劉備に転生した俺、三国志が思ったより治安悪すぎる ~ニートになりたいだけなのに、関羽と張飛が俺を覇王にしようとしてくる~   作:ブンチョウ

36 / 36
第36話 物見選び、精兵を作った覚えはない

「先日の夜、倉破りを捕らえるために動いた者は、何人ですか」

 

「兵ではありません」

 

「人数を尋ねております」

 

「兵ではないという話をしています」

 

「では、兵ではない者が、何人動いたのですか」

 

「その聞き方、最初から兵として数える気ですよね?」

 

 北方で不審な騎馬の跡が見つかってから、数日後。

 

 その朝にも、博望方面へ続く道で、新しい蹄の跡が確認されていた。

 

 襄陽から、監察役とその書記が新野へ到着した。

 

 もともとは、増え続ける滞在者と、重複した徴収札の件を確かめるために派遣されたらしい。

 

 だが、彼らが新野へ着くまでに、確認すべき項目が二つ増えていた。

 

 文書倉への侵入。

 

 そして、北方に残された騎馬の跡である。

 

 卓の上には、先日の夜の騒ぎについて書かれた木簡が並んでいる。

 

 火を消した者。

 

 子供や病人を運んだ者。

 

 荷車を移した者。

 

 馬を押さえた者。

 

 路地を塞いだ者。

 

 排水路を見張った者。

 

 侵入者の捕縛を助けた者。

 

 これをすべて合わせれば、それなりの人数になる。

 

 しかし、同じ人間が火を消した後に荷車を動かし、その後で路地を塞いでいる場合もある。

 

「同じ者を二度数えてはなりません」

 

 監察役が言った。

 

「実際に動いた人数と、役目ごとの人数は別です」

 

 糜氏が淡々と答える。

 

「では、実際に動いた人数を」

 

「確認中です」

 

「すでに日をまたいでおりますが」

 

「本人は働いたつもりでも、周囲から見れば立っていただけという場合がございます」

 

 糜氏の視線が、張飛へ向いた。

 

「俺は働いたぞ!」

 

 張飛が胸を張る。

 

「追跡、警報、捕縛、それに指揮だ!」

 

「警報は、お前が叫びながら走っただけだろ!」

 

「町中へ侵入者の居場所を知らせた」

 

「隠密性を全部捨てた結果だよ!」

 

 監察役が書記へ向く。

 

「張飛将軍は複数の役目を兼ねた、と」

 

「役目を増やさないでください!」

 

 張飛は満足そうだった。

 

「行列将軍、井戸将軍、夜番将軍に加え、警報将軍か」

 

「一人で軍議が開けるくらい役職を増やすな!」

 

「倉将軍もあるぞ」

 

「倉を破られた翌日に名乗るな!」

 

 書記が困った顔で筆を止める。

 

 監察役も、張飛を何に数えるべきか迷っていた。

 

 兵。

 

 夜間の守りへ協力した者。

 

 侵入者を捕らえた者。

 

 あるいは、役職を勝手に増やしているだけの義弟。

 

 俺としては、最後で記録してもらいたい。

 

「では、新野に現在いる者を、順に確認いたします」

 

 監察役が新しい木簡を出した。

 

「まず、以前から新野に住んでいた者」

 

 県丞が答える。

 

「次に、避難してきた者」

 

 甘氏が記録を出す。

 

「一時的に滞在している者」

 

 糜氏が別の木簡を置く。

 

「武器を持つ者」

 

 関羽と張飛がいる方を見る。

 

「元兵」

 

 新しく来た者たちの中から、何人かが呼ばれる。

 

「劉備殿の配下」

 

「そこは待ってください」

 

「何か」

 

「本人が配下だと思っているか、俺が配下だと思っているかで、数が変わります」

 

 監察役は黙った。

 

 県丞も黙った。

 

 糜氏だけが頷いた。

 

「旦那様が正式に認めていない方が、多くおります」

 

「なぜ、その者たちは劉備殿の命に従うのですか」

 

「俺が聞きたいです」

 

 監察役が、一人の男を呼んだ。

 

 先日の夜、荷車を動かしていた職人である。

 

「そなたは兵か」

 

「いまは荷車を直しております」

 

「槍を扱えるか」

 

「扱えます」

 

「では兵ではないか」

 

「荷車も直せます」

 

「どちらなのだ」

 

「いまは荷車を直しております」

 

 監察役の眉間に皺が寄る。

 

 俺は助け舟を出した。

 

「槍を持てる者が全員兵なら、包丁を持てる者は全員料理人になりますよ」

 

「旦那様は、包丁を持っても料理人にはなれません」

 

 糜氏が言った。

 

「例えを壊さないで!」

 

 監察役は考えた末、木簡へ、

 

『武を知る一時滞在者』

 

 と記した。

 

「長いけど、兵よりはましです」

 

 横の書記が、写しへ短く、

 

『武を知る者』

 

 と書く。

 

「一時滞在者が消えたら、ますます兵に見えるだろ!」

 

 ◆

 

 人間をどの枠へ入れるか決まらないうちに、もっと悪い問題が持ち出された。

 

 北方で見つかった騎馬の跡である。

 

 関羽と廖化が確認した内容を、監察役が読み上げる。

 

 複数の騎馬。

 

 一定の間隔を保って移動。

 

 水場と脇道を確認。

 

 荷車が通れる道幅を調べた形跡。

 

 村も旅人も襲っていない。

 

 足跡を一部消している。

 

 博望方面から来た可能性がある。

 

「曹操軍の物見である可能性があります」

 

 監察役が言った。

 

 俺は身を乗り出した。

 

「可能性だけなら、まだ戦う必要はありませんね?」

 

「正体を確かめていただきます」

 

「見るだけですか」

 

「人数、進路、行動を確認し、襄陽へ報告してください」

 

「捕らえろとは?」

 

「命じられておりません」

 

「追い払えとは?」

 

「命じられておりません」

 

「戦えとは?」

 

「命じられておりません」

 

 俺は大きく息を吐いた。

 

「それならできます」

 

 監察役は、なぜか感心したように頷いた。

 

「敵の正体が定まらぬうちに、無益な戦いは避けるべきですな」

 

「戦う理由を一つずつ消していただけです」

 

「だからこそ、慎重なのでしょう」

 

「また良い意味に変わった……」

 

 北方へ出すのは、少人数の物見である。

 

 敵を倒すためではない。

 

 見つける。

 

 数える。

 

 どちらへ行ったか確かめる。

 

 そして逃げ帰る。

 

 それだけだ。

 

 それだけのはずだった。

 

 ◆

 

「北の道を知る者だけ、前へ出てくれ」

 

 廖化が呼びかける。

 

 すると、大勢が前へ出た。

 

「北の村へ荷を運んでいました」

 

「山で見張りをしていたことがあります」

 

「馬の足跡なら分かります」

 

「夜目には自信があります」

 

「弓を使えます」

 

「走るのは速いです」

 

 張飛が満足そうに頷いた。

 

「全員連れていけばよい」

 

「少人数の物見だと言っただろ!」

 

「多い方が強いぞ」

 

「戦わないために少なくするんだよ!」

 

「敵が出たらどうする」

 

「逃げる!」

 

「なら、多い方が何人かは逃げ切れる」

 

「犠牲を前提に人数を増やすな!」

 

 張飛も、当然のように槍を持って前へ出る。

 

「お前は残れ」

 

「なぜだ」

 

「目立つ」

 

「強いからか」

 

「体も声も武器も全部だよ!」

 

 張飛が不満そうに腕を組む。

 

「俺は夜番将軍だぞ」

 

「まだその役職を残してたの?」

 

「昼は行列将軍だ」

 

「今日は人員確認将軍にされかけてたぞ」

 

「それも悪くない」

 

「悪い!」

 

 張飛が物見に出れば、敵を見つける前に敵から見つかる。

 

 敵を見つけた後は、たぶん追いかける。

 

 さらに張飛がいなくなれば、新野の守りが薄くなる。

 

 今回は、絶対に残ってもらう。

 

「兄者。では、俺が行こう」

 

 関羽が進み出た。

 

 その隣に、赤兎馬がいる。

 

 どこから見ても目立つ。

 

「それも駄目だ」

 

「なぜだ」

 

「赤兎馬が目立ちすぎる」

 

「友を置いていけと申すか」

 

「お前だけ歩いていけばいいだろ」

 

 関羽が赤兎馬を見る。

 

 赤兎馬も関羽を見る。

 

「馬と相談を始めるな!」

 

「友だけを置いて行くことはできぬ」

 

 張飛が口を挟んだ。

 

「ならば、三兄弟と一馬で北へ向かうか」

 

「桃の木へ向かうみたいに言うな!」

 

「途中に桃の木があれば、誓いを新たにできるぞ」

 

「物見の途中で義兄弟を増やすな!」

 

 関羽には、物見役から少し離れた場所で待機してもらうことにした。

 

 赤兎馬とともに高所へ立ち、帰り道を守る。

 

 敵に見つかった者がいれば、赤兎馬で新野へ知らせる。

 

 ただし、追わない。

 

 斬らない。

 

 敵の陣へ入らない。

 

「物見の退路を守る役目か」

 

 関羽は納得した。

 

 俺としては、関羽と赤兎馬が敵へ近づくのを止めたかっただけである。

 

 監察役の書記が、木簡へ何かを書いた。

 

「何と書きました?」

 

「関羽将軍を後詰めとして配置、と」

 

「赤兎馬が目立つから遠ざけただけです!」

 

「必要な時にのみ、力を見せるお考えなのでしょう」

 

 これ以上説明すると、さらに評価が上がりそうなので黙った。

 

 ◆

 

 志願者の中から、廖化が道を知る者を選ぼうとする。

 

 そこへ、甘氏が家族記録を持ってきた。

 

「こちらの方には、幼いお子様が二人おります。奥方も病を患っておられます」

 

「外そう」

 

 次の男は夜目が利き、弓も扱える。

 

「この方が戻らなければ、幼い妹が一人になります」

 

「外そう」

 

 張飛が首を傾げた。

 

「強そうな者から消えていくぞ」

 

「強くても、帰らなかった時に家族が倒れる者を出せるか!」

 

 監察役が、こちらを見た。

 

 嫌な予感がする。

 

「兵の家族まで考慮されるのですな」

 

「死んだ後に、誰が子供を育てるんですか」

 

「その対応まで、全部こちらへ来るんですよ!」

 

 俺としては、現実的な負担を言っている。

 

 監察役は深く頷いた。

 

「一人の兵の後ろにある家まで背負う。それゆえ、無益に出さぬのですな」

 

「兵ではないと言ってるでしょう!」

 

 甘氏は残った者へ、一人ずつ尋ねていく。

 

 家族。

 

 家。

 

 戻らなかった時に知らせる相手。

 

 聞いているだけで、胸が重くなった。

 

「出発前から、帰れない場合の話をしないでくれ」

 

 甘氏が答えた。

 

「帰っていただくために確かめております」

 

 反論できなかった。

 

 甘氏の確認を通過した者を、今度は糜氏が調べる。

 

「この方は、倉の鍵を扱っております」

 

「外そう」

 

「こちらの方は荷車を修理中です」

 

「外そう」

 

「この方は、北門側の井戸を確認しています」

 

「外そう」

 

 候補がさらに減った。

 

 張飛が尋ねる。

 

「敵を見に行く者を選んでいるのに、なぜ町の仕事で外されるのだ」

 

 糜氏が答える。

 

「物見が戻る前に、新野の仕事が止まっては困ります」

 

 俺も頷いた。

 

「そうだ。敵を調べるために、こちらの町を壊したら意味がない」

 

 監察役の書記が、木簡へ何かを書き加えた。

 

「今度は何を?」

 

「城内の働きを維持したうえで、人員を出す、と」

 

「行っても町が困らず、家族も困らず、道を知っている人に頼んだだけです」

 

 監察役が答えた。

 

「十分、選ぶ理由になっております」

 

 否定するほど、公文書が立派になっていく。

 

 ◆

 

 最後に残ったのは、武勇を誇る者たちではなかった。

 

 廖化。

 

 北の荷道を知る元御者。

 

 蹄の跡を見分けられる元賊。

 

 水場と畑の位置を知る農民。

 

 読み書きができ、簡単な位置関係を木片へ残せる若者。

 

 数人だけである。

 

 重い槍は持たせない。

 

 目立つ旗もない。

 

 護身用の短刀と、弓を数張だけ。

 

 封を解いた武器は県丞の立ち会いで貸し出し、糜氏が弓、弦、矢、短刀の数と、持たせた相手を記録した。

 

 若者が尋ねた。

 

「敵を見つけた場合、どういたしますか」

 

「逃げてください」

 

 全員が黙った。

 

「戦ってはならないのですか」

 

「戦ったら、相手の人数も進路も分からないままになるでしょう」

 

「一人を捕らえれば、話を聞けます」

 

「一人を捕らえている間に、残りが仲間を呼んだらどうする」

 

 俺は一人ずつ顔を見る。

 

「敵の首はいりません」

 

「生きて帰って、見たことを話してください」

 

「見つかったら逃げる」

 

「追われたら、食料や水は捨てる」

 

「地図や記録した木片を持ち帰れないと思ったら、破るか割るかして、溝か泥へ沈める」

 

「勝てそうでも追わない」

 

「相手が背を向けても近づかない」

 

「帰り道を変える場合は、先に決めた場所へ集まる」

 

 廖化が頷いた。

 

「待つ場所と、戻る時刻を決めておきます」

 

 監察役が言った。

 

「手柄より、生還を優先されるのですな」

 

「死んだ人から報告は聞けませんからね!」

 

 張飛が腕を組む。

 

「逃げ足の速い者を選べばよかったのか」

 

「今回は、それで正しい!」

 

「ならば兄貴が一番向いている」

 

「俺は報告を待つ側だろ!」

 

 ◆

 

 糜氏が、物見役へ持たせる物を並べた。

 

 火を使わずに食べられる物。

 

 水。

 

 傷を縛る布。

 

 場所を記す小さな木片。

 

 簡単な地図。

 

 帰還した時に門で示すため、衣の内へ収める新野の札。

 

 帰還予定を書いた記録。

 

「多くない?」

 

「帰るために必要な分です」

 

「敵を見るだけだぞ」

 

「帰れなければ、見た意味がございません」

 

 甘氏は、履物を確認していた。

 

 元賊の男が履いている靴の底が、破れかけている。

 

「このままでは、途中で歩けなくなります」

 

 替えの履物が渡される。

 

 農民の衣の紐も直す。

 

 元御者には、水を多く持ちすぎないよう量を調整する。

 

 若者には、木片を落とさぬよう小袋が付けられた。

 

 俺は並んだ物見役を見る。

 

 食料。

 

 水。

 

 地図。

 

 役割。

 

 帰還時刻。

 

 後方には関羽と赤兎馬。

 

 横では監察役の書記が、出発する者の名を記録している。

 

「道を見に行くだけなのに、出陣みたいになってない?」

 

 監察役が答えた。

 

「敵である可能性が高い者を探るのです。当然でしょう」

 

「当然にすると、次も同じだけ仕事が増えるんですよ!」

 

 ◆

 

 新野の宿の軒下から、一人の旅人がその様子を眺めていた。

 

 粗末な衣をまとい、腰には剣を帯びている。

 

 武人にも見える。

 

 だが、関羽や張飛のような圧はない。

 

 商人にしては荷が少なく、役人にしては身なりが悪い。

 

 傍らには、北の街道と宿駅の名を尋ね書きした木片が置かれていた。

 

 旅人が宿の主人へ尋ねた。

 

「最も腕の立つ者は、出さぬのか」

 

「玄徳様は、戦わせるおつもりがないようです」

 

「道を知る者、足跡を見る者、記録する者を分けた」

 

「そのようです」

 

「家族を支える者は外した」

 

「甘夫人が確かめておられました」

 

「町の仕事を止める者も外した」

 

「糜夫人が」

 

 旅人は、張飛を新野へ残し、関羽を後方に置く配置を見る。

 

「臆病なのか、用心深いのか」

 

 宿の主人は少し考えた。

 

「御本人は、本当に戦がお嫌なのだと思います」

 

 旅人は答えず、出発する者たちの背中を見送った。

 

 ◆

 

 廖化たちは、北へ向かった。

 

 先頭は、北の荷道を知る元御者。

 

 足元だけでなく、道の傾きや幅を見る。

 

「ここは空の荷車なら通れますが、穀物を積めば車輪が沈みます」

 

 次に、水場を知る農民。

 

「この水は、いまなら馬に飲ませられます。夏には浅くなります」

 

 元賊は林や乾いた水路を見る。

 

「見張るなら、あの木の陰です」

 

 読み書きのできる若者が、小さな木片へ位置関係を刻む。

 

 廖化は全体を見ていた。

 

 昨日見つけた蹄跡。

 

 水場。

 

 木につけられた傷。

 

 荷車が通れる場所。

 

 脇道。

 

 林。

 

 乾いた水路。

 

 博望へ続く道。

 

 新野を迂回できる道。

 

 同じ道を歩いていても、見るものはそれぞれ違う。

 

 元御者は荷車を見る。

 

 農民は水と畑を見る。

 

 元賊は隠れる場所と逃げ道を見る。

 

 若者は、後から説明できるよう位置を残す。

 

 新野へ来る前には、ばらばらだった経験である。

 

 いまは、それらが一つの物見へ使われていた。

 

 昼を過ぎた頃。

 

 廖化が片手を上げた。

 

 一行が止まる。

 

 遠くの高所に、騎馬が見えた。

 

 木や地形に隠れ、正確な数は分からない。

 

 ただ、一騎ではない。

 

 互いに一定の距離を取っている。

 

 一人が馬から降り、水場へ近づいた。

 

 水の深さを確かめている。

 

 別の男は、道の端から端まで歩いた。

 

 荷車や兵が通れる幅を測っているように見える。

 

 さらに別の騎馬が高所へ上がり、新野の方角を眺めている。

 

 木の幹へ、小さな傷も付けた。

 

 村へは近づかない。

 

 道を行く農民も襲わない。

 

 荷を奪おうともしない。

 

 若者が小声で言った。

 

「数は多くありません。一人なら捕らえられます」

 

 廖化は首を横へ振った。

 

「首はいらないと言われている」

 

「生け捕りなら」

 

「一人を捕らえれば、残りがこちらを知る」

 

 廖化は、見たことだけを木片へ残させる。

 

 騎馬の数。

 

 行動。

 

 向かった方角。

 

 立ち寄った水場。

 

 木の傷。

 

 一行は、さらに近づかなかった。

 

 その時、一騎がこちらを向いた。

 

 気づかれたのか。

 

 ただ周囲を見ただけか。

 

 分からない。

 

「伏せろ」

 

 廖化たちは、乾いた水路へ身を沈めた。

 

 騎馬が一騎、こちらへ近づいてくる。

 

 蹄の音が大きくなる。

 

 元御者が地面へ耳を寄せる。

 

「真っすぐではありません。こちらの周りを見ています」

 

 元賊が、反対側の浅い溝を指した。

 

「戻るなら、あちらです」

 

 廖化はすぐには動かなかった。

 

 慌てて走れば、土煙が上がる。

 

 草も揺れる。

 

 一行は身を低くしたまま、騎馬が離れるのを待った。

 

 馬の鼻息が聞こえるほど近くまで来る。

 

 若者が、息を殺す。

 

 農民の手が震えていた。

 

 廖化が、その腕へ触れる。

 

 動くな。

 

 それだけを伝える。

 

 しばらくして、蹄の音が遠ざかった。

 

 騎馬は仲間の方へ戻る。

 

「戻る」

 

 廖化が短く言った。

 

 誰も追わない。

 

 相手が背を向けても、近づかない。

 

 劉備の命令どおり、見たものだけを持ち帰る。

 

 ◆

 

 廖化たちが新野へ戻る途中、先ほどの騎馬のうち数騎が、大きく回り込むように移動していた。

 

 こちらを見つけたとは限らない。

 

 周辺の道を、もう一度確かめているだけかもしれない。

 

 しかし、帰り道へ近づいている。

 

 廖化たちは林の陰へ入る。

 

 その先の高所に、関羽がいた。

 

 赤兎馬の上で、北を見ている。

 

 関羽は廖化たちを見つけると、何も言わず赤兎馬を進めた。

 

 敵騎へ突撃はしない。

 

 追いかけもしない。

 

 ただ、帰り道から少し離れた場所へ出る。

 

 赤兎馬の赤い毛並み。

 

 青龍偃月刀。

 

 関羽の長い髯。

 

 遠くからでも、普通の物見には見えなかった。

 

 敵騎が止まる。

 

 しばらく関羽を見る。

 

 関羽も動かない。

 

 少人数で近づくには、相手が悪すぎる。

 

 敵騎は距離を保ったまま向きを変えた。

 

 関羽は追わなかった。

 

 廖化たちは、その間に別の道から新野へ戻った。

 

 戦いは起きない。

 

 刃も交えない。

 

 ただ、敵へ近づかせず、味方を帰す。

 

 劉備が命じたとおりだった。

 

 ◆

 

 日が傾く前。

 

 北門から、物見役たちが戻ってきた。

 

 甘氏が、名前を一人ずつ確認する。

 

「廖化様」

 

「いる」

 

 元御者。

 

 元賊。

 

 農民。

 

 記録役の若者。

 

 全員いる。

 

 糜氏は、持たせた物を確かめる。

 

 食料。

 

 水。

 

 傷を縛る布。

 

 記録した木片。

 

 衣の内へ収めた新野の札。

 

 貸し出した短刀、弓、弦、矢。

 

 失った物はないか。

 

 怪我はないか。

 

「怪我人は?」

 

 俺が最初に尋ねた。

 

「おりません」

 

「敵と戦った者は?」

 

「おりません」

 

「追われた者は?」

 

「近くまで来られましたが、見つかってはおりません」

 

「全員戻った?」

 

 甘氏が答えた。

 

「はい」

 

「よかった……」

 

 俺は、ようやく息を吐いた。

 

 負傷者の治療。

 

 遺族への説明。

 

 敵への報復。

 

 襄陽への弁明。

 

 何一つ発生しなかった。

 

 完璧である。

 

 監察役が、こちらを見ている。

 

「何ですか」

 

「敵の首や捕虜より、まず皆の無事を確かめられるのですな」

 

「怪我人がいれば、仕事が十倍に増えるでしょう!」

 

「だからこそ、命を軽く扱わぬのでしょう」

 

「どうして本音まで良い意味になるんだ……」

 

 関羽も赤兎馬で戻ってきた。

 

「本当に戦わなかった?」

 

「兄者の命に従った」

 

「斬ってない?」

 

「斬っておらぬ」

 

「追ってない?」

 

「追っておらぬ」

 

「よかった」

 

 張飛が不満そうに尋ねる。

 

「敵を見て、何もしなかったのか」

 

 関羽が答えた。

 

「友と姿を見せた」

 

 赤兎馬が鼻を鳴らす。

 

「それ、敵から見たら十分な威嚇だよ!」

 

「刃は交えておらぬ」

 

「お前と赤兎馬が道に立っている時点で、普通の人には通行止めなんだよ!」

 

 糜氏が木簡を取った。

 

「赤兎馬の勤務記録へ加えます」

 

「また勤務日が増える!」

 

 関羽が言う。

 

「友は役目を果たした」

 

 張飛が尋ねる。

 

「餌も増えるのか」

 

「功に応じた飼料は必要だ」

 

「敵を斬らなくても増えるの?」

 

「退路を守った」

 

「馬の人事評価だけ、どんどん精密になっていく……」

 

 赤兎馬は、当然だと言わんばかりに鼻を鳴らした。

 

 ◆

 

 廖化たちの報告が始まった。

 

 騎馬は複数。

 

 正確な人数は不明。

 

 水場を調べていた。

 

 道幅を確かめていた。

 

 高所から新野方面を見ていた。

 

 木へ目印を付けていた。

 

 村や荷を襲ってはいない。

 

 博望方面から来た可能性がある。

 

 新野へ向かう本道だけでなく、迂回路も確認していた。

 

「軍勢や荷車を通すための下見と考えられます」

 

 監察役が言った。

 

「曹操軍の先遣と考えるべきでしょう」

 

 報告の木簡へ目を落とした。

 

「旗は?」

 

「見ておりません」

 

「曹操軍だと分かる物は?」

 

「ございません」

 

「では、まだ曹操軍だと決めないでください」

 

「所属は不明」

 

 監察役が書記へ言う。

 

「ただし、軍の物見である可能性は高い、と」

 

「可能性の部分を最初に書いてください」

 

「承知しました」

 

 襄陽へ急報を出すことになった。

 

 問題は、その後である。

 

「この者たちが敵軍の物見であった場合」

 

 監察役が俺へ尋ねた。

 

「どこで迎えますか」

 

 すぐには答えられなかった。

 

 俺は新野を見る。

 

 まだ十分に直っていない城壁。

 

 補修中の門。

 

 人の入った家。

 

 穀物を置く倉。

 

 使用を確かめている井戸。

 

 畑。

 

 荷車。

 

 老人。

 

 子供。

 

 病人。

 

 ここで戦えば、勝っても何かが壊れる。

 

 火を放たれれば、家が燃える。

 

 井戸へ死体が落ちれば、水が使えない。

 

 畑を踏み荒らされれば、冬を越せない。

 

 町の中で敵を倒しても、住む場所がなくなれば意味がない。

 

 俺は、北へ続く道を見た。

 

「できるなら、新野へ入る前に止めたい」

 

 監察役が顔を上げた。

 

「博望方面で迎えると?」

 

「まだ場所は決めていません」

 

「戦うとも決めていません」

 

「ただ、町の中で戦ったら、勝っても住む場所がなくなる」

 

 張飛から笑いが消えた。

 

 関羽も静かに北を見る。

 

 監察役は、俺の言葉を木簡へ記そうとしている。

 

 嫌な予感がした。

 

「まだ戦うと決めたわけじゃないからな!」

 

「承知しております」

 

「その顔、承知してないだろ!」

 

 ◆

 

 少し離れた宿の軒下で、名を伏せた旅人が、その会話を聞いていた。

 

 宿の主人が尋ねる。

 

「何か、おかしなことでもございましたか」

 

「戦を嫌う者は多い」

 

 旅人が答える。

 

「逃げる者も多い」

 

 その視線の先では、劉備が張飛へ、

 

「勝手に北門の兵を増やすな」

 

 と怒鳴っている。

 

「だが、あの男が怖れているものは、自分の命だけではないらしい」

 

 宿の主人は劉備を見る。

 

「玄徳様は、町の中へ厄介事を持ち込むなと、常々申しておられます」

 

「そうかもしれぬ」

 

 旅人は少し考え、新野の北へ続く道へ目を向けた。

 

「ならば、もうしばらく見ていよう」

 

 ◆

 

 監察役が、今回の物見について報告をまとめた。

 

 新野の住民、一時滞在者、元兵から、能力を見て人員を選出。

 

 家族の生活と城内の働きを考慮。

 

 戦闘を避け、情報収集と生還を優先。

 

 廖化を先導役とする。

 

 関羽と赤兎馬を後方へ配置。

 

 敵騎の行動を確認。

 

 全員無事に帰還。

 

 劉備は、新野を戦場にしない方針を示す。

 

「精鋭を選んだわけではありません」

 

 報告書を覗き込み、口を挟んだ。

 

「能力を見て人員を選出、とあります」

 

「事実です」

 

「道を知っていて、逃げ足が速く、町から抜けても困らない人へ頼んだだけです!」

 

「それを、能力を見て選出したと申します」

 

 監察役は、帰還した者たちの名へ目を落とした。

 

「しかも、それぞれが役目を果たし、一人も欠けずに戻った。少数の精鋭と記して差し支えないでしょう」

 

「差し支えます!」

 

 書記が、報告の表題を書く。

 

『新野北方における騎馬斥候と、劉備配下の物見隊』

 

「待ってください!」

 

「何でしょう」

 

「劉備配下を消してください!」

 

「では、新野県の兵と」

 

「兵でもありません!」

 

「一時滞在者と住民による物見役」

 

「それでお願いします!」

 

 書記は少し考え、書き直した。

 

『劉備の指示により編成された新野精鋭物見隊』

 

「もっと部隊らしくなってる!」

 

 ◆

 

 襄陽への急報が出された。

 

 同時に、新野でも最低限の準備が始まる。

 

 北門の見張りを増やす。

 

 水場と迂回路を記録する。

 

 火が出た時の家族の集合場所を決める。

 

 避難路を塞いでいる荷車を動かす。

 

 子供と病人を先に移す順番を確かめる。

 

 武器を持つ者が、火事や賊にどう動くかを仮に決める。

 

 次の物見へ出られる者を残す。

 

「まだ敵が曹操軍と決まったわけじゃない!」

 

 勝手に進む準備へ、慌てて割って入った。

 

 糜氏が答える。

 

「決まってからでは、穀物の移動が間に合いません」

 

 甘氏も言う。

 

「子供と病人の移動先だけでも、決めておきます」

 

 張飛が槍を担ぐ。

 

「では、俺は北門将軍だな」

 

「また役職を増やすな!」

 

「行列将軍、井戸将軍、夜番将軍との兼任だ」

 

「役職だけで一軍を作るな!」

 

 関羽が言った。

 

「兄者。物見は、次から交代で出すべきだ」

 

「次がある前提なの?」

 

 門の外では、今回同行できなかった者たちが、次に必要な道や水場を話し合っている。

 

 宿の軒下では、名を伏せた旅人が、それを眺めていた。

 

 俺は、襄陽へ送られる報告を見る。

 

 俺がしたことは、

 

 敵かどうか確かめるため、数人へ見て帰ってこいと言った。

 

 それだけである。

 

 なのに報告では、

 

『劉備は新野の民から能力ある者を選び、精鋭の物見隊を組織し、所属不明の騎馬斥候の動きを確かめた』

 

 ことになっていた。

 

「逃げて帰ってこいと言っただけで、精兵を作ったことになってるんだけど……」

 

 張飛が北門へ歩きながら振り返った。

 

「兄貴。北門将軍は認めるか?」

 

「物見より先に、お前を止める役が必要だよ!」

 

 宿の軒下で、旅人が小さく笑った。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

戦国爆乳信長(作者:星野林(旧ゆっくり霊沙))(オリジナル歴史/コメディ)

時は戦国時代……謎の病気により男の出生率が減り、男女比が1対9くらいになってしまい、更に男社会は応仁の乱によって壊滅してしまった。▼それから約80年……戦乱の世が続く中で2人の男女が産まれる。▼1人は織田信長、そしてもう1人は池田恒興。▼主人公兼転生者の池田恒興は女性として生まれた幼なじみの織田信長と一緒に天下を駆ける!▼え?豊臣秀吉や徳川家康、明智光秀も女…


総合評価:2310/評価:8.31/連載:35話/更新日時:2026年07月08日(水) 18:01 小説情報

暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜(作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル歴史/戦記)

現代日本で死んだ主人公が転生した先は、江戸幕府を開いた徳川家。▼身分ガチャは大当たり――かと思いきや、幼名は国松。▼のちに兄・徳川家光と対立し、「暴君」と呼ばれて破滅するはずの徳川忠長だった。▼将軍の座など絶対にいらない。▼生き残るためには、兄・竹千代を全力で支え、「敵」ではなく「便利で忠実な弟」になるしかない。▼そう決意した国松が最初に始めたのは、天下の根…


総合評価:2015/評価:7.42/連載:133話/更新日時:2026年07月25日(土) 19:48 小説情報

​『逆襲のシャア』の総帥に憑依した元商社マン、アクシズを落とさず地球圏を支配する 〜静かに暮らしたいだけなのに、アナハイムと狂信者に神輿を担がれて逃げられない件〜(作者:なやむ)(原作:ガンダム)

「お願いだから、もうこれ以上俺(キャスバル)を神輿として担がないでくれ……!」▼目が覚めると、そこは宇宙世紀0090年代▼よりにもよって、グリプス戦役末期、ハマーン・カーンと一騎討ちに臨み、その後消息不明になっていた世紀のカリスマ、シャア・アズナブルーキャスバル・レム・ダイクンに憑依していた▼本物のシャアはすでに成仏してどこにもいない。残されたのは、ただ「早…


総合評価:4862/評価:8.69/連載:7話/更新日時:2026年07月26日(日) 18:00 小説情報

尾張水神伝 ~SF世界の天使っぽい種族に転生したけどワープ事故で戦国時代の日本に漂着しました~(作者:Lavian)(オリジナル歴史/戦記)

セララ・シュトーレンは転生者だ。天使っぽい種族で魔法も使える。▼だけどワープ事故で戦国時代に漂着。▼困ってる人を助けたら神様と勘違いされてしまった。▼人々を助けていたら有名になり、尾張の殿様に呼ばれて……▼信長の友人として過ごす日々が始まった。


総合評価:2747/評価:8.16/連載:74話/更新日時:2026年07月25日(土) 21:20 小説情報

転生したら異世界の宇宙最強の龍でした!〜0から星と生命を作り出して一大文明の支配者になったので現代日本へ帰還します。自分は日本が一番暮らしやすい。〜(作者:電動ガン)(オリジナル現代/コメディ)

目覚めたら無だった。何も無い。宇宙さえも。自分の身体を見る。銀色の甲殻、長い尻尾これモンスターだ!?よく見ると俺の他にも二頭のモンスターが。ドラゴンだこれ!!▼俺たち三頭の女神龍は宇宙創成の前の世界にいる。俺たちを生み出した主神の指示で世界を作り生命を繁栄させることとなったけど・・・・・・それ何年掛かるの?▼何億年も掛けて生命が宿れる星を何個も作り、失敗し、…


総合評価:2292/評価:7.54/連載:115話/更新日時:2026年07月26日(日) 18:41 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>