ない理由は、もう十分に働いた。
俺は敷物へ横になった。
「明朝、襄陽へ送る写しと封を確認していただきます」
糜氏が言った。
「朝の仕事は、朝の俺に任せる」
「朝の旦那様も、旦那様です」
「いまの俺くらい助けてくれ!」
糜氏は、まだ灯りの下で木簡を確認していた。
原本は、県丞立ち会いのもとで臨時の文書倉へ入れた。
写しの一つは県丞。
一つは糜氏。
襄陽へ送る分は、明朝、使者へ渡す。
さらに、札の傷、紐、印の欠け方を記した木簡は別の場所に置いてある。
これで、どれか一つを失っても、すべてが消えることはない。
完璧な責任分散である。
「見張りは、まだ必要なのか」
「保管場所を分けましたので」
「うん」
「見張る場所も増えました」
「証拠を分けたせいで、仕事まで増えてるじゃないか……」
俺が責任を分けると、なぜ労働だけが一か所へ集まるのだろう。
甘氏は、夜まで書き写しをしていた者や、見張り役へ食事を配らせていた。
「もう皆を休ませよう」
「交代の方へ食事を渡してからにいたします」
「食べ終わった者から解散でいいだろう」
「はい」
甘氏は素直に頷いた。
ようやく終わる。
俺は目を閉じた。
「ところで」
甘氏の声がした。
目を開ける。
「まだ何か?」
「食事が、一つ多く減っています」
俺は半身を起こした。
「多く食べた人がいるんじゃないか」
「一人分を二度受け取れば、配った方が気づきます」
「では、数え間違い?」
「食事を受け取った方が、一人多いようです」
甘氏は、近くにいた見張り役へ向いた。
「先ほど、食事を持って倉の裏へ向かった方は、どなたですか」
男たちは顔を見合わせた。
「次の交代だと申しておりました」
「お名前は?」
誰も答えない。
糜氏が見張りの名を記した木簡を確認した。
「交代の者は、まだ全員こちらにおります」
「では、食事を持っていったのは誰なんだ」
「新しく来た方かと思いまして……」
前日に来た者たちの家族と技能は、甘氏と糜氏が記録している。
だが、その中にも該当する者はいない。
県丞の配下でもない。
「知らない人に食事を渡して、見張りだと信じたの?」
「次の見張りだと名乗ったので……」
「名乗るだけで役目が決まるなら、俺も今日から働かぬ者だと名乗るぞ!」
糜氏が俺を見た。
「名乗る前から、たびたび申しておられます」
「実現してないんだよ!」
甘氏は騒がず、食事を渡した者へ順に尋ねていく。
どのような衣だったか。
どちらから来たか。
誰と話していたか。
どちらへ歩いていったか。
男の一人が、倉の裏を指した。
その時だった。
「火だ!」
外から叫び声が上がった。
続いて、張飛の声が響く。
「荷車の方だ!」
俺は立ち上がった。
「どうして寝ようとすると燃えるんだよ!」
◆
荷車置き場の端で、藁が燃えていた。
使える荷車は四台。
いずれも、汝南からここまで人と荷を運んできた大切な物である。
まだ車体には燃え移っていない。
だが風が吹けば、藁の火はすぐに広がる。
「荷車を離せ!」
「子供と病人を先に向こうへ!」
「馬を外せ!」
「井戸の水を全部使うな! 土と濡らした布も使え!」
張飛が燃えた藁束を蹴った。
藁束が宙を飛び、避難している人々の方へ転がる。
「人のいる方へ蹴るな!」
「荷車から離しただけだ!」
「荷車から離して、人へ近づけたら駄目だろ!」
張飛が追いかけ、藁束を踏みつける。
新しく来た者たちも動き始めた。
荷車を扱える者が馬を外す。
職人が車輪止めを抜き、荷車を押す。
元兵の男たちが、子供と老人を火から遠ざける。
元黄巾の者が、水桶を持って走る。
読み書きのできる者は、避難した家族の名を確かめていた。
誰も命じていない。
それぞれが、自分にできることを始めている。
「そっちへ荷車を置くな!」
火から遠ざけた荷車が、水桶を運ぶ道を塞いでいた。
「水が通れない!」
職人たちが慌てて荷車を動かす。
有能ではある。
ただし、全員が別々に有能なので、放っておくと互いの仕事を邪魔する。
「水は右!」
「荷車は左!」
「子供は門から離れた空き家の前へ!」
「馬は井戸のそばへ集めるな!」
一つずつ声をかけると、ばらばらだった動きが少しずつ整った。
(だから、こういうことをすると指揮したことになるんだよな……)
分かっている。
だが、火事の最中に誤解を恐れて黙っているわけにもいかない。
その時、糜氏が荷車置き場とは反対の方向へ歩いていくのが見えた。
「糜氏、どこへ行く!」
「文書倉を確認します」
「いま火事だぞ!」
「見張りを名乗った者は、倉の裏へ向かいました」
糜氏は振り返らない。
数歩遅れて、俺も嫌なことに気づいた。
火が偶然なら、知らない男が文書倉の裏へ向かった理由がない。
「張飛、火は任せた!」
「任せろ!」
「今度は燃えている物を投げるな!」
「分かっている!」
本当に分かっているのだろうか。
◆
文書倉の正面には、封が残っていた。
県丞の印も、糜氏が結んだ紐も切れていない。
「無事じゃないか」
息を吐いた。
糜氏は倉の横へ回った。
「旦那様」
裏口の紐が切られている。
扉も、わずかに開いていた。
「火は陽動です」
「嫌な予感を、毎回きちんと当てないでくれ!」
倉の中で、何かが倒れる音がした。
俺たちは立ち止まる。
糜氏が扉の隙間へ目を凝らし、一歩近づいた。
「待て!」
俺は腕をつかんだ。
「中に刃物を持った者がいるかもしれない」
「ですが、札が」
「札より先に人だ!」
言った直後、裏口から男が飛び出した。
脇に包みを抱えている。
甘氏が食事の数から見つけた、名簿にいない男だろう。
男は俺たちを見ると、反対側の路地へ走った。
「待て!」
張飛が蛇矛を持って追ってくる。
「殺すな!」
「逃がすな!」
「全員で追うな!」
張飛が走りながら振り返った。
「どれだ!」
「全部だ!」
「難しいぞ!」
「お前は追え! ただし殺すな!」
俺は周囲へ叫ぶ。
「門と火の見張りを空にするな!」
「武器を持って全員で走るな!」
「子供と病人のところには人を残せ!」
殺せば、誰に命じられたのか聞けない。
全員で追えば、別の侵入者に入られる。
火の始末も終わっていない。
新しく来た者たちまで武器を持って走れば、夜の城内で暴動が起きたようにしか見えない。
廖化が男の逃げた路地を見る。
「正門へは向かいません」
「なぜ分かる」
「火で門の警戒が強くなっています。外から来た者が、人に見られず出られる道は少ない」
「どこへ行く」
「古い排水路です」
張飛の声が遠くから響く。
「止まれェ!」
家々の戸が震える。
廖化が静かに言った。
「張将軍の声から逃げれば、自然に排水路へ向かいます」
「張飛の隠れる気のなさを、誘導に使うの?」
「隠して追うより、逃げる道を選ばせられます」
なるほど。
「張飛!」
「何だ!」
「そのまま叫んでろ!」
「俺の声が必要か!」
「今だけはな!」
「夜番将軍としてか!」
「役職は忘れろ!」
張飛の声が、さらに大きくなった。
「止まれェ! 逃げても無駄だぞォ!」
新野全体へ侵入者の位置を知らせながら追跡している。
隠密としては最低。
警報としては完璧だった。
◆
前日に来た者たちも、路地へ出ていた。
荷車職人が、修理中の車を横へ動かす。
鍛冶職人が、長い鎖を路地の端へ渡す。
元兵たちは武器を抜かず、棒と松明を持って脇道へ立った。
御者は、騒ぎで暴れそうな馬を押さえている。
廖化へ顔を向けた。
「誰が命令したの?」
「誰も」
「誰も?」
「自分にできることをしたのでしょう」
「それが一番、組織みたいに見えるんだよ!」
張飛が、前を走りながら叫ぶ。
「よく動くじゃねえか! やはり仲間に入れよう!」
「だから兵を募るな!」
「いま新野を守ってるぞ!」
「それを襄陽へ説明するのは俺なんだよ!」
侵入者は排水路へ飛び込んだ。
古い水路は、人が腰を曲げれば通れるほどの幅がある。
張飛も続こうとする。
「待て!」
「なぜだ!」
「お前が入ったら詰まる!」
「俺を何だと思っている!」
「大きい人間だと思ってる!」
廖化が別の道を指す。
「出口へ回ります」
「関羽は?」
遠くから馬の蹄が聞こえた。
赤兎馬だ。
関羽は城内を追わず、門から外へ回ったらしい。
「先に出口を押さえるつもりでしょう」
「全員、俺より先に正しい判断をしないでくれない?」
俺は廖化とともに、排水路の出口へ向かった。
◆
侵入者が排水路から這い出した。
泥にまみれたまま立ち上がる。
その前に、赤兎馬がいた。
闇の中で、赤い毛並みだけが灯りを受けて浮かんでいる。
関羽は馬上で青龍偃月刀を構えた。
振り下ろさない。
道を塞ぐだけだ。
「止まれ」
男が進路を変える。
だが別の道には、職人たちが動かした荷車と鎖がある。
「そっちは塞がってる!」
教える必要はなかった。
男はすでに荷車へぶつかり、抱えていた包みを落としていた。
追いついた張飛が迫る。
男は短刀を抜いた。
張飛は蛇矛の刃を使わず、柄で手首を打つ。
短刀が落ちた。
次の瞬間、男は地面へ押さえつけられていた。
「殺すなと言われている」
張飛が男の腕を背中へ回す。
「兄貴の仕事を増やすと、俺が怒られるからな」
「俺の仕事が生死の基準なの?」
「死体より、生きてる奴の方が話を聞けるだろ」
「正しい。正しいけど、俺みたいな言い方をするな!」
男を縛り、落とした包みを拾う。
糜氏も追いついた。
「中を確認します」
周囲に緊張が走った。
襄陽へ送る徴収札の写しか。
重複した三枚の札か。
あるいは、それらを記した木簡か。
糜氏が紐を解く。
包みの中から出てきたのは――。
「……赤兎馬の記録?」
俺は木簡を一枚取った。
北方の物見に出た日。
旧砦で退路を見張った日。
飼料の支給量。
関羽の使用確認。
そして、
『所持者・関羽。譲渡書なし。馬体に司空府の印あり』
という、何度見ても頭の痛い記録。
「なぜ、これを盗んだ?」
侵入者は答えない。
答えないというより、本人も固まっている。
どう見ても、盗む包みを間違えた顔だった。
糜氏が言う。
「中身を外から判別できないよう、同じ布と紐で包んでおきました」
「囮を作ったの?」
「通常の保管方法です」
文書倉には、糜氏が管理する物資や馬の記録も、別棚に収めていたらしい。
「偶然にしては、相手への精神的損害が大きい!」
関羽が木簡を受け取った。
「赤兎馬の働きを記した、大切な物だ」
「徴税不正の証拠より深刻そうな顔をするな!」
赤兎馬が包みへ鼻を寄せた。
関羽は馬の首を撫でる。
「安心せよ。お前の働きは消えておらぬ」
「馬の勤務記録を本人へ確認させるな!」
赤兎馬が鼻を鳴らす。
張飛が笑った。
「泥棒も、命懸けで盗んだ先が馬の餌とは思わなかっただろうな」
「勤務記録も入ってる!」
「なら、働きと飯の記録だ」
「まとめると余計に馬の話になるだろ!」
緊張していた者たちの間から、笑いが漏れた。
押さえつけられている侵入者だけは、まったく笑っていない。
◆
侵入者の衣を調べると、内側から粗い木片が出てきた。
木片には、簡単な印が刻まれている。
三つの村。
重複した札。
原本。
写し。
襄陽へ送る分。
字を知らなくても分かるよう、形と刻みで示されていた。
「狙う物は知っていたのか」
包みを間違えただけで、偶然倉へ入ったわけではない。
重複した徴収札が三枚あること。
原本と写しを分けたこと。
襄陽へ送る予定であること。
そこまで知られている。
糜氏が文書倉を確認した。
「原本は無事です」
「写しは?」
「確認できる分は残っております」
「確認できない分がある言い方をしないで!」
「県丞がお持ちのものは、ここでは確認できません」
「そういう意味ね!」
甘氏も戻ってきた。
「この方は、夕方前には新野へ入っていたようです」
「分かるのか」
「食事を受け取る前に、井戸の場所と交代の時刻を尋ねております」
「食事の数から、そこまで分かったの?」
「一人ずつ尋ねました」
俺は侵入者を見る。
「食事をもらってから盗みに入ったの?」
男は顔を伏せた。
「律儀なのか図太いのか分からないな……」
◆
聞き取りは、県丞、糜氏、廖化の立ち会いで行った。
男の仕事口と倉への出入りについては、男を見知っていた荷運び人から、先に別の場所で確認した。
張飛は、男の前に腕を組んで立っている。
男が一言答えるたびに、張飛が少し身を乗り出す。
「張飛、後ろへ下がれ」
「なぜだ」
「お前の顔を見ながら話すと、相手がこちらの望む答えを探し始める」
「嘘をつきにくくなるぞ」
「本当のことも言いにくくなるんだよ!」
張飛を壁際へ移す。
関羽も入ろうとしたが、青龍偃月刀を外へ置いてもらった。
侵入者は、周辺で荷運びや倉仕事をしていた男だった。
豪族の正式な家臣ではない。
手代や商人の間を行き来し、荷の積み下ろしをしていたという。
「誰に命じられた」
県丞が尋ねる。
「名は知りません」
「嘘をつくな!」
張飛が壁際から声を上げる。
「張飛!」
「まだ近づいてねえ!」
「声が近いんだよ!」
男は震えながら話した。
知らない男から銭を渡された。
荷車置き場へ火をつけ、人を集めろと言われた。
三つの村に関する札と記録を持ち出すよう命じられた。
依頼主の名は知らない。
衣や話し方から、手代に近い者だと思った。
断れば、以前に荷を抜いたことを役所へ告げると脅された。
倉の中が暗く、包みを取り違えた。
「荷を抜いたことはあるのか」
男は黙った。
「そこは黙るの?」
「……少しだけ」
「少しの量も、後で確認するからな」
男の顔がさらに沈む。
俺は県丞へ言った。
「この男が話したことと、こちらで確かめたことは分けて記録してください」
「手代に近い者だと思った、というだけで、手代が命じたことにはしない」
「承知しました」
張飛が不満そうに言う。
「本人が申しているぞ」
「苦しくなれば、知っている者の名を適当に出すこともある」
「痛めつければ、もっと話すかもしれん」
「苦しくて話したことが本当か、また調べる仕事が増えるだろ!」
張飛が俺を見る。
「そこか?」
「そこもだ!」
本当は、間違った相手を犯人にして、周辺の豪族をまとめて敵に回したくない。
慎重なのではない。
怖いのだ。
だが県丞は、深く頷いた。
「供述だけで人を罪へ落とさぬ。さすがでございます」
「敵を増やしたくないだけです」
「だからこそ、事実を分けられるのでしょう」
「また良い意味に変わった……」
侵入された場所も、そのままにはできない。
裏口は、県丞と糜氏が立ち会って新しい紐を掛け、それぞれの印で封じた。
古い排水路の出口には、鍛冶職人と荷車職人が鎖と廃材で仮の格子を組んだ。
見張りの交代は二人一組とし、名を刻んだ木札を引き継ぐ。
食事を渡す者は、木札と見張りの名簿を照らし合わせる。
糜氏が新しい木簡を開いた。
「また増えた?」
「見張りの交代と、食事を渡した相手を分けて記します」
「泥棒を捕まえると、泥棒対策の帳簿が増えるのか……」
◆
騒ぎが収まりかけた頃、前日に新野へ来た一団の代表が、おずおずと俺へ近づいた。
「劉備様」
「今度は何ですか」
「お渡しする時を逃しておりました」
小さな書状を差し出す。
差出人を見て、嫌な予感がした。
「張レン?」
書状は短かった。
黄巾の名だけで追われる者が、こちらへ向かう。
食わせろとは言わない。
働かせてほしい。
自分は止めたが、劉備のもとなら追い返されないと、誰も聞かなかった。
使えぬ者は返してもよい。
俺は書状を二度読んだ。
「返したら、どこへ行くの?」
代表の男が答える。
「行くところのない者が多いかと」
「返せないことを分かって書いてるだろ!」
張レン本人はいない。
それなのに、彼女らしい無茶だけが先に届いている。
「私は止めた、というところも怪しい」
「止めてはおられました」
「本当に?」
「劉備様のところなら働き口はあるだろう、と申された後で」
「それは送り出してるんだよ!」
甘氏が書状を見た。
「働ける方々は、今夜すでに町を守ってくださいました」
糜氏も頷く。
「持参した食料と、できる仕事も確認できております」
「二人とも、張レン側に回らないでくれ!」
「事実を申しただけです」
糜氏は平然としている。
事実は、いつも俺に不利である。
◆
夜の騒ぎで動いた者を、県丞が記録していた。
火を消した者。
子供や病人を避難させた者。
馬を移した者。
路地を塞いだ者。
排水路を見張った者。
逃走者の捕縛を助けた者。
避難した家族の名を確かめた者。
「新しく来た者たちも、よく統制されておりました」
県丞が言う。
「統制していません」
「劉備殿の『人を先に』『門を空にするな』『殺すな』という言葉に従っております」
「火事と泥棒が出たから、その場で動いただけです」
「正式な役目もない者が、同じ指示で動いたのでしょう」
俺は黙った。
否定の仕方を間違えた。
命令して動かしたのではない。
命令しなくても動いた。
こちらの方が、もっと危険な評価になる。
「この人たちは兵ではありません」
「承知しております」
「報告には、何と書くんですか」
県丞は木簡を見た。
「夜間の守りへ協力した一時滞在者、と」
「長いけど、それでお願いします!」
張飛が口を挟む。
「守備隊でいいだろ」
「よくない!」
「昨夜、町を守ったぞ」
「一晩動いただけで兵にするな!」
「なら、仮の守備隊だ」
「仮を付けても駄目だ!」
張飛は少し考えた。
「夜だけ守備隊」
「勤務時間で所属を変えるな!」
◆
夜が明ける頃には、新野の中の空気が少し変わっていた。
前日まで、新しく来た者たちは門の外から来た一時滞在者だった。
それが今では、
火を消してくれた者。
子供を運んでくれた者。
馬を守ってくれた者。
泥棒を逃がさなかった者。
として、新野の住民から声をかけられている。
農具を直せる職人へ、壊れた鍬が持ち込まれる。
御者は、荷車の車輪を見てほしいと頼まれている。
読み書きのできる男は、甘氏のところで家族記録を手伝い始めた。
元兵たちは、北門の壊れた柵を直している。
「正式に住むことを認めたわけではないんだけど」
甘氏は、門の近くで働く者たちを見た。
「昨夜、助けていただいた方を、今日すぐ門外へ戻すのは難しいでしょう」
「そう言われると困る」
糜氏も言う。
「食料と働きは分けて記録しておきます」
「もう残す前提なの?」
「返す場合にも、働いた分を清算しなければなりません」
「どちらへ進んでも帳簿が必要なんだな!」
俺の人生には、帳簿のない出口がない。
◆
日が昇ると、関羽と廖化が北方の見回りへ出た。
昨夜の侵入者に仲間がいないかを確かめるためである。
赤兎馬も同行した。
出発前、関羽は昨夜盗まれかけた勤務記録を糜氏へ戻した。
「確かに預かった」
糜氏が言う。
「次からは、どの包みか分かるようにしておいてくれ」
「侵入者にも分かります」
「では、俺だけに分かる印を」
「旦那様が忘れます」
「否定できない!」
関羽は赤兎馬へ乗った。
「友よ。今日は北を見に行く」
赤兎馬が鼻を鳴らす。
「勤務日が一日増えるな」
張飛が言った。
赤兎馬の腹を見る。
「餌も増えるのか?」
関羽が振り返った。
「働きに応じた飼料は必要だ」
「馬の労務管理だけ完璧になっていく……」
◆
昼前。
関羽と廖化が戻ってきた。
赤兎馬の脚には、乾いた土が付いている。
「兄者」
関羽の顔は、いつもより硬かった。
「今度は何だ」
「旧砦より北で、新しい馬の跡を見つけた」
「逃げた賊じゃないのか」
「複数の馬が、一定の間を保って進んでいる」
廖化が地面へ簡単な図を描いた。
「一本道だけではありません。水場と脇道へ入り、また戻っています」
「荷を探した跡は?」
「ありません」
「村を襲った跡は?」
「ありません」
「では何をしていた」
「道を見ていたのでしょう」
荷車が通れる幅。
迂回できる場所。
水を取れるところ。
馬が休める場所。
同じ道を往復し、いくつかの場所では足跡を消そうとしている。
「賊ではありません」
廖化が言った。
「兵を通す道を確かめに来た者だと思われます」
曹操軍。
その言葉が、頭に浮かんだ。
まだ確定ではない。
別の勢力かもしれない。
だが、単なる山賊より良いとは思えなかった。
「昨夜は倉泥棒だったよな?」
「はい」
「どうして朝になったら、軍の斥候になるんだよ!」
張飛が槍を取った。
「今度は斥候狩りか?」
「狩るな!」
「逃がすのか?」
「まず正体を確かめるだけだ!」
北門の近くにいた新しい者たちが、話を聞いて集まってくる。
「北の道なら知っています」
「馬の跡も少し読めます」
「物見なら手伝えます」
「待ってください!」
俺は両手を上げた。
「勝手に守備隊を作らないで!」
男たちは顔を見合わせた。
「守備隊ではありません」
「では何ですか」
「昨夜、新野を守った者です」
俺は言葉に詰まった。
関羽が静かに言う。
「すでに、この地を守る者になったということだろう」
「一晩で所属意識を作るな!」
門の外には、北へ続く道がある。
その先に、統制された騎馬の足跡が残っている。
徴収札を守るための夜が、新野の守りを形にし、そのまま北方の軍事警戒へつながっていた。
「俺は倉泥棒を捕まえただけなんだけど……」
張飛が槍を担いだ。
「では、次は斥候だな」
「話を進めるな!」
赤兎馬が北の道へ顔を向け、短く鼻を鳴らした。